L'art de croire             竹下節子ブログ

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鈴木正文さんと教育勅語

docomoのサービスを拝借して、百冊以上の日本の雑誌のネット版をタブレットで読むことができる。そのおかげで、日本に住んでいても立ち読みさえしないような雑誌にアクセスできる。
その一つがGQのeditor's letterだと前にも書いたが、今発売中のものは特筆に値する。

日本で教育勅語を唱和させる幼稚園の話にはじまって、教育に取り入れてもよい、などという見解が出されるなどしたことで、いろいろな人が的確な批判をしているのをこれまで目にしてきたが、この鈴木正文さんの文が一番私の考えていることと近かった。この文で彼のおばあさまがドイツ人だということもはじめて知った。そのことが彼の今の視野の広さにつながっているのかもしれない。

素敵な文章だったので全文引用したいくらいだけれど、まず要約。

1947年生まれの鈴木さんは小学生の時に黒人のハーフの同級生Mさんがが差別的な言葉を投げつけられて泣いているのを見て慰めたかったけれどできなかったし、旧友たちに抗議する勇気もなかった。

教育勅語の「道徳的目標」は「普遍的な道徳観」を示すものでどこがいけないかという考え方が今出てきているが、「教育勅語」との文脈的な結びつきを失うのでは意味がないし、文脈とは皇国思想であった。

「・・・果たして、親をうやまったり、友達同士や夫婦、兄弟が仲良くしてお互いを信じあったりすることが道徳的なのだろうか、」

「親をうやまい、家族仲良くし、友を信じることは、そうすることが倫理的だかに正しいからそうしなければならないことなのだろうか(・・・)こうしたことのすべてが、だれかにいわれてしなければならないこととしてあるべきなのか・・・」

「もちろん、僕たちはだれかを尊敬し、だれかを好きになり、だれかを信じる存在だけれど、そこで大事なのは、尊敬し、好きになり、信じるだれかを、僕たちが自由に決めるということだ。これは同時に、親をうやまわず、家族と仲良くせず、友を信じない自由もまた僕たちにはあるということでなければならない。それが個人主義というもので、この個人主義を獲得するために人間が数千年を要したことを僕たちは知るべきである。」

「(・・・)ほんとうに道徳的であるのは、そうした自由に立脚しつつ、「友」ならざる人を「友」とし、「家族」にあらざる者を「家族」とし、おのれの「親」ではない「親」を敬うという営為なのではないだろうか。なぜなら、友でも家族でも親でもない者を友とし家族とし親とするためには、道徳の力、つまり「正しいこと」をなすという倫理の力が必要だからだ。
少年だった僕が、Mさんを前にして持ち得なかったのは、実に、この道徳の力であった、といまおもうのである。」

以上だ。

これは簡単なことではない。
なぜなら、「正しいことをなす」こと、「正しくないことをしないようにする」ことの他に、正しいこととは何なのかを希求し分別する営為も必要だからだ。

ともあれ、自国ファーストとか家族ファーストとか自分ファーストといった内向きのポピュリズムが席巻する世の中で、鈴木さんの言葉は一条の光を投げかけてくれるものだった。
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by mariastella | 2017-04-26 00:39 | 雑感

マクロンのカミングアウト?

フランス大統領選第一次投票でトップに立った夜、「ブリジットとエマニュエル」の名で関係者にSMSの招待状が送られて、貸し切りになったモンパルナスのブラスリー《ラ・ロトンド》でマクロンを囲む祝賀パーティが開かれたことについて、世間の風当たりは厳しい。

それがあまりにも、10年前に大統領選に勝利した後にサルコジがシャンゼリゼのフーケで催したパーティを彷彿とさせたからだ。サルコジはその時に財界人や有名人に囲まれて、セレブ好きのスノッブであることを「カミングアウト」したと言われた。

不思議なことに、その後も、サルコジはアメリカのセレブのヨットでバカンスに出かけたり、メルケル首相なら一発で辞任に追い込まれると言われた行状を繰り返したにかかわらず、彼のポピュリズムに与した大方の庶民の反感をあまりかわなかった。セレブの豪遊ぶりをグラビア雑誌で追い続けるのが普通になっていた庶民が、「なったつもり」で楽しむことに慣れていた時代だったからだ。

マクロンは、「移民の子」だというのを売りにしたサルコジに比べると、ある意味でフランス人らしいフランス人で、エリートコースを歩んでいるので、社会的な「サクセスストーリー」を演出するのは難しい。それでも持ち前のカリスマ性を発揮して、つい3週間前には地方で「苦しむフランス」へのスピーチをして労働者に感涙を流させた。

それなのに、まだ最終投票までに2週間あるというのに、派手なパーティをやってその模様が映されたのを見て、裏切られたという気になった人もいる。
インタビューされたスポークスマンは「いや、これはシャンペンを開けるようなお祭りではなく、第一の関門を突破したまじめで慎重な祝いだ」という趣旨の返事をしていた。
ところが、映像はシャンペンが開けられるところを映し、1.5リットルのマグナム瓶が50本開けられたと伝えられた。

