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L'art de croire             竹下節子ブログ

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フランスのクリスマス

フランスのクリスマス・イヴは日本のお正月のように家族で集まる大きな行事だけれど、考えてみたらこのフィーバーはすごい。

いくらクリスマス商戦、マーケッティングに踊らされているといっても、ヨーロッパでクリスマス・プレゼントを用意するために借金までするのはフランス人だけだそうだ。

しかもいかに世俗化しているとはいえ、クリスマスといえばイエス・キリストの誕生日で町に普通に見かける教会が盛り上がっているのを目にしないわけにはいかない国なのに、政教分離、脱キリスト教や無神論や不可知論がイデオロギーにさえなっていて、ムスリム系移民や移民の子弟が何百万人もいるこの国で、クリスマスにはすんなりと家族で集まって贈り物をし合ってごちそうを食べようね、というのがコンセンサスになっているというのは、クリスマスの奇跡だ。

いや、フランスに住んで40年、日本と違って他人の目など気にしないこの国で、唯一、強迫的な「同調圧力」を感じるのがクリスマスだ。

実際、この日には、フランスの自殺者数がピークになるという。

同調圧力の中で一つの救いは、日本のお正月と違って、弱者支援の伝統があるところだろう。

イヴの夜やクリスマスの昼、たいていの教会はミサの後に食事をふるまい、それには、国籍、宗教など問われない。通りすがりでも入れてもらえる。

ひとり暮らしの人々にプレゼントが届けられ、難民の子供たちをエッフェル塔に招待するとか、ホームレスの人をセーヌ河のクルーズの食事に招待するとか、公立の保育所や幼稚園の生徒全員に市からクリスマス・プレゼントが配られるとか、とにかくいろいろなものがある。

今年のヨーロッパは特に難民問題が深刻だったけれど、何しろイエス・キリストは馬小屋の藁の上で生まれたし、その後も、ヘロデ王の殺戮を逃れて養父と母と共に夜逃げしてエジプトに亡命したという「難民家族」で育った。 

「洗礼だけのカトリック」が大半である飽食の人々にとってはかなり不都合なそういう設定が、クリスマスとなると意識下に頭をもたげて、「クリスマスの慈善」に向かわせるのかもしれない。

今年は今のところ記録的な暖冬でパリは東京より暖かいくらいだから寒さの深刻さは少ないけれど、「家庭の団欒」の同調圧力が強く働くこの国のクリスマスだからこそ、家庭の貧困や家庭崩壊(この二つは貧困から家庭が崩壊したり、家庭崩壊から貧困に陥るなど多くの場合連動している)の広がりを直視させられる。

でも、今時のクリスマスとはいえ、クリスマスには「消費」もあるが「文化」もある。

今朝のラジオで、哲学者のシンシア・フロリ(Cynthia Fleury)が

文化(カルチャーというのは育て養う意味がある)とは、自分や他者に対する憎悪に抵抗する力であり、より悪い方向へ向かうという誘惑からの守りである、

と言っていた。

食べ物や寝る場所だけではないものを分け合うことの大切さを思う。

追加: 結局クリスマス・イヴのミサは平和に過ぎだ。リールの教会では15人のムスリム男性がミサの間に教会をガードしたそうだ。本当に武装テロリストが来たら守り切れない非武装の人だけれどシンボリックな連帯は感動を生み、ミサの後で教会から出てきた人たちは守ってくれたムスリムたちとハグし合ったそうだ、

先日の州議会第一回投票では極右国民戦線の党首マリーヌ・ル・ペンが40%で首位だった地方の町のことだから、ほっとさせられるいいニュースだった。

今年のクリスマスは16世紀半ば以来457年ぶりかで、イエス・キリストの誕生日とイスラムの預言者ムハンマドの誕生日が一致する年だったそうだ(イスラム暦は数え方が違うのでずれていく。キリスト教でも正教系などクリスマスの数え方が違う宗派もある。)。

人類の二人に一人がキリスト教とイスラム教だというのだから、彼らが共に祝える祝日というのは貴重だし、その日が平和に過ぎた(多分。これを書いている時点ではまだ世界中で半分以上の地域は12/25がまだ終わっていないから)ことが平和な共存のきっかけになってくれるといいのだけれど。
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by mariastella | 2015-12-26 02:15

