L'art de croire             竹下節子ブログ

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ユーロ杯とヨーロッパ事情

サッカーのユーロ杯の準々決勝が始まり、佳境に入ってきた。

前にも書いたが私はサッカー観戦には興味がないのだけれど、近頃のヨーロッパ事情とサッカー・ナショナリズムを観察するのがおもしろい。

今回圧倒的な強さを見せているベルギー・チームなど、この国の監督ってワロン(フランス系)なのかフラマン(フランドル系)なのか、チームの共通語とは何か、などと、日頃、例えば役所でフランス語使用を禁じるフラマン系の町などのニュースを見聞きしているので興味津々だった。でもメンバーの構成を見てみると、一昔前とは全く違ってグローバル化(?)していて多様化しているのが分かった。

でもその「グローバル化」は、結局、「金になる強い選手に金が集まる」という新自由主義経済の流れと連動しているものなので、別にヨーロッパが人種差別や植民地主義を乗り越えたユニヴァーサルな世界になった、などという話ではない。

実際、月1億円と言うような法外なサラリーを所属クラブから得ているスター選手など、当然クラブでの活躍が優先するので、ユーロ杯やワールドカップの時にだけナショナルチームでプレイするのにベストコンディションでなかったり、チームワークに努力するというモティヴェーションがなかったりしても不思議ではない。

そのようなスター選手がいないアイスランドがチームワークとパッションでイングランドなど強豪を倒して、それが新鮮な感動を呼んでいるのは、金権社会にうんざりしている人々の空気を反映している。

フランスとイングランドが対戦することになっていたら、イングランドのフーリガンの暴力的逸脱に加えて、いろいろな低レベルの政治的揶揄の応酬があったかもしれないけれど、フランス対アイスランドになって、なんだかフランスは優しい空気になっている。

たとえ負けても低俗なナショナリズムが刺激されることはないだろう。

なぜなら、フランス自身、今回、スター選手のベンゼマなどをナショナル・チームに入れないという選択をしている。若手を多く起用した。

大金がもたらすモラルの不在がチームワークを乱すことが分かっていたからだ。

このようなハイ・レベルでの戦いは、個人の力よりもチーム全体のメンタルが重要になるのは当然だ。

サッカーが低所得層にとって社会的レベルアップの手段の一つであることは事実だ。けれども、そこに普通でない大金が動くので、人間としての成長や責任感が養われないまま妙な立ち位置に留まる選手がいることが、若い世代に悪影響を与えるという認識が、フランスで生まれつつある。

そこにアイスランドの健闘が加わって、スポーツのあるべき姿、のような空気がわずかだけれど醸成されているのだ。アイスランドがEU加盟国ではないのも楽しい。

今夜はポーランド対ポルトガルだ。

イギリスにはポーランドがEUに加わってから、なんと90万人のポーランド人コミュニティができていて、今回のEU離脱キャンペーンにあたって多くの嫌がらせを受けたという。

フランスでも、確かに、EU加入の後「ポーランドの配管工」というステレオタイプが生まれた。

ポーランド人は語学に優れているし、何をしても優秀でしかも安いというので「フランスの配管工」の生活を脅かすという話だ。

でも、それも、今では全く耳にしなくなった。

フランスはもともとポーランド人の移民が多かった国だ。

第二次大戦もポーランドを守るために立ち上がったという名目がある。
ポーランドがEUに加入した時、ポーランド人のローマ教皇がいた。
そして、そのようにローマ・カトリックの伝統のある国であることも手伝って、結婚のハードルが低い。
キュリー夫人の昔から、ポーランド人とフランス人の結婚はたくさんある。

同じ理由でイタリア、ポルトガル移民ともすぐに混ざってしまう。
政治的にも国際結婚へのハードルが低く二重国籍も認められている。

逆に言えば、イングランドに大量にやってきたポーランド移民のコミュニティにとっては、イングランドとの同化のハードルが高かったのだろう。

ユーロ杯にはEUに加盟していないアイスランドの他にやはりEU外で独特の立ち位置を維持するノルウェーやスイス、地政学的にいつも微妙なトルコ、ロシア、ウクライナが参加している(そういえば今回、トルコの空港の大規模テロの後、丸一日後にもう空港が通常営業しているというニュースに驚いた。ベルギーとはえらい違いだ。この速さはどう解釈したらいいのだろう)。

これから決勝までのいろいろな言説を分析して、それを夏のリオのオリンピックで、ワールドワイドなナショナリズムとポピュリズムの展開の仕方と比較できるのが興味深い。
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by mariastella | 2016-06-30 19:32 | フランス

精神の健全さとは その13

前回からの続きです)

13.徴候性へのある程度の感受性を持つ能力

 「疲労感、余裕感、あせり感、季節感、その他の一般感覚の感受性」などの身体感覚をキャッチする能力。それらはまず徴候として現れる。

また、すべての能力は人間においては対人関係化するので、対人関係を読む能力も「徴候性を感受する能力」と関係しているという。

「いま、相手が親密性を求めているかいないかが分かる」かどうか、距離感とその変化を読む力も必要だ。

8番目に挙げられていた「二人でいられる能力」にもこれが必要だろう。

生活を共にしている相手でも、その距離感や親密性の欲求は相手の体調やストレスや他の要因によって刻々変化する。この関係はこうでなくてはならない、とかこうであったはずだ、という固定観念に縛られて自分も相手も強制してはいけない。

