L'art de croire             竹下節子ブログ

<   2017年 07月 ( 32 )   > この月の画像一覧

北朝鮮と日米仏とシビリアン・コントロール

天木直人さんのブログで軍事のシビリアンコントロールについて考えさせられた。

 >>>たったいまNHKの正午のニュースが、岸田防衛大臣兼防衛大臣が記者団に対し、北朝鮮による今回の弾道ミサイルの発射を踏まえ、きょう30日午前、九州西方から朝鮮半島沖にかけての空域で、航空自衛隊とアメリカ空軍による共同訓練を実施したことを明らかにしたと報じた。(・・・)

  このタイミングで米軍と共同訓練することの危険性はあまりにも大きい。

 北朝鮮が繰り返し言い続けて来た事は、北朝鮮の目と鼻の先で米韓共同訓練をやめろということだ。

 挑発行為を繰り返すから、北朝鮮はミサイル実験を繰り返し、断固戦うという瀬戸際政策を取らざるを得ないのだ。

 米韓と北朝鮮は、あくまでも休戦状態でしかなく、依然として朝鮮戦争を戦っているのだから、米韓が共同軍事演習を重ねる事はまだ理解できる。

 しかし、憲法9条を持った日本が、米韓と北朝鮮の戦いに参加してどうする。

 この日米共同軍事演習は、日本が率先して北朝鮮との戦争に加わるようなものなのだ。

 その違憲性と危険性をいくら強調しても強調し過ぎる事はない。

 しかし、私が衝撃を受けたのはそれだけではない。

 この日米共同軍事演習が大臣不在で決定されたことだ。

 いうまでもなく岸田防衛大臣は防衛大臣になったばかりだ。

 日米共同軍事演習の決定が急に下されたなどという事はあり得ない。

 岸田外相が防衛大臣を兼任する前に決まっていたはずだ。

 防衛大臣を兼任したばなりの岸田大臣は、それを追認して発表したに過ぎない。

 そして2日前までは防衛大臣は稲田大臣だ。

 稲田大臣が防衛省の制服組から相手にされていなかった事は日報疑惑問題の迷走で明らかだ。 
  これを要するに、北朝鮮との戦争につながりかねない日米共同軍事演習の決定が、防衛大臣不在のまま米軍の命令で航空自衛隊との間で進められ、決定されていたと言う事である。

 これ以上ないシビリアンコントロールの逸脱だ。(・・・)

  日本は国民がコントロールできないところで戦争できる国になりつつある。

 はたして野党は8月初めにも行われる日報疑惑に関する国会閉会中審議で、この日米共同軍事演習に関するシビリアンコントロールの逸脱について追及するのだろうか。

 おそらく辞めた後の稲田前防衛相のウソ答弁の追及ばかりに終始するのではないか。

 もしそうだとしたら、この国の政治は国民を守る事は出来ないということだ。

 たとえ間違って野党が政権を取ったとしても、米軍の日本支配は何も変わらない、変えることは出来ない<<<<


というものだ。

これを読んで、まず、先日からのフランスでの大統領と参謀総長との確執、その中で、大統領が首相を通して任命した女性軍事大臣がほとんど一言も発しなかったこと、などの経緯とのあまりの違いに愕然とする。

日本の首相が防衛大学校の卒業式で自分が自衛隊のトップだと強調する姿とマクロンが「ぼくが一番」と肩をいからせる姿は少し似ているけれど、マクロンは少なくとも国民の直接選挙で選ばれている。

それでさえ、ド・ヴィリエ将軍は、文官による軍のコントロールは大統領の独断ではなく議会における討論を経るべきだと言っていた。

生きるか死ぬか、殺すか殺されるかのような「軍事」に関する決定は、まさに人の「命」にかかわるものだから、慎重すぎるほど慎重にしても、ある意味で「瀆聖」である、という直感は、遠くから手を汚さずに司令する人にではなく現場にいる人にこそ働くものだろう。

それに対して、いくら自衛隊は軍隊でないとか戦闘には関わらないとか言っても、アフリカに派遣されたり軍事演習に参加したりする時点で、「自衛隊のトップ」の文官である首相が、ここまで「不在感を隠さない」というのは、例の「日本は主権国ではない」説を裏付けるものなのだろうか。

ネットで読んでいる週刊誌の記事にはこういうものがあった。

週刊新潮8/3号の宮家邦彦さんの『国際問題--鳥の目 虫の目 魚の目』というコラムだ。

彼は、自衛隊派遣現場の日誌など、もともと非公開の性格の情報を公開しないものは必ずしも「隠蔽」ではない、としたうえで、

「文民たる政治家が軍隊を統制することであり、軍事に対する政治の優先を意味する」

という「シビリアンコントロール」の定義に注釈をつける。

>>>真の文民統制とは、防衛省内局を含む文民が自衛隊の一挙手一投足を管理することではなく、自衛官(軍人)に政治責任を負わせてはならないということ。<<<

というのだ。

フランスの場合は、フランス政府の政治的判断による広域派兵に対して圧倒的に予算が足りていない現状に対して参謀総長が異議を唱えたことで大統領と衝突した。

日本とはいろいろな意味でまったく事情は違うけれど、共通しているのは、どの国の政府も、基本は、シビリアンコントロールによって「軍を管理」するのでなく「危機の管理」を優先させるべきだということだろう。

グローバルな時代のリスク・マネージメントは複合的だ。

核兵器を開発して人類を全滅させる潜在力が生まれたり、核エネルギーで地球全体の環境を破壊したり、と、リスクは、昔は考えられなかったような超複雑系になっている。

もはや、「一国の主権が隣国に脅かされる」、などといったナショナルな視座に立ってだけで判断できるようなものではない。

どんなに頭のいいエリートのリーダーがいても、すべてをカバーできない。

歴史学、地政学、経済学、自然科学、社会学を超えたグローバルな集合知が必要とされる。

一人ひとり、あるいは一国、一地域のエゴのレベルの危機管理はもはや意味がないのだ。

でも、今の時代だからこそ、IT技術を介した「正しい(つまりすべての人の尊厳を個々の共同体の利権より優先する)集合知」を築いていける可能性もないではない。

早い話、私がもしも、わずか100年とか150年前に日本の女性として生まれていたら、自分の家族とかご近所とか世間さま以上のものに目を向けていただろうか?

