L'art de croire             竹下節子ブログ

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ギリシャ危機とギリシャ正教 その1

ギリシャ危機について、莫大な資産を持っているギリシャ正教が課税されていないのが問題だとか、そもそもギリシャ正教がこれほどの資産を持つようになったのは、オスマン・トルコに侵略された時代に、正教の教会は一定の自立を許されていたので人々が自分の財産を失うよりはと教会にこぞって寄進することで守ろうとしたからだとか、いろいろな言説がある。

ここでその実態についてもう少し考えてみよう。(出典はJordan Pouille によるルポ: La Vie 3647)

まず税金の話。

教会で捧げる蝋燭の購入による収入には税金がかからない。

教会に遺贈される金品への課税は0,5%。

結婚式や葬儀による収入への課税は2,4%。

典礼や慈善に使われる建物については固定資産税が免除。

国から支払われる聖職者の給料は2010年からは一般公務員と同じ税率になった。

また、教会はその税金の55%を他の国民の一年前に前納することになっている。

2012年、アテネ大主教ヒエロニムス二世の語るところによれば、土地を持たない小作農や小アジア半島からの亡命者たちのために、教会所有の土地の96%がすでに国によって借り上げられている。

その賃料の課税率は20%ということだ。

今のギリシャの財政状況や緊縮策から、これらの数字をどう見るか。

ギリシャの暮らしを見ていて分かる宗教共同体の意味は日本やフランスで暮らしていてはとても想像がつかない。

たとえば、エーゲ海のサロニコス諸島のイドラ島(ここでは唯一の移動手段はロバ)には島民3000人に対して300の教会がある。

朝早く蝋燭を捧げに来た婦人が聖具係のポケットに封筒をすべりこませる。
日本人的感覚ならこれは現金のお布施?と思ってしまうが、なんと電気料金の請求書だ。
ここでは、最も貧しい人の請求書を教会が払っているのだ !

(続く)
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by mariastella | 2015-07-26 18:57 | 宗教

仏舎利追いかけ 高野山普賢院

この記事を読む前に日泰寺の仏舎利についての記事も合わせてお読みください。

その他、フランスにある仏舎利到着の様子を含めた今までの仏舎利追いかけの記事はこことかここから検索できます。

高野山の宿坊はずっと前に一乗院に泊まったことがあるだけで、今回普賢院に飛びついたのは、朝の勤行の後、摩尼車を回しながら回廊を進んで八大仏跡お砂踏みをしながら仏舎利のある摩尼殿(正確には仏舎利のある地下が光明心殿、地上が金剛薩埵のある摩尼殿)に案内してもらえるというテーマパーク風演出が紹介されていたからだ。

これこそ「日泰寺」で期待したのに得られなかった「功徳」のような気がした。
それにしてもこんなに分かりやすい特典があまり宣伝されていないのはどうしたことだろう。

普賢院のパンフレットには

「仏に会える・・・・宿坊」

がキャッチフレーズとなってはいるが、平成八年にネパールから請来された仏舎利でいつでもお釈迦様と会える、といううたい文句はまあ控えめと言っていい。

実際、空海が唐から持ってきた「仏舎利」は東寺の霊宝館にもあるし金剛峰寺にもあるけれど、「真骨」とは別の崇敬の対象だが、普賢院に「真骨」がやって来たといって、そのスタンスは変わっていない。

今年の5月1日には31年ぶりに大伽藍の金堂で仏舎利を供養する舎利会が執行され、空海と血縁に当たる四庄官が衣冠束帯姿で出席したと6月の高野山教報に記事が載っていた。

この「仏舎利」はせっかく普賢院が獲得した「真骨」とは関係がないし、普賢院のお坊さんでネパールから陸路と海路で仏舎利を運んできた人に聞いても、それには参加しなかったし、声もかけられなかったようだった。

高野山の寺院同士は歴史的に必ずしも仲がいいわけではなかった。いや、仲が悪かった時代も長かったという。

ネパールからの仏舎利請来は、普賢院が単独の関係で手に入れたもの(パタン市のアクセソワール・マハ・ビハール寺院との友好の証として当地にある二つの仏舎利の一つをもらった)であり、宿坊としてのセールスポイントになることは意識していて実際宿泊客も増えたという。
それでも総本山金剛峯寺の名をたてることには最初から気を使った。

