L'art de croire             竹下節子ブログ

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『ディーパンの闘い』

年末に日本に行った時に機内で見た映画いくつか。

機内では、映画館では見ない映画を観ることにしている。

ヴァイオレンス、ホラーなど悪夢の原因になる映画は普段極力見ないようにしているのだけれど、機内なら画面が小さいし、あれこれで中断するのであまり集中しないからトラウマが少ないと思うからだ。

その一つが、去年のカンヌで賞をとったジャック・オディアールの『ディーパンの闘い』。

映画館の座席に座っていたら、その深刻さに後悔したと思う。

そもそもフランス映画は私にとって全体的にリアルで身につまされる。
言葉を共有していることも大きいが、住んでいる場所、時代が重なる映画は特にそうだ。

今のヨーロッパの難民問題はもちろんだけれど、移民の子弟のゲットー化している一部の大都市郊外の団地における恒常的な暴力や犯罪など、すぐ身近にある問題だ。

ディーパンはスリランカからの移民だけど、スリランカ移民は昔から日本レストランでした働きしている人も多かった。
前にうちに来ていたフィリピン人のメイドさんは、メトロでスリランカ人に声をかけられては、一緒に住もうと言われていた。スリランカのネットワークは強いのか、住むところや働くところが一応ある人が多いらしく、彼らは特に不法滞在のフィリピン女性をターゲットにして同棲を持ちかけるそうで、そういうカップルが少なくないのだと言っていた。

ディーパンは、内戦下のスリランカからフランスに逃げるために知らない女性と少女と疑似家族を作った。
本当の妻子は戦争で失っている。
「家族」の難民受け入れがしやすいのは今も同じだ。ローマ法王が各教区に一家族を受け入れよと言ったことは記憶に新しいけれど、その「家族」が本物の家族かどうかなんてわからないなあ、とこの映画を観ると不信の念が湧いてしまう。

ディーパンは団地の管理人の職を得るが、周りはドラッグと暴力の世界だ。
それでも黙々と、難民なのだからとにかく面倒に巻き込まれないように仕事をこなす。無感動のように見える。

家族として同居する相手の女性と少女も、それぞれ戦争のトラウマを抱えていて、せっかく逃げてきたフランスで同じようなヴァイオレンスが繰り広げられるのにパニックを起こしている。女性は親戚のいるロンドン行きを目指している。

心が壊れた3人がばらばらにサヴァイヴァルを図っているわけだ。

その中で、いろいろな人間的な感情も生まれるのだが、最期についにマフィアの暴力に巻き込まれた時にディーパンが「切れ」て、修羅場をくぐった元兵士の力が爆発する。

じっと耐えていた男が最後に悪をばったばったとやっつけるという意味では、カタルシスがあって、壮絶な闘争シーンも気分よく見ることができるのは、安易と言えば安易な筋運びだけれど後味は悪くない。

こんな暴力炸裂の結末なのにそれなりに爽快感があっておもしろい、というのは、ロベール・アンリコの1975年の映画『追想』(Le vieux fusil)でフィリップ・ノワレが一人でナチスの兵隊を皆殺しにするシーンに通じる。

『追想』は温厚な普通の医者が突然復讐鬼になるわけで、自分のテリトリーにナチスが侵入して妻子を蹂躙したものだ。ディーパンのは元兵士といういわば殺戮のプロでもあり、外国人の身でよその国に何とか居場所を見つけようとしているのだから立場は逆だ。

『追想』の復讐は空しく、殺人連鎖であり、主人公を突き動かすのが妻子との幸せな思い出ばかり。
ディーパンは妻子との思い出などは封印して、人間性も封印していたのに、自己防衛の暴力をすごい強度で発散した後で「人間性」が戻って来る。

非暴力的に見えていたヒーローが実はすごく勇敢で悪に立ち向かう、あるいは冷たくて利己的に見えていたヒーローが突然弱い者を守るために立ち上がる、という形のストーリー自体はアメリカ映画にもいくらでもある。

でもディーパンを見て、やはりフランス映画の『追想』を連想してしまったのはなぜだろう。

ディーパンも『追想』の主人公も「ヒーロー」ではないからかもしれない。

時代の病、戦争における「正義の行使」の意味と葛藤、ヒーローがどこかアンチヒーローでしかいられない不条理感などが、ハリウッド映画では描かれていないからかもしれない。