いや、50年前でも、ヨーロッパの情報など「教科書」程度しか知らなかったし、フランスに来たら来たで、日本の情報にうとくなったので、全体の相関性がうまくつかめなかった。だから、むしろ歴史や文献をさかのぼって、「特殊の中の普遍」をさかのぼるような形で比較文化史や宗教史を研究してきたのだ。

でも今は、国立図書館の膨大な資料も、主要大学の博士論文や学術雑誌の論文も、その解説も、毎日の各国ニュースや雑誌記事や市井の人々の反応まで自宅のパソコンの中で読める。

毎日毎日、入ってくるさまざまな情報を「グローバルな危機管理」に向けた有機的な集合知の形成というベクトルをもって篩にかけることも可能だ。

「正しい集合知」の形成がどこれからの世界のような展開を見せるのか、知的な興奮をかきたてられる。

そのためには長生きしたいが、地球にも、長生きしてほしい。


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by mariastella | 2017-07-31 00:44 | 雑感

スウェーデンのカトリックと移民、難民  その1

スウェーデンのストックホルムのカトリック大司教が6月末にローマ教皇から「枢機卿」に任命された。次の教皇を選ぶ選挙権もある枢機卿はカトリック行政の上では教皇の下の最高位だ。(霊的にはすべての司祭の上に上下関係はない)

ヨーロッパの国の首都の大司教なら枢機卿になるのも順当に思えるかもしれないが、実は、スウェーデンでは初めてのことだ。

なぜなら、スウェーデンはいわゆるプロテスタント国で、カトリックは人口の2%というマイナーな国だからである。

スウェーデンの宗教などについてはここで書いている

しかも、67歳のアンダース大司教、

カトリックには20歳で改宗した人で、


元カルメル会の修道士で、


プロテスタント改革以来、はじめてのスウェーデン人司教(それまではドイツ人やポーランド人が任命されていた)だという。

なるほど。


日本のカトリックもスウェーデンよりさらにマイノリティで、昔は外国人司教ばかりだったけれど、戦中の国策ですべての外国籍司教が辞任して日本人司教に代わっていった経緯がある。20世紀の世界大戦で中立国だったスウェーデンではそういうナショナリズムはなかったのだろう。


アンダース大司教と共に枢機卿に任命された他の4人のうちの2 人もマリとラオスという「非カトリック国」の人であることも、カトリックは「カトリック教会」にとっての辺境や周辺地域でこそ仕えなくてはならないという今の教皇の方針を反映しているのだろう。

で、もっと驚いたのは、ルター派の福音ルーテル教会をスウェーデン国教会としているバリバリのプロテスタント国だと思っていたスウェーデンが、実は、今は世界でも有数の非宗教、非信心国であるという話だ。多くの国民は「キリスト教」が何であるかも漠然としか分かっていない完全な「ポスト・キリスト教」社会なのだそうだ。(宗教帰属意識が低いと言われる日本人にとって冠婚葬祭から初詣や各種の祭りなどけっこう「信心」行為のハードルが低いのと比べ物にならないようだ)

で、もっと驚いたのはそんなスウェーデンで、カトリックが今人気になりつつあるという話だ。プロテスタント離れしてしまったので、過去にあったアンチ・カトリックの偏見はほぼ消えてしまった。それどころか、今は注目されている。

それは「スウェーデン国教会」に対してカトリックが超国家的でユニヴァーサルだということで、スウェーデン内のいかなる共同体よりも、カトリック共同体は文化的にも民族的にも多様性があるからだという。

国教会に集まる「信者」は、人種的にも世代的にも社会的にも似たような人たちだが、カトリック教会に集まる「信者」は100以上の国籍が共存していて、多くの移民がいる。

そういえば、スウェーデンと言えば、2013年にシリアからの難民を制限なくすべて受け入れると宣言していた。今や国民の5人の1人は外国生まれだともいう。

ラテン系や旧植民地国も多く人種の混ざり具合が大きいフランスなどと違って、金髪碧眼率の高い北欧諸国では中東やアフリカの難民、移民は目立ちすぎて同化できないんじゃないかとか、カトリック教会が勢力拡大に移民を利用しているんじゃないか(ベルリンの例など)などというこれまでにも書いてきた私のゲスの勘繰りは、ほんとうに、ただゲスなだけなんだろうか…(続く)


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by mariastella | 2017-07-30 01:10 | 宗教

「疑問票」の不思議

(今、取り込み中と移動中なので、「続きモノ」は後日再開します)

奈良市長選で、「疑問票」の取り扱いを巡って論議になっているという記事を読んだ。「疑問票」とは誤字脱字などを理由に、精査してから数え直す票だそうで、「今回の選挙では「仲」の字をにんべんのない「中」と書き間違えるなど仲川市長の疑問票が多くあり、これが勝敗の行方に大きく関わったというのです。有効・無効の基準を示したマニュアルには、ひらがな表記などについては明記されていますが、漢字の間違いについては記載がありません。」という。

前にも、同じような疑問票についての記事を読んだことがあり、その度に驚く。

フランスの選挙では、字を書かせるということがないからだ。

事前に登録済みの有権者の自宅に、候補者の紹介(マニフェストなど)と、投票紙(すでに名前や所属が印刷されてある)が届く。当日はその中の一枚を持って行ってもいいし、手ぶらで行っても、すべての候補者の用紙が投票所に積んであるので、みんな、誰に投票するか分からないように全部なり、何枚かなりを取り上げて、カーテンに仕切られた場所で選んだ候補者の名がある紙を封筒に入れてから、投票する。余った紙をその場でくず箱に捨てる人もいるし持ち帰る人もいる。

