L'art de croire             竹下節子ブログ

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音楽はテロよりも強し、なのに…

音楽によるレジスタンス、人間の尊厳の証のシリーズ です。

第3弾です。前のはここここなど。




ロンドンに亡命しているクルド人のグループNishtiman (故国という意味)だ。

クルド人の故郷はイラン、イラク、トルコ、シリアにまたがる他、レバノンやアルメニアへ流れた人も含めて3千万人近くもいる。
ISと最も勇敢に戦っていることでも知られているが、実はあらゆる国から利用されている感じだ。

オジャランのロジャヴァ革命の女性の自由と平等、信教の自由など、クルドの理念は中東の希望の灯のように思える。

2012年に結成されたグループは、トルコ、イラン、イラクからの亡命者だ。
シリアのクルドはすでにパスポートもなく国を出られない状態だった。

シリアの故郷をテーマにした曲もある。

イスラムとマイノリティのキリスト教だとかいう以前に、二千年以上前からあるゾロアスター教とかミトラ神の信仰も喚起される。
2015年にIS軍の侵入に40日持ちこたえたコバナの町をタイトルにした新曲は、ゾロアスターの火の守護の川の化身である女性の勇気を称えたものだという。

演奏者としてもすぐれている彼らの曲を聴いていると、ああ、今はもう彼らは、絶対にアメリカには入れてもらえないんだなあ、と思いをはせてしまう。

すばらしい音楽の演奏家たちも「アメリカ・ファースト」の壁に遮られるのだ。

剣にも砲弾にも屈しないアートがナショナリズムに屈せられるのだとしたら、深刻さは重大だ。
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by mariastella | 2017-01-31 01:32 | 音楽

ウィリアムズ姉妹

先日ピアノの生徒の一人と話をした。どれだけ練習すればうまくなれるかという話だ。

彼女はクラシック・バレエもずっと続けている。
その弟はアイス・ホッケーの選手で、かなりの時間を練習と試合に割いているが、私とギターのレッスンも始めているのだ。スポーツ系の訓練と音楽の練習は両立するのか、という話にもなった。

ちょうど、テニスの全豪オープンの女子シングルスで、ビーナスとセリーナ・ウィリアムスの姉妹が制覇したニュースを聞いたばかりで、姉妹の父親が「白人を打ち負かせ」と言ってずっと訓練させていたという話を耳にした。

父親のリチャード・ウィリアムスは、1978年にテレビで偶然全仏オープン女子テニスを見た。ルーマニア人のバージニア・ルジッチがシングルスで優勝し、20万フランの小切手を手にしたのを見て自分も娘をテニスのチャンピォンにすると誓ったそうだ。
1965-73の最初の結婚ですでに3人息子3人娘がいたが、その後で生まれる娘に期待をかけることにする。
「エホバの証人」の信者である新しい妻との間で1980年と1981年に生まれたビーナスとセリーナを4歳でコーチにつけて、男子とだけ練習させて、「白人を打ち負かせ」と激励して週30時間の練習を課した。
テニス界は白人プレイヤーが主だった時代だ。
娘たちの母とは、彼女らが10歳くらいの時に離婚している。その後ビーナスより一つ年上だけの女性と三度目の結婚をしたという。
 
娘たちは14歳でプロになり、17、18歳で父の夢見た全仏オープンに出場してテニス界の常識を変えた。2002年の全仏オープンでは決勝戦を2人で戦い、優勝と準優勝を分け合った。「相手を叩きのめす」パワープレイで有名だそうだ。
以来、姉妹共に世界を制覇し、30代半ばの今年も、全豪オープンの決勝を姉妹で戦ったばかりなのだ。

セリーナは、スポーツも訓練も嫌いだ、と2012年の自伝で語っている。白人からの差別も受けてきたという。
昨年末白人男性とと婚約したばかりだ。

私の生徒が「週30時間練習したらチャンピォンになれるんだねえ」と言ったので、

いや、ひょっとしたら、子供を通して一攫千金をねらうそのような父親は他にもいるかもしれない。
でもまず、父の期待に応えようとして頑張っても、心身の強さがなければ、ドロップ・アウトする子供、故障する子供もたくさんいるだろう、
それに、たとえ、心身頑強で週30時間の練習に耐えても、チャンピオンになるとは限らない。
才能や運が足らずに芽を摘まれるのがほとんどだろう、と答えた。

まだ、音楽やダンスの夢を娘に託して練習を強要する親の方が、「敵を倒す」というレトリックを弄しないだけましかもしれない。
音楽やダンスはそれに対する情熱があるだろうが、リチャード・ウィリアムスは最初から「大金」にひきつけられて、「黒人女性のテニス・プレーヤー」という付加価値も巧みに心得たうえで、マネージメントしてきた。

