L'art de croire             竹下節子ブログ

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セッション・モーツァルト、天使の音楽

Arteで、セッション・モーツァルトという番組を視聴。
ベルリンの小さなホールで、オーケストラも聴衆もソリストもみな同じ高さで、リラックスしてグラスを傾けながらモーツアァルトへの愛を語る。ソプラノとクラリネット奏者とピアニストが、それぞれのモーツァルト観を披露しながら、じゃあこれは?これは?と次々に弾いていくというのが楽しくて、まるで私のトリオが練習で集まっている時にラモーの話をしているような感じだ。

最後はフィガロの結婚のシュザンヌと伯爵夫人のデュオの伯爵夫人の部分をピアノとクラリネットが弾く。語りとしてのクラリネットというのは、とてもフランスバロックに近いし、モーツァルトが絶対にセンチメンタルでないところを愛でるのもバロック的だ。

で、途中(27:50)で、アイザイア・バーリンの言葉が引かれているのがおもしろかった。

バーリンはロシア出身のユダヤ人でオクスフォード教授となった哲学者だが、

「奏楽の天使たちが神の前で演奏する時はバッハを弾くが、自分たちだけで内輪で演奏する時はモーツアルトを弾く」

と言った、というのだ。

この言葉には実は続きがあって、

「奏楽の天使たちが神の前で演奏する時はバッハを弾くが、自分たちだけで内輪で演奏する時はモーツアルトを弾き、神はドアの外でそれを聴いている」

というのだ。

私たちトリオのイメージでは、神が天使たちを指揮するならラモーだなあ、と思う。
クリエーションって、ほら、こんなに自由で楽しいよ、って。

ともかく、この番組のこんな感じのコンサートってすごく贅沢で楽しそうだ。
自分たちの演奏を言語化できる人たちって素晴らしい。
彼らはモーツァルトと、ピアノ、クラリネット、ソプラノとの出会いを語るが、彼はヴィオラも弾いたはず。ヴィオラとヴァイオリンの協奏交響曲が好きな私としては、今度はヴィオラ奏者とヴァイオリニストが語り合いながらのヴァージョンも聴いてみたい。


(2/13まで視聴できるので貼り付けておきます。)



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by mariastella | 2018-01-18 03:18 | 音楽

ゲンラのお葬式

ペール・ラシェーズの葬儀から帰ってきたところ。
すぐに載せたかったので、今日のブログは予約投稿せずにあけておいた。

うちを出る前に、バッハの無伴奏五番のサラバンドを弾いた。人生には絶対にバッハ、という局面があるんだなあ。
絶対にハ短調というのも。
最後の上昇アルペジオで少し天に心が行くが、サラバンド後半のレのフラットなど、もう「ずしん」というほかない。バッハに珍しく、暗い底に沈められる。

ラモーはどうなんだ、と言われるかもしれないが、ラモーを誰かそばで弾いてくれるなら、もちろん癒される。
でも、こういう気分の時に自分で弾くにはハードルが高いのだ。
そして、生の音が必要だ。
昔はショパンの葬送行進曲の中間部を弾いて癒されていたが、今日は、バッハ、だった。

で、ペール・ラシェーズ。今日は雨風が強いという天気予報だったのに、火葬場についたら青空。
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さすが、ゲンラ。

ここは上が百席の無宗派セレモニー堂になっている。でもやはりフランスだから、カトリックの聖堂風のスタイルでステンドグラスなどがある。
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私は祭壇に向かって右の前列家族席の四番目に座る。後ろはフランス人を中心にゲンラの教えを受けた人や、チベット仏教コミュニティに出入りしている人たち。
向かって左はスイスのチベット寺院からこの葬儀のためにやってきた20人ばかりの僧侶たちで、師に捧げるお経というのをずっと唱えていたが、リズミカル。

