L'art de croire             竹下節子ブログ

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ヤニック・ジャド、原子力廃絶、秋葉忠利さん

また寄り道。

ラジオで緑の党のヤニック・ジャドのインタビューを聞いた。

先日、自分の出馬を取り消して社会党のブノワ・アモンの支援に回ると言って話題になった人だ。
その時のインタビューも説得力があったけれど、今回も共感できた。

多くの人が「マリーヌ・ル・ペンに勝たねばならない」という視点から今はマクロン支持に回っている。「教師」のカテゴリーでは、29%がマクロン支持で社会党支持を上待っている(ル・ペンは7%)。私の周りにはこの「現役の教師」が多いが、やはりみな、ル・ペンに勝つためにはマクロン、といって社会党を見捨てている。

しかしこれは、トランプを阻止するためにクリントンを支持して結局敗れたアメリカの失敗と同じだ、とジャドは言う。
フランスのソシアルと、地球規模のエコロジーで妥協するわけにはいかない、と。
機会の平等ではなく、法の下の平等が必要だと。

本当にそうだなあと思う。

原子力発電については、現状維持でOKというのがル・ペンとフィヨンだ。
原則論として、この一点だけでもこの二派は避けるのが妥当かもしれない。

経済についても、単に、新自由主義のどこまでも続く成長志向がよくないという単純な話ではない。
日本でもフランスでも、「ブルジョワ知識人」のような人たちが、「脱成長」を唱えたり、断捨離、ミニマリスト、自給自足、農業回帰、清貧志向、みんなで平等に貧しくなろう、貧しくても幸せ、いや真に豊かになれる、という言説をふりまく。

けれども「弱肉強食の競争経済」には限界がある、格差が広がる、だから経済の縮小、ヒューマンな等身大の生活に切り替えればいい、かのような単純な言説は欺瞞だ。

経済システム自体を絶対に変える必要がある。

どう変えるかというと、国連で合意されている「環境保護」と「労働者の人権保護」の二つを直接「経済システム」に組み入れる形で構築しなおすのだ。
地球の環境を悪化させるような経済活動、不法移民の奴隷労働、就学もできない子供たちの労働、心身の過労で壊れていく労働者がいる労働形態と環境、などを解消する形で。

そのためにも、地球の環境を悪化させ、人類滅亡の危機につながるような原子力産業は民間、軍事ともになんとかしなくてはならない。

原子力の廃絶というのが絶対に必要だというのは、最近、秋葉忠利さんが書き手の一人であるブログを愛読するようになって、新たに確信するようになった。とても共感している。
初めはこのブログの注目記事の書き手が「前広島市長」だとは知らずに読んでいた。

ぶれない姿勢には信頼感をそそられる。
かっこいい。

やはり毎日読んでいる澤藤統一郎さんのブログもそうだけれど、今、70代半ばの世代のブログの説得力に感心している。

私より10歳くらい上のこの世代は、いわゆる団塊の世代よりは少し上で、60年安保と70年安保の狭間に「大学生」だったので、ある意味半端というか、中間管理職っぽいイメージがあった。東大闘争のリーダー的存在だった山本義隆さんとかも、当時は、やはり研究者として中途半端に「体制側」にいた後ドロップアウトしたかのようなイメージがあった。

でも、今になって、山本さんもそうだけれど、澤藤さんにしても秋葉さんにしても、ずっと信念を貫いた生き方をしていると分かる。

自分の利益や権力や地位や金や名声を求めて発言してきたような人たちは70代ともなるともう「功成り名を遂げ」てリタイアしている率が高いし、普通に考えてもう「野心」や「承認欲求」にかられて意見を述べるということはない。
もちろんトランプ大統領のような人もいるわけだけれど、そういう人は、もうそれを隠さない。
逆に言えば、70代になっても、個人の利害を超えた信念や原則を貫いている人は「本物」だと確定する感じだ。過去の実績もはっきりしている。

いわゆるインターネットの世代ではない彼らが、こうやってネットで発信してくれることはとてもありがたい。親近感さえ覚える。

不思議なことに、同じようなタイプの女性のブロガーにはまだ遭遇していない。
女性でこの年代で刺激的な論考を発している人はフェミニズム色があるような気がする。
まさにこの年代だから、これまでに、女性差別などのデメリットに遭遇してそれと戦っていくことが生き方に組み込まれているからだろうか。