封筒に敢えて何も入れないとか、自分で他の名を書いた紙や白紙を入れるという「無効票」や「白紙投票」もやろうと思えばもちろん可能だ。

フランス人は悪筆だということももちろんあるし、候補者には外国起源の名も多いから綴りを間違える可能性も、日本で日本人の候補者の名前を書くよりもずっと多いのだろう。

フランスが何十年もこうやっているのだから、日本がコストや技術の関係で印刷済みの投票用紙を選ぶというシステムができないわけがない。識字率が高いからなのかなあ、と思ってネットで少し検索したら、《国政選挙で「手書き(自書式)」の投票を採用しているのは、 ほぼ日本だけだ》、というのが出てきた。

日本の投票率が低いというのはよく聞くし、選挙権を引き下げて若者に主権者意識を持たせて、とかいうのも聞くし、最近は、「LDP(自民党)新潟政治学校第2期生募集中。政治は オトコの身だしなみ。」なんていう驚きのツイッターも話題になっていた。

「手書き」っていうことが、どこかで無意識のハードルになっているのじゃないかと思ってしまう。

日本って、何かと言うと「外国では」みたいなのに「横に倣え」するのにどうしてだろう。

Wikiでは、記号式投票だとリストに並ぶ順に左右されるデメリットがあるとあったけれど、フランス式ならリストにチェックを入れるのではなくて、各候補者に一枚ずつ用紙があるので、順番は関係がない。

しかも、日本では、「1994公職選挙法改正により一旦は国政選挙における記号式が採用されたが、一度も国政選挙が行われないまま、翌1995に自書式に戻された」とあった。

誰のどういう思惑が働いているのだろう、と思ってしまう。


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by mariastella | 2017-07-29 01:40 | 雑感

地球のために何ができる? 3

承前

さて、『ラ・デクロワッサンス』紙の記事。

見出しは「エリザベト・バダンテール  システムの哲学者」というものだ。

フィガロ紙のジャーナリストのウージェニー・バスティエはカトリック系エコロジー雑誌『リミット』の主幹でもあるが、自著の中でデクロワッサンス(つまり成長の反対の縮小)主義の先駆者でもあるクリストフ・ラッシュを引用して、フェミニズム運動が資本主義に汚染され、広告産業のようにスローガンを選択していると述べている。同書の中でバスティエ女史はバダンテールも称賛しているのだが、そのバダンテールは「女性をモノ化(疎外)しているのは広告ではない、私は広告が好きだ」と『パリジャン』紙で語ったことがあるという。

つまり、バスティエ女史は、成長戦略に異を唱えながら、バダンテールを称揚することでメディアの金権体質の中にある。

『ラ・デクロワッサンス』紙は消費者に無駄な欲望をかきたてる広告業界を徹底的に告発する立場に立つ。だから、広告代理店大手のピュブリシスの資本の10%を所有して10億ドル以上の資産を持つバダンテールは完全に新自由主義経済のシステムの内側の立場だというわけだ。

そして、ほとんどのメディアは広告収入で成り立っているから、バダンテールを批判することは絶対になく、メディアの調査する「フランス人の好きな知識人」の上位にはいつもバダンテール女史が来るというのだ。

「金持ちの味方」という視点でバダンテールを見れば、2011年にDSKNYのホテルで黒人メイドからセクハラ告発された当時のIMFトップ)を擁護したことも、売春や代理出産の合法化支持(女性の体の使い方を国が管理するべきではない)も、「貧しい女性」の側に立つものではなく、フェミニズムは新自由主義経済推進のツールでしかない、という。

バダンテールが女性の育児を効率化するために粉ミルクや使い捨てオムツを推進し、母乳育児の推奨は女性を20世紀初めのように家庭に閉じ込める退行だと主張するのも、エコロジーに真っ向から反している、とする。

うーん。

確かに、昔は、使い捨てといっても布のおむつカバーの中にナプキン型の紙おむつを当てるというのもあったけれど、今のフランスはすべてが前も後ろも可愛いプリント柄のついた完全な紙おむつしか見かけない。

エコロジー系や仏教系フェスティバルでは地球にやさしい布おむつのスタンドが出ているけれど。(カトリックはフランシスコ教皇がエコロジーを重要テーマとしているのだけれど、フランスのブルジョワ・カトリックでは、布おむつ系を推奨する人に会ったことがない)

私は「広告」を見て新しいものにとびつく方ではないけれど、「広告」のランガージュと現代美術の関係などには非常に興味がある。

そして「広告」が金になる社会では多くのすぐれた才能が「広告」業界に向かうので、ますます面白い「作品」が生まれる。同時に、そういうすぐれた才能も往々にして「使い捨てられる」もので、巨大な新自由主義経済の中で押しつぶされるか消費されつくすことがほとんどであることも分かっている。

でも、バダンテール女史が言っていることやこれまで言ってきたことは、そういう搾取者側に立つに自分に利益誘導するようなものではない。すでにすべてを持っている人だからこそ、正論を口にすることもできる。

彼女が紙おむつを勧める時、紙おむつの広告収入のことなど考えていないのは明らかだ。紙おむつが使い捨てられる「環境汚染」だって、そうでない場合のいろいろなメリットとデメリットを全部検討したら、総合的に最悪の選択ではないかもしれない。

でも、強者の個人情報が簡単に拡散されてしまう今の世の中、社会的強者(被害者、犠牲者ではない人)の正論は、いろいろなバイアスによって歪められてしまう。

「エリート」に対する単純で根拠のない偏見ほど自然で正しくに感じられるほどだ。

そのことを痛感しているので、私はあまり大きな声で正論を言いたくない。

「そういうお前はどうなんだ」

とつっこまれたくないからだ。

最近、例のオジャランのフェミニズムについて私が知るきっかけとなった藤永茂さんのブログでこういう記事を読んだ。


>>>ヤズディ教徒のクルド人に伝染したように、オジャバ革命の理念がイラク北部のクルド自治地域のクルド人たちの間にも広がって、現在のトルコ、シリア、イラク、イランの国境線がそのままに保たれたまま、三千万人を数える世界最大の少数民族クルド人が多数派住民である平和共存の広大な地域が中東に出現して、そのついでに、世界核戦争の危険性も次第に消えてゆく、これが私の大きな夢です。
**********
 確かに、これは大きな夢です。この夢の前に立ちはだかる高い障壁の数々が、ISの首都ラッカの陥落の後に、具体的な形をとって、我々の前にその姿を現すでしょう。とりわけ、ロジャバのクルド人たち、トルコのクルド人たちの苦難は深刻さを増すばかりでしょう。リビングルームのソファに座ったままでロジャバ革命に声援を送っている私のような人間はどうすればよいのか?<<<

藤永さんのような方が「リビングルームのソファに座ったままでロジャバ革命に声援を送っている私のような人間」とおっしゃっているのだ!

