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L'art de croire             竹下節子ブログ

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フランスの教会テロについての記事のまとめ(追記あり)

このところフランスの教会でのテロのテーマのせいか、ブログを訪れてくれる方が多く、いくつか質問をもらっている。

サイトの掲示板でやり取りしたものもあるけれど、そこで答えられなかってものをここでまとめて書いておくことにしよう。

私のこのブログはいわゆる「ブロガー」と呼ばれる方が、意見発表または自己表現または読者へのサービスとして書いているものとは違って、プロフィールにも断っているように、考えの「断片」で、「断片」にしては長いじゃないかと言われそうだが、想定読者やページ数の制限や、テーマの制限なしに考えたことを主として自分のために記録しているものだ。

だから、フランスのニュースを扱っているとしても、それがフランスで一般的に知られていること、マジョリティの意見などではない。

フランス・ニュースを知りたい方にはいくらでも他のブログやニュースがあると思うのでまずそこのところをよろしく。

たとえば、私は今回のテロにむしろ希望を覚えたと書いたが、そう考えるのは私のように「希望」をキャッチして生かしたいと思っている人だけだ。

普通にこちらのメディアを見ていたら、

今までと同じく、ほとんどの報道は扇情的で、

善の化身のような人が悪魔のようなテロリストに殺された、

危険性が分かっていたテロリストを解放した裁判官が悪い、

野放しにしていた警察が悪い、

SNSの規制をしない大企業が悪い、

あるいはフランスのシリア爆撃が悪い、

教会の警備が足りない、

モスクの監視が足りない、

緊急事態条項の徹底が足らない、

悪の排除の覚悟が足りない、

諜報活動における連携が足らない。

情報が足らない(危険人物のリストに名前だけで顔写真がなく、写真情報を照合できなかったなど)、

など、たいていは「悪い」、「足りない」、のオンパレードである。

でもだからこそ、宗教者のディスクールがメディアを補完してくれる。

日本でも『神々と男たち』(1996)の映画で有名になったアルジェリアでテロリストに惨殺されたフランス人修道士たちの例はもちろん、1980年に病院のチャペル内でミサを挙行中に撃たれたサンサルバドル大司教のオスカル・ロメロ(2015年に列福)まで、内乱など危険な状態の国で使命を遂行して殉教した人たちが残してくれた課題や、南アフリカの人種差別の和解など、長いスパンで、限定的な政治状況を超えて「とるべき道」の蓄積は少なくない。

特にカトリック教会はたどれる歴史が長く、過ちも含めて近代の波にもまれた経験資産が大きい。耳を傾けるに値する。

で、パリの大司教がダニエル書を引いたことについて書いたことについて、ダニエル書も詩編もその日の決まった朗読箇所であり、まさに、誤解を与えないように、「適切な部分」だけをあらためて引用したのだという指摘もあったのだが、それはその日のミサに出ていた人やKTO(フランスのカトリック・ネットテレビ)ですべてを聞いていた人にはその通りだ。

でもフランスの多くの人は、今回のテーマだからこそフランスの普通のメディアにも広く知らされた彼のディスクールの部分だけを読むわけで、この日の大司教にとってはもちろん正しい選択だけれど、私のような人間が一般読者に向けて何か書くときには旧約聖書の一部引用というのは便利でも気をつけなければならないなあと自戒したわけだ。

もう一つ、カズヌーヴ内相が「フランスを警察国家にはしない」とし、たとえ緊急事態宣言の期間でも、違憲になるようなことはしないと言っていることについてだ。

この決意はもちろん貴重だ。

でも何十年もフランスに住んできて、最初は一部の人を想定して制定された法律がいつの間にかなし崩しにすべての人に及んでいた、という実態を私は実際に見ている。

たとえば、30年くらい前には脱税調査などで、はじめは麻薬取引などの犯罪によって得た金の「資金洗浄」(マネー・ロンダリング)を対象だけに限られていた調査権の拡大が、今では、財政難だからと言って、普通の人のへそくり程度のものにまで拡大されて適用されている(それなのに大富裕層の人たちがあの手この手で「節税」をしているのはもちろんだ)。

大切なのはむしろ、最初の法律制定の時にしっかりと何を対象としたものかの「線引き」を明確にすることで、時に応じて政府が解釈を変えることができるような含みを持たせてはいけなかったということだ。

国家が個人の情報に踏み入ることができるような権利や自由を制限できるような権利については、「総論」だけではなく、最初から細かく、故意の悪用やなし崩しの拡大までを想定してガードしなくてはいけない。

制限すべきなのは人権ではなくて法律の方なのだ。

「解釈」で動くようなものであれば、どんどん政治の道具にされてしまう。

フランスですらそうなのだ。

書いていくときりがないけれど、

「いつのまにかこうなっていた」

という場合、それは決して「いつのまにか」ではなく、最初から、ほうっておけば弱者を蝕むベクトルを含んでいたということだと、今にして分かることがある。

ではどうしたらいいのか?

そのためにも、常に弱者の側に立つ、力というものは他者に仕えるためにだけ使う、ということについてはぶれない今のカトリック教会の発する言葉をこれからも注意深く追っていこうと思っている。


追記: テロとは直接関係がないが、WYDについての記事の中で、参加資格には洗礼を受けているとか受けたいと思っている人などというものはないと書いたが、それでも、もちろん毎日カトリックの要理だのミサだのがあるわけで、実際問題として非カトリックの若者はいないのではないかという質問があった。

今回実例として挙がっているものに、20歳の学生のカップルの参加がある。
男性はカトリックでその恋人は「無神論者」だと自分で言っている。
でもお祭りに参加するのは合意した。男性は彼女が「回心」体験をするのではないかと期待しているらしいが彼女の方はまだ何も変わっていない、と言っている。

確かに、少なくともカトリックの友だちに同行するのでなければ冒険できにくいかもしれない。
でも45年前の私の前にこういう情報が与えられたらやはりチャンスだと思って参加するかも。

