L'art de croire             竹下節子ブログ

マリーヌ・ル・ペンとフェミニズム

これは前回の続きではありません。

5/1のニュースの中で、大統領選についてフェミニズムの団体にTVが取材したシーンがあった。

フランスで初めての「女性大統領」を目指すル・ペン女史は、なんと、今回の候補者11人の中でもっとも「フェミニズム指数」が低いそうだ。

FNは、これまでフェミニストが応援するすべての法案に反対してきた。

そういえば彼女の周りには男性ばかりが目立つ。

二度の離婚後の「連れ合い」であるFN副党首とは結婚もパクス関係もないから「身内」優先などと言われることはないし、何より本人が「女性」だから、フェミニストに糾弾されることはないと思っていたけれど…。

この指摘に対して、ル・ペン女子はさっそく反論、曰く、

「女性の解放の敵」はイスラミストである。
女性にイスラムスカーフを強要するなどのイスラム原理主義がフランスの諸悪の根源である。

という論調。

なるほど、レバノンでスカーフ着用を断固拒否したのだから、今回もその整合性はある。
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# by mariastella | 2017-05-03 18:53 | フランス

大統領選、司教たちの見解は?

これは前の記事の続きです。

フランス・カトリック教会による大統領選に関するコメントで最も興味深く聞いているのは、ラジオ・ノートルダムで土曜日に放送される「枢機卿との対話」だ。

現在フランスには9人(うち教皇選挙権があるのが5人)の枢機卿がいるが、枢機卿だけではなく司教(現役は115名)も含めて、彼らの一人が10分くらい話す。

興味深い。

みな、司教や枢機卿に任命されるくらいの人だから、経験も豊富だし、フランスの場合、もし聖職者の道を選んでいなくても社会のエリート階級にいる人たちだし、もともとの人脈もある。

しかも、「普通の政治家」と違って、「票田」のケアもないし、普通のエリートや市井の人と違って、失業の心配もなければ、老後のプラン、相続のプラン、家族のケアなどからも解放されている。けれども社会的責任は大きいし、聖職者としての生き方には「定年」がないから、一生、自覚的に自分の使命の遂行に専心できるというレアな人たちだ。

インテリとしてのコストパフォーマンスが高いし、カトリック教会には国境がないから、視座も普通のフランス人と違うし、「永遠」とつながっているのだから、今、ここで、という刹那的な発想からも逃れている。

で、第一回投票の翌日に収録された、リュック・ラヴェル司教(2009年から軍隊の特別司教区の司教だったが、ストラスブール司教に移ることが決まっている。ストラスブールはまだナポレオンとローマのコンコルダ下にあるので、この任命はフランス大統領の商人も必要だった!)による感想。

正確な表現ではないが要約すると、以下のようなもの。

>>フランスはファイナリスト2人によって分断されているのではなく、第一回投票で拮抗した4人の考え方によって分断されていると見た方がいい。

カトリック教会の政治の見方、すなわち社会にどうコミットするかの見方の特徴はそれにどういう「意味」を持たせるかということである。

問題の提起や解決法の提示だけではなく、そのすべての「意味」を考え、「意味」を与える。

その「意味」とは個人の利害や権益を超えたところにある。

「意味」を考えるのは「理性」である。

フランス人が感情や自分の立場優先でなく、それを超えて理性によって投票してくれると私は信じている。<<

ラヴェル師
は父方が海外県にルーツがある人で、パリ生まれのポリテクニシャン、つまりフランスの最高学歴を持っている。

見るからに信頼感をそそるような人だ。(続く)
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# by mariastella | 2017-05-03 02:02 | フランス

メーデーとル・ペン父娘とマクロン

これは前回の続きではありません。

5/1 のメーデー、ジャン=マリー・ル・ペンは13区のジャンヌ・ダルク像の前で娘への投票を呼び掛けてマリーヌのことを「フランスの娘 une fille de France」と呼んだ。
冠詞なしの「フランス」でこういう場合、普通は、王の娘、王女のことを指す言葉だ。

つまり王党派っぽい含意があるので、「私は大衆」と主張するマリーヌのイメージ作戦を裏切るどころか、暗にその父である自分は王であるという本音が出たのかもしれない。

2002年の反FNデモと違って、予想通り、「ファシスト(ルペン)も、反資本主義者(マクロン)も嫌だ」という組合の呼びかけもあった。

メランションが前日、マクロンに政策で譲歩するなら積極的支持に回ると持ち掛けたのにマクロンは昨日のミーティングできっぱり断った。
デュポン=エニャンの支持を得るためにいろいろ譲歩したルペンと対照的だ。

ルペンが譲歩したのはこれによって票だけではなくもー、FNのノーマル化を印象付けるためだ。

マクロンが譲歩しないのは、2012年の決選投票でバイルーやメランションの支持を得たのに当選後は社会党だけで固めたことでバイルーやメランションの離反を招いた前例を踏襲したくなかったからだ。

けれどもそのことを、

ルペンは、プラグマチックで大人、
マクロンは、視野の狭い子供、

という風に見る人や、その見方を誘導する人がいる。
マクロンはわがままでナルシストの子供だと。

いや、でも、同じ日に、マクロンと同様の立ち位置にあるイタリアの42歳のマテオ・レンツィが復帰を表明した。
レンツィは34歳でフィレンツェ市長となり、39歳で首相としていろいろな改革をした。
フランスでも、ナポレオンを引き合いに出さなくとも、ローラン・ファビウスは34歳で政権入り、37歳で首相になっている。その時には「子供」だと批判されることはなかった。ファビウスはマクロン以上の正統エリートだったが、それを攻撃されることはなかった。

今のフランスの病理、閉塞、ポピュリズム、SNSと映像の力、の中での選挙戦だからこそ、「理念」や「原則」を見失ってはいけない。
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# by mariastella | 2017-05-02 18:40 | フランス

フランス大統領選とカトリック

これは前回の続きです。

大統領選についてのカトリック言論界で、「宗教」(つまり典礼や教義の体系)をもってキリスト教を語らないタイプの人々の発言を少し挙げる。

「フランスは、アンシャン・レジームという子供時代を脱して今は青年時代を生きている。イエスの聖心の恵みによって「大人」の時代が来ますように。今は成熟、信用、一致、という3つめの道を創る時だ」

「キリスト教が商品の絶対支配を拒絶すること、偶像崇拝の撤廃だと言うなら、ラスベガスに行くフィヨンよりもメランションの方がキリスト者だ」

次にフランスのベネディクト修道会の重鎮がネットで発信(4/2)したものの初めのところ。

「聖ベネディクトは事態の政治状況に直接は関わらなかった。パウロ6世によってヨーロッパの守護聖人とされたベネディクトは、西ローマ帝国の滅亡の時代に修道院を創設した。十世紀初めのヨーロッパ政治危機の時代にクリュニー修道会が生まれ、二世紀後に、祈りの家という白いマントがヨーロッパを覆った。(注: 白いマントというのは歴史学者ラウル・グラベールの有名な「教会の白いマント」という表現の転用だ)
私たちの家族、学校、アソシエーションの中にまず神の国を希求しよう。そうすれば後はおのずとついてくる。
この大統領選は出来レースだ。民主主義とはいいがたい。現体制は、その体制の産物である候補者を並べて選ばせる。
最悪を避けるために投票することはできる。けれどももっとするべきことがある。ダマスの道で聖パウロの回心があったように主が当選者に恵みを与えて回心させてくれるように祈ることだ。」

「(・・・)我々聖ベネディクトの息子たちの毎日の糧と盾になるようにこの祈りを信仰と共に唱えなさい。(・・・)「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言った我らの主は、十字架の上でまで我々のために祈ってくれたではないか。
(注:「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハネによる福音書 16, 33)。」)

彼が唱えるように言ったのは詩編の21, 72 ,101番である。
もちろん検索。
うーん、

たとえば72番の1~7、

神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。
王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。
山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。
王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。
王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように。
王が牧場に降る雨となり/地を潤す豊かな雨となりますように。
王が牧場に降る雨となり/地を潤す豊かな雨となりますように。

101はダビデ王の誓い。3から8は悪くない。
卑しいことを目の前に置かず/背く者の行いを憎み/まつわりつくことを許さず
曲がった心を退け/悪を知ることはありません。
隠れて友をそしる者を滅ぼし/傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。
わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め/わたしと共に座に着かせ/完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。
わたしの家においては/人を欺く者を座に着かせず/偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。
朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし/悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。