その僧侶たちの後ろに、パリのチベット人コミュニティが全部来たんじゃないかと思うくらいたくさんのチベット人が座り、座れない人たちは後ろにぎっしりと立っていた。

リンポチェが延々とゲンラがいかに偉大な僧であったかを語る。

「お別れ」は、棺の上にカタという白い布や、オレンジや刺繍の入った黄色い布などを一人ずつが広げて重ねる。その後で棺に額をつける。
リンポチェは棺の前で五体投地をしていた。

葬儀が終わった後、帰り支度をする僧侶たちの向こうにステンドグラスが見える。
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これが祭壇。
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お供えのお花を分けてもらったので、うちにも祭壇を作ってみる。
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後ろの扇は般若心経。ゲンラが私の父と一緒に唱え、父の亡くなった後にも唱えてくれた。小さな文殊菩薩は高野山で買ったもの。

1959年にダライ・ラマと同時にチベットから脱出したゲンラの一生は、チベットの生き歴史だ。

私が彼の言葉を最初に紹介したのは、『ノストラダムスの生涯』のp256あたりで、予言や占いについてどう思うかという質問に明快な答えをもらった。
『パリのマリア』に出てくる超能力の話のチベットの空中浮揚も彼に聞いた話をもとにしている。
(このブログ内では、ここここなどに出てくる。)

ゲンラがフランスの若者に講義をする時、質問への答え方がすばらしかった。

インドの僧院でフランス人の若い女性が40年前にはじめて彼に仏教を講義してもらった時、実はゲンラにとっては西洋人の弟子は初めてだった。
けれども実にわかりやすく、相手に合わせて教えてくれたという。
その時は、そういうものなんだと思っていた弟子は、後に、ゲンラがいかに「相手を見て教えを伝える」天才だったかを理解する。

日本の若者も今はほとんどフランスの若者と同じくらい仏教に無知だろうが、仏教的教養が一応ベースにあると思われている日本ではなかなかすなおに質問できない。
ゲンラの講義での質疑応答がすばらしいので、ぜひ日本語に訳して日本の若者に知ってもらおうと思って企画をもちかけたことがある。
その時は、編集の方に、それよりも私の言葉で解説してほしい、と言われて、そのままになった。

時は過ぎ、今の時代には、ネットでも発信できる。ツォンカパの『菩提道次第論』講義だ。彼の講義録を訳していつか発信してみたい。

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by mariastella | 2018-01-17 03:36

構造的否認と陰謀論

前に『陰謀論にダマされるな』(ベスト新書)という本を書いたことがある。


そこで、終末論は陰謀論のヴァリエーションだと書いた。


陰謀論に関するスタンスはその後も変わっていないのだが、1/3の『シャルリ―・エブド』の記念号にあった「否認のメカニズム」という記事を読んで、なるほどと思ったことがある。

「地震や津波やテロの危険があるとはいっても、今日明日ではないだろう」などというものから、

「そんな恐ろしい話や極端な話はでっち上げだろう」という歴史修正主義や、

「地球温暖化などはフェイクだ、実際寒波は毎年ひどくなっているじゃないか」、とか、

「ひどい話だけれど実はどこにでもあるもので騒ぐほどのことではない」、

という類のものまで、私たちが、事実や現象や統計を正面から見ることを避けて、ネガティヴなものを矮小化したり否認したりするという心理学的なメカニズムは、生存に必要な構造的な心理メカニズムだというのだ。


今の時代に天動説を唱えたり宗教原理主義がダーウィンの進化論を否定したりするというような現象もそうで、これらは、人間の「知」のシステムの中に構造的、根本的に組み込まれている「無知」だという。