これは「空気を読む」能力とは少し違う。
「空気が変化する兆候をキャッチできる」かどうかなのだ。

これも中井さんらしく、「ある程度の感受性」としているので、なにも、いつもピリピリして空気の変化を読み取りながら先回りして対処しろというわけではない。

まして、それに絶対に同調しろというわけでもない。

けれども、「空気」や「空気の変化」の存在に全く気づかなかったり無視したりするのでは、精神の健全は保てない。

自分の身体感覚も含めて客観的に観察できるということは、これもある意味で分裂気質の保持でもある。

空気は空気であって「自分」ではない。空気を読むことは関係性の識別でもある。

宗教体験でいうと、これを推し進めるとある意味でリスク・ゾーンに近づくとも言える。

非常なストレスにさらされている人が、そこから逃避しようとして人格乖離を起こすことが、統合失調症の要因の一つになっているというのが最近明らかになった。

そこからの「回復」を必要とする人には、その一方に留まるのではなくその全体を空気、兆候性としてキャッチすることが大切になる。

そのようなサバイバルをかけた「逃避」の状態は、脳が、今キャッチしている痛みや苦しみの現実を感知、認知することをブロックしている状態だ。

そのようなフリーズ状態になった脳に、何か別のところから「声」が聞こえたり、別の人格が形成されたりする。それが脳の記憶のストックから取り出されたものなのか、あるいは本当に普段はキャッチしない種類の情報(死者の声とか悪魔や天使の声とか)をキャッチしてしまうのかは分からない。

その「声」や「情報」が、その人を危機から救ってくれたり慰めになったりするポジティヴなもので、かつ可逆的なものであるなら問題がない。宗教神秘体験の最良のものにもなり得る。

カトリック教会は、そのような「神秘体験」をすべて圧殺するのではなく、管理、識別、仕分けして、信仰の助けとなるツールとして多くの人に共有できるように体系化してきた。
その部分が、分裂気質の人が寄り添えたり自分を投影したり惧れを軽減したりするのを助けて来たし、それをさらに豊かなものにするのに貢献可能にもしてきただろう。

世にいう異端審問、魔女裁判のようなものばかりではなく、殉教者伝、聖人伝など危機をプラスに変えたポジティヴな証言記録の方が実ははるかにたくさん残っている。

カトリック教会が長い間これらの証言をばらまき刷り込んできたことにはそういうメリットがあった。

それが分裂気質の人を崩壊から救った方が多かったのか、パラノイア気質の人の病理を亢進させた方が多かったのかは、また別の問題である。
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by mariastella | 2016-06-30 00:31 | 雑感

『テレーズの罪』(オードレー・トトゥ主演)の追記

昨夜アップした記事に追記しようとしたら、文字数が多すぎて不可能という表示が出たのでここに追加します。

まず、幽閉生活でぼろぼろになったテレーズが、義妹の婚約者との対面のために無理やり姿を現せて衝撃を与えるシーン。

この時の「厚化粧」の黒いアイラインが流れて黒い涙となっているのが映画のタイトル画像になっている。テレーズの顔はうつろというより挑戦的だ。この画像一枚で、テレーズの内面と外面、個人と家族、世間体の分裂がはっきり出ている秀逸なものだ。)

また、日本語表記を確認するために検索したら、日本語訳が遠藤周作さんのもので、『深い河』の中にも言及されているとあった。この舞台のブルジョワ家族にとって何の疑問もない「世間体第一」の犠牲になるのが常に「母性」を楯にとられる女性だということに日本社会を重ねたのだろうか。遠藤さんはカトリック作家としてその「解放」に「希望」を持ち続けながら深淵の周りをぐるぐるまわっていたのだろうか。

今の日本でも、多くの「主婦ブログ」によって、似たような状況があることを知ることができる。
テレーズに「ブログ」による発信方法や連帯方法があったならああいう展開にはならなかったことだろう。

サイバー世界を経由する「救済」が、同じルートによる「誘惑」を超えると信じたい。
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by mariastella | 2016-06-29 16:29 | 映画

クロード・ミレールの遺作『テレーズの罪(テレーズ・デスケルウ)』

この映画はボルドーから80km離れたロケ地で撮影され、クロード・ミレールは毎朝、撮影前にボルドーで放射線治療を受けていたという。

ボルドーの近くで土地持ちのふたつのブルジョワ家庭が互いの利益のために姻戚関係を結ぶ。
厳しい父のもとを去って仲のいい女友達アンヌの兄ベルナールとの結婚はテレーズにとっては「家族から解放される避難所」だった。

けれども、ベルナールは狩りが趣味で共通の話題もない男だった。

アンヌの方は、修道院のシスターから教育を受ける中で、「神秘的な情熱」を知り、パリから来た男ジャンと恋仲になるが、家族から付き合いを反対される。

アンヌと別れさせるためにジャンに会ったテレーズは彼女の知性や好奇心を理解したジャンとの会話によって、地方にいては想像もできなかった自由なパリの生活に憧れる。

その時すでにテレーズは妊娠していて、子供も生まれるが、不全感はくすぶったままで、心臓病の予防のために少量のヒ素を飲む夫の毒殺を企てる。

それによって彼女が何を求めていたのか、彼女自身も多分分かっていない。

ベルトランの体調はどんどん悪くなり、処方箋を書き換えて薬局に行き薬の量を増やしたことから彼女が疑われた。
しかし妻に毒殺されかけたというスキャンダルを表に出すことはできない。
ベルトランは寝室を分けて娘にも合わせないが妻に弁護士をつけ、日曜にはそろって教会に行き続ける。

