L'art de croire             竹下節子ブログ

<   2016年 08月 ( 37 )   > この月の画像一覧

komonoの話

先日、朝のラジオで、ナレーターが

「さがしものをしたことがありますか? 人はなんと平均生涯の2ヵ月を探し物に費やしているのです。いらないモノを捨てましょう。日本語にはこういう言葉があります」

という感じで話し始めたので、思わず耳をそばだてた。

さてはあの「断捨離」という言葉がついにフランスに上陸したのかなあ。

私はなかなか「断捨離」ができない人だけれど確かに探し物はよくする。
そのおかげで、探し物は見つからなくてもすっかり忘れていたものを見つけて喜ぶこともよくある。

で、どんな日本語かと言うと、「komono」なのだそうだ。

え、どんな経緯でkomonoが…?

「komono には4種類あります。

1.ノスタルジー。思い出のためにとっておくもの。
2.経済的なもの。高かったから捨てられない。
3.社会的なもの。リサイクルしたり寄付したりするためにとってあるもの。
4.備蓄。いつかは役立つに違いないと思ってとっておくもの。」

というのだ。

どうやら、つい捨てられないで堆積するモノのことらしい。

でも、日本語の小物って別にネガティヴな意味はない。

「和の小物」とか「キッチンの小物」とか、小ぶりのかわいいものを想像する。

確かにかわいいとか便利そうだ、場所をとらないと思ってついつい買ってしまう小物が溜まってごちゃごちゃしてしまう、というようなケースはあると思う。

何しろ小物だから小さくて、数が増えると何がどこにあるのかわからなくなって「探し物」を増やすこともありそうだけれど。

「高かったから捨てられない」小物というのは少し変だ。

小物というのは値段が手ごろだからこそ増えるのだから。

小さくても高価な宝石や時計は小物とは言わない。
むしろ「大物」の買い物だ。

もともと日本語の言葉って、アニメや漫画のおかげでちょっとおしゃれという先入観もあるフランス。

そのうち誰かに「komonoで困っているんだよ」なんて言われたら、なんてリアクションをしよう、といらぬ心配を少ししてしまった。
[PR]
by mariastella | 2016-08-31 00:40 | フランス語

「父の祈りを」(ジム・シェリダン)その3

(これは前回の続きです)

冤罪のテーマ

1972 年にイングランドの統治に反対する市民らのデモに陸軍が発砲した血の日曜日事件以来、IRAによるテロも激化した。
1975年のテロ特別法で、証拠がなくても容疑者を7日間交流することが可能になり、これが徹底していたので、IRAによるテロは実際下火になった。

法治国家では法が変われば正義も変わる。

9・11の後のアメリカの愛国法など、21世紀でもいくらでも起こるエピソードだ。

ただ、真犯人が名のり出た後もイギリス当局は主人公たちの再審をしないばかりか、実は、最初に主人公が自分たちのアリバイを証言してくれると主張していたホームレスの男を探し出していた事実も握りつぶしていた。

ホームレスの男の証言によって主人公らのグループがパブ爆破については無罪だと分かったうえで、それでも彼らがアイルランド人のヒッピーであることは変わらないのだから、政治的判断で「犯人検挙」を演出していたわけだ。

しかし、実は法廷に出さない極秘文書に、ホームレスの証言記録が残っていた。それを偶然見つけた弁護士によって再審が行われ、全員釈放となる。
それまでにはイギリス人も含めて多くの支援団体ができていた。
父を病気で死なせてしまった息子が父の無念を晴らすためにようやく本格的に抗議行動を起こすようになったからだ。
彼と父だけではなく親戚の子供たち(14歳のいとこなど)に至るまで、共犯を問われて服役し、人生を狂わされていた。

それにしても、そんな不都合な極秘書類、封印するぐらいだったら、どうして「破棄」していなかったのだろう。

証拠を隠すくらいに、恣意的で公正でない検察が、破棄だけはしないでとっておいたというところが、これも「先進的法治国家」ならではの「お花畑」ぶりという気もする。

しかし、これだけの歴史に残る「冤罪」であったにかかわらず、証拠を隠ぺいしていた検察側や暴力や脅迫で自白を強制した警察の側も、結局、だれも責任を問われず、だれも罰せられなかった。