「仏舎利招来記念 普賢院平成事業のご案内」というパンフレットにも、普賢院法主の写真ではなく「諸菩薩の銀河となりて来迎す」という句と共に故・森寛紹の写真が載っている。
この人は昭和55年高野山真言宗総本山金剛峯寺第406世座主となり、のち高野山真言宗管長に就任し、仏舎利の来る二年前に亡くなっているが、過去に大阪の普賢院の住職でもあったようで、この人がこの仏舎利招来の原動力になったとすることで、そのような「お宝」を金剛峰寺に寄進するのでなくさりげなく普賢院に祀ることを正当化しているのかもしれない。

それでも、神戸港に仏舎利が到着した時に出迎えたのは金剛峰寺の座主らしく、掲げられた幟には、「真言宗 高野山 総本山 金剛峯寺」と黒々と書かれていて、普賢院の文字はない。

でも、今でも、「舎利会」に使う仏舎利は普賢院に借りに行くわけではなく、「いわゆる仏舎利」であるのだから匙加減が微妙だ。

そもそも「真骨」だから効験あらたかというのは別に密教学とは関係がない。

おもしろいのは、金剛峰寺大伽藍では「仏舎利供養」だが、普賢院では、本堂では永代供養などの「供養」、仏舎利殿では生きている人の現世利益祈願と分けているところだ。

仏舎利をずらりと囲んで、八体仏のうちから自分の干支にちなんだ仏像を祈願主名入りで奉納した人たちが、ご加護を祈ってもらえる。
その祈願主が亡くなると、その名は本堂に移されて今度は永代供養の対象になるわけである。

レンズで真珠ほどに拡大されて見える仏舎利は、実際は米粒大であるという。外観は、ヴァンセンヌの森のパゴダにある仏舎利と同じく、古くなった歯のような感じだ。

高野山は一大納骨場所であり、それは奥の院の弘法大師御廟で即身成仏しているという空海の近くに納骨することで慰霊を願う人々の期待やステイタスの現れだろう。

そのようなありがたい聖なる山であるのに、何度も火災があり、たいていの建築物も仏像も消失している。
それでもその都度、立て替えられて「聖地」が復活したのは、もう寺や教えや仏像がどうとかいうより、石造りであるから火災を免れている墓地自体の聖性を焼失させるわけにはいかないという人々の執念なのかもしれない。

中世までは五輪塔の「水」の部分に納骨の場所があったけれど、室町以降は、五輪塔はシンボルとなって、一家郎党の墓地の指標になっていったらしい。

骨の一片でも分骨されていれば高野山に墓があるということになる「納骨信仰」というのがある。

そんな高野山に「仏陀の真骨」へのこだわりがあいまいなのは、そもそも空海が死んで荼毘に付されていないからで、いまだ生きている空海に毎朝ニ度の食事を供える儀式が続く代わりに、「空海の舎利」という信仰対象は存在しないわけだ。

しかし空海の甥で高野山発展に尽くした二代目座主の真然の、平安時代初期の納骨器が昭和63年の真然堂(1640年上棟)解体修理の時に発見され、以後、「真然廟」「伝燈国師廟」と呼称されて信仰の対象となっていることからも、「遺骨」のインパクトというのがやはり普遍的なものだと分かる。

カトリックで無数の聖人、殉教者の遺骨が崇敬の対象になっているけれど肝心のイエス・キリストや聖母マリアは体のまま昇天したり被昇天(天使に上げられた)したりしているので、遺骨の崇敬はできない。

そのかわりの聖遺物として受難の道具や衣類や乳歯やさまざまな「聖遺物」があるにはあるのだけれど、「遺骨」ではない。

空海も、即身成仏で今も御廟(御影堂)にいるとされているのだから、舎利はなく納骨器もない。
そのかわり、生き続けている空海に一の膳、二の膳、お茶などと食事を運び続ける。

後年、即身成仏を目指す僧らが自ら五穀を断ってミイラ化した史実を思うと、空海が毎日食事を供え続けられる意味は何なのかと思うが、普通の人でも、故人の位牌の前に毎朝陰膳を供え続けるとか、祭りの後に神と共に「直会(なおらい)」をする風習などと集合しているのかもしれない。

