「ほっ」と。キャンペーン

L'art de croire             竹下節子ブログ

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広島の米大統領と日本の首相、ヴェルダンの独首相と仏大統領

5月29日、100年前の第一次大戦で独仏の悲惨な戦場となったヴェルダンで記念式典があった。

この地には20万発の砲弾が撃ち込まれ(1㎡に6発)、30万人の兵士が命を落とし(その中にシャルル・ペギーも入っている)、森が完全に破壊されて姿を消したという。

独仏兵士の無数の墓標が立ち並んだ前で、オランド大統領とメルケル首相が向き合った。

独仏はこの戦いの後に相手をリスペクトした対等な和解に至らなかったため、大戦の終結後20年も経たずに次の世界大戦に突入してしまったのだ。

そのような過ちを二度と繰り返さないためには、100年前の戦いにまでさかのぼって和解しなくてはならない。

この写真でハグしあう二人の姿は、もちろん政治的であり広報のためであるのだが、この2人、どちらも老練の政治家でありながら、寄り添う時はなんだか、かわいいというか、素直な善意が表面に出てくるのは不思議だ。

ヨーロッパは問題ばかり抱えているし危機的だしメルケルの強権ぶりも周知のことで、多少のパフォーマンスをしたところで「世界の平和」どころかヨーロッパの危機脱出も望めない。

それでもこういう「なごむ」絵柄になるのは二人のキャラなのだろうか。複雑な気分だ。

ヴェルダンの記念式典でもう一ついいなと思ったのは、その前日の28日にドイツとフランスの高校生たちがやってきて、現場で過去の戦争を想起しながら、意見を交換するなど共に過ごすという企画が実現したことだ。

ヴェルダンは今も、そのまま記念の地として残されていて、いまだに特定されなかったり発見されていなかったりする遺骨や遺品がある。

こういう土地では、まさにまだ「戦争が終わっていない」ので、高校生たちにはそれが見えたり聞こえたり感じたりするのだと思う。

実際そう語る高校生もいた。

こういう若い世代がこの土地でショックを受けながらも共に過ごして、これからの平和を肝に銘じるというのは本当に必要なことだ。

もう当時の兵士の生き残りなどは生存していないけれど、若者たちが集うことこそ、希望の光を灯してくれる。

それに対して、そのまた前日の27日、フランスのテレビでも、オバマ大統領が安倍首相と共に広島を訪れた映像が流されたのだが、そのような「希望」の光は気配ほども感じられなかった。

そして広島での「原爆実験」が「終戦を早めるための戦略として成功」した後での「長崎」への攻撃はどう位置づけるのだとの不全感もおぼえる。「ウラン型とプルトニウム型の両方の実験が必要だった」とはもちろん口にされない。
それこそアメリカの高校生と広島、長崎のの高校生が交流する場などが設けられていたら別だったかもしれない。


オバマ大統領が高齢の被爆者を抱き寄せる図柄
にも違和感を覚えた。

スポーツマンタイプの外見で背も高いオバマが誰と並んでも文字通り「上から目線」になってしまうのはしょうがないとしても、あの構図では、キリスト教文化圏の国から見るとまるで「放蕩息子を優しく迎える慈愛の父親」みたいに見える。

たとえ謝罪の「言葉」は政治的配慮から発しないとしても、現職のアメリカ大統領が心から「核兵器」の脅威に惧れをなし核廃絶を誓う一人の小さな人間として被爆者の前に跪いたとしたら、そして高齢の被爆者の方が大統領を抱き寄せるという構図になっていたとしたら、人間の尊厳の崇高さに感動させられたかもしれない。

80歳を超え、さまざまな健康の問題を抱えている天皇陛下夫妻が熊本地震の被災者を訪れて跪き、同じ目線でいたわりの言葉をかけている、という構図の方がよほど心を温かくしてくれる。
そこには当然だけれど「謝罪」がどうとかという駆け引きはない。

そういえば去年、鳩山元首相が韓国の抗日記念施設の前で土下座したという写真が出回っていたのを思い出す。

あれも希望のかけらもないものだった。

キリスト教的に言えば、心ら悔いればどこまでもゆるしてくれるのは神だけで、人が人から「ゆるされる」のは至難の業だ。

それに比べるとだれかを「ゆるす」方がまだ易しい。

「先にゆるす方が勝ち(すなわち和解や平和や安寧を得られる)」というのが長い目で見ると正しい。

けれども、「ゆるす」のは「ゆるさない」ことよりもはるかに難しいのだ。
でも、前述のごとく、「ゆるす」のは「人からゆるされる」よりは簡単だ。

そんなことをいろいろ考えさせられる独仏、日米の首脳の姿だった。

ただ、いくら百年前の戦争や71年前の原爆被害の教訓を新たにしたところで、問題はまた別のところにもある。

今の世界は「軍事力」の大小や強弱だけではなく、軍需産業も含めた「経済力」によって支配されている。
「経済力」による支配は「軍事力」に比べて見た目の野蛮さは少ないけれど、犠牲者は同じくらいたくさん出る。いや、もっと悲惨かもしれない。