ロトンドはオランド大統領の選対本部とも縁のある場所だからそれなりの理由で選ばれたのだろうけれど、こうなると、メディアは、1981年に社会党のミッテランが最初に大統領に選ばれた夜に、バスティーユ広場に集まった人々の祝いに合流することをせず、社会党本部の職員にあいさつしただけで自宅に戻ったことと比較する。

(でも私の記憶ではあの夜は雷もともなう嵐になったので、ただ濡れたくなかったのかも。保守支持の知人が、ミッテランが当選したことで神が怒って雷になった、と言ったことを覚えている)

マクロンは、選挙に出る政治家としてはゼロから出発したわけで、「前に進むすべての人々にオープン」にと叫び続けて、彼に続く人がだんだん膨れ上がっていったことで、「ナザレのイエス」にもたとえられて揶揄された。

そのグループも「En Marche!」と、「!」込みの名前で、日本でも最近「句点込み」のグループ名などが普通に使われるようになったけれど、私の世代には違和感のある命名だ。
「進め、ナントカ少年!」のようなノリだ。
サルコジにはない発想だと思う。

18歳から24歳の選挙人はメランションの支持が目立った。
マクロンの支持者は、まさに、彼の世代、アラフォーを中心とする「新世代ブルジョワ」だということだ。ネーミングも、マーケッティングの福音派風の手法も、何もかも、うさん臭いというよりはそれが普通である世代なのだろう。

私は幸いこの世代と親しいので、彼らの生きた時代を彼らの目から眺めることもできるから、理解できることがかなりある。私がフランスで生きてきた40年と重なるので同時代性もある。
ほぼ同世代であるサルコジなどの方が、私の知らないフランスで生まれ育っているから共有しないものが多い。第二次大戦の後の復興や68年五月革命などの激動の時代は私にとって伝聞である。
今と違って、日本とフランスの情報の距離は遠かった。

そんなこんなでマクロンのプラグマティックな背景はなんとなくわかる。

それに比べると、マリーヌ・ル・ペンの方は、私にとって宇宙人みたいだ(猫好きということを除いては)。ジャン=マリー・ル・ペンのような強烈なキャラクターに洗脳されて育ってきたような人だから特殊だ。

決選投票の棄権率はどうなるだろう。

第一回投票は「大統領になってほしい人」に投票する。
決選投票は、第一回投票で入れた人が残らない場合は、「大統領になってほしくない人」を排除するために投票する、と言われる。

しかし、第一回で敗退した「大統領になってほしい人」に忠実でありたい人は、決戦では棄権したり白票を投じるという。
第一回で棄権する人は「市民の義務」を怠るという側面があるが、
第二回で棄権する人は、自分の信念に忠実な「殉教者」意識があってそれは「信仰告白」なのだから、棄権することに誇りを持っているなどとも言われるのだ。

今回の場合は、メランション支持者にそういう人が目立ちそうだ。
ル・ペンとメランションはEUへの姿勢などでかなり共通しているが、だからこそいっしょくたにしてほしくない、という気持ちがある。だからと言って、全く対極にあるマクロンを支持することなど到底できない、というわけだ。大統領選はスルーして6月からの議会選挙に向けて始動ということだろう。

二週間後、マクロンの組閣の仕方、議会とのかかわり方、社会党や共和党とのかかわり方、などをじっくり見て、FNや共和党、メランション、社会党のリアクションを観察するのが楽しみだ。
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by mariastella | 2017-04-25 19:09 | フランス

フランス大統領選 アンチ・ルペンは機能するのか

仏大統領選の第一回投票が終わって、翌朝、地方別、県別、パリ郊外のイール・ド・フランス県の市やパリの区別の結果をじっくり見た。

予想を大きく覆すものはない。
地方選挙の結果と同じで、地方における国民戦線支持は確実に広がっている。

一年前まではジュッペが大統領になると言われ、半年前にはフィヨンが大統領と言われたのに、初回で消えてしまった共和党だが、ブルジョワや年金生活者に強固な支持層があるので「消滅」はしないだろう。総選挙で回復するしかない。

今回のもう一方の敗者である社会党は、内部を両側からマクロンとメランションに引き裂かれたわけだから、再建は著しく困難だろう。

2002年のルペン(父)とシラクの対決の時は、左派が一致してルペンを阻止する動きを見せたが、今回は保守が一致してルペンを阻止するかどうかは分からない。棄権すると公言する人も多い。
マクロンとルペンではペストとコレラのどちらかを選べと言われているようなものだ、と形容する人もいる。

今回、敗退してすぐにマクロンの支持を表明したアモンは潔いというか好感が持てたけれど、ルペンと同じくEU離脱を唱えるメランションはとても歯切れが悪かった。

ここにきて、EU離脱を決めたイギリスの景気がむしろ順調であることも判明して、もし今もう一度国民投票したら前よりいいスコアで離脱賛成になると言われている。

でも、前にも書いたが、イギリスはもともとEUの「特別枠」みたいな存在だった。そして反EU派からはEUがまるでドイツの傀儡のように言われているけれど、それは間違っている。

