L'art de croire             竹下節子ブログ

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パリの農業サロン

フランスで最もフランスらしい「農業サロン」が今年もパリで開かれているが、今年は規制緩和をめぐって特に畜産農家の不満が爆発し、借金のための自殺者も続出する中、初日の開場前に訪れたオランド大統領は参加者から背を向けられたり野次を飛ばされたりしてさんざんだった。

大手スーパーなどに買い叩かれることもあって、何を出荷しても赤字になる農家は危機に瀕している。

EUでフランスの農業についての特例を認めさせて人気だったシラク大統領の時代は遠い過去のものとなり、ワインも飲まないので不人気のサルコジ時代を経て、どちらかと言えば人気のあったオランドなのに今年は逆風が吹いている。
チーズとワインという組み合わせフランスパンも含めてフランスの食文化の誇りでありアイデンティティでもある畜産農家の参加はサロンの花だ。その彼らが悲鳴を上げている。

ドイツなどでは500頭の牛に従業員2人という農場があり、すべて機械化、監視カメラ、デジタル化されて、人間が必要なのは牛の病気かお産の時だけだそうだ。

昔ながらのフランスのやり方では価格競争にとうてい太刀打ちできない。

サロンに牛を連れてくる人たちはいとおしそうにブラシをかけてコンテストに備えたり、鳴き声のコンクールをしたり、その愛着は伝わってくる。

このサロンに去年はフランスの国民の1%が足を運んだそうだ。

サロンについてのクイズ10題というのをネットで見つけて、試しにやってみたら、私は10のうち2つしか正解しなかった。3択だからせめて3つは当たってもよさそうなのに、この分野についての自分の無知にあらためて感心する。去年の入場者については0.1%と答えてしまった。)

それとは別に、つい最近、屠殺場の従業員が牛を感電させている映像がウェブに流れてスキャンダルになった。

作業の一環ではなくて、苦しめて喜ぶただのサディックな行動である。

グアンタナモで捕虜が拷問されたり非人間的扱いされたりしていたのが表に出るよりもリスクが少ない。

動物だし、どうせ「殺され、食べられるために」育てられ、殺されるために屠殺場に来ているのだから、ということで。

この話を聞いて暗澹とした。

今は何でも、簡単に撮影されたり録画されたりしたものが流出するから表沙汰になるけれど、

考えたら、「殺す」ことに特化された場所が存在し、そこで働く人がいること自体が衝撃的だ。

害虫やネズミの駆除ならまだ「異種」感があるけれど、牛たちは農場では飼い主たちが名前をつけブラシをかけ手塩にかけて大きくしてきた。

でも動物園ではないから、食肉用のものもあれば、オスの子牛はすぐ殺されるし、乳牛も乳を収穫できなくなったら、手厚く世話されて余生を過ごす、というわけではないだろう。

で、いったん屠殺場に送っても、苦しめないで殺さなければいけないとか、ストレスを与えると肉がまずくなるとかもあって、その屠殺の仕方はいろいろ制限されているのだけれど、それでもときどき違反が摘発され、動物擁護団体は怒りの声をあげる。

でもそのような屠殺のシステムやその経済合理性とは別に、そういう場所にたとえ例外的にでもサディックな人間が職を得たとしたら…。

家庭や施設の中で子供や老人や病人など弱者への虐待がばれれば大事件だし、犬や猫の虐待に向かってもリスクは大きい。でも屠殺場で牛を虐待するなら、大きいので「やりがい」を得られるかもしれないし、自分で撮影してウェブに流すなどというバカなことをしない限り、安泰だ。

ひょっとして、肉食国の屠殺場の長い歴史の中には、サディズムの実践を満喫してきた人たちがいたかもしれない。

多分、いただろう。

そう思うと怖い。

私は子供の頃、鶉の卵がどうやって収穫されているか(自由を拘束され過密なところで人工照明によって夜を作らずに卵を産み続けさせる)を知って、鶉の卵を一切食べなくなったことがあった。フォワグラは好きだけれど、シーズンになると反対派によって繰り広げられる鴨の脂肪肝を作る残酷シーンを見るともちろん喉を通らなくなる。