自分も偽証してまで妻を不起訴にするが、その後でうちを出て、テレーズを屋敷の一部屋に幽閉する。
テレーズは離婚されるという自由も得られないし、うちから出されることすらないのだ。
実家にも戻れない。父は夫に服従するようにと言い渡す。

召使に見張られながらテレーズは壊れていき、アンヌがしかるべき婚約者を連れて来た時には兄嫁として出てくるが、その変貌は衝撃的で、ベルトランはアンヌの結婚式の後でテレーズをパリで一人暮らしさせる。

テレーズには持参金(土地)があるのでベルトランは彼女を養い続け、大家族だから結婚式や葬儀の度に教会で娘に会えるだろうと言う。
そこまで家族が崩壊しても、教会の行事に出席することが「秩序」なのだ。

それでもパリで憧れのカフェのテラスに座るテレーズは「再生」し、はじめてベルトランに謝罪する。

いったいどうなるのか、と飽きないで見ることのできる映画なのだが、何事もはっきりと表現されないので理解できないまま終わる、という感想を持つ人がいるかもしれない。

原作はモーリアックの有名な小説『テレーズ・デスケル―』だ。

テレーズにはモデルがいる。1905年に夫の毒殺未遂で逮捕され、無罪になったが処方箋偽造で有罪になったブランシュ・カナビィという女性だ。

モーリアックは家族という檻に閉じ込められた女性が、野生動物が檻の中をぐるぐる回るようにしてやつれていく孤独を書きたかったと言う。

原作のテレーズのモノローグから三つのテーマが浮かび上がる。

その一つは生物学的女性の条件の悲惨さだ。
ブルジョワ家庭では女性が「子孫を創る」装置でしかなく、しかも産褥死が多かった。
テレーズの母も産褥死し、父は女性蔑視し、テレーズには性の禁忌が刷り込まれていた。

義妹となるアンヌの方は宗教的な環境でシスターたちに囲まれて「イエスへの愛」などを知るのに、テレーズの父は地方の左翼の無神論者でテレーズも不可知論者であり、愛の表現を知らないのは皮肉だ。
しかし、無神論の実家と敬虔なカトリックの婚家は、利害が一致すれば問題なく姻戚関係を結ぶ。
その偽善にテレーズは傷ついている。

もうひとつは地方社会の閉鎖性への反抗だ。

カフェのテラスに座れて群集の中で匿名の一人になれるパリと違って、家の中で所有され、支配され続ける生活はテレーズを蝕む。
パリのことを語るジャンは、ボルドーからパリに出てきてその自由さを知った若きモーリアックの姿だ。

婚家が敬虔なカトリックと言っても、それは信仰ではなく、女子供が既成秩序に服することを担保するものであり、地方の名士としての「外面」であった。
だからこそ、宗教上の罪である離婚もできないし、名誉のためにはスキャンダルをもみ消す。

個人の幸福は犠牲にする。その意味で、毒殺を試みたテレーズも毒殺されかけた夫も、犠牲者である。

テレーズの罪も「神を信じていない」からだと責められる。
神、というより罪に対する神罰を恐れていたらこんなことにはならなかった。
恐れは知恵の始まりなのだ、と彼らは言う。

婚家にとって、愛の神や赦しの神はいない。
だからこそ、世間的には偽証してまで不起訴を勝ち取っても、テレーズを赦すわけではなく、残酷に徹底的に復讐、報復する。彼女の人格、尊厳を奪ったのだ。

三つ目のテーマが、最後にテレーズが得たかに見える「女性の解放」である。

しかし、カトリック作家であるモーリアックの最大のテーマは、テレーズのように、怪物でもない「普通の女性」がなぜ夫の毒殺という恐ろしい行為を実行に移したのかということだろう。

古代ローマで皇帝クラディウスを暗殺た連続毒殺魔ロクスタ以来、女性が計画的に人を殺すとはどういうことなのか。
激情に駆られての殺傷ではない。
「意志」があった。

人を殺すような選択をするのは「ひとでなし」、「怪物」なのだろうか。

『テレーズ・デスケルー』の第一稿のタイトルは『良心-神の直感』というものだった

キリスト教の言葉としての「良心」は、人が直感的に抱いている神的な意識であるという意味だ。

ではどうして人は良心に背く、神に背くような行為をするのだろう。

それは神が自由意志を人間に与えたからだ。自由意志という病を人は抱えている。

だとしたら、それを行使したからといって、それは被造物である人間の責任ではない。

『テレーズ・デスケルー』の冒頭にはボードレールの『パリの憂鬱』の「マドモワゼル・ビストリ(外科刀)」の一節が引かれている。

主よ、憐れみたまえ、狂った男たちや女たちを憐れみたまえ!
おお、造物主よ! 彼らがなぜ存在するのか、どのように造られどのようにすれば造られないですんだのかを知っている御方の眼に、怪物など存在できるでしょうか。

というものだ。

ボードレールのその一節の前には

「造物主よ、支配者よ、「掟」と「自由」を造りたもうた方よ、なすがままにさせたもうた主よ。」

という呼びかけがある。

「掟」と「自由」の両方を作ってなすがままにさせたのは造物主なのだ。

「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。(ローマ人への手紙8-20)」とある通りだ。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」。