などだ。

でも、問題は、これでは、「何が善で何が悪かと決めるのは王自身」になるということではないか。

キリスト教では「善」や「真実」には「イエス・キリスト」という名があるということになっている。
その分、統治者が偉いとか党や宗派のトップにいる人が偉いということにならないのはいい。

ダビデ王だろうが、
マクロンだろうが
ルペンだろうが、
イスラエル王国だろうが、
「進め!」党だろうが、
FNだろうが、

人間の名と人間の組織を持った時点で、「神」を道具化する誘惑と偶像崇拝の落とし穴が待っている。

結局…ローマ法王に投票権があろうとなかろうと、彼の使命は祈り続けることだということになるのだろうか。(続く)
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# by mariastella | 2017-05-02 02:51 | フランス

マクロンとルペンのメーデー

これは前の記事の続きではありません。

5/3にマクロンとル・ペンのTV公開討論がある。

2002年にはシラクはル・ペン父との討論を拒否した。

今回は、すでに、第一回投票の前の候補者たちの公開討論にル・ペン女史が参加しているし、今になってマクロンが拒否ということはあり得ない。

いや、すでに前の討論でマクロンとル・ペン女史がかなり激しくやりあっているシーンがあったので、二人はやる気満々だろう。

それに比べると、アメリカナイズされて導入された同じ党内の予備選の公開討論というのは、互いに身内の欠点を指摘することになるから両刃の剣というか、その後の連帯に影を落とすし、実際、予備選で選ばれたフィヨンやアモンは、党内の敵対者を極右や極左や中道に吸収されて、今回敢え無く敗れている。

最終戦の候補者の討論というのもアメリカ発で、ニクソン対ケネディが初めだったそうだ。
フランスでは74年のジスカール=デスカンとミッテランが最初だったそうで、その時に若いジスカールがミッテランを「過去の人」と評した時にミッテランはうまく反論できず、7年後の同じ顔合わせの時に、今度はミッテランがジスカールを「過去の人」と逆襲して、初の社会党政権を勝ち取った。

昨日(4/30)の夜の公営放送で、ルペンとマクロンに別々のインタビューで同じ質問に答えさせるというのがあった。

15の質問で10分間の持ち時間。

ルペンは終始にこやか。大衆の怒りがあなたのモティヴェーションになっているかと聞かれて、「怒りではない、愛です」と、慈母路線を強調。

「ジャン=マリー・ル・ペンの娘」というレッテルから「戦う聖母路線」というのは正しい戦略だ。

マクロンは終始眉を吊りあげて戦闘的、若さとエネルギーを強調。

ルペンは、マクロンが現政権の大臣だったこと、つまり、「システム」の中枢にいたエリートであるということを忘れない。

マクロンは、ル・ペンが大衆だと自称するのはあり得ない、生まれた時から(実際は4歳)「党」があって、「城」に住んで、父親の後を継いだ、と強調。自分は地方の家に生まれ、母親に勧められた読書によって啓蒙され、私企業も公職も二度辞職して新しい使命に邁進している、という。

それを受けてか、今朝のラジオのインタビューでルペンは、マクロンのことを
「エマニュエル・オランド」、
「オランドのベビー」
「パパの後を継いでいる」と形容した。

自分が「ジャン= マリーの娘」と呼ばれることをそのまま返したわけだ。前にも書いたがマクロンはその実年齢だけでなく「見た目」も若いので、TVのギニョールではオランドとヴァルスの赤ん坊として描かれていた。それも意識しているのだろう。

過去三代の大統領を一言で形容するなら、

シラクは、「情緒的(愛情深い)」(ルペン)、「寛大」(マクロン)

サルコジは、「ブルドーザー」(ルペン)、「速い」(マクロン)

オランドは、「怠け者の王(何もしない王)」(ルペン)、「妨げられた(やりたいこと、やり始めたことをを完遂できなかった)」(マクロン)

だそうだ。

想定内の答えだが、二人とも質問内容は事前に知らせられていないようなので、一瞬沈黙があったりして、その割にはぼろを出さないのだから、「大統領の資質」は備えている。

5/3は「直接対決」だから、互いに相手がいかに「人々を欺いているか」を「証明」することにウェイトが置かれる。

それにしても、ルペンが、「エリート(プレス、起業家、組合)」をさんざん攻撃し、「私は大衆の一人、エリートではない、大衆だ」と断言した時には、

なんだか、吉本隆明が自分のことを「知識人ではない、大衆だ」と言っていたことを思い出した。

マクロンは「自分は大衆の知性に向けて語る」と言っていた。(これはむしろフランス人のメンタリティに合っている。)

さて今日は5/1で、これまでいつも連帯してデモ行進していた各種組合が分かれる。

これまでFNは組合の共通の敵だから、2002年のシラク対ルペンの決戦の前の5/1は百万人が「アンチFN」を掲げてデモをしてシラクに投票することを呼びかけた。

ところが今年は、メランション寄りの組合が「FNもマクロンもペストとコレラだ」というのでアンチFNだけでは合意できなかったのだ。

5/1はいつもFNがジャンヌ・ダルクをナショナリストのヒロインのように取り込む「祭り」でもある。

マクロンは今日、ミーティングの前に、過去の5/1にFNから「殺された」モロッコ人の追悼に出かけるという。

今日の夜には空気が変わっているのだろうか、変わっているとしたら、どう変わっているのだろう。

2002年にシラク対FNになった時のパニックに私は居合わせていなかった。
2002年の初めに実家の父が亡くなり、春休みに日本に帰っていたからだ。
決選投票の時にはフランスに戻っていたので、シラクの圧勝を見て安心していた。

今年はなんだか心配だし、その後の総選挙でどちらにしてもFNが議席を増やすと思うと怖い。
昨日、フランスの国内政治からリタイアしていたジャン=ルイ・ボルローがマクロン支持に駆けつけたことだけが、バイルーからの支援と共に、マクロンには追い風になると思うけれど。
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# by mariastella | 2017-05-01 17:59 | フランス

メランションとキリスト教

これは前回の続きです。

第1回投票の1週間前が復活祭で、その前の日曜は聖週間の始まる「枝の日曜日」だった。
フランス中のカトリック教会には、ツゲの小枝を盛った人々が集まる。教会前で配布されてもいる。
イエスのエルサレム入城を記念する日だ。

マルセイユで人々の前に現れたメランションはオリーブの小枝をボタン穴に指していた。「私は平和の候補者です」と言い、小枝を手にもって振り、地中海の木であるこの小枝を我々のシンボルにしようと持ってきたことを告げた。
預言者的なこの言葉を聞いた人々が「メランション! プレジダン(大統領)!」と唱和し始めた時、彼はそれを制して「それはやめてください! 私は自分の名がスローガンになるのは嫌だ! 皆さんは、信者なんかではない!『共通の将来』という名のプログラムを担う人々なのです」「不可能な完全性を一人の人間に託するという愚かな熱狂から覚めてください」と続けた。

この日に小枝をシンボルにするという演出は明らかに、自分が救世主のように熱烈に迎えられるということを意識したものであったはずだ(本人は偶然だったという)。第一、どこでも、すべての候補者は、救世主のごとくふるまっているし、支持者たちも、カルト宗教に洗脳された人々のように、ロックスターのコンサートに駆けつけたファンのように叫んでいる。メランションもホログラムで数ヶ所同時にミーティングをするなど、ユニークな演出を工夫していた。

でも、それを誘導しながら、なお、「信者みたいになってはていけない、使命を担った主体的な存在であれ」、
と、至極まっとうなことを言ったわけだ。

世界における南北の格差、他者への無関心、同胞愛などを語る時に福音的なレトリックを駆使するのはまるでローマ法王のスピーチのようであったりする。
フランシスコ教皇のスピーチも「民衆の神学」などと言われている。
いつも弱者の側に立ったもので、これは宗教(教義と典礼を備えたシステム)としてのカトリックの立場というよりも、イエス・キリストの唱えた生きる教えのキリスト教だ。

メランションがカトリックのレトリックをフランス社会に根付いたものとして自然に使うことができるのは、実際カトリックのことを熟知しているからである。子供の頃は教会の聖歌隊で歌っていたし、今もローマ法王の回勅が出ればすべて読んでいるという。