リチャードは早く家を出て路上生活に近い暮らしもした人だそうで、姉妹もギャングの町で時として弾丸がとびかうコートで練習や試合を続けてきたという。

セリーナの生涯獲得賞金はすべての女子プロスポーツ選手を含めて史上1位で8000万ドルを超えるという。
父親はさぞや満足している…のだろうか。

姉妹は私の子供といっていい世代だ。

親の夢と子供の関係についても考えさせられる。

彼女らは、「成功者」なのかもしれないが、なんだか「犠牲者」にも見えてくる。
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by mariastella | 2017-01-30 01:11 | 雑感

アサド大統領の不思議

先日、シリア大統領のバッシャール・アル=アサドについてのドキュメンタリー番組をTVで観た。

私はこのアサド大統領というほど、「自由世界」からの罵倒の言葉とその外見が違う人はいないなあ、といつも不思議に思っていた。

彼が眼科医で、ロンドン大学に留学している時に、兄の死で故国に呼び返されたという過去や、ロンドン生まれのキャリア・ウーマン(銀行の投資部門で働いていた)の美しく聡明そうな奥さんがいることは知っていたので、こんな女性に愛されているのだから悪い男ではないのでは? とも思っていたくらいだ。

迷彩服の兵士たちの間を回るときも真っ白なワイシャツに黒ズボンだったり、モスクで床で礼拝する時もスーツにネクタイ姿だ。

イラクのサダム・フセインだとか、リビアのカダフィだとか、チュニジアのベン=アリだとか、エジプトのムバラクは、いかにも「独裁者」っぽい強面の外見だが、アサドは、内向的で穏やかで、という評判が不思議ではないほど、背は高いが華奢な印象がある。顔もよくみると、かわいいかも。父親のハーフェズの画像検索をすると、独裁者だった父親もすらりと上品な感じだ。

見た目だけなら、どうみてもアサドは理性的な穏健派で、こぶしを振り回す独裁者タイプのトランプとは大違いだ。

そしてアサドは伝統的な「西洋エリートタイプ」の外見をよく心得ていて、それをフルに使っている。

シラク大統領は、フランスにとっての保護国同然のレバノンへの脅威を軽減するために何度もアサドに会っていた。
アサドが大統領に就任する前からだ。

バシャールは自分にとって息子のようなものだ、などと公言していたのだ。

それからいろいろあった。

アサドが、一度は父の時代からの政権の腐敗を一掃しようという改革の気配を見せたにかかわらず、結局父から譲り受けた絶対権力を決して手放さない、そのためには、一般人を含む弾圧(化学兵器も含む)も辞さない、という強硬策に出たのも事実だ。
中東が石油資源を含んで地政学的に複雑なところで、米露欧トルコ、イラン、サウジ、そして数々の軍産複合体の利害と思惑がこの国の「内戦」をこじらせた。

それでも、おなじみの「正義の味方」「国際社会」が干渉して、アサドを放逐してシリアを「民主化」するという方向は動かせないと思われた。

そこに現れた「僥倖」が、誰の目にも分かりやすい「極悪」であるにISだ。

そのうちにフランスについても書くつもりだが、ISの登場によって「救われた」勢力はたくさんある。

ともかく、ISも、最初は「国際社会」から祝福されたシリアの「反アサド軍」も、だんだんと、欧米の目から見ると、「イスラム過激派」に集約されはじめた。

アサドが内戦後初めて国を出た先はプーチンのロシアだ。
ロシアはアサド(とシリア内の自国の軍事基地)を助ける。

そこでまた、イスラムスカーフもかぶらないヨーロッパ人っぽい妻を連れて、スーツとネクタイのアサドが国際メディアに登場。

欧米のジャーナリストも積極的に招いて、インタビューを受け、イメージ戦略を繰り広げ始めた。
ISに破壊されたキリスト教会でキリスト教徒にも寄り添う。

1/26には、英外相のボリス・ジョンソンが、イギリスはアサドの退陣は求めずロシアと協力すると言った。

誰でも、ISの野蛮さやテロを見ると、「アサドの方がまし」だということに異論はない。

ISは、SNSによって、中東の若者やヨーロッパに住む若者を洗脳して、無差別テロを決行させる。

少なくともアサドなら、、シリア政府軍が国境を越えてヨーロッパを攻撃してくることはあり得ない。

けれども、国境を越えてヨーロッパになだれ込んだのは何百万人という「難民」だった。
中東の内戦だと思っていたものが、国境を超えたのだ。

大量の難民の流入という現実は、人権やヒューマニズムを掲げるヨーロッパの「文明国」にとって、ミサイル弾によるよりもずっと、ずっと深いところを狙い撃ちされるものになった。
欧米軍の空爆は、ヨーロッパ人の良心に向かってうち放たれる「大量の難民」というミサイルに対する迎撃ミサイルみたいなものかもしれない。
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by mariastella | 2017-01-29 00:16 | 雑感

