L'art de croire             竹下節子ブログ

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大統領選の2候補どちらも嫌だという人が増えているわけ

リベラリズムについて。(大統領選とカトリックの記事の続きはこの後になります)

冷戦時代は、共産圏に対して「自由諸国がリベラル」というイメージが刷り込まれていた。

冷戦が終わってからは、保守と革新の「革新がリベラル」というイメージが出てきたので混同されることが多い。

『アメリカにNOと言える国」でその違いを説明したけれど、今、ソシアルとソシエタルも混同されてきたのでもういちどおさらい。

ソシアルとソシエタルについては前に一度書いたことがある

ソシアルは国家が自国内の弱者を支援したりアシストしたり、企業主が労働者の権利を保護したりする。共同体内でも格差をなくす方向が目指される。

冷戦時代に自国内の「親・社会主義」勢力を牽制するために、「自由諸国」でも、社会民主主義を採用するところがあった。フランスは特にそれが顕著だった。冷戦後にその必要がなくなったので、歯止めのない「新自由主義」が弱者を切り捨てるようになった。

だからこそ、その「弱者」の怒りを代弁するポピュリズムが目立つようになってきたのだ。

で、リベラリズムについても、本来、

保守のリベラリズムは経済、

左派のリベラリズムは文化、

の分野だという棲み分けがあった。

保守は、規制をどんどん撤廃してグローバリゼーションを進め、結果として格差を拡大させ、左派は表現の自由、アートのグローバリゼーションを応援する。

マクロンのリベラリズムはみんなを集める中道だ、と自称するだけあって、その両方を兼ねる。

ル・ペンの保護主義も、経済と文化の両方を兼ねている。

これが、従来の保守や革新のシンパが、

今回はどちらにも与することができない、棄権する、白紙投票する、

などと言っている理由のひとつである。
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by mariastella | 2017-04-30 18:53 | フランス

大統領戦とカトリック

(これはこの前の記事の続きです。)

第一回投票の一週間前に当たった今年の復活祭には、カトリック票をねらうフィヨンやマクロンのパフォーマンスがあった。

フィヨンは保守の中で最もカトリック寄りで、
マクロンは左派の中で最もカトリック寄り、

というのが一般的な見方だった。
 
フィヨンは、妊娠中絶その他について、カトリック保守派を支持している。ミサにもちゃんと行く。

しかし、経済政策は別で、マクロンと同じくリベラルでブルジョワの味方であることは明らかだ。

マクロンは復活祭のミサの写真は撮らせなかったが、カトリックのカリタスが運営する宿泊センターで2時間半も過ごして、

「カリタスの価値観は自分と同じで、みんなの利益と寛大さだ」

と言い、

「カトリックであることは最も貧しい人の権利を守ることであって、人々から権利を奪うために戦うことでない」

と言ってフィヨン風の保守反動カトリックを批判した。

難民、移民に関しては、マクロンは、メルケル首相を称賛し、クォータ制なしの受け入れを提唱している。この辺はローマ法王に気に入ってもらえるだろう。

カトリックのリベラル派(ここでいうリベラルとは左派というわけでなく、新自由主義、金融資本主義の恩恵を受けている有産階級、起業家たちのことだ)には、各候補者の姿勢を「分析」して、フィヨンこそ真のクリスチャンで、カトリックはフィヨンに投票しなければならない、という呼びかけをネット上でしたものがある。

これに対して、カトリック左派(つまりキリスト教社会主義寄り)は、「フィヨンの経済政策はローマ法王の糾弾するものである」、といって反駁した。

アメリカのエスタブリッシュメント(ブッシュの弟など)のカトリックなどはフランシスコ教皇そのものを受け入れない姿勢さえ示しているから、今のローマ法王は、新自由主義経済の勝ち組にとってはまさに不都合な「左派」である。エコロジーにも妥協がないから極左と言ってもいいかもしれない。

前の記事でも書いたように、新自由主義経済のもたらした弱肉強食のグローバリゼーションを真っ向から叩く、という点では、メランションとル・ペンの口調は一致する。

マリーヌ・ル・ペンは、従来のFNの排外主義、国粋主義、歴史修正主義などの主張を「封印」して、グローバリゼーション、功利的な富裕層による労働者の切り捨て、について大声で弾劾している。その部分だけを切り取れば、ローマ法王にだって気に入ってもらえるだろう。

