L'art de croire             竹下節子ブログ

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フィヨンがんばり、ジュッペが引く

アラン・ジュッペが出馬しないとさっき宣言した。

当然の判断だ。

共和党メンバーだけでなく4百万人が投票した予備選で大きく水をあけられてフィヨンに敗れたのは、「政策」のレベルであって、「正直さ」ではなかった。ジュッペと言えば、パリ市庁の架空雇用で「有罪」になって、執行猶予の間カナダに逼塞していた経歴があるのだから、今回、過去の、妻の架空雇用疑惑で退陣を迫られているフィヨンの後釜というのはジョークになる。左派との政権交代での改革、新風、をイメージさせるのも、今年72歳になるジュッペには難しい。

昨日のトロカデロの集会も、最初は、一連のスキャンダルについてメディアや司法の陰謀だ、戦争だ、などと息まいて、すっかり極右ル・ペン化していたフィヨンだが、上品に謙虚にまとめあげて、彼を見捨てていない層に好感と満足を与えたと思われる。

離婚するだの、妻が家出した、自殺した、などひどいデマが飛び交っていたここ数日だが、昨日は妻の方もはじめて新聞のインタビューで夫を支える決意を述べていた。

夜の公営放送のニュースでのフィヨンのインタビューを見たが、かなり突っ込んだ皮肉なことを言われていたが、誠実にかわす様子は、ル・ペンやサルコジやマクロンやメランションよりも「大統領」っぽかった。

私はそもそもフィヨンの政策に批判的だが、ともかくここはフィヨンにしっかりとどまってもらわなくては、彼が消えると、昨日トロカデロに集まった人の半分はル・ペンになびくと懸念される。

今の状態では、決選投票はマクロンとル・ペンでマクロンが勝つというのが統計上の「予想」なのだが、その差は縮まりそうで、五年後にはどうなるか分からない。共和党のような伝統的な保守派と、伝統的な社会党がしっかり両方でバランスを取り、牽制しあっている形での「中道」の勝利なら期待が持てる。どこが勝っても、今の日本のように各種の「強行採決」がどんどんできてしまうような体制にはなってほしくない。
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by mariastella | 2017-03-06 21:16 | フランス

フランスとイスラム その9 ----イスラム圏の「独裁者」と過激派

次に、そもそもどうして今のイスラム過激派が形成されたかについて、次にカメル・ダウド(アルジェリアのジャーナリスト)の記事を要約しよう。

2012/9/16の記事より。

ベンガジ(リビア)のアメリカ領事館で起こった大使らの殺害とその後に公開された虐殺遺体の写真を前にしたヒラリー・クリントン(国務長官)は、「私たちが平和に寄与した町が、どうしてこんな仕打ちができるのか」と叫んだ。間違った視座から投げかけられた間違った問意だ。

欧米はみな、イスラム過激派は独裁者(ここではカダフィー)によって生み出された「犠牲者」なのだという解釈をしていた。欧米がカダフィーを倒したのだから感謝してもらえるはずだと。

実際は、イスラム過激派は、独裁者が用意した時限爆弾のようなもの、独裁者の遺産だ。

何十年もかけて、アラブ諸国の「体制」はイスラム進歩主義者を弾圧して原理主義者を応援してきた。

どこでも同じで、時として国家レベルで、時として保守政権と宗教権威との間の取引としてそれが準備されていた。アルジェリアでは目に見えていた。「アフリカ最大の国プロジェクト」が「アフリカ最大のモスクプロジェクト」へと取って替えられた。

イスラム過激派の数は増え、その野心は大きくなり、アルジェリア人に、彼らの信条、服装、典礼、考え方を強要した。
アルジェリアは、忍耐する政治とヒステリックな軍隊に二極化した。

イスラム圏の独裁者たちは「イスラム過激派を追い詰めて殺すべきだ」と公言していた。
それがかえって過激派の活動を刺激し拡大させ、そのことで「独裁体制は地域の安定を保つために必要不可欠だ」という理論が強化されたのだ。

欧米は、これら「独裁者」たちを自分たちに同化させることができる、あるいはプラグマティズムのもとに再教育できると信じた。

彼らと対話し、同盟関係を結べば、いつかは(欧米的な)「人間性」に合流できるだろうと考えたのだ。(続く)
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by mariastella | 2017-03-06 00:13 | 雑感

刺青、タトゥー、ステンドグラスと聖痕

寄り道です。

フランスの10代の若者の10人に1人はタトゥーを入れていると言われる。
私の周りには皆無だから分からない。
日本の温泉は海外からの観光客にも人気だけれど、「刺青をしている人お断り」のところではタトゥーはどういう扱いなんだろう。