そう思うと、信頼できる年配の男性の情報発信者がこうして信念を曲げずに戦い続けてこられた陰には、家庭を守ってきたり、家事育児を引き受けたり、夫の心身の健康管理をしてきた夫人たちがいる可能性が大なので、結局は、彼らの歩みは二人三脚なのかもしれない。

フランスでも女性論客は本人に安定した職や経済力があって、夫や子供がいる場合でも、家事や育児を外注できるという人が多い。今まで何度も書いたが、プロテスタントの男女家事分担文化と違って、保育園にしろ、乳母にしろ、家政婦さんにしろ、ベビーシッターにしろ、家族以外の手を借りることへの罪悪感がない社会だからだ。

(ちなみに、私のこのブログの上に、時々、「よく似たブログ」というのが出てくるので、好奇心でたまにクリックするのだけれど、写真ブログが多くて驚く。「外国暮らし」の女性ブログや猫写真のブログというのはまあ共通点が分かるけれど、ケーキのレシピがたくさん出てくるブログが出てくることもある。いったいどういうリサーチでこうなるのかなあ。)
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by mariastella | 2017-02-28 00:19 | フランス

ル・ペン、バイルー、メディ・メクラット

また、寄り道。

マリーヌ・ル・ペンのベイルートでのイスラム・スカーフ拒否や、バイル―とマクロンの共闘についてさらにいろいろな記事などを読んだ。今朝26日にバイル―のインタビューも耳にした。

ル・ペンについては、極左のメランションが評価したのは極右の取り込みに必要だとか、あれはレバノンのムスリムに向けた言葉ではなくて、ただフランスでの自分の支援者に向けたパフォーマンスだとか、ローマ教皇に会うんだったらヴェールをつけるにちがいない、とか言われていた。

EUの公金疑惑問題が露わになればなるほど支持率が上がるというのは、トランプの暴言が全くマイナスに働かなかったのと似ている。

バイル―とマクロンについては、「地に足がついていない」感じのマクロンに対して「地に足のついた」地元の基盤があり実績もあるバイル―が並ぶことがかえってマイナスになる、マクロンの売りはそのヴァーチャルさと若さなのにその両方ともダメージを受ける、という意見もある。
まあ私のように、バイル―のおかげでむしろ信用が増したと感じる人も多い。

そしてバイルーは、「大統領になる」ことを想定する候補者というのは、大統領の役目が「公正(司法)を守ること」、「つまり司法のシステムや現在の制度、メディアの表現の自由を守ることだ」と言う。これは、事情聴取に応じないル・ペンや、スキャンダルはメディアの陰謀だ、司法も先入観を持っていると居直るフィヨンらを批判しているわけだ。

この辺も、「メディアは人民の敵」みたいな暴言を吐いているトランプ大統領のことも意識しているのだろう。

そのほかに、SNSについて考えさせられる話題があった。それは、いわゆる移民の子弟のゲットー化していると言われているような地域の24歳の若者メディ・メクラット、しっかりとした知見をブログで展開し、他のメディアにも取り上げられて、「当事者の星」のような扱いで共和国主義の成果、若い世代のムスリムに期待できる希望の存在として人気を博していたという青年の話だ。何しろ一流の出版社(le Seuil)から本まで出しているし、様々なディベートに招待される常連だった。この人が、実は、別のハンドルネーム(マルスラン・デシャンというフランス人っぽい名)を使って、政治家矢シャルリーエブドを(実際のテロの前から)誹謗し首を斬るといったり、ユダヤ人、同性愛者、黒人にもひどいヘイトスピーチを2015年まで延々とtweetしていたことが明るみに出た。
本人もそれを認めて、あれは自分の中のもう一つの自分、悪の声、ジキルとハイド、と居直っている。過激がどんなものなのか、挑発して試してみたかったと言ったり、二重人格だと言ったりもしている。彼を持ち上げていたメディアにとってはすごいショックだった。

