L'art de croire             竹下節子ブログ

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モリエール賞とサボテンの花

先日、いつもは見ないのだけれど、珍しくモリエール賞の授賞式をTVでみた。

すべてのスケッチのシナリオを用意したニコラ・ブドスの才気と逸脱に関心があったからだ。
この人は父親も有名コメディアンのギイ・ブドスで、フランスの左翼BoBo(つまりブルジョワのボヘミアン)の典型みたいな人で、スマートな好青年風(今37歳)なのに、毒舌が多すぎて、これまで何度も罰金刑の対象になったり、脅迫されたりしている。

「シャルリー・エブド」みたいな人だ。ある意味、すごくフランス的な人である。

授賞式では、目を閉じたマクロンの画像を出したり、マクロンが高校生で演劇の主役(ジャン・タルデューの短編戯曲で案山子のコスチューム)を演じた有名な画像ももちろん使われた。

うーん、こういう演出、シナリオを見ていると、ほんとうに、例えば今の日本のテレビに出るような「お笑い芸人」には絶対期待できない過激な政治性、表現の自由、全規制撤廃オンパレードだ。文化大臣も出席しているのだけれど、「忖度」などという現象はかけらもない。

そういえば、シャルリー・エブド襲撃事件のすぐ後で、やはり挑発や冒瀆全開の催しが大々的に行われてコメディアンが活躍したのを思い出す。

このモリエール賞は別にコメディだけではなくすべての芝居が対象だけれど、その祝祭はやはり、政治的公正やブルジョワ的上品さなどを過激に壊すことを通して、「自由」を表現するのがフランスの伝統なのだ。

それでも彼らの過激さとエネルギーと演劇への情熱とに酔いそうだった。

で、その授賞式の前に昨年のモリエール賞の主演女優賞を受賞したカトリーヌ・フロの『サボテンの花』が放映されていたので観た。

映画『偉大なるマルグリット』で、音痴の歌姫がカトリーヌ・フロで、金ほしさに彼女に個人レッスンをする奇怪な歌手がミッシェル・フォーで、この個性的な2人が『サボテンの花』の主役の歯科医と助手を演じる。

私は芝居でも映画でもいわゆるラブ・コメディというのはあまり関心がない。

けれどもこの『サボテンの花』というのは、フランスとアメリカの比較文化を考えるにあたって興味深い作品だ。

元の戯曲は1964年が初演で、大ヒットして翻訳されブロードウェイでも上演された。

話はブルジョワの客を持つ中年の歯科医師ジュリアンと、若い恋人のアントニアと、歯科の受付ですべてを仕切る有能な中年の女性助手ステファヌ、アントニアの若い隣人イゴールらの込み入った関係だ。

ジュリアンは、独身で、結婚を迫られないように妻と三人の子供がいると嘘をついていた。アントニアはそれをジュリアンの正直さだと好意的にとっていた。

ある時、ジュリアンはアントニアを真剣に愛し始めて結婚を決意する。

おくさんははどうするの、と聞かれて、妻とはもう離婚の合意があるとか、妻も実は浮気しているとか、嘘に嘘を重ねていき、妻と会いたいというアントニアのためにステファヌが妻の役を演じることになる。

ステファヌは母親と愛犬と暮らしている。妹の子供たちが時々やってくる。

まあ、いろいろあって、ボードヴィルというかドタバタ喜劇でもあるのだが、ステファヌは妻役を演じているうちに意識下でジュリアンを愛していたことに気づくし、妻の役を演じているうちに「女」として目覚め、若いイゴールにまで迫られ、すべての登場人物が「嫉妬」の感情によって愛に気づくという微妙な心理劇だ。

アメリカでステファンを演じたのがローラン・バコールだった。

大人の「職業婦人」が「職場の上司」との関係、老いた母との関係、客(歯科の患者)との関係の中での「顔」から、「妻」のふり、「愛人」のふり、若い女性や若い男性との個人的な関係の発生を通して、感受性の窓が次々と開いていく、女優としていろいろな魅力を見せることのできる役がステファヌだ。

で、1969年にアメリカで『サボテンの花』として映画化され、ステファヌ役はなんと当時54歳のイングリッド・バーグマンで、若いアントニア役がゴールディ・ホーンだった。この時、シチュエーションは少し変えられて、バーグマンは独身ではなくシングルマザーという設定だ。

こういう話はアメリカ好みらしく2011年にもリメイク映画ができている。「ウソツキは結婚の始まり」という邦題で、そこでは独身の外科医が、不幸な結婚をしているという嘘をつくことで女性の同情をひいて愛人にするという設定になっている。時代の差を感じさせる。

この時のステファヌにあたる役がまだ40代初めくらいのジェニファー・アニストンだ。今や40代はじめなどとても若いので、1960年代の「結婚をあきらめた女」の設定とは、見た目も社会的なスタンスも違う。

で、2015年、60歳のカトリーヌ・フロが原作の戯曲を再現。

あらためて、よくできた芝居が「古くならない」こと、男と女の機微をめぐるフランス語の豊かさ、年の差やら身分やらを超えた心理戦などにおける「国民性」はあるのだなあなどと確認できた。

個人的には登場人物の誰にも共感も感情移入もできないにもかからわず、細部の感情の動きや感慨は確かに普遍的でもあり、また、フランスで暮らしている私の周りの具体的な誰それの行動の仕方やシチュエーションと重なるのでリアルでもある。

しかもこのセリフとこのセリフ回し。映画でなく芝居ならではの魅力が満載だ。カトリーヌ・フロとミッシェル・フォーという際立った個性派と、「若者のステレオタイプ」のようなアントニアとイゴール役の対比のバランス(その他に カリカチュラルな患者たちも彩を添える)が絶妙だ。演劇はやはり贅沢だ。