空海には遺骨はないが食事をとり続ける「生きた体」がある。

キリスト教でも、イエスには遺骨がないけれど、ミサによって、キリストの体となるご「聖体」や血となるワインを信者が共食する。

方向は逆だけれど、どちらにも、骨ではなくて「体」があり、命の象徴である「食」の行為が伴っているのは興味深い。

そんな高野山だから、空海ならぬ釈迦の「真骨」の登場がどういう風な位置を獲得できるのかは、まさに微妙なのだ。

真言宗から別れた阿含宗がセイロンで手に入れたという真正仏舎利をセールスポイントにしていたのは呪術的な権威づけとして分かりやすいが、日泰寺のこともある。

そのことを普賢院のお坊さんに尋ねたら、なんと「日泰寺」の釈迦の真骨の話をご存じではなかった。

私なら、ネパールから仏舎利を請来できると分かった時点で、日本における仏舎利の受容の歴史についてすぐにネットで検索しまくるのになあと思う。高野山では別の時間が流れているのかもしれない。

でも、空海の「体」が奥の院にあるという信仰は、同じく空海が手がけた寺院である京都の東寺にとってはこれも少しライバル意識を刺激されるところかもしれない。

その辺の雰囲気を探りたくなって、高野山を降りてから、東寺を5年ぶりに訪れた。

すると、

「身は高野 心は東寺に おさめおく 大師の誓い 新なりけり」

と強調されているのが目についた。

東寺から見ると、空海は、「高野山は修禅の場」として開き、そこで得られた智慧を利他行として東寺で実践した、というスタンスなのだが、やはり空海の生身(しょうじん)が高野山で供養され続けているというインパクトは大きいので、「身は高野、心は東寺」と棲み分けを試みているのかもしれない。

そのことを本堂の世話をしている人と話しあったら、その人は

「それは東寺の方が重要に決まっています。お大師様が唐から持ってきたものは経典も曼荼羅もすべてここにあります。高野山には実質2年しか住んでいない、ここには10年おられた」

と熱心に語った。

私の母の実家が真言宗だと話すと、その寺が東寺真言宗だと分かったので親切にしてくれた。(そのお寺の住職であった頼富本宏さんが今年の春に亡くなったことを知った。)

その後で警備員の人に話しかけられたのだが、その人もまた、私が今朝は高野山にいたというと、東寺の優越性を熱く語り始めた。
ただし、空海が東寺にいたのは2年くらいだと言う。

本当のところを調べようと思ったが、高野山にはじめて入ったのは818年だがずっといたわけではない。東寺を賜ったのが823年で、入定したのが835年で、病を得た最後の2年は高野山にいたけれど、何しろ、日本中を布教してまわり寺院を起こし、土木や温泉発見やらにも名を残した伝説の人だから、いつからいつまで高野山にいていつからいつまでは東寺にいたというような単純な計算は不可能だ。

で、「心は東寺」と言っているわりには、ここでも、お大師様の住房であった西院が「大師堂」とされて礼拝の対象になっている。

と言っても、ここも14世紀に焼失したので空海が住んだ当時の建物ではない。
中には弘法大師像が祀られて弘法大師信仰の中心となっている。

つまり奥の院のような「身」ではないけれど、「心」よりは具体的な「像」が寄り所になっているので、人の信仰にはやはり目に見える姿が必要なのかなあとも思う。

しかし、なんと、この大師堂でも、毎朝、像をご開帳して、供物を捧げる「生身供(しょうじんぐ)」が行われているのだ。高野山の奥の院と同じ朝6時に始まる。

「心」はどうした。

しかも、この生身供は誰でも参列できて、何をするかというと、弘法大師が唐から持ち帰った仏舎利を入れた赤い袋が、参列者の頭と手に授けられるのだ。授けるというのは、「あてる」ことで、信者は膝立ちとなって両手を差し出し、僧侶が「お舎利さん」と呼ばれる袋を頭と手のひらに次々とあてていく。いわゆる「按手」のヴァリエーションだ。

ここで使われる仏舎利はいわゆる「玉」だろう。高僧の至誠によって「感得」されて出現するという第二次舎利信仰である。

これは普賢院でも聞いたのだけれど、「仏舎利」の有機的真偽を問わないというのは伝統だったので、昔、津軽に舎利ヶ浜というのがあって、浜に豆粒大の白い石があり、それを仏舎利代わりにしたとも言われているそうだ。