けれども、その、「金融経済システムと戦う」手段、解決法が、移民の排斥や国境の閉鎖、外国製品の関税強化、などでは、ローマ法王の逆方向だ。(移民排斥やナショナリズムももちろん論外だけれど)

でも、彼女が、失業の危機にさらされた人々の前で

「弱肉強食のシステムを変革するぞ、戦うぞ」

という意気を上げている部分だけを聞くと、その挑戦については同じことを言っていたメランションの抜けた今、人々が
「救世主はこの人、一度はやらせてみる価値があるのではないか」
と希望を託すのも無理はない。

オランド政権の経済相だったマクロンは「敵の側にいるやつだ」と叫べばいいのだから。

でも「やりすぎ」で逆効果かなと思ったのは、ルペン女史が、グローバル金融経済という巨人に対してたった一人で立ち向かう自分のことを旧約聖書(サムエル記)のダビデとゴリアテに例えたことだ。武装した巨人のゴリアテは、投石器しか持たない若いダビデに石つぶてを眉間を打たれて倒された。

うーん、意味は分かる。

でも…ル・ペン女史のキャラはダビデというより、ゴリアテっぽい。

しかも、今、マクロン対ル・ペンという構図である状況で、キャラとしては若いマクロンの方がどう見てもダビデっぽい。

新自由主義経済、グローバリゼーションという「巨人」を体現するのがマクロンだ、ということになるが、今のビジュアル先行の世の中においてはなんだか無理がありすぎる。ミスマッチで笑えてきた。

では、ル・ペンと同じ糾弾をして、実現不可能な極右政策とは逆の解決策を提示するメランションが、実は一番カトリック的なのだろうか?
(フランスは伝統的にカトリック文化圏で、自由主義経済のルーツにあると見なされるプロテスタントの票田は小さいので、カトリックやローマ法王のスピーチや動向が注目されやすい)(続く)
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by mariastella | 2017-04-30 07:08 | フランス

大統領選の動向

第一次投票の第六番目の男、ドゴール主義者を自称するニコラ・デュポン=エニャンがマリーヌ・ル・ペンとの共闘を表明し、ル・ペンが選ばれたらデュポン=エニャンを首相にする、と共同で発表した。

デュポン=エニャンは、FNは極左でない、と、公営TVのインタビューで断言し、それにショックを受けた彼の党「立ち上がるフランス」の副党首はすぐに辞任した。

それでも、この選挙運動期間中けっこう受けていたデュポン=エニャンが政権入りということで、FNが「普通の党」認定される印象を与えることはあり得るので、少しあせった。

幸い(?)、父親のFN創設者ジャン=マリー・ル・ペンが、同性愛へのヘイトスピーチみたいなものをネットで流してくれた(?)ので、バランスがとれたかもしれない。

選挙の3日前のシャンゼリゼのテロで殉職した37歳の警官の国葬の時に、彼の同性の伴侶がスピーチをしたことを受けてのことだ。

ル・ペン女史の右腕であるフロリアン・フィリィポは同性愛者だから、それが一応、FNの盾になっていたけれど、これでフィリポ首相の可能性はなくなったのだから、ジャン=マリー・ル・ペンの言葉は痛手だ。

マクロンの勝利が見込まれるにしても、なんだか結構はらはらさせられる後一週間の選挙戦である。

5月1日は、メーデー。デモに参加する組合の主張、ジャンヌ・ダルクと聖母の月にいつも前面に出るジャン=マリー・ル・ペンの扱い、マリオン・マレシャル=ル・ペンの本音など、復活祭とは別の注目すべきシーンが繰り広げられるはずである。ちょっと楽しみ。
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by mariastella | 2017-04-29 23:37 | フランス

ル・ペンとメランションの違い

4/26に、ポーランドへの移転で工場閉鎖が決まっている洗濯脱水機の製造工場にマリーヌ・ル・ペンとマクロンが出向き、組合員などと接触した。ル・ペン女史の方は、トランプと同じく、「私が大統領になったら工場は閉鎖されない、国有化して救う」などと勇ましいことを言っている。歓呼に応え、満面の笑みでスマホのツーショットに応じている。
マクロンは当然、こうなったグローバリズムの責任者として糾弾されてかなり苦しかったが、まあ、だからこそ、これからはすべての人と連帯して、という主張を一応は誠実に繰り返していた。