90歳の藤永先生が、ぶれることなく被抑圧者の側に立って情報を発信していてくださるから、それに反応して動く人だってきっといる。

夢を伝える、意識を変える、教育する、という使命を持っている方がいてこそだ。

では、私も「地球のために何かする」ために「リビングルーム革命」を目指せばいいのだろうか?

罪悪感を払拭してくれる答えは別のところから来た。(続く)


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by mariastella | 2017-07-28 00:13 | 雑感

クリストファー・ノーラン『ダンケルク』

ここのところ、フランス映画2本、ドイツ映画1本を観たのだけれど、うーん、なかなか末梢神経をくすぐられるところはあったけれど、真剣に映画評を書く気になれなかった。

結局、一番印象的だったのが、国籍も米仏英蘭とマルチなブロックバスター映画で、クリストファー・ノーランの『ダンケルク』だった。

そのスケールはまさにハリウッド映画だが、そのエスプリは完全にイギリス映画。

戦争映画など大嫌いな私が行こうと思ったくらいだから、まず、音や迫力はすごいけれど、いわゆる手足が吹っ飛ぶ的な残虐映像はない。

もちろん多くの戦死者が出ているのだが、殺されて死ぬときは、多分攻撃する方も、「無名」、「匿名」性が高くて、モノのようにコトが過ぎる。

けれども、救う時、救われる時は、ヒトであり、命であり、「関り」が生まれる。

この映画の死の中でただひとつ人や思いや関係性のもとに描かれるのは、軍服でなくセーターを着た17歳の少年の死だ。

敵によってはでなく父親の船の中での小競り合いで打ちどころが悪くて死んだ。

最後にこの少年の「死」が「英雄」として地元紙に掲載されるのも皮肉だ。

全部が、戦争の不条理につながっていて、よくできた戦争映画というのはすべて反戦映画になっているなあと思う。

といっても、フランス人からは、イギリスのナショナリズムに不快を感じたり、このダンケルク救出作戦「ダイナモ」で、フランス軍が果たした役割を無視しているという不満も出た。

7/17のル・モンド紙で4万人のフランス人に失礼だというコメントがあったのがイギリスでも掲載されて、イギリスの歴史学者マックス・ヘイスティングスという人が、ノーランは自分の解釈で自分の描き方をする権利がある、スピルバーグの映画がアメリカ的であるようにこの映画はイギリス的であるだけだ、と言ったそうだ。

といっても、スピルバーグ映画の方が、アメリカ的というより、インタナショナルなマーケットを意識して政治的公正が加味されているようにも思えるのに対して、このノーランの映画は、フランス市場なんて気にしていないのがよく分かるのだけれど。

「敵」であるドイツ軍は「飛行機」の姿以外ほとんど現れない。最後に英軍パイロットが多分捕虜になる時に現れるだけだ。この戦いで実際に捕虜になった英軍兵士はポーランドの強制収容所に連れていかれて働かされたという。

でも「敵」がドイツ、という単純な二元論でなく、ひとりひとりが果たしてサバイバルできるかどうかという運命と向かい合っているように描かれているところがエレガントと言えばいえる。

映画の「国籍」に入っているオランダ人もフランス人も一人ずつ登場する。でもオランダ人はドイツ人と間違われて、必死に自分はオランダ人だといい仲間に入れてもらい、フランス人の方もドイツ人のなりすましだと疑われて、イギリス人から「ギブソン(だったか?)と発音して見ろ、ドイツ人ならなまりがある」と迫られて窮し、結局はフロッグ・イーターのフランス人だと白状させられる。

でも、生きるか死ぬかの仕分けではスコットランド人でも微妙に差別されているので、同盟国同士でも差別があったのは当然なのかもしれない。

ここに出てくるイギリス人兵士はまったくアングロサクソンの若者たちという感じだ。イギリス軍は共同体社会だから、インド系はインド系の部隊というようにはっきり分かれていたようだ。

でも、実際は、フランス人かドイツ人かオランダ人かは外見では確実に判別できないわけで、話させて訛りでテストされるなど、なんだか日本でもあったような話で気分が悪くなる。こういう局面においては、「母語」がナショナリズムの判定になるのだなあ。

私は実はダンケルクにちょっとした縁があるのでそれもこの映画を観に行った理由の一つだけれど、それにしても、1940年の5/26-6/4に展開されたというこのダイナモ作戦が、イギリス側で「ダンケルクの奇跡」と呼ばれ、「英雄」物語になっているのは、政治的判断とはいえ確かに不自然な部分はある。


ドイツ軍に追い詰められたイギリス軍にはもう戦うことも勝つことも不可能だった。前が海で退却も不可能だった。けれどもチャーチルには「降伏」という文字はなかったので、「救出」しかなかったのだ。

でも軍を回す余裕はなかった。

で、民間の船に呼びかけて、市井の人々が自分たちの船で英仏海峡を渡ったのだ。奇跡的だったのはむしろ好天に恵まれたことの方だったらしい。

40万人近くが追いつめられていたのを、イギリス軍が救えるのはせいぜい3,4万人の見通しだったのだけれど、結果として、民間の何百艘という船が応えたこともあって、338226人が救出された。

イギリスについて列車に乗ると、兵士たちはブラボーと歓呼の声で迎えられ、英雄扱いされる。「おれは生きのびただけだ」と、彼らは思うのだが、この「帰還」を作戦が成功した「凱旋」のように報道するのはもちろん政府の判断だった。


確かに、すごい犠牲を払って救出することが「勝利」なのだったら、最初から戦地へ送らなければ ? などと思われるとまずいから、「英雄譚」を創ることが必要だったのだろう。