私の周りのごく近い人にもラディカルな非肉食主義者がいる。
親しい畜産農家もある。

私も屠殺場の存在など考えたくない。
魚だって尾頭つきが怖いと思うこともあるくらいだ。

でも、屠殺場はあるし、漁をする人も畜産する人もいる。

すべてが完全に機械化されるなら、「非人間的」だから愛着もないがサディズムや虐待もなくなることだろう。

食物連鎖の中で「人間性」というのはプラスにもマイナスにも働くし、食文化も生まれれば、食にまつわるあらゆる倒錯も生む。

まるで動物園のように家族連れが楽しそうに牛や羊や鴨のブースを訪れる農業サロンのニュースを今年はのんびり見過ごすことができないのはなぜだろう。
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by mariastella | 2016-02-28 02:23 | 雑感

河瀬直美監督の「あん」

河瀬直美監督の「あん」を見た。

フランスにはあずき餡の好きな人も多いのでこちらのタイトルは『東京の美味Les Délices de Tokyo』となっていて、餡ってこうやって作るんだーという文化体験に惹かれた人も多い。

興味深かったけれどなぜか満足感は得られなかった。

世代も世界も異なる孤独な3人が心を通わせるというきちんと作りこみやすいストーリーの上に、

カメラワークが美しく、
エコロジー風味、グルメ風味、小津風味、そして生きづらさに対処する人生観、
孤独な3人に共通するのは母親との別れや母親との齟齬、

これだけ普遍的なあれこれがあって、樹木希林などみな演技もすばらしいし、禁欲的な主人公が感極まって涙するというシーンさえあるのに、この涙もろい私がまったく心を動かされなかったのは不可解なくらいだ。

ほころびかなさすぎるというのも一つだろう。

淡々としているように見えて実は言葉が多すぎる。

それでいて、何かが内部から崩壊するとか内部で爆発するとかいうような粘力がない。

河瀬監督の得意なカンヌ映画祭向きの材料は全部そろっていて、フランスでもそれを期待する人々にはきっちり評価されたけれど、期待されるすばらしさ以上のもの、あるいはそれ以外のもの(破綻を含めて)が見えてこないことで、この映画と醒めた関係しか築けなかった人たちもいる。

私もその一人なのだろう。

単にハンセン氏病患者の前世紀までの日本での扱いの実態を知って驚いたフランス人もいた。

ハンセン氏病を含む皮膚病は外見を損ねることも多いらから古今東西、患者は病気だけではなく社会的な犠牲者でもあった。伝染性であるものもそうでないものも、皮膚疾患というのは隠すのに限界があるし、日常生活で人と人の接触は主として「手」を介して行われるから、「手」の外見の異常は人に忌避感を起こさせやすいし、「伝染する」という恐れを抱かせる。

キリスト教ではナザレのイエスの頃から、このハンセン氏病系の皮膚病で社会から差別されている人への積極的な支援があった。

安土桃山時代に日本に来た宣教師たちは日本では彼らへの福祉がないことを知り、だからこそ、自由に活動できる部分だったので、各地で彼らを世話し始めカトリック大名の支援を受けて病院までつくった。キリスト教のことはあやしむ為政者たちも、その活動に驚いて、リスペクトのコメントを記している。実際ハンセン氏病の人たちの多くがカトリックの洗礼を受けて、高山右近と共にルソンに追放された人たちもいる。

高山右近は最近殉教者として認められて列福が決まったのでいろいろ検索できる。

上意下達が基本の日本なので大名から改宗させるというのは宣教者の戦略ではあったけれど、ハンセン氏病患者を改宗させるというのは「戦略」外のことで、ましてや貿易上、外交上の利点があるわけではないので、純粋にキリスト教基本マニュアルに従ったものだったと考えられる。

キリスト教もヨーロッパで王権と結びついて政治や利権の道具となってきたことはお約束の展開だったが、特に独身(つまり子孫に利権や財を残すという誘惑のない)の修道士や司祭からなる修道会の活動の中では、「社会的弱者の無条件救済」という脊髄反射が温存されていたのだ。

そしてそれが凡人の共同体にとってあるいは為政者にとっていかに「不都合」であっても、福音書のメッセージの根幹であることは否定できないので少なくとも大声で公に批判されることはなかった。