ドレフュス事件を思い出す。
ドレフュスを冤罪に陥れた責任者たちはやがて何もなかったように昇格して出世している。

ドレフュスは「歴史」となり、ドレフュスを擁護した運動も「歴史」となったが、「責任者」も「真犯人」も雲散した。

一つの冤罪が生まれる背景には、たんなるエラー、判断の過ちなどではなく、その冤罪の出現を可能にする大きく重い歴史と政治の装置があるということだろう。

この映画は、今の時代に貴重なメッセージを伝えてくれる。

テロの脅威、非常事態宣言、テロ捜査における様々な特令。

今、過去に学ばなければ、私たちは「疑わしきは罰せよ」の安心感にきっと惹かれてしまう。
[PR]
by mariastella | 2016-08-30 00:27 | 映画

「父の祈りを」(ジム・シェリダン) その2

(これはこの前の記事の続きです)

父と子のテーマ

父と子が同じ房で暮らしていたというのはいくら演出でも不自然な気はする。

ともかく刑務所の中で二人はそれまでの生活すべてよりたくさんの言葉を交わして濃密な関係になる。

自分がはじめてサッカーの試合で勝った時に父親がほめてくれずに「ペナルティを誘発したのではないか」と質問したことを息子は忘れられない。

そこは父親が「よくやった」とまず祝福してやるべきだったというのは教育心理学的に正しいだろうが、この父親にとっては、息子のチームが勝つことよりも、息子が「不正をしない」「正々堂々と戦う」ことの方が大切で、それこそが息子に伝えたいメッセージなのだった。

だから、大人になった息子が泣き崩れても、父は「悪かった、本当はお父さんも君たちを誇りに思っていたんだよ」などということは言わない。

息子が峻厳な父からほしかったメッセージは、「よくやった」という言葉以前に「愛してるよ」という一言だったろう。

それは、子供の時も刑務所で同房に勝った時も実は同じなのだ。

父はそれを言わない。

息子を愛しているのは自明だからだ。
愛しているからこそ、「不正をしない」立派な人間になってほしいと思っている。

どうして母親が気づいてやれなかったのだろう。
「今はとにかくあの子に愛してるよとだけ言ってだきしめてやって、」と。

それは、父親が、この母親には「愛してる」と言い続けてきたからだ。
息子には「父」としての責任を感じて「正しい生き方」を見せ、「正しい生き方」を教えることが使命だと思って優先してきた。しかし、母親は自分の守るべき存在であり、愛を表明する存在だった。

だから母親はただ愛していると父親から言ってほしい息子の気持ちを忖度できなかった。
多分、自分自身は息子に「愛している」と言ってきたから、まさか息子が父からのその言葉に飢えているとは思わなかったのだろう。

もともと「愛している」という言葉を家庭で発さない父親なら息子もそこまで父の愛の表明を渇望しなかったかもしれない。でも彼は父が母に「愛している」と言えるのを知っていた。

父は息子がドラッグを吸うのが許せない。息子は「わかった、お父さんが生きている間はもう吸わないと誓うよ、それでいいかい」と言うのだけれど、父は許せない。

結局、一生吸わないと誓わされる。息子はいい加減な男だけれど、この父との間に交わされる「誓い」には二枚舌が不可能だということを知っている。

そして息子がそれを知っていることを父も分かっているので、安心するのだった。

このシーンは親子の間に実は強固な信頼関係があることをうかがわせて救われる。

父の死後息子が冤罪を証明するために戦うのは父の愛した母のためでもあった。
父が死んだ後、母に向け続けられた父の愛を表明することが彼の使命となった。

彼ははじめて父親から必要とされたのだ。

息子役のDD ルイスも父親役のPポスルスウェイトもさすがの名演だ。

ただ、見た目があまりにも違っているので、映画の中の父と母から絶対にこんな息子は生まれないだろうというレベルの違和感がついてまわった。
[PR]
by mariastella | 2016-08-29 00:32 | 映画

「父の祈りを」(ジム・シェリダン監督/DDルイス主演)1994

先日Arte で視聴したこの映画、テーマが多すぎる。

まず、悲しいくらいに「アイルランド」映画だ。

イギリスのEU加盟は1973年、この映画のもととなったIRAによるロンドンのギルドフォード・パブ爆破テロが1974年だから、まだ、南北のアイルランドの国境が取り払われて交流が進むという感覚はなかったころかもしれない。

それから40年も経って2016年の英国のEU離脱決定の後で、北アイルランドの人たち(祖父母や両親がアイルランド人であればOK)が英国のパスポートとアイルランドのパスポートの両方を持てるということで申請に殺到したというのは記憶に新しい。