ベースにある戦争、難民、ゲットーなどの深刻さ、やりきれない日常、そこに突然繰り広げられるアクションの完成度の対比が印象的なのだ。

ディーパン役が、実際にスリランカからフランスに亡命した作家のアントニーターサ ン・ジェスターサンという人なのだが、あまりにも、うまい。

他の映画のことはまた後で。
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by mariastella | 2016-01-31 23:51 | 映画

参謀総長が正論を言える国

2011年の5月末、東日本大震災被災者のためのチャリティコンサートをコンコルド広場の海軍参謀本部のサロンで開いた。

参謀総長の海軍大将は心から最大の援助をしてくれた。

協力してくれた海軍の他の組織の人たちがヒエラルキー意識から逃れられないのとは対照的に、実にシンプルで人間的だった。

その後で、アフガニスタンに派遣されていた軍人ブリス・エルブランの書いた戦争のトラウマについての本についてもブログで触れたことがある。

アメリカ軍と違ってフランス軍の攻撃の規制が厳しいこと、それでも人を殺したことがトラウマになってそのことを現役士官が出版し、なんの検閲もされない、ということのフランスらしさが気に入った。

昨年11月のパリの無差別テロの翌日にすぐに防衛大臣に呼ばれ、2日後に空母シャルル・ド・ゴールに乗った参謀総長ピエール・ド・ヴィリエ将軍は、その1週間後の新聞インタビューで「軍隊はISに対する勝利をめざすものではない」と言った。

テロの後ですぐに「総力戦、IS壊滅」のような勇ましい言辞を発したのは政治家の国内向けの姿勢であるが、実際はそのような短期戦はあり得ないし意味もない、ということだ。。

それについてさらに、今年の1/20付の『ル・モンド』紙で堂々とこう言っている。

「フランスの戦略は完全に国内政治によってなされている」

「戦力は必要だとしても充分であることは絶対にない。戦争に勝つことと平和を獲得することは別物である」

さらに、

文明的な軍隊は、正統性や魂を失わずして倫理的な縛りを侵すことはできない

とまで言う。

つまり軍隊の魂や正統性は倫理的縛りによって担保されているということだ。

「テロリストを前にして、ミメティスム(擬態)に陥らぬようにきをつけなければならない。」

とも。

すごいなあ。

ヴァルス首相が空爆強化反対派に対して

「(この非常時に際して自由・平等・博愛などの)大義をかざす者たちは我々が戦争中だということをお忘れのようだ」

みたいに揶揄するのとは大違いだ。

ピエール・ド・ヴィリエという人は、貴族の出の保守政治家で大統領選にも出たことのあるフィリップ・ド・ヴィリエ(子爵)の8歳下の弟にあたる。

この二人とも、ちゃんと共和国エリートコースを歩んでいるから、頭がいいことは間違いがない。

フィリップ・ド・ヴィリエはまあ、いろいろある人なのだけれど、弟がそれにも染まっていない?ようなのもフランス的個人主義のいい面かも知れない。

なんだか軍国主義的な方向に向かいつつありそうな最近の日本だけれど、こんなことを軍のトップにいる人が一流新聞の記事に堂々と書くことが起こるなど想像できない。

オランド大統領の非常事態宣言もメディアの自由には手をつけられなかったし、妙な自主規制もメディアの側にも軍人にもないようで、フランスの国のこんなところは好きだ。
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by mariastella | 2016-01-29 04:44 | フランス

彫空の本

1月始めに大阪で吉井秀文さんにお会いした。

「彫空の本」をいただいた。

透明ケースに洗剤と水が入っていて振ると泡でいっぱいになる。

吉井さんはその中から面白いかたちを取り出してデッサンしたり立体にしたりしている。

その意外さを去年パリで見せていただいた。

どうしてこのような特別のご厚意にあずかれるのかと不思議に思っていたのだけれど、彼がパリ滞在中の作品について過去に私が書いたコメントを気に入ってくれて、何度も読み返してはこれでパリに行った意味があった、と思ってくれたそうなのだ。