ケニアの救われる話と特別聖年

12/21の早朝、ケニアでバスがイスラム過激派に襲われた。
危険地域なのでポリスが併送していたのにポリスの車が途中でエンストしてしまったらしい。

日本語で検索したらこういうのがあった

キリスト教徒だけを殺すから離れるようにと言われたムスリムの乗客たちは

「全員を殺すか立ち去るかだ」

とテロリストに言ったそうだ。
イスラムスカーフを被っていた女性たちもとっさにそれを外して、キリスト教徒と区別がつかないようにしたという。
まあこれでテロリストが感動して去ったわけではなく、数名の犠牲者も出たのだけれど、テロリストたちが他の車が来たのをポリスだと勘違いしてあわてて去ったというのも、動揺していたからだと言える。

日本ではまさかと思うかもしれないけれど、これには明らかに11月にフランシスコ教皇がナイロビで

「我々の共通の信念は、我々が仕えようとしている神が平和の神であるということです」

と熱く語ったことと無縁ではない。

ケニアでは去年の11月にもバスの襲撃があり、今年の5月にも同様のテロがあった。
キリスト教徒が選択的に殺された。

今回は何かが変わった。

教皇は11月末の公開ミサの前にイスラムの代表者とも会見している。
テロが怖くてミサに参加しない人も多かったが、集まった人々の間では、教皇の言葉の前で深い静けさが生まれたという。

1985年と1995年にヨハネ=パウロ二世が来た時のメッセージがいまひとつ理解できなかったというケニアの人も、今のケニアの情況の中で教皇の和解と平和のメッセージが心に響くと語っていた。

フランシスコ教皇が中央アフリカで「慈しみの特別聖年」の扉をヴァティカンに先駆けて一足早く開いたことも含めて、今さら教皇の思いが伝わる。

カトリックの聖年といえば今は25年ごとなので次は2025年なのだけれど、80歳になった教皇は自分の元気なうちにこの赦しと平和の呼びかけをどうしてもしたくて、その悲願が特別聖年という形をとったのだ。

この聖年のイコンとなるのが先日「奇跡」が認定されて来年9/4に列聖式が決まったマザー・テレサだ。

彼女はいわゆる「布教活動」とは無縁で、路上に出て、死に行く人や捨てられた赤ん坊を見つけては招き入れてケアをした。今の教皇が強調する「慈しみ」のイメージは彼女のそういう生き方なのだろう。

神を見失った、といわゆる「信仰の夜」の中にあってもマザー・テレサの生き方は変わらなかった。
「聖女になりたい」といつも言っていた。

私が日本に住んでいる無宗教の日本人だったらこの聖年のうちにカトリック教会に行ってマザー・テレサの列聖日に洗礼を受けたくなるくらいだ。「ご利益」はもうすでに与えられている、という気がする。
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by mariastella | 2015-12-25 00:23 | 宗教

武器のおもちゃ

フランスでは、11月のテロの後、クリスマス・プレゼント用の子供のおもちゃ売り場から実物と似たタイプの拳銃や機関銃や短剣などのおもちゃが姿を消した。
強制というわけではないが、多くの大手スーパーや玩具店が自主規制してひっこめたようだ。
町で出会う人を撃つというタイプのゲームも回収された。

ゲームのことは分からないが、怪獣やモンスターを倒すゲームではなくて非武装の普通の人を撃つようなゲームに子供たちが熱中するのが「不健全」なのは確かだろう。

でもピストルの類はどうなのだろう。
アメリカのように子供に本物の銃をプレゼントして射撃場に連れ出すなどというのは論外として、おもちゃの武器を排除したからといってテロリスト予備軍の数を減らせるものだろうか。

親がイデオロギー的無神論で宗教を厳密に排除して子育てをした家庭から、親に反発する形で宗教やカルトに出会って免疫がない分取り込まれてしまう若者がいる。
ある程度いい加減な宗教性だの迷信の中で育った子供の方が批判精神を発揮したり別の道を模索したりするのが容易な気がする。

それと同じように、完全な非暴力主義で武器を嫌悪して隠すタイプの親や共同体の中で育った子供は、武器に対する免疫がなくて、かえって魅力を感じてしまうかもしれない。
もちろんある種のサディズムのような倒錯傾向がある子供はいるもので、そういう人は、おもちゃの武器があろうとなかろうと何らかの機会にそれが覚醒するだろうし、武器のおもちゃを与えていないからと親が安心して危険な倒錯の兆候を見逃す方が心配かもしれない。
一方「普通の子供」は、武器を持って遊んだからといって戦争好きになるわけではないと思う。