サミット参加国のヨーロッパ勢を見ると、第二次大戦の「戦勝国」である「英・仏」は核兵器を所有し、敗戦国である「独・伊」は核兵器を持たない。
それでも経済的にトップを行くドイツが今や堂々とEUの中心国になっているのを見ても「力」のファクターが変化しているのが明らかだ。
過去にあれほど血を流し合ってきたこの4ヶ国がこれから先「軍事力」によって互いを攻撃したり支配したりするということはもうないだろう。

それでもヨーロッパには中東のテロリストが「戦争」をしかけてくるし、極東でも軍事力による脅威が高まっている。
核なし、軍備なしの戦後から、武器輸出もできて核も辞さない国へと変貌する国もある。

和解と平和を希求する人は、軍事と金の両方による犠牲者に目を向ける必要ところから出発しなくてはならない。
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by mariastella | 2016-05-31 00:20 | 雑感

あるヴァティカニストの話

ヴァティカニストと呼ばれる国際記者クラブのような存在があって、教皇が飛行機に乗る度に同行する。
機内は「国境なき教区」と呼ばれている。
ジャーナリストの中には離婚した人や再婚した人などもいるが、そのようなことは問題にされない。

教皇はそこでいろいろなインタビューに答えるのだが、その雰囲気はこれまでの教皇と全く違うそうだ。

もちろん、時には百万人単位の信徒たちの前で発せられる説教などとは比較にならず、飛行機に同行してインタビューするのは60人ほどだそうだから、規模も親密さが違う。

あるフランス人女性記者が教皇にこれまでの女性との個人的な関係を尋ねて教皇がそれにも答えたそうだ。
そんな質問は以前の教皇には絶対にされることのないものだった。

今の教皇がはじめての「新大陸出身のローマ法王」であることは誰でも知っている。

その立ち位置は、ヨーロッパのカトリック世界の目から見ると、全く異質の人種に見えるようだ。

今の教皇のパフォーマンスのうまさは、福音派の派手なパフォーマンスと対抗せざるを得ない中南米のカトリックが生存戦略として身に着けた自然体であるとか、政治的な発言をどんどんすることも「解放の神学」を実践した南米の政治状況の中で自然に身に着いたものだなどと説明されているのだ。

なるほど。意外だ。

日本人の目から見ると、「白人」であることに変わりはない。

しかもフランシスコ教皇はアルゼンチン人と言ってもイタリア移民家庭の出身だ。

前のドイツ人教皇やポーランド人教皇がゲルマン人やスラブ人だったことの方が例外に見えて、フランシスコ教皇はなんといってもイタリア系の「ラテン人」なのだから、むしろクラシックな感じがするのではないかとも思ってしまう。

でもそうではなくて、彼に比べたらドイツ人やポーランド人の方がヨーロッパの人々の目から見るとよほどクラシックだったらしい。

それにしても、そんなアルゼンチン人の教皇が、ヨーロッパ人のしかも年配者が圧倒的に多い枢機卿たちによって選出されたのだから、聖霊民主主義というのは侮れない、とあらためて思う。
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by mariastella | 2016-05-30 02:43 | 宗教

ファティマ第三の秘密

退位して3年になるベネディクト16世(以下B16)は、なかなかそっとしてもらえない。

聖週間には(蝋燭の火が消えるように)ゆっくりと弱りつつあるなどと言われた(特別秘書のゲオルグ・ゲンシュヴァインのインタビューの言葉)で心配させられたし、その後、帰天の偽情報もTwitterで出回った。

89歳になったばかりで、後ひと月で叙階65周年になるB16は、この土曜、5/21に、

「ファティマの三つの秘密はすべて発表された、四つ目はない」という声明をわざわざ出した。

ファティマの秘密というのは1917月ポルトガルのファティマで羊飼いの子供たちに現われた「聖母」が語ったお告げのうち、教皇にのみ伝えられたというもので、1960年までは公にしてはならないと聖母に口止めされていたと伝えられる。

結局、2000年の6月26日に、後のB16となる教理省長官ラツィンガーが、ヨハネ=パウロ二世(JP2)の指示によって「発表」した。

確か1981年のJP2の暗殺未遂の「予言」だったというようなことに落ち着いた。

ところが、2015年の聖霊降臨祭に、ある英語のサイトに、別の秘密があったという記事が出た。

ブラジルで神学を教えていたIngo Dollingerというドイツ人神父が2000年に、第三の秘密公表の数日後、ラツィンガーと会った時、第三の秘密には「発表した以上のものがある」こと、その隠蔽された部分というのは「間違った公会議や間違ったミサ」についてのものだったと聞かされたと述べたというものだ。