(まあ45年前は1ドル360円の時代で、パスポートも一回きり、海外旅行はいろいろ難しかったから誰も行けないというか、WYDそのものが企画不可能だったろうけれど。しかも、当時共産圏のポーランド。そんなことを思うと、テロのリスクがあろうとなかろうと、今は若者たちが簡単に世界を見聞できるいい時代になっていると思う。絶望してはいけない。)
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by mariastella | 2016-07-31 01:23 | フランス

教会テロが一つのチャンスだと思えてきたわけ その4

これはその3の続きです。

今回の教会テロに関するコメントで、今まで聞かれなかった新しい言葉が、フランスのイスラム連合関係者からはじめて発せられて驚いた。

今までは、ISによるテロがある度に、

「イスラムは平和の宗教です」

というコメントが表看板だった。

「テロリストは真のイスラム教徒ではない。」

「イスラムの教えに反している。」

「イスラム過激派テロリストとムスリム一般を混同するな。」

「最大の被害者は私たち。」(偏見と差別を助長されて)

なども。

お気の毒にとは思うし、しかしその同情心が、「寛容」だの「信教の自由」という言葉に飾られて一部のイスラム原理主義モスクを「野放し」にする現実があった。

一方で、非常事態宣言以来、「不信心者を抹殺しろ」というような説教がなされている10のモスクが閉鎖されたが、まだ80ばかりのモスクでは「共和国主義」と両立しない宗教法による政治介入、人権無視、女性差別などの言説があるという。
フランス革命後のコンコルダのように、共和国主義と合致してフランス語で説教できるフランス人のイマムだけを認めるシステムにすべきではないか、という意見も保守派からは出ている。

今回の教会テロのテロリストの一人は地元のモスクに通っていたわけではなく、今や「憎悪のフローの媒体」ともなっているSNSを通して洗脳されたわけで、モスクのイマムに洗脳されたわけではない。

フランスのカトリックが、何世紀もの確執の末、共和国主義と合致しているように、「フランスのイスラム」のほとんども、共和国主義を優先する穏健派である。

だから彼らには、テロリストは大迷惑であり、理解できない、イスラムではない、と必死に忌避したくなる理由は分かる。

それが、これだけ重なると、彼らの方から、

「イスラムが平和の宗教であることは確かだけれど、それでも、テロリストたちがこのようにイスラムの神の名を騙って非道な行為に走るということは、我々も、平和の宗教だと言っているだけでは済まされない。イスラムの中の何がどのように捻じ曲げられているのかについて、神学的、哲学的に考察、分析して、テロリストの人質になっている神を解放しなくてはならない」

と言い始めた。

この言葉に希望を感じる。

また、これまでISのテロリズムとイスラムが無関係だという証拠に、「中東で最も多くテロの犠牲になっているのがムスリム」だと数を並べ立てていたのが、それもももう意味がない、という人がいる。
共和国の危機には、自分たちの権利(道で祈るなど)を自主的に制限してでも対話を勧めて共通の対策をするのが必要だ、として、「真実は互いに矛盾しあうことはない」というアヴェロエスの言葉を引く。

le Monde にイスラム学者で政治学者のAbderrahin HAFIDIがムスリムに向けて訴えた言葉だ。
このル・モンドの記事のはじめの方はここで読めます。私はペーパーで全部読みましたが、訳す暇はありません)

フランスのカトリックは今回殺害されたアメル神父もそうだが、長い間イスラムとの対話、共存、共生のために地道な努力を重ねてきた。その土台がある。その「仲間」をテロリストに殺されたという意味では、今度こそ、フランスのムスリムも被害の「当事者」なのだ。

早い話、なんだかんだ言っても、2015年1月のシャルリー・エブドやユダヤ食品店襲撃の時には、その後の派手な「共和国デモ行進」にムスリムの姿は少なかった。
カトリックはさすがに連帯したけれど、そもそもシャルリー・エブドが宗教全般を揶揄するカリカチュア紙だから、「宗教」関係者から寄せられる同情の中には複雑なものもあったかもしれない。
ユダヤ人の犠牲には同情してもマイノリティだし、パレスティナの状況のこともあり、これも微妙な摩擦や偽善があった。

今回は、教会テロの舞台になった小さな町が、モスクと教会が長い間いろいろな共同プロジェクトを通して住民の交流を図っていた町だった。
シスターたちも愛されていた。
教区主任司祭がコンゴ人であることも「共生」のシンボルだろう。

全住民が本気で神父の死を悼んだ。

フランスのムスリム連合は、金曜の礼拝日にアメル神父を追悼し、次の日曜には近くの教会に出かけて追悼ミサに参加するようにと信者に呼びかけている。

「共に生きる」ことは、死を「共に悼む」ことができるということだ。

テロがここまでいろいろなヴァリエーションで繰り返されてきたことによる新たな問題意識の芽生えと、それが表明されることの意義は大きく深いと思わざるを得ない。

これを契機にテロリストの狙う「宗教戦争」どころかほんとうの隣人愛について考えることができるのでは、と希望の光が射してくる。

(むしろ微妙なのは、左翼無神論のイデオロギーにとらわれている人たちで、シャルリー・エブドの襲撃の後で「私はシャルリー」だと嬉々として言っていた人も「私はカトリック」などとは絶対に言えない伝統がある。
でも、「宗教の戦争」でなく「宗教同士の連帯」が強くなれば、安易な「私は何々」というスローガンよりももっと有効な戦いが、宗教の名を騙ったテロに対してできると期待しよう。)
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by mariastella | 2016-07-30 00:17 | 宗教

教会テロが一つのチャンスだと思えてきたわけ その3

これはその2の続きです。

昨年から何度も、テロにみまわれているフランスだけれど、その「不運」な感じの中に、幸運だったなあと思うこともある。それは、警察を統括する内務大臣がベルナール・カズヌーヴだったことだ。