本当は、EUを一番有効利用してきたのはフランスだった。

しかし、どんな高邁な理念を掲げても、結局あらゆる国際組織が、いつしか金と軍事の論理に牛耳られてしまう。
ヨーロッパの始まりは普遍主義的理想だったが、実際に結束させたのは冷戦の危機であって、トルーマンとスターリンがEUの生みの親だという皮肉な言い方もあるくらいだ。

マクロンのヨーロッパも、市場経済と金融のヨーロッパだ。

金と力と、その複合体(武器産業と戦後復興産業)が支配する経済のベースに、普遍的な人権主義とエコロジーをどこまで組み入れてシステムを再構築できるのか、が問われていることはマクロンも分かっている。

彼の明晰さに期待できるだろうか。
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by mariastella | 2017-04-25 00:17 | フランス

マクロンこぼれ話

マクロンが仏大統領選のトップに立ったということで、日本でも彼について関心が出てきたようだ。

24歳年上の日本ではいわゆる「年の差婚」の夫人ブリジットについて、前夫は何者かとある人に聞かれた。

だから少しマクロンをめぐるゴシップを紹介しよう。

ブリジッドさんの前夫は、アミアンの銀行家で、名前も分かっているけれどすでにリタイアしているだろう。彼女が20歳の時に結婚しているからもう60代後半だと思う。
前夫との間の子供3人は長男がエンジニア、長女が循環器医、次女が弁護士でこの次女はマクロンの選挙運動に公式に関わった。

注)フランス語のエンジニアというのは前にも書いたが、フランスの最大のエリートコースであるエンジニアのグランゼコール(今は学部からも可能だし、中途入学も可能だが、内部では差別されているくらい、グランゼコール予備クラスからの入学生がエリート)の卒業でエンジニアというタイトルを持っている人ということで、日本語や英語のエンジニアとは全く違う。日本語や英語のエンジニアはフランス語ではテクニシャン(技術師)というタイトルで格下となる。エンジニアの学校は要するにあらゆる分野の管理職養成の場所だ。それに比べれば医学部はやや格下、弁護士はもっと格下と見なされてしまうのが一般的だ。つまり、長男はエリートコースの王道である数学強者だということだ。まあそのような「格付」も「エリート内部」の話だけだけれど。

話を戻すと、前にも書いたけれど、このところ、クラシックな「夫妻」として機能する大統領がいなかった。今回の大統領候補たちも予備選も含んで、みな事実婚や再婚などを繰り返している人ばかりで、だからこそ、同じ妻と5人の子をもうけたフィヨンのクラシックな安定感(と言っても、日本の感覚なら奥さんがウェールズ人だということがすでにクラシックとは言えないが)が保守の信頼感をそそったのだ。しかしそれが裏目に出て、専業主婦と称していた奥さんや子供たちの架空雇用や不正雇用のスキャンダルが命取りになってしまった。

で、マクロンは、16歳で恋に落ちた(マクロンの母親は、息子はたとえレチシア・カスタが目の前で服を脱いでもなんの関心も持たないだろう、妻とは完全に一体化している関係だ、と言っているそうだ)リセの教師と29歳で結婚して、妻の孫の世話(孫は7人いて、去年の夏には末の孫息子の洗礼式に出ている。)もしているのだから、これも、ある意味の安定感がある?
(ロックスという名の柴犬も飼っている)

まあ、まだ39歳だから、他の老練な政治家たちの女性遍歴(あるいはル・ペン女史の男性遍歴)を見る限り、これからだって破局があるかもしれない、などという下世話な考えもあるが。

フランスでは1980/12月に、18歳未満の生徒と関係をもった教師に3年までの懲役となり得る法律が成立している。教育社会主義的なフランスでは学校は共和国の聖域だからだろう。1969年に、16歳の生徒と関係した32歳の女性教師が刑務所に入れられた後自殺するという事件もあった。

マクロンは高3でパリに出て、ブリジットは離婚してやはりパリの、今度は16区の私立高校の教師になる。

それから十年以上経って、ENAを卒業し、将来のキャリアが約束されてから晴れて結婚したというわけだ。50代に入っていたブリジットは彼のキャリアを支える役にまわる。

うーん。
ブリジットさんと同世代の私としては、いろいろ考えさせられてしまうのは確かだ。

2人の結婚式のビデオがテレビで放映されてネットにも出回っているが、この時のマクロン(29 歳)のスピーチは、なかなか感動的で、ブリジットの子供たちに感謝しているのが印象的だ。(ここで見られます。CMの後です)