その後ヴァティカンは直ちにこのことを否定している。

それなのに、それから1年も経った今、B16が自ら、そのことを「純粋な作り話、まったくの誤り」としてイタリア語、英語、スペイン語で発表しなくてはならなかった。

実はそのサイトというのは、第二ヴァティカン公会議を認めずに離反、破門されたルフェーヴル派のアメリカ支部の« One Peter Five »というものだ。

B16は、Ingo Dollingerとファティマの話をしたことはない、第三の秘密については2000年に発表したものが完全ヴァージョンだと断定している。

ルフェーヴル派が、聖母の言葉を借りて、第二公会議やラテン語でない新しいかたちのミサなどの正当性を批判しようとしている意図は分かりやすいけれど、今になってこういうことを言いだしたのは、Ingo Dollinger神父もB16ももう何も反論しないだろうと高をくくっていたのだろうか。

DollingeはB16より3歳ほど若いようだが、彼の立ち位置はよく分からない。
道徳神学を教えていたそうだ。
同年配のドイツ人同士ということで、「打ち明け話」をするということにも信憑性があると思われたのだろうか。

それにしても、公の場からは完全にリタイアし、「ゆっくり消えつつある」などとさえ言われるB16がわざわざこんなコメントを出さなければいけないというのは気の毒だ。

特定のドイツ人神父による情報、などという書かれ方をしたからやはり自分が生きているうちに自分の言葉で否定すべきだと判断したのだろうか。

私はB16のファンだ。

その理由はサイトの「B16について その2」 などで書いている。

最初に好きになったのは、別のところで書いたことがあるが、TVの、ドキュメンタリー番組で、彼がピアノの前に座りモーツアルトを弾き出した時に、無造作に、教皇の指輪を取り外してピアノの上に置いたのを見た時だ。
私も楽器を弾く時に腕時計や指輪をつけるのが好きではない。
教皇の指輪のように重そうなものは絶対に外すだろう。

それ以来(他の人が「悪人顔」などと評しても)、外見も可愛らしくしか見えず、ずっとファンである。
今年60歳になるゲンシュヴァイン(今もすてき)がずっとそばに仕えているのを知ってほっとする。

それにしても、「聖母出現」などの「奇跡」を認定してしまうカトリック教会、その「秘密」や「予言」は陰謀論者やらなんやらの手によって都合よく増幅されたり改変されたりしながら、ウェブ世界を席捲していく。

ウェブに垂れ流されるデマは別にしても、『ダヴィンチ・コード』のような今は懐かしい「トンでも本」もあった。

ユダヤ教、キリスト教を通して「古来秘められていた秘密」が「暴露」されて世界を震撼させるというようなテーマのミステリーは後を絶たない。

最近のもので私が唯一気に入っているのは、そして最新の考古学の成果を踏まえた情報の確かさと豊富さですばらしいのは『シャルトルの啓示』(クリストフ・フェレ)だ。

「秘密」の内容や解釈はフィクションなのだけれど、結末に「希望」があるのがいい。

ファティマのお告げに対するヴァティカンの態度にも表れているけれど、ネガティヴなばかりの予言、人を恐れさせ、震撼させるばかりの予言は「福音」の精神に反する。

たとえ、「聖母」が嘆き、悪魔の業を予告し、回心や改悛ばかり訴えているように見えても、その先には「希望」の光が射していないと本物ではない。

「本物」のお告げや予言は、その先にある光に向かって歩いて行く選択と自由を残しているもの、うながしているものでなくてはならない。

前例のないB16のリタイアも、そういう光を与えてくれたものだった、とあらためて、思う。
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by mariastella | 2016-05-23 03:21 | 宗教

聖職者と平信徒、女性「助祭」問題について

どこかの国の大統領候補などとはもちろん次元が違うけれど、フランシスコ教皇も時々、本音なのかジョークなのか分からないようなことを非公式に近い場所でもらす。

教勅や説教や外交辞令の中などでなくても、片言隻句が注目を集めるのは承知しているはずだから、別に口がすべったというのではなく、周到に用意され、その反応を観察、分析しているのだろう。

最近注意をひかれる言葉がいくつかあった。

5月9日、フランスのカトリック日刊新聞のインタビューを受けた中で、

教会の危機のひとつは聖職者主義です。司祭は信徒が聖職者になることを願い、信徒も聖職者になろうと願います。ブエノス・アイレスでは多くの良き司祭が、能力ある信徒を見るとすぐに「彼を助祭にしよう」というのを聞きました。いや、そんな人は信徒のままにしておかねばなりません。ラテン・アメリカで聖職者主義は特に重んじられています。けれど、ラテン・アメリカで民衆が信心行にあれほど熱心なのは、まさに、それが聖職につかない信徒にとっての唯一のイニシアティヴだからです。そのことを司祭たちは気づいていません。

と言っているのだ。

「助祭」とは、司祭になる準備期間の場合と、終身助祭のふたつがある。
フランスの地方では司祭が少なくなっているので、終身助祭を必要とされて任命される教区が少なくない。

助祭は聖餐式はできない。パンとワインがミサの中で実際にキリストの体と血に変わるという「聖変化」の儀式ができるのは司祭だけだ。でも、その他の結婚式、葬儀、説教、洗礼などたいていのことはできる。

ところが、その3日後の5月12日、世界中の女子修道会900人のリーダーが集まった前で、女性助祭の問題について質問を受けた教皇は、「女性助祭の可能性について検討する委員会を設けることに賛成だ」といって驚かせた。「教会がこの問題について明快にするのは良いことで、委員会は有用だと思う」と。