バロック・バレーやバロック音楽の場でも政治談議(追記あり)

日本とフランスの絶対的な違いを感じるのは、政治論議かもしれない。

バロック・バレーのクラスでフランス大統領選についてかなりの議論になった。
エリカは第一次投票でメランション(極左の位置づけ)に投票するが、決選投票でフィヨン(保守)とル・ペン(極右)になったら棄権する、と言う。
他にもメランション派がいるが、棄権には反対だ。

アメリカではメリル・ストリープがトランプを批判したスピーチが有名になったが、アートの世界はたいていインターナショナルで左派が多い。同性愛者も多いし、いわゆる「普通に結婚して子供がいて」という人は少ないから、5人の子持ちのフィヨンなどに親愛感を持つこともない。

しかし、過去に数年間メランションの「左派戦線」の手伝いをしていたというカメラマンの女性が、実はメランションはひどい、権力欲の塊だ、と、熱心に内輪話を暴露し始めた。

メランションの是非をめぐっていろんな意見が飛び交った。
国際情勢の把握についてはメランションが一番まともだという人は多い。

私は5年前にはなかなか説得力があると思ったことはあるけれど、なんだかアクの強さが鼻についてきて、信用できなくなっていた。

ル・ペンが政権につくことは間違ってもないだろう、しかし2002年のシラクとル・ペン(父)の決選投票のようにル・ペンの反対票が80%以上もシラクに集まって、シラクが「勘違い」したようなきっかけをフィヨンに与えたくないから棄権する、というのがエリカの意見だ。

フィヨンの妻の収入についての調査がはやばやと始まったらしい。
正直、清廉潔白を売り物にしているから打撃は大きそうだ。
もちろん反フィヨン派は大喜びで飛びついているが、やればやるほど、女性差別と妙な嫉妬の匂いも漂ってきた。

弁護士の資格を持ちながら、一度も働かずに5人の子の母、というイメージだったのが、数年間にわたってトータル5千万円以上(?)の収入があったというのが不当だという感覚があるらしい。

フィヨンは、妻が実際に仕事をしていて、収入も申告しているのでやましいところはない、と言い、上院議員だった時には特定の問題で弁護士である自分の息子2人に仕事としてアドヴァイスをもらい支払ったこともある、と付け加えた。このことが後から取りざたされたら困ると思ったのだろうか。
でも、そんなことを言われるとつい検索して、彼の議員時代は2005-2007、当時、息子のうち年長の2人は21-23歳くらいと分かり、学生のアルバイトじゃないか?とかえってうさん臭く感じる。(追記あり)

それに比べて、前にも書いたが、マリーヌ・ル・ペンの方は、何度連れ合いを変えても、子供がいても、女性差別的な批判は受けない。

と言ってももちろん父親との関係をはじめとして極右として突っ込みどころは多すぎてさんざんたたかれているので、一回りしてある種のクリーンさを獲得しているのは奇妙だ。

トランプがどんな暴言を吐いても、それが人柄の真摯さだとか正直さ、率直さだとかと支持者の目には映ったこととどこか似ている。

もっとも、ル・ペンは、トランプのように、演出なのか何か知らないが、「下品で頭が悪い」と揶揄されるような態度や言辞をふりまくのとは対極に冷静で堂々としている。

ル・ペンの怖さは、党首のマリーヌ・ル・ペンも、実質ナンバー2のフロリアン・フィリポも頭が切れるということかもしれない。

それをいうなら、どんな階級の人だって、フランス人には、馬鹿にはなり切れない「外面」がある。
開き直り、というのがわりと下手な人たちだ。
ポピュリストたちもそれをよく心得ているから、アメリカなどとは戦略も違ってくるのだろう。

これで4月あたりにあらたなテロがフランスで起こったら? 
ほんとうに排外主義が勢いをつけて何が起こるか分からない。

それにしても、「フィエの振付譜を見てペクールのブーレを踊る」場所の更衣室で「天下国家」が論じられるのは本当にフランス的だ。
日本のカルチャースクール、スポーツクラブ、各種のダンス教室などでは想像できない光景だと思う。