戦争映画が苦手な私でもストーリーを追えるのは、陸・海・空からの話の展開を細切れにしてつなげているサスペンスがよくできているからだ。しかも、同じ割合で挿入される陸・海・空の時間の流れが、浜で救出を待つ疲弊した兵士の大群の一週間、海を渡ってダンケルクに向かう初老の男(長男は参戦して三週間で戦死した)と二人の若者の一日、そして戦闘機で勇敢に戦うパイロットの一時間、と三通りの密度で組み合わせるというテクニックがほどこされている。

空からの映像がすばらしく、息をのむほど美しい。実際にコックピットにIMAXカメラを取りつけたそうだ。船底で溺れそうになったりする映像とのコントラストが強烈だ。

浜で列を作る軍服の大群の後で、ネクタイさえしめて自分の船を操縦する男の姿が新鮮だし、たった一人で戦うパイロットの孤独も胸を打つ。(6月末のパーティで、制服姿の空軍のパイロットと話をしたばかりだったので、あらためて、今ここにある戦争のことも考えさせられた。)

この映画を観た97歳のイギリス人元兵士は、当時20歳で、まったくこの通りだった、と語った。そしてその夜、泣いたと言った。77年経っても、地球に平和が来ていない、人が人を殺し合う愚かさから脱していないことが悲しい、という。

確かに、この映画では、爆弾や銃弾の命中率がそんなに高くない。

今の高性能ミサイルだの無人爆撃機だのの時代の戦争ならもっと容赦ない非人間的なものになっているのだろう。

そして、攻撃すること、殺すことの効率や技術は高まっても、「救う」ことの技術は今も昔も、「人間的」でしかないのだろうなあと思う。

このダイナモ作戦の「成功」は、19406月4日

映画の終わりに司令官は、自分はダンケルクに残る、まだフランス人を助けなくてはならないから、とかっこいいことをいう。

でも、6月22日に独仏休戦協定が結ばれて、ダンケルクもパリも、ドイツ占領下に置かれることになった。

連合軍のノルマンディ上陸作戦は、それから4年後のことだった。

ダンケルクはノルマンディではない。

日本人の目から見ると、やはりイギリスって島国だから、もちろんドイツ軍の絨毯爆撃を受けたにせよ、ある意味で「大陸」の戦争からは「要塞」のような位置にあるなあと思った。そして、日本が南洋などで取り残された日本軍を救出に行かなかったのか行けなかったかに比べたら、やはり、「救出」するというのは「殺す」という戦争のベクトルと逆であって推奨すべきことであり、生き延びたことは「ブラボー」に値するのだなあとすなおに思う。

そして、何よりも、この二度の大戦でぼろぼろになったヨーロッパが、EUとなって互いの間の戦争を放棄したことの貴重な意味を考える。Brexitとか言っても、もう独仏英が殺し合うことは考えられない。

この「殺し合うことがもう考えられない」ということが、つい80年前には考えられなかったのだ。


この映画を観たら、やはり日本は今のままの「憲法九条」を掲げるのが最良の道だと思えてくる。互いに顔も見えない相手と殺し合うなんて、いったいどうしてそんな事態に陥ってしまうのか、そしていったん歴史がそちらの方に傾いたら、大きな車輪が回り始めてすべてを押しつぶしていく。

兵士たちはみな、若い。

若者を戦場に送ってはいけない、

それがたとえ「聖戦」と呼ばれていても。


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by mariastella | 2017-07-27 02:58 | 映画

地球のために何ができる? 2

承前


エリザベト・バダンテールはアングロサクソン型の男女同等、犠牲者主義(男は敵で女は被害者)、クォータ制、逆差別推進というタイプのフェミニストではなく、人類は皆自由と平等だというフランス型普遍主義のフェミニストだ。すべての人が人間としての尊厳を損なわれないで生きていけるための戦いの一環としてだけフェミニズムも現れてくる。

私はそういうフレンチ・フェミニズムの支持者だ。

「男と同じようになる」とか「男に勝つ」とか「男を敵にする」という二元論的闘争は苦手だ。でも、「男と戦う」のでなく「自由のために戦う」女性を見るのは好きだ。オジャランのロジャヴァ革命の理論やクルドの女性戦士なんてぞくぞくする。

ずいぶん前に女性編集者から「竹下さんのフェミニズム論を読んでみたい」と言われた時には意外な気がした。

私はすでに、アングロサクソン風フェミニズムの裏返しである恩恵ばかり受けてきた人間なのでそのことが後ろめたかったからだ。

詳しいことは書かないが、要するに、ただ、これまで甘やかされ放題で生きてきたということだ。まともに振り返れば、ほとんどアベル症候群になってもよさそうなくらいだ。

(アベル症候群を説明するのに、今、日本語で検索したらこういう論文〈天理大学カウンセリングルーム紀要 第 l巻 2004 共感との関連からみた罪悪感:発達的観点から〉というのが出てきたので該当部分をコピーする。)

>>>>富裕の罪悪感  他人と比較して自分が恵まれた幸せな境遇にいることを自覚することで生じる罪悪感である。 1960年代の有産階級出身の若者を社会運動に駆り立てた動機がこの富裕の罪悪感であったと Hoffmanは考えている 。社会経済学的にいえば、それは「階級的罪悪感」ともいえる。これは共感の最終段階である「目前状況を超え出た視点からの共苦を基盤に形成される発達的に上位段階での罪悪感である。しかし、時代、地域といった文化的影響を受けやすく、現在では目にする 機会が減ったと述べている 類似の現象については、 Modell(1984, chap. 5)が論じている 。この種の罪悪感の背後には、 「自分が何か良いものを手に入れることは、他の誰かが剥奪されることを意味する」 p75)という空想が伺えるという。(註九

Ellenberger (1954)は、この種の罪悪感を「アベル症候群」と呼び、その心理的構成要素に ついて、論じている 。アベル症候群のひととは、「運命に甘やかされた人」で、「他人より幸福 なのを自覚して、漠然とした罪業感を覚え、他人のやっかみを感じているが、十分な自己防衛はきていない人」(p306)である 。アベル症候群は、「(1)幸運と、(2)その結果としての漠然と した罪業感と、(3)羨望の的となっている事実と、(4)不十分な自己肯定感(p307)とから構成されているという <<<<