いままでのイメージではタトゥーと言えば、バラの花一輪とか、髑髏とか、好きな人の名前とか、ワンポイントのものを思い浮かべていた。
一方刺青と言えば、「錦絵」のような豪華なもの、昇り龍とか武者絵とか任侠映画を連想する。いわゆる「博徒彫り」で、これが公衆浴場入場禁止の理由であったことは想像に難くない。

でも、フランスで今人気のタトゥー師のミカエル・ド・ポワシィーの図柄を見て驚いた。
ステンドグラス。
そのためにちゃんと教会絵の学校 l’Académie des Peintres de l’Abbaye にも通ったそうだ。
ステンドグラスの黒い太い線はタトゥーに向いているそうだ。

私は、個人的にはなんらかの治療以外の目的で体に傷をつけることはしないので、肌をキャンバスにする人やそこにアートの表現を見出す人の世界についてはノーコメントだけれど、こういうアートの域に達するようなタトゥーと教会アートの出会いには驚かされた。

考えてみれば、倶利伽羅紋紋も不動明王の化身の竜王だったり、勇ましいものばかりでなく刺青の柄にも観音や如来などあるのだから、聖母マリア柄も、「加護を願う」という意味で人気があるのかもしれない。片肌脱いで威嚇するというやつではなくて、ジンクスにこだわるイメージ?

スポーツ選手のタトゥ―率が高そうなのもそのせいかもしれない。

それとも、日本の神や仏や経文の刺青はいわゆる「武家彫り」で、信仰行為の一種なのだろうか。

「桜吹雪柄」というのもいかにも日本的だ。
そういえば私の好きな芝居、四代目鶴屋南北の「盟三五大切(かみかけて さんご たいせつ)」も刺青が大切な要素になっている。覚悟、とか誓い、とかの含意も重要なのだろう。基本的に消せなかったこと、そして昔は多分時間もかかって痛みも大きかったことなどが真剣さや本気度を担保する。

いわゆる「聖痕」が聖痕者や周囲の人に与えるインパクトと比較すると興味深い。
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by mariastella | 2017-03-05 01:00 | 雑感

フランスとイスラム その8

ケペルによると、イスラモ・ゴーシストたちは2012年の国会選挙に「(マグレブ系)移民の子弟」がはじめて400人も立候補したことを「政治参加の意思」として高く評価していた。
『ル・モンド』紙も同じ路線だった。
けれどもそれは実は、セラフィスム(イスラム過激派)が移民の子弟に浸透したことの表れでもあり、アラン・ソレルら、マルキシストを称する極右反ユダヤ主義者と、「移民の子弟」の世界に連携が生まれることにもなった。

ケペルはまた、フランスにおけるアラビア語学の伝統の終焉を語る。

移民の増加によってアラビア語人口そのものは増えているにもかかわらずだ。

フランスと言えば、一昔前までは、そうそうたる哲学者「オリエンタリスト」たちが存在していた。

今は、アラビア語は「移民のことば」であり、社会学者や政治学者が、移民の子弟のゲットーについて研究するのにアラビア語は必要ないと言っている。

政治エリートを輩出するパリの政治学院でケペルらが立ち上げて25年間続いていたアラビア語を含むアラブ世界の講座は、2010年に閉鎖された。

それ以来、「アラブの春」事件が起こり、フランス生まれのジハディストが生まれている状況なのに、政治学院でアラビア語を学んだ学生は一人もいない。

今やアラブ世界について学びたい学生は外国に出ていくありさまだという。 (続く)
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by mariastella | 2017-03-04 00:28 | フランス

フランスとイスラム  その7

これは前の記事の続きです。

フランス国内のムスリムを「ISのテロのせいで混同される加害者意識の罪悪感」から「イスラモフォビーの差別の被害者」感情でまとめあげようというCCIFの戦略についてのジル・ケペルの説明は納得がいく。

では、少なからぬメディアや、左派の知識人、社会学者らがそもそもCCIFに呼応するのはどうしてだろう。

実際、フランスのメディアにおいては、何十人という犠牲者を出したニースのテロと、たった一人のムスリム女性が市の条例の行き過ぎた執行によってニースで不当な扱いを受けたという事件とをほぼ同じ情報量で扱った。