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by mariastella | 2017-05-31 06:22 | 演劇

マクロン、プーチンと会う

ロシアのピョートル大帝がはじめてパリにやってきた1717年から300年、ピョートル大帝をテーマにした展覧会がヴェルサイユのグラン・トリアノンで開催され、その開幕にプーチンがやってきた。

プーチンは選挙運動期間にル・ペン女史に会ったり、フィヨンを支持するコメントを出したりしているのでマクロンとは微妙だ。

朝のラジオでフランスのロシア大使は、ロシアとフランスの今の緊張はウクライナ、シリアと、すべて別の国が原因になっているので、ロシアとフランス自体の昔からの絆は変わらない、と強調していた。

プーチンの保守主義とマクロンのリベラルという価値観の違いはあるけれど理解し合える、と。

そして今になって、ちょうど10年前にサルコジがG8サミットではじめてプーチンと会談した直後に記者会見の場に現れた時の様子が何度も流された。


明らかにふらついていて話すこともしどろもどろ、当時は、ウォッカを飲まされたに違いない、と言われていた。

しかし、プーチンもサルコジもアルコールを飲まない。

それが今になって、あの時は実はサルコジはプーチンに脅迫されてショック状態にあったのだと暴露され始めたのだ。それが単に「言葉だけのものではなかった」とも言われているのだけれど、完全には説明されない。

その時のG8におけるサルコジについて、ベルギーのテレビがまさに「上級生のいる運動場に入って興奮している下級生のようだ」と揶揄して、後から謝罪している。

そのために、先日のG7でのマクロンのパフォーマンスが注目されたのだ。

マクロンはうまく立ち回った。

で、次は注目のプーチン。「力関係」が決め手だとはマクロン自身も言っていて、用意周到だろう。

まず、最初の出会いの握手

握手しながらマクロンがすぐに左手でプーチンの腕に触れると、プーチンもすかさず触れ返した。

さて、午後、ヴェルサイユ宮殿の「戦いの間」での記者会見の中継をネットで全部見た。会見が終わって握手して2人がカメラに背を向けて去る時にマクロンの腕がプーチンの背にあてられた。マクロン得意の、「上から労り」ジェスチャーだ。

すごいなあ、大した度胸だ。

プーチンはヴェルサイユに来たのは初めてで感嘆している、と言った。

場所の選定も、ピョートル大帝の記念という口実も、G7の直後というタイミングもうまい。サンクトペテルブルク生まれのプーチンはピョートル大帝を尊敬しているし、ロシアはフランス文化に憧れていた。

記者会見でより多くしゃべっていたのはマクロンで、ロシアの触れてほしくないチェチェンでのLGBT迫害だの、大統領選中にスプートニク通信社が報道したマクロンがゲイでゲイのロビーに支えられているという噂についても、デマやプロパガンダを垂れ流すものはジャーナリズムだとは見なさないと言って名指しで批判した。

シリアやウクライナ問題についても言うべきことは全部言い、それでもことを進めるためにプラグマティックに解決する用意があるとも言った。

選挙運動中に言っていたことをすべてそのまま口にしている。

もとがトランプのような暴言ではないので、一貫しているという意味だ。

会見の様子を見て、マクロンはプーチンと対等に話した初の大統領だ、などとコメントした人がいた。

もしマクロンの対ロシア外交がアメリカへの従属に終わるなら大失敗だと言われていたが、これはまず成功の部類だろう。

会見の背景に映る両国の国旗も、ロシアも三色旗(上から白、青、赤)なのだが、白を真ん中にするフランス国旗の方がはっきりしていたし(マクロンの顔が白地の前になる)、その後ろに並べられたヨーロッパ旗が、フランスはフランス一国でなくてヨーロッパが背後についているという威嚇と同時に、フランスがヨーロッパの旗手であるという風にも見える。いや、そう見せる意志が伝わってくる。

10 年前、何があったのかは知らないがあのサルコジをすら打ちのめしたプーチンに対してともかく「対話」をした。(オランド大統領にいたっては建設的なことは何もできていない。)

こんな風に書いているとまた私は「マクロンびいき」だと言われるかもしれないが、実は、日本のことを考えていた。

マクロンとプーチンの会見を見ていて、安倍首相とプーチンの会見のことを思い出して暗澹としたのだ。日本の政権とメディアをめぐる今の状況を憂えているので、記者会見でのやり取りを聞いて、そのことも考えずにはいられなかっのだ。

日本の為政者にとって他国の為政者と対等でいられるということはどういうことなのだろう。

G7の首脳を伊勢神宮に連れて行っても、それはヴェルサイユのような意味は持たない。ロシアに関しては、プーチンをわざわざ地元の宇部に迎えてその後に山荘に招いて「温泉でゆっくりどうぞ」なんてあまりにも…敵を知らなさすぎる。

ロシアとの歴史と言えば日露戦争だったりするし、一度だって憧れを持たれたことがないと思う。

欧米の国で伝統的に日本文化に「憧れ」を持っている唯一の国はフランスなんだけどね。

表現の自由、メディアの独立性、外交においても言うべきことをきっちり言うこと、説得力を持たせること、展望があること…。

スポーツの試合では対戦相手のプレイのビデオを何度も見て、相手の弱点などを分析して戦略を立てるなどということがよく知られている。

国際関係に携わる人はなおさら、歴史の経緯も含めて勉強、研究が欠かせない。内向きのポピュリズムで満足している場合ではない、とつくづく思う。


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by mariastella | 2017-05-30 02:18 | フランス