大師岩というのもあって、盆踊り歌にも

「弘法大師が舎利撒いた」

という歌詞があるという。

「身は高野 心は東寺に おさめおく」

なのに、生身供とお舎利さん。

聞けば他の寺にも生身供というのはあるようだが、それは「精進供」が転訛したものだという説もある。

呪術的心性における本物と偽物の問題は私の関心をひき続ける。

今回の高野山は開山1200年記念で資料も充実していて楽しかった。

高野山の諸寺院の本尊で一番多いのは大日如来でなく阿弥陀如来だというのも意外だった。後発の浄土宗の影響が大きかったらしい。

また、高野山大学の学生であるお坊さんから、自分が一番好きなのは薬師如来で、釈迦の他に「人間出身」の唯一の仏だから、と聞いた。

ただし王族だった釈迦とは違い、薬師如来の前身はカースト外の賤民だったので、その人を仏に昇格させることには大きな反対があったのだという。
しかしいわゆる天才治療者として名声を博して、数々の奇跡の治癒をもたらしたので信仰の対象になったのだと言う。
で、賤民出身だったこともあって、この如来だけが、病気平癒の現世利益という枠を与えられた。

もっと詳しいことを知りたいけれど、ネットの検索程度では薬師如来の俗名は見つけられなかった。

高野山でも東寺でも仏像や建築についていくつかの本を買ったが、密教についての二冊の本は貴重な出会いだった。

ひとつは

津田真一の『反密教学』(リブロポート)。

あの密教ブームのポストモダンの時代に真に啓蒙的なこのような素晴らしい本が出ていたのかと感銘を覚える。私が『無神論』などで考えてきたシェーマとほぼ同じことを言っているのにも驚いた。本質的でしかも分かりやすい。
もう一つは

桧垣巧『祖先崇拝と仏教』(高野山出版社)。

これも、大部の本だが雑誌連載をまとめただけあって非常に読みやすく分かりやすい。

土葬と火葬の選好度テスト、火葬と遺骨をめぐる日本と西洋、水子のタタリとしての家庭内暴力、怨霊信仰、霊感商法流行の背景、冥婚(死者結婚)、韓国、中国、インド、チベットアフリカの葬祭事情、地獄・極楽の存在理由からカタコンブ、聖人崇拝、墓参のカトリック的根拠まで、興味深いテーマが並んでいる。

どちらの本も一度読みだしたらやめられなくなるほどおもしろい。

高野山は年配の巡礼グループが多い。東寺にはご朱印帖を手にした若者が並んでいた。スタンプラリーの気分らしい。ここ四半世紀の内に新たないろいろな寺院めぐりができている。

いろいろな組み合わせがある上に百花繚乱、お守りや祈願の方法も多すぎて、複雑な気分になる。
「身代り大師像」が人気なのを見て、今回初めて、なんだかすべての人の罪を贖うために十字架にかけられたイエス・キリストを連想した。奥の院への参道で巨大な「景教碑」をじっくり眺めたけれど、唐における密教が景教の影響を受けていたというのは大いにあり得ることだと改めて思う。

夏でも涼しい山の風、原生林を眺めながら、高野山を満喫する爽やかな三日間だった。
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by mariastella | 2015-07-24 03:00 | 宗教

 海老蔵と玉三郎

新歌舞伎座になってからはじめて歌舞伎公演を観た。

築地本願寺でコンサートをした昨年は歌舞伎座から歩いていけるホテルに泊まっていて、地下のショップやビルの中の歌舞伎ミュージアムにはトリオの仲間といっしょに出かけたのだけれど公演を観る暇はさすがになかったので、華やいだ雰囲気が羨ましかった。

で、久しぶりの観劇だったのだけれど右近の出る昼の部の切符がとれなかった。2003年の秋、国立劇場でトリオの仲間と南北を観に行って終演後に楽屋で右近にサインをしてもらったのもなつかしい。

新しい歌舞伎座は、国立劇場より国立劇場っぽくなっていて、広々として、芝居小屋的な雰囲気はなくなったかわりに、座席の前にセットできる字幕ガイドなどもあった。

見ごたえのある画が贅沢にかけられているのも嬉しい。階段の踊場にある白の牡丹を加えて見得を切っているかのような川端龍子作の緑の獅子はこの場にぴったりだ。

上村松園はいつもながらインパクトがあるし、中村岳稜の「竹と雀」の色は魅力的で、東山魁夷の「秋の富士」、奥村土牛の「三匹の鯉」、伊藤深水の「二人の女」、鏑木清方の「母子」、いずれも至近距離でじっくり鑑賞できるので楽しい。