どんな正論や自明の事実にも疑いを持ってひたすら相対化することで思考停止、先送りするというのもある。


これを読んでいて、この「否認のメカニズム」とは、まさに、陰謀論や終末論を信じたくなる心理のメカニズムと裏表をなしているのだと思った。

いくら表面的に安全に見えても、実は誰かの陰謀が進んでいて、あなたは、この世界は、欺かれている、破壊される、乗っ取られる、というネガティヴな言説に人は惹かれる。

安心のために無意識に相対化するのとは正反対に、ネガティヴな危機をわざわざ掘り起こして絶対化するのだ。

否認が人間の「知」のシステムに組み込まれた構造的無知なのだとしたら、陰謀論的心性は、その構造的無知と表裏一体をなしているのだろう。

さらなるバランス感覚を必要とする新しい視点を与えられた。


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by mariastella | 2018-01-16 00:05 | 陰謀論と終末論

カルメン、セリーヌ、ドラクロワ

ビゼーのオペラ『カルメン』のフィレンツェでの新演出が話題になっている。
ラストシーンが、カルメンが殺される前に銃をとってホセ撃ち殺すことで終わる。

このビデオの1:15あたりからがそのラストシーンだ。
ハリウッドのスキャンダル以来のフェミニズム全体主義だと批判する人もいる。

ヒロインは、このカルメンの正当防衛は自由を求める彼女の生き方の当然の帰結だと言っている。

これについてあまりコメントするつもりはない。
ただ、この世界で一番多く上演されていると言われるオペラのストーリーと結末と音楽は一体化しているので、これまでの演出は十分正当化されると思う。
これを見て、自由に生きると殺されるんだなあ、おとなしくしていよう、なんて思う女性の観客はいないし、いざとなったら女を殺すという手もあるな、などと思う男もいないだろう。全員が芸術的なカタルシスを得られて、拍手喝采して幸せな気分で家路をたどる。悲劇的な結末に共感したからではない。
ストーリーと、それが音楽と共にもたらす効果は、リアルなレベルとは別のところにある。このラストでカルメンがホセを殺してしまうのでは、芸術の緩慢な自殺に似ている。プロスペル・メリメの原作小説がある、ということも看過できない。

フランスではこのほか、これまで封印されてきたセリーヌのユダヤ主義パンフレットをガリマールが出版するということについても喧々諤々の議論が起こっている。ヒトラーの『我が闘争』の問題にも似ていて、すでにネットでは読めるし、カナダでは出版もされている、ということで、野放しにするよりも、ちゃんと解説をつけて出版した方がいい、という人と、『夜の果てへの旅』の名作家の全貌を知ることと政治的検閲は別だという人とに分かれる。

これら全部をピューリタンの原理主義で、表現の自由や芸術を弾圧するものだとして批判する人もいる。

女性を殺すというのを検閲しなくてはならないなら、ドラクロワの『サルダナパールの死』も不都合だから隠さなくてはならないだろう、と揶揄する人もいる。

どういうテーマがどういう歴史的、芸術的な文脈で描かれたのかを無視して論ずることはできない。

暴力表現が暴力を誘発するとは限らないし、まったく逆の非暴力のキャンペーンに使うこともできるだろう。
イエスの磔刑図だの夥しい殉教者図なども、見方によれば子供の情操教育にとても悪そうだ。

最近知り合いがヴァーチャル美術館のサイトを始めた。まだまだ続くが、今見られるだけでも、神話や黙示録や文学作品やらいろいろ解説(英語とフランス語)されていてよく分かる。人間性を知る手段として絵画表現があってほんとうによかった、と思う。





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by mariastella | 2018-01-15 00:05 | 雑感

想像力

昨年のクリスマスに寄せたフランスのプロテスタントの言葉に、

イエスの誕生譚(ノエル=クリスマス)とは、

何かおかしな妊娠、

恥辱を克服した夫、

旅先の馬小屋での出産、

貧しい羊飼いたちが最初に知らされる主の誕生、

博士たちが貧しい赤ん坊の前に跪く、

権力者による幼児殺害命令、

着のみ着のままでの家族の逃避行、

etc...

