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L'art de croire             竹下節子ブログ

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ファティマで見た珍しい磔刑像

14世紀のものです。外れてるんじゃなくてこういう作り。
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はじめて見ました。
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by mariastella | 2016-09-30 07:01 | 宗教

ファティマの聖母を見た子供たちがしあわせそうではない理由

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聖母の御出現に立ち会った人はカトリーヌ・ラブレーやベルナデットなど幸せそうだったり恍惚としていたりですが、ファティマの子供たちはみんなこういう顔でした。のちに、実は地獄の光景を見せられていたことを一人が告白しています。小さい子供にそんなトラウマになりそうなヴィジョンを見せたり、秘密を守らせたり、あまり教育的でないというか、一体何だったんだろうと思うこともいろいろあるファティマです。2人はすぐに死に、残ったルチアだけが98歳まで生きました。来年が御出現100周年でもう色々記念品が売られていました。
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by mariastella | 2016-09-29 06:15 | 宗教

アルコバサ修道院

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どういうわけかこの人の見ようとしているものが痛いようにわかります。
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by mariastella | 2016-09-28 02:54 | 宗教

戦士の墓のキリスト

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膝から下の欠けたキリストが戦死者を見守ります。
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by mariastella | 2016-09-27 20:58 | 宗教

ファティマに来ています。

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ファティマに来ています。みんな並んでロウソクを火に投げ込むのが壮観。同い歳のファティマ生まれの女性と仲良しになり、いろいろ話を聞いて驚くことばかり。ポルトガルのカトリックって…

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自分の治して欲しいところのかたちのロウを選べます。腸とかもあってリアル。
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by mariastella | 2016-09-26 04:05 | 宗教

イズ―くんはハンス少年をやめた

これは前の「イズー君はハンス少年か」の続きです。

猫って学習能力が高い。

でもその学習能力というのは、刷り込まれたものを忠実に守るというタイプのものではない。

以前、一定の手順をふめば餌をもらえるように学習させた動物に、そのそばに何の障害もなく餌を置いた実験で、猿や犬は機械的に、相変わらず前に教えられた手順をふむけれど、猫はためらいなく近い方の餌に直行するという結果を見たことがある。

猫は不要な儀式を華麗にスルーする。

前に、洗面台の蛇口からちょろちょろ出る水を、その周りをせっせと掻いてから直接口で受けて飲むイズ―くんを見て、オランダの堤防決壊を救ったハンス少年にたとえたが、最近シナリオが変わった。

水がちょろちょろしか出ていないのに、口から洩れて流れる分量の方がどうも多い気がする。
これでは資源の無駄遣いで、エコロジー的公正に反するなあ、と思ったので、ちょろちょろ水を私が鹿威しの竹みたいに手のひらで受けてやることにしてみた。

するとイズ―くんは、なんのためらいもなく私の手のひらからちゅくちゅくと水を飲み始めた。
この方が効率はいい。

それをたった一度経験しただけで、次からは、ちょろちょろ水を流すと、もう堤防掻き掻きの儀式はなくなって私の方を見てひと声

「ほら、手」

と催促するようになった。

ものすごくクリアなメッセージだったので思わずまた手のひらを鹿おどしのように構える私。

イズーはゆっくりと飲み始める。

長い。

流水が直接当たり続ける私の手はだんだんと冷たくなる。
これって私がハンス君になってるんじゃない?