右近は見られなかったけれど、10年前にお台場の朗読劇『美貌の青空』で彼と共演したのを見て印象的だった春猿が牡丹燈籠のお国を演ったのがなかなかよかった。

それにしても、熊谷陣屋の海老蔵、牡丹灯籠の玉三郎、この2人を文句なしに素晴らしいと思ったのは正直言ってこれが初めてだ。

海老蔵はビジュアルにもますますよくなっている。
目が大きいので見栄を切る時の白目の部分がくっきりしていてすごい迫力だ。
また白目の大きさと呼応する歯の白さも目立ち、こういうタイプの役者は初めてだ。

今思うと2004年の襲名公演でパリに来た時などは本当に若い勢いだけだった。

この有名な演目は、戦で敵の首のかわりに自分の子供の首を身代りに差し出すという話だ。日本人の感涙をそさぅ古典なのだけれど、隣の席に両親と10歳くらいの男の子、その前に中高生位の四人の女の子が座っていて、いずれもアングロサクソン系、字幕ガイドを利用していたのだけれど、男の子は寝てしまうし、女の子たちは「生首」が出てくるたびにくすくすと笑い出していた。

そのように笑いだされてみると、確かに首を手に取ったりかかえたりするシーンは、グロテスクで滑稽でもある。

6月にリヨン郊外のテロでテロリストが殺害した会社の上司の首を切断してフェンスにかけてISの旗と共に並んで「自撮り」したというニュースがあり、いかにもイスラム過激派の野蛮でおぞましいスタイルだと語られた。

しかし、つい40年ほど前まで、フランスではギロチンで死刑が執行されていた。
日本は今でも絞首刑だが、明治維新のころまでは「晒し首」などというのもあった。
首実検というやつも、時代物の歌舞伎の中ではまったく違和感がないわけだけれど、今の若い外国人の視点から眺めれば、なるほどこれって、くすくす笑うことではぐらかすことくらいしかできないようなひどいシーンだなあと思った。

「外人の視点」が入っただけで、「お約束」に亀裂が入り居心地悪くなる。

そうなると、主君が恩人に義理立てするために家来に犠牲を強要するという構図そのものもあらためてひどいなあと思われてくる。

義経役の梅玉がパンフレットの中で、「この義経は熊谷夫婦に同情してはいけない」と勘三郎に教わったとある。

そうなのだ。

過去に命を救ってくれた弥陀六に恩義を感じる義経は、弥陀六のために、その主人である平敦盛の命を救うのだが、そのために自分の命を捧げるわけではなく家臣である熊谷直実に直実の子の首を敦盛の代わりに差し出すように暗示する。家臣やその子供には一片の同情も寄せないのだ。

そのような理不尽を人情噺に仕立て上げて何百年も客が感涙にむせぶ情況というのは健全なんだろうか。

恩を返すために義経が弥陀六や敦盛を救うならわかる、また、主君である義経のために直実が身を捧げるのもまだいい、でも、義経の事情のために直実がわが子を殺すのはかなりの飛躍だ。

このことを知人に話すと、歌舞伎に政治的公正を求めるのはおかしい、直実はその理不尽を犯したからこそ出家したのだし、子供を手にかける苦しみを皆が共有して、そんなことは正しくないと分かっているからこそ、その悲劇に皆が共感してカタルシスを得るのだ、と言われた。

私も日本人だからもちろんその機微は分かるのだけれど、それでも、このような「忠君」話を、「泣ける話」だからと言って何百年も消費続けていると、命の価値についての重大な錯覚を看過し続けることにならないだろうか。
いざ国家の危機的な状況などを前にすると集合無意識の中でそれが人々の判断を狂わせるリスクがあるのではないだろうか。

例えて言えば、特攻隊の自己犠牲の精神を賛美し続けたり、美化し続けたりしているうちに、戦局の見誤りや戦略の過ちや、戦争責任や戦争回避の学びなどを不問に付して、まったく考えなくなるかもしれない。

直実が無念を押し殺して出家することをもって、「主君に従って子を殺す」という現世のシステムそのものを否定しているのだ、という解釈ももちろんできる。

でも、それはシステムを変えていく努力にはつながらない。いくら息子の菩提を弔っても、同じような次の悲劇を防ぐアクションにはならない。家臣である直実父子に「同情しない」義経のような主君のメンタリティは再生産されていくかもしれない。

そう思うとなんだか複雑な気分になる熊谷陣屋だった。

その数日後に高野山に上り奥の院への道を歩いていると、熊谷直実と平敦盛の慰霊塔が並んでいた。

歌舞伎はともかくとして史実では、直実は若い敦盛を討ったことに無常を感じて、息子直家に家督を譲ってから出家したようだから、その後も敦盛を供養し続けた人だったのだろう。