今の世の中、市井の名もない青年がブログ一つで、寵児になることもできるし、一方で匿名に隠れてどんな醜く下品なことでも堂々と書き散らすことができるのだと今更ながら驚く。せっかく一方で社会的に認知されたのだから、リスク管理というか、tweetを完全に消去するとか、メディアの視聴者が期待することだけを発信するにとどめるとかで満足できなかったのだろうか。

だれでも本音と建て前というのがあるのはもちろん分かるけれど、例えばヘイトスピーチはれっきとした犯罪だし、たとえ本音で思っていてもそれを口にしたり文字にしたりするどのような必要があったというのだろう。見たところはいかにもそこいらの「当事者」で、麻薬のディーラーになったりジハディストになったりしても不思議ではないという偏見で見られる「タイプ」である。だからこそ彼の発する知的で建設的な言葉が高く評価されていたのだ。
(今は一転して、不当に攻撃されて身の危険を感じるから一時フランスから出る、と言っている。差別されている側に落とし込むつもりなのだろうか)

「フランス語」一般に言えることだが、フランス語というのはその気になれば、だれでもしっかり内容のあることが言える言葉だ。いつも感心するのだけれど、いわゆる知識人などは当然としても、テレビなどに出てくる「一般人」の体験談などでも、中高生から超高齢者まで、理路整然と分析したり判断したりしている。スポーツ選手などもそうで、今朝も21歳のサッカー選手がラジオで延々と、すごく論理的で説得力のある発言をしていた。

日本だとスポーツ選手は「お相撲さん」を筆頭になんとなく口数が少ない、というイメージがあるし、口数が多いものは軽薄だととられることすらある。

それこそ今はSNS文化によって変わってきたけれど、手紙ひとつ書くにも、気候の挨拶みたいなもので雰囲気を作ったり、相手との年齢を含めた上下関係の枠をまずはめたりと「本題」の部分への切り込み角度が鈍くなる。

私自身もフランス語で書いたり話したりするときの方がずっと楽に言いたいことのエッセンスを言える。このブログには「想定読者」がいないので楽だけれど。

(でもこう毎日書いていると、近頃「ブロガー」さんになったような気がしてきた。よく見ると、毎日更新をしている人も少なくないし。で、たいていの人は、どの記事にも整合性があるというか、ぶれない。そんな安心できるブロガーさんが他のハンドルネームで差別や憎悪を吐き出しているというのがもし分かったら、やはりショックを受けるだろうなあ。ハイド氏は内輪で飼い殺ししておいてくれないと困る)
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by mariastella | 2017-02-27 01:46 | フランス

フランスとイスラム  その5

これは「フランスとイスラム その4」からの続きです。

フランス国内の過激派にとって強力な味方とはCCIF(Collectif contre l’Islamophobie en France)というフランスにおけるイスラモフォビー(嫌イスラム)を告発するグループだ。

もとは、エジプトでのベースを失ったムスリム同胞団のコアはトルコに移ってきていたが、彼らにとってもヨーロッパは格好の戦略目標に映った。

七三二年にポワティエの戦いでシャルル・マルテルに阻まれてピレネーを越すことができず、その後レコンキスタによってイベリア半島からも撤退し、一六八三年には第二次ウィーン包囲でヨーロッパの神聖同盟に破られて、領土の割譲を強いられたイスラムにとってヨーロッパへの進出の三度目の正直が二一世紀の今だ、それは武力でなく説教による改宗への導きだから成功するだろう、と衛星テレビ「アルジャジーラ」で語ったのはムスリム同胞団のユセフ・アルカラダウィだった。

そのためには、ヨーロッパのムスリム共同体に働きかけて、彼らを「侵略者」ではなくて「犠牲者」に仕立て上げることが必要だった。
ISによって植え付けられる「攻撃者としてのイスラム過激派」のイメージを逆転して、ヨーロッパのムスリムは非ムスリムによる差別の犠牲者であるという演出がなされる。

その成功例のひとつが2016年夏のニースのテロに引き続いて起こった「ブルキニ」事件であった。(続く)
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by mariastella | 2017-02-26 00:58 | フランス