分離独立運動は1998年に和平が成立したが問題は継続している。英国のEU離脱が決まった今、再燃することは間違いがない。

1.カトリックのテーマ

タイトルだが、日本語では「父への祈り」と、獄中で無念の死を遂げた父の慰霊をするかのように息子が生まれ変わって戦った、ような印象を与えるけれど、原題は『In the Name of The Father』で、これはもちろん典礼の「in the name of father son and holy spirit(父と子と聖霊の名において)」(その後でアーメンと続く)をもじったものだ。

父とはもちろん父なる神である。

映画の中での父はロザリオを持っていて、刑務所の中でも毎日ロザリオの祈りを唱えている。

それを見る息子は笑い飛ばす。

多分小さいころには家中で唱えていたものだろう。

それを刑務所に入ってからも律儀に続けている父を笑うのは、

「何をいまさら。あんたの聖母様(ロザリオは聖母マリアへの祈りが中心)が何もしてくれないから俺たちはこんな目にあっているんだぜ。すべてはこんなものを信じているせいなんだ。祈っても無駄なのは証明済みさ」

というような気持が哄笑となって出てきたのだ。

アイルランド問題の底には宗教問題がある。

カトリックが優勢なところに、宗教改革の後でスコットランドやイングランドから北部に入植してきたプロテスタント系住民が自分たちに有利な選挙方法で権力を掌握し、カトリックを迫害した。

住居や就職でも差別された。

この映画でも、父親の仕事が健康を蝕むもので、それはカトリックだからだと息子が指摘している。

また息子は無職でヒッピーまがいで盗みを働く「不良」だが、首からは十字架をぶら下げている。

カトリックであることは宗教ではなくてアイデンティティの問題なのだ。

ロンドンに行った息子とようやく電話で話せた時も親は「ミサには出ているか?」と尋ねている。
息子はもちろん嘘をつく。そこで「そんなもん、出るわけないだろ」とは言わない。

法廷に出る時も母親が陪審の印象をよくするためにと「日曜日の服」を用意する。
つまり地元では日曜には背広を着てネクタイを締めて親と共に教会に行っていたのだろう。

父は、刑務所の食堂で、テロの真犯人であるIRAの活動家と出会う。
彼に頼んで息子の無実を晴らしてもらうという意識より先に、父は無差別テロがゆるせない。

お前が殺したのは「すべて神の子」なんだ、と怒りを見せる。

唯一の救いは刑務所に聴罪司祭が出入りしていたろうということで、彼の死を息子に知らせに来るときにローマンカラーを付けた司祭がたずねてくる。

父の名がジュゼッペというイタリア名であることが妙なトラウマになっていることもおもしろい。

ジュゼッペは聖家族のヨセフであり、カトリック世界では普通の名だが、国によってジョゼフ、ヨセフ、ホセ、などと読み方が変わる。

祖母が父親を妊娠していた時に町にやってきたイタリア人のアイスクリーム売りがジュゼッペということでそう名付けたのだそうだ。
父親の生まれた時代のアイルランドで一人だけ「ジュゼッペ」という名で育つのは確かにトラウマになりそうで、息子までそれを意識している。

(続く)
[PR]
by mariastella | 2016-08-28 04:08 | 映画

ポケモンGO とカトリックの話

今朝のラジオで、誰が書いたのか聞き逃したけれど、おもしろい記事のことが紹介されていた。

フランスでも人気のスマホアプリ「ポケモンGO」に関してだ。
このアプリはスマホ画面を通して見る現実の場所の中にポケモンが登場するのをキャッチするというもので、公園などいろいろなところに人々がスマホを眺めながらおしかけるということで問題にもなっている。

リアルの世界にアニメのキャラクターが登場するといういわゆる「拡張現実」(Augmented Realit)というやつだ。

で、この現象を評した誰かが

「神、人はそれを信じる。

ポケモン、人はそれを見る。

幻想(イリュージョン)は信仰よりも強し」

と言ったのだ。

キリスト教は、名もなく姿も見えない一神教の神に、受肉した「子なる神イエス・キリスト」という姿を通して可視化したけれど、そのイエスも二千年前に昇天したので今は見えない。