この伝統は今も、基本的にすべての難民を受け入れろ、と言い、障碍者を本気で抱きしめるフランシスコ教皇の姿に受け継がれている。

難民歓迎と言うメルケル首相を批判することはできても、フランシスコ教皇の行為をスタンド・プレーだと言うのはナザレのイエスの行動を批判するのに通じるので脱キリスト教化が進む欧米でさえ抑止力が働くのだ。

まあその観点からいうと、『あん』の最後に、徳江さんが、料理のための道具を主人公に遺したこと、それを基に主人公が人生をリセットして笑みを取り戻すラストシーンは、「犠牲によって他を生かす」というキリスト教テーマに着地しているのかもしれない。

この世で自分のなりたいものになれなかったり人の役に立てなかったりしても、いろいろな形での「寄り添い」が、いつかどこかで何かの形で誰かを生かすことにつながるのだ、という示唆がある。

簡単に感動させられてカタルシスをもらえる映画でならあまり考えなくてもすむことを考えさせられたという意味では、この映画に感謝する。
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by mariastella | 2016-02-24 20:55 | 映画

ヴェルダンの戦い

2/21は第一次大戦最大のトラウマになったヴェルダンの戦いが開始されて100周年で、戦いの再現を含む大規模な記念行事が行われた。

ドイツ人もたくさん参加した。

昨年のナポレオンのワーテルロー200周年のお祭り騒ぎは、歴史マニア、ナポレオン・ファンなどの心理からも分かるけれど、ヴェルダンのように生々しいものがなぜ?

基本的には、「戦争の悲惨さを訴えて、同じ過ちを繰り返さない」というやつだ。

この戦いではドイツにもフランスにもそれぞれ30万人以上の戦死者が出て、しかもそれで戦争が終わったわけではなく、ただただ、不条理で不毛なものとなった。

これを、忘却するのではなく、また「戦勝記念」というようなナショナリズムやプロパガンダとも関係なく、その残虐さを確認、追認しようというのはある意味で特筆に値する。

それどころか、ナショナリズムの衝突が悲劇を生むことを肝に銘じるためのものだ。

少なくとも、ドイツとフランスは未来永劫もう絶対に戦争しない、という意志の確認となる。。

なぜなら、まさにヴェルダンの戦いの後でそれをしなかった故にこそ、第一次大戦が終わってからも憎悪や敵対の炎は消えず、わずか20年後には第二次大戦が始まったからだ。

ドイツとフランスは、第二次大戦が終わってはじめて、「二国間の戦争を放棄する」ことを決意した。

それがEUの前身である独仏石炭鉄鋼同盟であり、その決意にエネルギーを供給し続けるために、第二次大戦ではなく第一次大戦のヴェルダンの戦いにまで遡ってその愚かさを再確認するというセンスは悪くない。

二国の和解を固めるために、何度も両国に争われたアルザス・ロレーヌ地方(ヴェルダンはロレーヌ)にヨーロッパ評議会が置かれたのもうなづける。

第二次大戦から70年経ち、少なくとも、最初のヨーロッパ共同体を形成した国々の間ではもう「戦後」しかないとは言えるだろう。

もちろん他に新たな問題が山積みしているのだけれど、やはり戦後70年を経た日本では、隣国との関係を語る時にまた「戦前」的な言辞が飛び交っているのを見ると、独仏間の「永遠の戦後確定」はうらやましい。

おおげさにいうと、ヴェルダンの記念式典には、日本と中国がもう二度と戦争はしないという記念行事を南京でするくらいの心理的インパクトがある。

敵味方を問わず犠牲者の多さを前にして「懲りる」という学びは、たやすいようで難しい。
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by mariastella | 2016-02-22 16:48 | 雑感

教皇とドナルド・トランプ(続き)