大統領選に変化。マクロンとバイル―が組む。

寄り道、第三弾。

フランス大統領選がおもしろくなってきた。

中道モデムのフランソワ・バイルーが、なかなか出馬を発表しないと思ったら、マクロンを支援することを決めたのだ。これで、マクロンは中道左派というより中道認定。

しかも、最近のマクロンは何かあやしかった。
アルジェリアの植民地政策が人道に反する罪だと言ってアルジェリアからの引揚者たちからのヒステリックな抗議を受けたり、彼のミーティングの演出の内幕(盛り上げ要員を募集してスマホで「ここで拍手、ここでこう叫ぶ」などと実況指示してそこだけにスポットライトを当てていた)を暴露するyoutubeが出回ったり、前に声を嗄らして叫ぶのがどこの生き神さまですか、という感じで揶揄されていた。

今まで議員になったこともなければ「政党」にも属さずに拡大するファンを連れてあちこちでミーティングする様子が「キリスト的」だとも言われた。最新の『シャルリー・エブド』の表紙には十字架に架けられたマクロンが「私はあなた方を愛している!」と叫んでいるカリカチュアだった。

こんなことをいうと悪いが最近のマクロンはキリストというよりサイコパスみたいでどこか気味悪かった。

ところが、昔はどもりがちなことを揶揄されていたけれど今やすっかり安心できるおじさん風になったバイル―がマクロンと並ぶと、なんだか、中和されていい感じだ。酸いも甘いも嚙分けたベテランの苦労人のおとうさんが血気にはやる息子を頼もしそうに支えるイメージ。
これとか、これとか。

南西部ポーの市長として人気のバイル―だから、アミアン出身のマクロンを支えるにあたって、「セーヌより北ってことはちょっと、なんだけど、彼のおかあさんは南の出身(ポート同じくピレネーあたり)だから」などと付け加えていたのもおもしろい。この人が言うと何かほっこりする。昔はもっと悲愴な印象もあったのだが。

マクロンがフランス的だと思うのは、「集団の知性に訴える」と連呼しているところだ。
この辺が反知性主義のポピュリズムと違うし、フランス人というのは、一般に、「知性的(に見える)な者」に弱い。今日はフランス映画のセザール賞のセレモニーの日だが、アカデミー賞やなんかの作りとは決定的に違うスノッブさがいつもある。

だからこそ、トランプ大統領を評価する極右のル・ペンですら、言い方にも物腰にも、細心の注意をはらっている。

このフランス人の「エリート・コンプレックス」みたいな上昇志向が完全に崩れたのは10年前のサルコジの登場だった。「コンプレックスを吹っ飛ばす」サルコジは、これまでのフランス大統領なら絶対に口にしないような言葉を使った。

これでよく通用するなと思っていたが、さすがに再選されなかったし、今回も予備選で落ちた。

さて、バイル―に続いて、緑の党のヤニック・ジャドも、出馬をやめて社会党のアモンの支援に回ると言った。緑の党はこれまでずっと独自候補を立ててきたから、この方が実は、今の時代の危機をよく反映していて重要なことかもしれない。

ジャドとアモンは今年50歳の同い年だが、この2人も、アモンがなんとなく人相が悪いのに比べて、ジャドは信頼できそうな感じのいい兄貴分のように見える
緑の党への投票予想はもともと2 %くらいなので大きな追い風にはならないだろうが、こちらも中和していい感じになった。

極左に位置するメランションが彼らに合流する可能性は少ないが、メランションは癖があって濃すぎるので、ジャドやアモンと並んだら、絵的にはかなり微妙だ。

共和党のフィヨンは合法だとしても結果的に妻子に利益供与をしていたので、EUの金を党の資金に回していたル・ペンよりも苦しい立場に立ったままだ。彼の、篤実で信頼できるというイメージを自分で裏切った形だから、なんだかだんだん見苦しくなってきた。

でもある社会党の政治家(ヴァルスを支持していた)が、自分はアモンの政策に賛同できないところはあるがもちろん応援する、投票は心でなくて理性でするものだ、感情によらないで信念によらなくてはならない、と強調していた。

トランプ効果、というのを感じる。
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by mariastella | 2017-02-25 03:43 | フランス