そう、これは今の私たちの生きる世界だ、

と書いてあった。


パリのユダヤ教の大ラビはこう言っていた。


2015年のシャルリーエブド襲撃に続いたユダヤ人スーパーの人質事件を振り返り、あの時、人々が、「私はシャルリー」というように「私はユダヤ人」と言って共感を示してくれたのは感謝している、でも、その年の11月の多発テロで、パリのカフェやコンサートホールで不特定多数が犠牲になった時に初めて、人々は、ユダヤ人でなくてもみなが標的になるということを理解した。


他者への「同情」や「連帯」と「当事者」意識との違い、はどう埋められるのか。

そして、誰もが真に当事者になるためには、みながアトランダムに犠牲者になるかもしれないという脅威が必要なのだろうか。


地震の起きないパリに住んで日本やハイチの地震に同情する、

原発施設のない地域に住んで反原発を口にしたり、原発の必要性を説いたりする、

米軍基地のない場所に住んで沖縄の人に同情したり我慢しろと言ったりする。


本当は、この地球の誰の身に起こる脅威でも、すべての人にふりかかる脅威なのだ。


さまざまな国や民族や人々がばらばらで敵対しているように見え、環境は破壊され地震や洪水などの自然災害も絶えないように見えるけれど、主義信条の対立する人も脅威となる自然も、実は根っことなる命でつながっている。

めぐる月日も、夜空の星も、どんな人もおなじように吸っている空気も、何一つとして誰かが力によって奪ったり獲得したりしたものではなく、私たちに平等に与えられたものだ。


私たちはそのことに納得もできるし、思い描くこともできる。

すべての人が共有する脅威という形ではなく、すべての人が共有する感謝や希望という方向に想像力を広げよう。



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by mariastella | 2018-01-14 00:05 | 雑感

新年の事始め

今、今年初めのカルテットの練習から帰ってきたところだ。

今週は月曜日にクラシック・バレエ、火曜日にコンセルヴァトワールでのトリオの練習、水曜日に生徒たちが来て最初のレッスン、木曜にバロック・バレエの最初のレッスン、と続いて、今、コンセルヴァトワールで弦楽カルテットに行ってきたところ。

今日から始めた新曲はテレマンのドン・キホーテ組曲。
弦楽協奏曲だけれどそれをカルテット用に編曲したもの。悪くない。
今日は序曲と、風車に突撃するドン・キホーテの部分を演奏した。

実は最初にモーツアルトとトルレリをさらった時はあまり気分がのらなかった。
でも、このドン・キホーテで、一気に正月、というか、新年のスタートという気分になれた。音楽療法って本当にあるなあ、と今さらながら思う。

ピアノの生徒の1人(思春期の若者専門の心理療法家)と、バロック・バレエの仲間と、例のme tooの話をした。

フランス人的にまず驚くのは(日本人も同じかもしれないけれど…)、あんなに強そうに見えるアメリカの女優達とかが、今になってセクハラを告発し始めたことだ。セクハラという言葉はポリコレ(ポリティカリーコレクトネス)と同じでアメリカ発であり、ピューリタンのアメリカはいろいろ厳しいし、女性も好戦的で黙っていない、というイメージがあった。「自由の国アメリカ」というイメージはフランスにも一応浸透していたのだ。アメリカの二枚舌、ダブルスタンダードというのも、「フランスの常識」の一つではあったけれど、女性差別や人種差別がいまだに深刻な「今日的問題」というのには軽くショックを受ける人が多い。

それでも、ル・モンド紙のフランス女優らの声明の文面が、突っ込みどころが多すぎたのは残念だった。何につけてもよく言われるのだけれど、新たな法律を作らなくても、現行法できっちりと対応できるはずなのに死文化しているものが多すぎる。

確かに、セクハラなど性的な分野においては線引きは難しい。
日本における痴漢冤罪というのはすごいなあ、これでは確かに、男性は大変だろうといつも思っていた。それでなくとも、性関係において確かに合意していたはずの女性が、復讐など何らかの理由で相手を陥れようと思えば、「合意がなかった」と言えば認められる可能性があるのならこわい。