「国有化して救う」など、なんの保証もない。
同じ「救い方」でも、メランションの唱えていたやり方はもっと現実味があり周到に考えられたものだった。

ル・ペンとメランションが極左と極右同士で同じようなことを言っていると揶揄されがちだけれど、まともに聞けば、メランションの方が説得力があり、展望がある。

反対派からわざと混同されるのは、弱者、負け組、マイノリティを優先するという言い方、新自由主義経済への批判など、「問題の立て方」が共通しているからだ。
ただし、その問いに対する答え方はまさに極右と極左の差がある。メランションの回答はコミュニズムのベースに立っている。ユニヴァーサリズムとしてのコミュニズムだ。ではなぜ、「共産党」ともっと提携しないのかというと、共産党のコミュニズムは一党支配の党派的なもので全体主義につながってきた歴史があるからだ。

といっても、ベネズエラのチャベスとキューバのカストロが2004年に設立した貿易・社会開発協力機構「米州ボリバル同盟ALBA」に加盟すると言って物議をかもしたようにメランションは十分挑発的ではある。

しかし、チャベスの亡き後、今のベネズエラのコミュニズムはもう民衆を救えていない。あれほど自然資源の豊かな国なのに、原油の価格低下もあり、ポスト・チャベスは風前の灯火で暴力の連鎖が続き、死者も増えている。

ル・ペン型のナショナリズムは論外だけれど、コミュニズムが真の「救済」に結びつくのも、経済の後ろ盾がないと困難なのだ。

それでも、もはや、国際金融機関と癒着しているエリート社会党が崩壊した今は、真の左派はアンチ・リベラルのメランションでしかない。

建前の消えたポスト社会党からは、本音に近いマクロンに流れていく者が少なくなく、彼らはもう早々とマクロン支持を表明している。
けれども社会党「左派」はメランションに合流することを躊躇する。
メランションの「不屈のフランス」党が、社会党や共産党との共闘を拒否しているからだ。
6月の国民議会選挙後に「不屈のフランス」党が生き残っているかどうかは分からない。

2002年にシラクとジャン=マリー・ル・ペンの決選投票になった時、シラクはル・ペンとの公開討論も拒否し、全国民に、「FNを阻止するために私に投票してくれ」と呼びかけた。その時はメランションも、シラクに投票するようよびかけて、シラクは歴史的な高得票を得て勝利した。

今回は、すでにFN二代目の娘のマリーヌが、さすがに父親のように「死刑制度復活」などは公約に入れていないが、出生地国籍主義を捨てることや、不法滞在外国人の排除や、移民の家族呼び寄せ制度の廃止、自国民優先を憲法に書き加えることなど、基本的に同じことを言っている。

けれども、今は時代背景や状況が変わった。

貧富格差の拡大や生産地移転による失業者増加、治安の悪化などによって、トランプと同じように、とにかく既成のシステムを悪者にして、今までの政治に参加していない自分こそ救世主というタイプのポピュリストが人心を把握する時代であること、

すでに15年前にはあり得なかったような躍進を地方選挙で実現していること、

マリーヌが創設者の父親を除名してまでも、極右ではない立派な正統的な共和国主義者であると演出していること、

それに加えて、マクロンは、シラクのように「FNを阻止するために私に投票してくれ」と呼びかけるのではなく、「私のもとに集まってくれ、分裂したフランスをまたひとつに!」と言って自分の考えに「帰依」することを求めている事実がある。

だから、メランションやコアなメランション支持者たちは、「FNには投票しないが、マクロンに与するのは拒否」として棄権または白紙投票を表明しているわけである。

保守共和党の方は、リベラルで既得権益のある派はマクロンに合流するし、
右寄りの一部はル・ペンに近づく。
彼らにとっては、やがてFNからフロリアン・フィリポもマリーヌも追い出してマリオン・マレシャル=ル・ペンの体制にするのが理想だ。

では、次に、カトリックの立場から候補者たちを見てみよう。(続く)
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by mariastella | 2017-04-29 02:19 | フランス

マクロン、メランションとガエル・ジロー

これは一応、前回の記事の続きです。

ジローとマクロンとメランションの唱える経済改革を比較した記事も読んだ。

3人はいずれも現在のフランスの経済が破綻していることは認めている。
失業者が増え、格差が増大するばかりだからだ。
共に金融のエキスパートであるジローとマクロンは金融バブルのリスクを語り、マクロンはグローバリゼーションが賃金の低下を招き、ロボット化とデジタル化が雇用を奪ったことを指摘する。自然資源の枯渇がこれまでの産業モデルの終焉を招くことも3人が指摘する。