カリスマ司祭が結婚で教区を離れる話

昨日に続いてさらにもう一つ最近気になった話題で寄り道。

リヨンの名物司祭ダヴィッド・グレアが結婚する。

先週の日曜日、彼の教区サント・ブランディーヌ教会のミサに、彼は姿を見せず、代理の司祭から彼の手紙が読み上げられた。

45歳のグレア師は、栄光という名のロックグループを率いて「ポップ賛歌」というコンサートツアーによってフランス中に知られていた。いろいろな映画にも司祭役で出演している。
2000年に29歳で叙階され、21世紀の福音宣教について大いなる情熱を燃やしていた。

毎週の教会は満員状態で、人々は歌と音楽と喜びとエクスタシーの混ざったような盛り上がりを見せていた。

彼の「説教」の一例はこんな感じ。(雰囲気だけどうぞ)(この説教の感想はというと、うーん、よくできてるし彼の思い入れが伝わってくるし、この説教に感動してからこの教会を後にする人の人生は、少なくとも入る前よりも悪くはなっていないだろう。他の人の人生をより害するということはないだろう。ここで説明されるヤコブの話についてはいつかまた書いてみたい)

これは彼のミサでの演奏の様子。主の祈りが歌われ、若者たちが恍惚となっているのが分かる。


いわゆるカリスマ司祭であり、福音派のメガチャーチではないが、こういう個性的な人のパフォーマンスがないと、今どきの若い人の心をとらえられないのかもしれない。

私は何にしろ「集団の熱狂」というものが苦手で、特にそれを外から見ていると全く共感に向かわない。むしろ警戒してしまう。

でも、グレア師のような雰囲気で、ファンに囲まれていたら、いつかしかるべき女性とめぐりあって結婚へと向かうというのは、不思議なこととは思えない。

彼はその女性と暮らすように「神から呼ばれた」という表現をした。

司祭でいることの歓びと結婚する望みを教会の中で両立できるか模索してリヨン大司教バルバラン枢機卿に相談した。枢機卿は、教皇に会うようにとアドバイスした。

実際グレア師はバチカンでフランシスコ教皇に会ったという。教皇はやさしく耳を傾けてくれ、彼の模索が理に適っていることを評価してくれた、らしい。

枢機卿は教皇と話し合い、グレア師に少し時間をおいてじっくり考えるように、識別の時間を持つようにと言った。

結局、愛する女性と暮らすことを神に促されたと感じて、結婚を決めて、教区を離れることを選んだ。復活祭前の四旬節が始まる前にと思ったのかもしれない。

上にリンクした説教の終りに彼は創世記の一節(28-15)を引用している。

「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

これはヤコブの夢の中にでてきた神の言葉だが、グレア師も「神に見捨てられない」ことを知っているのだ。旧約の神というと嫉妬深く怒りっぽいイメージがあるが、この神の言葉は確かに心強い。

「司祭」であることは聖霊による聖別だから取り消されないが、「職務停止」ということになる。これからもロックグループで歌って福音宣教するのだろうか。

新司祭は9月に任命される予定でそれまではリヨンのカトリック大学付きの司祭が代行する。
3月5日には枢機卿が来て教区民に話すという。

信徒たちとあれだけ熱烈な関係にあった人だから、グレア師にとって最大の「罰」は手紙ではなく直接彼らに説明できなかったことだろう。

カトリック教会の司祭の独身制が固まったのは1139年の公会議のことだった。
中世の間は、あまり深刻な問題ではなかった。当時の司祭のほとんどは農村部にいたわけで、普通に同棲して子供も育てていたからだ。問題になったのは、プロテスタントの宗教改革の後でカトリック教会が態勢を立て直し、「神学校」を作って厳格なカリキュラムを組むようになり、独身制を守っていた都市部の宣教師らが農村地帯に送られるようになってからだ。

それでも20世紀のフランスの田舎には、身の回りの世話をする「家政婦」と公然と暮らしている司祭がいた。

20世紀には他の「妻帯司祭」もカトリック教会に流入した。ポーランドなど旧共産圏で無理やり妻帯することになった司祭たちの受け入れや、女性司祭の解禁に反対してカトリック教会に合流することを望むイギリス聖公会の妻帯司祭などだ。
また、グレア師のように、恋愛して結婚する若い司祭もいたが、若い司祭が激減するフランスでは専属司祭のいない教会がたくさんできて、需要が供給をはるかに上まっているから、なかったことにしてそのまま教区司祭を続けるケースもあった。
信者のメンタリティも変わったから、プロテスタントの「牧師夫妻」のように司祭のカップルを受け入れているところもあった。