それで、人々はせっせと、イエスの生まれた時から十字架で死んで復活して昇天するまでの姿を描いたり彫ったりしてきて拝んでいる。
見えるものそのものを拝むのは偶像崇拝だから、図像は信仰の手助けにするためにあるはずだけれど、
「リアルに見えないもの」を信じるというのはそれでも難しかったらしく、昔から、幻視者、見神者、神秘家というのがいて、リアルのイエスや聖人や聖母マリアの「ご出現」をたりお告げを聞いたりする話はことかかない。

考えてみたら、「ご出現」ってまさに拡張現実だよなあ。

深夜のチャペルに呼び出されると椅子に座っている聖母に出会うカタリナ・ラブレー、誰にも何も見えないルルドの洞窟に聖母マリアが現れるのを見て感激するベルナデット、彼女らは神秘のアプリをダウンロードしていたのだろうか。

スイスの国境から遠くないフランスのベルガルドの教区司祭は、多くの教会の前庭がポケモン探しのポイントになっている(ベルガルドの場合がまさにそう)ことを『ラ・クロワ(カトリックの日刊紙)』の記事で読んだ後で、このチャンスを逃す手はないと決心して 教会の扉に貼り紙をした。

「教会の前にようこそ ! ポケモンをさがしに来たんだね。
でも、知ってるかい ? この教会の中には、
君のことをさがして君を待ってるどなたかがいるんだよ。」

というものだ。拡散OK と言っている。

「君を待っている」のが「まさかピカチュウじゃないでしょうね?」とジョークで返した教区の信徒もいたが、これからの巡礼地はもう「スタンプラリー」なんかじゃなくて、要所要所に聖母や聖人や天使なんかが拡張現実で出現するアプリなど開発される日が遠くないかもしれない。

私はスマホさえ持っていないしオンラインゲームとも無縁だけれど、先日、うちのダイニングルームで一緒に席についていた若者が、テーブルの上にポケモンを発見してキャッチしてそのやり方を見せてくれた。

えっ、うちの食卓の上にもポケモンって出てくるのか、と驚いた

それならきっと目に見えないありがたいものだってすぐそばに漂っている気がしないでもないけれど、「心の目」のアプリがないと見えないのだろう。

拡張現実の地平を通して信仰を養える人って、うらやましい。
[PR]
by mariastella | 2016-08-27 00:07 | 雑感

フランスの金メダリストのカップル、トニー・ヨカのタトゥーの話

リオ五輪ではフランス・チームが最終日にも金メダルをとったので話題になった。

ボクシングの最重量級のトニー・ヨカで、彼の婚約者エステル・モスリーがこれは軽量級で前日に金メダルをとっていた。二人は互いの試合を声が枯れるまで応援し合ったそうで、ほほえましかった。

24歳同士で、12月に結婚するという。トニーは2メートル近い大男だけれど少年のようで、二人がどちらもかわいらしく、見た目もなんとなく似ている

トニーはコンゴ出身の父がいるハーフで、エステルの方はやはり父がマルチニック(カリブの海外県)出身(母親はウクライナ人)ということでハーフ、その雰囲気のせいかもしれない。

フランスはもともといわゆる国際結婚がヨーロッパでとびぬけて多い国だけれど、いわゆる異人種間の結婚も少なくない。
私の直接知っている人たちの場合はやはり海外県の人と本土の白人という組み合わせが多い。
海外県の人はカトリックがほとんどだし、コンゴもカトリックが多いから、結婚にあたって家族関係のハードルが低いのだろう。

本当に人種差別を撤廃するにはこんな素敵なハーフがたくさん活躍すればいいのだと思う。
遺伝的に見て、近親結婚が一番まずく、あとは離れていればいるほど生物学的に有利なことは自明だし。

女性差別の撤廃について男と女ばかり対峙させていたら、トランスジェンダーやらホモセクシュアルの人たちの差別が解消されないのと同じで、人種差別の解消には、人種の平等というだけではなく、もともと「異種」でもなんでもない異人種間のグラデーションゾーンを増やして可視化すればいいのにと思う。

リオのオリンピックで、ヴァティカンにも招かれたことがあるジャマイカのウサイン・ボルトは首に不思議のメダイをかけていた。
ブラジル・サッカーのネイマールが表彰台で例の「100%JESUS」の鉢巻きをしていたことで注意を受けた。

ボルトはカトリックでネイマールは福音派というわかりやすい話だが、フランスのボクシングのトニー君はちがう。

2012年のロンドンで負けたことから奮起するために腕に彫ったというタトゥーが

「La chute n’est pas un échec, l’échec c’est de rester là où on est tombé」
(落ちることは失敗ではない、失敗とは落ちたところにとどまっていることだ)