G7サミット、マクロン、トランプ、ローマ法王

トランプ大統領は「無難にこなした」初外遊を終えて、嵐の吹きまくる自国に戻って今頃は大変だろうなあ。

もともとトランプとローマ法王の会談の三つのテーマは、移民難民、イスラム、エコロジーだった。

トランプがメキシコとの「壁」を公約した時にローマ法王は「橋でなく壁を作るのはキリスト者ではない」と言っている。イスラム教国からの入国禁止の処置も基本的に「国教のない」カトリック教会と真っ向からぶつかるものだし、オバマによるパリ会議の批准(守らなくても罰則規定はない)を無視しようという公約も、地球環境保護キャンペーンの先頭に立って回勅を出しているローマ法王と対立する。

でもフランシスコ教皇はエジプトから帰る飛行機の中の記者会見では、「会わないで人をジャッジすることはできない」と言って、トランプをあらかじめ弾劾することはなかった。

パリ条約はいうまでもなくフランスの誇りみたいなイベントだった。大規模テロのあったすぐ後だったけれど世界中の代表者を集めて成功させたという文脈があるし、京都議定書と違って、二酸化炭素の最大の排出国アメリカと中国にも批准させたからだ。

で、フランスはローマ法王がまずトランプにエコロジーのことで「説教」するのを期待していた。その後でマクロンがNATOでのトランプとの会見でプッシュして、G7で合意させる、と。

結局ローマ法王との会見はほぼ意味がなかった。

難民移民問題についてはもともと移民国家であるアメリカの内部で司法や議会が機能してトランプは譲歩せざるを得ない状況だから、ローマ法王がことさら何か言う必要はない。

イスラムへの偏見の問題にしても、ローマに来る前にサウジアラビアで「兵器産業の上客」へのリップサービスで平和を訴えたし、イスラエル・パレスティナでもちゃんと模範的にふるまった。

だから残りはエコロジー問題だけだったのだけれど、結局、「平和を目指す」合意のようなものしか出なかった。トランプに環境問題の回勅をプレゼントしているから、まずこれを読みなさい、ということになったのかもしれない。

(でもサウジでスカーフを被らなかったメラニアさんは、バチカンではちゃんと黒服で黒ヴェールを被っていたし、ミケランジェロの最後の審判の前にも夫婦で立った。メラニアさんは歴史的にはハプスブルク圏カトリック国スロバキアに生まれたのだが、当時の共産主義下で幼児洗礼は受けていなかった。現在はきっちりと日曜ミサに出るカトリックで、今回も聖母像の前に花束を捧げたり、教皇にロザリオを祝福してもらったりしていた。カトリック国の首長夫人は教皇に合う時に白服と決まっている。ヴェールはプロトコルの義務ではなくメルケルはバチカンでもかぶっていない。オバマ夫人はかぶっていた

ついでに言うと聖公会の長であるエリザベス女王は前はプロトコルに従っていたが、自分が教皇より年長になってから?は、「規制緩和」した。最後は薄いパープルのスーツだった。)

でG7に話を戻そう。マクロンのことを、最初は「上級生の運動場に出ていく下級生(高学年の遊んでいるところに混ざる低学年の生徒、または高校生の中庭に出る中学生のようなイメージ)」みたいな表現があった。

テレザ・メイやトランプだってこれが初G7だったけれど、見るからに貫禄がある。

マクロンは「貫禄」がない。若さとエネルギーでは「貫禄」に立ち向かえないのでオーラが必要だ。

で、フランスのメディアからの評価はまずまずだ。

世間では「フランス人もEU離脱を望んでいる」などという報道のされ方もあるが、

フランス人は、EUが嫌いなのではない。

フランス主導のEUは好きなのだ。

第二次大戦後、最初にドイツと和解してEUの元を立ち上げた時から、

ドイツに稼がせて貢がせて、

うちは戦勝国だけど、お宅を対等に扱いますよ、

と「政治主導」のヘゲモニーを持つ、

というEUが好きなのだ。

だから、マクロンがEUの中で存在感を増して、

イギリスは勝手に出ていくから、G7参加のEU3ヵ国のうちで、

ドイツとイタリアって、敗戦した枢軸国だしさあ(うちは占領されていたけれどそれは関係なし)、

ヨーロッパの真の旗手はイエス・キリストやナポレオンと同じ若いボクだよね、

というオーラを振りまいてくれるなら、

EUもフランス人に好感度アップというところか。

実際、メルケル首相が、環境問題の合意を妨げたアメリカの態度に不満を隠さなかったのに、マクロンはなぜかオプティミストだ。

自信満々なので、一週間後だと言われるトランプの方針表明がパリ協定寄りになることを知っているかのようだと希望的に推測する人さえいるくらいだ。

アメリカがパリ協定離脱を表明すれば中国やインドだって続くかもしれないし、批准した途上国への援助も難しくなる。マクロンがなんというのか聞いてみたい。

まあ、今は、G7の様子がネットなどを通してあちこちに配信されるので、全体としてマクロンが例の父性的演出を駆使して堂々とプロとしてふるまったのに比べて、トランプの方は、しぐさも発言も、アマチュア感がぬぐえなかった。

そういえばG7で、マクロンがトルドー首相との雑談で、「子供の話」が出て「私には孫が7人」と答えていた。

日本に昔「七人の孫」っていうテレビドラマがあったのを思い出す。

孫も七人になると、家父長のオーラが出てくるのだ。

トランプは3人の夫人との間に5人の子と8人の孫がいる「部族長」だけれど、「若い妻」がいるというクラシックなオーラでは新鮮味に欠ける。

フランスの総選挙が迫っているが、これまでは、フランス人はロジックだからいったん新大統領が選出されたら大統領の党に過半数の議席を与えて一貫性を求めるというのが通説だった。