この時のスピーチは、ある意味、今のマクロンのスピーチと姿勢が変わっていない。
この人には人の共感を呼び支援者を作る才能があるのだろう。

16歳の彼の書いた詩があまりにも素晴らしいので毎回のフランス語の授業でブリジットが読み上げたというのだから、昔から文才もあったのだろう。
才能と野心に加えて、困難はあったとはいえ、16歳から一人の女性と相思相愛で来たということは、多くの若者のように晴れた惚れたで時間を奪われることがなく、無駄なく突っ走れたともいえる。「自分の子供を赤ん坊から育てる」という必要もなく来れたし、自分の選択を周囲に正当化するために若くして、社会的、金銭的な成功を得るモチヴェーションになったのかもしれない。

彼に比べると、サルコジなんて、女性や子供のことで多くのエネルギーを浪費してきたともいえる。

サルコジと言えば、彼の鼻とマクロンの鼻はなんとなく似ている。
ル・ペン(父)などは、大統領時代のサルコジの鼻がますます突出してきた、出自(母方がユダヤ系)を彷彿とさせるなどと、差別発言をしていたし、サルコジは横顔の撮影を嫌がっていたという話もある。マクロンも、ロスチャイルドの銀行家だったことから、共和党系のカリカチュアで、鉤鼻に帽子に葉巻という姿で描かれ(後に削除された)た。
けれども、いや、よく見ろ、マクロンの鼻は完全にブルボンの鼻だ、という言説もあったし、左派系のカリカチュアでは鼻に特徴がない。
一番印象的なのは真っ青な目だろう。これでアーリア人認定する人もいる。

北フランス系だから、コルシカ出身のナポレオンとは全く違うはずだけれど、そして時代はもちろんキャリアもまったく違うけれど、その人心掌握の仕方がナポレオンと似ているという印象は変わらない。

全体として、もしマクロンがこのまま予測通り大統領になったら、フランスっておもしろい国だなあとあらめて思う。

こういうタイプの若いヒーローはギリシャのツィプラスとかスペインのポデモスなどに見られる急進左派のポピュリズムに見られる。つまり今のフランスのメランションのような極左のトップにマクロンのような若者が躍り出るという構図だ。

フランスではそれが、中道左派のリベラルというところがおもしろい。
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by mariastella | 2017-04-24 21:49 | フランス

マクロンとル・ペン

大統領選の第一回の投票で、大方の予想通り、ル・ペン女史とマクロンが2週間後の決選投票に進出。

最近のメランションの支持率増加は、実はル・ペンに向かっていたポピュリズム票がメランションに流れる傾向の表れかもしれないから、極右と極左が引っ張り合って共倒れして、結局マクロンとフィヨンくらいの組み合わせになればといいのにと思っていたけれどそれは無理だったようだ。

久しぶりにマクロンの顔を見ると、演説の表情がなんだかヴァルスやサルコジの若い頃を彷彿とさせる。一年前に彼の顔についてこういう記事を書いたことがあるが、たった一年で、もうすっかり「大統領顔」になっているのは驚きだ。三年前までは一般には全く無名で、選挙で議員に選ばれた過去もない若者が、大統領選の第一回選挙でトップになるとは、信じられない。

スマホを駆使した効果的なミーティングの演出の裏話も流出していたし、「公約」自体も、個人的にはあまり歓迎できないものもあるし、あまり期待はしていないなかったのだけれど、それでも、数日前のテロの時に書いたように、「若者の精力善用」のいいモデルかもしれないなあと思い始めていた。

メランションは前にも書いたかもしれないが、彼の支援者だった知り合いのバロックダンサーが実態を知って離反した話を聞いていたので私の中では終わっていたし、社会党のアモンは、原発脱却を唯一言明して緑の党のヤニック・ジャドに支援されていたことを評価していたけれど大麻解禁について納得いかないこともあり、フィヨンは個人的にやや距離が近いのだけれど、公務員削減について賛成できなかった。

投票日の午後、ある集まりで、私のファンだと公言する93歳の女性オディールと久しぶりに同席した。
当然、選挙の話になる。彼女の反対側の隣に座った男性(79歳の退役軍人)が、「あなたが誰に投票したかあててみましょう」などと言い出して、かなり突っ込んだ話が展開した。

このオディールは、代々の貴族とはいえかなりリベラルな人なので、マクロンかなとも思ったら、「だいぶ前から子供たちや孫たちにマクロンに投票しろと勧められていたけれど迷惑だ、私は自分で考える」という。
ひょっとしてアモン?