「信仰者、聖職者と話すのは大好きで、彼らは自分自身より大きい世界に身を置いて考えている。不幸の大海の中で幸せでいることは誰にもできない。我々は他者の身の上に対して責任がある。トレーダーと話すよりクリスチャンと話す方がたやすい。トレーダーたちは道徳的、個人的、集合的責任からなっている私の世界とは対極のところにいる。金を偶像崇拝してはならない。」と言う。

サルコジの政治顧問であったパトリック・ビュイソンは「メランションはフィヨンよりもキリスト者だ」と繰り返す。

「キリスト教は商業の世界の絶対支配を拒否し、偶像崇拝を呪う。それはマルクスが商品のフェティシズムを弾劾する時にリサイクルした考え方だ。この点ではメランションは、よりマルクス主義者であるからフィヨンよりキリスト教的だ。」と。

皮肉なことにメランションは候補者の中で最も「政教分離」派である。
2012年には、政教分離を絶対とするフリーメイスンのグラントリアンのメンバーだったことを明かしているし、2016年にも「共和国の再建」という講演をしている。

カトリック系私立学校への公的援助や、アルザス・ロレーヌや海外県における政教分離の例外の撤廃も主張している。
安楽死にも賛成だ。両親が離婚した後で教会が母親に取った仕打ちも恨んでいる。
フランシスコ教皇がEUで発言することは政教分離の原則に反すると批判するが、バーニー・サンダースをバチカンに招いたことやキューバを助けたことは評価する。イスラム原理主義は宗教に特有なものではないという教皇の考えにも同意する。「教皇は少しメランション支持者だ」と笑う。

マクロンはと言えば、難民、移民に関しては、メルケル首相を称賛し、クォータ制なしの受け入れを提唱している。
その辺はローマ法王に気に入ってもらえるだろう。(続く)
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# by mariastella | 2017-05-01 01:48 | フランス

大統領選の2候補どちらも嫌だという人が増えているわけ

リベラリズムについて。(大統領選とカトリックの記事の続きはこの後になります)

冷戦時代は、共産圏に対して「自由諸国がリベラル」というイメージが刷り込まれていた。

冷戦が終わってからは、保守と革新の「革新がリベラル」というイメージが出てきたので混同されることが多い。

『アメリカにNOと言える国」でその違いを説明したけれど、今、ソシアルとソシエタルも混同されてきたのでもういちどおさらい。

ソシアルとソシエタルについては前に一度書いたことがある

ソシアルは国家が自国内の弱者を支援したりアシストしたり、企業主が労働者の権利を保護したりする。共同体内でも格差をなくす方向が目指される。

冷戦時代に自国内の「親・社会主義」勢力を牽制するために、「自由諸国」でも、社会民主主義を採用するところがあった。フランスは特にそれが顕著だった。冷戦後にその必要がなくなったので、歯止めのない「新自由主義」が弱者を切り捨てるようになった。

だからこそ、その「弱者」の怒りを代弁するポピュリズムが目立つようになってきたのだ。

で、リベラリズムについても、本来、

保守のリベラリズムは経済、

左派のリベラリズムは文化、

の分野だという棲み分けがあった。

保守は、規制をどんどん撤廃してグローバリゼーションを進め、結果として格差を拡大させ、左派は表現の自由、アートのグローバリゼーションを応援する。

マクロンのリベラリズムはみんなを集める中道だ、と自称するだけあって、その両方を兼ねる。

ル・ペンの保護主義も、経済と文化の両方を兼ねている。

これが、従来の保守や革新のシンパが、

今回はどちらにも与することができない、棄権する、白紙投票する、

などと言っている理由のひとつである。
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# by mariastella | 2017-04-30 18:53 | フランス

大統領戦とカトリック

(これはこの前の記事の続きです。)

第一回投票の一週間前に当たった今年の復活祭には、カトリック票をねらうフィヨンやマクロンのパフォーマンスがあった。

フィヨンは保守の中で最もカトリック寄りで、
マクロンは左派の中で最もカトリック寄り、

というのが一般的な見方だった。
 
フィヨンは、妊娠中絶その他について、カトリック保守派を支持している。ミサにもちゃんと行く。

しかし、経済政策は別で、マクロンと同じくリベラルでブルジョワの味方であることは明らかだ。

マクロンは復活祭のミサの写真は撮らせなかったが、カトリックのカリタスが運営する宿泊センターで2時間半も過ごして、

「カリタスの価値観は自分と同じで、みんなの利益と寛大さだ」

と言い、

「カトリックであることは最も貧しい人の権利を守ることであって、人々から権利を奪うために戦うことでない」

と言ってフィヨン風の保守反動カトリックを批判した。

難民、移民に関しては、マクロンは、メルケル首相を称賛し、クォータ制なしの受け入れを提唱している。この辺はローマ法王に気に入ってもらえるだろう。

カトリックのリベラル派(ここでいうリベラルとは左派というわけでなく、新自由主義、金融資本主義の恩恵を受けている有産階級、起業家たちのことだ)には、各候補者の姿勢を「分析」して、フィヨンこそ真のクリスチャンで、カトリックはフィヨンに投票しなければならない、という呼びかけをネット上でしたものがある。

これに対して、カトリック左派(つまりキリスト教社会主義寄り)は、「フィヨンの経済政策はローマ法王の糾弾するものである」、といって反駁した。

アメリカのエスタブリッシュメント(ブッシュの弟など)のカトリックなどはフランシスコ教皇そのものを受け入れない姿勢さえ示しているから、今のローマ法王は、新自由主義経済の勝ち組にとってはまさに不都合な「左派」である。エコロジーにも妥協がないから極左と言ってもいいかもしれない。

前の記事でも書いたように、新自由主義経済のもたらした弱肉強食のグローバリゼーションを真っ向から叩く、という点では、メランションとル・ペンの口調は一致する。

マリーヌ・ル・ペンは、従来のFNの排外主義、国粋主義、歴史修正主義などの主張を「封印」して、グローバリゼーション、功利的な富裕層による労働者の切り捨て、について大声で弾劾している。その部分だけを切り取れば、ローマ法王にだって気に入ってもらえるだろう。

けれども、その、「金融経済システムと戦う」手段、解決法が、移民の排斥や国境の閉鎖、外国製品の関税強化、などでは、ローマ法王の逆方向だ。(移民排斥やナショナリズムももちろん論外だけれど)

でも、彼女が、失業の危機にさらされた人々の前で

「弱肉強食のシステムを変革するぞ、戦うぞ」

という意気を上げている部分だけを聞くと、その挑戦については同じことを言っていたメランションの抜けた今、人々が
「救世主はこの人、一度はやらせてみる価値があるのではないか」
と希望を託すのも無理はない。

オランド政権の経済相だったマクロンは「敵の側にいるやつだ」と叫べばいいのだから。

でも「やりすぎ」で逆効果かなと思ったのは、ルペン女史が、グローバル金融経済という巨人に対してたった一人で立ち向かう自分のことを旧約聖書(サムエル記)のダビデとゴリアテに例えたことだ。武装した巨人のゴリアテは、投石器しか持たない若いダビデに石つぶてを眉間を打たれて倒された。

うーん、意味は分かる。

でも…ル・ペン女史のキャラはダビデというより、ゴリアテっぽい。

しかも、今、マクロン対ル・ペンという構図である状況で、キャラとしては若いマクロンの方がどう見てもダビデっぽい。

新自由主義経済、グローバリゼーションという「巨人」を体現するのがマクロンだ、ということになるが、今のビジュアル先行の世の中においてはなんだか無理がありすぎる。ミスマッチで笑えてきた。

では、ル・ペンと同じ糾弾をして、実現不可能な極右政策とは逆の解決策を提示するメランションが、実は一番カトリック的なのだろうか?
(フランスは伝統的にカトリック文化圏で、自由主義経済のルーツにあると見なされるプロテスタントの票田は小さいので、カトリックやローマ法王のスピーチや動向が注目されやすい)(続く)
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# by mariastella | 2017-04-30 07:08 | フランス

大統領選の動向

第一次投票の第六番目の男、ドゴール主義者を自称するニコラ・デュポン=エニャンがマリーヌ・ル・ペンとの共闘を表明し、ル・ペンが選ばれたらデュポン=エニャンを首相にする、と共同で発表した。

デュポン=エニャンは、FNは極左でない、と、公営TVのインタビューで断言し、それにショックを受けた彼の党「立ち上がるフランス」の副党首はすぐに辞任した。

それでも、この選挙運動期間中けっこう受けていたデュポン=エニャンが政権入りということで、FNが「普通の党」認定される印象を与えることはあり得るので、少しあせった。