この職には大統領になる前のニコラ・サルコジが就いていたことがあって、その時に強面で、郊外のゲットーを一掃するだとか、「容赦しない」という姿勢でインパクトを与え、

「おお、こういう時代にはこういう実行力があって信念のある政治家が国を守ってくれるかも」

と思った人が多かったらしく、大統領になった。

なってからも鼻息荒くタカ派を貫いた。

で、今のテロの時代にもしサルコジがいたら大変なことになっていたと思う。

アメリカの「愛国法」みたいなのが発令されていたかもしれないし、憲法改正も非常事態中の対策もすごいものになっていたかもしれない。

で、カズヌーヴ。

この人は見た目はどちらかと言えば冴えない。

自分で「田舎の公証人」の外見だと言っているし、

「自分とサルコジの唯一の共通点は背の低いこと、彼とは目と目を合わせて対決することができる」

という趣旨のジョークを言ったこともある。
サルコジよりは1,5センチ高くてシークレットシューズなしで167cmだとも。
サルコジはそれでも筋肉を鍛えているイメージ演出をしているけれど、カズヌーヴは色白で、アウトドア派にすら見えない。

53歳の弁護士で2014年4月以来内務大臣の職にあり、オランド大統領もずんぐりむっくりしているが、2015年1月のテロ以来メディアへの露出が半端ではないので、警察を統括する内務大臣としていっそう貧弱に見える。

サルコジのように声を荒げることもない。

でも、誠実で落ち着いた態度のせいでどちらかと言えば好感を持たれていた。

去年はおとなしくしていたサルコジは、来年の大統領選での再選を視野に入れて、ニース以来、攻撃に転じた。

水を得た魚のように、政府は生ぬるい、セキュリティ怠慢、司法も無責任、自分ならシリア帰りの過激思想の持ち主は全員収監で外に出さない、などと叫んでいる。
ニースの警備についてカズヌーヴが嘘をついたと訴えたニースの市警察官も出てきた。

で、カズヌーヴさん。

教会テロの翌日だったかラジオでインタビューされて丁寧に解説していたのだが、それを聞いていて、この人が内務大臣でよかったなあ、と心から思えたのだ。

まず、サルコジとは対極にある「しゃべり方」の上品さ。

とにかくフランス語がきれいだ。

詩の朗読でもしてほしいくらい。

「田舎の公証人」というより「お公家さん」のイメージ。

で、とてもソフトなのに筋金入りの社会主義者。

どんなにサルコジに煽られようとも、

「法治国家」を守るという名目で法治国家をやめるわけにはいかない

何があってもフランスを「警察国家」にはしない。


と明言。

ばりばりの「政教分離主義者」であるが、カトリックのポントワーズ(パリに近い北部)司教であるスタニスラス・ラランヌとの交友は知られている。
「法治国家」や「政教分離」や「人権」のルーツを今のフランス・カトリックと共有しているようだ。

ラランヌ司教は、今回のテロについて、

Il n’y a pas de miséricorde sans justice.
(正義なしのいつくしみはない。)

とコメントしていた。

この二人のコンビが、何か希望を抱かせてくれる。

フランスでテロが続く時期が、ソフトだが信念に満ちたこの二人のコメントが多くの人の耳に届く時期と重なったのは、「不幸中の幸い」を超えた、「天の配剤」? いや、この困難な世の中で、人が共生に向けて成熟することを助けてくれるチャンスのような気がするのだ。

(こんなことを言いたくないが、参院選や都知事選にまつわる日本のメディアの報道を見ていると、希望とか成熟とかチャンスとかいう言葉はとても浮かんでこない・・・)
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by mariastella | 2016-07-29 00:58 | フランス

喪のディスクール

(この記事は前の記事の続きではなく、雑感に近いものです)

死の前で悲しみにくれる人にかける言葉というのは難しい。

テロの犠牲者が出るたびにフランスのカトリック教会は追悼ミサを捧げ、司教たちが説教で喪のディスクールをしてきた。

基本は一貫している。

非道は弾劾するが、憎しみや怒りよりも、祈りを通して和解と赦しと希望を呼びかける。

でも、「当事者」でない時は、その言葉が悲憤する心に届かないことがある。「余命宣告」の受容と同じで、受け入れる心にも段階がある。

仏教の『長者子懊悩三處経』というのに、林の中を散歩中、妻に花を所望された夫が木に登り、転落して死んだ話が出てくる。

夫の父母(長者)がそれを知って駆けつけて息子の頭を抱きさするが蘇らない。悲しみで五臓がいたむ様子を人々は哀痛した。

そこに仏陀が阿難と共に通りかかり、長者に告げて言う。

「人に生死あり、ものに成敗あり、時到りて命尽くるは避ける能わず。
故に憂念を去りて慼(うれ)ふる勿れ。
此子、天上より卿が家に来たり、壽尽きて卿が家を去る。
これ天の子にもあらず、また卿の子にもあらず、子の因縁に縒りて生死す。なお旅客のごとし」

とても仏教的で、執着から来る悲しみを慰めて悟りに至らせる至言だと思う。

でも、実際問題として、まさに、事故死したばかりの息子の亡骸を搔き抱いている親の心に届くだろうか。

私がこの息子の親だとしたら、今はほっといてほしい、存分に嘆いて天を恨ませてほしいと思うかもしれない。
もっと言うと、息子に花を所望した嫁に「あんたのせいだ!人殺し!」と理不尽に怒ることだってありそうだ。

だから、いくらお釈迦さまやカトリック教会が正論を言ってくれても、

「当事者でないあんたたちに言われたくない」

と思う人がいてもおかしくない。

でも今回は、まさにフランスのカトリック教会の司祭が教会内で惨殺されたのだから、フランスの司教たちが「いつも通り」の言葉を発しても、「当事者」なのだから、きれいごとだと言われずに皆からちゃんと聞いてもらえる。
11月のテロの後で被害者の家族が「テロリストを憎まない」と言って感動されたのと同じだ。