というのは私自身が、小さいころから兄といっしょに刀やピストルでいつも遊んでいたからだ。
それは別に暴力がどうとかではなくて、時代劇やら西部劇の真似事だったわけだけれど、その後は普通に、というか普通以上に臆病で暴力嫌いの人間になった。
ピストル自体が魅力的だと思ったことはなく、ベルトからさっと取り出してくるりと回して構えるとかの早撃ちなどに興味があった。
スポーツとしてアーチェリーをやっていた時期もあったけれど、矢を放って的を射るという行為にそれ以上の感覚を抱いたこともない。
水鉄砲だとか、連続して音や光の出る機関銃風のおもちゃやレーザー銃風のおもちゃの購入にも忌避感を抱いたことはない。

おもちゃ売り場の棚から武器類をすべて取り去るところや、子供が銃のおもちゃを自主的に返却したら代わりにパズルのおもちゃをもらえるというシステムなどもテレビで紹介されていたけれど、なんだか目先のごまかしのような印象を受けたのは私だけなのだろうか…
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by mariastella | 2015-12-24 00:42 | フランス

一分間の黙祷と二分間憎悪

前に「黙祷はソルボンヌ」という記事を書いた。

その後、ソルボンヌの創立800年記念と前年の最優秀論文の表彰式のパーティに招かれて出席した後、やはり最初のスピーチで、学生と教師の犠牲のことが語られ、起立して1分の黙祷が捧げられた。

集団の黙祷が嫌いな私だけれど、いわゆる射祷のように、犠牲者の冥福、中東の平和、戦争がなく皆がリスペクトし合って共生できる世界が来ますように、みたいなことを黙祷してみて、それでもまだ時間が余ったので他の人を眺め、この人たちは何を祈っているのだろう、と考えた。

学長が、学問による真理の探究を称揚し、はっきりと覚えていないけれど「知識は野蛮より強く、文化は無知より強く…」という類のことをスピーチの中で言った。こういう暴力の時代であるからこそ、地道に人類の文化資産を増やすことが大切だと言うもっともな話だ。

オーウェルの『1984』に出てくる独裁国のスローガンに

「戦争は平和である 自由は屈従である 無知は力である」

というのがあるが、その反対を言いたかったのだろう。

そういえばオーウェルのこの本には「二分間憎悪」と言うのもあった。

一日一回、国旗掲揚や国歌斉唱ではなく、二分間プロパガンダの映像を見せて「反体制」に憎悪を抱かせるというやつだ。
これも一分間の黙祷の対極なのだろうけれど、皆が一斉に一様の態度をとらされるという点では黙祷と変わりない。
いや、「二分間憎悪」が本当に効を奏するのだとしたら、一分間の黙祷も、集団の心を一致させ連帯感を高める実効があるのかもしれない。
私にはこういう心理コントロールに使えるシステムそのものへの不信がある。

近未来物語にはその年が過ぎると「古くなる」か時代錯誤になるものもあるけれど、『1984』は古くならないところが、怖い。
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by mariastella | 2015-12-23 00:14 | 雑感

めでたさも 中くらいなり クリスマス、と吉野源三郎『人間への信頼』

いつの間にか12月下旬でもうすぐクリスマス。

「めでたさも 中くらいなり おらが春」という一茶の有名な句があるけれど
「めでたさも 中くらいなり クリスマス」という気分だ。

救世主の誕生ということでおめでたいはずだけれど、フランスではクリスマス・イヴの深夜ミサもクリスマスのミサも教会がテロの対象になるリスクが大きいということでいろいろ対策が語られていて、大晦日のシャンゼリゼの警戒と共に、なんだか引きこもっていたくなる。

唯一希望が持てるかなと思ったのは国連の安保理事会でシリアの内戦停止がようやく取り上げられたことくらいだけれど、ただのその場しのぎパフォーマンスだという人もたくさんいる。
でも、バシャールの名を敢えて出さなかったり、選挙が一年半後という先なのも、ある意味リアリティがある。
亡命中のシリア人にも選挙権が与えられるという取り決めが実現するとしたら、「民主的」に現政権が退陣して、今や何百万人にもなる亡命者が帰国することになれば理想的だ。

ても、私はついオスロ合意のことを思い出してしまう。あの時の「希望」の光はどこへ消えたのだろう。

ともかくシリア内戦にまつわる「国際社会」の政治枠が一応提示されたところで、後はテロリスト集団ISに占拠された地域を回復するのが国際合意ということになるのだろうけれど、これについても悲観的な思いがある。