私の「幸運」は、平和な時代に豊かな国に生まれて育ってきたこともあるが、その中には、たまたま「女の子」だったからすべてが許されてきたというのも含まれていたので、犠牲者主義のフェミニズムに対しても罪悪感があったのだ。

飢えで死んでいくソマリアの子供たちとか、ナパーム弾で焼かれるベトナムの子供たちとか、ありとあらゆるこの世の不幸と不条理は子供の頃から耳にし目にしてきた。フランスでは知識人がアンガージュマンを、と言って、ラテン・アメリカのゲリラに加わったりスペイン戦争やらに参加したりしていた時代だった。

でもフレンチ・フェミニズムは犠牲者主義ではなく、男たちとも連帯して「人間」を扱ったものだったから、私にはハードルが高くなかった。

その第一の論客がエリザベト・バダンテールだったのだ。

しかも彼女はシンプルでエレガントで、知的で堂々としていてすてきだった。

夫君のロベール・バダンテールと同じ理念と志をもって歩んでいるところも理想的だった。それ以上のプライバシーには興味がなかった。

ところが、ある時、彼女が自分には3人の子がいて孫たちもいる、とインタビューに答えた時、なんだか裏切られたような気がしたのには自分でも驚いた。

少し調べると、パリの一等地のすばらしいアパルトマンに住んでいて、世界有数のの広告代理店の創業者の孫で大株主だということも知った。

それ以来、彼女がどんなに弱者の側に立って社会正義のために正論を言っても、失業中のシングルマザーやDVを受けて子供と非難している女性などの苦境にほんとうに共感できるのだろうか、愛も家族も金も知性も地位も権力もすべて持っている「あんたに言われたくない」と思われないだろうか、などと違和感を感じるようになったのだ。

一方で、民衆が立ち上がったフランス革命の理論的支柱となったのは、啓蒙の世紀の貴族や聖職者の知識人たちである。ほんとうに虐待されたり奴隷状態にあったりする人はその日のサバイバル以上のことは考えられない。生活に困っていない人だけが、広く他者に目を向けることができる、と言うのは真実だとも思った。

目を向けるだけでなく、フランスの大貴族のラ・ファイエット侯爵が自費でアメリカに渡って独立戦争を助けたように、身の危険を冒してでも遠くにいる他者の支援に駆けつける人も実際にいた。

恵まれた環境でぬくぬくしているのではなく積極的に「行動」を起こす人もいるわけだ。日本でなら、先ごろ亡くなった犬養道子さんのような人も思い浮かぶ。「おじょうさま」で特権もあり知名度も人脈もある人が、貧しい子供たちに出会ってから人道支援、難民救済に尽くした。

弱者に寄り添うために同じ弱者である必要はない。ビル・ゲイツだってメリンダ夫人(カトリック)と共に、世界最大の慈善基金財団を創って実際に「現地」へ足を運び続けている。

そうは思っても、バダンテールでもなく犬養さんでもなくビル・ゲイツでもなく、ただ親や周囲の人に甘やかされてきたというだけでチキンな私が、いくら世界の不公正に義憤を覚えても、地球の環境悪化や温暖化に危機を感じても、何もできないし何もやらない日常は変わらない。資源ゴミをリサイクルして、多少は省エネを心がけたしたとしても、原発依存国フランスで電気をたくさん使って不自由なく暮らしている事実は変わらないのだ。

私は『ラ・デクロワッサンス』のようなメディアから叩かれるような有名人ではもちろんないから、それでも、ひっそり偽善的に生きていける。いや、この新聞を買うだけで、多少の「償い」感を得させてもらっているくらいだ。

で、バダンテール女史はいったいそこでなんと言われて叩かれているのだろうか ?

おそるおそる読んでみると・・・


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by mariastella | 2017-07-26 06:18 | フェミニズム

地球のために何ができる? 1

La Décroissance という月刊新聞を私は時々購入することで応援している。


デクロワサンスというのは成長の反対で、衰退とか退行と解釈されがちだけれど、別に「昔に戻れ」と言っているわけではなく、「成長路線」を唯一善とするような世の中を批判して、別の道を歩もうというエコロジー新聞だ。

すべての「広告」に反対するというのがポリシー(主幹は元広告業界のアートディレクターだった人だがラディカルに反広告エコロジストになった)だから、全く広告収入がないので割高だけれど、存在し続けてほしい媒体なので時々買っている。


7-8月合併号の記事はとても参考になった。

私はどちらかと言うと、ディープ・エコロジストが苦手だ。

絶対菜食主義も、絶対殺生禁止も、「絶対」とつくものは警戒してしまう。

けれども、環境問題は科学とテクノロジーによって、言い換えれば「経済成長」によって必ず解決策を生み出せる、というタイプのエコロジーはうさん臭いとは思う。


原子力発電はCO2を排出しないクリアなエネルギーだという宣伝と同じで、巨大企業の利権や政治があまりにも透けて見えるからだ。

今回の記事は、環境問題に対して「成長による解決(要するに金による解決)」という積極的発言をする人たちの論点を一望にできるようにまとめてくれているのでなかなか役に立つ。

今の大統領や環境相も、極右ルペンも極左メランションも、「パリ協定」は今や」「国是」みたいなものだから、「エコロジー」「地球を救う」ということ自体は全員が口をそろえて言っている。

けれども、科学の力で、走れば走るほど空気をきれいにする自動車を開発するといった類のビジョンは、ロボットが進化すれば人間は苦しい労働から解放される、というたぐいのものと同じで、そもそも、なぜ、今のような環境危機を招く事態になるような方向で科学技術に予算が与えられてきたのかという根本的な問いがすっぽり抜けている。


技術の発展と環境保護は両立できるんですよ、という幻想には明らかにごまかしがある。


とはいえ、私など、

すでにいろいろなレベルで「洗脳」されてしまっている上に、

日常生活のレベルで自分も十分テクノロジーの恩恵を受けているからなあ、

テクノロジーがいまさら後戻りしてもらっては不便で困る、

私は自然の中でサバイバルなどと縁の遠い人間だし…

などという「共犯意識」が働くので、多分正論であろうこの新聞の過激な記事には、なるほどと思っても腰が引けてシニカルにながめることの方が多かった。

時々自分の罪悪感を確認することで、良心の呵責を弱めていただけなのかもしれない。

でも、今回の号で、そうそうたる論客たちが堂々と「テクノロジー」による「成長」によって環境汚染や温暖化などを克服できるという楽観主義をそろって開陳しているのを読むと、それがあまりにも説得力があるので、かえって、欺瞞点が見えてくる。