もうそれからは、私が洗面台を使っていなくても、イズ―くんは喉が渇けば、さっと洗面台に上って定位置についてから私を見て

「ハンス、出番」

とひと声かけるだけになった。

その度にPCをスリープにして立ち上がる私。(スリープにしておかないとスピノザ君がキイボードの上に座り込むリスクがあるからね)

で、慎重に水のちょろちょろ加減を調整して手に水をためるハンス君。

好きなだけ飲んだら「ご苦労様」も言わずに去るイズー。

かわいい。
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by mariastella | 2016-09-25 02:31 |

マックス・ジャコブの回心 その12

(これは前の続きです)

MJが情事の後で毎回告解に行ったのは、「敬虔な信者」らからはもちろん、コクトーらから見ても滑稽で迷惑でさえあった。

けれどもそれはMJにとって「罪」を毎回チャラにしてもらうというようなご都合主義のことではない。

彼の脳裡には『ヨハネの手紙一』の言葉がこだましていた。(1章 7~10)

>>>しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。 <<<


MJは毎日か一日おきには「自分の罪を公に言い表」して赦され、「清め」られた。

モンマルトルの丘の階段を膝で上ったこともある。贖罪だった。

しかし、果たしてそれは効を奏したのだろうか。

もし、

「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。
なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」( ヨハネの手紙一/ 2, 15~17)

ということを突き詰めれば、MJは自分の欲望が「世」に属していて「永遠」に属していないことをよく分かっていた。

1935年、3年にわたるルネ・デュルスーとの恋が終わった。

1936年5月25日、10 年間のパリの生活を捨てて、MJは再びサン・ブノワ・シュル・ロワールに戻ってきた。

次の年には、ピカソも、ヴラマンクも、レジェも、コクトーも、エリュアールも、MJ のもとに「巡礼」にやってきた。
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by mariastella | 2016-09-24 07:17 | マックス・ジャコブ

マックス・ジャコブの回心 その11

〈これはその10の続きです。)

MJはコクトーへの手紙の中で、自分が実行している三つの生活の指針を書き加えている。

1.  キリスト教的な完成の概念にを前にしておののいてはいけない。

遠くから見たらほとんど非人間的で、耐えられないような厳格さに見えるだろうけど、その日のつらさはその日で充分だ。
少しずつやっていくうちに神がだんだん好きにならせてくれる。
僕らが近づいて行くごとに喜びが生まれる(聖人たちのようにね)。
でもこの喜びを理解するには魂にそれを受け入れる準備が十分できている必要があるんだ!

2.  完成には一歩一歩進むことだ、この先どうなるかなんて悩まずに、その時々の恵みと力に応じて少しずつ。

3. 悪と妥協しちゃいけない。悪いものを善いものだと呼んじゃいけない。正直に、ごまかさずに、自分の「罪」に面と向かうんだ。罪をありのままに見る、そして後悔するんだ。


当時のフランスの社会においては「同性愛」の情事はもちろん「悪」として認識されていた。
けれどもアーティストたちの同性愛、または、異性愛、同性愛にかかわらず奔放で社会の規範の枠にはまらない情事そのものも、もちろん「悪」だった。

でも彼らのほとんどは、それを正当化するために積極的に、それがナチュラルで芸術にとってもプラスであり自由の表現だと開き直っていた。

そこには「影」や「後悔」が見られなかった。

しかし「影」がないということは、実は「闇」にいるからだとMJには思えた。

「影」は「光」の射すところにできる。

「後悔」がないところには「赦し」がない。

MJにとっては光と影、後悔と赦しは分かちがたいものだった。 (続く)
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by mariastella | 2016-09-23 06:04 | マックス・ジャコブ

霊的特異点---マックス・ジャコブの「回心」番外編

これは前の記事の続きです。

サイトである方が、感想を書いてくださった。

>>>「与件」は罪とはいえない。けれど、「少し」でも、神から来るような愛をキャッチできれば、ある領域からは、確かに「罪」であることがわかってくる。これは、恐れでも、断罪でもないのですね。 <<<

という部分を最初、読み誤った。「ある領域から」というのがよく分からなかったのだ。
で、自分のためにも、クリアーにしたいので、いったんここで解説しておくことにする。

まず、人の多様性としての「与件」は罪ではない。

「同性愛者」、「被差別グループ出身者」、「左利き」、「近眼」、「病人」、「老人」、「低身長」、「身体障碍」、「知的障害」、など、当然ながら、どこまで行っても「罪」などではない。