これはCCIFのプロパガンダだけでは説明できない。

それには二つの理由がある。

まずCCIFがメディアの扱いにすばらしく長けているという事実だ。

もう一つは、イデオロギーとしてのCCIFの後ろには、イスラモ・ゴーシスト(親イスラム左派)というアクティヴな活動が連携している事実である。

若い世代のムスリムが活発な政治的発言をするようになった(その代表がボンディ・ブログ出身のメディ・メクラットで、彼はイスラモフォビーを告発するメディアの寵児となった。その彼の本性については以前の記事で書いた)。

フランスの左派知識人が彼らを応援し、持ち上げた。

社会学者のエマニュエル・トッドやメディアパールのジャーナリストのプレネルなどだ。

フランスのイスラモフォビーは、1905年の政教分離法におけるカトリックとの関係を引き合いに出して強調された。

いわく、政教分離があっても政府はカトリック司祭がスータン(黒い司祭服)を着て歩くことを禁止したわけではなかった、などだ。

フランスの政教分離とカトリックの関係は、イスラムとの関係とは歴史的にも政治的にもまったく異なっていて同列に語れないことは自明なのだが、なぜ、イスラモ・ゴーシストが「不当に差別されているムスリムの擁護」を新しいイデオロギーにしたのだろうか。

政治学者のジル・ケペルは、過去に同じ「トロツキスト」であり、同年代のエドウィ・プレネルの「イスラモ・ゴーシスム」をこう説明する。

フランスに68年五月革命の嵐が吹き荒れた時、サルトルなど左派哲学者らとともに、多くの若者が共産主義シンパとなり、文化大革命の毛沢東を支持するマオイスト、ソ連内のトロツキー主義を支持するトロツキストを自称した。

「極左」は人類の輝かしい未来に向かうメシア的な存在としてプロレタリアを理想化した。労働運動内部での多くの矛盾には気づかないままだった。 

そのうち、冷戦は終わり、彼らの理想化していた「共産主義」が「全体主義」だったことも分かり、彼らが「共闘」しようとしていたフランスの「労働者」たちも「共産党」を離れて、大量に極右国民戦線に投票するようになった。
極左活動家にとってはそれは「裏切り」だった。

そこで彼らは、極右になびく労働者たちから離れて、「共闘」の対象をフランスのムスリムに方向転換したのだ。

フランスのムスリムは、かつてのプロレタリアのようにいまだ未分化の潜在的力であって、イスラム過激派は彼らの「政党」のように見えた。
彼らはプロレタリア階級のように貧しい地域で生まれ、社会的に将来を閉ざされて、共和国市民よりもムスリムであるというアイデンティティを持つようになった。

そこで、非ムスリム労働者を極右に奪われた左派知識人の一部が、ムスリムの庇護者として、かつての「支配者と被支配者との戦い」を「イスラモフォビーとムスリムの戦い」すり替えてムスリムと「共闘」するようになったのだ。

その背景には、イスラエル植民者によるパレスティナの支配を弾劾する伝統的な親パレスティナの運動もあった。1970年代、中東からはるか離れた日本にすら「日本赤軍」ができて、テルアビブ空港の銃乱射のテロを起こしていたわけだ。

イスラモ・ゴーシストの根は結構深い。
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by mariastella | 2017-03-03 06:20 | フランス

ロシア革命から一世紀経った

寄り道です。

2月最後の日の夜、Arteでロシア革命にまつわる記念番組を見た。

レーニンのドキュメンタリー。
1917/3/17の情報環境が今のようにFacebook Twitter 衛星放送が完備していると仮定してのロシア皇帝退位の特別番組というおもしろい趣向のもの。アメリカやフランスでの反応が次々と繰り出される。
プーチンに至るまでのロシアにおける独裁者の系譜みたいなもの。

三つめは深夜だったので居眠りしてしまった。ネットで視聴可能だと思うが、なんだかおなかいっぱい。

ロシア革命の2月から10月の間に何がどう変化したのかについては、『フリーメイスン』(講談社選書メチエ)の中の、ロシア革命とフリーメイスン(p127~130)で、フリーメイスンとのかかわりの中で書いた。今回のドキュメントでは全く触れられていない。

逆にイタリアやスイスにいたレーニンとフリーメイスンには接触がなかったのだろうか?と思ってしまう。

この番組で興味深かったのは、やはり日露戦争との関係で、1905年の革命が失敗したこと、レーニン憧れの兄がそれに加わって死刑になったことなどをあらためて意識した。
そして、やはり、それが第一次大戦下に起こったことの決定艇的な意味も考えさせられた。
当時のフランスとの関係の難しさも。(ドイツと独自に停戦するかどうかなど)