視座の転換について最も有効に語るのがジローで、その二つの柱は、
自然をリスペクトすること、
資源と経済活動を集合的次元でとらえなおすこと、だ。

マクロンはフランスがカテゴリー別にいろいろな規制があることが社会の改革を妨げているとして、創造的活動を妨げる規制の緩和を訴える。集合的なビジョンというよりは個人のエネルギーの解放に重点が置かれている。

メランションは、自然との調和、エコロジ―優先のためにすべての生産、流通、消費のつながりを修正しなくてはならないとする。

ジローは、今まで、フランス社会は危機(1789, 1848...)を通してしか変化しなかった、と言う。
けれども、真の変革は地道な仕事によって時間をかけて熟されたものでなくてはならない。1945年にできた社会保証制度はドイツに占領されていた時代に国立研究センターが研究したプログラムによるものだった。フランス人が個々の利益を超えて、生産活動の規則を変えて富を分配するよう、為政者に求める準備ができていなくてはならない。そのプログラムは果たして十分な検討を経たものだろうか? と問うのだ。

こう見ていくと、ル・ペンは別として、メランションはかなり、カトリック的な感覚を持っていると分かる。
マクロンも中学高校と、イエズス会系の学校にいたし、妻が離婚しているから教会での結婚式は不可能だったとしても、今でも妻の孫の洗礼式に参加したりしているのだから、フランスらしいカトリック・カルチャーは十分あると言える。

でも今のマクロンの選挙運動の手法は福音派などのメガ・チャーチのやり方で煽動している。

自分がカリスマで、「マクロン! プレジダン(大統領)!」と連呼させて、「救世主」のイメージを演出している。
もちろん、大統領候補たちはみな、自分こそが「低迷するフランス、テロの脅威にさらされるフランスの救世主」だというスタンスで出ている。これは立憲君主国ではうまく通用しないイメージだろう。

では、「もしローマ法王にフランスの選挙権があったら?」誰に投票するだろうというシミュレーションをしたらどうなるだろう。(続く)
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by mariastella | 2017-04-28 05:18 | フランス

マクロン こぼれ話 3日ヒゲ

フランシスコ教皇の立場とは大分違うマクロンに投票すると明言するカトリック信者が、おもしろい理由をネットに挙げていた。

>>マクロンは僕の人生を変えてくれた。2012年に政府に参加して以来彼は「3日ヒゲ(無精ひげ)」に市民権を与えた。そのおかげで僕や僕の周りの役人が、官庁に出勤する時、二日に一度しか髭をそらないですむようになったからだ。時間の節約になるし、髭剃りクリームの節約にもなった。永遠に感謝する。<<<

そういえば、今はつるっとした印象しかないが、確かにこういう時期もあったっけ。
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by mariastella | 2017-04-27 22:59 | フランス

フランス大統領選の特殊性とガエル・ジロー

フランスにおける大統領選の意味の変遷について書いた記事を読んだ(La Vie No 3738)。

私の実感とぴったりだったので以下に要約して紹介する。

まず、大統領選はフランスにおける真の国家的典礼である。

この典礼によって大統領は世俗宗教の司祭となり、フランスのプロジェクトを告げる預言者となり、「絶対」幻想にある国家の王となる。

ところが、以前の7年任期が今世紀に入って5年に短縮されて以来、そして特にこの10年の2人の大統領、ヒステリックで多動的なサルコジとその反動のように「ノーマル」さを強調した凡庸なオランドの時代に「大統領」の権威は綻びを見せてきた。しかも、二大政党がアメリカにならった予備戦で、党候補の立候補者同士を戦わせて大騒ぎすることで、党候補はますますオーラを失った。

その結果、「共和国」普遍宗教に対して、不可知論者、懐疑論者が増加することになった。
(過去にカトリック教会や王政の権威から人々が離れていくのと似ている)

グローバリゼーションの中で、国の主権はダメージを受け、流動的社会、自己中心主義文化の中で「フランスのプロジェクト」は溶解した。第五共和国の神秘的なサイクルはただの政治問題になり、一部の活動家が必死で船をこいでいる周りで、選挙人はばらばらに浮かんでいる。