けれども希望があるのは、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。(同21)」

すなわちキリスト教の信仰においては、実は、「自由」とは自分の限界を超えて、神との関係に参入する自由なのである。

信仰のなかったテレーズにはその「自由」がなかった。

だから「希望」もなかった。

テレーズはランド地方の荒れ野に住み、心も荒れ野をさまよっていた。

旧約聖書の詩編63は、ダビデが荒れ野にいた時の賛歌である。

神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。

テレーズは乾いた時に神を求めるすべを知らなかった。

それでも、神は、テレーズに、憐れみと慈しみの眼を向けている。
人間には神を求めない自由があるが、神には選択肢はない。

一方、原作と映画ではいろいろなことのニュアンスが違っている。

テレーズの夫のベルトランもまた妻と同じように、この時代のこの階級のこの地方の犠牲者であったというとらえ方がはっきりとわかるようになっている。

ベルトランは妻の心を忖度できず妻の知性を理解できない自らの愚鈍さの犠牲者でもある。

けれどもベルトランはこの、自分の周囲の女性にはない個性を持ったテレーズに惹かれていて、テレーズから愛されていないことに最後までフラストレーションを抱いている。
それをジル・ルルーシュがうまく演じている。テレーズがオードレー・トトゥだから説得力がある。

テレーズは原作ではモノローグで内面を語るが、映画では外に出る台詞しか聞こえない。

オードレー・トトゥーが原作を読んでいたかどうかは知らないが、シナリオの自分の台詞すべての横に「内面の声」「テレーズが本当に言いたいこと」を書きつけていたそうだ。
それが彼女の表の台詞に深みを与えている。

それはジル・ルルーシュもそうで、この時代のこの階級の習慣で互いに敬称で話しているのに、時々二人共親称が飛び出ることがあり、それが内面と外面がショートした火花のような効果を出している。

原作では回想形式になっているものを時系列で撮影し、ラストシーンでパリの待ちを歩くテレーズの表情から、群衆の中で匿名の存在でいられることの喜びがにじみ出ていることで、映画は「解放」や「自由」を強調している。

モーリアックの視線が「神が自分の創造したものに対する憐れみ」に徹しているのとはかなり違う。

考えてみると、女性の毒殺者をヒロインにした映画はいろいろある。

毒殺という「選択」には実存的な絶望があるのかもしれない。

死を間近にしたクロード・ミレールは、それでも、「希望」を描きたかった。
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by mariastella | 2016-06-29 08:51 | 映画

アイスランド

朝のラジオで、イングランドなどがアイスランド人を揶揄することばとして「ひげ面の樵(木こり)」というのを紹介していた。フランス人を「蛙喰い」というのは有名だけど。

人口が33万人しかないアイスランドが初出場で「イングランドをユーロから脱落させた」と言うのでいろいろな国民性を反映する表現がとびかっていて興味深い。

この「ユーロ離脱」には国民投票は必要ないね、シュート二つで十分だった、

など、政治状況とスポーツがシンクロしたおもしろさがある。

イギリスのタブロイドメディアはいつもとても下品で、Brexitの支援では、難民や移民に対してひどい言葉を堂々と投げかけていた。フランスだったらとっくに差別規制法に引っかかっているレベルだ。

フランスなら、匿名のサイバー空間なら別だけれど、たとえ極右政党でも、建前はちゃんと「共和国主義」の自由平等友愛をうたっているから、自主規制がかかる。 建前というのは大切だなあと思う。

昨日観た『テレーズの罪』についてのコメントを後にアップする予定です。
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by mariastella | 2016-06-28 17:53 | 雑感

イギリスのEU離脱をフランスから見る その4 (追記あり)

BHL(Bernard Henri-Lévy ベルナール・アンリ=レヴィ)は、アメリカかぶれの新自由主義野郎、という面があって、イライラさせられることも多いのだけれど、6/26-27付のル・モンド紙に掲載された怒りの文はカタルシスを得られて楽しかった。
ネットでは全文見られないのだけれど最初のところだけリンクしておく。

最初から最初までこういう調子で、この問題についてのインテリ・ゴーリストの典型的な反応なのだけれど、歯に衣きせないで書くとこうなるというのがよく分かる。

それにしても、第二次大戦ショックの後の「平和への誓い」というものの風化ぶりは日本もヨーロッパも似ていて怖くなる。

憲法九条やヨーロッパ共同体の構想は、ともかく、もう戦争はしない、したくない、というその悲痛な思いに基盤があった。

しかし、戦勝国(フランスはドイツに占領されていたのだからねじれているので別)は厳密に言ってその後悔はなく、「正しい戦争に勝って悪の手から世界を救った」くらいに思っているので、その悲痛さは共有していない。

で、核戦争の恐怖を煽りながら、軍産共同、モラルのない自由競争が進み、敗戦からの復興に成功した国々もそれに同調し、いつのまにか、本当にいつのまにか、何につけても、富裕層をさらに富裕にするシステムの強化に向かった。