はたしてどうなるのだろう。


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by mariastella | 2017-05-29 00:13 | 雑感

「忖度」とグラムシのヘゲモニー論

今年の流行語大賞候補とか言われている「忖度」という言葉。

これを聞くと、グラムシのヘゲモニー論を思い出す。

20世紀イタリア共産党の創始者グラムシの唱えた「ヘゲモニー」とは、法に依る権力や経済権力による「支配」とは別の、

「指導」や「同意」として行使される権力の形態のことだ。文化による権力だともいえる。

これはまさに今話題の文脈における「忖度」の定義のようだ。

ヘゲモニーとは「同意を積極的に調達するもの」ということだが、「忖度」そのものだ。

自発的な同意を行使させる「忖度」だけではない。

日の丸君が代を起立して歌い敬う「指導」がいつしか処罰をともなう強制に変化してきたように、「忖度」を拒否する人を監視し取り締まる「共謀罪」も成立しようとしている。

安倍一強のヘゲモニーは、出生率の向上や女性の就労支援などといった生き方のありようそのものにまで広げられている。これもグラムシの分析した「生き方を含む対抗文化」の戦略を裏返しにしたものだ。

阿部首相は安保法制の議論の中で「我々が提出する法律についての説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」と言ったそうだけれど、ヘゲモニーを可視化しすぎ。

グラムシは「新しい時代」を切り開くにあたっての知識人の役割を強調した。

政治とは哲学にひとしい。ある文化圏の中に強固な地層を残している哲学は批判の対象になる。

歴史的に形成された文化と知の要素を批判的に洞察する必要がある。そのためには「すべての人は知識人である」必要がある。

ポピュリズムの対極にある考え方だ。

となると、出自を「でじ」、便宜を「びんせん」とか読む文科副大臣がいたり「云々」を「でんでん」と読むリーダーがいたりする政府によって、無批判に「戦前」の思想を持ち上げられてヘゲモニーを形成している国って…。



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by mariastella | 2017-05-28 00:08 | 雑感

『禁じられた歌声(ティンブクトゥ)』アブデラマン・シサコ監督

2014年から15年にかけていろいろな映画賞を獲得したフランスとモリタニアの合作映画。
シサコ監督はモリタニア生まれマリ育ち、モスクワで映画を学びフランス在住という国際派。
見た目もトゥアレグと黒人の混血っぽいコスモポリタン風。

アフリカのマリ共和国北部のティンブクトゥという世界文化遺産にも登録されている町が2012年からアルカイダ系イスラム過激派に占領された様子をドキュメンタリー風に描いたものだ。
2013年の初めにオランド大統領が単独で介入して過激派から町や住民を「解放」した。フランス軍は救世主のように歓迎された(その後フランス軍の兵士による現地の少年への性的虐待などのスキャンダルが発覚したが)。
周りが広大な砂漠なので過激派を追いやったと言っても、どこかに「追い詰める」わけではないので、今もフランス軍は駐留中で真理の「政府軍」を訓練したり援助したり、新大統領のマクロンの最初の訪問地(ベルリンの次)もこのマリの駐屯地だった。そのくらいフランスにとって政治的な意味の大きい場所なので、この映画も政治的な思惑から逃れられない。

2012年に羽田からパリに戻った時、驚いたことを思い出す。普通なら、空いている時間帯だ。JAL便から降り立つ日本人に対する警戒はとても低く、入国審査でもほとんど機械的に通してくれる。けれどもその時は、圧倒的に黒人が多かった。日本人が隠れてしまうほどで、審査窓口には長い長い列で全く進まない。窓口でもめた後どこかへ連れていかれる人も多い。周りの人を見ると、マリのパスポートだと分かった。後から、彼らは過激派支配から逃れてきたのだと納得した。出口のホールも、到着した親類や知人を迎え入れる人たちでいっぱいだった。どこの国へ来たのかと思った。ああいう状況だったからフランスが慌てて侵攻したのかなあと後で納得がいった
とはいえ、フランスがマリのガオやティンブクトゥーを「解放」しても、ジハディストたちは移動するだけだ。
最近のマンチェスターのテロの実行犯の父親や弟はリビアにいてISとつながっていると言われる。イラクやシリアを追われたISがリビアに拠点を移すという予測はもう実現しているのかもしれない。

映画に戻ると、アルカイダの専制への抵抗としてボールなしでサッカーをする少年たちの詩的な映像などが予告編でいたるところに出回り、本編を見る必要がないほどだ、などと言われもした。
シャリア法では女性は髪も手も足も隠すべきだとか、音楽も禁止、酒もタバコも集団をつくるのも禁止、サッカーも禁止、石打ちの死刑や、手の切断刑や、斬首や鞭打ちなどの実態が、すぐ後に続いたISのプロパガンダよりも先に、この映画によって「イスラム過激派のひどさ」として広く知られるようになった。
けれども、「白いIS」と言われるサウジアラビアのワッハーブ派がもう何十年も公然とやっていることもほぼ同じだ。
ただ、サウジではタバコとサッカーはお目こぼしだった。既得権益と関係があるからだ。
街中で10人以上集まるのが禁止だしサッカー以外は音楽会も他の娯楽も、人が集まること自体が禁止。公開処刑は「普通」だった。

9・11のテロリストを輩出しながらも、冷戦時代からのアメリカとの同盟関係や「共通の敵」イランへの牽制などでなぜか「自由陣営」っぽい姿を容認されているサウジは今も「国連女性の地位委員会」のメンバーになったり人権理事会議長国になったりしている。
自由とは金で買えるものだ」という金の支配の方が「神の支配」より実効性があるということなのかもしれない。