この状況を救おうと、有力候補たちはメガ宗教のようなマーケティングを駆使して、ミーティングに多くの熱狂的な支持者を集め、右派だろうと左派だろうと国家が大声で歌われ、国旗が振り回される。 

人々は、何をどうしたいかのかは分からないまま、何かをしたいことだけは分かっている。
保守と革新という今までの二分法ではなく、人々の期待が4人、5人という候補に分散したのは、人々が主権者は自分たちだということを思い出したからだろうか。

マクロンは新しい階級のオプティミズムを体現し、メランションは大衆の声を聞き取れるようにしてみせた。フィヨンは隠れたフランスを覚醒させようとする。

フランス人は、自分たちの声を聞いてフランスを運転する大統領を求めているので、自分たちの代わりに考える大統領を求めているのではない。共和国の「超越」は、個々の選挙公約ではなく未来のプロジェクトの投影を求めている。
フランスとは普遍の同義語だった。投票所では、個人の利害を超えた実存的な選択がなされる。

フランス人であることは何なのかを語ることができるのはいったい誰だろうか?

以上だ。

というわけだが、決選投票にはマリーヌ・ル・ペンとエマニュエル・マクロンが残った。

このままいくと、マクロン優位は間違いない。
けれどもマクロンのやり方はすでに、ネオリベラルの既成路線を走っている。
社会党の活動はすでに、金融機関に支えられていた。

マルチナショナルな金融機関が政治活動と癒着した新自由主義体制は限界に達しつつある。
このままいくと2008年を超える経済危機が起こると警告する経済学者は少なくない。

国際金融機関のトップにいたような人が「回心」したり「転向」したりして「反体制」に向かっている。

IMFを批判する側に回ったアメリカのスティグリッツ、
財界グループのトップであったのに、国際金融資本サイドと袂を分かつことになったイギリスの元金融庁長官アデア・ターナー、
そして、最近フランス語に訳されたターナーの『債務、さもなくば悪魔』の序文を書いたのがフランスのガエル・ジローだ。

最後のこの人は私好みのユニークな経歴を持つ。まだ47歳。
アンリ四世校から高等師範学校、ポリテクニック、などエリート校を次々と経て、経済学者、応用数学博士などとなり、ヨーロッパ銀行の顧問としてばりばり活躍していたのに、突然すべてを捨てて研究生活に入った。。
そして、2004年、34歳、受難のイエスとほぼ同じ年、イエズス会に入ったのだ。
(マクロンがロスチャイルド銀行を離れて大統領の秘書としてエリゼ宮に入ったのも同じ年齢だった。)

あるリセの生徒向けに『渇きへの道』という戯曲も書いている。
現代に生きるイグナチオ青年が、経済的な野心を棄てて魂の道を回復する物語だ。
これを書いた2013年にガエル・ジローは叙階された。そしてすぐに『金融の幻想』という金融界の内部告発本を発表している。
今は国立科学研究センターの経済部門やフランス開発局のトップの座にある。
今やドグマ化している新自由主義〈やみくもな規制緩和や国家の撤退、市場効率主義など)のエラーを認めて改革しない限り、危険なポピュリズムの拡大と戦争の悲劇は免れない、というジローの言葉は広くリスペクトされている。

日本でも有名になったトマ・ピケティともいろいろな意見の交換をしているが、アフリカなどの「現場」を知らないピケティに対して、理論だけでなく実際も知り尽くしているジローの分析は説得力がある。(続く)
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by mariastella | 2017-04-27 16:11 | フランス

大統領戦 こぼれ話

フランスの大統領選、結構日本でも関心を持たれているようなので、サービスにまた、本日二度目の更新です。

候補者が二人に絞られたので、いろいろなエピソードが流れてきた。

マクロンの経歴だが、リセの時代から、将来伴侶となるフランス語教師ブリジットとだけではなく、多くの教師とばかりディスカッションしていて同年配の生徒とはつるまなかったそうだ。なんとなく分かる。すでに脳内大人だったのだろう。
そして、バカロレアはS(理科系。数学の比重が大きい。フランスは特性や志望とは別にともかく数学の点数で上からコースが決まる)で、平均 18/20 以上の「最優秀」お墨付きで通った。だからパリの名門アンリ四世校のプレパにも入れたのだけれど、最難関の高等師範学校の受験には失敗している。その後パリの政治学院に行くのだけれど、ここは、バカロレアで「最優秀」の点数があれば基本的に無試験で入れる。国立ではない。そこから国立行政学院ENAに入るのだ。