それに、映画『沈黙』ではないが、形だけ踏み絵を踏んでも信仰が消えるわけではないように、妻帯司祭もほとんどの場合、結婚したからといって「信仰」を捨てたわけではないし、司祭を「天職」と感じ続けている人が大部分である。信仰があるからこそ、ちゃんと結婚して添い遂げようと思っているわけだし。

フランスには妻帯司祭の家族の互助会も存在する。
しかし、こういうカップルで後で離婚するケースはどのくらいいあるのだろう。
もちろん結婚に当たっての覚悟が普通とは違うだろうからかなりがんばると思うけれどゼロだとは思えない。本人や妻の浮気だとか、愛が冷めるとか、などの場合も罪悪感などが半端ではないに違いない。でも一信徒として司祭に告解を重ねて解消できているのかもしれない。

結婚に後悔することは?

うまくいっている人の証言しか読んだことがないので分からない。

リアルではもう40年近く前に、日本人の奥様と東京で暮らしているフランス人の元司祭夫妻と食事をしたことがあるが、その時はとても突っ込んだ質問なんかできなかった。

リヨンのバルバラン枢機卿は、司祭の小児性愛事件を厳しく扱わなかったことなどでさんざん叩かれたところだし、なんだか気の毒だ。

ラジオでパリ大司教ヴァントトロワ枢機卿がこの件についてインタビューされて、やはり元気のない声で、

「いや、問題は独身制でなく、約束に忠実であるかどうかなのです」

と答えていた。

今のカトリック教会では司祭になる時に独身でいることと、司教に服従することのふたつを約束することになっている。
修道会に入る人は、「清貧、貞潔、服従」の誓いを立てるが、司祭は厳密にいえば「結婚」さえしなければ「貞潔」の方は「約束」したわけではない。
それはまあ基本的に「結婚」以外の性的関係が最初から「想定外」であるからだ。

チベットのお坊さんたちの「授戒」の時に、結婚どころか、女とも男とも動物とも性的関係を持たないとされるのと比べると、カトリックって以外に「お花畑」?

いや、独身制の確立までにはいろいろな段階があって、最初はすでに結婚していたり同棲したりしている人は問題ないとされたり、禁欲すればOKとされたりの時代もあって、「人間が創りあげていくシステム」の複雑さを反映しているだけだ。(下にリンクしたディドロの記事に詳しく載っていて興味深い)

でも今や60歳以下のフランス人司祭は絶滅危惧種と言われている時代なのだから、今こそ、250年前に百科全書でディドロが述べている司祭の結婚のメリットを考え直す時代かもしれない。
司祭は平均の男よりも「いい夫」で添い遂げる確率が大きいから、幸せな妻が増える。安定した夫婦に育てられる敬虔で善良な子供が増えるし、家族がみんな信者になるのだから信者も増える。司祭の性的フラストレーションによる問題も減る。独身であることに耐えるよりも、妻や子供から来るプレッシャーに耐える方が人間が鍛えられる…etcで、想定される反論にもいちいち答えている。

あ、でも、百科全書はクレメンス13世によって1759/3/5(ディドロのこの記事は1752)に禁書目録に入れられたんだから、無理かも。(禁書目録システムは実効の意味がなくなったので1966年になくなっているけれど、これらの本は一応注意してくださいね、というニュアンスは残された。でも、考えてみると、禁書目録と言っても、いったん禁書にされたコペルニクスやガリレイの本が禁書を正式に解除されたりしているので、禁書があった時代のローマ教会もそれなりに良心的。)

なんにしても、司祭から相談されると司教は見て見ぬふりはできない。
しかも、いろいろ「不都合」なことをつい曖昧にしておいたり世間の目から隠しておいたりする体質を放置すると、小児虐待司祭のような重大なケースも出てくるわけだ。
司祭たちの恋愛や結婚も犯罪も全部まとめて監督責任を負わせられる気の毒な司教たちにも神からの「福音」がちゃんと届いていることを信じよう。
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by mariastella | 2017-02-24 00:09 | 宗教