だから、今回のテロの後での「喪のディスクール」には注目させられる。

水曜日にWYDでポーランド入りした教皇が、集まった若者たちに向かって

「はい、まず、アメル神父のために一分間の黙祷をしましょう」

などと言わずに、

「恐れるな、be happy, be joyful」という感じのことを言ったのはよかったなあと思う。

で、フランスのパリのノートルダム大聖堂で追悼ミサをしたアンドレ・ヴァントトロワ大司教。

すべての人に自由を訴えて一体となる希望が絶望の道、死の報復を遮る、アメル神父はこの希望に生かされていた、

というのは大切なイントロ。

「シェルター症候群」のたとえもよかった。

「シェルター症候群」とは

金持ちの核シェルター、庶民の垣根、防犯システム、各種保険、国に絶対のセキュリティを求め、少しでも齟齬があると責任を追及しまくること、すべては「閉鎖」の手段だ。
過去に要塞都市や城砦でもできなかったことを今は完成できるはずだ。
我々の財産を盗むもの、他の土地から我々のところに来る者に対して防御しよう。
壁と、国境と、沈黙によって身を守ろう。

という昨今の傾向で、テロリストはその恐怖と分断につけ込む。

それに対抗する力は、アメル神父の生き方をインスパイアしていた「希望の」中にしか見つけられない。

など、キリスト教の「信仰、希望、愛」の「希望」を強調している。

とても良い、というか、あるべき説教だ。

でも、私はそれをまとめるための聖書の言葉の引用に違和感があった。

彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す、わたしはあなたを悪人の手から救い出し/強暴な者の手から解き放つ。

という「主のことば」だ。

前の記事でも書いたけれど、書かれた時代背景が広範にわたるコーランと違って、「イエスのことば」とされるものは短期間なので、それなりに整合性がある。

でも、旧約聖書となると、コーランよりももっと複雑ないろいろなテキストが編集されたものだから、そのどこかのフレーズを取り出すだけなら、それに反するフレーズだって簡単に見つけ出される。

神学論議は別として、聖書の言葉を「都合のよいように利用する」人たちはいくらでもいる。

だから、大司教が今回のように一般にも注目される「喪のディスクール」において引用するときは注意した方がいいのではないだろうか。

この引用は「最終的に悪が栄えることはない」、と力づけてくれるわけだけれど、エレミア書の15章からの引用であり、その前後を確認してしまう一般人には突っ込みどころが多すぎてなんだか恣意的に聞こえる。

また、詩編59の

神はわたしの砦の塔。慈しみ深いわたしの神よ。

というのも引用される。

「シェルター症候群で閉じこもってはいけない、愛の神こそが最強の砦なのだ」

という文脈の中では素晴らしい言葉だと思う。
テロリストがどんなに蛮行を重ねても、最終的には愛の神こそが、それを防ぐ要塞なのだ。

でも、その詩編の前の部分には

わたしの神よ、わたしを敵から助け出し/立ち向かう者からはるかに高く置いてください。悪を行う者から助け出し/流血の罪を犯す者から救ってください。
御覧ください、主よ/力ある者がわたしの命をねらって待ち伏せし/争いを仕掛けて来ます。罪もなく過ちもなく悪事をはたらいたこともないわたしを/打ち破ろうとして身構えています。目覚めてわたしに向かい、御覧ください。
あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください。悪を行う者、欺く者を容赦しないでください。

だとか

御怒りによって彼らを絶やし/絶やして、ひとりも残さないでください

などというフレーズもある。

「復讐するのは神にあり」

で、人間が神に代わって人間を裁いて報復殺人をしてはいけない、というのは分かるけれど、

「神様、仏様、どうか悪い奴らに神罰、仏罰をお与えください」

という気持ちは古今東西「人間的」なのだ。

教会内で殺されたカトリックの司祭を悼む喪の言葉を、カトリックの大聖堂でおそれおおくもカトリックの大司教が発するのだから、もちろんそれを素直に受け入れて慰められ勇気づけられる人を対象としているので、こんな感想を抱くのは筋違いだろう。(すみません)

でも、今回のようにフランスのカトリック教会がテロの「犠牲の当事者」であってその言説が広く共有されて注目されている時だから、引用された素晴らしい言葉の前後を検索してしまって勝手に違和感をいだく私のような馬鹿な人もいるかもしれない。

「聖典」からの引用というのは慎重にしなければいけないなあ、と自戒を促されてしまった。
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by mariastella | 2016-07-28 19:55 | 宗教

教会テロが一つのチャンスだと思えてきたわけ その2

これはその1の続き。

その2は、タイミングだ。

このテロは、ポーランドの世界青年の日(WYD)の開会日に起こった。

普通なら、フランスは、バカンス時期で、ジャーナリズムも含めて、社会のリズムが緩慢になる。
まあオリンピックが始まったらメディアはオリンピックをネタにしていくだろうが。

ニースのテロのネタは盛り上がったけれど、犯人が単独行動のチュニジア人で、ジャーナリズムが大好きな「フランス生まれの青年がISに洗脳され過激化し、帰国したのにちゃんと危険分子として拘束されずにテロを実行」というステレオタイプとは、ずれていた。

そのせいもあって、10日も経てば、来年の大統領選で社会党からの政権奪取を図る保守勢力が国家警察の警備不備などを告発したり、今のセキュリティはなっていないと非難したりする口実になり果てている。

そこへ犠牲者の数としては小規模だが、シンボリックな意味が濃い今回の事件。

しかも、フランスのカトリックがわりと近いポーランドのWYDに集まったり目を向けたりしている時期だ。
教皇が水曜に現地入りして木曜にミサを挙げる。

200万人の若者が集まっている。

フランスからISに渡ってジハードのための「軍事訓練」を受けている若者が数千人もいると恐れられているが、WYDには3万5千人も行っている。

そこで恐ろしいテロのニュースを聞いたが、たくさん集まっている司教たちから、

「報復は悪の勝利だ」とか

「命を造った神ならいかなる神でも私たちに殺しあえなどとは言わない。我々(キリスト者とムスリム)は信頼と尊重のうちに共同のプロジェクトを築いていかねばならない」

「殺すのには勇気はいらない。異なる人たちとのきょうだい愛を育てることに勇気が必要だ」

などと畳みかけられ、まあそれはいつのWYDでも繰り返されるものではあるのだけれど、今回は「リアルなコンテンツ」となった。貴重だ。

そして、若者たちを見ていると、フランス人はもとより、やはりテロのニュースをポーランドで知ってショックを受けたドイツ人たちもいるのだけれど、そこでは、「闇」よりも圧倒的に「光」が支配しているので、やがて笑顔が戻ってくる。