カトリックにおいて女性が司祭になれないのは、「聖書」、「伝統」、事実上の「教皇の無謬性(ヨハネ=パウロ二世)」の三重の壁によって確定している。

でも女性の「助祭」は存在していたことがあって、古くはパウロが『ローマの信徒への手紙16,1-2』に

「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。
どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。」

と書いていることがいつも引き合いに出される。

教皇は、ラテン・アメリカでの聖職者主義を批判しているが、同じインタビューで、韓国のカトリックのことに触れて、宣教師が中国に戻った後で二世紀に渡って韓国が信徒によって福音化され続けたことを挙げ、

「福音宣教するのに司祭が絶対必要だとは限りません。洗礼が福音宣教の力を与えるのです。洗礼によって授けられた聖霊が、キリスト教のメッセージを勇敢に忍耐強く伝えることを促します。」

とも言っている。

両方合わせて聞くと、なかなか含蓄があるのでは。
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by mariastella | 2016-05-22 04:16 | 宗教

ライシテと「原罪」

カトリーヌ・キンツレールと言えば、ラモー好きの音楽家にとっては特別の人だ。

ラモーを研究し始めた最初の頃からの一番信頼のおける著者なのだが、彼女はフランスの政教分離(ライシテ)の専門家でもある哲学者だ。

最近読んだ彼女のライシテとイスラムについての記事は、マルセル・ゴーシェなどの反対の路線で、とても分かりやすかった。全面的に賛成だ。

ライシテには二つの原理がある。

一つは、政権担当者とそれに連なる機能を行使している者(公務員など)は、いかなる宗教も特別扱いしてはならないということで、
もう一つは、それ以外の一般市民は信教の自由を「信じないこと」も含めて自由に生きることができることだ。

だから、政府との対話に特化した宗教の代表を立てることは(ナポレオンが始めた管理法だが)ライシテに反しているし、そこにおける調整で、どの宗教もみんな平等にとか、モスク建設の援助をするなどもってのほかである。

一方、各宗教者や信徒がそれぞれの実践を公的な場所で行うのは自由であり、その安全は守られなくてはならない。

ただし、過激派のイマムがテロを煽動する、ヘイト・スピーチや差別的言辞があるなど、反社会的、反共和国的な言動や実践があった時は、1905年法によって十分とりしまることができるし、対処しなければならない。

それだけの話だ。

とても明快なので、いつもながらの「猫との生活」への適用で考えてみた。

異種共生とか、ハンディキャップの問題とか、生産性とか老いとか病とかを考える時、いつも「猫たちを愛して共に生きることで救われている」日常によってインスパイアされているからだ。

自分の子供なら障碍があったり、自立できなかったりなどの問題はつらいだろうけれど、猫なら一生面倒を見なくてはならないのにそれが重荷だとは思えず、それぞれのあり方に応じて楽しく共生できることの実感は、貴重なものだ。
多頭飼いというのも重要ポイントだ。
それぞれに違うし、互いに仲の悪い猫もいる。

私は犬を飼ったこともあるので犬との関係性も容易に想像できる。

で、年齢も種類も異なる犬数匹、年齢も性格も異なる猫数匹と暮らしているのを想像する。

私は「政権担当者」だ。

だから絶対に彼らを「差別」しない。
平等に扱う。
(犬は実はフランス型の「統合政策」に向いている。こちらの価値観、習慣、要求に合わせて「飼いならす」ことができる。)
でも、そこはライシテ、犬も猫も、それぞれの特質を無理に変えることはできない。
命令に従えない猫もリスペクトする。

けれども、たとえば電気のコードを齧るなど、共同生活にとって絶対脅威になることや彼らの一員の命の脅威になるような行為は取り締まるし、予防の対策もたてる。
それ以外は基本的には最大限に自由にさせる。

政権担当者の最も大切な仕事は彼らの「快適な生活」の保証のために「奉仕」することである。

「公僕」というやつだ。

うむ、納得できる。

では難民問題は?

突然動物愛顧センターから、虐待された犬や猫を引き取ってくれと頼まれる。あるいは自宅の庭に捨てられた猫や傷ついた猫が迷い込む。

出来ることなら「我が家の子」として迎え入れてあげたい。

少なくとも、里親としてとりあえずの安全を確保して世話をしてやりたい。

でも、うちにそんな余裕があるだろうか?