トリオの仲間とはなんでも掘り下げて語りあう。

カルテットの仲間とは、世相の話はしても政治の話は少ない。弾いている音楽に即癒されてしまうので、音楽賛美の言葉ばかり出てくる。

ペプッシュ(Pepusch)のトリオ・ソナタは美しすぎて泣けてくる。ブランデンブルグの第三楽章も弾いていて気持ちがいい。拍と強弱のバランスさえ注意して後はひたすら弾いているだけで、それなりの満足が得られる。本当はバイオリンもビオラも後もう一人とチェロも一人必要なのだけれど、とにかく音が途切れる部分がないので、バイオリンとビオラ2台だけで十分楽しめるのだ。

今日はラモーを3曲練習した。『ダルダニュス』のタンブラン。
こんなに軽やかだ単純そうに見えて、成功で知的な工芸品のような作りでしかもエレガントで独特の色や香りを持つ曲はラモー以外には絶対に書けない。

トリオのMは、大統領選は、原発即時廃炉だけを基準に投票すると言っている。
それもありかもしれない。
美しいものをいつまでも味わえて伝えていける社会が続くには、地球がバランスよく存続してくれないと困る。

(追記: トリオの練習の時に、フィヨンの子供への報酬についての検索結果を話したら、Mから、その日のル・モンド系のネット記事にもそれが取り上げられていたとリンクが来た。

私は息子2人と聞いたと思ったのだが、その記事によると、現在弁護士なのは長女と長男だそうで、もちろんふたりとも、フィヨンが議員だったころはまだ学生だったとある。それに対してフィヨンは、「今弁護士である子供たち」と言うつもりだったので、当時弁護士というのは言い間違いだった、と言っているそうだ。

妻については、議員アシスタントとして月7900ユーロ、その後、フィヨンが政権を去った後で20ヶ月間、ル・モンド誌から月5000ユーロ支払われたが、文学作品についての記事を2本出しただけ、だとかいうそうだ。
いずれも、フランスの公務員の平均サラリーの倍以上ということで、まあ、「裏切られた」という感じを持つ人がいるのは理解できる。中途半端な清廉潔白に向けられる目は厳しい。トランプの妻ならいくら稼ごうが使おうが文句を言われないだろうが。

でも、日本で言えば去年の舛添前都知事のスキャンダルもそうだったが、別に弱者を虐待したとかハラスメントだとか公金の明らかな横領というのでなければ、この主のトピックがあれよあれよという間に広まって攻撃材料となっていくのを見るのは気分が悪い。「罪なき者、石もて打て」っていう言葉が聞こえない人って多いのかなあ、と思う。)
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by mariastella | 2017-01-28 03:53 | フランス

ポスト・トゥルースと宗教

ブレクジットとトランプ、英語圏のこの事件で急に脚光を浴びたのが「post-truth」という言葉だ。

ポスト真実とか訳されていて、要するに、一部の人や団体が自分への利益誘導するために都合のいい「真実」をでっちあげる、ような意味で使われている。

言い換えると、今はもう、あることが「真実」であるかどうかよりも、「真実」に見せかけることが重要であり、かつそれがメディア・バイアスやSNSのおかげで可能になる時代だということらしい。

思えばポスト・モダンだって、「モダン」、つまり近代において真実とされていた理念を相対化してたった一つの真実などないのだ、と言った面ではポスト・トゥルースだった。
そして、その後、ポスト・ポストモダンに振り戻ったのではなかっただろうか。
いや、振り戻ったというより、願わくば、螺旋状に回って回帰した?

人は「真実」を必要とする動物だから、相対化が進むと、「真実もどき」の産業によって分断されて食い尽くされる。

それよりはまだ、「老舗宗教」で宗教性を満足させておく方がリスクは少ないし、事実、戦後の日本人の多くは、「無宗教という名の宗教」で、「なんちゃって真実」を上手に使いまわしてきたともいえる。

でも、このポスト・トゥルースのトゥルースは、真実というより「事実」とか「現実」に近い。

宗教の文脈におけるトゥルースは、真実というより真理だろう。

イエスが「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8,32)

という時の真理は、まさに、ポスト・トゥルースなどで加工されるような現実や事実ではなくて、人間の手の届かないところにあるものだ。

私はこれまで、「何かが真実であるためには現実である必要はない」ということをいろいろなところで書いてきた。
その場合の真実とは、「真理に至る道」みたいなもので、それはたとえば、「事実」ではないとみなが認識しているフィクションを通しても表現できるものだ。

よくできた「映画」や「小説」を「体験」することで垣間見える「真実」があるのはみな知っている。

逆に、フィクションでなくてリアルであっても、簡単な手品の前でさえ「わー、すごい」と感心する自分の知覚など何の役にも立たない。

見かけの「不都合な事実」に対する人の態度にはいろいろある。

誰かが挙げていた次の四つの例。

車に乗って急いでいる時に運悪く赤信号に変わった場合。

 1. しょうがないから停止。
 2. ひょっとして青信号じゃないか?
3. 急いでいるんだから命がけでそのまま進む。
 4. 赤信号は他人への停止信号で私には進めという信号だ。