幸い(?)、父親のFN創設者ジャン=マリー・ル・ペンが、同性愛へのヘイトスピーチみたいなものをネットで流してくれた(?)ので、バランスがとれたかもしれない。

選挙の3日前のシャンゼリゼのテロで殉職した37歳の警官の国葬の時に、彼の同性の伴侶がスピーチをしたことを受けてのことだ。

ル・ペン女史の右腕であるフロリアン・フィリィポは同性愛者だから、それが一応、FNの盾になっていたけれど、これでフィリポ首相の可能性はなくなったのだから、ジャン=マリー・ル・ペンの言葉は痛手だ。

マクロンの勝利が見込まれるにしても、なんだか結構はらはらさせられる後一週間の選挙戦である。

5月1日は、メーデー。デモに参加する組合の主張、ジャンヌ・ダルクと聖母の月にいつも前面に出るジャン=マリー・ル・ペンの扱い、マリオン・マレシャル=ル・ペンの本音など、復活祭とは別の注目すべきシーンが繰り広げられるはずである。ちょっと楽しみ。
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# by mariastella | 2017-04-29 23:37 | フランス

ル・ペンとメランションの違い

4/26に、ポーランドへの移転で工場閉鎖が決まっている洗濯脱水機の製造工場にマリーヌ・ル・ペンとマクロンが出向き、組合員などと接触した。ル・ペン女史の方は、トランプと同じく、「私が大統領になったら工場は閉鎖されない、国有化して救う」などと勇ましいことを言っている。歓呼に応え、満面の笑みでスマホのツーショットに応じている。
マクロンは当然、こうなったグローバリズムの責任者として糾弾されてかなり苦しかったが、まあ、だからこそ、これからはすべての人と連帯して、という主張を一応は誠実に繰り返していた。

「国有化して救う」など、なんの保証もない。
同じ「救い方」でも、メランションの唱えていたやり方はもっと現実味があり周到に考えられたものだった。

ル・ペンとメランションが極左と極右同士で同じようなことを言っていると揶揄されがちだけれど、まともに聞けば、メランションの方が説得力があり、展望がある。

反対派からわざと混同されるのは、弱者、負け組、マイノリティを優先するという言い方、新自由主義経済への批判など、「問題の立て方」が共通しているからだ。
ただし、その問いに対する答え方はまさに極右と極左の差がある。メランションの回答はコミュニズムのベースに立っている。ユニヴァーサリズムとしてのコミュニズムだ。ではなぜ、「共産党」ともっと提携しないのかというと、共産党のコミュニズムは一党支配の党派的なもので全体主義につながってきた歴史があるからだ。

といっても、ベネズエラのチャベスとキューバのカストロが2004年に設立した貿易・社会開発協力機構「米州ボリバル同盟ALBA」に加盟すると言って物議をかもしたようにメランションは十分挑発的ではある。

しかし、チャベスの亡き後、今のベネズエラのコミュニズムはもう民衆を救えていない。あれほど自然資源の豊かな国なのに、原油の価格低下もあり、ポスト・チャベスは風前の灯火で暴力の連鎖が続き、死者も増えている。

ル・ペン型のナショナリズムは論外だけれど、コミュニズムが真の「救済」に結びつくのも、経済の後ろ盾がないと困難なのだ。

それでも、もはや、国際金融機関と癒着しているエリート社会党が崩壊した今は、真の左派はアンチ・リベラルのメランションでしかない。

建前の消えたポスト社会党からは、本音に近いマクロンに流れていく者が少なくなく、彼らはもう早々とマクロン支持を表明している。
けれども社会党「左派」はメランションに合流することを躊躇する。
メランションの「不屈のフランス」党が、社会党や共産党との共闘を拒否しているからだ。
6月の国民議会選挙後に「不屈のフランス」党が生き残っているかどうかは分からない。

2002年にシラクとジャン=マリー・ル・ペンの決選投票になった時、シラクはル・ペンとの公開討論も拒否し、全国民に、「FNを阻止するために私に投票してくれ」と呼びかけた。その時はメランションも、シラクに投票するようよびかけて、シラクは歴史的な高得票を得て勝利した。

今回は、すでにFN二代目の娘のマリーヌが、さすがに父親のように「死刑制度復活」などは公約に入れていないが、出生地国籍主義を捨てることや、不法滞在外国人の排除や、移民の家族呼び寄せ制度の廃止、自国民優先を憲法に書き加えることなど、基本的に同じことを言っている。

けれども、今は時代背景や状況が変わった。

貧富格差の拡大や生産地移転による失業者増加、治安の悪化などによって、トランプと同じように、とにかく既成のシステムを悪者にして、今までの政治に参加していない自分こそ救世主というタイプのポピュリストが人心を把握する時代であること、

すでに15年前にはあり得なかったような躍進を地方選挙で実現していること、

マリーヌが創設者の父親を除名してまでも、極右ではない立派な正統的な共和国主義者であると演出していること、

それに加えて、マクロンは、シラクのように「FNを阻止するために私に投票してくれ」と呼びかけるのではなく、「私のもとに集まってくれ、分裂したフランスをまたひとつに!」と言って自分の考えに「帰依」することを求めている事実がある。

だから、メランションやコアなメランション支持者たちは、「FNには投票しないが、マクロンに与するのは拒否」として棄権または白紙投票を表明しているわけである。

保守共和党の方は、リベラルで既得権益のある派はマクロンに合流するし、
右寄りの一部はル・ペンに近づく。
彼らにとっては、やがてFNからフロリアン・フィリポもマリーヌも追い出してマリオン・マレシャル=ル・ペンの体制にするのが理想だ。

では、次に、カトリックの立場から候補者たちを見てみよう。(続く)
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# by mariastella | 2017-04-29 02:19 | フランス

マクロン、メランションとガエル・ジロー

これは一応、前回の記事の続きです。

ジローとマクロンとメランションの唱える経済改革を比較した記事も読んだ。

3人はいずれも現在のフランスの経済が破綻していることは認めている。
失業者が増え、格差が増大するばかりだからだ。
共に金融のエキスパートであるジローとマクロンは金融バブルのリスクを語り、マクロンはグローバリゼーションが賃金の低下を招き、ロボット化とデジタル化が雇用を奪ったことを指摘する。自然資源の枯渇がこれまでの産業モデルの終焉を招くことも3人が指摘する。

視座の転換について最も有効に語るのがジローで、その二つの柱は、
自然をリスペクトすること、
資源と経済活動を集合的次元でとらえなおすこと、だ。

マクロンはフランスがカテゴリー別にいろいろな規制があることが社会の改革を妨げているとして、創造的活動を妨げる規制の緩和を訴える。集合的なビジョンというよりは個人のエネルギーの解放に重点が置かれている。

メランションは、自然との調和、エコロジ―優先のためにすべての生産、流通、消費のつながりを修正しなくてはならないとする。

ジローは、今まで、フランス社会は危機(1789, 1848...)を通してしか変化しなかった、と言う。
けれども、真の変革は地道な仕事によって時間をかけて熟されたものでなくてはならない。1945年にできた社会保証制度はドイツに占領されていた時代に国立研究センターが研究したプログラムによるものだった。フランス人が個々の利益を超えて、生産活動の規則を変えて富を分配するよう、為政者に求める準備ができていなくてはならない。そのプログラムは果たして十分な検討を経たものだろうか? と問うのだ。

こう見ていくと、ル・ペンは別として、メランションはかなり、カトリック的な感覚を持っていると分かる。
マクロンも中学高校と、イエズス会系の学校にいたし、妻が離婚しているから教会での結婚式は不可能だったとしても、今でも妻の孫の洗礼式に参加したりしているのだから、フランスらしいカトリック・カルチャーは十分あると言える。

でも今のマクロンの選挙運動の手法は福音派などのメガ・チャーチのやり方で煽動している。

自分がカリスマで、「マクロン! プレジダン(大統領)!」と連呼させて、「救世主」のイメージを演出している。
もちろん、大統領候補たちはみな、自分こそが「低迷するフランス、テロの脅威にさらされるフランスの救世主」だというスタンスで出ている。これは立憲君主国ではうまく通用しないイメージだろう。

では、「もしローマ法王にフランスの選挙権があったら?」誰に投票するだろうというシミュレーションをしたらどうなるだろう。(続く)
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# by mariastella | 2017-04-28 05:18 | フランス