先住の犬猫にストレスや伝染病や寄生虫をもたらすのではないか。
隔離して世話するキャパシティが自分や住まいにあるだろうか。

うーん、そこはやはり、情動だけで受け入れるのではなく、何が本当にできるのか冷静に考えなくてはいけない。
愛護センターに寄付するとか、里親のネットワークづくりをするとかの方法もある。

ああ、しかし、犬猫の他に、血を分けた人間の幼児とかも一緒に暮らしていたらどうなるだろうか。

やっぱり「自分の子が別格一番」、と血縁で優先順位をつけたり、見た目で動物種差別をしたりするのだろうか。差別しない自信がない。

極右の煽動に賛同してしまう人の心理もなんとなく分かる気がする。

と、ここまで、天下国家のことを「自分ち」スケールに落とし込んでシミュレーションしていたのだが‥‥。

テロ対策や侵略戦争などのことにまで仮定が広がると、「シミュレーション、無理」という壁に突き当たった。

さまざまな障碍や、見た目の違いや、老いや病気の問題や、それぞれが違っても快適に生きる権利、などというテーマなら十分に展開できるのだけれど、テロは無理だ。

犬も猫も、善良すぎる。
虐待されて人間不信になったり、互いの相性の良し悪しとかはあったりしても、「憎しみ」や「悪意」はない。

それらのもとになる「絶望」もない。

なぜ、人間だけが動物として変な方向に倒錯しているのだろう。

ひょっとしてこれが、「原罪」というやつなのだろうか。

というわけで、犬猫との共生をイメージしたマイ・「ライシテ教室」は、自分の中で早々と閉じてしまった。emoticon-0101-sadsmile.gif
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by mariastella | 2016-05-20 00:27 |

2拍目はノーマンズランド

6月に弾くラモーの『カストールとポリュックス』の中のAir Gracieuxを練習していて、いつもながらラモーに驚く。

一見無邪気に機嫌よく進んでいくようで、繊細な仕掛けがあちこちにあって、人の持つすべての感情が複雑に想起されるようになっている。

あまりにも芸が細かいので混乱させられるくらいだ。

またこの曲は弱起の三拍子なのだけれど、どう扱っていいのか分からない二拍目が多い。

三拍目が一拍目を導入するためにある、というのはよく分かり、三拍目と一拍目の関係は有機的なのだが、二拍目が時折りNo Man’s Landになっている。

ズンタッタ、ズンタッタ、といういわゆるワルツからは、かけ離れた不思議な世界だ。

そのラモーとは対極にある、6月のジル・アパップとの共演のアメリカン・フォークな曲、ついでだから、ギターやピアノの生徒らにも参加させて発表会で披露することにする。10歳から84歳まで。

でも、私たちにはどうということのないシンコペーションが、多くの生徒にとってはそう簡単ではないことが分かった。しょうがないからアレンジする。

難しいのはテクニックと言うより、人前で弾かなくてはならないと思って練習する時の、曲との距離感、つまり距離の取り方なのだとおもう。普通にハミングする時には無意識にしていることでも、楽譜を前にしたり他の楽器が違うパートを弾いていたりすると途端にパニックになる生徒が多い。

複数で演奏する時に頭と心をどこにもっていくのかは不思議な問題だ。全体を俯瞰して聴衆のように見て聴くのか、指揮者のようにひっぱっていくのか、全体の一員としての分をわきまえるというか自分のパートの近くにとどまっているのか、平常心で練習を思い起こすのか、成功体験を想起するのか、困難のトラウマをひきずるのか、そのどこに自分を位置づけるのかを見分ける視線をもてるのか。

長年弾いているトリオの仲間とは、最初の一音からすぐに入っていける共通のプラットフォームみたいなものがあるのであまり悩まないけれど、生徒のためらいやらパニックやらを前にすると、どういう方向に向けてやればいいのか、いつも考えさせられる。
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by mariastella | 2016-05-19 02:26 | 音楽

『地下室のメロディー』のギャバンとドロン

映画を観ていて、俳優の年齢と自分の年齢で見方が変わるということを前の記事で書いたが、先日TVで『地下室のメロディ』(アンリ・ヴェルヌィユ)を本当に久しぶりに見て、また感慨深いものを覚えた。

1963年公開のこの映画はジャン・ギャバンとアラン・ドロンが最初に共演した犯罪映画だ。

若い頃のドロンって犯罪映画がよく似合う。

で、この映画とか『太陽がいっぱい』とかは、私が中学生時代くらいに同時代的に観たものだ。

その時のジャン・ギャバンはすでに「年より」のカテゴリーの人間として私にインプットされていた。

今思うと、1962年の撮影時のギャバンは、58歳でしかなく、今の私より若いのだ。

でも老け顔だし、こういうキャラなのだからたとえその前の映画を観ても「年配者カテゴリー」に入れていたと思う。その上、ギャバンは私がフランスに住むようになってすぐに亡くなったので、「同時代性」はない。

それに対して、ドロンは今年81歳になるが、別に知り合いではないけれど、この40年を同じ国で同じ言葉を話して共に生きてきた同時代人という感じがある。

だから今のドロンを見ても、「81歳のおじいさん」というカテゴリーには入らず、『太陽がいっぱい』や『地下室のメロディー』の美男チンピラが年齢を重ねてきた姿、に見えるのだ。

今はビデオでも何でもあるけれど、昔は一般人の子供の頃とか若い頃の姿などは古い写真や無声の8mmフィルムでしか見ることができなかった。
今はもういない自分の家族や、もうお互いに年を重ねた友人たちの声やしぐさなど若い頃の姿は「思い出の中」にあるだけだ。