昨日の記事でドナルド・トランプが突如教皇loveに回帰したことについて「何が起こったのか?」と書いたが、もちろんサウスカロライナの予備選のためだ。

「大統領の家系」で人脈も金脈も絶大な上にカトリックで妻がメキシコ人、ヒスパニックにも受けそうなジェブ・ブッシュが予備選を辞退してしまった。

彼はフランシスコ教皇が貧困を生む新自由主義経済を糾弾し環境破壊も金の崇拝と大企業のエゴイズムのせいだと非難したことを受けて、教皇をまっこうから批判した。

一方のトランプは、いかにもなエスタブリッシュメント・プロテスタントであるが、昨日書いたように、最初から教皇loveと言っていた。

「僕と同じように謙虚だから」とか、先日のように、朝と夜ですっかりと態度を変える(ブレーンにたしなめられたのだろう)など、あまりにもご都合主義で、わかりやすいといえばわかりやすい。

でも、それでチャラになってしまうところが、ポピュリズムの真骨頂であり、逆に、ローマ教皇というのは「神」と同じで使い勝手がいいというか選挙戦にも有効なアイテムなのだろうな。

ジェブ・ブッシュは甘かった。

フランツ・リストが、群衆というのは鉛の海だ、火には容易に溶けるが、動かすには重すぎる、みたいな言葉を残している。

トランプに容易に溶かされる群衆が、最後の局面で本当に思い通りに動くかどうかはまた別の問題である。
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by mariastella | 2016-02-21 20:45 | 宗教

フランシスコ教皇VSドナルド・トランプ

メキシコの、合衆国(テキサス)との国境に近い地帯が、中南米各地から押し寄せる移民やギャング、マフィアの無法地帯になっていることはよく知られている。

それでも世界第2の信者数を誇るカトリック国なので、フランシスコ教皇の訪問のインパクトは大きかった。

カトリックは基本的に「国境」を認めない。

貧しい者、危険にさらされている者がより富める者やより安全な場所に身を寄せるのは当然で、「弱者にキリストを見る」ことこそキリスト教の奥義だからだ。

で、メキシコから帰る便の中で、ドナルド・トランプの難民拒否(メキシコとの国境に壁を作ってメキシコにそれを支払わせると公約)を糾弾し、「橋を築くことなしに壁を作ろうとする者はキリスト者ではない」と、断言した。「投票しろとかしないとかは言わない。ただ彼はキリスト者ではないというだけだ」と。

すると、アンチ・トランプのNYデイリー・ニュースが翌朝の一面で、トランプはアンテクリストだと報じた。

トランプは怒って、

「もしヴァティカンがISに攻撃されたら教皇は後悔し、ドナルド・トランプが大統領になりますようにと祈る、と私は約束する ! 宗教のリーダーが個人の信仰を裁くなどとは恥ずべきことだ」とぶち上げた。

2年前にフランシスコが教皇に選出された時にトランプは「僕と同じように謙虚な人、似ているから好きだ」という感じにツィートしていたのだけれど。

(The new Pope is a humble man, very much like me, which probably explains why I like him so much!)

福音派プロテスタント(共和党有権者の三分の二を占める)でアンチ・カトリックの陣営はヴァティカンの巨大な壁の写真をツィートして揶揄した。


教皇はアメリカでは保守よりも民主党の方に人気があるそうだ。(各67%, 80%、1月の調査)

うーん、ここまでだけでも突っ込みどころが多すぎて何からコメントすべきか分からない。

その上、同日夜のCNNでトランプは突然意見を変えて教皇loveに戻った。

教皇はすばらしい人物で、教皇とやり合いたくない。彼のパーソナリティ、彼が体現するものを愛しているし、その役割をリスペクトする。

みたいなことを言ったのだ。

何が起こったのか?

ちなみにトランプは、父方がドイツからの移民で、母方がスコットランドだそうだ。

プロテスタントのクラシックな「長老派」で、はやりの「福音派」ではない。

自分の信仰についてこういうことを言っている。

I believe in God. I am Christian. I think The Bible is certainly, it is THE book..First Presbyterian Church in Jamaica Queens is where I went to church. I’m a Protestant, I’m a Presbyterian. And you know I’ve had a good relationship with the church over the years. I think religion is a wonderful thing. I think my religion is a wonderful religion.