最近ISでは、障碍を持って生まれた子供を殺すファトワが下されて、35人の赤ん坊が注射による安楽死、または窒息死で殺されたという報道を目にした。ISの子供戦略は将来のジハード戦士を育てるという明確なものだから、障碍児など生かしておく意味がないのだ。この話を聞いて、やはりISはひどい、ISによって人権を奪われている弱者を救わなければならないと悲憤にかられるのは当然なのだけれど…。

優生主義によって障碍者に不妊手術を施したり収容所に入れて抹殺してしまうというのはつい70年ほど前のヨーロッパでナチスがやっていたことだし、日本でも昔は障碍児どころか単に子供を育てきれないからと言って「間引き」していたのはよく知られている。子供に人権はなく親や大人の都合で殺されたり売られたりするという風習が古今東西存在することは明らかだ。

それだけではない。ISが占領地域のマイノリティのグループを見せしめのために残虐に処刑するというのは言語道断の非人間的なことだと思えるが、同じことを、ベトナムのアメリカ兵もナチスも南京の日本兵もやっていた。
このことを痛切に思い出したのは、最近1968年発行の筑摩書房の戦後日本思想体系4『平和の思想』というのを読み返したからだ。

その中の吉野源三郎の『人間への信頼』という一文を読んで、今さらながら、人間の普遍的な残虐の可能性に衝撃を受ける。

吉野源三郎は、『カラマーゾフの兄弟』で、トルコ兵が慰みに母親の目の前で赤ん坊を放り投げて銃剣で受け止めて殺したことへの絶望が語られていることを挙げて、ニュールンベルク国際裁判でナチスの突撃隊長がやはり子供ふたりを空中に投げ上げて撃ったという証言に言及する。
また、日本から中国へ補充されてきた新兵に度胸をつけさせるために、罪もない農民をつかまえてきて銃剣で刺殺されるような「教育」が行われていたともあるが、それはISによるジハディストの「教育」と何ら変わるところがない。

同じ本には、60年安保で亡くなった樺美智子さんやお母さんの手記、1967年の羽田闘争で亡くなった山崎博昭さんやお兄さんの手記から、佐藤首相のベトナム戦争支援に抗議して焼身自殺した由比忠之進の抗議文や遺書まで載っていて、記憶を揺さぶられた。
あの頃までは、第二次大戦から得た教訓とベトナムで起こっていることを正しく関係づけてアクションを起こすという流れがあったのだなあ。

明治以来、軍国主義と国家神道に対する知識人によるレジスタンスの思想としてキリスト教と共産主義が両輪をなしていたことにもあらためて気づかされる。
その二つは、神と無神論という点では対極にあるように見えるけれど、国家や民族の枠を超えた「普遍主義」による国際的な連帯の扉を国際社会に新規参入した日本にも開いていたということで、新しい可能性を見せてくれていたわけだろう。

もうひとつ、吉野源三郎の言っていることではっとさせられるのは、

「戦争は日本人の連帯の意識を恐ろしいほど掘りくずしてしまっていました。」

という部分だ。

つまり、国家や軍人が「滅私奉公」を叫べば叫ぶほど、そして国民の私的利害を無視した政策を実行すればするほど、国民は自分で自分の私生活の利害を守らなくてはならなくなった。

生産も流通も国民の私経済そっちのけなので国民はいやおうなしに自分の生活を心配し、ひそかに食料の買い出しに出かけたり、破れた靴下の代わりをさがしに歩いたり、防空壕を自分で掘ったりすることに時間を取られていた。

いよいよ空襲が始まると、数百万の都市の住民は、わずかな家財や衣類を守るために疎開に狂奔し、戦争の成り行きなどかまっていられないかのようだった。私的利害への考慮が、公共のことへの関心をのみつくしてしまったといってもよいありさまだった。

戦争は、一億一心の強力を要求しながら、逆に国民同士の人間らしい連帯をズタズタに断ち切ってしまった。

なるほど。

実感がある。

今の私たちは、なんだか、強い国だとか戦争だとかを鼓舞されると、「あの軍国主義の時代のように思考停止でみなが一丸となってナショナリズムに突き進む」のではないかというイメージがあるけれど、国に守ってもらえない国民は内向きになってサヴァイヴァルに奔走する方が圧倒的に多数なのだろう。