それなのに知り合いでもない映画俳優の姿は、実際にあったことがなくても、今でも昔の映画の中で話しぶりやしぐさを追認できる。それと共に、懐かしさや時の経過による変化などをたっぷり味わえる。

それにしても、若い頃のドロンの美貌というのは今見ても独特のものがある。

この『地下室のメロディ』の役にしても、はじめはジャン=ルイ・トランティニャンが予定されていたのに、ドロンが無給でいいから、と自薦したのだそうだ。そのかわりに中国、ロシア、日本への配給権をもらい、すぐに日本語字幕を作成して日本にプロモーションに行って大ヒットしたのだそうだ。

なんだかすごいマーケティングのセンスのあるエージェントがついていたのだろうか。

もともとスポンサーがアメリカ資本のMGMで、監督のヴェルヌィユとシナリオのモシェル・オディアールと主役ギャバンの三者による作品を三本制作という契約の中のひとつで、アメリカでは無名のドロンには食指が動かなかったのだという。

このころの映画を最近になって見るといつも思うのは、登場人物がいつでもどこでもタバコを吸っていることだ。それを別にしたら、昔日本で字幕で観たフランス映画を今フランス語で細かいニュアンスまで全部理解できるというのはいつもながら新鮮だ。

台詞があまりにもよくできているので、これを字幕で観ていた時っていったいどういう風にインプットされていたのだろうと不思議だ。

その中で非言語的なテーマ音楽だけが強烈にノスタルジーをそそる。

内容はと言えば、最初のシーンで1960年代に、パリ近郊に多くの集合住宅の建築ラッシュがあったことを思い出したり、今ちょうどカンヌ映画祭開催中なので、犯罪の舞台がカンヌのカジノであることなどに親近感を覚えたりする。

アラン・ドロンの映画デビューが、職を探していたドロンに「そんなにハンサムなのだからカンヌ映画祭の時に浜辺を歩いていればきっと誰かから声をかけられるよ」と言った人がいて実際そのとおりになったというエピソードも想起される。

彼は別に私の好みではないけれど、さぞやオーラのある美貌だったのだろうと、この映画でも想像できる。

私が子供の時にピアノのレッスンに通っていた近くの商店街に「貸本屋」さんがあって、『映画の友』という雑誌をよく借りていた。

兄から、「世界一の美男がアラン・ドロン、世界一の美女がエリザベス・テイラーとされている」と聞いて、なるほどいつもこの2人の写真が載っていたのを眺めていたことを思い出す。

その2人のうち、エリザベス・テイラーは私にとって最後までヴァーチャルで、スクリーンの上の人、雑誌のグラビアの「外国人」だったけれど、何十年も同じ国に住むアラン・ドロンは、いろいろなインタビュー記事やラジオやテレビで肉声を聞いているうちに「昔から知っている人」みたいな存在になるとは本当に不思議だ。

で、映画としては、よく言われるように、ドロンとギャバンの台詞が一切ない最後の数分のためにあるようなもので確かによくできている。

2時間も犯罪者に付き合わされると彼らの計画が成功するのを期待する気持ちになるので、どうして別のカバンを用意しておかなかったのかなどとつっこみたくなる。

最後のシーンの無情感、不条理みたいなもののインパクトはすごいし、あそこでどんなにパニックになったとしても、カバンをプールに投げ込むというのだけはあり得ないだろう、という最大のつっ込みはなぜか浮かんでこない。

そのことが、演出の力と若きドロンの名演とを最も雄弁に語る。
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by mariastella | 2016-05-18 02:09 | 映画

François Desagnatの『Adopte un veuf(男やもめと暮らす)』。

芝居に続いて、フランスらしい映画を観に行った。

François Desagnatの『Adopte un veuf(男やもめと暮らす)』。

主演がアンドレ・デュソリエというのが好みだ。

役者としても好きだけれど、最近、自分の周りにいる男たちと同年輩の男が主人公である映画に興味が湧く。

若い頃には「70歳の男」というのは祖父とか父親のカテゴリーの他者だった。

今私の周りにいる60代から70代の男たちの多くは、若い頃から知っている人たちで、「70歳の男」ではなく「70歳になった男」である。だからデ・ニーロの『マイ・インターン』だの『ニューヨーク眺めのいい部屋売ります』などもおもしろかった。

もっとももそんな映画でも、ヒロインの方は若いことが多い。
それは嫌ではない。私は脳内オッサンの部分があるのでどうせスクリーンで眺めるなら若くて好みの女優を見たい。自分のことは外から見えないので、自分も「高齢者になろうとしている元若い女性」だという認識はないし、昔から知っている同年輩の女性たちもみなまだ若くてきれいに見えるので、「年を重ねたことによる哀愁」というのは感じられない。

でも、男たちの哀愁は時々半端ではない。

この映画の主人公であるリタイアした産婦人科医のように突然伴侶に先立たれた男はなおさらだ。
産婦人科医であるのに妻が子供を持てない身体だったという設定もむなしさや寂しさを加える。