で、オディールはぎりぎりまで迷っていたのだけれど、数日前にフィヨンが中東のキリスト教徒への支援を表明したのが決め手になってフィヨンに投票したのだそうだ。

なるほど。

それぞれの琴線に触れるテーマがある。

オディールは私と征服王ウィリアムの功罪について議論したいからまたうちに来てくれ、と言った。
そうなると、そのあたりの歴史をさらっておかないと。

今回は、大統領選について、9歳の子供から、93歳の女性まで、かなり具体的な話をした。
フランスらしいとも思うけれど、今回はイギリスやアメリカのポピュリズムの台頭を受けて、特に関心が高かったと言える。

そして結果として、第五共和制を政権交代しながら支えてきた保守と社会党の二大政党が予備選を経て選んだ候補が両方とも脱落した。王政だとも揶揄される大統領の権限の大きい第五共和制そのものに限界が来ている。

マクロンにバイルーが合流したことは前に書いたが、今回マクロンがトップに立ったことを受けてバイルーが自分がやりたくてできなかったことを彼がやり遂げつつあることをしみじみと喜ぶ感じにやはり好感を持てた。マクロンが大統領になったらいよいよ、首相ですか、と聞かれて今はそんなことをいう時期じゃない、と答えていたけれど、バイルーが首相、って、あり得る構図とはいえ、不思議だ。

6月に選挙があるので、今回敗れた二大政党はそちらの方にかけることを強調していた。
マクロンが大統領になったらどう組閣するのかが興味津々だ。
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by mariastella | 2017-04-24 06:51 | フランス

500周年を迎えるルターの宗教改革のゲルマン性

ルターの95ヶ条から500年、今年に入ってからルター派についていろいろと読んで、今までいかにbkbsi ちゃんと向かいあっていなかったが分かった。

確かに、考えてみたら、フランソワ一世がいた頃のフランスになぜこうもルターの改革派教会が根付かなかったのかということは、日本にキリスト教が根付かなかったということと同じくらい興味深いテーマをはらんでいる。

私は今まで、それはフランスのガリア教会主義が認められていたから(1516年8/18にレオ10世が前年に戴冠したフランソワ一世にフランスの司教を指名する権利を与えるなどのコンコルダを締結している)だと表現してきたし、それは間違いではないのだけれど、もっと根深いものがある。

ひとことでいうと、ルターの改革派教会とは、「キリスト教のラテン・インカルチュレーション」であったローマ・カトリックから分派した、「キリスト教のゲルマン・インカルチュレーション」だったのだなあ、と思う。

当時のカトリック教会についてルターの批判したようなことはカトリック教会の内部でもいろいろな人が声を上げていた。免罪符や聖職売買や司祭の要請についての多くの点の改革すべきところは自明だった。フランスでもギョーム・ブリソネなどが批判していた。けれども、「救い」の場から聖母や聖人を締め出すことはしなかった。「聖母と聖人と煉獄に関しては批判しない」というコンセンサスができた時にカトリックを去った人(ギヨーム・ファレムなど)などもいる。

ルターが死んだとき、多くのプロテスタント教会にルターの実物大の肖像画が描かれたり、デスマスクと手足の型がとられて服を着せられて保存されたりしたのも、カトリックの「聖人崇敬」が実は広く人々の必要に応えたものだったことを反映している。

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(ルターのデスマスク)

ルターもかなりのものをラテン語で書いていたし、ラテン語の著作はフランスでもそのまますぐに読まれた。ストラスブルク、バーゼル、パリ、リヨンなどの印刷業者を通してラテン語からやドイツ語からの仏訳もかなり出回った。1534年までに15作と、エラスムスの著作のフランス語訳よりも多い。

それでもルターは「ドイツのヒーロー」だった。
今から200年前の1817年の10月には、ルターが身を隠したワルトブルク城で500人の学生が改革300周年と、プロイセン王国がライプツィヒでナポレオン軍を破った4周年とを同時に祝った。
第一次大戦のときのドイツのプロパガンダではルターとビスマルクがドイツの根幹を形成してい(た。イタリア人のローマ教皇やフランス人のカルヴァンに反対したということが、ドイツのアイデンティティを称揚したのだ。

ローマカトリック教会のラテン性もルター教会のゲルマン性も(さらにいえば聖公会のようなアングロサクソン性も)、みなそれぞれの地域でインカルチュレーション(文化変容)したキリスト教なのだが、日本のような国からは、みなまとめて「欧米の宗教」だと見なされきた。プロテスタントの民族性を分けて考えることは少ないだろう。

なぜフランスにルーテル教会が根を下ろさなかったのかを引き続き考えていくことで気づかされることは少なくない。
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by mariastella | 2017-04-23 06:01 | 宗教

大統領選を前にしたテロ

大統領選3日前のシャンゼリゼでのテロ、誰もが、2004年のマドリードの列車爆破テロのことを思い出す。あれも総選挙の3日前だった。(スペインは王国だから大統領がいなくて、日本やイギリスのように総選挙の結果で政権が決まる)

テロの後すぐに当時の保守政権がそれはバスク独立派のテロだという見解を出したが、選挙当日の朝にアルカイダが声明を発表し、スペインがアメリカに従ってイラクに派兵したことを断罪された。
政府がバスクに責任転嫁しようとしたのも意図的だと見なされて、結局、選挙では左派が勝利して、スペインはイラクからも撤退した。

この展開に対して、それではイスラム過激派のテロの思うつぼになったのだと批判した人たちも多くいる。

今回のシャンゼリゼのテロの警官狙撃犯は39歳で、23歳の時にも警官殺しをしていて、釈放されてからもまた警官をねらった要注意人物だったという。昔から警察への憎悪があるわけで、大統領選に向けたISの煽りに乗った形だ。