これを宗教風にアレンジすると、

「太陽は地球の周りをまわっている。見れば分かるだろう」

 1. その反対の可能性もあると思うけれど、実際回っているように見えるのだから、受け入れる。
 2.そんな説は間違っている。回っているのは地球。
 3. その説に反対してたとえ火炙りになっても地球は回る、と自説を曲げない。
 4. お説の通り、地球は太陽の周りをまわっている。(いつの間にかすり替わっている)

「われこそは神だ。帰依せよ」

 1, そう言われるのだから帰依する。
 2.そんな神は偽物に違いないから信じない。
 3. たとえ神罰があたっても「私の神」を信仰し続ける。
 4. 「神は私だって? その通り。」

余命宣告みたいなものを前にしたらどうだろう。

信じない、とか怒って抵抗するとか、の段階を経て最後は受容する、みたいなシェーマがよく紹介されているけれど、うーん、「死を信じない」というのもありそうだ。

「死じゃありません、死後の世界への再生です」「次の生まれ変わりの準備です」とか。

現実としての「死」がトゥルースとしたら、死後の世界ってまさにポスト・トゥルースかもしれない。

実は、キリスト教が宗教として成立した時の核には、この問題への回答があった。

それはよく言われているように、「キリストを信じたら永遠に生きるのです、主のもとに行けるのだから幸せです」みたいな単純なものではない。真理と現実をどう見るかという明確な提案がある。

仏教風の「この世は夢幻、執着を捨てて悟りの世界へ」とか、祖先信仰風の「死んだら先だった親や友達に会える楽しみがある」みたいなものとは違う。この説明を今書いているところだ。

「永遠に生きます」とか「復活します」とか「生まれ変われます」という言説だけではとても「受容」の境地に至れないタイプの私には、感情的にも合理的にも「おお、なかなかいいかも」という考え方だった。

結局、大切なのは死後でなくて、生きている間の「生き方」で、それを支えるのは何かということなのだ。
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by mariastella | 2017-01-27 00:12 | 宗教

フランス大統領選 レバノンのマクロン

私の仲間たちは大統領選でマクロン支持に傾いている。

社会党の予備選を無視したマクロンがひそかにオランドの祝福を受けているというのは先日のレバノン行きで証明されたかのようだ。在レバノンフランス大使館に泊まって大統領にまで会っている。
経済には強いが外交政策は未知? と言われるマクロンの外交力を印象付ける感じだろう。

後は、やはり若さと、セクシーさが人々を引き付ける、といわれる。

マクロンは私には別に好みではないけれど、確かに、ヴァルス、アモン、メランション、フィヨン、ル・ペン、サンダース、クリントン、トランプ…と並べてみると、これらの人々はあまりセクシーな感じはない。
オバマにはそういうアピールがあったのかもしれないけれど。

ミーティングで新興宗教の教祖のように声を嗄らして張り上げていたのも、冷たさを払拭する真摯な感じだとか言われていた。

レバノンについての記事はフランス語を読める方はこのサイトをどうぞ。

このサイトは、「風たちぬ」というユニークなサイトで、注目できる。

フィヨンの方は、ウェールズ人の奥さんが、「専業主婦」として昨年10月にも「夫の政治に介入したことは一度もない」とコメントしていたのが、数年にわたって夫のアドバイザーとして給与が支払われていたということを、今日(1/25)の「カナール・アンシェネ」が書き立てている。

いつも夫のそばで協力していたという証言もあるし、相談にのったからと言って「介入する」とは言えない、とか、配偶者が秘書的役割を果たして給与をもらうのは右派左派を問わず一般的に行われている、とかいろいろ反論もあちこちでコメントされてきた。

フィヨンはもう早々と「飽きられてきた」のだろうか。

政党抜き(でも大統領に好かれている?)で突っ走るマクロンがやはり魅力的に見えるのだろうか?