しかし共和国の最優秀の人たちには、高等師範学校(数学物理もある)やポリテク(前も書いたがエンジニアといっても要するにエリート養成学校)を経由した後でさらに政治学院やENAに行く人もいるので、マクロンは、別に挫折なしの「超エリート」ではなかったということが分かる。日本人はもちろんフランス人だって普通の人には分からないようなランキングなのだけれど。

一方のマリーヌ・ル・ペンは、パリ大学の法学部を出て弁護士なので日本的に考えたらエリートに見えるが、ヌゥーイ―・シュル・セーヌの裕福な家庭に育ってバカロレアB(今のES、すなわち経済系)を受けたというだけで、理系バカロレアを受けるほど成績が良くなかったと分かる。
しかも、ストレスでパニックに陥って、「市民には抵抗権があるか?」というテーマの哲学の試験で4/20の点数しか得られず、全体でも10/20に届かなかったので追試験を受けて何とかパスしたという。バカロレアさえあればパリ大学の法学部に登録することは簡単だ。まあその後で多くが脱落するのだが、そこは、順調に修士に到達、刑法の学位、弁護士資格と登録にまでこぎつけた。

気の毒なのは彼女はすでに父親ジャン=マリー・ル・ペンの影響をしっかり受けていたし、その平凡ではない名前(出身地であるブルターニュのモルビアンあたりの名でpeenは異教徒という意味もあるらしいから皮肉だ。漁師であったジャン=マリーの父親は海で死んでいる)から、あの強烈なキャラの父の娘だということは誰からも知られていた。もっともそれでいじめられるというようなキャラでないのはもちろんで、父親と同じくらいに戦闘的、挑発的だった。社会党のミッテランが大統領になった翌日は「フランスの喪に服する」ための黒い腕章をつけて学校にやってきたという。その年の大統領選は、公認候補に必要な500人の市町村長の署名が得られず父親は立候補できず、党員たちに決選投票は「ジャンヌ・ダルクに投票しろ」と言っていた。1984年の両親の離婚の後、末っ子のマリーヌはますます父親の活動をサポートするようになる。

私はいつも「人間」が好きなので、どの人がどういう経歴でどういう生き方をするに至ったのかにとても興味がある。
だから、今回の2人のようにキャラのたった人たちを比べるのはおもしろい。

ただ、予想されていたとはいえ、いよいよ決選投票に2人が残ると、なんだかいやな感じが戻ってきた。

それは、2007年のサルコジ対セゴレーヌ・ロワイヤルの決戦、そしてついこの前のトランプとヒラリー・クリントンの決戦のことを思い出したからだ。

はっきり言って、このレベルで「男と女」が戦うと、ジェンダーや差別や「見た目」に対する偏見が、さすがに大っぴらではないけれど、表出してくる気がするからだ。

直接選挙ではないドイツのメルケルやイギリスのテレサ・メイなどの場合とは違う。

といっても、「トランプとクリントン」と「マクロンとルペン」は全く違う。

トランプは結婚3回のビジネスマン、子供もたくさん、
クリントンは元ファーストレディ。

マクロンは10歳上のルペンよりもさらに10歳以上も年上の妻と二人三脚で、自分の子は持たず、元経済相。
ルペンは2度離婚して今は事実婚状態で子供3人。

それなのに、たとえばトランプが女性蔑視発言をしても糾弾されず、「頼もしい」とさえ見られたり、
クリントンは余裕がなく狡猾であるかのように見られがちだった。

マクロンは、トランプのような「貫禄?」はもちろんないが教祖風、ナルシスト風。
ルペンはいわゆる「女性枠」ではなく、あくまでも「二代目」リーダーで自信満々、押しが強い。

ところが、毎日この2人の画像がメディアで繰り返し流れると、なんだか、

「オバサンよりもフレッシュな若い男がいい」

というサブリミナルなメッセージを受ける。

政治的には、「ルペンよりマクロン」というのは共和国コンセンサスに近いのだからいいのだけれど、
映像的にはすごく微妙だ。

2人の立ち場とか2人のビジュアルが逆だったら意識下ではどういう展開になるのだろう、と思ってしまう。

日本の都知事選では女性候補がジャンヌ・ダルクだとか言って見事に当選したのが記憶に新しいけれど、マッチョな日本の方が意外に意識下では「強い女」を頂く願望があるのかなあ。