もちろんある人が周囲の「マジョリティから外れている」与件を持っている時、社会や時代によってはハンディを背負うことになるし、「悪」や「罪」であるかのようにレッテルが貼られることもある。

MJ の生きた時代と場所では一般に同性愛が「悪」とレッテルをはられていたのは事実だ。

でもMJが「悪」とか「罪」ととらえて苦しんだのはその部分ではない。

自分が毎日違う相手と情事を重ねること、それがやめられないこと、だ。

これはMJが異性愛者であっても本質的には変わらない。

しかし、異性愛者が毎日違う相手と情事を重ねることについての「悪」認定はこれも時代や社会によってかなり恣意的なものだ。

異性愛の男については「男の甲斐性」とか「芸の肥やし」とか「英雄色を好む」のように許容されるケースが多かった。
異性愛の女が同じことをすると、「娼婦」認定で男目線で欲望充足のツールとして許されるか、財産や権益を「実子」に継承させたい男にとって「子供の母」の貞操が大問題であるから「悪」であり「罪」となる。

性的な欲望を生身の人間によって充足させる時、性的な関係は人間の尊厳にかかわるものであるから、そこに少しでも支配と被支配の関係が入ると「与件」もへったくれもない。

靴下に欲望する人が自分の靴下にすり寄るなら別だが、小児性愛の傾向を持った人が子供にすり寄れば即、「悪」の深淵が口を開ける。たいていの性産業は、何らかの形で弱者を利用したり踏みにじったりして、相対的強者の欲望の充足に手を貸すことによって「悪」なのだ。

MJはそれを知っていた。しかし、欲望が起これば直ちにその充足に向かって起動するという依存のループにはまってしまったことが彼にとっての「悪」だった。

で、ここからが大切だ。

「悪」の反対は「善」ではない。

「悪」の反対は、「悪を疑うこと」だ。

MJは「悪とは何か」と考えた。

「回心」という霊的特異点を通過した後のMJには、

「悪」とは「罪」である、と分かった。

では「罪」の反対は何か。

「罪」の反対は「愛」であった。

すなわち、

「悪」の反対は、「善」でなく「愛」だということがMJには分かったのだ。
彼が情事と告解と聖体拝受を繰り返していたのは、偽善や欺瞞ではなく、「罪」と「愛」の振り子運動だったのである。

では「愛」とは何かというと、愛には二つの要素があった。

「リスペクト」と「あけておくこと」だ。

「あけておくこと」というのは愛する対象のために、自分の心、生活、時間、命のどこにでも、いつでも場所を確保しておくことだ。心や時間や命を捧げる用意があるということだ。

霊的特異点である回心によって彼は「神に愛されていた」ことを知った。
神は彼をリスペクトし、彼が求めるとき、彼が必要とするときにはいつもいてくれた。

二千年も前に命を捧げてくれていただけでなく、教会や司祭やミサや祈りの中でいつも彼を待っていてくれた。

いつでも、どこでも。

だから彼も神を愛することを知った。神をリスペクトし、神を心の中に、創作の中に、生活の中に招いた。

彼が神を「畏れ」たのは、神がいつでも、先に、どんなことがあっても彼を愛してくれたからだ。
神がずっと待っていてくれて、いつでもどんな時にでもお前の場所はあけてあるよ、と言ってくれたからだ。

こんな愛に抵抗するすべは、なかった。
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by mariastella | 2016-09-22 02:51 | マックス・ジャコブ

テロリストの名前と顔

ここのところMJシリーズを書いていたら、他のいろいろなことの覚書が溜まってしまったので、これ以上溜まらないように少し書いておく。

いろいろあるのだけれど、特に今朝のラジオで聞いた「テロリストの名前と顔」の話が印象に残った。
先日のアメリカのテロのテロリストが逮捕されたニュースで、負傷したテロリストの顔と名前が何度も繰り返してテレビで流れた。指名手配用のいろいろな写真も。