マクロン こぼれ話 3日ヒゲ

フランシスコ教皇の立場とは大分違うマクロンに投票すると明言するカトリック信者が、おもしろい理由をネットに挙げていた。

>>マクロンは僕の人生を変えてくれた。2012年に政府に参加して以来彼は「3日ヒゲ(無精ひげ)」に市民権を与えた。そのおかげで僕や僕の周りの役人が、官庁に出勤する時、二日に一度しか髭をそらないですむようになったからだ。時間の節約になるし、髭剃りクリームの節約にもなった。永遠に感謝する。<<<

そういえば、今はつるっとした印象しかないが、確かにこういう時期もあったっけ。
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# by mariastella | 2017-04-27 22:59 | フランス

フランス大統領選の特殊性とガエル・ジロー

フランスにおける大統領選の意味の変遷について書いた記事を読んだ(La Vie No 3738)。

私の実感とぴったりだったので以下に要約して紹介する。

まず、大統領選はフランスにおける真の国家的典礼である。

この典礼によって大統領は世俗宗教の司祭となり、フランスのプロジェクトを告げる預言者となり、「絶対」幻想にある国家の王となる。

ところが、以前の7年任期が今世紀に入って5年に短縮されて以来、そして特にこの10年の2人の大統領、ヒステリックで多動的なサルコジとその反動のように「ノーマル」さを強調した凡庸なオランドの時代に「大統領」の権威は綻びを見せてきた。しかも、二大政党がアメリカにならった予備戦で、党候補の立候補者同士を戦わせて大騒ぎすることで、党候補はますますオーラを失った。

その結果、「共和国」普遍宗教に対して、不可知論者、懐疑論者が増加することになった。
(過去にカトリック教会や王政の権威から人々が離れていくのと似ている)

グローバリゼーションの中で、国の主権はダメージを受け、流動的社会、自己中心主義文化の中で「フランスのプロジェクト」は溶解した。第五共和国の神秘的なサイクルはただの政治問題になり、一部の活動家が必死で船をこいでいる周りで、選挙人はばらばらに浮かんでいる。

この状況を救おうと、有力候補たちはメガ宗教のようなマーケティングを駆使して、ミーティングに多くの熱狂的な支持者を集め、右派だろうと左派だろうと国家が大声で歌われ、国旗が振り回される。 

人々は、何をどうしたいかのかは分からないまま、何かをしたいことだけは分かっている。
保守と革新という今までの二分法ではなく、人々の期待が4人、5人という候補に分散したのは、人々が主権者は自分たちだということを思い出したからだろうか。

マクロンは新しい階級のオプティミズムを体現し、メランションは大衆の声を聞き取れるようにしてみせた。フィヨンは隠れたフランスを覚醒させようとする。

フランス人は、自分たちの声を聞いてフランスを運転する大統領を求めているので、自分たちの代わりに考える大統領を求めているのではない。共和国の「超越」は、個々の選挙公約ではなく未来のプロジェクトの投影を求めている。
フランスとは普遍の同義語だった。投票所では、個人の利害を超えた実存的な選択がなされる。

フランス人であることは何なのかを語ることができるのはいったい誰だろうか?

以上だ。

というわけだが、決選投票にはマリーヌ・ル・ペンとエマニュエル・マクロンが残った。

このままいくと、マクロン優位は間違いない。
けれどもマクロンのやり方はすでに、ネオリベラルの既成路線を走っている。
社会党の活動はすでに、金融機関に支えられていた。

マルチナショナルな金融機関が政治活動と癒着した新自由主義体制は限界に達しつつある。
このままいくと2008年を超える経済危機が起こると警告する経済学者は少なくない。

国際金融機関のトップにいたような人が「回心」したり「転向」したりして「反体制」に向かっている。

IMFを批判する側に回ったアメリカのスティグリッツ、
財界グループのトップであったのに、国際金融資本サイドと袂を分かつことになったイギリスの元金融庁長官アデア・ターナー、
そして、最近フランス語に訳されたターナーの『債務、さもなくば悪魔』の序文を書いたのがフランスのガエル・ジローだ。

最後のこの人は私好みのユニークな経歴を持つ。まだ47歳。
アンリ四世校から高等師範学校、ポリテクニック、などエリート校を次々と経て、経済学者、応用数学博士などとなり、ヨーロッパ銀行の顧問としてばりばり活躍していたのに、突然すべてを捨てて研究生活に入った。。
そして、2004年、34歳、受難のイエスとほぼ同じ年、イエズス会に入ったのだ。
(マクロンがロスチャイルド銀行を離れて大統領の秘書としてエリゼ宮に入ったのも同じ年齢だった。)

あるリセの生徒向けに『渇きへの道』という戯曲も書いている。
現代に生きるイグナチオ青年が、経済的な野心を棄てて魂の道を回復する物語だ。
これを書いた2013年にガエル・ジローは叙階された。そしてすぐに『金融の幻想』という金融界の内部告発本を発表している。
今は国立科学研究センターの経済部門やフランス開発局のトップの座にある。
今やドグマ化している新自由主義〈やみくもな規制緩和や国家の撤退、市場効率主義など)のエラーを認めて改革しない限り、危険なポピュリズムの拡大と戦争の悲劇は免れない、というジローの言葉は広くリスペクトされている。

日本でも有名になったトマ・ピケティともいろいろな意見の交換をしているが、アフリカなどの「現場」を知らないピケティに対して、理論だけでなく実際も知り尽くしているジローの分析は説得力がある。(続く)
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# by mariastella | 2017-04-27 16:11 | フランス

大統領戦 こぼれ話

フランスの大統領選、結構日本でも関心を持たれているようなので、サービスにまた、本日二度目の更新です。

候補者が二人に絞られたので、いろいろなエピソードが流れてきた。

マクロンの経歴だが、リセの時代から、将来伴侶となるフランス語教師ブリジットとだけではなく、多くの教師とばかりディスカッションしていて同年配の生徒とはつるまなかったそうだ。なんとなく分かる。すでに脳内大人だったのだろう。
そして、バカロレアはS(理科系。数学の比重が大きい。フランスは特性や志望とは別にともかく数学の点数で上からコースが決まる)で、平均 18/20 以上の「最優秀」お墨付きで通った。だからパリの名門アンリ四世校のプレパにも入れたのだけれど、最難関の高等師範学校の受験には失敗している。その後パリの政治学院に行くのだけれど、ここは、バカロレアで「最優秀」の点数があれば基本的に無試験で入れる。国立ではない。そこから国立行政学院ENAに入るのだ。

しかし共和国の最優秀の人たちには、高等師範学校(数学物理もある)やポリテク(前も書いたがエンジニアといっても要するにエリート養成学校)を経由した後でさらに政治学院やENAに行く人もいるので、マクロンは、別に挫折なしの「超エリート」ではなかったということが分かる。日本人はもちろんフランス人だって普通の人には分からないようなランキングなのだけれど。

一方のマリーヌ・ル・ペンは、パリ大学の法学部を出て弁護士なので日本的に考えたらエリートに見えるが、ヌゥーイ―・シュル・セーヌの裕福な家庭に育ってバカロレアB(今のES、すなわち経済系)を受けたというだけで、理系バカロレアを受けるほど成績が良くなかったと分かる。
しかも、ストレスでパニックに陥って、「市民には抵抗権があるか?」というテーマの哲学の試験で4/20の点数しか得られず、全体でも10/20に届かなかったので追試験を受けて何とかパスしたという。バカロレアさえあればパリ大学の法学部に登録することは簡単だ。まあその後で多くが脱落するのだが、そこは、順調に修士に到達、刑法の学位、弁護士資格と登録にまでこぎつけた。

気の毒なのは彼女はすでに父親ジャン=マリー・ル・ペンの影響をしっかり受けていたし、その平凡ではない名前(出身地であるブルターニュのモルビアンあたりの名でpeenは異教徒という意味もあるらしいから皮肉だ。漁師であったジャン=マリーの父親は海で死んでいる)から、あの強烈なキャラの父の娘だということは誰からも知られていた。もっともそれでいじめられるというようなキャラでないのはもちろんで、父親と同じくらいに戦闘的、挑発的だった。社会党のミッテランが大統領になった翌日は「フランスの喪に服する」ための黒い腕章をつけて学校にやってきたという。その年の大統領選は、公認候補に必要な500人の市町村長の署名が得られず父親は立候補できず、党員たちに決選投票は「ジャンヌ・ダルクに投票しろ」と言っていた。1984年の両親の離婚の後、末っ子のマリーヌはますます父親の活動をサポートするようになる。