元平家に仕えたこともある人だから、戦そのものにもこの世の無常を本気で感じていたのかもしれない。

それでもその平家物語を、「わが子の首」を敦盛の首として実検に出すという風に変えてまで、忠君の悲劇にしてしまうメンタリティは、むしろ戦争のなかった江戸時代に発展したのかもしれない。

熊谷陣屋の後で、くすくす笑いのアングロサクソンの家族が席を立って帰ってしまったので、次の「怪談牡丹燈籠」は雑念なく楽しめた。

ここで、玉三郎の素晴らしさに驚いた。

玉三郎の演出ものは他にも観たことがあるし、華やかな舞踊ものもいろいろ観てきた。
でも、牡丹灯籠のお峰は外見はほとんど汚れ役だ。

貧しい夫婦から荒物屋の女将さんになるのだけれど、ほとんど化粧気のない女という役どころだから、素のままで勝負しなくてはならない。

中車とのバランスで玉三郎の長身が目立つし、声もお姫様の声ではないから「男声」に近い。

これでお峰の世界にすんなり入れるのかと思っていたら、いやあ、名演で引きこまれた。

落語仕立てということもあり、客席から何度も笑いが起こるのもほとんど歌舞伎らしくない雰囲気だった。

心中ものも含めて「世話物」はたくさん見たことがあるけれど、これほどに巧みな人間劇に仕上がっているのを見ると、怪談というより世話物の醍醐味みたいな気がする。

玉三郎のカリスマは大したもので、出演者すべてが信頼しきっていることが伝わってくる。

歌舞伎を観ていることを忘れてしまった。

これまでも玉三郎にはスターらしいオーラがあったけれど、どこかいつも「私が主役、私が一番」という自負に支えられているのが透けて見えていた。
それがまったく消えている。

ただ、そこで、「演じている」ことの充溢、充実。

好感度が急上昇した。
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by mariastella | 2015-07-23 06:41 | 演劇

うりずんの雨

岩波ホールにジャン・ユッカーマン監督の『うりずんの雨』を見に行った。

沖縄について、戦争、占領から今の辺野古の問題まで、歴史的にも、日米の両視点を通して、こんなにクリアに教えてもらったのははじめてだ。

大切なエピソードは過不足なく取り上げられている、と元沖縄県知事の大田昌秀さんが太鼓判を押してくれている。

この映画を見て、パンフレットをあわせて読むと完璧だ。

映画では語られていない、地主問題、米軍基地経済の神話、嘉手納の使い方、軍事安保でなく経済安保へという考え方などもよく分かる。

この映画の最後のほうでは、米軍内での女性兵士への暴力やハラスメントの告発がある。

同様に、パンフレットの中で前泊博盛教授が今のアメリカ自体を危機に陥れつつある軍事産業依存、軍依存経済の問題にもふれている。

沖縄が脱基地経済、脱軍事経済をどう目指すかによって、逆にアメリカに示唆を与えるかもしれないと言うのだ。

確かに、一つ一つの問題は関連しているし、大きな流れを変えることでしか根本的には解決できないというのがよく分かる。

アメリカ人も、監督はもちろん、少なくとも、インタビューに答える人たちはみな真摯で信頼感がもてた。

こういうことに熱心になる人がいるのもアメリカのいい面だ。

1995年の小学生暴行事件の犯人の一人である黒人兵の証言すら、衝撃的だけれど深い印象を与える。

当時21歳、7年間の服役を終え、今は地元で暮らしている。

「何を血迷ったのか分からない、もう一度やり直せるのか、もう一度やり直す資格があるのか、忘れたほうがいいのか?

どうせ地獄に落ちるんだ。

神の赦しなどより、本当に彼女は赦してくれるだろうか? 