というソクラテスの言葉である。

ネイマールは、鉢巻きはしなくても、体や首や手首に、十字架だの聖書のメッセージや「祝福された者」「神は完全」「信仰」などいろいろなタトゥーを入れているそうだ。

それに比べてトニー君はソクラテス。

トニー君も婚約者の金メダリストであるエステルさんも、理系バカロレアに合格した後で勉強を続けている。
つまり、バカロレアの哲学で4時間も筆記試験を受けた青年たちだ。
哲学の授業でソクラテスも習っただろう。

エステルが先に金メダルを取ったことでプレッシャーはなかったかと聞かれたトニー君、

「それは…もし僕がとれなかったら(頭が上がらないから)皿洗いが…」

などと答えていた。

このカップル、フランスの私の好きな部分を体現していて気に入った。
ボクシングなんて私の一番好みでないスポーツの一つだけど。

日本のメダリストにもベイカーさんとかケンブリッジさんとか名前からしてハーフの人が活躍していたのはすごくいいことだ。

先日ノートルダム・ド・リエスに巡礼に行った時に、講演をした歴史家の奥さん(法律家)とお話したのだけれど、彼女は春に日本旅行に行って、その伝統的なものと斬新なものの織り成すエネルギーに感動した、と言っていた。

「いったいどこからあのような新しさ、エネルギーが生れるのでしょう。」

と心から不思議そうに聞かれたので、思わず、

「うーん、それは、ひょっとして国際結婚みたいなものかもしれませんね。日本は日本であり続けながら、近代の初めに西洋近代文化と結婚することを選択した。出会うまでのそれぞれの暮らし方は違っていたけれど、そのカップルから生まれた子供である「日本の現代文化」は、遺伝子が離れているカップルから生まれる子供たちのように、新しく、驚きと可能性に満ちているのかもしれません」

と答えてしまった。

「和魂洋才」から生まれた子供たちである「文化」がもう東洋や西洋などという二元論をとっくに超えているのだと思いたい。

そういう形のグローバリズムだけが、「異文化の衝突」という悲劇を回避できるのかもしれない。
[PR]
by mariastella | 2016-08-26 00:58 | フランス

サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』

サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』、

映画史に残ると言われるこの「黄昏のウェスタン」のノーカット版を先日arteで視聴した。

見るかどうかすごく迷ったのだけれど、結局見た。

なぜ迷ったかと言うと、前から何度も書いたように、数年来、もうホラーとかヴァイオレンスとかカタストロフィとかを扱った映画はできるだけインプットしないようにしているからだ。
単純に言って血が流れるようなのを見たくない。

私は時々悪夢をみるが、なぜだかそれを忘れずに反芻してトラウマにしてさらに次の悪夢につながるというタイプ。
それは、なぜか戦場など流血沙汰の真ん中にいることもあれば、例えば砂漠で一人きりになり絶対に救われないと分かって絶望するとか、ミサイルがあちらこちらに落ちてくるのを自宅の窓から眺めて、ああついに第三次大戦が始まったのだなあ、私はここで死ぬんだなあとつくづく思うとか、悪夢の中ですでに悪夢の内容を反芻している。

あまりにもリアルで実感をともなうつらいものばかりなのだけれど、ある時、実生活で、戦争も知らず、大けがをしたこともなければ災害や事故の現場に居合わせたことすらない私がこういうリアルな夢を見るのは何が根拠なのだと思った時に、そういう視覚的ヴァーチャル・リアリティの体験は私にとって映画にしかないことに気づいたからだ。

第二次大戦の大空襲で逃げ惑った体験のある私の母は、時々悪夢にうなされることがあったのだけれど、空襲の夢を見なくなるのにまる半世紀かかったと言っていた。私のは主として映画からくるものだから、そういう情報をシャットアウトすれば簡単に悪夢をシャットアウトできるかもしれないと思ったのだ。

そういうわけだから、映画におけるヴァイオレンスというジャンルの嚆矢となったという1969年の『ワイルドバンチ』など、真っ先に私の「検閲」にひっかかる。同じサム・ペキンパーの『わらの犬』は日本での初公開時に観ている。だからこの監督のヴァイオレンスの感じは想像がつく。