(次の記事ではもっと本質的ことを書きます)
(もしローマ法王にフランスの選挙権があったなら? というテーマも続きます)
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by mariastella | 2017-04-26 19:16 | フランス

鈴木正文さんと教育勅語

docomoのサービスを拝借して、百冊以上の日本の雑誌のネット版をタブレットで読むことができる。そのおかげで、日本に住んでいても立ち読みさえしないような雑誌にアクセスできる。
その一つがGQのeditor's letterだと前にも書いたが、今発売中のものは特筆に値する。

日本で教育勅語を唱和させる幼稚園の話にはじまって、教育に取り入れてもよい、などという見解が出されるなどしたことで、いろいろな人が的確な批判をしているのをこれまで目にしてきたが、この鈴木正文さんの文が一番私の考えていることと近かった。この文で彼のおばあさまがドイツ人だということもはじめて知った。そのことが彼の今の視野の広さにつながっているのかもしれない。

素敵な文章だったので全文引用したいくらいだけれど、まず要約。

1947年生まれの鈴木さんは小学生の時に黒人のハーフの同級生Mさんがが差別的な言葉を投げつけられて泣いているのを見て慰めたかったけれどできなかったし、旧友たちに抗議する勇気もなかった。

教育勅語の「道徳的目標」は「普遍的な道徳観」を示すものでどこがいけないかという考え方が今出てきているが、「教育勅語」との文脈的な結びつきを失うのでは意味がないし、文脈とは皇国思想であった。

「・・・果たして、親をうやまったり、友達同士や夫婦、兄弟が仲良くしてお互いを信じあったりすることが道徳的なのだろうか、」

「親をうやまい、家族仲良くし、友を信じることは、そうすることが倫理的だかに正しいからそうしなければならないことなのだろうか(・・・)こうしたことのすべてが、だれかにいわれてしなければならないこととしてあるべきなのか・・・」

「もちろん、僕たちはだれかを尊敬し、だれかを好きになり、だれかを信じる存在だけれど、そこで大事なのは、尊敬し、好きになり、信じるだれかを、僕たちが自由に決めるということだ。これは同時に、親をうやまわず、家族と仲良くせず、友を信じない自由もまた僕たちにはあるということでなければならない。それが個人主義というもので、この個人主義を獲得するために人間が数千年を要したことを僕たちは知るべきである。」

「(・・・)ほんとうに道徳的であるのは、そうした自由に立脚しつつ、「友」ならざる人を「友」とし、「家族」にあらざる者を「家族」とし、おのれの「親」ではない「親」を敬うという営為なのではないだろうか。なぜなら、友でも家族でも親でもない者を友とし家族とし親とするためには、道徳の力、つまり「正しいこと」をなすという倫理の力が必要だからだ。
少年だった僕が、Mさんを前にして持ち得なかったのは、実に、この道徳の力であった、といまおもうのである。」

以上だ。

これは簡単なことではない。
なぜなら、「正しいことをなす」こと、「正しくないことをしないようにする」ことの他に、正しいこととは何なのかを希求し分別する営為も必要だからだ。

ともあれ、自国ファーストとか家族ファーストとか自分ファーストといった内向きのポピュリズムが席巻する世の中で、鈴木さんの言葉は一条の光を投げかけてくれるものだった。
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by mariastella | 2017-04-26 00:39 | 雑感

マクロンのカミングアウト?

フランス大統領選第一次投票でトップに立った夜、「ブリジットとエマニュエル」の名で関係者にSMSの招待状が送られて、貸し切りになったモンパルナスのブラスリー《ラ・ロトンド》でマクロンを囲む祝賀パーティが開かれたことについて、世間の風当たりは厳しい。

それがあまりにも、10年前に大統領選に勝利した後にサルコジがシャンゼリゼのフーケで催したパーティを彷彿とさせたからだ。サルコジはその時に財界人や有名人に囲まれて、セレブ好きのスノッブであることを「カミングアウト」したと言われた。

不思議なことに、その後も、サルコジはアメリカのセレブのヨットでバカンスに出かけたり、メルケル首相なら一発で辞任に追い込まれると言われた行状を繰り返したにかかわらず、彼のポピュリズムに与した大方の庶民の反感をあまりかわなかった。セレブの豪遊ぶりをグラビア雑誌で追い続けるのが普通になっていた庶民が、「なったつもり」で楽しむことに慣れていた時代だったからだ。