私はいつも「人間」が好きなので、どの人がどういう経歴でどういう生き方をするに至ったのかにとても興味がある。
だから、今回の2人のようにキャラのたった人たちを比べるのはおもしろい。

ただ、予想されていたとはいえ、いよいよ決選投票に2人が残ると、なんだかいやな感じが戻ってきた。

それは、2007年のサルコジ対セゴレーヌ・ロワイヤルの決戦、そしてついこの前のトランプとヒラリー・クリントンの決戦のことを思い出したからだ。

はっきり言って、このレベルで「男と女」が戦うと、ジェンダーや差別や「見た目」に対する偏見が、さすがに大っぴらではないけれど、表出してくる気がするからだ。

直接選挙ではないドイツのメルケルやイギリスのテレサ・メイなどの場合とは違う。

といっても、「トランプとクリントン」と「マクロンとルペン」は全く違う。

トランプは結婚3回のビジネスマン、子供もたくさん、
クリントンは元ファーストレディ。

マクロンは10歳上のルペンよりもさらに10歳以上も年上の妻と二人三脚で、自分の子は持たず、元経済相。
ルペンは2度離婚して今は事実婚状態で子供3人。

それなのに、たとえばトランプが女性蔑視発言をしても糾弾されず、「頼もしい」とさえ見られたり、
クリントンは余裕がなく狡猾であるかのように見られがちだった。

マクロンは、トランプのような「貫禄?」はもちろんないが教祖風、ナルシスト風。
ルペンはいわゆる「女性枠」ではなく、あくまでも「二代目」リーダーで自信満々、押しが強い。

ところが、毎日この2人の画像がメディアで繰り返し流れると、なんだか、

「オバサンよりもフレッシュな若い男がいい」

というサブリミナルなメッセージを受ける。

政治的には、「ルペンよりマクロン」というのは共和国コンセンサスに近いのだからいいのだけれど、
映像的にはすごく微妙だ。

2人の立ち場とか2人のビジュアルが逆だったら意識下ではどういう展開になるのだろう、と思ってしまう。

日本の都知事選では女性候補がジャンヌ・ダルクだとか言って見事に当選したのが記憶に新しいけれど、マッチョな日本の方が意外に意識下では「強い女」を頂く願望があるのかなあ。

(次の記事ではもっと本質的ことを書きます)
(もしローマ法王にフランスの選挙権があったなら? というテーマも続きます)
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# by mariastella | 2017-04-26 19:16 | フランス

鈴木正文さんと教育勅語

docomoのサービスを拝借して、百冊以上の日本の雑誌のネット版をタブレットで読むことができる。そのおかげで、日本に住んでいても立ち読みさえしないような雑誌にアクセスできる。
その一つがGQのeditor's letterだと前にも書いたが、今発売中のものは特筆に値する。

日本で教育勅語を唱和させる幼稚園の話にはじまって、教育に取り入れてもよい、などという見解が出されるなどしたことで、いろいろな人が的確な批判をしているのをこれまで目にしてきたが、この鈴木正文さんの文が一番私の考えていることと近かった。この文で彼のおばあさまがドイツ人だということもはじめて知った。そのことが彼の今の視野の広さにつながっているのかもしれない。

素敵な文章だったので全文引用したいくらいだけれど、まず要約。

1947年生まれの鈴木さんは小学生の時に黒人のハーフの同級生Mさんがが差別的な言葉を投げつけられて泣いているのを見て慰めたかったけれどできなかったし、旧友たちに抗議する勇気もなかった。

教育勅語の「道徳的目標」は「普遍的な道徳観」を示すものでどこがいけないかという考え方が今出てきているが、「教育勅語」との文脈的な結びつきを失うのでは意味がないし、文脈とは皇国思想であった。

「・・・果たして、親をうやまったり、友達同士や夫婦、兄弟が仲良くしてお互いを信じあったりすることが道徳的なのだろうか、」

「親をうやまい、家族仲良くし、友を信じることは、そうすることが倫理的だかに正しいからそうしなければならないことなのだろうか(・・・)こうしたことのすべてが、だれかにいわれてしなければならないこととしてあるべきなのか・・・」

「もちろん、僕たちはだれかを尊敬し、だれかを好きになり、だれかを信じる存在だけれど、そこで大事なのは、尊敬し、好きになり、信じるだれかを、僕たちが自由に決めるということだ。これは同時に、親をうやまわず、家族と仲良くせず、友を信じない自由もまた僕たちにはあるということでなければならない。それが個人主義というもので、この個人主義を獲得するために人間が数千年を要したことを僕たちは知るべきである。」

「(・・・)ほんとうに道徳的であるのは、そうした自由に立脚しつつ、「友」ならざる人を「友」とし、「家族」にあらざる者を「家族」とし、おのれの「親」ではない「親」を敬うという営為なのではないだろうか。なぜなら、友でも家族でも親でもない者を友とし家族とし親とするためには、道徳の力、つまり「正しいこと」をなすという倫理の力が必要だからだ。
少年だった僕が、Mさんを前にして持ち得なかったのは、実に、この道徳の力であった、といまおもうのである。」

以上だ。

これは簡単なことではない。
なぜなら、「正しいことをなす」こと、「正しくないことをしないようにする」ことの他に、正しいこととは何なのかを希求し分別する営為も必要だからだ。

ともあれ、自国ファーストとか家族ファーストとか自分ファーストといった内向きのポピュリズムが席巻する世の中で、鈴木さんの言葉は一条の光を投げかけてくれるものだった。
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# by mariastella | 2017-04-26 00:39 | 雑感

マクロンのカミングアウト?

フランス大統領選第一次投票でトップに立った夜、「ブリジットとエマニュエル」の名で関係者にSMSの招待状が送られて、貸し切りになったモンパルナスのブラスリー《ラ・ロトンド》でマクロンを囲む祝賀パーティが開かれたことについて、世間の風当たりは厳しい。

それがあまりにも、10年前に大統領選に勝利した後にサルコジがシャンゼリゼのフーケで催したパーティを彷彿とさせたからだ。サルコジはその時に財界人や有名人に囲まれて、セレブ好きのスノッブであることを「カミングアウト」したと言われた。

不思議なことに、その後も、サルコジはアメリカのセレブのヨットでバカンスに出かけたり、メルケル首相なら一発で辞任に追い込まれると言われた行状を繰り返したにかかわらず、彼のポピュリズムに与した大方の庶民の反感をあまりかわなかった。セレブの豪遊ぶりをグラビア雑誌で追い続けるのが普通になっていた庶民が、「なったつもり」で楽しむことに慣れていた時代だったからだ。

マクロンは、「移民の子」だというのを売りにしたサルコジに比べると、ある意味でフランス人らしいフランス人で、エリートコースを歩んでいるので、社会的な「サクセスストーリー」を演出するのは難しい。それでも持ち前のカリスマ性を発揮して、つい3週間前には地方で「苦しむフランス」へのスピーチをして労働者に感涙を流させた。

それなのに、まだ最終投票までに2週間あるというのに、派手なパーティをやってその模様が映されたのを見て、裏切られたという気になった人もいる。
インタビューされたスポークスマンは「いや、これはシャンペンを開けるようなお祭りではなく、第一の関門を突破したまじめで慎重な祝いだ」という趣旨の返事をしていた。
ところが、映像はシャンペンが開けられるところを映し、1.5リットルのマグナム瓶が50本開けられたと伝えられた。

ロトンドはオランド大統領の選対本部とも縁のある場所だからそれなりの理由で選ばれたのだろうけれど、こうなると、メディアは、1981年に社会党のミッテランが最初に大統領に選ばれた夜に、バスティーユ広場に集まった人々の祝いに合流することをせず、社会党本部の職員にあいさつしただけで自宅に戻ったことと比較する。

(でも私の記憶ではあの夜は雷もともなう嵐になったので、ただ濡れたくなかったのかも。保守支持の知人が、ミッテランが当選したことで神が怒って雷になった、と言ったことを覚えている)

マクロンは、選挙に出る政治家としてはゼロから出発したわけで、「前に進むすべての人々にオープン」にと叫び続けて、彼に続く人がだんだん膨れ上がっていったことで、「ナザレのイエス」にもたとえられて揶揄された。