シャンゼリゼはパリでも最も警戒が厳しい地区で、言い換えれば、その気になれば警官も憲兵も兵士もぞろぞろいるので彼らを標的にするのは簡単だ。

今の警官は対テロ仕様になっているから、すぐに射殺される率は高いけれど、もともと警官を殺すことが強迫観念になっているような人物のようだからそれは抑止力にならないのだろう。

ル・ペンはもちろん、自分が大統領であればこんなことは起こらない、とコメントした。金曜が最後のキャンペーンの日なので、各候補はこのテロに対する声明をいろいろ工夫せねばならなかった。

候補者の最年少のマクロンは39歳で今回の狙撃犯と同じ年齢だ。

狙撃犯のカリム某は、パリ郊外生まれで、家宅捜査されたうちもパリ郊外だ。詳しいことは分からないが、おそらくいわゆる「イスラム系移民の子弟」なのだろう。

39歳。

リセのフランス語教師と結婚して銀行家として成功し、大統領の顧問となり、財務大臣にもなり、そのポストを辞めて大統領選に立候補し、ナポレオン風にカリスマ性を発揮しているマクロン。

20代から警官殺しが頭から離れないカリム某。
イスラム過激派と接触したのはご多聞に漏れず刑務所内なのだろう。

何だか反動でマクロンを応援したくなった。
ブノワ・アモンが大麻を合法化すると言っていることもしっくりこない。

39歳でも、大統領になろうとする人がいる。
多くの人に多くの希望を与えて多くの期待を担おうとする人がいる。

青年には大志を抱いてほしい。
テロリストになって天国に行こうなんて自分本位のことを考えないでほしい。
国や、世界や地球のために何ができるか考えることだってできるのだ。
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by mariastella | 2017-04-22 00:10 | フランス

こんの げん さんの作品を見て考えたこと その2

これは前回の記事の続きです。

こんの げん さんのfacebookを拝見したら、イントロに「保存修復技術 à 東京芸術大学大学院」と書いてあった。

正確にどんなことをする技術なのかは分からないけれど、今回の展示を見た時に、最初に、どこの遺跡の発掘物の展示だろう、などと思ったことを思い出した。

今回の作品は、火災のダメージを受けたものを「修復」するどころか、自然の力によって加作されたもの、メタフォルモーゼしたものとして提示されている。

作者のクリエイトの上に別のクリエイトが上書きされた。

では、制作における作者の驚くべき緻密な技術を支える「保存修復」技術と、この被災の力を取り入れることはどう両立するのだろう。

こんのさんの経歴を見る前に、引き続き以下のような趣旨のメールをお送りした。

*****
こんのさんの「宇宙は異質な物質が満たされている」という言い方に触発されて、電子の話を想起したのだが、ほんとうは、彫刻作品が現出するにあたっての「有」と「非有」の関係を考えていること。

ウパニシャドで、宇宙の初めは「非有」しかなかった、という時、それは「無」とか「空」のような単純な存在否定の意味ではなく、すべてのものが混有する存在混迷で、何物も他から区別されていない渾沌だということだ。「有」は存在秩序が「名と形」に従って分節された事象のシステムで、すべてのクリエーションは存在形成力ということになる。

これはむしろ井筒俊彦さんの受け売りの考え方なのだが、私にとって、彫刻作品とはすべて何かのマチエールから存在を生む行為だと思っていた。

けれども、今回こんのさんの作品の展示を見た時、そこに働いていたのは、コスモスからカオスに戻す、クリエイトとは逆の「非有」の力だったわけだ。

それが、「有」と「非有」の境界領域を可視化してくれたから魅力的だったのか、あるいは、クリエイトを破壊する「暴力」に抵抗する何かが露出したから魅力的だったのかどちらだろう。

作品が完成するのは鑑賞者と作品の間だ。
でも、これまではその出会いは、作品に凝縮し、周りにも漂っている作者の意図、作者が見ていたものとの出会いのような気がしていた。

ルミネでの展示では、それが損なわれた現場と遭遇したわけで、そのインパクトが、創造よりも破壊から来るのだとしたら、アートとはいったい何なんだろう、と衝撃を受けたわけだ。

****

以上。

こう書いた後で、(多分文化財の)「保存修復」にも精通したこんのさんが、自分の作品を「被災」から修復しなかったばかりか、そこに新しい力を認めたのはなぜだろうと、あらためて考えた。

ルミネの展示会で、ショップの人にお話をうかがった時に、「アトリエの火災があったのは、東日本大震災のすぐ前のことで、その後に震災が起こったので、それどころではなくなった」というような話を聞いた。