で、この映画。特に女性たちが抵抗の姿勢を見せたり、「過激派」たちがイマムとじっくり話したり、プロパガンダ映画にならないように「人間」を描こうとしているわけだけれど、そのことが中途半端にヌルい、という評価も受けている。
画面が美しく、暴力的なシーンが少ないことは個人的にはほっとするけれど、確かに、どこか強度が足りない。

シサコはマリで非婚のカップルが石打ちで殺されたことにショックを受けてこの映画を作ると決めたそうだけれど、石打ち刑自体はすごく古くからある。
新約聖書で「汝のうち罪なき者が石もて打て」とイエスが言ったことで有名なように、シャリアでなくてもユダヤの律法でも普通だったし、最初の殉教者ステファノも石打ちで殺された。イエスは個々の人間の事情を無視した原理主義的「律法遵守主義」を徹底して批判し否定した。
イエスに足場を置いたキリスト教文化圏が最終的に死刑廃止に向かったのは論理的に整合性があるし、私もあらゆる形の死刑に反対の立場だけれど、2012年のマリの「石打ち」刑だけが突出してシサコに大ショックを与えたというのは興味深い。彼はアフリカのチャイナタウンやカラオケ、中国も舞台にして中国人男性と黒人女性のラブストーリーも撮影している。もともと感覚が国際派なので、この映画も本来、政治的なイデオロギーを伝えるようなものではないのだろう。

でも、ともかくドキュメンタリータッチなので、リアルだ。過激派が乗り回す軽トラックみたいなものが全編に出てくるのだけれど、その後ろの大きなTOYOTAの文字にどきっとする。
最も印象的なシーンは、「鶏の女」だ。
女たちは徹底的に服装を統制されるのになぜか一人の初老の女性だけが、派手な格好で鶏を肩にのせたりして長い裾を引きずって闊歩している。これも、マリでの実際のモデルに基づいているそうだ。1960年代にパリのキャバレー「クレイジーホース」のダンサーだった女性で、フランス語を話し、ティンブクトゥーでなくやはりアルカイダに占領されたガオの町で、この女性だけが、髪も覆わず、歌って踊って煙草を吸って、ジハディストたちを平気で罵倒していたのだという。

一見、王宮の道化というか、トリックスターというか、そこだけカーニバルのガス抜きというか、「狂気」と「聖性」のアンタッチャブルが交わるところというか、社会学的なことを連想してしまう。
宗教者が自由に生きるために突飛な生き方をする「佯狂」(狂を装う)というのは日本の『発心集』などにも出てくるある意味古典的なサバイバル戦略だ。
為政者が自らの権威を知らしめるには、「普通の人」「一般人」を取り締まってこそ意味があるので、最初から社会の「枠外」に突出している者を取り締まっても意味がない。そういう人たちは「社会」がすでに制裁、排除している形で存在を許されているからだ。

で、この「鶏の女」がリラックスして横たわっている前で、一人のジハディストが「踊る」。
腕を広げ恍惚として踊る。
自由のあるところにはインスピレーションが降りてくるかのように

イスラム原理主義の「音楽の禁止」についても改めていろいろ考える。フランスのブレストのモスクでサラフィストのイマムが子供たちに「音楽を聴くだけでサルになる、豚になる」と教えているビデオを見て、さらに、コンサートホールでのテロの後、戸外を含む集団の音楽イヴェントに参加を決めたことも思い出す。
もう20年以上前になるけれど、私の主催するパリのアソシエーションで亡命チベット人の音楽コンサートをしたことも思い出した。中国植民政府の方針でチベットの楽器も内も禁止され、夜にうちの中でひっそりと弾いていたのだという話だった。

シサコの映画の邦題が『禁じられた歌声』とされたことを的外れだというコメントも目にしたけれど、歌や踊りや音楽が自由のシンボルであることを思うと、含蓄がある。


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by mariastella | 2017-05-27 00:45 | 映画

マクロンとトランプ

楽しみにしていたマクロンとトランプのはじめての出会い。ベルギーでのNATOの会議だった。トランプはNATO本部の立派さに驚いたと言われる。

アメリカの金でできているんだ、と予定通りの文句を言うより、素直に「大きなものがすごい」と思ってしまうところが無邪気?なのか…

で、マクロンは多分わざと演出したのだろうと思うけれど、他の首脳よりも遅れて到着した。皆がずらりと並んでいるところに一人ゆっくりと近づいて、なぜかラ・マルセイエーズが流れ、というできすぎる登場。

まずメルケルとは親しさを強調してハグをし、何人かとの後、いよいよトランプとの握手。
トランプはいつものようにぐいと自分の方に手を引き寄せる。
そして左手をトランプの腕にかける例のしぐさも忘れない。

メラニア夫人に握手した時も左手を添えて彼女の手を包む形。

アメリカ大使館でのトランプとツーショットの両者が座っての握手はもっと愉快で、マクロンの力が強くてトランプの手首が白くなった、トランプが手を離そうとしたのに握って離さなかった、というので、 ネットメディアがすぐに書き立てた。

そんな時に並べられているのが安倍首相との握手だというのはなんだかなあ。
私も前に書いたけれど、トルドー首相が一歩も引かなかった映像もまた登場。
メルケルには逆に、握手を拒否したり全く力を入れなかったりしていたのも。

あすのG7サミットではどうなるのかまた組み合わせが楽しみだ。

トランプとマクロンの会談が予定の1h15を30分オーバーしたとかで、プラグマティックなものだったと珍しくマクロンがすぐにtweet。
(昨日のフランシスコ教皇とトランプとの会談は予定の30分より5分前に切りあがった)