レバノンでイスラム・スカーフを拒否したマリーヌ・ル・ペン

連載中の「フランスとイスラム」はまだまだ延々と続くのだけれど、このところおもしろいニュースがありすぎるので少し寄り道。

その一つは、ただいまフランス大統領選キャンペーン中の極右FNの党首マリーヌ・ル・ペンがレバノンを訪問して、火曜日にベイルートのモスクでスンニー派のトップであるグラン・ムフティと会見する前に、スカーフで頭を覆うことを拒否したニュースだ。

彼女はエジプトで2015年5月にやはりスンニー派のトップと会見した時にもイスラム・スカーフを強要されなかったことを根拠にして拒絶した。

彼女は前日にそのことを伝えてあり、返事がなかったので問題ないと思った、と言い、ムフティの側はスカーフ着用は義務であることを伝えてあると言い、くいちがっている。

レバノンはもともと中東の真ん中に、英仏が「キリスト教の飛び地、緩衝地帯」として人工的に国境線を引いた国だが、今はイスラム勢力の方が強い。

ル・ペンは、公立学校や役所だけではなく公共の場所でのユダヤの帽子のキッパやイスラムスカーフの着用禁止の法律を提唱しているぐらいだから、彼女のこの「毅然とした態度」には、FNの支持者からは好意的に受け止められた。「フランスと全世界の女性に向けた自由と解放の素晴らしいメッセージだ」と、マリーヌの右腕であるフロリアン・フィリポがすぐにTweetした。

マリーヌは、自分はイスラムに偏見を持っているわけではない、イスラム過激派と戦うだけだ、グラン・ムフティへのリスペクトの気持ちは変わらない、と弁解した。

ううーん、わざわざイスラム圏の国に出かけて行ってしかもその宗教施設でそこのトップに会うのだから、向こうの習慣をリスペクトするのは当然だという気もする。ただし、仏教寺院で靴を脱げといわれれば、男女とも同じだし、床を汚さないという礼儀もあるからマリーヌも従ったと思う。モスクで女性だけが髪を覆うことは、衛生上の理由も考えられない。

このことについての私の個人的感想については前にわりと詳しく書いたことがある。
そちらの記事をまず読んでほしい

数年前にプラハのシナゴーグでの体験から感じた本音だ。

私は前にマリーヌ・ル・ペンだけは、「女性政治家」のステレオタイプに入れられない特異な存在だということも書いたことがある
しかし、確かに、モスクの中では、彼女は「政治家」である前に「女性」認定されるのであり、向こうが求めるそのアイデンティティに課せられる規則を受け入れないのなら、拒否される。

いや、ニュアンスは少し違うかもしれない。ヴェールを被ることを拒否したのはマリーヌで、彼女はかぶり物のない頭のまま突破しようとして排除されたのではなく自分から出て行った。

この段階では彼女は別にフランスの外交官でもないし、いわゆる公式訪問というわけでもない。

だから、彼女のとった行動自体は日頃の主張と整合性がある。
こういうケースを想定してわざと仕掛けた、というよりは、かぶり物のない頭でモスクの指導者と会見している写真をねらっていたのかもしれない。

後日談をもう少し観察していきたい。
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by mariastella | 2017-02-23 00:39 | フェミニズム

フランスとイスラム  その4

どうしてフランスの対テロ諜報機関がインターネットによる第三世代ジハードを監視していなかったかというのはいくつかの理由がある。

その一つはアラビア語のメッセージを読まなかったからだ。

もう一つは、1995年以来フランスではジハディストのテロが起こっていなかったからだ。

諜報機関はいくつかのモスクで要注意イマムの話をチェックはしていたが、真剣には憂慮していなかった。ジハードは上からピラミッド型に浸透していくものだと考えていたからだ。デジタル革命、SNSによる煽動の拡散を想定しなかったから10年の遅れが出たのだ。

監獄に3,4年入って出てきたジハディストがヒーローのようなオーラをもって、それまでイスラムについて何も知らないゲットーの「不良」たちに、彼らがゲットー化したシテに追いやられているのは不信心でイスラム嫌いな社会のせいであり、ジハードによってそれを解消できると説いたのだ。