子供の頃に戦時教育を受けたなら「滅私奉公」に洗脳されていた場合もあるだろうが、大人は自衛のエゴイズムにはしる。

個別の抵抗ではなく自己犠牲もいとわないレジスタンスが組織されて政治的に有効な力となるには、また別の思想による養いが必要なのだ。

そう思うと、60年代終わり、戦後復興を遂げて衣食足るようになった時代の日本人がベトナム戦争の反戦運動にあれほどコミットしたことは、決して一時的な学生の祭りではなく、吉野源三郎らの平和の思想を基盤に展開された「実り」のひとつの形だったのだと分かる。

それに対して、この夏の反「安保法案」の運動では、リタイアした68年の全共闘世代とSEALDsなど「今時のおしゃれな学生」が共闘したというシーンが見られたけれど、なんだか、68年の「平和の思想」の糸が切れたまま漂っているような気がしてきた。

キリスト教と共産党へのアレルギーの残滓だけはそこかしこに見えるのは気のせいなのだろうか。
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by mariastella | 2015-12-22 03:03 | 雑感

弾きおさめ

12/18、弦楽アンサンブルとトリオの今年最後の練習をする。

来年6月にジル・アパップとフィルハーモニーで弾く曲をはじめてさらった。
4曲。時々弾いておかないと暗譜が苦手な私には大変だ。
ただ、なんというか、すごいアップテンポで、それが延々と繰り返されて、まあ「元気が出る音楽」ともいえるし、野外も含めて大人数でがんがん弾くには楽しそうともいえるけれど…私の音楽美学の感性とは対極にあるものだ。

まあこの企画への参加は、11月のテロに対して、フランスにおける文化の自由、音楽の自由を称揚するマニフェストとして決めたものだから、しょうがない。楽しむことにする。

トリオの方は、ラモーの曲をさらに5つ。

Air gracieux de Zaïs

Air gracieux de Castor et Pollux

Sarabande de Naïs

Rigaudon 1 et 2 de Platée

Entracte

ナイスのサラバンドはミオンのサラバンドト同じくいきなりヘミオラで始まる上に、前半11小節、後半13小節で、舞踊曲として分析してもまだ完全に解明できない。

ただ、永遠に続くと思われそうな最初の二歩音符の和音から心をつかむ。

私たちのホ長調では、下からソ#、ミ、ソ#、シ なのだ。

基音のミが下と上にない。

ラモーはこれなのだ。

欠如感、そのフラストレーションが扉を開けさせる。

バッハではあり得ない。

バッハの音楽を聴いていると、イエスが一番弟子のシモンにペトロ(岩という意味)という名を与え、

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 」(マタイ16-18)

と言ったシーンを思い浮かべる。

バッハの音楽は強固な信仰の岩の上に立った教会のような確かさがある。

バッハは実生活では信仰を支えに生きた試練に満ちた生活があったのだろう。

それを壮大な音楽の殿堂に築き上げる腕力と精神力があった。

ラモーは、多分、信仰を必要としなかった人だったのだと思う。
心の脆弱な部分はガードされていて崩れる危険はなかった。

で、神のようにクリエイトした。

それはピュアであるが単純ではなく、このサラバンドの最初の和音のように、倒錯すれすれの知性の遊びがある。決して全部を与えないで、相手を揺さぶる。

一度この味を知ったらやめられない。

プラテーのリゴドンはギタリスティックだ。4-5声部なのでトリオで十分カバーできる。

ユーモラスな部分とやはり悪意の痛みが共存していて、それをどこまでもライトにピュアに仕立てあげるラモーの名人芸が光る。
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by mariastella | 2015-12-20 04:39 | 音楽

ラモーの3曲

昨年のコンサートのうち、子供たち用の音楽童話をデジタル紙芝居にするための音源作成になんだかんだいって1年もかかったけれどようやく完成した。紙芝居が出来上がったら日本の子供たちにフランス・バロック音楽をじゃんじゃん聴いてもらいたい。これまで一度も録音されたことのない曲がいくつか入っている。

Luc Marchand のLa Flatteuse などヒーリング音楽としても最高なのでこれから自分でも聴けるのが楽しみだ。トリオのサイトにも組み込んでいくつもりなので多くの人にお届けできると思う。

フランス語版や英語版も作ろうと思うけれどまず日本語版ができるのはとても嬉しい。

そんなこんなでほっとして、今はラモーの新しいレパートリーにかかっている。

もっともギタリスティックなものトリオのHが厳選して編曲したものだ。

先週からまず3曲練習している。

1.Musette de Zaïs
2.Entracte de La temple de la gloire
3.Gavottes d'Acanthe et Céphise

1と2は私のパートが第2ヴァイオリンとヴィオラを同時に弾くのでポジションを工夫しなくてはならない。

2は来るべき幕の雰囲気の提示だろうが、神秘的で深刻な感じがする。

3のガボットは二つ目の短調の部分の弱起が四分音符にして三つ分あるという変則的なものだ(全体は二分の二拍子)。
しかもその三つの四分音符ががサラバンド風で2音目が長い。こんなガボットって他にあったっけ?