今日は社会党予備戦の決選投票前の最後のディベートが公営放送で中継されるけれど、私はArteでウェス・アンダーソンの『ダージリン急行』(2007)を見るつもり。
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by mariastella | 2017-01-26 00:28 | フランス

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その2)

(これは前の記事の続きです)

スコセッシはシチリアのイタリア系で司祭になりたくて神学校に通ったこともあるというほどのカトリック信者だ。

14歳で神学校に入ったが、若すぎる、規則を守らない、ということで1年後に退学させられた過去がある。

1988年の『最後の誘惑』を見たニューヨークの聖公会の大司教ポール・ムーアから原作を与えられて、「この話は真実の信仰についてのものだ、魅力的なテーマだから読んで考えてください」と言われたそうだ。
その後スコセッシは黒澤明の『夢』にゴッホ役で出演するために日本に行き、この本を持参したという。

『最後の誘惑』のスキャンダルはまだ記憶に新しかったから、スコセッシがロドリゴ役に声をかけた役者質の中には、スコセッシとならどんな映画でもやりたいがこれだけはだめだ、宗教ものは自分のスタイルではない、と断られたこともあったと言う。

『最後の誘惑』は、上映中止になった国もあったと覚えているけれど、フランスでは普通に上映されていた。私も観に行った。問題視されたイエスとマグダラのマリアのラブシーンみたいなのは「人間イエスの頭の中の誘惑」という試練の映像化という設定なのだから、別に何でもありだと思った。

その時に、実は多くの人にショックだったのは、ラブシーンではなくて、むしろそれまでの欧米系のイエスの伝記映画の十字架上の受難シーンで初めてイエスが全裸で磔になっていたからではないかと思ったことを覚えている。

といっても、中世の受難の絵には、全裸のイエスのものが普通にあった。
それをフランスで最初に観た時は私も驚いたけれど。
それまで知っていたのは、腰に布を巻いたものばかりだったからだ。

アダムとイヴは禁断の実を食べてから裸でいることを恥じるようになった。イエスは、原罪のない無垢の存在を十字架に捧げたのだから、全裸で問題はない。それに、多分史実的には、イエスでなくともこの種の十字架刑は全裸で執行されたと考えた方が自然だ。で、画像だけでなく全裸のイエスの十字架像は今も残っている。

それが宗教改革後のトリエンテの公会議で禁止された。

イエスは原罪がなくても、見ている信者たちは罪深いのだから誤解を招く、教育によくない、というわけで、教会にある全裸の十字架像は廃棄、もしも芸術的に価値ある作品ならば腰布を巻くようにと通達された。検閲みたいに黒い色を塗られただけのものもある。

絵で有名なのはシスティナ礼拝堂のミケランジェロの『最後の審判』の中央のキリストで、後に腰布が描き足された。

でも、十字架のキリストが全裸であるのが自然だという議論は何度も蒸し返された。

聖フランソワ・ド・サル(サレジオ)は、1614年3月28日の説教で、「われらの主はなぜ十字架上で裸でいることを望んだのか」と語っている。

プロテスタントの多くは、キリストの姿そのものを十字架から消して、シンボルだけを残した。
裸問題は解決する。

そんなわけだから、スコセッシが『最後の誘惑』で十字架のイエスを全裸にしたのは、いわゆる教義や神学には直接関係のない部分であり、伝統的な表現の一つでもあったのだから、そのシーンを見ても、そのことだけを批判することは誰にもできない。
でも、それについて何も言えない、というフラストレーションが、イエスの想像上のラブシーンへの怒りに向けられた。けれども、スキャンダルの火元は、実はラブシーンではなく、全裸の方だったのだ、というコメントを当時書いた。

それから時が経ち、メル・ギブソンの『パッション』だの、ダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』だの、いろんな「過激」な説や表現が世間に広がった。

『最後の誘惑』を見た聖公会の大司教が、スコセッシに『沈黙』を渡して、「真実の信仰についてのもの」だと言い、スコセッシが30年近くかけて完成した今回の映画は是非見てみたい。
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by mariastella | 2017-01-25 00:27 | 映画

トランプ就任式の報道の差

前に就任式の中継を見て記事を書いた翌日、日本のメディアの報道を少し見た。

「反対派のデモの一部が暴徒化した」という感じの記事が割と目立ったのが気になる。

もちろんフランスの報道でも、襲われた銀行とか催涙弾とか、いろいろ報道されていたけれど、あれはフランス的に言っても、「デモの一部が暴徒化」したのではなく、最初から「暴徒」が侵入したのが明らかだった。
残念ながら、フランスでも、どんな種類のデモにだって必ず現れる「便乗型暴徒」である。

もちろんだから大したことではないというわけではないけれど、フランスの報道では、平和裏にデモをしていた反対派もトランプ信奉者も互いをリスペクトしあっていて、衝突、摩擦は起こらなかった、と強調していた。

第一、反対デモにやってくる人と、トランプ支持で地方から出てきた人たちというのは、互いに初めて見る異星人のようなもので、いがみ合うほどの接点がないというのだった。

そして反対派にとっても、伝統的に就任式の政権交代の成功は「アメリカン・デモクラシー」のピークだとみなされている上に、次の日に大規模デモを予定していたのだから、当日に秩序を乱すという発想はない。