ところが、私の信頼するエリザベト・バダンテールの偽善が身も蓋もなく論じられているのには複雑な気がしてしまった。(続く)


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by mariastella | 2017-07-25 03:45 | 雑感

女性の罵詈雑言

何だか最近の日本で話題になっている女性議員の「罵詈雑言」についての意見を求められた。


私は、今はネットでの日本の雑誌配信サービスを利用できるのでこの話は週刊誌の記事ですでに知っていた。意見を求められたのでネットで録音をちらっと聞いてみた。

感想は…通り一遍に言われていること以上のものはない。

本人も含め関係者全員、お気の毒にと思うばかりだ。

思わないのは、「誰にでもこういうことを思うことはあり得るし時と場合によっては口にだってしかねない」というタイプの反応だ。

前にも舛添さんのことで書いたけれど、私は、他の人のどんなスキャンダルや隠していた「不都合なこと」が露にされてバッシングされても、たいていは身につまされる。

嘘も、裏切りも、使い込みも、身内びいきも、保身も、忖度も、ごますりも、程度の差こそあれ、いかにも自分でもしそうなことだったり、してきたことだったりだからだ。

また、今までにしてはいないしこれからも多分する機会はないにせよ、時代の流れや状況によって、また群集心理や恐怖やパニックにとらわれれば、弱者の虐待やら差別やらホロコーストへの加担や密告や、拷問や死に通ずるボタンを押すなどと恐ろしいことも、自分なら絶対にしないなどという自信はまったくない。

私は多分単独のすごい「ワル」ではないけれど、みんながやっているなら「石打ち刑」にでも参加しそうな危うさがあることを自覚する程度の良心はある。

その私が、「絶対にしない」というか「できない」と思うのが、罵詈雑言を口にするということなのだ。

多分、幼い頃に「禁忌」とされた言葉にはブロックがかかって、よほどの「治療」でも施さない限り音声言語化できないのだと思う。

私に関して言うと、多分戦争体験のトラウマなんだと思うけれど、いつも優しくて何でも好きなことをさせてくれた実家の母から、「死ぬ、死ね。殺す、」などの言葉には耐えられないから絶対に口にするな、とそれは真剣に訴えられた。

多分きょうだいげんかをしていて、それに類した言葉を兄や私が発していたのだろう。母は血相を変えて禁じた。その母の顔を私は今も覚えている。

だから私は、そのたぐいの言葉を、単独で発するということができない

「日本、死ね」とかいうようなネット語も、多分書けないし、誰かに憎しみを抱いたとしても、頭の中でさえその種の言葉を罵詈として形成できない。今回の女性の発したような言葉はどれも、私の口にできる語彙にない。

フランス語の方が若干、「ダメだろ、おい、」みたいな感じの口調はブロックされていないので口に出せるけれど、いわゆる汚言は、誰でも気軽に口にするようなものでも相当な決意がないと口にできないし、頭にも浮かばない。でもこれは幼い時の母の表情や真剣さとはセットになっていないから、無理をすれば出てくる。

けれども、フランスの子供でも、その言葉を小さい頃から禁じられており、家庭では絶対に耳にしない環境で育った場合に、学生になってから仲間といてハンディキャップになるほどに「口にすることが不可能になる」場合がある。それを「言わない」のではなく「言えない」ということが周囲にばれると揶揄されたりハラスメントを受けたりする可能性もあるので細心の注意を払うという。大人になってしまえば、汚言を口にできなくても別に深刻なハンディとはならない。

今度の罵詈雑言事件で、ある女性作家が自分は18歳までずっと母親からそのような暴言を浴びせられ続けてきた、とブログで書いていたのを目にした。よく耐えてきたものだと思う、と言う。

「汚言を口にするな」という母からの禁忌がこれだけ功を奏するのだから、暴言というDVを親から受けてきた人がそこから回復するのは大変な困難だろう、と思う。

今回の女性がどういう経緯でそういう言葉を口にできるのか私には分からない。議会で飛び交うヤジでさえ、私にはハードルが高い。

これは人格の高さとかとかは関係ない。

前述したように、どんな嘘やごまかしや背信だって私には多少の身の覚えがあるし、それに類したことをしないなどという自信は毛頭ないからだ。

ただ、ジル・ド・ラ・トゥーレット症候群のことを考えた。

長い間「悪魔就き」の典型的な症状のように思われていた時代もあった。「汚言症」というチックの一種で神経障害の難病だ。そうなると、普段口にするはずのない罵詈雑言や本人が知るはずのないような卑猥な言葉などがすごい勢いで発せられる。「悪魔払い」の映画などで少女や修道女などがこれを発するとそれこそ鬼気迫る印象的なシーンができあがる。

アルツハイマー病に罹った高齢女性で、昔は上品だったのに、急に怒りっぽくなって暴言を吐くようになったというケースを見たこともある。

私はいろいろな誘惑になびかないように努力はしているけれど、「暴言」を吐く心配だけはして来ずに済んだ。

願わくば、これまでひょっとして無意識に抑圧してきた罵詈雑言がどっと解放されるようなタイプの神経症や機能障害に縁がないままこの先も穏やかに暮らしていけますように。
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by mariastella | 2017-07-24 04:08 | 雑感

スピノザ頌  (終)

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スピヌーの遺灰が戻ってきました。
白の陶器の壺か、絵柄で装飾された白の陶器壺か、エコロジカルな段ボール容器かどれにするかと聞かれました。はじめてです。値段は同じです。うちにはもうサリーとマヤの二つの絵柄付き壺があり、灰は庭に埋めましたが壺は捨てることもできず残っています。で、紙製でOKと言いました。エコロジー・ブームのせいか、いっしょに埋めたらお花が咲くという種のついたハート型の紙もついていました。
(考えたら、母の骨壺も、お骨を土に戻すように布にくるんでお墓に納めた後で、どうしますかと聞かれてそのまま引き取ってもらいました。その後リサイクルしているんだろうか。母のために「購入」した壺も前の人のリサイクルなのかなあ、と思ったことを覚えています。) 

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スピヌーの遺灰のそばに寄りそうイズーくん。

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おにいちゃんはどこ…


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ずっといっしょだよ…

....