この世界は若者たちが笑い、集い、歌える世界でなくてはならない。

時として、一握りの悪いニュース、スキャンダル、揶揄、非難、弾劾、嫉妬などの言葉ばかりが増幅されるこの世の中で、クラクフでの数日間は愛と希望のメッセージが優先され、先行し、伝染する。

若者たちは「試練」とどのように戦うのかのメッセージを受け取り、それを私たちに伝えてくれる。

この「試練」がこのタイミングで起こったことに神慮が働いていないなどと、誰が言えるだろう。

(この後、その3の「ベルナール・カズヌーヴ」、その4の「フランスのムスリム」が続く)
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by mariastella | 2016-07-28 00:27 | フランス

教会テロが一つのチャンスだと思えてきたわけ その1

さっき、サイトの掲示板で、

「(・・・・)今回の事件によって、「信仰の炎」が心の中で燃え上がるような想いがしております。
愛と赦しといつくしみによる生き方をせよ、そして広めよ、一刻も早く、おまえの身の回りからすぐにでも始めよ、ぐずぐずするな、ぼうっと見ている場合ではない、傍観者になるな、日々の生活のすべての局面で積極的に行動せよ、福音にのっとった生き方によって、ということかな、と」

という投稿を拝見して、すごい、日本でも、カトリックの人はこういう反応をするのだなあと嬉しくなった。

私の返事は、ここにも書こうと思っていたことの一部なので貼り付けておくと、

・・・そのようにお考えになれることが、今回のテロでカトリックの司祭が犠牲になったことの大きな意味の一つだと思います。

フラ・アンジェリコの言葉に

「世界の闇は一つの影に過ぎない。その後ろに、我々の手の届くところに、喜びがある。この闇の中には、我々に見えることが出来さえすれば、素晴らしさ、言い表せない喜びがある。そしてそれが見えるためには、見ようとするだけでいいのだ」

というのがあります。

(キリスト教は)死からの復活だけではなく、今ここで呑み込まれた闇からの復活でもあります。

「死」を前にしても「光」の方を見る、ということですよね。

普段はそういうことが理屈としては分かっていても、こういう事件がそういうことをリアルな実践として教えてくれるのは「恵み」なのだと思います。

アメル神父が将来復活するかどうかよりも、今、この世での使命をより広げて新たな使命を遂行し続けているんだなあと思います。

罪のない子供や若者たちがテロの犠牲になるのももちろん不当で悲しいことですが、それだけにリアクションが「怒り」や絶望や恐怖や報復に向きがちです。

アメル神父が犠牲になってくれたからこそ見えてくるもの、言葉にされる赦し、意識される友愛の必要性、などを感じて、感謝の念すら覚えているところです。・・・


ということで、今度のテロがチャンスだと思うのは、「テロの場所と犠牲者」だ。

フランスの風土に密着している、小さな町のカトリックの司祭が犠牲者になったこと。

しかも、若い神父とか外国人神父(実際、アメル神父は2005年に定年で教区司祭をやめていて、この教区にもコンゴ人の司祭が就任した)ではなく、40年以上もムスリムとの共生活動をやっていて、相変わらず洗礼も葬儀も結婚式も司式して町の人の生活と密着して「いかにもフランス人らしい」神父であったこと。

イスラム教の人たちとも、一応カトリックでも教会に来ない人た(これが一番多い)とも親しく付き合い、皆から愛されていた。

テロリストの19歳の青年は、いわゆるムスリムではない。
「シリアに行ってアサドの兵士をできるだけ殺さなくては」という使命だけをISというカルトから洗脳された犠牲者で、「コーランの一節だって知らなかった」と町の他のムスリムが証言している。

で、そのシリア行きを阻まれて鬱屈しているところにISから

「大丈夫、君の使命は、君の手の届く範囲のところでだって遂行できるよ、近くの教会で不信心者を殺す、それだって立派な聖戦だ、大げさな武器弾薬がなくてもいい、信仰さえあればそこいらの刃物でも戦えるよ」

みたいなことを吹き込まれて実行に踏み切ったわけだ。

それについては後の記事でまた触れるが、とにかく、このアメル神父が惨殺されたことで、カトリックの論客や、宗教の論客が、問題を初めて綺麗ごとでなく「当事者」として語ってくれることになった。

「当事者」の最たる人は、アメル神父自身で、この夏休みに入る前の教区報に、夏の祈りのアドヴァイスとしてこういう文を載せていた。

「今の時期に私たちの世界で起こるだろうことに注意を向けて、

最も祈りを必要としている人たちのために、

平和のために祈りましょう」

こういうメッセージを発していた人が殺された時、残された人は、情緒や怒りに負けないで、何が本当に大切なことなのか、何をすべきなのかを考えざるを得ない。
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by mariastella | 2016-07-27 23:27 | フランス

フランスの教会テロの続き 福音ってなあに? 「いかる前にいのる」

まず、昨夜7/26の夜のニュースをテレビで見た後に書いたものを。

テロリストの2人組は、ニースの犯人と違ってここ数年の典型的なフランス生まれテロリストだったようだ。

身元が発表された一人は19歳で地元(人口3万弱の町)のモスクで過激思想に染まり、シリアでISに合流しようと出発してトルコで追い返され、スイス経由でパリに送られ、短期間の拘留を経て電子足環をつけて釈放され親元で暮らしていた。土日以外の午前中は外出可能で、火曜の9h30からの教会ミサに9h43に行くことができたわけだ。

平日のミサだから、3人のシスターと2名(?)くらいの信徒とジャック・アメル司祭の6人だけだったそうで、司祭は専属ではなく臨時しかし定期的に来る人だった。

86歳の司祭というと、なんだか古き良き時代の保守的な人だと思ってしまうかもしれないけれど、それは一昔前のこと。今80代後半の司祭は、30代の活きのいい時に第二ヴァティカン公会議の風に吹かれて、異宗教間対話などを何十年も続けてきた進歩派が少なくなく、アメル司祭も、イスラム教徒の交流グループの中で長年働いてきた。