そのグループも「En Marche!」と、「!」込みの名前で、日本でも最近「句点込み」のグループ名などが普通に使われるようになったけれど、私の世代には違和感のある命名だ。
「進め、ナントカ少年!」のようなノリだ。
サルコジにはない発想だと思う。

18歳から24歳の選挙人はメランションの支持が目立った。
マクロンの支持者は、まさに、彼の世代、アラフォーを中心とする「新世代ブルジョワ」だということだ。ネーミングも、マーケッティングの福音派風の手法も、何もかも、うさん臭いというよりはそれが普通である世代なのだろう。

私は幸いこの世代と親しいので、彼らの生きた時代を彼らの目から眺めることもできるから、理解できることがかなりある。私がフランスで生きてきた40年と重なるので同時代性もある。
ほぼ同世代であるサルコジなどの方が、私の知らないフランスで生まれ育っているから共有しないものが多い。第二次大戦の後の復興や68年五月革命などの激動の時代は私にとって伝聞である。
今と違って、日本とフランスの情報の距離は遠かった。

そんなこんなでマクロンのプラグマティックな背景はなんとなくわかる。

それに比べると、マリーヌ・ル・ペンの方は、私にとって宇宙人みたいだ(猫好きということを除いては)。ジャン=マリー・ル・ペンのような強烈なキャラクターに洗脳されて育ってきたような人だから特殊だ。

決選投票の棄権率はどうなるだろう。

第一回投票は「大統領になってほしい人」に投票する。
決選投票は、第一回投票で入れた人が残らない場合は、「大統領になってほしくない人」を排除するために投票する、と言われる。

しかし、第一回で敗退した「大統領になってほしい人」に忠実でありたい人は、決戦では棄権したり白票を投じるという。
第一回で棄権する人は「市民の義務」を怠るという側面があるが、
第二回で棄権する人は、自分の信念に忠実な「殉教者」意識があってそれは「信仰告白」なのだから、棄権することに誇りを持っているなどとも言われるのだ。

今回の場合は、メランション支持者にそういう人が目立ちそうだ。
ル・ペンとメランションはEUへの姿勢などでかなり共通しているが、だからこそいっしょくたにしてほしくない、という気持ちがある。だからと言って、全く対極にあるマクロンを支持することなど到底できない、というわけだ。大統領選はスルーして6月からの議会選挙に向けて始動ということだろう。

二週間後、マクロンの組閣の仕方、議会とのかかわり方、社会党や共和党とのかかわり方、などをじっくり見て、FNや共和党、メランション、社会党のリアクションを観察するのが楽しみだ。
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# by mariastella | 2017-04-25 19:09 | フランス

フランス大統領選 アンチ・ルペンは機能するのか

仏大統領選の第一回投票が終わって、翌朝、地方別、県別、パリ郊外のイール・ド・フランス県の市やパリの区別の結果をじっくり見た。

予想を大きく覆すものはない。
地方選挙の結果と同じで、地方における国民戦線支持は確実に広がっている。

一年前まではジュッペが大統領になると言われ、半年前にはフィヨンが大統領と言われたのに、初回で消えてしまった共和党だが、ブルジョワや年金生活者に強固な支持層があるので「消滅」はしないだろう。総選挙で回復するしかない。

今回のもう一方の敗者である社会党は、内部を両側からマクロンとメランションに引き裂かれたわけだから、再建は著しく困難だろう。

2002年のルペン(父)とシラクの対決の時は、左派が一致してルペンを阻止する動きを見せたが、今回は保守が一致してルペンを阻止するかどうかは分からない。棄権すると公言する人も多い。
マクロンとルペンではペストとコレラのどちらかを選べと言われているようなものだ、と形容する人もいる。

今回、敗退してすぐにマクロンの支持を表明したアモンは潔いというか好感が持てたけれど、ルペンと同じくEU離脱を唱えるメランションはとても歯切れが悪かった。

ここにきて、EU離脱を決めたイギリスの景気がむしろ順調であることも判明して、もし今もう一度国民投票したら前よりいいスコアで離脱賛成になると言われている。

でも、前にも書いたが、イギリスはもともとEUの「特別枠」みたいな存在だった。そして反EU派からはEUがまるでドイツの傀儡のように言われているけれど、それは間違っている。

本当は、EUを一番有効利用してきたのはフランスだった。

しかし、どんな高邁な理念を掲げても、結局あらゆる国際組織が、いつしか金と軍事の論理に牛耳られてしまう。
ヨーロッパの始まりは普遍主義的理想だったが、実際に結束させたのは冷戦の危機であって、トルーマンとスターリンがEUの生みの親だという皮肉な言い方もあるくらいだ。

マクロンのヨーロッパも、市場経済と金融のヨーロッパだ。

金と力と、その複合体(武器産業と戦後復興産業)が支配する経済のベースに、普遍的な人権主義とエコロジーをどこまで組み入れてシステムを再構築できるのか、が問われていることはマクロンも分かっている。

彼の明晰さに期待できるだろうか。
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# by mariastella | 2017-04-25 00:17 | フランス

マクロンこぼれ話

マクロンが仏大統領選のトップに立ったということで、日本でも彼について関心が出てきたようだ。

24歳年上の日本ではいわゆる「年の差婚」の夫人ブリジットについて、前夫は何者かとある人に聞かれた。

だから少しマクロンをめぐるゴシップを紹介しよう。

ブリジッドさんの前夫は、アミアンの銀行家で、名前も分かっているけれどすでにリタイアしているだろう。彼女が20歳の時に結婚しているからもう60代後半だと思う。
前夫との間の子供3人は長男がエンジニア、長女が循環器医、次女が弁護士でこの次女はマクロンの選挙運動に公式に関わった。

注)フランス語のエンジニアというのは前にも書いたが、フランスの最大のエリートコースであるエンジニアのグランゼコール(今は学部からも可能だし、中途入学も可能だが、内部では差別されているくらい、グランゼコール予備クラスからの入学生がエリート)の卒業でエンジニアというタイトルを持っている人ということで、日本語や英語のエンジニアとは全く違う。日本語や英語のエンジニアはフランス語ではテクニシャン(技術師)というタイトルで格下となる。エンジニアの学校は要するにあらゆる分野の管理職養成の場所だ。それに比べれば医学部はやや格下、弁護士はもっと格下と見なされてしまうのが一般的だ。つまり、長男はエリートコースの王道である数学強者だということだ。まあそのような「格付」も「エリート内部」の話だけだけれど。

話を戻すと、前にも書いたけれど、このところ、クラシックな「夫妻」として機能する大統領がいなかった。今回の大統領候補たちも予備選も含んで、みな事実婚や再婚などを繰り返している人ばかりで、だからこそ、同じ妻と5人の子をもうけたフィヨンのクラシックな安定感(と言っても、日本の感覚なら奥さんがウェールズ人だということがすでにクラシックとは言えないが)が保守の信頼感をそそったのだ。しかしそれが裏目に出て、専業主婦と称していた奥さんや子供たちの架空雇用や不正雇用のスキャンダルが命取りになってしまった。

で、マクロンは、16歳で恋に落ちた(マクロンの母親は、息子はたとえレチシア・カスタが目の前で服を脱いでもなんの関心も持たないだろう、妻とは完全に一体化している関係だ、と言っているそうだ)リセの教師と29歳で結婚して、妻の孫の世話(孫は7人いて、去年の夏には末の孫息子の洗礼式に出ている。)もしているのだから、これも、ある意味の安定感がある?
(ロックスという名の柴犬も飼っている)

まあ、まだ39歳だから、他の老練な政治家たちの女性遍歴(あるいはル・ペン女史の男性遍歴)を見る限り、これからだって破局があるかもしれない、などという下世話な考えもあるが。

フランスでは1980/12月に、18歳未満の生徒と関係をもった教師に3年までの懲役となり得る法律が成立している。教育社会主義的なフランスでは学校は共和国の聖域だからだろう。1969年に、16歳の生徒と関係した32歳の女性教師が刑務所に入れられた後自殺するという事件もあった。

マクロンは高3でパリに出て、ブリジットは離婚してやはりパリの、今度は16区の私立高校の教師になる。

それから十年以上経って、ENAを卒業し、将来のキャリアが約束されてから晴れて結婚したというわけだ。50代に入っていたブリジットは彼のキャリアを支える役にまわる。

うーん。
ブリジットさんと同世代の私としては、いろいろ考えさせられてしまうのは確かだ。

2人の結婚式のビデオがテレビで放映されてネットにも出回っているが、この時のマクロン(29 歳)のスピーチは、なかなか感動的で、ブリジットの子供たちに感謝しているのが印象的だ。(ここで見られます。CMの後です)