そこに登場する気のいいパン屋の女性や、底抜けに明るい女子学生や根暗の女性看護師など、こちらは誰も私の好きなタイプの女優はいないのだけれど、彼女らのデリカシーのなさやエネルギーが傷心のやもめに少しずつ命を吹き込んでいく。

ひとりで広いアパルトマンに暮らすユベール(デュソリエ)のところに転がり込む女子学生役のBérengère Kriefはいわゆるお笑いの舞台芸人でパワフルだが、その過活動ぶりが演技なのか天然の持ち味なのか分からない無邪気さを併せ持つ。

予定調和的な筋運びのコメディなのだけれど、ユベールは、この「はれた惚れた」で暮らす若い人たちの間で別世界の人間のような立ち位置になっている。
まさに、「70歳のやもめ」でしかなく、決して「70歳になった男、やもめになった男」、ではないのだ。

私の目にはユベールが過去も含めた「男」に見えるので、その断絶ぶりが不自然なくらいだった。

デュソリエの作品を自分も彼も若いころから同時代的にたくさん見てきているからそう思うのかもしれない。

今カンヌ映画祭の最中で華やかな話題があふれているけれど、当分は映画も見ないでまじめに仕事をすることにしよう。
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by mariastella | 2016-05-17 00:14 | 映画

Jean-Luc Jeener の新作『Le tyran juste公正な独裁者』

少し日本に滞在した後でフランスに戻った時、それが本当に実感できるのはフランス語の芝居や映画を観た時だ。フランスとは、フランス語なのだなあと思う。

で、お気に入りのJean-Luc Jeener の脚本監督の新作『Le tyran juste公正な独裁者』を、いつもの劇場(le Théâtre du Nord-Ouest)に観に行く。

いつもながら身につまされる哲学的なテーマで、役者がまた素晴らしい。

それなのにいつもながら観客は少なく、10人の役者に対して観客は8人。
上演キャンセルされても不思議ではない人数だ。

中心人物であるヴァンサン判事のBenoît Dugas、続けて2時間以上を出ずっぱりの大役だが素晴らしい。
「悪の化身」を演じるValentin Terrerの倒錯的な迫力も尋常ではない。
「専制君主」役のPierre Sourdiveの中途半端な人間味も興味深い。

話は政治SFという感じだが、オーウェルの小説のようなカリカチュラルなものではない。
長い間の戦争が終結して荒廃からの再建途上にある国が舞台だ。

戦争の終結に成功し国の統一を果たした「絶対権力者」が、国中の監獄が満杯なことを憂えて、国の再建のために監獄を空にすること、そのためには、法や正義や裁きの概念を変えて、「罪を裁かずに人を裁く」方針を決める。
そのための「判事」を、戦争で多くの人を殺して今は売れない画家になっている元軍人ヴァンサンに一任する。

「どうして自分のように罪深いものを ?」というヴァンサンに、「君は絶対に自分のしたことを自分でゆるせないだろうから、他の人にはミゼリコルド(慈悲)を向けることが可能だと思うからだ」と独裁者は答える。

人を裁くことにおける基準は「良心」である。
「権力は擦り減るが、良心は留まる」と独裁者は言う。

で、それから、検事も弁護士も他の判事も上告の可能性もなし、ヴァンサンの判断ひとつで、「罪を犯した者」たちには、決して収監されることなく、殺されるか釈放されるかの二択の運命が待つことになる。

ヴァンサンは、独裁者の暗殺を企てて次の日に処刑が決まっている若い男を独房に訪ねて共犯者と共に解放する。そのことで彼のエネルギーを国の再建に向かわせることを期待したのだ。

路上で女性のバッグをひったくった男を逮捕した時は、男が「自分はやっていない」と抗弁したことを受けて死刑を決める。バッグを盗んだことではなくてそれを悪いと思っていないこと、認めないことが、「存在に値しない」のだ。

夫をチンピラに殺された妻が、チンピラの処刑を求める。チンピラは自己弁護する。ヴァンサンは、妻にピストルを与え、「それなら自分で撃て」という。一瞬迷った妻が本気で引き金に手を駆けると、ヴァンサンは「それは正義ではなく復讐だ。復讐は悪だ」といって妻の方を処刑する。
呆気にとられ、おののいたチンピラは「それは不条理だ、ひどい」と言うが、釈放される。
「その罪悪感を一生抱いて生きるのがお前の罰であり、お前はもう二度と人を殺さないだろう」というのが釈放の理由だ。

そのような場面が続いた後で、ヴァンサンが監獄は空になったと独裁者に報告する。

独裁者は戦争中に敵の子供を焼いて食った「悪の化身」のような男ピエールの消息が分からないので調査してくれと依頼する。

捕えられた「悪の化身」の独房をヴァンサンが訪ねる。

男は『クレーヴの奥方』を熱心に読んでいる。(これはサルコジ時代に話題になった教養主義の否定を示唆しているのかもしれない)。

この後で、それまで絶対に喜怒哀楽を示さない「専制君主の忠実な道具である官僚」であったヴァンサンが、独裁者の一人娘を育てて監禁しているという事実を知らされて動揺するなど、心理戦が延々と繰り広げられる。