神や聖書を信じていますよ、と強調することがアメリカでは必要だという20世紀タイプの人かもしれない。

それに比べると、ユダヤ人移民の子孫で無神論者だというバーニー・サンダースは20世紀のアメリカでは考えられなかったような大統領候補だ。

もっとも、無神論者だというだけではまずく、無神論なら「社会主義者」でなくては「政治的公正」が保てない。

キリスト教文化が包含していた社会政策やユニヴァーサルな福祉を、神を捨てて継承したのが「社会主義」だからだ。

アングロサクソン的なプロテスタントが任意の「慈善」の形で囲い込んだ弱者救済を、カトリックのフランシスコ教皇はメイン・メッセージとしている。

教皇ファンとサンダース支持者が重なってもおかしくない。

この選挙戦の行方を見るのは刺激的だ。
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by mariastella | 2016-02-20 01:05 | 宗教

新任イマムに期待する(?)ベルギー政府

ベルギー政府は、自国内で認可されているモスク着任する新任のイマム80人に給料を払うため330万ユーロの予算を組んだのだそうだ。(De Standaard 2/17 )

もともと認可している宗教の聖職者の活動に金銭的援助をしている国なので、フランスや日本のような政教分離国から見るとしっくりこない。

11/13のフランスの同時多発テロのテロリストがみなベルギーを拠点としていることが分かって以来、戒厳態勢もとられたし、イスラム過激派対策は強化されている。

テロリストの巣窟とされたブラッセル西部のモレンベークでは24のモスクのうち16が完全な無認可活動をしている。公認モスクは4ヶ所、別の4ヶ所は認可を申請中だそうだ。

認可されるとイマムの給料や建物の維持費が政府から払われるが、会計や伝道内容を監査される。

今回の特別予算は要するに、政府のお墨付きの中庸イスラム教を説くイマムを送り込んで、過激派イマムによる若者の洗脳や煽動を阻止しようという作戦だ。

フランスではナポレオン以来、各宗教は政府の公認する代表団体をたてて政府と交渉したり橋渡しをしたりするシステムになっている。

でも、過激派などはそんなところにもともと近づかないし、「御用宗教者」を攻撃することでますます若者を煽動することになる。しかし金は出さない。

ベルギーのように

「金を出すからうちの国のやり方にしたがってくれ」

と言ってしまった方が危機管理的には果たして有効な作戦なのだろうか。

シンガポールのような国でなら実効がありそうだけれど、小国とはいえベルギーでは通用しない気がする。

ヨーロッパが金融共同体と化して以来、政治的外交的に機能する希望が潰えている今、各国がばらばらに知恵を絞っているのを見るのはなんとも危うい。
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by mariastella | 2016-02-19 04:25 | 宗教

フランシスコ教皇とロシア正教のキリル総主教の会見の意味 (その3)

質問のメールがあったのでもう少し付け加える。

ロシア正教が東方正教最大の共同体だということを前の記事で書いた。

けれども、ロシア正教はキリスト教の歴史の中でも最大級の迫害を受けた共同体でもある。
1917年から1942年の間に600人の司教、4万人の司祭、12万人の修道士、修道女が消え、7万5千の教会や修道院が破壊された。それでも1942年にナチスに抵抗するためにスターリンは正教を必要とした。

ロシア正教はロシアのアイデンティティそのものだからだ。

なぜかというと、いわゆる西方教会は、ローマ教皇の求心力を維持するためにすべての宣教をラテン語で行ったけれど、東方教会はギリシャ語を使ったわけではなく最初から原則的に宣教先の現地の言葉を採用したからだ。そのかわり、ビザンティン帝国の政治的ストラクチャーを伝授した。

そのせいで、各国の正教が独立したのだ。

(同じ形が16世紀以降にプロテスタンティズムによるラテン教会からの離反になったのは興味深い)

でも、歴史的、象徴的には、やはりコンスタンティノープルの総主教の権威は小さくない。

だから、1960年代からローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が接近し親密になり教会一致の道を目指すようになっていたから、冷戦後のロシア総主教は穏やかではなかったはずだ。

特にフランシスコ教皇になって各地の正教会がどんどん教会一致に向かっていくので、この春にクレタ島で開かれる正教会議の前にキリル総主教がフランシスコ教皇と会っておくのは重要だった。