監獄はイスラム過激派にとっての「エリート」コースとなっていた。
その実態が長い間看過されていた。

メラーの起こした事件は、精神状態が異常な男が単独で起こしたアクシデントなどではなかった。
彼らは彼らの「論理」に従って行動している。
その「論理」を分析することは可能だ。

しかしそれには最低のイスラム=アラブ文化の知識が必要である。

彼らの目標ははっきりしている。住民を脅かすこと、標的を殺すこと、そのことで他の過激派ではないムスリムを刺激して共同体意識を高めて後に続かせることだ。

けれども、この最後のものは難しい。

なぜなら、シリアやイラクにテリトリーを得て挑発するISは、多くのムスリムに憎まれているからだ。ISが誇示する蛮行は逆効果だった。そこに、強力な味方が現れる。(続く)
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by mariastella | 2017-02-22 01:41 | フランス

フランスとイスラム  その3

ここからはしばらく、政治学者ジル・ケペルが『シャルリー・エブド』No 1276(2017/1/4)に載せた記事を要約する。

2012年3月にメラー事件というのがあった。フランスとアルジェリアの二重国籍マオメッド・メラーという23歳の男がトゥールーズで次々と軍人を殺した後でユダヤ人学校を襲った事件だ。

この事件は第三世代のジハディストによるテロの発端だったのだが、当時大統領選を控えていたフランスでは、一匹狼の特殊な事件だと考えられていた。

その初めは、2005年の1月にシリア人のアブー・ムスアブ・アルスリーが、西洋世界に対する攻撃を呼びかけて、西洋世界のアキレス腱はヨーロッパだと断定した。

それまでのアルカイダは、ビン・ラディンのようにアメリカを狙い、アルジェリアやアフガニスタンというようなイスラム国にジハードを仕掛けた。第三世代というのは、それがインターネットを通した呼びかけであったからだ。どこにいても、今いる場所で「殺す」こと、それによってパニックを誘発し、特定の場所の戦いを内戦にまで広げていくのが「戦略」だった。

ところが、その2005年から、メラー事件の起こった2012年まで、フランスの対テロ諜報部門はこの変化を全くとらえていなかった。(続く)
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by mariastella | 2017-02-21 00:14 | フランス

フランスとイスラム  その2

次に、フランスのイスラム過激派対策を誤らせた「イスラモフォビー」(イスラム嫌い)というコンセプトについて。

イスラモフォビーは「一部の過激派やテロリストとフランスの穏健なムスリムを混同するな」という言い方によって、実は巧妙に「イスラム批判」と「ムスリム差別」を混同している。
この二つは別物だ。健全な宗教批判は表現の自由に属するが、ある宗教に属する人をまとめて批判するのは「差別」という「法的な罪」を構成する。

宗教は批判の対象となる。宗教とはシステムであり、逸脱することもあるし、権力によって取り込まれて利用されたり変質したりもするからだ。

宗教は文化現象の一つでもあるから、ある宗教の価値観が他の文化圏の価値観とは合わないことも当然ある。イスラムの価値観がフランスの共和国の価値観と合わないと言って批判することは自由だ。

けれども、ある人がイスラムに帰属しているからといって偏見を持ったり、蒙昧だと言ったり、アラブ風の名や風貌を持っているというだけで差別することは、それこそフランスの価値観に反する「罪」である。

ある国の指導者のやり方やイデオロギーを批判することは健全だが、その国のすべての国民をまとめて中傷するのはヘイトスピーチである。

ある人がある国に生まれることは選択によるものではないし、イスラムの場合はムスリムの父を持つ子供は自動的にムスリムとなり、棄教は死に値するとされているのだから、これも選択の余地はない。

ニーチェはユダヤ主義を激しく批判したが、ユダヤ人差別主義者ではなかった。(続く)
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by mariastella | 2017-02-20 01:32

ポピュリズムと妊娠中絶とキリスト教の関係

月イチ更新の健康ブログに、近頃の欧米のポピュリズムが「人工妊娠中絶」の合法化や改正などについてうるさく言っているのを見てちょっと書いておこうと思ってアップしたのですが、結構長くなったし、このブログにも書いたテーマとつながっているので紹介しておきます。

この記事です。

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by mariastella | 2017-02-20 01:31 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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