そういうことを受けての話だ。

日本ではどうかわからないけれど、アメリカもフランスもここ一年ほどでテロが相次いでいるから、その度にテロリストの名前と顔が繰り返し繰り返し報道される。

それを受けて、そのようにテロリストに名と顔を与えるのは「非人間的なテロという行為」をしたという意味では非人間的であるテロリストを「人間的に表現することになる」からよくないのだという意見がある。

その理由は、ひとつが、名前と顔がセットになった「人間」として特定して喧伝することで、それが人々の記憶に残り、テロリスト側からすると「英雄」「殉教者」となるので、彼らの目的が果たされたことになるという。「知名度」が勲章となって、次の候補者を鼓舞するリスクもある。

もう一つは、テロの被害者にとって二次被害になるからだという。
「テロにやられた」というだけなら「災害」のような受け止め方も可能になるし、「罪を憎んで人を憎まず」のような立場に立つことも可能だけれど、テロリストを人間化してしまうと、「敵」に対する憎悪や恐怖が生れる、というのだ。

なるほど。

ではそうしないためにはどうすればいいのか。

この反対のことをしているのが、サルコジである。
彼は、テロリストは人間ではない、野蛮人であると言う(野蛮人のフランス語Barbareには「人」という言葉が入っていない。しかも外から侵入してくる異教徒という含意もある)。

だから、犯人に名と顔を与えて住まいや生い立ちなどを報道して「人間化」するのではなく、野蛮人1とか野蛮人2 とか呼べばいいという考え方だ。ナチスの収容所みたいだ。

で、ラジオでは、そのどちらにもしないために、

テロリストには、「名は報道せず、顔だけ報道しろ」というユニークな提案がなされていた。

「名を与えることで」文字通り「有名人」化させないてはいけない。

また名を与えることで「個別化」すると、「あいつは自分と違う」と人々は「悪人認定」して、その反動で「あいつとは別の名を持つ自分は正しい」側に入って自己正当化しまう。

でも、どこの誰かわからない「顔」だけ見ると、よく似た人はどこにでもいるものだし、服装や髪形や写真写りによっては同じ人でも別人のように見えることなど誰でも知っているから、テロリストはテレビを見ているこちら側の誰であってもおかしくない、と思える。
誰でも他人を攻撃する「加害者」になり得るのだ、被害者も加害者も人間なのだ、という視点が生れ、そこから「悪を殲滅」というのではない新たな対応が生れる。

これは思考実験みたいな話だけれど、フランスに住んでいるとすごく大切な話だと思った。

テロがある度に、心のどこかで、顔よりも名前を知りたいという気持ちが起こる。

そしてそれが「アラブ系の名前」であると、なんだかわからないけれど、「ああ、やっぱりイスラム過激派ね」と納得してしまう自分がいるのだ。
「顔」だけなら、毎日すれちがう人と変わらない。ケバブのサンドイッチを売ってくれるおじさんや、朝市でローストチキンを売ってくれる親子とも変わらない。ということは、彼らと共生している私自身とも変わらないのだ。

これは、日本なら、悪質な犯罪の容疑者が逮捕された時に、「顔」は「普通のアジア人」でどこにでもありそうでも、報道された名前が日本人の名前でないとか、帰化した人だとか聞くと「やっぱり悪は『外』にある」と納得だか安心だか分からない思考停止に落ちることがあるのかもしれない。

これを語ったのはRaphaël Enthovenで、彼の話にはいつも教えられる。

ジャン=リュック・マリオンの弟子でもあった哲学者だが、BHLの娘と結婚歴があったり、サルコジ現夫人のカルラ・ブルーニと父の後でカップルになったり、私生活は私の想像を絶するのだけれど、それは、また、別の話だ。
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by mariastella | 2016-09-21 18:54 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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