それでも、他に思うところがあって『ワイルドバンチ』を視聴した。

結果は、悪夢に燃料を与えるような怖さはまったくなかった。
女も子供も町を行く人も無差別に殺されるし、血まみれのシーンも続出なのに。

印象的なのはむしろ空の青さだとかカメラワークとか、メキシコの女性たちがテレサの遺体を運びながら長々と連祷するのに男がイライラして「やめろ、この偽善者め !」的な言葉を吐くシーン(こういう無法の場所ではキリスト教は「女子供用」と認識されているのだなあとあらためて思う。いや、女性と女の子用と言ってもいい)などだった。

武器輸送列車を襲うスリルとか、4人で200人のところに向かう時の「友情のためには命を捨てる男らしさ(と称されているもの)と哀愁」などは、まあよくできた映画のお約束の範囲内だ。

で、大量の撃ち合いはあまり怖くなかった。

むしろ、傷ついた仲間ひとりにとどめの一発が撃たれるときの方がずしんと来る。

「大量撃ち合いヴァイオレンス」というのはあまりにもリアルとかけ離れているので私の悪夢の材料にはならないらしい。

よく考えたら、こういうほぼ機械的な撃ちあいより、「倒錯」の方が悪夢の種になるのだ。
信頼していた母親が実は蛇女になっていた、というたぐいの怖さや、隠されていたものを見てしまって「見たなー」と言われるような怖さ、ヴァイオレンスも憎しみやら狂気やら倒錯に裏付けられているものは怖いけれど、『ワイルドバンチ』や『七人の侍』的なヴァイオレンス・シーンは、ゲーム的で怖くない(悪夢の材料にはならないという意味で)ということが分かった。

怖いのはプロセスなのだ。だからホラーとかサスペンス映画の方が要注意だ。

と、長々と前置きを書いたけれど、この映画が「怖くない」ということ自体に、大いに問題がある。

派手な撃ち合いシーンを見ていて、私は、

「ああ、こんなものを大量に見ているから、アメリカが今でも銃社会なのは無理ないなあ」

とか

「このシーンに一種のカタルシスを覚えたり、あるいは、自分も死ぬと分かっていても一人でも多くの奴を道連れにしてやる、と言う覚悟に潔さを覚えたりする人がたくさんいるとすると、ISのビデオやテロリストの行為に鼓舞される若者が出てきてもおかしくないなあ」

と思ったのだ。

この映画が製作された時代はアメリカがベトナム戦争の泥沼に陥った時代だ。
映画の舞台は1913年で、メキシコの軍事政権に人民のゲリラが戦いを挑んでいた時代だ。

でも、テキサスの司法官が、強盗団(ワイルドバンチ)のリーダーであるパイクをひと月以内に殺すことを条件に犯罪者を釈放することが別の伏線になっているように、内乱中のメキシコだけでなくアメリカもけっこうな「無法」ぶりだ。
つまり、「暴力」がまだ法的な装置として確立されていないような社会では、「人権」など言葉でしかなく、女たちが聖人の名を唱える「連祷」の「偽善」と何ら変わるところはないのだ。

今はこの映画から半世紀近く経とうとしている。
この映画の舞台となった時代からは丸一世紀以上経過している。

アメリカの銃社会は変わっていない。
少しでも性能のいい武器を少しでも多く手に入れようと世界中の国が虎視眈々としているのも変わらない。
非戦闘員を巻き込むリスクのある空爆なども毎日のようにニュースになる。

この映画のヴァイオレンス・シーンを見てすっきりした、とか、男の哀愁とかかっこよさとか滅びる者の美学とかを感じるのと同じ感覚で、今、ISによる軍事訓練やテロやリンチのビデオをウェブで見て「自分も死を覚悟で聖戦に発たなくては」と鼓舞され、「Let’s go.」「Why not ?」(ワイルドバンチで最後に4人が死地に向かう時の言葉)と答えて武装する若者たちが確実にいる。

「カタルシスを与えるような戦争映画を作るのは犯罪だ」という日本の映画監督の言葉を読んだけれど

それにも通じるだろう。

日本ではまだ実感がわかないけれど、ISの人集め戦略を見ていると本当に怖い。

シンボリックなのは、この映画の中で主人公のパイクが最後は背後から子供に撃たれることだ。

パキスタンで、シリアで、フランス国内の過激派モスクの中で、子供たちは「兵士」として教育される。
いや、暴力が支配する環境にいるだけで、子供たちは普通に暴力的で普通に残酷で、「殺す存在」になる様子が、この映画のそこかしこに挿入されている。