マクロンは、「移民の子」だというのを売りにしたサルコジに比べると、ある意味でフランス人らしいフランス人で、エリートコースを歩んでいるので、社会的な「サクセスストーリー」を演出するのは難しい。それでも持ち前のカリスマ性を発揮して、つい3週間前には地方で「苦しむフランス」へのスピーチをして労働者に感涙を流させた。

それなのに、まだ最終投票までに2週間あるというのに、派手なパーティをやってその模様が映されたのを見て、裏切られたという気になった人もいる。
インタビューされたスポークスマンは「いや、これはシャンペンを開けるようなお祭りではなく、第一の関門を突破したまじめで慎重な祝いだ」という趣旨の返事をしていた。
ところが、映像はシャンペンが開けられるところを映し、1.5リットルのマグナム瓶が50本開けられたと伝えられた。

ロトンドはオランド大統領の選対本部とも縁のある場所だからそれなりの理由で選ばれたのだろうけれど、こうなると、メディアは、1981年に社会党のミッテランが最初に大統領に選ばれた夜に、バスティーユ広場に集まった人々の祝いに合流することをせず、社会党本部の職員にあいさつしただけで自宅に戻ったことと比較する。

(でも私の記憶ではあの夜は雷もともなう嵐になったので、ただ濡れたくなかったのかも。保守支持の知人が、ミッテランが当選したことで神が怒って雷になった、と言ったことを覚えている)

マクロンは、選挙に出る政治家としてはゼロから出発したわけで、「前に進むすべての人々にオープン」にと叫び続けて、彼に続く人がだんだん膨れ上がっていったことで、「ナザレのイエス」にもたとえられて揶揄された。

そのグループも「En Marche!」と、「!」込みの名前で、日本でも最近「句点込み」のグループ名などが普通に使われるようになったけれど、私の世代には違和感のある命名だ。
「進め、ナントカ少年!」のようなノリだ。
サルコジにはない発想だと思う。

18歳から24歳の選挙人はメランションの支持が目立った。
マクロンの支持者は、まさに、彼の世代、アラフォーを中心とする「新世代ブルジョワ」だということだ。ネーミングも、マーケッティングの福音派風の手法も、何もかも、うさん臭いというよりはそれが普通である世代なのだろう。

私は幸いこの世代と親しいので、彼らの生きた時代を彼らの目から眺めることもできるから、理解できることがかなりある。私がフランスで生きてきた40年と重なるので同時代性もある。
ほぼ同世代であるサルコジなどの方が、私の知らないフランスで生まれ育っているから共有しないものが多い。第二次大戦の後の復興や68年五月革命などの激動の時代は私にとって伝聞である。
今と違って、日本とフランスの情報の距離は遠かった。

そんなこんなでマクロンのプラグマティックな背景はなんとなくわかる。

それに比べると、マリーヌ・ル・ペンの方は、私にとって宇宙人みたいだ(猫好きということを除いては)。ジャン=マリー・ル・ペンのような強烈なキャラクターに洗脳されて育ってきたような人だから特殊だ。

決選投票の棄権率はどうなるだろう。

第一回投票は「大統領になってほしい人」に投票する。
決選投票は、第一回投票で入れた人が残らない場合は、「大統領になってほしくない人」を排除するために投票する、と言われる。

しかし、第一回で敗退した「大統領になってほしい人」に忠実でありたい人は、決戦では棄権したり白票を投じるという。
第一回で棄権する人は「市民の義務」を怠るという側面があるが、
第二回で棄権する人は、自分の信念に忠実な「殉教者」意識があってそれは「信仰告白」なのだから、棄権することに誇りを持っているなどとも言われるのだ。

今回の場合は、メランション支持者にそういう人が目立ちそうだ。
ル・ペンとメランションはEUへの姿勢などでかなり共通しているが、だからこそいっしょくたにしてほしくない、という気持ちがある。だからと言って、全く対極にあるマクロンを支持することなど到底できない、というわけだ。大統領選はスルーして6月からの議会選挙に向けて始動ということだろう。

二週間後、マクロンの組閣の仕方、議会とのかかわり方、社会党や共和党とのかかわり方、などをじっくり見て、FNや共和党、メランション、社会党のリアクションを観察するのが楽しみだ。
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by mariastella | 2017-04-25 19:09 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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