教会から抜け出したシスター・ダニエル(他のシスターは入院中)がインタビューに答えていたが、司祭は祭壇から降ろされて前に跪かされて、二人のテロリストが壇上でアラブ語で話したり、キリスト教徒は殲滅、などと言ったりしていたそうだ。シスターは自分も殺されると覚悟した。彼女の肩を抱き頬にキスするムスリムの女性の姿が印象的だった。

2015年の春にパリ近郊の教会がテロの標的になっていたのを事前に検挙して以来、教会周囲のパトロールが日常的にされるようになったけれど、フランスの45000の聖堂のうち、セキュリティ・システムができたのは1227だけだそうで、観光客も来ないような小さな教会は問題外だろう。(それでも、セキュリティをこれ以上強化して教会を閉鎖的な場所にするつもりはない、と言うのは立派だ。オランド大統領もこれ以上人権や自由を制限するような処置をとるつもりはないと言っている。なおフランスのすべてのシナゴーグ300、モスク2000は警備されている。)

と、ここまで書いて、続きも書くつもりだったけれど、今朝のラジオでいろいろな人の意見を聞いていて、実はなんだか希望にあふれてきた。

普通なら、あい続く様々な形のテロ、絶望と恐怖が沈潜してもいいし、カトリック教会でミサ中の司祭が残酷に殺されたということで、「神も仏もあるものか」、「ほーら、宗教戦争」、「教会は神の家、守られているはずじゃないの ?」etcの気分があっても不思議じゃない。

実際ニースのテロで元気を得ていたサルコジなどは新たな燃料を与えられたように舞い上がり、極右とともに、「シリアに行こうとして戻った奴は裏切り者、非国民だから全員収監」、という具合に意気軒高だ。

そしてイスラエルのセキュリティシステムがいかに徹底しているかを称揚。

でも、これらに対して、すごく本質的でポジティヴな議論が今回初めて耳に届いてきた。

カトリックの人が、「あまりのショックで怒りの形で反応することさえできず、祈るしかなかった」と言っていたが、そのおかげなのか、フランスの全宗教の代表者も今回初めて本質的なことを言い出した。

宗教一般を揶揄していたカリカチュア雑誌へのテロや、ユダヤ人へのテロや、劇場やカフェや花火大会の無差別テロでは、皆が一般論に終始していたものが、「フランス最大の宗教であるカトリックの教会でミサ司式中の司祭が殺された」、というショックが、いい種となって、希望をもたらしている。

しかも、こういうとき、その昔やはり不当に残酷に殺されたイエス・キリストの残した「神よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは自分のしていることが分かっていないのです」という感じのメッセージがはっきりしているのが怒りや憎悪の抑止力になる。

長い時間をかけて書かれてきたムハンマドによるコーランの言葉に比べて、イエス・キリストの言葉というのは基本的に福音宣教をした2年くらいのものなので、分かりやすい。

で、啓蒙思想や革命思想や無神論の潮流もしっかり泳いできたフランスだけれど、カトリック教会でアメル神父が殺されたことで、新自由主義やナショナリズムに圧倒されて眠っていたキリスト教由来DNAのいいところがようやく目を覚ました。
これは、カトリック教会の言葉だけでなく、フランスの文化と伝統を共有するすべての人のことだ。

これを見たらアメル神父は喜ぶかもしれない。

「…の死を無駄にしないように」という決意とかではなく、ある種の死によってだけ生まれるものがある。

では、教会テロの翌日、私の心を明るくしてくれたいろいろな言説についてはこの後の記事で書くので楽しみに。
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by mariastella | 2016-07-27 17:43 | フランス

WYDクラクフ(クラコヴィ)大会(ポーランド)とフランスの教会テロ

カトリック教会が主催する青年の集まりとしてワールド・ユース・デイというのがある。最近は3年ごとで、前回が、南米出身初のフランシスコ教皇の就任初の遠出となった同じ南米のリオ・デ・ジャネイロだった。

ヨハネ=パウロ二世(JP2)が1984年からはじめたので、JP2世代と呼ばれる世代がこの催しものと共に成長した。

前回ポーランドで開催されたのは1991年のチェンストホーヴァで、この時の大会で知り合って結婚したという30代から40代のカップルがポーランドにはたくさんいるそうだ。その人たちが家庭を参加者のホームステイの場に提供している。

フランスからは35000人が参加。

ニースからの巡礼グループもキャンセルは全くなかったそうだ。気持ちはわかる。日本のグループもfacebookがあるので雰囲気が分かるだろう。

日本から参加するのってどのくらいかかるのだろうと検索すると、一例(リオの時)として、
289,300円
【内訳】
 旅行代金(186,700円)
 大会参加費・宿/食事・その他現地プログラム(103,000円)
ほかに、燃油サーチャージ、空港税、海外旅行保険料、入国ビザ取得代金
18歳(高校生を除く)〜35歳
国籍は不問。(ビザ取得条件についてはお問い合わせください)

で定員90名で先着順というのを見つけた。

うーん、当然だけど高額だ。

フィリッピンの時は交通社が組んだツアーで観光込みで39万円というのもあった。

フランスではいくらかかるかちょっと検索。

今回はヨーロッパ内なので一例(カンブレ司教区の場合: 250人ほど参加希望)大型バスを仕立ててみんなで行って600ユーロぐらい。(6万円台?)