トランプはルペンを応援していたと言われるのを否定するように、マクロンのことを「You are my guy」と言ったそうだ。





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by mariastella | 2017-05-26 04:49 | 雑感

『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(ペドロ・アルモドバル)

『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(ペドロ・アルモドバル)

今開催中のカンヌ映画祭で審査員長を務めるスペインのペドロ・アルモドバル監督の1988年の作品だ。

赤が印象的。真っ赤なトマトをザクザク切ってつくるガスパーチョが睡眠薬になる。

映像と音楽をたどるだけでも楽しい。ポップアートの美術館にいるようだ。

ヒロインのアパルトマンが凄い。テラスに植物が茂っていて、ウサギやアヒルがいる。

「明日は家政婦さんが来る日だから」と言っている。

マドリードのブルジョワの暮らし、けれども上流階級というのではなくてテレビコマーシャルにも出て人に顔を知られている芸能人の暮らしなのだ。

シリア人のシーア派のテロリストと関わってしまった、と助けを求めに来るヒロインの友人の話など、30年前とは思えない今こそリアルな話だ。

マンションの管理人の女性が「私はエホバの証人だから嘘をつけない、」と何度も言って、エホバの賛歌を口ずさんでいるのも注目。


出産してからずっと精神病院にいた女性がピンクのスーツに派手な付けまつげという新婚旅行のような格好でピストルを両手に男への復讐に向かうのもグロテスクで怖い。

コクトーの戯曲『人の声』にインスパイアされたというだけあって、電話でのやりとりがシンボリックな意味を持っているのだけれど、それはいつも留守電のメッセージとなる。声優のアフレコ収録シーンも出てくる。「対話が成り立たない」ということ自体が鍵になっている。


大きな電話機が何度も出てきて、電話の修理屋も出てくる。

こんな風な男女の別れやすれ違いも、今の携帯の世の中なら全く様変わりしただろう。

といっても、今でも、「会話」を拒否しようとしたら、SMSやLINEでのみ別れを告げることもできるし、それらに返事しなかったり未読にしたりスルーしたり削除したりなどもできるので、「留守電に入れる」「留守電を待つ」というオプションだけの時代よりも当事者はもっと「神経衰弱」になるかもしれない。


「通信手段」に焦点を当てると、1930年のコクトーの戯曲は半世紀以上経ったアルモドバルの映画に応用され得たのに、その後20年も経っていない今は、様相が決定的に変化したということだ。

人間関係は深いところで確実に変わっている。




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by mariastella | 2017-05-26 00:10 | 映画

『海よりもまだ深く』(是枝祐和)

海よりもまだ深く』(是枝祐和)


去年のカンヌ映画祭に出品されたもの。

フランスは是枝作品やドラン作品が好きだ。

家族の間の微妙な関係、特に母と息子の愛憎の葛藤とか、とても特殊で個人的なものをクローズアップしてそこに普遍性というか家族のアーキタイプを見る満足が好きなのかもしれない。

主人公が、別れた妻の新しい男に向ける視線は、ドランの『マミー』の中で、主人公が母親の新しい男へ向けるそれとかぶる。

これは東京郊外の話なので、『マミー』のモントリオール郊外よりも身近かなはずだけれど、そして、多くの人(日本人)が「実家」映画と言っているように、日本の家庭で「あるある」的な原風景が丁寧に描写されているのだけれど、私にはそういう風には感情移入できなかった。

是枝監督が実際育った団地だそうで、マンモス団地ってこういうものなのかと知った。

子供の時に「団地」らしきところに足を踏み入れたことはあるけれど、木造一軒家にばかり住んでいたので「鉄筋のおうちってこういう感じなんだ」と思ったくらいで、この映画で初めて、ハイパーリアルに団地体験ができた。団地でも分譲区域があって格差があるというのも知った。

それを言うなら競輪場もはじめて見た。

ダメ男である主人公の阿部寛と彼を捨てた元妻の二人が美男と美女なのがある意味かえってリアルだ。

いかにもダメそうな男と必死でサバイバルしている元妻という感じのキャラを無理にあてはめているわけではない。美男と美女でもうまくいくとは限らない、という実感がこもる。

デジタル時代の今時あまり問題にもされない「字の上手さ」というのが伏線になっているのがおもしろい。

夫の急死で未亡人となって「解放された」気分の母は、長男にバイオリンをずっと習わせていた母であり、長女の娘のフィギュアスケートのレッスン代を払ってやろうとする母であり、団地内のカルチャースクールみたいなところでクラシック音楽の鑑賞教室に通っているシニア女性でもある。その混ざり具合が絶妙だ。

姉弟間の微妙な嫉妬、息子の見栄、父との確執、それらは「普遍的」とは言えなくても国を越えて多くの人に共通するテーマであるというのは分かる。

探偵事務所の後輩である若者とのコンビがとてもいい。

自分も両親の離婚によりトラウマを蒙ったというこの若者が、なぜかよく分からなかったけれど主人公に借りがある、と感じていること、彼のすべての逸脱に付き合うこと、それらをなぜか自然にやってしまうことが、映画全体のアクセントになっている。

「小説家」とか「探偵」とかいう息子の特殊な職業と、年金で団地に一人暮らす未亡人という普通さのコントラストに台風という外的なインパクトを絡ませているのもうまいし、飽きさせない。