踊る時にカダンスが短すぎて調子が狂うんじゃないだろうか。

しかも、センチメンタリズムに堕ちていくぎりぎりのような効果を、何一つ妥協のない知的で計算された和音進行の中で出している。

こんな離れ業ができるのは本当にラモーしかいない。
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by mariastella | 2015-12-16 07:28 | 音楽

フランスの州議会選挙の結果について

フランスの州議会選挙の結果についての感想を聞かれたのでひとこと。

極右国民戦線FNがコルシカを除く12州のうち3州で第1回投票でトップに立ったのが、第2回投票での与野党協力(というか与党社会党PSが共和党Repに譲った)が効を奏してすべて落選した。

投票率も上がったので、フランス人は危機になると立ち上がる、と満足の声も出ているが…。

実際は、勝利した党が議席の25%を自動的に得て、残りの75%を、得票率で分ける。

例えば40%の得票率で勝った党は、25%と、残り75%のうちの40%である30%をもらえるので55%という過半数の議席をもらえるわけだ。

だから、どの州議会でも、敗れたとはいえFN議員が躍進するわけで、FNを阻もうとして社会党が自党候補を引っ込めた州では社会党は今回の選挙による議席はゼロということになる。

ブルゴーニュなんて、RepとPSとFNの得票率は事実上三分の一ずつである。
PSがまともに勝利したのは現役の防衛大臣が率いるブルターニュだけだ(何しろ「戦争」中だし」)。

この様子を見ると、2年後の大統領選にはまだ「FNのガラスの天井」というのが機能しても、7年後にはRepやPSの側によほどの改革がないとFN大統領が生まれてもおかしくはない。

唯一の救いは、RepやPSが改革する速度や効率よりもFNが「普通の保守派」に舵を切ることの可能性の方が大きいことだ。

もちろんRepやPSは、FNを共和国の敵、極右ファシスト、とレッテル付けする努力を惜しまないのだけれど、マリーヌ・ル・ペンは父親の極右政策からすでに大きく「共和国」派でゴーリスト(ドゴール派)だという方向に看板を塗り替えていて、父親とけんかし、罵りあって互いに親子の縁を切ったりしている。マリーヌによるその「脱極右キャンペーン」がある程度成功しているからこそ得票率が増えているのだ。

今、創立者ジャン=マリー・ル・ペンの流れで超保守派を率いるのはわずか26歳の孫娘マリオンだ。
若くて金髪で綺麗なマリオン、普通ならその外見も敵の攻撃の俎上にのせられそうだけれど、開票後の会見を見ても、堂々とポピュリズムに応え、若さや外見もしっかり武器にして何のコンプレックスもない。知性があるかどうかは別としてアジテーターとしての才能があるのは確かだ。
このマリオンはカトリックの保守団体にも覚えがよくて、そういうイメージを払拭しようとしている叔母のマリーヌをいらいらさせている。

まあマリーヌであれマリオンであれ「ル・ペ」ンの名を掲げている限り、創立者の金や地盤や権益から離れられないのは当然だが、今回アルザスで敗退したフロリアン・フィリィポなどはFNの新しいタイプである。

この人はいわゆる共和国的な環境(両親が公立校学校教師)で地方の出だが、超優秀な学歴を持つ。知性によって道を切り開いたタイプだ。30代前半と若い。
この人は最近メディアでFNの代弁者としてディベートに参加していたが、言っていることはともかくとして、たいていのPSやRep側の参加者よりもはるかに頭がよいのが見てとれた。というか相手の頭の悪さ、整合性のなさを目立たせた。

JM・ル・ペンの頃のFNには絶対に合流しないタイプで、この人を取り込めたのはマリーヌの戦略の成果だろう。ただ、見た目がなんとなく、私の偏見の中でのすごく人種差別主義者っぽいFNという雰囲気なので警戒心をそそられていたけれど、実際は、いわゆる内向きの超保守という人ではない。