年齢は18〜29歳。 16歳以上18歳(フランスの法的成人年齢)未満は一人につき、一人の成人の責任者を必要とする。

30歳以上はオーガナイザーとして参加できるが数に制限あり。

カトリックは「普遍」なので、誰でも参加OK。

他の人を丸ごとリスペクトすること、趣旨に賛同していることが条件。

洗礼を受けていなくても、大丈夫。


参加の申込金150ユーロを支払えば、いろいろな関連グッズを渡してもらえて、それを売れば、その売り上げの大半を旅行費用の足しにできる。

またすべての希望者が行けるように広く寄付を募る。

富裕層は別として平均的な人は寄付したお金の七割は税金控除の対象になるので100ユーロの寄付は実質30ユーロの出費となる。基本的に、費用だけのせいであきらめることのないシステムになっている。

3年前のリオの大会では、日本から行くよりもさらに遠い感じになるが、リヨンの例を挙げれば、2100ユーロとさすがに高い。

申込時に800ユーロ(分割でもOK)を払えば、残りの1300ユーロは関連グッズやケーキや雑誌の販売によって賄えるように助けるから心配するな、とあった。

世界最大規模の青年の集まりで、以前にも書いたが、カトリックという言葉は入っていないし、上にも書いたように、参加資格に宗教を問わない。

フランスのような国(カトリックの参加者がいくらでもいそうな国)で参加資格にしっかりそれが明記されている。

日本の募集にも公式のものにはカトリックであることが条件であるなどとは書いていないようだけれど、もともと絶対数が少ないのだから、もっと広く宣伝するという考えはないのだろうか。

「福音宣教」のチャンスのように思えるのだけれど。

それとも日本の教会はすでに洗礼を受けている人たちの「司牧」が中心なので、他に手を広げたくない、
もともと同調圧力のある国だから、空気を読めない人が混ざるリスクは犯したくない、
また、カトリックでない人にはもともとハードルが高い、
さらに、「カトリックでもない若者」に渡航費用の援助などをしたくない?

なんとなく「カトリックの行事」というコンセンサスだけがある?

よく分からない。

さらに検索すると、日本でも、今回の募集について、イグナチオ教会では自己負担3万円であとは信徒みんなで支援というのが若干名に開かれていたのが見つかった。

しかしハードルは高い。

「熱意にあふれる若手信徒の皆さまの応募を心よりお待ちしております。」

で、「信徒」と明記。

「参加資格 大会参加時点):当教会に所属する18歳(高校生を除く)から35歳の信徒。国籍不問。」
で「課題レポート」の審査と面接がある。

レポートの課題テーマは
A:自分自身の信仰の歩みについて
B: 聖イグナチオ教会で10 年〜15 年後にやってみたいこと
C:テーマ自由(ただし信仰にかかわること)
のいずれかを選ぶ。

これは大変そうだ。

でも、もし公式巡礼団が「信徒かどうかを問わない」と明言しているなら、私が今日本に住む20代の普通(つまり宗教帰属意識が特にない)の若者だったとしたら、絶対に参加したくなりそうだ。

普通のツアー旅行と違って、ホームステイをはじめ現地の人とも、そして世界中から来る人々と楽しくお祭りができるなんて、稀有のチャンスだと思う。

いや、もし他宗教に帰属意識があったとしたら、なおさら、好奇心もあって異文化体験に参加するだろう。

日本のいわゆるミッションスクール系の学校にはカトリックでない生徒や学生が大半だと思うけれど、彼らの中にそうやって参加している人がいるのだろうか。

それとも教会のいわゆる青年会みたいなものに所属している若者が中心なのだろうか。

ミッションスクールにも教会にも縁がなかったのでよくわからない。

でも、フランスから参加している若者たちはほんとに楽しそうで、ミュンヘンからきている高校生が無差別銃撃事件を知ってショックで泣き出したのをみんなが慰めて一緒に祈ったりしている姿を見るのも心が温まる。

こんなにたくさん若者が集まって、教皇とも会える。

テロのリスクも心配だが、ヨーロッパの他の国よりは危険度が低く、今回はNATOの集まりと同程度の警備態勢だというので大丈夫だとは一応言われている。

世界中から若者たちが集まり、楽しみ、歌い、踊り、愛し合い、祈るというイヴェントは地球の未来に希望を与えてくれる。

無事に終わることを祈ろう。

追記: 7/26に、フランスのルーアンの近くの教会で司祭が殺された。

WYDで若者に付き添ってポーランド入りしていたルーアンのルブラン大司教は急遽教区に戻ることにした。

「カトリック教会は祈りと人間同士のきょうだい愛以外の武器はとらない」とコメントした。

「真の人間性の未来である青年たちをここに残します。彼らが暴力の前に屈せずに愛の使途となることを願います。」と。

フランス司教協議会であるマルセイユのジュルジュ・ポンティエ大司教(ポーランドに残っている)は「我々の武器はいつくしみ(神の愛)である。」とコメント。

「きょうだい愛に依拠する生活を築くにはいろいろなドラマやいろいろな段階を経なくてはならないと分かっている。でもそれは我々の祈りを一層強くする。特に今年はいつくしみについて考える年だから。」

「いつくしみが我々の武器である。復讐ではない、憎悪ではない。我々キリスト者の武器は、キリストに続くことである」

なるほど。

これに対して、フランスのチベット仏教者は、「寛容や平安や慈悲と、このような蛮行を阻止するために不可欠な措置をとることとを混同してはならないことをそろそろ学ぶべき時が来た」とコメントしていた。

殺意をもって弱者を攻撃するというのはおぞましい。

自爆テロやカラシニコフをもって突っ込まれたら、屈強な男たちが集まっていても阻止できないだろうけれど、刃物一つなら、クラブ・マガなどの護身術の心得のある人なら取り押さえることができるかもしれないし、何人かが協力したら、怪我をしても阻止できるかもしれない。
でも刃物をもって障碍者施設だとか、丸腰の8486歳の宗教者が「お勤め」をしている聖堂を襲うなんて、ほんとうに蛮行中の蛮行だ。コンテキストは違うけれど病理は共通する。
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by mariastella | 2016-07-27 00:35 | 宗教

相模原死傷事件をフランスで聞いて思ったこと(追記あり)

朝のラジオで真っ先に、日本の相模原の施設での殺傷事件を、死者19人で第二次大戦後最大のtuerie(殺害)だと盛んに繰り返しているのを聞いたので驚いた。

私は日本のネット情報を見ているから、昨夜から事件のことは知っていたし、相模原市は両親の住んでいた場所でもある。

でも、「戦後最多の死者数」とは強調されていなかったと印象なので、フランスでの「見出し」に違和感を感じた。

ニースの後、ドイツのテロが大きいニュースになっていて、そのたびに犠牲者の「数」が並びたてられるので、日本の事件もなんだか同列に響くのだ。

で、そうなのかなあ、となんとなく私の思いつくものを検索したら、地下鉄サリン事件の犠牲者が13人、秋葉原通り魔事件の犠牲者が7人…などだった。なるほど19人は多い。