以上、と、いうのは、2枚目以降、全部「やらせ」です。

イズーの座った横に壺を置く、
壺の上にカリカリのおやつを一粒置く、
庭から切ってきた薔薇の花にちょっかいを出しに来るイズーくん、

というのが事実です。

スピヌーが死ぬために部屋の隅に陣取って動かなくなった時、イズーがちょっかいを出したりすると嫌だから隔離しようかと思ったのですが、驚くほど関心を示しませんでした。スピヌーをさがす様子もなく、完全に気配がなくなったようです。

人間の方はなんだか「死の香り」を感じて暗澹としていましたが、イズーはただ、突然に、孤独の中にほうりこまれたようで、いつもよりも私たちに甘えていました。
猫は死ぬときに隠れるといいますが、イズーに対してはもう、完全に隠れて消えていたようです。私たちの愛撫や声かけは拒否しないで受け入れてくれたので、人間との関係は「別」で、人間の方は面倒だけどかまってやらないとだめだなあ、と気をつかってくれたのでしょう。

スピヌーの遺体を医院に持っていくとき、あまりにも「聖人」崇敬が頭にあったので、一瞬、聖遺物をとっとこうかと思いました。

白くてぴんと張った髭。

でも、こんなの、時々床に落ちてるし。
ブラッシングした毛は球にしてとってあるし。

美しい耳を見て、一瞬、この耳をとっておこうかという、聖遺物信仰の類推呪術が一瞬、頭をよぎりました(ジェイコブスのホラー小説の『猿の手』とかまではさすがに連想しませんでしたが)。呪術と関係なく、なんでもいいから愛する者の体の一部をとっときたいという原始的な衝動だったのでしょうか。

すぐに、モノとしての亡骸ではなく、私のそばにいるスピヌーに現実に引き戻されました。

ぼくはここにいるよ、

って。

スピヌーに勇気づけられて、ちゃんと「喪」の手続きをすることにしました。
偶像崇拝してちゃいけない。
それにはイズーも参加してもらわなくては。
というわけで、一連の撮影となったわけです。

スピノザ、ありがとう。

このシリーズはこれで終わりです。
書くことがいっぱいたまっているし仕事も遅れているのにこれ以上ぐずぐずしていたらスピノザに叱られます。君にもらった力をきっと生かすからね。


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by mariastella | 2017-07-23 02:52 |

スピノザ頌 4

(承前)
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どんなにぎゅうぎゅうでもカゴが好き。

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ノートパソコンの上におすわりしておやつを待つ。

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こうすると精悍な風貌に。鼻の上が濡れているのが実はかわいい。

スピノザの臨終のそばにいて、思いついた言葉は、何とか元気になって、絶対に回復して、死なないで、というものではなかった。
変な話だけれど、ヨハネ=パウロ二世が亡くなったすぐ後で人々がsanto subitoと叫んだことを思い出した。(人々がすぐに聖人として迎えたのだ)

スピヌーのような生き方と死に方をするネコは、死んでもいなくなるわけではない。
いや生きている時からもう、聖人のように生きていて(つまり、周りの猫や人をひたすら幸せにしてきて)、体が年老いて不具合になったから存在の形をシフトさせるけれど、そばにいてくれて私たちを幸せにし続けてくれることは自明のように思えた。

虹の橋を渡る、
とか、
猫の天国に行く、
とか、
いつか別の子猫に生まれ変わってきて戻ってきてくれる、
とかは思えなかった。

そのまま、そばにいて、愛してくれて、愛されてくれる。

スピヌーは私を力づけてくれ、力づけ続けてくれる。

時々目を開けたけれど、穏やかだった。
そばにいるよ、ずっとそばにいるよ、
と言っているようだった。

私がもしこういう安らかな死を迎えることができるとしたら、スピヌーのように、私のそばにいるかもしれない人を安心させて励ましてあげたい。

言葉が話せる状態なら、それを言葉にしてあげたい。

「いつも守ってあげるからね」

って。(それはスピヌーから聞越えてきた言葉でもある)

それが本当にできるのか、
死ねばただのブラックアウトなのか、
そんなことは分からない。

でも、愛する人や大切な人にそういう言葉をかけてから旅立てば、後に残る人にとって多大な慰めになるのは確かだ。死ぬ間際にでも、そういうポジティヴなことができるのだ。

愛する人や大切な人が臨終時に「痛い、苦しい、死にたい」あるいは「死にたくない、死ぬのは怖い」などと言うのを耳にしなくてはならない人の苦しみはどんなに大きいだろう。

私の父は亡くなる前に母に手を合わせて「ありがとう」と言ったそうだ。
母はそのことばかりをずっと話していた。
父が母に残した最大のプレゼントだったと思う。

私の母は脳幹出血で意識を失う数時間前にいっしょに散歩しながら、

「私は人生でやりたいことを全部できた」

と言っていた。

そのことが私にとってどんなに救いになったか分からない。

だから私も、死ぬ前には嘘でも偽善でも強がりでもなんでもいいから、できればそういうポジティヴな言葉を残すようにしようと思っていた。

スピノザの死を見て、もっと確信が持てた。

事故や災害や苦痛のともなう死に方を避けることができるなら、
「これからも、いやこれからもっと私を頼りにしていいからね」と言い残して死んでみたい。

マザー・テレサだって、リジューのテレーズだって、同じことを考えていた。
薔薇の雨はだれにだって降らせることができる。

なぜなら、薔薇の雨を降らせるのは聖人たち自身ではなくて、彼らの思いの彼方にある何かだからだ。

いのちとは関係性なのだ、と分からせてくれたスピヌーは今もすぐそばにいる。







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by mariastella | 2017-07-22 03:25 |



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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