世間が赦してくれることはないだろうが、彼女は赦してくれるのか。

もし赦されたとしても地獄行きは変わりない。

すべきでないと分かっていることをしてしまったのだから。

教会に通っている。

おゆるしをと祈っています。

でもゆるしを祈っても、どのみち地獄に落ちるんだ。

僕はそう思います。

いつもそう考える。」

高校を出ですぐに兵士となったアメリカ南部の黒人青年。

今でも残る黒人差別を考えても、彼を犯罪に追い込んだのは、軍隊や基地の特殊なメンタリティのせいであるというだけではなく、アメリカの歴史や社会とも無関係ではないとわかる。

それにしても、この人が、3度も「地獄に落ちる」と絶望しているのが気になった。

この人は南部のプロテスタントの福音派なのだろうか。

罪と赦しについて前に『罪と恩寵』という戯曲についてコメントしたことがある。

でも、カトリックだったら、まだ若いこの元兵士の「救い」があるんじゃないかなあ、と、なんとなく思う。

でも、カトリックはそういう「ユルイ」ところを犯罪者に利用されることがある。

フランシスコ教皇にはっきりとコミュニオンを拒否されたマフィアがそうで、どんなに人を殺すなどの犯罪を確信を持って犯しても、司祭に告解すれば赦してもらえる、神から、教会から赦してもらえさえすれば、被害者など人間のレベルは問題なしで、良心の呵責がない。

彼らがキリスト教で採用するのは

「どんな罪も赦してもらえる」と

「貞節(これはまあ、特に娘の純潔とか、妻の不倫を絶対許さないとかそういうことに適用される)」、と、

「洗礼、堅信、結婚、葬式などの冠婚葬礼の遵守」というみっつである。

教区には莫大な献金をしているから、告解を聴いて罪障消滅を宣言してやる御用司祭のようなものも少なくなかった(その多くは職務停止になった)。

赦しと救いの問題というのは難しい。

でも最近日本で出版された、神戸連続殺人事件で小学生らを殺した犯人の手記にまつわるコメントをいろいろ目にしたのだが、そこにはこういう、「人間の世界」を超えた部分での贖罪とか、救いや赦しを求めるという観点がまったくなかったなあとあらためて思った。

余談だが、この映画をいっしょに観に行った従妹から、たまたま、母方の祖父の系図のコピーをもらった。うちに帰って眺めてみると、祖父の弟の一人が「沖縄にて戦死」とあった。子供はいない。

「墓には昭和20年6月20日となっているが戸籍には戦死の日が6月22日となっている」との注があった。

私の知っている限りでは鎌倉生まれの人たちだ。だから、『うりずんの雨』で証言した元兵士が沖縄に来て食文化が違うのを見て自然に同じ民族ではない、と「見下した」ような気分になり、それが人間性否定につながった、と言っていたのと同じような体験を、私の大叔父にあたる人もしたのかもしれない。

『うりずんの雨』に映っていた日本兵の中には、ひょっとして、私の大叔父がいたのかもしれない。

急に、つながりを感じさせられたのも、不思議な縁だった。
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by mariastella | 2015-07-09 13:29 | 映画

紀尾井シンフォニエッタ東京の第100回定期演奏会

7/3、紀尾井シンフォニエッタ東京の第100回定期演奏会を聴いた。

紀尾井ホールに行くのは多分はじめて。

シンプルで感じのいいホールだった。

シンフォニエッタは40人くらいの小編成オーケストラだけれどひとりひとりのレベルが高く、とても贅沢な楽団だ。

しかも、このスケールでは、指揮者の巨大な楽器として操られるマスとしてでなくひとりひとりの思いと音が有機的に聞こえてくるので、まるでバロック音楽のオーケストラのようだ。

全体を見下ろせる二階の最前列の席だったので、個々の演奏者の表情やしぐさに親近感がわく。女性オーボエ奏者が何度もリードを外して具合を確かめているのが、大丈夫かなあ、とか、自分のパートが途切れる時の奏者のたたずまいの緩急が伝わって、まるで全体が生き物のようだ。

全ての楽器の編成がとても「人間的」スケールであり、誰が何を弾いているのか可視化できるので、聴きながら、オーケストラの総譜が浮かんできた。

フランスの音楽のアグレガシオン(大学教授資格)の試験の聴音の一つに、たとえばバッハのブランデンブルグを聞きながら、その中の「オーボエのパートだけを譜に起こす」というようなものがある。すごく難しいと思ったけれど、こうやって生身の奏者の動きを目にしながら聴いていると私にもできそうだ。

オーケストラの総譜というのは、私の世代のクラシックファンにとっては必須のアイテムだった。

この演奏会で演奏されたベートーヴェンの第七も、中学高校時代に、自分の部屋のステレオのスピーカーに張りつくようにして総譜を目で追ったものだ。
しかもえらそうに、どの指揮者のどのオーケストラがテンポがいいとか悪いとか聴き比べの批評家状態。
それもベームだとかカラヤンとかフルトヴェングラーとか「超一流」のレッテルのあるものばかり。