それでもフランスで何度も「日本で戦後最多の」と繰り返されると違和感があるのは、比較の対象にはない交通事故、特に飛行機事故、さらには何千人規模の大震災の犠牲者の数のインパクトの方が私の中でずっと大きかったからだと気づいた。

確かに、事故や天災は、テロや犯罪とは全く種類が違う。

そして、あらためて、戦後どころか、有史以来フランスには地震や津波がなかったのだなあ、と気づかされた。

フランス国内で起こった「事故」も、去年のジャーマンウィングスの飛行機墜落(これは副操縦士が故意にやったものだから事故というより犯罪に近いが)が150人の犠牲者というのが記憶に新しいし、大型バスの事故なども時々起きているけれど、これも、いまだに日本の日航機の「単独機として世界最多の犠牲者520人」の方が、30年たった今も私にとっては強烈に記憶に刻まれている。

犠牲者を「数」で比べるなどは、もとより「報道の言葉」に過ぎないけれど、「時代と場所のコンテキスト」が報道の言葉とその受け取り方にもたらす恣意性やインパクトの差は大きいとつくづく思う。

たとえイデオロギーやカルトの洗脳などによる計画された「テロ」などでなくても、精神のバランスを崩していたり不全感があったり薬物に頼ったりしているような人々が殺傷行為に踏み切る背景には、テロに対する報道の仕方や情緒的反応などがないとは言えない。

情報を受け取る一人一人が冷静になること、情報から距離を置いたり見方の角度を変えたりして情報に淫しないことが大切なのをあらためて肝に銘じよう。

追記: 同じ朝、ルーアンの小さな教会に刃物を持った二人の男が押し入って、84歳の司祭の喉を搔き切ったという事件があった。ミサに参加していた信徒の一人も重体だそうで、逃げ出した修道女の通報によって駆けつけた警察の特殊部隊によって犯人は二人とも射殺された。去年も教会へのテロ計画が発覚したことがあった。この記事を載せたばかりだったけれど、フランスで起こったことで、84歳の老司祭の喉が搔き切られたなんて、情動的に揺さぶられる。また一神教同士の戦いとか何とか言われそうなのも複雑だ。)
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by mariastella | 2016-07-26 20:12 | フランス

ドーピングが「悪い」わけ

リオのオリンピックに関して、ロシア選手団の到着が報じられ、国ぐるみのドーピング問題についてあれこれ議論が続く。

ロシアへの牽制というか制裁というのは今の国際政治や経済の問題と切り離せない様々な思惑があるのは当然だろう。でも表向きにはすべて、ドーピングはオリンピックの精神に反する、とかスポーツの精神に反する、という分かりやすい「悪」として語られる。

けれども、ツール・ド・フランスや自動車レースのように、機械や制御システムの性能をどんどんよくしていくことは当然だと思われる。

競泳ですら、ある種の水着だと水抵抗が極端に減って好記録が出るのが問題になったことがある。

陸上競技のスパイクだのスポーツの道具に関してどんどんテクノロジーが進化するのも分かる。

マッサージの技術やクリオテラピーのような方法で筋肉の疲れを取り去るとか、薬物、化学物質の投与なしでもいろいろな方法が研究され、実施され、メンタルケアにも専門家が動員される。

その様子を見ていると、より高く、より速く、などというスポーツにかける夢を追うために、ヒトがヒトたるゆえんである「道具作り」などに精出すのは当然なような気がする。

どこまで人は速く走ったり泳いだりできるのか、の限界を追う壮大な実験のようなものだ。

スポーツへの情熱の中に「限界を超える」というものがあるのは当然だ。
無責任な観客としてはそれがどこまで行くのか見てみたい。

だから、ドーピングが「悪」であるのは、必ずしも「スポーツの精神に反している」からではなく、

むしろ、「基本的人権の侵害」であるという一点でいいのではないだろうか。

機械や部品にはいくらテクノロジーを駆使しても構わないけれど、生身の若いアスリートの生理を変性させるような化学物質などを与えてはならない。

一瞬の栄光のために若くて健康な人間をアディクションに陥らせたり、長く健康に生きるチャンスを減らしたりしてはてはならない。

ましてや「国の栄光」のために自然に健康に生きる権利を犠牲にしてはならない。

「ドーピングなし」ですら、多くの一流アスリートが無理をして故障したり再起不能になったり、わずか20代や30代で引退し体がボロボロになるケースは少なくない。
その種目に有利な特定の体形や特定の筋肉強化が追及される。

彼らの受けるマッサージなどのケアも、そのスポーツに特化したものなので、長い目で見るとバランスが崩れて不自然になる。

それでも「後遺症」に悩むアスリートの証言はたまにしか耳にしない。士気がそがれるような情報は隠ぺいされるからだろう。

もちろん、あるスポーツについての天性の才能がある人がその分野で花開けるのはいいけれど、今のスポーツ=メディア=経済=政治が切り離せないような「国際舞台」で活躍するためには、「素のまま」でトップ・アスリートになることはまず不可能だろう。

大きなロジックに取り込まれてしまう。

「消費されてしまう」と言ってもいい。

そんなアスリートが輝かしい勝利をおさめて家族総出の祝福を受ける様子などを眺めるのは嬉しい。

でも私のような人間は、正直言って、もし自分の夫や子供がそういう世界で活躍する(あり得ないことだけれど)としたら、まるでカルト宗教に奪われるような絶望感に苛まれると思う。

自分も入信していっしょに盛り上がってしまえ、と思えるだろうか。

ましてそこにドーピングの影が見えたなら、私にとっては「人権侵犯」であって、「オリンピックの精神に反する」なんて綺麗ごととは遠くかけはなれた別の世界である。
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by mariastella | 2016-07-26 16:12 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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