だからいろいろ考えていくとやはり一般論では言えない。
アングロサクソン型の犠牲者主義、加害者と被害者の二元論というのも不毛で、全体主義や原理主義に流れる危険性もあるのだけれど、
フランス風ギャラントリーの文化も、確かに差別の裏返しという側面もある。

私に対して「日本人はスーペリアな民族だ」というお世辞を言うフランス人がいる。
それはすぐに不愉快なものではない。

でも、そういう言い方は、

「自分は民族をランク付けする立場である」
「日本人より劣る民族がいる」

という含意がある、と言われてもしょうがない言い方だ。

同様に、たとえ、お元気ですね、お若いですね、おきれいですね、などという、耳に心地よいお世辞だって、「元気で若くてきれい」なのがよくて、「病気だとか年寄りだとか障害がある」のが悪い、という含意があるだろう、と言われると何も言えなくなる。

すべての言葉も動作も、その意味は、時と場合と相手との関係によってはじめて決まる、としか言いようがない。
けれども、その中でも、それが、弱い立場にある人を傷つけるような「力」として働くものはしっかりと分別して正していかなくてはならない、ということなのだろう。

(今日の予約投稿にリンクしておいたチベットの高僧の葬儀だが、やはり参加することにした。彼と家族的な関係を築いてきた一人として、彼を看取った人の哀しみに寄り添うことは必要だと思ったからだ。そのうちレポートします。)



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by mariastella | 2018-01-13 02:12 | 雑感

チベット高僧の死

先日の記事で触れた、チベットの高僧が、年明けに亡くなった。
そのことで考えたことを別のブログで記事にしたので、関心のある方はどうぞ。



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by mariastella | 2018-01-13 00:05 | 雑感

カリマさんの『シャルリー・エブド紙』インタビュー

(これは前の記事の続きです。)

カリマさんは、アングロサクソン風「共同体主義の国」で、女性のイスラムスカーフが「あれはあの共同体の文化、伝統だから」として放置されることにショックを受けている。


女性差別のシンボルなのに、自分たちの多様性容認、寛容のシンボルにされているからだ。

トランプ大統領の反イスラム的政策に抗議するアメリカでのデモで、イスラムスカーフをつけた女性たちがシンボルとして行進した。

これは明らかに間違っているのに、これを批判したら「アンチ・イスラム」だと逆に批判される。(このことは、体を隠す水着モノキニ論争の時にフランスでも問題になった。)

フランスでは、普通のムスリムは穏健派で、過激派と混同するな、伝統に従って自分たちの文化を守って普通に暮らしているだけだ、というアメリカ型の左派知識人が増えてきた。

で、これについてのカリマさんへの質問と答え。

>>>

Q.「穏健なイスラミスト」というのはどうですか? 穏健であれば宗教に基づいた政治体制もあり得ると思いますか?

A. 私にとっては、否、です。

私の父は、過激派とずっと戦ってきました。その前はアルジェリアにおけるフランスの植民地主義と戦ってきました。彼は私に、政治的に考えると、穏健派イスラミストは、イスラム過激派よりももっと危険なくらいだ、と言っていました。なぜなら、「穏健」であるなら受け入れることができると人々が考えてしまうので、穏健派こそ、宗教支配のプロジェクトを進めることが可能になるからです。

テロリズムとそれを促すイデオロギーに関係があることを絶対に見逃してはなりません。残念なことに、宗教支配(宗教法の権力的適用)という考えは、今やかなり普通のことのように見え始めてきています。キリスト教原理主義の言葉がどんどん激しいものになっているアメリカでその傾向があります。自分自身は原理主義者ではない多くの人も、それが有効で大衆に受けるということでそういう言説を使っているのです。そういう人たちこそが、本当の過激派に門戸を開いているのです。