憲法前文や九条の精神だとか「ヨーロッパを二度と戦争のないユートピアにする」悲願などは「それ、なんだっけ?」の世界だ。

ヨーロッパの場合、そんなヨーロッパを初心に戻すよりも、「NO」と言ってしまう方がはるかに楽で、それを煽ることで利益を得る者がいる。

サッカーのユーロ杯は、今夜がイングランドと小国アイスランドの決勝トーナメントで、奇跡が起こらない限りイングランドが勝つだろう。

アイスランドは「Brexit」を望んでいる、というジョークが聞こえてくる。

厳密にいうとBrexitはイングランドでなくグレートブリテン全部だけれど。

フランスではBrexitに気をよくした極右や極左が今度はうちも「Frexit」と叫んでいるけれど、ユーロ杯から離脱するのは開催国として嫌だろう。

イングランドのフーリガンとは違って、陽気で礼儀正しいので有名なアイルランドのサポーターたちは、26日にフランスに敗れて去って行った。

次の日曜日、準々決勝でフランスが戦うのは、今日のイングランドとアイスランド戦の勝者である。

予想通りイングランドが相手となると、おもしろくなる。

BrexitかFrexitか、どちらかがユーロ(杯)から離脱するからだ。

イングランドはサッカーの発祥地、

フランスはユーロ杯の開催地、

近頃の政局やナショナリズムが報道にどう影響するのかちょっと楽しみだ。

「離脱しないで生き残って一番になる」のが偉大だ、

という価値観が共有されている世界に本当の平和が訪れるのはいつのことだろうか。

(追記 : 番狂わせで、先ほどアイスランドが2-1でイングランドに勝った。メディアは予想どおり、一週間で二つ目のBrexit、イギリスがユーロから離脱、と形容していた。これで、イングランド対フランスの準々決勝はなくなったからサポーターの無用な興奮はなくなるだろう。私は試合そのものには興味がないのでArteでクロード・ミレールの遺作『テレーズ・デスケルー(邦題:テレーズの罪)』を観ていた。仮面夫婦になっても日曜に教会だけは行くとか、幽閉した後は教会に行くのを免じるとか、完全に別れてからも大家族だから葬儀や結婚式で教会で娘に会える日があるだろうとか、教会へ行くという形と信仰とがまったく乖離しているブルジョワ一家の悲劇が身につまされる。フランスでは19世紀末から20世紀初めにかけてのブルジョワ家庭ほど女性が抑圧されていた時代がない。不幸や絶望の原因はいつも多様で、その行きつく先の闇は似ている。)
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by mariastella | 2016-06-28 00:45 | フランス

精神の健全さとは その12 と教皇のインタビュー

前回からの続きです)

12.現実対処の方法を複数持ち合せていること

これも今まで挙がったいろいろな「能力」発動を補完するものと言えるだろう。

例えば「しなければならないこと」を前にして障害物にぶち当たった時に、「あたって砕ける」のはやめるにしても、ぼーっと立っていたりまわれ右をしたりするだけでは挫折感が生まれる。

やり方を変える、問題の切り口を変える、全体はあきらめて部分だけにとりあえず対応する。
また、普段何とかまわっているルーティーンでも、歯車の一つが壊れた時に全部止まってしまわないように、代替法をいくつか用意しておくというのが危機管理になる。

あるいは、普段から、システムDで日常を切りまわしておくのもいい。

と、ここまで書いて、システムDがフランス語だということに気づいた。

Système Dで、DはDébrouillardise。

débrouillerってあまりにもよく使う言葉なので、何語だとかいう意識がなかった。

要するに、何とかする、とかやりくりする、適切な手段がないままにありあわせのものでトライする、かっこうをつける、という感じで、システムDはまさに、そういう応急手当みたいなやり方だ。

でも別に否定的な意味はなくて、工夫できる能力みたいなものが想定されている。

カトリックでいえば、教義や典礼がヴァティカンの中央集権でがっちり固まっているように見えて、実はインカルチュレーションにより、宣教地の教会でその場所の伝統や習慣に合わせてアレンジするのもありという面がある。

システムDを助けるのは「聖霊」の働きで、愛といつくしみが、「即興」を支える。

そういうシステムDの伸びしろがある。

そこに気づかないで、厳しくきっちりと、教えを遵守、正統を守らなくてはならない、などと、少なくとも、末端の人が自分を縛る必要はないし、ましてや他の人を裁くこともしてはいけない。

6月26日、アルメニア訪問の帰途の飛行機内で、いつも通りフランシスコ教皇が各国ジャーナリストからの質問に誠実に答えた

この終わりの方(38:34)に、オーランドでのLGBTクラブへのテロを受けてカトリックは同性愛コミュニティについて謝罪しなければいけないと発言したミュンヘン大司教のマルクス枢機卿の言葉をどう思うかという質問があった。

教皇は、「聖なる教会」ではなく教会の成員である罪びとであるキリスト者は謝罪しなくてはならない、ゲイだけではなく、貧者、労働を強いられている子供、暴力を振るわれている女性に対しても、多くの武器を祝福してきたことにも謝罪しなくてはならない、と答えた。神の国に導かずにこのような世界に至った責任の一端はキリスト者にあるということだろう。

教皇はさらに言う。

自分も罪びとである、しかしキリスト者は内面に聖霊を抱く聖人でもある。
「神の国」も同じだろう。罪びとがいて、聖人がいる。罪びとが少なくなるように神に祈らなくてはならない。

この教皇の言葉は、「両義性にある程度耐える能力」という精神の健全さのお手本みたいに見える。

謝罪して悔い改めても神になれるわけではない。

でも生き方の方向を修正することは、できる。
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by mariastella | 2016-06-27 23:36 | 雑感

イギリスのEU離脱をフランスから見る その3

Brexit から丸二日経った。

それにしても、国民投票翌日のテレビの報道がパニックを煽ったものばかりだったのには笑えた。

「悪いニュース」「悲観的な予測」の方が「売れる」趨勢がそのまま表れている。

Brexitの立役者ボリス・ジョンソンの金髪の風貌がトランプに似ていたり、ウェストミンスターにお伺いを立てずに直接ブラッセルのEUに、EUに残りたいと直訴(?)したスコットランドのニコラ・スタージョンがメルケル首相の若い頃によく似ていたりするのもおかしい。