第一ゲイであることをカミングアウトしている。
離婚を繰り返しているマリーヌもカトリック教条主義者(最初の離婚前に三人の子を教条主義教会で洗礼を受けさせているが)とは近づけないわけで、二人共いわゆる「中絶反対」「同性婚反対」タイプのグループとのフュージョンはない。

フィリィポがFNに合流した最大の論点は経済政策とEUの問題で、それを別にすると、いわゆる「人種差別、マイノリティ差別の極右」というレッテルからは外れている。
だからPSやRepがいつまでもJM・ル・ペンを攻撃していた頃と同じ攻撃の仕方を続けていると、だんだん現実と乖離してくる。フィリィポのような人材をまともに組み入れることができるほどの見識が他の党にあればいいのにと思うほどだ。

まあFNがもっと進出するリスクのある2022年の大統領選の頃は、党の名前も変えてフィリィポのような若手がリーダーになって事実上の「共和国主義」政党になっている可能性はあるわけで、そんなことに希望を託さざるを得ない今の状況がかなしい。

頭がよさそうでかつ誠実であるという印象を与えるのに成功しているのは北の地方で今回マリーヌを破ったRepのグザヴィエ・ベルトラン、若手のブルーノ・ル・メールなどで、今や「賢者」風なのはアラン・ジュッペ。

PSはCOP21の茶番劇や、協定成立に感涙を流してノーベル平和賞候補などといわれている外務大臣のファビウスも今さら見ていていらいらする。

パリのテロのおかげで、COP21という外交劇でフランス政府に恥をかかせる勇気は世界のどこにもなかったわけだけれど、大切な問題は何一つとして解決していない。

そういえば今回、独立派のナショナリストが勝利したのはコルシカだけど、コルシカって、歴史的経緯からして、今でも他の地方よりも大きな自治の権限が与えられているんだそうだ。

沖縄とはだいぶ違うなあ。
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by mariastella | 2015-12-15 01:17 | フランス

アイスランドのズーイズム

アイスランドで短期間に人口の1%に当たる3100人が突然ズーイズム(日本語でなんというのか分からない)に改宗したそうだ。

ズーイムズム(ズー教?)は4000年前のシュメールの宗教で、ストラクチュアがない。

問題は、アイスランドには、税金といっしょに、各自が所属宗教を届けて、税金の中からその宗教への補助金が支払われるシステムであることだ。こういう国はヨーロッパには他にもある。

しかしアイスランドはひとりあたり73ユーロ(1万円くらい)と決まっている。

ルター派のプロテスタントがマジョリティだけれど、他に40宗教がリストにあって、そこから選んで申告するシステムだそうだ。

ズーイズムは、そのリストから消そうという動きがあったほどマイナーな名ばかりの宗教であるようなのだけれど、宗教税に反対する人たちがこぞって自分たちはズーイズム信者になったと申告した。
税金逃れというより、宗教税聴取システムに対する抗議のパフォーマンスなのだろう。

ズーイズムの自称代表者は、別に教会活動がないので受け取った金を払い戻すと言っているそうだ。

そのことをあげつらって「偽宗教だ」という人もいる。

しかしそれなら、では「本当の宗教」とは何かということになる。

日本語の語感からいうと「教え」があるものだが、ヨーロッパ語の語源的には「人を結びつけるもの」となる。

古代宗教への回帰に向かう人には

自然志向、エコロジー志向というタイプ、

神話趣味、呪術趣味、フォークロアへの興味というタイプ、

そして既成宗教への反発、主流秩序からの離脱というタイプ

などがあるだろう。

今のアイスランドで古代のメソポタミア宗教に回帰となると、政教分離への意思表示がなんだか奇抜な方向に行った感はあるけれど、それが少なからぬ人々を結びつけるなら一種の宗教的連帯が生まれているのかもしれない。

宗教原理主義者の独善主義ががあちらこちらでまかり通っている時代においては、いっそさわやかな感じがしないでもないエピソードだ。
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by mariastella | 2015-12-13 07:59 | 雑感

ISと神とダライラマ

パリのテロ以来、ダライラマのインタビューやコメントがちらほらとフランス語のメディアに現れた。

ノーベル平和賞受賞者だし(まあオバマもだけど…)、宗教のリーダーで(普通のフランス人的には仏教におけるローマ法王的なVIPと思われているふしがある)、でも一神教じゃないから、無神論イデオロギーの左派ジャーナリズムからもコメントを頼まれやすい感じかも知れない。