あの東日本大震災の津波などの圧倒的な暴力的な映像や、破壊、自然の風景や人間による構築物の姿が一変した様子は、多くのアーティストにとってトラウマになったと思う。

それに加えて、一見自然の風景も町の様子も変わらないのに、放射能という目に見えない毒のために見捨てられて廃墟化していく町を見る不条理。

外的な力が加わる破壊と、見捨てられることによる崩壊の両方を私たちは見せつけられた。

最近、自らも炭鉱で働いたことがあるという柿田清英さんによる軍艦島の写真集を見た。

一瞬核戦争後のどこの廃墟かと思うような荒涼とした風景なのに、たった数十年前に人々が「そこから去った」というだけで、町が、生活の匂いが、荒廃し果てている。

フランスには何百年も前に建てられた教会などがたくさんある。

パリのノートルダム大聖堂は850年以上建っている。
もとは外壁が彩色されていた。今はステンドグラスを除いては中も色の名残がない。
宗教戦争の時、フランス革命の時、何度も外も内も破壊の対象になった。

でも、何度も何度も「保存修復」が重ねられてきた。
しかしそれは、決して、彩色された「元の姿」を再現しようというこだわりではない。

「保存修復」しようとされてきたのは、「建物」ではない。

「建物と人間の関係性」である。

ノートルダム大聖堂は、軍艦島や放射能汚染地域のように「見捨てられた」のではなかった。いつも、セーヌ河のシテ島で人々の真ん中にあり、ゴシック聖堂の誕生を何世代にもわたって祈念してきた人々や石工たちの技術の跡を内包していた。

軍艦島の写真が怖いのは、そこに移っているのが時間や災害による崩壊ではなく、忘却と絶望だからだ。

日本でも、奈良時代平安時代からあるような寺院や神社の古びた感じは、いつも人々と共にあり、霊性を内包した枯れた味わいがあると受け入れられてきた。

最近になってきらびやかな色彩の当時の形に再現されたものもある。
その中には、「建物と人間との関係性」を考慮しないものもある。

こんのさんが火災後の作品を展示しているのは、それが受けたものが忘却や絶望ではなく、火災による傷跡と対面したこんのさんが、自分の作品との新しい関係性を発見し、その創造性をあらたに人々の前に提示したのだろう。
こんのさんが、自分と作品との関係のラディカルな変化を私たちと共有したいという「意志」そのものがクリエイトなのだろうと思うと、納得がいく。

忘却や絶望や負のエネルギーのベクトルなど、所詮、人間の価値判断で決まるものではないと改めて考えさせられた。

いのちとは、関係性の中にだけ宿る。
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by mariastella | 2017-04-21 02:37 | アート

機内で観た映画 その3『海賊とよばれた男』と『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

今回も帰りは昼間の便なので、日本映画も2本観ることができた。

『海賊とよばれた男』は、百田尚樹の原作で「永遠の0」と同じチーム、主演だというのでひるんだのだけれど、モデルになっている人の関係者を個人的に知っている事情もあって好奇心があった。

知らなかったことをいろいろ知ることができたという点ではおもしろかったけれど、ここまで「男」の論理、力と突撃の賞賛というのは私のポリシーと逆なので、評価のしようがない。

モデルになった人物がかなり大柄だったようなのに比べて主演の俳優が小柄だけれどカリスマ性があって大きく見える、というのは興味深い。大作であるのは確かだ。

それでもやはり、戦争の「男らしさ」をこれでもかこれでもかと見せつけられるのには少し食傷して、それとは別世界の小品ファンタジーを口直しに観ることにした。詰まらなかったら途中でやめようと思ったのに最後まで観てしまった。

『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』というかわいい作品だ。

ライト文芸の名作と言われているものが原作だそうで、20歳の学生同士という主人公の男女がさわやかで初々しくて楽しい。アニメを見ているみたいだ。

普通のラブストーリーかと思っていたらSF化していき、なるほどこうなのかと驚かされるところも、なんとなく「君の名は」を思わせた。

ついこの前、出町柳の駅を通ったので京都が舞台だということに親近感があったけれど、登場人物の誰一人として京都風や関西風の言葉を話さないのは、原作がそうだとしても違和感がある。

というより、このストーリーには、地方色のないフラットな感じの方が似合っているので、「京都」という背景の方が違和感があるくらいだ。

もちろんあり得ない設定なのだけれど、無理をして受け入れると、すべてのシーンが二重の意味を帯びてくるというのがよくできているし、なんだかループ状になったビルドゥングス・ロマンみたいだ。

それにしても、『海賊とよばれた男』の世界と『ぼくは明日…』の世界の若者の心性は違いすぎる。平和で戦わない、という感じの後者が今の若者のスタンダードなのだとしたら、ほっとする部分と、そんなに内向きで大丈夫か、と心配になる部分とがせめぎあう。
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by mariastella | 2017-04-20 05:29 | 映画

テレマンの『ブロッケス受難曲』

今年の復活祭は最高だった。

聖週間にパリのフィルハーモニーでテレマンの『ブロッケス受難曲』を聴いたからだ。

フィルハーモニーは去年、ヴィオラでジル・アパップのコンサートに参加したから特別の感じがする。

すばらしかった。

演奏が終わったら聴衆がすべてキリスト教徒になっていた。
美は回心をもたらす。

今、この曲を演奏するのにピグマリオンの古楽器オーケストラは最高だと思う。
ひとつひとつの楽器の音がきれいに聞えてきて音響も独特だ。
オーボエの音色の美しさは際立っている。
フランスでは「キリンのクラヴサン」と呼ばれている縦型のチェンバロ、クラヴィツテリウムも珍しい。