ユーロ杯サッカーの各チームの選手にインタビューして

「Brexit? そんなこと考えている場合じゃないし…」

とか

「Brexit? ああ、ダンスの名前?」

とかいう答えを拾っているのも笑えるし、これでイングランドチームが優勝し、もうすぐ始まるツール・ド・フランスでも、去年と同じくイギリス選手が優勝する可能性大だね、と予測するのも愉快だ。

何より笑えるのは、この国民投票の茶番劇が2005年のフランスであったEU憲法条約批准の国民投票の既視感をもたらせることだ。

このことを、進級試験に例えている人がいた。

「国民投票の失敗」という評価は、これが投票でイエスかノーかの意見を聞いているつもりははなからなく、イエスという「正解」が想定されていたからだ。

2005年のフランスの投票でも、政府、知識人、メディアがいっせいに

「フランスがこれを批准しないとEUでのすべての信用を失う、孤立する、恥だ、大変なことになる」

と散々脅し文句を並べての投票だったが、その「教え方」が悪いか生徒が劣等だったせいで、人々は「ノー」と「誤答」してしまった。

マストリヒト条約以来すでにEUが人々の生活と乖離していたからだ。

エリートたちはあわてふためいた。

で、どうなったかというと、あら不思議、「誤答」にもかかわらず、人々はいつの間にか、ちゃんと「進級」していたのだ。どういう仕組みだかわからないが、「試験」には落ちたけれど落ちこぼれたものを救って裏口からちゃんと通してくれていたのだ。

フランスにはその経験があるから、10年前のことを覚えている人たちは、いくらイギリスでも「教育のない不満分子」が多くて「ノー」という「誤答」を突き付けても、今回も結局は、エリートたちの利益が損なわれないような落としどころに落ち着くだろう、と予想する。

たとえEU離脱は避けられないとしても、マルチナショナルやグローバル経済の勝ち組エリートたちに実質マイナスにならないような巧妙なネゴシエーションが展開されるだろう。金という力を持っているグループ、すでに特権を得ているグループが利権を失うような動きには絶対ならない。

EUへの入り方も「例外的」だったイギリスは、離脱する時も、いろいろな影響力や特権を維持するのは自明だ。

だから、イギリスが離脱の先例を作るからと言ってドミノ倒し式に他の国もそれに続くとは限らない。

「自分ちは平和も民主主義も自分で達成しているからEUのえらそうなご託宣はいらない」

と自負するイギリスが経済的な利益優先でEUに加わったのと違って、後からEUに加わった多くの国の動機は異なる。

スペインやギリシャや旧共産圏の国々のように自分たちの国の軍独裁政権や一党独裁政権が終わった時に、「民主主義」「自由主義」の港、シンボルとしてのEUの門を叩いた、という経緯があるからだ。

経済的なメリットだけではなく、一応、EU結成時の理念に惹かれた状況があった。

EU成立の牽引となった独仏の間には、普仏戦争と二度の大戦のトラウマが今も残っていて、

「ヨーロッパ」とは「穏やかな朝」のことだ。ヨーロッパで目を覚ます限り、もう戦争はないし、死刑もない、それがどんなに心の平安を与えてくれるか…

としみじみ語る人は今もいる。

しかし、そのような「平和の理念」の「理」は、いつの間にか、少数のエリートや富裕層の「利」に取って代わっていた。

「理念」は「利権」をカムフラージュするものになっていたのだ。

なんだか、もっとさかのぼって、宗教改革の時代のヨーロッパのことも考えたくなってしまう。

ヨーロッパにおける非暴力平和主義、平等主義、普遍主義の源泉となったナザレのイエス、「主の平和」を掲げ、目指す、カトリック(普遍)教会、エリートたちはみんながラテン語を操り、修道僧、聖職者、巡礼者たちが自由に行き来していた。

しかし、ここでも、「理」よりも「利」、「理想」に取って代わった「利権」がはびこるようになっていた。

で、イギリス。

その昔、ラテン語もフランス語も堪能だったというイングランド王ヘンリー八世は、世継ぎ問題という権力継承のために離婚と再婚をしようとしてカトリック教会から「離脱」した。

そのおかげで全部で6度も結婚するというしたい放題(?)ができた。
自分がイギリス国教会の首長になったからだ。

「栄光の独立」精神はその頃からあったわけだ。

で、それとは別の理由で、大陸でも、カトリックのヨーロッパが世俗の権力と癒着して腐敗しきっていることに抗議(プロテスト)した人びとがカトリック教会から「離脱」して行った。

まあそのおかげで、カトリック教会もさすがにこれはまずいと思って、トリエントの公会議を開き、カトリック教会を刷新して、元の「理想、理念」に帰り、カトリック改革に取り組んだわけだ。

それでもヨーロッパが「分裂」しきらなかったのはいくつかの理由が考えられる。

カトリック教会の独身制のおかげで、「刷新」すれば子孫へ権力継承させるという「業」から解放されること、

逆に世俗の権力者である王侯貴族間では複雑に姻戚関係が張り巡らされているので互いが完璧に縁を切ることができないこと、

カトリックも、プロテスタントも「初心」に帰ればキリストの唱えた自由平等平和主義を見出さざるを得ないこと、

キリスト教を切り捨てた人間中心主義の近代ヨーロッパも、結局は「キリスト」や神の名を出さない自由、平等、平和主義を採用したこと、

などだ。

そしてたとえ建前だけだとしても、その「理念」「理想」の共有があるからこそ、その後も続く、過ちに次ぐ過ちに対して反省に次ぐ反省を繰り返し、関係を修復したり、対話を進めたり、共生の仕方(政教分離など)を工夫したり、で、カトリック教会もヨーロッパも生きながらえてきたわけだ。