そしていったん開いたその扉を閉じるのはとても難しいのです。


<<<

結局、何が悪いかというと、すべての宗教の、「時の権威者が宗教の名によって自由を規制すること」なのだ。


世界の大宗教はみな根本的には「人間の共存」に合致するメッセージを含んでいるのだけれど、それを「適用」する側がどうにでも曲解できることが問題だ。

モーセの「十戒」の「殺すなかれ」だって、人間が互いに殺すことをしっかり禁じているサバイバルの基本なのに、

「正当防衛ならOK」とか

「神や神の代理人を冒涜するような者は抹殺すべし」とか

「国家や権力組織が合法的に所有する暴力装置によるならば戦争も死刑もOK

のように、実用レベルではもう改変されまくっている。


「解釈改憲」みたいなものだ。


まあさすがに、


「十戒」は神から授けられたもので民衆の意志でないから変えようとか、

現実に即していないから、変えよう、などとは言われないけれど。

この他にもいろいろあるのだが、旧植民地イスラム圏からの移民を多く抱えるフランスの非共同体主義的(すなわち普遍主義的)統合政策をずっと観察してきた非キリスト教文化圏出身の私にとっては実に興味深いコメントがいろいろあった。

その他にもこの『シャルリー・エブド紙』の記念号は考えさせられる記事が満載だった。
犠牲者の死は決して無駄になっていない。

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by mariastella | 2018-01-12 00:05 | フランス

カトリーヌ・ドヌーヴらによる#MeeTooへの批判声明

今忙しいので、このブログはほとんど予約投稿で入れているので、何かを読んだり観たりした後の感想などがアップされるのがラグがあります。でも、1/10付のル・モンド紙にカトリーヌ・ドヌーヴなど100 名の女性が出した#MeeTooへの批判とそれについてすぐに湧きおこった論争のことを、挿入します。

要するに、女性を一方的に犠牲者にするこういう形の告発の蔓延はピューリタンの国の思考様式で、フランスでは、男性が女性に対してギャラントリーを表現する権利がある、というものです。


何かを強制したり、合意なく女性を触ったりするのは論外で別のことですが、言葉で気を引いたりするのは犯罪ではない、むしろ伝統 ?ということで、アングロサクソンフェミニズムとフレンチフェミニズムの差がはっきりでています。


で、あらためて日本での告発をネットで読むと、当然ながら、ネガティヴなものばかり。性的なニュアンスで、女性を貶める、というのがトラウマになっています。それに比べると、確かに、フランス男が女性に気軽に声をかけるとか、ハラスメントをする時は、たとえ「しつこい」ことがあっても、内容自体はポジティヴなものがほとんどです。嫌がらせとお世辞(たとえ煩わしい不快なものでも)には本質的な差があります。(日本での例を読んでショックでした。)


要するに、女神や聖母を崇めるような下から目線というのが伝統的なベースです。

もちろん、それを女性の方が不快なハラスメントだと受けとることはありますが、「相手の見た目」によることも大きい。早い話、どんなに崇められても、自分の嫌いなタイプの男だったり、見た目が警戒心を誘うような男だったりするとアウトです。で、権力があるとか、金があるとか、結婚もしているし遊ぶ女性にも不自由していなそうに見える男から下から目線でお世辞を言いまくられる場合には、警戒心が刺激されずセーフということもありそうです。

ドヌーヴなどこういう声明を出せるような女性たちは所詮女性の中でも強い立場にある少数者なのだという切り捨て方をされるかもしれません。

前にも猫のことでセクハラおじさんの心理を書いたことがありますが、私もうちの猫がぐっすり寝ているのに、かわいいあまり、あちこち触ってハラスメントすることがよくあります。でもそこに、「下心」というのは、もちろん性的なものも含めて1ミリもない。