ヴァイオレンスをジャンルとして確立した映画の古典『ワイルドバンチ』。

今の時代に視聴されてこそ、いろいろなことを考えさせてくれる。
[PR]
by mariastella | 2016-08-25 00:45 | 映画

ノートルダム・ド・リエス その7

(これはその6の続きです)

それでもなお、ノートルダム・ド・リエスの「ご利益」パワーは今でも「has been」とは考えられていない。

2013年にマリで人質になっていたフランス人が政府による長い交渉の末に3年ぶりに開放された。

リエスの司祭は、人質の一人の家族が特別に巡礼に来て解放を祈願したことを知っている。

一二世紀に三人の騎士をエジプトの牢獄から解放し、貧しい盗人を縛り首から解放し、司祭に裏切られた女を火あぶりから解放した黒い聖母子にとって、「人質の解放」は今でも「得意分野」とみなされているらしい。
今でも、人々が残していく祈願の言葉には「娘を今の生活から解放してください、娘が自由な生活を取り戻すことができますように」などというものが見受けられる。

今年はローマ教皇が特別に決めた「いつくしみの特別聖年」であり、各地のカテドラルや巡礼指定教会には司教に祝福された「いつくしみの扉」が設けられている。その扉をくぐって指定の祈りを捧げるなどすれば、罪の「全免償」が与えられるという。
たいていの場合、教会の正面の扉がその「いつくしみの扉」になるのだが、ノートルダム・ド・リエスでは、教会の入り口ではなく、祭壇の奥の黒い聖母子の大きなチャペルに通ずる特別仕様の入り口の上に「いつくしみの扉」と大きく書いた帯がはってある。

黒い聖母のいるところはいつも「いつくしみ」の場所なのだろう。

けれども、他にたくさんある「あわれみの聖母」とは印象が違う。

ノートルダム・ド・リエスの「リエス」というのは喜び、歓喜という意味だ。
もともと「リアンス」という名の村に巡礼地ができたのが、15世紀に「リエス」と、ふさわしい名に進化した。

そのせいか、教区の人たちの雰囲気は明るい。
特に、典礼歌を歌い指揮する女性はうれしくてたまらないというようにずっとにこにこしている。
それを見る共同司式の司祭の顔もほころんでいる。

この女性を見るだけでリエスの意味が伝わる。

こういう典礼歌や聖歌の斉唱でここまでずっとにこやかな人は見たことがない。
ひょっとしてこのリエス(歓喜)の聖堂では、歌はにこやかに歌えという伝統があるのだろうか。
と思って聖歌隊の人や会衆席の人をちらりと観察したけれど、輝くように笑っているのはこの女性だけだった。

その幸せそうな様子が伝染して私も楽しくなった。

考えてみたら、一人で現れて涙を流す悲しそうな聖母や悪魔をふみつける勇ましい聖母よりも、両手をいっぱいに広げて膝の上に立つ幼い息子を誇らしげに披露している黒い聖母には、笑顔が、よく似合う。
[PR]
by mariastella | 2016-08-24 01:31 | 宗教

オリンピックと日本とフランス

リオのオリンピックが終わった。

スポーツ観戦はしていないけれど、日仏の毎日のニュースをネットでチェックしているので、この期間はいやでもオリンピックに関するものが目に入っていた。

日本の記事とフランスの記事で、時には、これが同じ大会の同じ日のことなのかと思うくらいの差がある。

いわゆる「メダル争い」で日本とフランスはいつも近いところで前後していたけれど、得意種目が全然違う。

日本とフランスが重なるのは柔道と水泳くらいで、体操、レスリングはフランスのニュースにはほとんどならないし、フランスのメダルは射撃、フェンシング、馬術、ボクシング、カヌーとフランス国内ですらマイナーなものが多い。

この「重ならない」様子を見ていると、やはり「国民性」ってあるのかなあと思う。

フランスの「強い」系スポーツは柔道もボクシングも、前にも書いたけれどやはり「海外県」にルーツを持つ黒人選手が目立つ。

アメリカ大陸の黒人選手は、労働力として売買された出発点でそもそも大きくて強くて丈夫な人が選抜され、それに加えて、過酷な船旅や過酷な労働を生き抜いた人たちの子孫だとしたら、もう最初から、遺伝的強者であることは間違いない。
彼らを抜きにしたら、アメリカのメダルやフランスのメダリストは半減するのではないだろうか。