「なりたいものになれなかった」大人が

それでもあがくのか、

自分を偽るのか、

あるいは諦念の境地で今ここのささやかな幸せを見つめることにするのか、

プラグマティックに最善の道を探るのか、

ろいろなケースが描かれていているのはいい。

でも、それらに囲まれた11歳の少年が、ホームランよりフォアボールを、野球選手より公務員になる将来を望む、芽生えた唯一の希望らしきものは宝くじに当たって両親といっしょにまた暮らせるようになるというのは、やりきれない。子供に夢を持たせる社会的な契機がここには何もない。

樹木希林の口から出る賢者の人生訓みたいなものも、正直言ってなんだかなあと思う。死んだ夫とは違って息子にも元嫁にも孫息子にも一目置かれていたり尊敬されているのだから、私が彼女の立場だったらもっとポジティヴなことを言ってやれるのに…(って、自分を重ね合わせるのがおばあちゃん役ということが少し悲しいが)。


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by mariastella | 2017-05-25 00:16 | 映画

イギリスのテロ、トランプ、韓国、パレスティナ…

これを書いているのはフランス時間で5/23。

国際情勢の動きから目が離せない。


マンチェスターのテロはバタクランのテロを思い出させるが、マンチェスターのアリーナの規模は桁違いに大きい。

この事件で、フランスの劇場やコンサート会場などの警備に緊急の通達があった。折しもカンヌ映画祭の開催中である。

何が特に注目されているかというと、「コンサートが終わった後」だ。ホールへの入場には念入りに所持品のあらためや身体検査がされるが、終わった後の「解散」の時には警備が手薄になる。慣習がどっと出てくるところを狙われるというのはセキュリティの盲点だった。

犯人はリビア系でマンチェスター生まれの22歳のイギリス人。シリアやイラクのISの元で「訓練」した経歴があるかどうかはまだ判明していないが、ともかく、国境を閉鎖したところで、EUを離脱したところで、「自国内」の若者がネットなどでISに鼓舞されてテロに走るとしたら防ぎようがないというのが再確認された。


イギリス型の共同体主義社会は、様々な「文化圏」がモザイク状に「共存」している。

それらが互いにリスペクトしあって共存しているならいいが、そのうちのどれかが自分たちの優越性を掲げ、他のコミュニティを「不信心者」として攻撃するなどに走れば、フランス型の「統合」志向の国での逸脱よりもさらにやっかいなことになる。

私がフランス型のユニヴァーサリズムを支援するのは、たとえ多様な共同体が互いをリスペクトして共存していたとしても、どんな共同体に生まれつくかは誰にも「選択」できないし、共同体内部での差別や支配関係は自体は改善されにくいからだ。

その共同体から出ていく自由がより高位の権威によって保証されているべきであるし、共同体の伝統やコードよりも、すべての人間が自由と平等と安全と幸福を追求する権利と尊厳が優先されるべきだと考えているからだ。

生まれついた共同体のマジョリティで戦争や飢饉のない時代を過ごしてきた人にはなかなかぴんとこないかもしれないけれど。


ここ数日は、トランプのはじめての「外遊」も注目を集めている。

ツイッター発信を禁止された?とかで、ここまではシナリオ通りに動いているようだ。

でも国際情勢はシナリオ通りにはいかない。

イランを共通の敵にしてイスラエルとアラブを結束させてパレスティナの平和協定を実現させるという構想自体は悪くないし、関係者たちはすでにアメリカに来て話し合っていた。けれども、イランではアメリカとの関係改善をスタートさせたロハニ大統領が再選された。イランに投資つつあるマルチナショナル企業はほっとしているだろう。

こんどはイランとサウジアラビアと、どっちが長い目で見てより良いビジネスのパートナーになるのか、などという基準で外交が進むのだろうか。

イスラエルの嘆きの壁に手をあてるトランプの姿は世界中に配信され、「壁」ジョークに大いにネタを提供した。トランプと言えば「メキシコ国境に壁」が有名だから、「嘆きの壁」の前で「これはメキシコが支払ったのかな」とつぶやくようなカリカチュアがたくさん出た。

今日はパレスティナのアッバス議長と会っていたし、5/24がローマ法王との会見だということで、「聖水をたっぷりふりかける必要がある」となどとからかわれている。(悪魔祓いという含意?)

翌25日がマクロン大統領との初の会食の予定。

これも、「マクロンの方がトランプよりも英語がうまい」などとからかわれている。

マクロンのフランス語の語彙の豊かさについては前に書いたが、確かに英語の語彙もトランプより豊富なことだろう。


韓国の新大統領も決まった。

「親北反日」だという形容も耳にしたけれど、この「半島危機」の時代に、「反日」だから気に入らないとかいうのは大局的に見ると優先事項ではない。

北と南が穏便な形で平和条約を締結して「朝鮮戦争」を終結させて南北を統一し、米軍が撤退すれば、中国も介入しないですみ日本の「危機」も回避できるというのが理想的なシナリオであることは自明だ。

南北統一が果たされて米軍と中国が矛先を納めさえすれば、核兵器があろうとなかろうと、維持する必要そのものがなくなる。


イスラエル、インド、パキスタンの核兵器の現実の方が危うい。

一番怖いのは自爆型テロリストに核兵器を奪われたり、原発に突っ込まれたりする可能性の方だ。

ドローン攻撃やサイバーテロのことを考えるとほんとうに真剣に対策を立てることは別にあるような気がする。

顔の見える国に対して「制裁、制裁」などと煽っている場合ではない。


生きている間に、イスラエルとパレスティナが互いを認め合い、スンニー派とシーア派が共存し、南北朝鮮が統一されるのを見たい。

いや、それよりも、今現在のベネズエラや南スーダンの内戦状態が気になるし、今週末から始まるラマダンも心配だ。ISはラマダンの期間(特に金曜)にジハードで殉教すれば天国直行とかまた宣伝するだろう。フランスでは昼が一番長くなる時期だからムスリムのつらさも目に見える。