ある意味で、EUもその「工夫」のひとつの形であり、同時に「理」が「利」に食い尽くされる悪しき前例をも踏襲しているということだ。

フランスは、近代革命によって少なくとも表向きは「理念」を優先する国になった。
イギリスではイングランド国教会が存続している。

イギリスの「栄光の孤独」にはその矜持が反映しているのかもしれない。
でもそれが、移民のモザイク国家の実態とは乖離しているのもまた事実である。

そこに、キリスト教の神に取って代わって「金(または金融)」という神が君臨し始めて、平等どころか、いたるところで経済格差が広がっているのが現状だ。

「利」を「理」で制御する刷新運動がまた起こってくるのでなければ、崩壊するのはEUではなくて、世界全体となるだろう。

安易なポピュリズムやナショナリズムにとらわれている暇は、もう、ない。
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by mariastella | 2016-06-26 19:12 | フランス

イギリスのEU離脱をフランスから見る その2

EU離脱について土曜の朝はようやく新聞各紙の特集記事がそろったのでいろいろ読み始めているが、ひとまず、まだ金曜日の段階で仲間と議論したことをベースに話を進めよう。

Brexitのテーマにはわくわくさせられる。

まず、イギリスがEUの仲間(最初はまだEUという形ではなかったがここではこの呼称に統一する)に入ってから43年、私がフランスに住み始めてから、40年、この40年にヨーロッパで起こった変化とその意味を探り、今の状況を分析するのにちょうどいいスケールの出来事だからだ。

それに、近頃のテロや難民の遭難などのニュースと違って、情動に汚染されないで済む。

テロのニュース、難民キャンプのニュース、戦争の報道などは、昨今のスペクタクル型報道のせいで、血まみれの子供たちの映像とか銃撃戦の音声とか爆撃の悲惨な爪痕とかいうコンテンツが繰り返し繰り返し刷り込まれるので、識別力が落ちる。

そういうエモーショナルなところにナショナリズムや排外主義の煽動、あるいは逆に突然のヒューマニズムの煽動が加わると識別すべきものとの間の距離をとるのはたやすくはない。

けれども、Brexitの問題となると、本当はテロや難民などそれらすべてを包含しているのにも関わらず、目に見える形での直接の犠牲者がなく一応「論戦」の形をとっているので、とても冷静に観察できる。

今「直接の犠牲者がない」と書いたけれど、国民投票の直前には残留支持の議員の政治テロによる暗殺が起きている。これに対する感覚もフランスとイギリスでは正反対だ。

このような形のテロはフランスの感覚では大ショックである。
単にひとりの狂信者の個別の犯罪ではなく、まさに言論の自由を脅かす、国家の理念を揺るがす大問題だ。

イギリスでもキャンペーンが一時注視され公に追悼や哀悼があったけれど、大きな流れの中ではアクシデントのひとつとして片づけられた。

どこの国でもシンボルとなる大統領だとか首相だとかあるいは宗教のリーダーだとかが、その称号故に狂信者に命を狙われるというリスクはある。
だからこそ厳重に警護される。

けれども、ある特定の時期に特定の政治的意見を表明する者が、反対側の陣営の狂信者から殺されるというのは、「国民投票で信を問う」という「民主的手続き」を展開しているような国では絶対にあってはならないことだ。

それが起こったこと、そしてそれが大スキャンダルにならなかったこと自体に驚くフランス人は多い。

「フランスなら絶対にあり得ないタイプの殺人」であり、だからこそ、もし発生したら、それこそキャンペーン中止どころか、国民投票そのものが延期されたり、犠牲者は、民主主義、共和国主義の殉教者としてシンボライズされたりするだろう。

労働法改正で今もデモが続き、それが毎回ある種の暴動で終わるパリだけれど、去年のシャルリ・エブドのテロに抗議するデモでは共和国理念に対する無条件のコンセンサスが可視化した。フランスのような個人主義の発達した国で、こういうコンセンサスがあるというのはすごいことだ。(ちなみに、今の労働法改正反対のデモでも、多くのフランス人は、それによって蒙る不便に耐えて、デモ自体の権利はリスペクトしている。)

ド・ゴールがイギリスのEU参加に懸念を表明した時に、イギリスがもし「ヨーロッパから全体主義の芽を永遠につみとり戦争をなくす」というEU創設の理念に賛同していたなら最初から加わっていたはずで、後から加わるのは経済的な利便のためだけだ、と言っていたのはある程度当たっている。

以前の記事でも書いたが、「フランスとドイツが和解する」なら、イギリスはわざわざもともと仲の悪いフランスと組む必要はなくなるわけで、EUの

「今までの過ちを繰り返しません」

という出発点は

「ぼくんちには関係がない」

話だった。

なぜなら

「ぼくんちが民主主義の発祥地で、議会政治の発祥地で、全体主義国家を倒すために犠牲を払ってきたヒーローで、過ちを正してきた立場だから、反省する必要はないもんね」

という意識があるからだ。

イギリスがEUに加わったのは、だから、その創設理念に共鳴したのではなく経済的メリットを計算したからで、実際そういうスタンスをずっととってきた。

メリットは享受したけれど、他の多くのことでは「ぼくんちは特別だから」と、いつも例外処置を要求してきたのだ。

そしてイギリスの経済復興は経済ブロックとしてのEUにとってとても大切なものだったから、EUはその「例外」の要求をいつも呑んできた。

グローバリゼーション、新自由主義経済の世界では、「過去の過ちの反省」なんていう創立精神も理念も吹っ飛んでしまった。

その意味では、イギリスが離脱することで、EUが初心に帰るならば、民主主義とは遠く離れてしまったブラッセルのテクノクラートがマルチナショナルと組んで格差の拡大に加担する現状の方向を修正できるかもしれない。