ものを書く人間として、アーティストにそのように喜んでもらえたのは光栄で嬉しい。

書斎の本棚において、取り出してケースから出して振って泡を眺めるとおもしろい。

一つの泡が他の泡たちと多くの接触面を持っているのだけれど、それぞれ凸面であったり凹面であったり平らであったりする。
ある人が生きている時の対人関係もこういうものだろうなと思う。
ありとあらゆる方向から「境界」を押し付けられてアィデンティティが形作られ、しかも平等な関係なんて一つもなく、相手に侵入され気味だったりこちらが相手を侵食していたり、ぎりぎりのバランスを保っていたりする。
しかもそのすべての「面」が絶えず微妙に動き、その相手が別の面でつながっている他の無数の泡たちの形や圧力や弾力と連鎖、連動している。
吉井さんがその中の一つに注目して「個」を抽出しても、その形にはその「個」を形成している世界のすべてがひしめきあっているのだ。
そして、その「個」の中身は「空」なのであり、「個」は「境界」とのせめぎ合い、拮抗の力関係が作る緊張の内側にしかない。

そのような、他者とのあり方だけで特別な形になった一つの泡を吉井さんが取り出して境界をなぞるとき、中の空とそれを規定していた外が反転する。

それが彫空。

透明の本をゆっくりふっていると宇宙を手にした気分と、泡に埋没する気分の両方が同時にわき起こる。

創造した後、その「跡」を作品として提示するのではなくて、いつも創造の躍動そのものを提示しようとする吉井さんの冒険は続いている。
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by mariastella | 2016-01-28 08:04 | アート

ほっとする話

2016年がはじまりました。

ここに来て下さっている皆さま、今年もよろしくお願いします。

年末年始と久しぶりに日本で過ごし、ブログのためのいろいろなテーマは溜まっていくばかりなのだけれど、今月中に終わらせる仕事もいくつかあってなかなかブログを書くリズムが戻らない。

フランスのバーゲンセールは1/6から始まったようだけれど、このバーゲンの初めの日にフランスにいなかったのは13年ぶりで、いなければ見えない、聞こえてこないということで「バーゲン、なに、それ?」という感じだ。

いつも、テレビのニュースでバーゲン初日のデパートの様子が映されたりショッピングモールの駐車場が車でいっぱいになったり郵便受けに広告があふれたりするのだけれど、そういう「情報」が入ってこなければ「ないのと同じ」だというのがあらためて分かる。

で、何一つ買ってもいない。

消費行動がいかに情報にリードされているのかとあらためて感心する。

いろいろ書きたいことはあるのだけれど、今朝のラジオでダニエル・コーン=ベンディットがいいニュースを伝えてくれた。で、こういうもので一年の最初の記事を書きたい、と思わせてくれたのでおすそ分け。。

それは、暮れのケルンでの中東移民の男たちによるドイツ女性への強奪や暴力沙汰に関することだ。
このことでメルケル首相が批判されたりペギーダなど極右グルーブが騒いだりしたことの記憶は新しい。

でも、キャサリンというあるアメリカ女性の証言が紹介された。

年末をドイツ人青年とケルンの広場で過ごしていた彼女は、複数の移民の男に襲われて逃げられない窮地に陥った。

そこにやはり複数の移民の男たちがやってきて襲撃者と戦って彼女を救ってくれたという話だ。

このことをNYタイムスが記事にして、それをドイツの新聞が転載した。

コーン=ベンディットが言うように、アメリカのメディアもたまにはいいことを記事にする。

移民のキャンプであろうがなかろうが、弱者を襲う悪いやつもいれば弱者を救うために立ち上がる人もいる。

ただそれだけのことなのだけれど、それを文字にして、また、それを言葉にしてメディアで取り上げるかどうかということによって心理的には大きな違いがもたらされる。

毎年繰り返されるバーゲン情報が目と耳に入らなかっただけで「ないのと同じ」心理状態になる(私は別にバーゲンの買い物が好きなわけではなくむしろ嫌いだ。でも、バーゲンの時期にそれを避けるということ自体が一種のストレスになっていたことはある。それが、今回は心理的に全く何も起こらなかったのだ)。 

だからある意味たとえ当然のことだとしても、ケルンの騒擾の折に敢然と女性を救った移民もいたという証言を耳にするだけで、これからの一年に少しばかり希望の光が射してくる。
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by mariastella | 2016-01-20 02:26 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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