でもそういう記憶のお陰で、こういうコンサートでは、まるでその総譜が「受肉した」という錯覚が起きる。

もっとも、視覚的にはそうだが、曲体験としてはあの頭でっかち(というか文字通りの「耳学問」)の高校生はもうどこにもいない。

今はもう、「生のコンサート」だけが作曲者と彼をインスパイアしたものの全部が憑依する「場」だと思っている。

音が繰り出されてくると、ベートーヴェンの生きていたウィーン、ナポレオンとの緊張が続いていたウィーンの聴衆が何を求めていてそれにベートーヴェンがどう対応しようとしていたかまで伝わってくる。

メカを通すとあり得ないことだし、デジタル処理された音楽ではもっとあり得ない。

全体のヴィジュアルも美しい。男は黒スーツの中は白シャツに白蝶ネクタイのおそろいで、女性は黒だけでデザインは何でもOKというのは今のお約束であり、女性のほうが自由かなあと思う。ヴァイオリンの一人の女性だけがパンツスタイルで、この人はヨーロッパのオーケストラに所属しているようで、なんとなく納得。

指揮者、ソリストが全身黒なのもいまどきのお約束だ。

ブラームスのチェロとヴァイオリンの協奏曲は生演奏をはじめて聴いた。

難曲なのに、物語性があり、サービス精神にもあふれていて、音楽の配分がバロック音楽っぽい。

チェロのホルヌング君というのがかわいくて初々しくてハンサムで、これもヴィジュアルに最高に楽しめた。

ヴァイオリンのホーネックは安定感があり頼れるベテランという感じ。

楽器だけ見ていると、熟年が重厚なチェロ担当、青年が軽やかなヴァイオリン担当の方がヴィジュアルには合っていると最初は思ったが、だんだんとそのギャップが逆に魅力的になっていった。

チェロとヴァイオリンの組み合わせはいい。

モーツアルトのヴィオラとヴァイオリンの協奏曲では、空高く舞い上がり歌うヴァイオリンを見上げて憧れて近づこうとするのだけれど自分は飛び立てないで地上から恋の歌を歌い上げているヴィオラという感じがする。自由に舞う天使と、天使に届けと捧げる祈りとの組み合わせみたいだ。

でもこのブラームスでは冒頭から、チェロが朗々と歌いだす。屈託なく自由に水面で歌う水鳥のようだ。
それを上から見ていていいなあと思っている小鳥がヴァイオリン。

で、小鳥は水面近くまで舞い降りたりまた舞い上がったりして水鳥の気を惹こうとしている。

ヴァイオリンとヴィオラとは逆の方向の片思い的状況。

自分が美しいことさえ意識せずただ生を謳歌している水鳥。

水には降り立てない小鳥だけれど、でもときどき水鳥と同じ歌を歌ったり対話したりすることに成功する。
 
二人が同時に弾くときはチェリストのホルヌング君は指揮者でなくヴァイオリニストの方しか見ていない。ヴァイオリニストの視線の先には指揮者が入っているのだけれど。

二人のソリストはドイツ語が母国語同士ということもあるし、ホーネックがホルヌング君を抜擢したそうで、信頼関係が伝わってくる。二人の表情やアイ・コンタクトを見ているだけで楽しい。

ソリストが二人とも譜面台を使っているのもなんだかバロック曲みたいだった。
難曲だけれど力まかせの名人芸を見せるといういきみがない。

終わった後、この二人は自然にハグしていた。

で、指揮者とホーネックも大人同士のハグ。

ところが、指揮者はホルヌング君に握手するも、それ以上はなんとなく進めなかった、という感じでハグはしなかった。しそこなった、という感じ。

ともかくいろいろな思いが交錯しあって、より芳醇な味をブラームスの曲につけ加えたという感じだった。

ベートーヴェンの第七は今やすっかりバロック耳になった私が聴くと、明らかにバロック舞曲的だ。
演奏もダイナミックかつエレガント。

体や内臓が揺さぶられる。演奏者は明らかにそんな感じだ。

ところが、上から下の客席を見下ろしていると、客席は微動だにしない。

すごい。

見ると聴衆は明らかに団塊の世代前後が多い感じだ。つまり私とほぼ同世代。

高校生のころに第七の総譜を片手に「ステレオ」にはりついていたに違いない。

ひょっとして半世紀たっても同じ聴き方をしている人がいるのかもしれない。
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by mariastella | 2015-07-05 00:35 | 音楽



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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