また、中近東のキリスト教徒たちが正教、ギリシャ・カトリック(ラテン語で典礼)などを問わず、「キリスト教徒」というくくりでイスラム過激派に殺害されたり追われたりしている現状がある。

これが「血のエキュメニズム」と呼ばれ、キリスト教諸派が分裂している場合ではないという危機感で教会一致に拍車をかけているというわけだ。
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by mariastella | 2016-02-15 08:23 | 宗教

フランシスコ教皇とロシア正教のキリル総主教(続き)

フランシスコ教皇とロシア正教のキリル総主教、ハバナの空港で3時間の会見が予定通り実現した。

正教風の木の十字架を挟んでのツーショット、彼らはずっと互いの目を見つめ合っていた。

「私たちは兄弟です」

互いのプレゼント交換も注目。

フランシスコ教皇からはキリル総主教の守護聖人である聖キュリロスの聖遺物。

これって、スラブ語聖書のためのキリル文字の原案に関わった9世紀の聖キュリロスの聖遺物 ?

ヴァティカンが所有していたのか ? 調べてみよう。

ロシア正教からは「カザンの聖母(正教風に言うと生神女)」のイコン

これはロシアの守護聖女で、16世紀に奇跡的に発見されたといわれるもの。

その後盗難だとか、ロシア革命によって外に出た後でカトリックによってポルトガルのファティマに納められたとか、共産党による売却とか、ポルトガルからの返却を断ったとか、2004年に結局返されてクレムリンに収められたとか、いろいろな説や経緯があって、今回のものがそのどれに当たるのかよく分からない。
数々のコピーも有名で、コピーに力があるのは「ルルド」などと変わらない。

聖人崇敬、特に分裂以前のギリシャ教父たちへの崇敬、聖母崇敬、などの伝統がしっかり共有されているカトリック、正教、聖公会あたりは、このような贈り物外交を工夫することでもシンボリックな「一致」を表現できて便利だ。聖遺物崇敬も共通している。
こういうツールを温存しておいた意味があるというものだ。

そして、それはキリスト教内の一致、よりはるかに重大な21世紀の政治、外交、戦争と平和の問題に影響を与え得る。

特にフランシスコ教皇やキリル総主教のようなトップがいる場合は、期待がふくらむ。。
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by mariastella | 2016-02-13 22:19 | 宗教

フランシスコ教皇とキリル総主教

今日はフランシスコ教皇とロシア正教のキリル総主教がキューバの空港で会う日。明日のニュースが楽しみだけど、一週間前に会見予定が公表されてからわくわくしている。

1054年に互いに破門しあってから、東方正教とカトリック教会は長い間互いを敵視してきて、パウロ六世時代にコンスタンティノープリ大主教と和解して破門を解き合ってからもロシア正教とだけは出会いが拒否されてきた。

ロシア正教は、15世紀にビザンティン帝国がオスマントルコに滅亡させられてから、事実上東方正教の代表格となった。信者数も一億三千万人と正教最大だし、ビザンティン皇帝の姪がイワン三世と結婚したことによって政治的正統性も受け継いだ形になっていたのだ。

共産党とキリスト教と国際政治の関係を見るとおもしろい。

冷静時代。ソ連共産党は無神論を標榜し正教を弾圧。共産主義キューバもカトリック系を弾圧。二国はなかよし。

共産圏に二つあったカトリック国ハンガリーでハンガリー動乱、ポーランドでソリダノスク運動、ヨハネ=パウロ二世に鼓舞され、冷戦が終わる。

ゴルバチョフはロシア正教に接触。「ほら、ぼくたちも、もともと由緒あるキリスト教文化圏だもんね」とアピールし正教の文化力外交力をフルに使い始める。

それでも「総主教」の権威を保つためエキュメニカルからは距離を置く。ローマ教皇との会見は拒否。

ところが、あれあれ、キューバが教皇と接触し、ついにアメリカとも和解し、ヨーロッパにもやってきた。

ロシアが支援するシリアのアサド政権と同じシーア派のイランのロウハニ大統領までヴァティカンに来て教皇に「私のために祈ってください」なんて言っている。

まさか今さらヴァティカンに表敬訪問するわけにもいかない。で、キューバで会うことに。

政治情勢とイデオロギーの対立が変遷しても、どんなに迫害されても、世界中に張り巡らされた聖霊ネットワークなのおかげなのか、なぜかいつも火種を残し、ここぞという時に「普遍宗教の輪」を回復して紛争解決のために平和のバイパスを用意してきたキリスト教はすごいし、キリル一世やフランシスコという非常に優秀で情報発信力もある霊的リーダーが活躍してくれるのは嬉しい。