このメンバーの演奏を、フランス語の字幕付きでこのシーズンに聴けるなんて至福だ。
日本で日本語の字幕でこの曲をこのレベルで聴く機会はあるのだろうか。
音楽の好きな日本の友人みんなが聴けるといいのに。

序曲に当たる部分はヴァィオリンやヴィオラも全員が立って演奏していた。
もう気分はオペラ。

バッハの受難曲のように福音書の語句を歌詞にしたものではなくてブロッケスは書き下ろしの台本だ。完全に当時のバロック・オペラの心性である。

バロック・オペラの悲劇にもいろいろと錯綜したストーリーがあるが、考えれば、イエスの受難劇ほど倒錯したものはちょっと考えられない。

この台本では、これでもかこれでもかとイエスの苦悩が語られているのだけれど、それに対して、聞き手は、「私たちの罪のせいでイエスが苦しむ」と罪悪感をかきたてられるとともに、そのイエスの苦しみによって罪が消えるのだから喜びでもあって、満足感が得られるという仕組みになる。
救い主の苦悩がそのまま救い、というわけで、イエスの受難がつらいほど喜びも大きくなる。

彼は苦しみの中で美しい、なんていう言葉も繰り返される。

ほとんどがアリアやレシタティフで楽器だけの曲は少ないのだけれど、たまに、明らかにダンス曲のモティーフがはいっていて甘美さが導入されるのもおもしろい。

曲の変わり目の「沈黙」の部分の静寂はまさに死のような凍り付いた「休止」で怖い。
普通は、音楽における休止は音楽の一部であって真空ではなく、音が満ちてきているか吸い込まれていっているかのどちらかなのだと生徒に教えている。
でも、この受難曲のアリアをつなぐ「沈黙」はほんとうに深淵というか、ぎっしりと無がうずいて肺腑を抉る。
「祈り」だと言いたいところだけれど、そんな能動的なものがはいる隙のない「絶望」なのだ。

この「絶望」はやはり「死」であり、復活祭とはイニシエーションなのだということがよく分かる。「キリストの信仰の中では永遠に生きる」などというが、真の「絶望」に打ちひしがれることでのみ捕らえることのできる光というものがあるのだと、新しい歌が始まる度にすがりたくなる。

「登場人物」が、地の文を語る福音史家、イエス、ペトロ、ユダ、ピラト、イエスを殺そうとする群衆らの他に、「シオンの娘」とか「信じる魂」とかいうソプラノが一人称単数や一人称複数で歌い、それがちょうど聴き手のスタンスと重なる。臨場感というより、登場人物になったような気がするのだ。

もうずいぶん前にバッハのヨハネ受難曲を聴いたとき、演奏の後で指揮者が音をおさえて、手で観客の拍手を制したのを見たことがある。キリストの受難を拍手してはいけない、という意味が伝わった。普通の演奏会ではない。霊的な意味がある。

ブロッケスでは、拍手できる。なぜなら、キリストの受難は我々が罪を赦されて天国を約束された喜びであるからだ。

しかもこのブロッケス受難曲、テレマンのものが最も優れていると言われるが、今回聴いたものはそのテレマン自身が、自分の作品だけでなくカイザーやヘンデルやマッテゾンのヴァージョンを自由に継ぎはぎした良いとこどりの「パスティチョ」と言われるものらしい。
世俗のオペラ座のために作曲するものではなく、宗教的文脈の中でだけ演奏されるために作られたものだから、著作権がどうのという感じの問題は起こりようがない。

いくらでも贅沢な作品を構成することができるというわけだ。

テレマンとヘンデルの共作なんて、信じられない。でもそれこそがこの曲の豊饒さの秘密なのだ。

こんな受難曲を聴いた後の復活祭の日曜日は、ローマの青い空と白い雲を背景にしたフランシスコ教皇の挨拶と全免償をテレビで聞く前に、アイルランドのスライゴのカテドラルのミサ中継を観た。
ヘンデルのハレルヤが高らかに歌われる。
先に退場した司教は、出てくる信徒の一人一人に握手している。
司教の手に接吻するシスターもいれば、差し出された手を無視する子供も、いやいや手を握る、明らかに養子らしい黒人の子供もいる。

ヴァティカンでは、グノーの行進曲とイタリア国歌、スイス人の衛兵にアルゼンチン人の教皇と、これもなんだか現実離れした光景が繰り広げられていた。

その後の番組が、今福者申請中のジョセフ・ヴレジンスキー神父だったのにも感銘した。それはまた別の時に書こう。イエスが復活してほんとうによかった。
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by mariastella | 2017-04-19 06:17 | 音楽



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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