しかしこういう便乗型暴徒が必ず繰り出してくる光景というのは、日本人には理解できないと思う。
日本人って行儀がよくて、「行儀の悪さ」への想像力がなかなか働かなくなっているのかもしれない。

もう一つ、不法移民を追い出すとかいうトランプのディスクールについて、フランスの解説者が、次のようにコメントしていた。

もともとアメリカとフランスでは、移民という言葉の含意が違うんですよ。

フランスでは移民は、労働力がほしい時(炭鉱労働者をアルジェリアから受け入れるなど)に旧植民地(つまりフランス語を解する人)から来てもらった人たちか、経済・政治難民など自国にいられなくなって着の身着のままやってくる人たちのようなイメージですが、

移民の国アメリカでは、移民とは「働く移民」です。努力して働かない移民は認めない、必死で働く移民だけが認められるというのがベースにあるんです。

という趣旨だった。 なるほどと思う。

この感覚はむしろ、フランスと日本の方が似ているかもしれない。

「移民ではない生粋の自国人」みたいなアイデンティティの幻想があって、

「困難を抱えるよその国からやってくる移民」をどこか見下しているのではないかと思う。

日本やフランスの極右の排外主義と、
アメリカがアメリカ・ファーストだとか言っている時の排外主義とは、
ポピュリズムの煽り方が微妙に違うのだろう。

さて、フランスでは社会党の予備選の決選投票が、ヴァルス対アモンに決まった。

ヴァルスが、

本選になったら第一次投票で敗退確実のアモンか
勝利の可能性がある自分か

という言い回しでアピールしていたのは情けない。
これでアモンが代表に選ばれれば、ヴァルスは「さあ、皆さん、アモンのもとに団結しましょう」なんてしらじらしく言えるのだろうか。

どちらが選ばれてもオランド大統領の積極的支持を受けられない可能性もある。
オランドはマクロンを支持したりして。

マクロンとヴァルスの政策は似ていて、民主進歩主義みたいな路線である。
社会党的な部分はソシエタルだけだ。

アモンの政策はメランションに近い。

今回アモンがヴァルスを抑えてトップだったのは、なんだか、アメリカ民主党の予備選で、サンダースを選ばずにクリントンを選んだことでと本選でトランプに敗れた教訓を生かそうとしているかのようだ。左派だから左派らしい政策を、ということで。

けれど、アメリカならサンダースが選ばれていれば本選は「トランプ対サンダース」だったろうだが、フランスではたとえアモンが選ばれても、本選で「アモン対フィヨン」になる可能性は限りなく少ない。左派にはマクロンもメランションもいるのだから。

水曜のディベートで「本選」を視野に入れた言葉がどのくらい出てくるのかが見ものである。
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by mariastella | 2017-01-24 01:36 | フランス

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その1)

マーティン・スコセッシの映画『沈黙』が日本で公開されはじめたようだ。

フランスでの公開は2月8日だ。知人が出演していることもあって楽しみ。
見てからまた感想を書くつもりだ。

日本の小説が原作で、アメリカの超大物監督による映画というのは多分めったにないだろうから一つの「事件」でもある。

でも、それに合わせて日本の「カトリック」関係者があらためてカトリックの立場から遠藤周作の原作やら評価やらについていろいろ語り始めたので「へえ、そうなんだ」と思った。

キリスト教の神でなくても、地震、津波、障碍者無差別殺人、テロなどのニュースが続く昨今、「神も仏もあるものか」、という悲痛な思いを抱く人たちは多いから、17世紀に拷問された切支丹たちや宣教師たちが「なぜ神に助けてもらえなかったんだ」、と思う人がいても不思議ではない。

その「迫害」の中で、最後まで信念を捨てずに「殉教」してめでたく神の国に行った(かもしれない)立派な人と、
一時の苦しみに耐えられずに棄教して罪悪感に打ちひしがれる人、
の二極化があるように思えることも不思議ではない。

日本のカトリック界では2月に戦国時代の殉教者と認められたキリシタン大名高山右近の列福式があるのでますます「信念を曲げずに大義のために死を受け入れた」人というのは盛り上がる。

もともと日本には「判官びいき」というか、栄光の時もあったのに悲惨な死を迎えた人に思い入れをする伝統もある。
実際、引き立てられていく切支丹たちの姿を「立派だ」と敬意の念を示した役人もいるという。

そういうベースでは、『沈黙』の宣教師は、他の切支丹(転んだ人も含んで)が苦しむのを見てあえて踏み絵を踏んで助かったのだから、日本的なヒーローにはなりにくい。

それを遠藤周作が宣教師が聞いたキリストの声によって正当化したのだから、微妙だ。

まあ、それによって、「踏むがいい」と言ったキリストこそ、日本的心性から見ても「真の自己犠牲のヒーロー」だと納得してもらえるようにできているとしたら、遠藤は立派なカトリック作家だ。