1968年のメキシコ・シティー大会の表彰式でアメリカの黒人選手が人種差別に対する抗議行動を行なって問題になったように、人種差別とスポーツの関係は可視化されていないとは言えない。

メダル数にはもちろん人口の多寡も関係するし、スポーツの施設や訓練に関するインフラを充実させることのできる経済力も関係する。
すべてを考慮してもアメリカが一位というのは納得できる。

中国は人口も多く国土が広いからすでに多様な才能が調達できるとしても、黒人選手が見当たらない(たぶんいわゆるハーフの選手も見当たらない)のはすごいと思うが、これは「国策」の一部なのだろうか。

イギリスがこれだけ強いのは、大英帝国由来のダイバーシティの厚みと、サッカー、ラグビー、ゴルフなど多くのスポーツの発祥地であるようにスポーツが「エリート」の条件に組み込まれている伝統と関係があるのだろうか。

ドイツは、なんだか「ゲルマン民族」ってもともと強そうだよなー、と思ってしまう。
遺伝的に恵まれていて、「強くなること」を称揚する伝統があり、しかも規律正しいお国柄、経済力もある。

フランスは「海外県」出身の人の強みを別にすると、全部中途半端。
夜の街にしか出没しないエリートたちとか、享楽的なお国柄とか、誇り高い自虐趣味とか。

日本が「強い」ことに関しては、うまく距離感がとれないのでどうしてなのか分からない。
精神論やら親子代々にわたる悲願エピソードみたいなのは個人的に苦手な上に「根性もの」とは縁がないので。

それでも「必死にがんばった」若者たちが勝って泣いたり敗れて泣いたりするのを見ると所属国と関係なくもらい泣きしてしまえる単純な私は変わらない。

練習における工夫や進歩やチームワークについては、アンサンブルで楽器を弾く身にはいつも参考になることがある。

2012年のオリンピック招致にパリがロンドンに負けた時、パリはあまりにも「パリは世界で一番素敵な街」と言い過ぎた、今度はちゃんとオリンピック施設などに特化してチャレンジする、とパリは2024年のオリンピックに立候補している。順番から言うと選ばれる確率は大きい。

今のオリンピック自体にはいろいろ問題があると思っているのだけれど、もし東京、パリと続くのなら、日仏ウォッチャーとして両方を比べて見てみたい好奇心はある。後8年は長生きしなくては。

(この前の記事で、wordが開けないと書きましたが、午後バカンスから帰ってきたトリオの仲間に電話できいて、文書を別のpcに移すことだけはできました。このpcのwordは返還が遅いのですが、ともかく仕事は再開できそうです。もうひとつのpcは、Windows10へのアップグレードをずっと拒否し続けてきたのに、ある日勝手に、こちらの同意なくアップグレードされたのです。word2013が開けなくなったのはそれと関係しているようですが、プロダクトキーだとかよくわからないので、あさって仲間がうちに来てくれると言っていました。
ピアノの教え子でこういうことが専門の青年にメールしたら、今ギリシャにいるけれど電話で助けられるかもしれない、と返事が来ました。みんな親切です。感謝。)
[PR]
by mariastella | 2016-08-23 05:58 | 雑感

word2013が起動しません

午前中には問題なかったのに、午後、さあ仕事しようと思ったら、word2013が起動しない。

PCの再起動、電源を完全に切る、などしてもだめ。

ネットで検索してこのページが分かりやすそうだったので、私のできる範囲で試したけれどうまくいかない。

wordのアイコンを右クリックしたら最近使ったファイルの名がずらっと出てくるので、ファイルは無事なことはわかるのだけれど、アクセスできない。

メールの添付書類からダウンロードしても、ダウンロードできたという履歴には載るけれど画面には出ない。

このブログの今日の更新のテキストもそこに入っているのでコピーできない。

これから10日間は貴重な時間なのにどうしよう。

電話でいろいろアドヴァイスもしてもらったけれどだめだった。

同居は猫しかいない。

友人に電話して助けてくれそうな人の電話をきいて電話したけれど留守電だった。
いつ復活するか分からない。

もう一つのPCにUSBで移して仕事するのが一番速そうだけど、何しろワープロ機能しか使わない人なのでうまくいくかどうかわからない。

復活するまでこのブログの更新できない可能性大です。
全面的に機械に頼って仕事していることの頼りなさをあらためて思います。

そんなわけで、
[PR]
by mariastella | 2016-08-23 01:26 | お知らせ



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