できなければ、EUは経済圏として終わり、崩壊を続けるだろう。(続く)
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by mariastella | 2016-06-26 01:36 | フランス

イギリスのEU離脱をフランスから見る その1

イギリスのEU離脱で(私にとって)世界はますますおもしろくなってきた。

(精神の健全さシリーズは少しお休みですが、あのシリーズで健全とされる視点を持って状況を見るのが大切です)

Brexitに対する反応の建前やら本音やらを観察すると、今何が起こっているのかこれからどちらを向けばいいのかが分かってくるからだ。

特に、投票結果が分かったのはヨーロッパの午前3時とか4時とかなので、翌日の朝刊に間に合わない。

だから、メディアの報道もちょっと内容のあるものはすべて、その日の夕方の特別番組やきょう土曜の新聞などに持ちこされた。

そのおかげでTwitter的なその場限りのお決まりのコメントをたくさん聞かずに済んだし、友人たちといろいろ話せたし、街の声も聞けた。

昨日は先日の二つのコンサートの後休んでいたカルテットの練習でモーツアルトを3曲、トリオの練習では年末の新しいプログラムに向けて、仕込みの終わった4曲に加えて新しい2曲(ダルダニュスのタンブランと栄光の神殿のアントラクト)を練習、分析。

Brexitについても話し合う。

その前に町のレストランで昼食をとったのだけれど、どのテーブルもBrexitについての議論が飛び交っていた。

こういうとなんだけれど、フランスのような国で、観光客の多いところは別としてこの時期のレストランの昼食時には、ある共犯意識というか、一味違う「自由」の感覚がある。

なぜならラマダン期間だから、ムスリム共同体の人が全く来ない。

普段はもちろんいろんな人が来るから、政治論議好きなフランス人といっても近頃は、

「隣にジハディストがいるかもしれない」「隣にネオナチがいるかもしれない」

というような無言の自制心というか警戒心が働く。

その点、ラマダンの時期の町のレストランというのは、何となく「共和国意識」の連帯感がを感じられるのだ。

隣にイギリス人がいたら? というのは心配無用で、17万人というフランス在住のイギリス人はたいていフランスびいきでもちろん親ヨーロッパなので問題ない。

日本にいると多くの海外情報が当のイギリス経由や他の英語圏経由だろうから、耳にしないことが多いだろうと思うので、ここでフランス発の草の根情報を紹介していこう。

まず、今回のEU離脱の後押しをしたものの一つに、昨年のメルケルの難民受け入れ歓迎表明があったことは事実だ。

で、フランスがどう思っているかというと、本音の本音では、難民問題をあまり気にしていない(極右のプロパガンダは別だ。どこでも、難民問題、EUのせい、とEUをスケープゴートにするレトリックは同じ)。

なぜかというと、フランスは通過点で、難民のほとんどは、フランス経由でドイツに行ったり、北欧に行ったり、イギリスに行ったりすることを知っているからだ。

フランスは通過される場所で目的地ではない。その理由は皮肉なことにフランスのユニヴァーサリズム政策にある。

コミュニタリアニズムを基本的に否定しているので、難民や移民が安心して「自分ちの生活」を続けられるコミュニティが保証されていないからである。

共同体意識の強いタイプの移民、難民は、フランスにいると、公民意識や共和国主義をたてにごたごた言われて落ち着かない。「共同体で固まっていると差別される」という現実もある。

次に、難民問題でEUがスケープゴートにされるのは理由のないことではない。

2013年の初め、ランペドゥーザ島近海で大量の難民が難破し続けた悲劇の後、イタリア政府はEUに訴えたが、何もしてもらえなかった。
それでイタリアは自国の海軍を動員して救助に当たった。ランペドゥーザの自治体や住民が難民のケアをした。

その一方、イタリアでなくドイツが難民について何か言うと、それは即EUの問題として取り上げられる。
EUの中に明らかに格差がある。それが経済力によるものであることは間違いがない。

ドイツにもランペドゥーザにも、EUにもトルコにもシリアにもアメリカにも、一貫してすべての難民救済と移動の自由を訴えているのはローマ教皇くらいだ。
彼のユニヴァーサリズムがボランティアを支えている。

難民問題でシェンゲン圏の国が国境線に鉄条網を張り巡らせたりしたのは、EUがEUとして国境の管理をしてこなかったことで不安感が増大したためだった。
その意味でEUが機能していない、という批判は当然だった。
EUの元祖で牽引力となっているドイツとフランスが、本質的なところでスルーしていたからだ。

フランスは「イタリア、スペイン、ポーランドの難民受け入れに成功した歴史があり旧植民地国の移民受け入れにも慣れていて、しかも「共和国主義」でそういう「移民の子孫」というカテゴリーが公には存在しない上に、
前述したように、どうせフランスは通過地点という見通しがある。
ドイツには少子化対策として難民受け入れ歓迎というベースがあった。

どちらも実際は真剣に取り組んでこなかったのはそういうわけだ。

Brexitショックのおかげで、いろいろなことが原点に戻って考え直されるとしたら、むしろEU存続のチャンスではないかとみる人は少なくない。

(続く)
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by mariastella | 2016-06-25 20:17 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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