そして猫飼いなら分かると思いますが、どんなにハラスメントしても、下から目線でお仕えしています。やり過ぎて引っかかれても、もちろんこちらが悪いのでこれから気をつけよう、と思うだけです。崇める気持ちは変わりません。猫からはますますさげすまれることもありますし、しつこいと顔を見ただけで逃げられたりもするので、こちらも学習します。

フレンチ・フェミニズムのスタンスの人たちが擁護するのはこういう関係なのだと思います。

それを可能にするのは、女性の側も「大人の女」である必要があるのかもしれません。

それだけではなく、それぞれのシチュエーションにおいて文化だけではなくいろいろな要素が複合しているので、アウトかセーフかというだけで割り切れる問題ではないことは自明です。

ともかく、相手に対して「強い立場」にある者がその強さを武器にして弱い者をいじめたり支配しようとしたりするのは論外で、そういう者を告発できる流れは歓迎です。

でも、それで、男はみんな敵、女は犠牲者という二元論的アングロサクソン型フェミニズムがますます広がるのには要注意です。


相対的に強い立場にあって、その強さを相対的に弱い者を支えるためにだけ使う人は必ず一定数存在します。そうでないと人間はとっくに淘汰されています。自分を犠牲にしても赤ん坊や子供を守る人たちがいるからこそ生きのびているのですから。

そして、多くの社会では、相対的に男の方が有利でマジョリティで、平均すると女性より体が大きくて身体能力が女よりすぐれているので、その中で、自分を犠牲にしても女性を守るという生き方をする人の絶対数は看過できないはずです。

それをなんとなく男全部を糾弾するような論調では、本当のリスペクトできる関係、性別とは別の差別の構造(民族とか宗教とか年齢とか心身の障害とか)を互いに協力して壊していく関係が築けない、というのは事実です。


フェミニズムとフリーメイスン、この2つは、アングロサクソン型とフランス型がまったく別の方向を向いている典型です。グローバリゼーションという名でアングロサクソン型が席巻しているのは事実ですが、これからもフランス型を支持していきたいと思います。

その方が絶対に次の世代のために大切なことだと、日本人としても、女性としても、高齢者としても実感します。


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by mariastella | 2018-01-11 00:05 | フェミニズム

Karima Bennouneカリマ・ベヌーヌ(ベノウネ)

カリフォルニアのDavis大学国際法教授のカリマ・ベヌーヌさん(アルジェリア出身)はイスラム圏の国々を訊ねてイスラム法の原理主義的適用に対抗してレジスタンスやアンチ・テロリズム活動を行っている人々へのインタビューをもとにしたベストセラー本『Your Fatwa Does Not Apply Here』を書いた。

特に英語圏の人々に、イスラム圏の国々にある草の根の人権活動や反過激派の実態を知らせたかったからだ。

彼女はもちろんフランス語も自由に話せる。アルジェリアで人類学教授であるきょうだいからステレオタイプから脱する力になる証言の引き出し方を学んだと言っている(父親も生物学教授だったというから知識人一家である)。

フランス語のインタビューを見つけた。フランス語OKの人は必見。

その中で、アフガニスタンでも女性の人権擁護をするイマムに出会ったことも話している。「もし兄弟や夫が姉妹や妻を尊重しないならばイスラムを尊重しないことになる」というイスラムの中の言葉を根拠にしている。宗教を人間が勝手に解釈していることで宗教のエッセンスを破壊することをイマムも心配しているのだ。

このカリマさん、すてき。私の好み。

日本語で何かないかと検索したらひとつだけあった。

英語のスピーチの右に日本語の訳がついている。

これはいい。日本語の訳だけ読んでも大切なことが十分伝わると思う。

一応フランス語版も貼り付けておく。


実は、この彼女が、先日の『シャルリー・エブド』でもインタビューを受けて語っていたのだが、全面的に納得させられた。(続く)


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by mariastella | 2018-01-10 00:05 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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