でも、なんだか「 ?」と感じることがあった。

ひとつは、

「神に解決を期待したり神頼みをしたりしてはいけない、依存してはいけない。人間が自分で考えなくてはいけない」

というタイプのもの。

これは彼の日本語でのインタビュー本に

「神を信仰して、(神が)すべてを創造し、物事を決定するという考えは、その創造主に完全に依存してお り、それは、仏教的な観点からは、個人の持つ自信やプライド、創造力といった何かを成し遂げることの出来る力を失わせてしまうものである。」

とあるのと一致している。

確かに「個人の生死や救いも含めてすべては神の摂理で初めから決まっている」というタイプの考え方もあるけれど、基本的には、神は人間に自由意志を与えて創造したというのが一神教の合意である。

だからこそ、すでにエデンの園の昔から、たった一つの戒しかなかったのに、アダムとイヴはその禁断の実をわざわざ食べてしまったし、神はその後も大洪水を起こしたり、律法を与えて「契約関係」に持ち込んだりといろいろするのだが、まあほとんどすべて無駄だった、というのが一神教的な歴史認識だ。

まあそれでも神は「恵み」や「赦し」をくれるのだけれど、「神に依存して自信やプライド、創造力を失う」ほど人間はやわではないし、悪の力も半端ではない。

それに例えばフランスのような世俗理念の国では、テロの後でもアメリカのように「神よどうして?」という問いはなかったし、少しずれているなあと思った。

神に依存しているというか神を口実に勝手な自信やプライドを喧伝しているのがISのようなテロ組織だけれど、ダライラマはそれに対しても、

「あらゆるやり方で相手をリスペクトして相手の言うことに耳を傾け理解するという以外の道はない。」

(カリファ・イデオロギーを批判して)「イスラムは平和の宗教である、不寛容は自らの信仰や自らの同胞を害する」 でも

「ISとも対話しなくてはならない」

と言う。

しかし、ビルマで多数派の仏教徒たちがマイノリティのムスリムを弾圧していることについて意見を聞かれたら、それを弾劾し、

「私は彼らと接触がない、何びとも誰をも迫害してはならない」

と答えている。「対話」は?

うーん、弱者や少数者を力で制圧したり殺したりする狂信的な集団やあるいはそれを意識して組織し支配している指導者たちには、もう「対話」が通じないレベルがあるのではないだろうか。

もちろんだからといって彼らを力で粉砕するのでなく、それこそ経済封鎖するとか、資金ラインを断つとか、洗脳されたメンバーを取り返すとか、別の戦略が必要だろうが、

「相手をリスペクトして相手の言うことに耳を傾け理解する」

などと同じ地平に立っている場合ではない気がする。

ダライラマは、絶対神に依存する一神教と違って仏教では「即身成仏」、すなわち今生きているうちから仏陀のような素晴らしい存在になりたいと強く願うことこそが帰依の意味するところだと言うのだけれど、それは神が「超越」から「受肉」して人間になったキリストを主とするキリスト教でも同じで、キリストに倣い、キリストを通して神に一致するという考えがある。

キリストとまではいかなくても、キリストにならって生きた聖人たちにならって、聖人は死後称号だけれど、生きているうちから「即身成聖人」になるよう勧められる。

古今東西、人は自分の境遇、出会う災害や戦争、飢饉、病、苦しみ、不幸などを前に「理不尽」だとか「不当感」をいだき、それが怒りや自暴自棄になったりすることもあるのだけれど、まともな宗教なら、それを「前世の悪いカルマのせい」と言おうが「原罪のせい」だと言おうが、それらの試練を受容したり克服したりして「利他」の行につなげることで、「よりよい来世」だの「解脱」だの「天国行き」だの「永遠の命」だのを約束する。

それを目指して「聖人(聖人君子という意味ではない)行」や「菩薩行」が勧められるわけだ。

その「利他」の名のもとに「お前の罪を軽くするためだ」などと他者の生命財産自由を侵害する権利があるようにふるまうカルト宗教もあるので、そういうものには、「特に『自分ちの神』だの『教祖』だのの名をかたられて困る」老舗宗教のリーダーがきっちり対応してくれれば嬉しい。

確信犯的に他者の生命財産自由を侵害しているテロリストやそこへ組織的勧誘をするシステムに対して、別の地平に立つ宗教指導者がリスペクトとか言うのを報道するメディアはいったい誰のどういう期待に応えようとしているのだろうか。
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by mariastella | 2015-12-10 03:47 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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