多くのフランス人もロシアにいた。百年前の2/24にペトログラードの通りを埋めた人々たちが高らかに歌ったのはフランス国家のラ・マルセイエーズだったのも印象的だ。

橋が封鎖されたので凍った河の上を人々が渡ったのも。

イランのホメイニ革命の前にホメイニ師を迎えたパリのメディアがはしゃいでいたことなども思い出す。

ニコライ2世が譲位すると言ったのを断った弟のミハイル(なかなかの美丈夫だが、断ったのに、結局翌年兄よりひと月早く処刑されてしまった)のヨーロッパ的感性もおもしろいし、そもそもニコライ2世の皇后アレクサンドラがドイツのヘッセン大公の娘で、そのドイツと戦争していることの難しさもあった。やはりドイツのザクセン公に由来する名を持っていたイギリスの王室がイギリス風(ウィンザー)に名を変えたのも同じ1917年のことだった。

ともかく王家の間については当時も今も姻戚関係がびっしりあるヨーロッパにおける「戦争」や「革命」というものの複雑な実態を考えさせられる。ヘッセン大公国もザクセンも伝統的にカトリックの神聖ローマ帝国に属していた。それがナポレオンによって解体され、でもナポレオンも結局オーストリア皇帝の娘を皇妃に迎えている。その前にロシア皇帝の娘との結婚を望んだのだが、時のロシア皇帝アレキサンドル一世に断られた(『ナポレオンと神』p168~171)。ロシアはもちろんロシア正教である。その辺の駆け引きもおもしろい。

ボルシェビキはその後がちがちの「無神論」共産党という一神教モデルの一党支配体制を築いたわけだが、冷戦終了にあたっては、ロシア正教のネットワークが有効に利用された。
プーチンはロマノフの皇帝よりも正教の聖人に自分を重ねた

ロシア革命の百年後にセーヌのそばにロシア正教のカテドラルがそびえていることになろうとは、いったい誰が想像しただろう。
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by mariastella | 2017-03-02 00:53 | 雑感

フランスとイスラム  その6

これは前の記事の続きです。

2016年夏の革命記念日の夜、花火ショーが終わったばかりの海岸沿いの遊歩道に大型トラックが突っ込んで多くの死傷者を出した。「イスラム過激派」によるテロである。

当然、ヨーロッパじゅうに衝撃が走った。しかも、無差別テロであるその被害者の三分の一はムスリム市民だった。一般のムスリムも「イスラム過激派」の蛮行に激怒する。

ところが、そのすぐ後、テロの現場のすぐ近くのニースの海岸で、警官が髪や体を覆ったまま海岸で座っているムスリム女性の服を脱がそうとするシーンが撮影されて出回った。

イスラム法原理主義的にはそもそもムスリムの女性が家族以外の男性のいる海岸でくつろぐことも許されない。ましてや肌の露出部分の多い水着を着用するなどは考えられない。

そのために泳ぐことができない女性はたくさんいた。

そこに「ブルキニ」という、体を覆うムスリム女性用の水着が登場した。これをムスリム女性の「自由」の拡大だという。
しかしフランスは公共の場で全身を覆うブルカの着用を禁止している国だ。

セキュリティの問題、フェミニズムの問題、政教分離の問題などのいろいろな試行錯誤がなされての現状だ。
このことについては今までにこの記事サイトの掲示板で書いたことがある。

で、コルシカの海岸で、ムスリムの観光客と現地の人との小競り合いがあったことを受けて、ニースは浜辺でのブルキニ着用を禁止する条例を出し、警官の取り締まりはそれに従ったものだった。

私の考えは上記の記事で読んでもらうとして、ともかく、このブルキニ事件によって、CCIFには都合よく、あっという間にニースは、

「イスラム過激派テロの犠牲」

の町から

「イスラモフォビーの執行者」の

町になった。

ニューヨーク・タイムスはこれを一面で取り上げ、フランスは「政教分離」という名のスターリニズムの国でムスリムにとってのグーラグ(矯正収容所)だと認定されんばかりだった。

フランスの一般のムスリム市民も、ISを憎んでいるにも関わらず、テロがある度に肩身の狭い思いをしなくてはならないことにうんざりしていたから、「フランスは嫌イスラムの国」という構図の方に救いを感じた。

テロの批判よりも、

「悪いのはイスラム差別をするフランス社会だ」

「自分たちは犠牲者だ」

という意識によって共同体意識を強めることになったのだ。(続く)
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by mariastella | 2017-03-01 00:51 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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