でも、

キリスト教は弱さを煽ったわけではない、とか、

正義や真理の理想を宣言して生命を投げ出した人こそ「神の子」である、とかいう人がいる。

棄教した信者や宣教師の弱さに注目して批判しているわけだ。

キリストなら自分自身が踏まれることを選んだろう、という遠藤の視点はスルーされている。

まあ、鞭うたれて十字架に釘付けにされてという屈辱的で悲惨な「受難」を受け入れたキリストだから、何が描かれていようと「踏み絵を踏む」程度のことで「正義や真理」をうんぬんするとは思えない、と遠藤が考えるのは、別に、日本的な甘えのキリスト教などと批判されるほどのことではないと思うけれど。

命をかけるほどの「正義」だの「真理」だのなんて、異教徒でなくとも、普通の人間の理解を到底超えているだろうし。

それだけではない。後世の歴史によって実は「誤り」だった、と裁かれた「正義」や「真理」や「絶対」などたくさんある。
その「誤り」を守るために人を殺したり、「誤り」に殉じて自分の命を差し出したりした人たちも当然たくさんいるわけだ。

国の大義や、神や主君への忠誠のために、あるいは保身のために、戦場に出向いて人を殺したり殺されたりした人のすべてが、「殉教者」や「英霊」とリスペクトしてもらえるわけではない。
拷問したり虐殺したりする側だって、ただの保身故だったかもしれないし、イデオロギーにとらわれると、人は人間性を失って自分も敵も「モノ化」してしまう。

(続く)
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by mariastella | 2017-01-23 01:04 | 宗教

アマゾンのバロック音楽

先日パレスティナの女性によるコーラスに感動してリンクをはったので、次に、アマゾンのバロック音楽祭についてもリンクをはろうと思ったのだけれど、ぴったりのものがない。

とりあえずこの画像を見てください

たいしたインフラもないところで、インディオの少年少女、青年たちが教会で毎日数時間も楽器の練習をしている。3歳から参加する子供もいるという。

ボリビアのサンタ・クルス県のアマゾンの近く、すごく奥地みたいなチキスト地方に、17世紀末にスペインから来たイエズス会士たちが、チェンバロ、バイオリン、ビオラ、チェロを持ってきて、修理や制作のノウハウも伝え、ヨーロッパのバロック音楽の楽譜だけではなく、現地でインディオの作品も含めて12000曲を残したという。

このチキスト地方のイエズス会伝道所群というのは1990年に国連の世界遺産に指定され、1996年から2年ごとにルネサンス・バロック音楽祭が開催されている。

中南米のカトリック文化はバロック真っ最中で、建築、彫刻、絵画、装飾もみなすばらしい。プロテスタントの宗教改革があった後のカトリックが、それまで「神に捧げていたアート」を、人々への宣教のために信仰を可視化するアートに転換させたからだ。

イエズス会がやってきて布教というと、

「帝国主義、植民地主義による侵略に便乗、またはその手先」

などと言う人がいるが、例えばこのボリビアのイエズス会士たちは、ひたすら現地の人の福祉のために投資した。

それが植民地主義の搾取とほど遠いことは、このイエズス会士たちが、その後、この地域を自分の勢力下におこうとしたスペイン国王によって追放されたことからも明らかだ。

日本に来た宣教師たちも、音楽、演劇、印刷術などを伝えた。
日本の場合はすでにインフラが発達していて、建築技術も卓越していたから、ボリビアよりも音楽や演劇の割合が高かったかもしれない。
少年のみによる復活祭の野外劇やさまざまなショーの要素を含んだ行列が、「新しい文化」への好奇心を掻き立てた。出雲の阿国がイエズス会劇に遭遇した可能性も大いにある。

ルネサンス音楽やバロック音楽は、後の「西洋近代音楽」と違って、日本の伝統音楽や芸能と相性がいい。産業化以前のアートだからだ。

このことについて、サラバンドとメキシコの関係を前に書いたことがある。サイトのこの部分の 『サラバンドの起源』を見てほしい。

今の時代のイメージでは、素人がバイオリンやチェロでバロック音楽合奏するなんて、スノッブな印象か時代遅れな感じだけれど、バロック音楽はメキシコにもアマゾンにもよく似合うのだ。できればボリビアの子供たちにもバロック・バレーも伝わっていてほしかった。

子供に音楽を禁じるイスラム過激派のひどさをあらためて思う。
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by mariastella | 2017-01-22 00:33 | 音楽



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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