ここのところ、アサド軍とロシアによる激しいアレッポ空爆の様子に暗澹としていたところなので、メルケルやオバマがプーチンと交渉してもできないことでも、フランシスコ教皇とキリル総主教を経由すれば何とか別の道が開けるかもしれない、と思えてくる。

聖霊、がんばってほしい。
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by mariastella | 2016-02-12 23:15 | 宗教

ピアノとチェンバロが一緒にバッハを弾くパリの夜

バスティーユの近くにあるCAFE DE LA DANSE に Edouard Ferlet と Violaine Cochardによるピアノとチェンバロのデュオ・リサイタル Think Bach をバロック仲間のHといっしょに聴きに行った。

Violaineが、Hがチェンバロを始めた頃5年くらいレッスンを受けていた先生であることをのぞいてなんの情報もなしに行ったので、バッハの曲のピアノとチェンバロの弾き比べかなあ、くらいに思っていたら全然違った。

Edouardはジャズ・ピアニストで、そういえばバッハの曲はよくジャズ・アレンジもされていてジャズ・ピアノとは相性がいい。

彼は楽譜をビジュアルに眺めて切り貼りしてアレンジするという独特のやり方で結果はとても演劇的だ。

ジャズピアノのタッチというのも、鍵盤を這うように動くものがあってチェンバロに近い。

今回はチェンバロの方が打楽器のように叩いたり、琴のような音を出していたり、ピアノも、ピアノ線を叩いたり、こすったり、さまざまな遊びがあった。

20年以上前、やはりHとパリの日本人ピアニストのホーム・コンサートに行ったら、ピアノ線の上にワインのコルク栓をばらまいてチェンバロ風にしたり、チベッタン・ボウルの縁をこすって音を出していたりしたのを思い出したが、Hも同じことを想起したと言っていた。

もともとジャズとバロック、特にフランス・バロック(バッハも組曲などはフランス・バロックを踏襲している)は縁が深い。(私の『フリーメイスン』という講談社選書メチエのp91-98参照)

繰り返しを嫌い即興が重要なところも似ている。

即興といっても好き勝手なものではなく和声進行など緻密な秩序の基盤にのっとっている。ヴィオレーヌはバロックの即興の名手だ。

この2人は仲がよさそうで息もあっていて、即興が半分を超える部分もある。

ラストに『展覧会の絵』の「古城」をアレンジした曲があってこれがファンタジーアニメを見ているように楽しく、後半で「古城」のテーマが出てきたと気づいた時は、意外性となつかしさにとらわれた。

Hも同じだ。25年以上前にルイ・ロートレックのアンサンブルで一緒に弾いていた時、この「古城」がレパートリーのひとつだったからだ。

私はルイといっしょに第一ギターを受け持っていたが、隣にいるルイの出す比類のないやわらかでかつ華やかな、まぶしい輝きのある音色に感心した。Hはまだ高校生だった。

エドゥアールは赤い靴を履いていて、ヴィオレーヌは黒いドレスに赤い布ベルト。
二人のビジュアルもすてきだった。

ユーモアもあって、ピアノとチェンバロの共演という珍しい企画のおかげで「ピアノ嫌いな人もチェンバロ嫌いな人も両方にきていただけました」というのもしゃれた表現だと思った。

ホールは立ち見客もぎっしりだった。

パルティ―タのジーグからはじまってチェンバロ曲集のアルマンドなど、選曲もいいし、二つの楽器の使い分けが実に楽しい。

11/13のテロの標的となった11区だけれど、夜の通りのどのカフェやレストランもテラスを含めて人がいっぱいだった。

音楽で分け合えるのは幸福感だ、とあらためて思う。
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by mariastella | 2016-02-12 22:06 | 音楽



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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