それまで機械のように冷たかったヴァンサンが呻吟し、苛立ち、化粧して性別不明な「悪の化身」ピエールが優位に立つ。

その後、娘の命をめぐりストーリーが釈放されたピエールを執拗に追い回すヴァンサンの姿と共に展開する。

このあたりのまとまり方が少し苦しい。

結論のひとつは、ミゼリコルド(慈悲)によって赦す心と良心だけでは人間の事象は解決できない、ヴァンサンに欠けていたのはcompassion、つまり同情、共に苦しむ心だというものだ。

公共善と公共の秩序との関係も大きなテーマだ。

争いごとを扱う時、もとより不完全な多数決によるよりも、賢者の独断の方がすぐれているのではないかという永遠の問いもある。

閉幕後、Jeenerには会えなかったのだけれど、帰途につくBenoît Dugasに会ったので、このテーマってプラトンの「哲人王」を連想させませんか、と尋ねたら、「哲人王」のことは知らなかったと言われた。

賢者の仁政を期待するというのはもともとオリエンタルな心性に属すると思われるが、独裁者(専制権力者)と「公正、正義」とが両立するのかどうかというのは、今の国際社会のタブーの領域となっている。
人間中心主義に拠ることで逆に人間の不完全さ危うさを知り尽くしてしまった西洋近代の諦然や自戒もあるのだろう。

苦しく残酷な戦争を経て「平和を勝ち取る」形となった権力の掌握者が、最初は国の再建のために犠牲を払い、人々にもそれを求めるうちに、何かが変質していくというのは、歴史が繰り返し語っているものだ。

レジス・ドブレがチェ・ゲバラとフィデル・カストロのことを

「夭逝すると聖人になるが長生きすると怪物になる」

と形容したのを思い出す。
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by mariastella | 2016-05-16 00:08 | 演劇

ロンドン市長サディク・カーン

パキスタンからの移民家庭の出身のサディク・カーンがロンドン市長になったことについてのフランスの反応はおもしろい。

多様なイギリス社会のシンボルだというものもあるが、西洋型の世俗的民主主義の理念を完全に体現している限りで是認されているのだから実は多様などではない、という人もいる。

彼は両親の五人目の子供でイギリスで生まれた最初の子供だとも紹介されていた。
ムスリムであるけれど戒律を守っているわけではないしその例が同性婚に賛成の立場であるということも特記されていた。人権派弁護士でフェミニストでもある。二人の娘もイスラム・スカーフはつけていない。

フランスで「モロッコやアルジェリア移民の子孫のムスリムがパリ市長になる」のとはかなりニュアンスが違うかもしれない。

パキスタン人はアラブ人ではないからだ。

フランスではアラブ人であるということとムスリムであるということとがセットになって偏見や差別のもとになっている。

ヨーロッパに長く住む日本人の目から見ると、サディク・カーン氏の身長が165センチだとわざわざ記されている記事があったのも気になった。

実際、写真を見ても小柄なのが分かる。

共同体の首長になる政治家には、姿や声、話し方やファッションも含めた「見た目」のパフォーマンスが重要なことは言うまでもない。

イギリスと言えばアングロ・サクソンがマジョリティの国で、リーダーは「背の高い白人」をイメージしてしまうので、そんな中で「小柄な外国人」なのにリーダーとなるカーン氏はよほど優秀な人なのだろう。

これは一般に男性より身長の低い女性が首長になった場合のハンディともつながる。

いわゆる白人がマジョリティの国にいる日本人としては、たとえば、アメリカで「日系人が大統領になる」というのを想像した時に、政治家としての資質とは別に、その人がアメリカ育ちらしい堂々とした体躯の人だったらいいなと思うような気がする。

ペルーの元大統領のフジモリ氏もバランスの取れた外見だった。

フランスの前大統領のサルコジは任期中ずっと「チビ」だとさんざん嘲笑されてきた。
もちろん敵を作るタイプの人だったこともあるが、そのからかわれ方は、サルコジが嫌いだった私から見ても気分が悪くなるものだった。
体重や肥満度などならともかく、身長などという自分の力でどうにもならないことで悪趣味に嘲る方の人格が疑われる。
それでもサルコジと大して変わらない身長のオランド大統領やロシアのプーチン大統領らがからかわれることがないのだから、本当に問題にされているのは身長ではなく、別のものなのだろう。

それでも、「西洋人」の中の個人差はスルーできても、他民族だとか「移民の二世」だとかがリーダーになる場合、「見た目」がハンディになり得ることが十分あり得ることは、「女性」がリーダーになる場合と同様だ。

フランス語に「plus royaliste que le roi」(more royalist than the king)という言葉がある。

サディク・カーンはヨーロッパ主義者だ。アンチBrexit(EU離脱)を表明している。

政治や経済の観点だけではなく、ヨーロッパが成立した時の理想や理念の一番いい部分にまだ絶望していないのかもしれない。

こんな人がロンドン市長になれたということで生まれる希望も、確実にある。
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by mariastella | 2016-05-15 18:17 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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