木曜はキリストの被昇天祭だ。せっかく復活したイエスが、後を使徒たちに託して天に昇ったという日。そして翌日の金曜からラマダンが始まる。

(断食は土曜の朝から)


世界中の宗教者にはぜひ平和のために祈ってもらいたい。





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by mariastella | 2017-05-24 05:27 | 雑感

『Mommy/マミー』(グザヴィエ・ドラン)

Mommy/マミー』は、当時まだ25歳だったグザヴィエ・ドランカナダ映画(2014)カンヌ映画祭でグランプリを受賞した。基本的に批評家好みの映画。

最初にこれを観た時は、フランス語が聞き取れないので驚いた。カナダ映画ははじめて観るわけではないのに、フランスに来て最初の頃、映画のフランス語がとても聞き取りにくかったことを思い出して懐かしくなったくらいだ。

これは要するに、ケベック訛りというより、完全にケベック方言だからだ。

映画の最初に施設の人が母親役のアンヌ・ドルヴァルに話しかける言葉はよく分かる。つまり、「標準語」なのだ。

これまでケベックから来た人とも何度もフランス語で話したけれど、別に不自由は感じなかったのは、ちゃんと「標準語」を使っていてくれたからなのだ。

植民地でほど宗主国の言葉は古いままで維持されるというのはよく言われることだ。フランス語の「単純過去」は、もう普段の会話で使われないけれど、アルジェリアなどでは今も普通に使われていると聞いたことがある(それももう古い話だけど)。

今のフランス語では音便になってoiが「ゥワ」、aiが「エ」と発音されるのを、この映画ではオイとかアイとか二重母音が残っている。時々「by the way」など英語も混ざる。いわゆるクレオールというのとは少し違う。

私はフランス・バロックをやっているから、フランス語を17、8世紀風にはどう読むかはよく知っているが、それは「朗誦」の世界のことであって、ケベック方言しかも俗語、口語の世界だから歯が立たない。

私の周りには、かなり親しい人も含めてモントリオールとフランスを行き来しているカナダとフランス二重国籍の人が少なくない。だから、語彙の違いなどはよく知っている。例えばフランスの「昼食」というのはカナダの「朝食」、ディナーのディネが昼食で、夜食のスぺが夕食だ。英語の影響で最初がずれたのだろう。だから、この映画で夕方に「スぺの用意ができたよ」とかいうのはよく分かる

で、もちろん他のフランス人にも聞き取れないわけだから、ほとんどの場面にフランス語の字幕が入っている。といっても、訛りをとって書き起こすのではなくて、「訳している」ところも多い。でも、そのうちに癖が分かってきて聞き取れる分も多くなった。

で、これについて、監督のドランは、ケベック語を讃えるものだとはっきり言っている。

彼は何度も、ケベックは英語の大海に囲まれて非常なストレスにさらされてきたというのだ。

特に、男たちは400年間、「英語につぶされてきた(英語話者がボスであり資本家でありフランス語話者は使用人、労働者という格差)」、その中でフランス語を守ってきたのは女性で、1964年からの女性解放の運動はとてもラディカルなものだった、女性たちがカナダを引っ張っている、女性たちを通して、アメリカでもなくフランスでもないケベック、ケベック語を堂々と世界に配信したい、などと言う。

ベルギーにおけるフラマン語とフランス語の関係にも似ている。

いやー、上に書いたように、モントリオールの知り合いがたくさんいて、私がいつ行っても泊まるところもあるというのに、今までなんとなく、「モントリオールの人っていいなあ、みんなバイリンガルだし」、などと思っていたので、彼らのアイデンティティとしてのフランス語の重さがここまでだとは思っていなかった。

そんなことを聞くと、ナポレオンによってアメリカに売却された後のルイジアナの人々のことも想起される。

ケベックもルイジアナのようにフランス語を失っても不思議ではなかったのだなあ、と、ケベックの歴史をあらためて振り返る。

若いだけでなく童顔のグザヴィエ・ドランは10代くらいに見える。(父親がエジプト人のアーティストというのもおもしろい。ドランはフランス系の母の名前だそうだ。)

実際10代の頃に、シナリオを持ってアンヌ・ドルヴァルを訪ねて行ったらしい。

しかも、彼の映画に出る熟年の女優たちはまるでみな彼の魅力にとり憑かれたようなことを言っている。

『マミー』の後でカンヌでパルムドールをとった映画に出たナタリー・バイも同じ感じだ。

ベテランのスタッフやベテランの俳優たちに囲まれて天性のカリスマを発揮しながら皆の心をつかんで自分の権威を認めさせてしまうところは、なんだかマクロン新大統領のことを想起してしまう。

映像も音楽もすばらしいけれど、本人も言うように女性、特に「母親」に人生のすべての陰影を見て「家族」を強迫的に描いていくのは重い。その母に対峙するのが自分自身のような性的マイノリティや、多動障害の少年や余命を宣告された青年などなので、ますます重い。

『マミー』では子供を亡くしたショックで言語障害になって休職中の女性も出てくる。

一方で、ケベック語、ケベック方言などという以前に、すごい量で繰り出される卑俗な言葉や乱暴な言葉に圧倒されるので、無意識にバリアを張って観てしまい、どこにも自分の気持ちを投影できない

後に残るのは、新自由主義経済の爪痕の深刻さばかりだ。

映画なんて観ている場合じゃない、などと思ってしまう。



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by mariastella | 2017-05-24 00:04



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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