この時のスピーチは、ある意味、今のマクロンのスピーチと姿勢が変わっていない。
この人には人の共感を呼び支援者を作る才能があるのだろう。

16歳の彼の書いた詩があまりにも素晴らしいので毎回のフランス語の授業でブリジットが読み上げたというのだから、昔から文才もあったのだろう。
才能と野心に加えて、困難はあったとはいえ、16歳から一人の女性と相思相愛で来たということは、多くの若者のように晴れた惚れたで時間を奪われることがなく、無駄なく突っ走れたともいえる。「自分の子供を赤ん坊から育てる」という必要もなく来れたし、自分の選択を周囲に正当化するために若くして、社会的、金銭的な成功を得るモチヴェーションになったのかもしれない。

彼に比べると、サルコジなんて、女性や子供のことで多くのエネルギーを浪費してきたともいえる。

サルコジと言えば、彼の鼻とマクロンの鼻はなんとなく似ている。
ル・ペン(父)などは、大統領時代のサルコジの鼻がますます突出してきた、出自(母方がユダヤ系)を彷彿とさせるなどと、差別発言をしていたし、サルコジは横顔の撮影を嫌がっていたという話もある。マクロンも、ロスチャイルドの銀行家だったことから、共和党系のカリカチュアで、鉤鼻に帽子に葉巻という姿で描かれ(後に削除された)た。
けれども、いや、よく見ろ、マクロンの鼻は完全にブルボンの鼻だ、という言説もあったし、左派系のカリカチュアでは鼻に特徴がない。
一番印象的なのは真っ青な目だろう。これでアーリア人認定する人もいる。

北フランス系だから、コルシカ出身のナポレオンとは全く違うはずだけれど、そして時代はもちろんキャリアもまったく違うけれど、その人心掌握の仕方がナポレオンと似ているという印象は変わらない。

全体として、もしマクロンがこのまま予測通り大統領になったら、フランスっておもしろい国だなあとあらめて思う。

こういうタイプの若いヒーローはギリシャのツィプラスとかスペインのポデモスなどに見られる急進左派のポピュリズムに見られる。つまり今のフランスのメランションのような極左のトップにマクロンのような若者が躍り出るという構図だ。

フランスではそれが、中道左派のリベラルというところがおもしろい。
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# by mariastella | 2017-04-24 21:49 | フランス

マクロンとル・ペン

大統領選の第一回の投票で、大方の予想通り、ル・ペン女史とマクロンが2週間後の決選投票に進出。

最近のメランションの支持率増加は、実はル・ペンに向かっていたポピュリズム票がメランションに流れる傾向の表れかもしれないから、極右と極左が引っ張り合って共倒れして、結局マクロンとフィヨンくらいの組み合わせになればといいのにと思っていたけれどそれは無理だったようだ。

久しぶりにマクロンの顔を見ると、演説の表情がなんだかヴァルスやサルコジの若い頃を彷彿とさせる。一年前に彼の顔についてこういう記事を書いたことがあるが、たった一年で、もうすっかり「大統領顔」になっているのは驚きだ。三年前までは一般には全く無名で、選挙で議員に選ばれた過去もない若者が、大統領選の第一回選挙でトップになるとは、信じられない。

スマホを駆使した効果的なミーティングの演出の裏話も流出していたし、「公約」自体も、個人的にはあまり歓迎できないものもあるし、あまり期待はしていないなかったのだけれど、それでも、数日前のテロの時に書いたように、「若者の精力善用」のいいモデルかもしれないなあと思い始めていた。

メランションは前にも書いたかもしれないが、彼の支援者だった知り合いのバロックダンサーが実態を知って離反した話を聞いていたので私の中では終わっていたし、社会党のアモンは、原発脱却を唯一言明して緑の党のヤニック・ジャドに支援されていたことを評価していたけれど大麻解禁について納得いかないこともあり、フィヨンは個人的にやや距離が近いのだけれど、公務員削減について賛成できなかった。

投票日の午後、ある集まりで、私のファンだと公言する93歳の女性オディールと久しぶりに同席した。
当然、選挙の話になる。彼女の反対側の隣に座った男性(79歳の退役軍人)が、「あなたが誰に投票したかあててみましょう」などと言い出して、かなり突っ込んだ話が展開した。

このオディールは、代々の貴族とはいえかなりリベラルな人なので、マクロンかなとも思ったら、「だいぶ前から子供たちや孫たちにマクロンに投票しろと勧められていたけれど迷惑だ、私は自分で考える」という。
ひょっとしてアモン?

で、オディールはぎりぎりまで迷っていたのだけれど、数日前にフィヨンが中東のキリスト教徒への支援を表明したのが決め手になってフィヨンに投票したのだそうだ。

なるほど。

それぞれの琴線に触れるテーマがある。

オディールは私と征服王ウィリアムの功罪について議論したいからまたうちに来てくれ、と言った。
そうなると、そのあたりの歴史をさらっておかないと。

今回は、大統領選について、9歳の子供から、93歳の女性まで、かなり具体的な話をした。
フランスらしいとも思うけれど、今回はイギリスやアメリカのポピュリズムの台頭を受けて、特に関心が高かったと言える。

そして結果として、第五共和制を政権交代しながら支えてきた保守と社会党の二大政党が予備選を経て選んだ候補が両方とも脱落した。王政だとも揶揄される大統領の権限の大きい第五共和制そのものに限界が来ている。

マクロンにバイルーが合流したことは前に書いたが、今回マクロンがトップに立ったことを受けてバイルーが自分がやりたくてできなかったことを彼がやり遂げつつあることをしみじみと喜ぶ感じにやはり好感を持てた。マクロンが大統領になったらいよいよ、首相ですか、と聞かれて今はそんなことをいう時期じゃない、と答えていたけれど、バイルーが首相、って、あり得る構図とはいえ、不思議だ。

6月に選挙があるので、今回敗れた二大政党はそちらの方にかけることを強調していた。
マクロンが大統領になったらどう組閣するのかが興味津々だ。
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# by mariastella | 2017-04-24 06:51 | フランス

500周年を迎えるルターの宗教改革のゲルマン性

ルターの95ヶ条から500年、今年に入ってからルター派についていろいろと読んで、今までいかにbkbsi ちゃんと向かいあっていなかったが分かった。

確かに、考えてみたら、フランソワ一世がいた頃のフランスになぜこうもルターの改革派教会が根付かなかったのかということは、日本にキリスト教が根付かなかったということと同じくらい興味深いテーマをはらんでいる。

私は今まで、それはフランスのガリア教会主義が認められていたから(1516年8/18にレオ10世が前年に戴冠したフランソワ一世にフランスの司教を指名する権利を与えるなどのコンコルダを締結している)だと表現してきたし、それは間違いではないのだけれど、もっと根深いものがある。

ひとことでいうと、ルターの改革派教会とは、「キリスト教のラテン・インカルチュレーション」であったローマ・カトリックから分派した、「キリスト教のゲルマン・インカルチュレーション」だったのだなあ、と思う。

当時のカトリック教会についてルターの批判したようなことはカトリック教会の内部でもいろいろな人が声を上げていた。免罪符や聖職売買や司祭の要請についての多くの点の改革すべきところは自明だった。フランスでもギョーム・ブリソネなどが批判していた。けれども、「救い」の場から聖母や聖人を締め出すことはしなかった。「聖母と聖人と煉獄に関しては批判しない」というコンセンサスができた時にカトリックを去った人(ギヨーム・ファレムなど)などもいる。

ルターが死んだとき、多くのプロテスタント教会にルターの実物大の肖像画が描かれたり、デスマスクと手足の型がとられて服を着せられて保存されたりしたのも、カトリックの「聖人崇敬」が実は広く人々の必要に応えたものだったことを反映している。

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(ルターのデスマスク)

ルターもかなりのものをラテン語で書いていたし、ラテン語の著作はフランスでもそのまますぐに読まれた。ストラスブルク、バーゼル、パリ、リヨンなどの印刷業者を通してラテン語からやドイツ語からの仏訳もかなり出回った。1534年までに15作と、エラスムスの著作のフランス語訳よりも多い。

それでもルターは「ドイツのヒーロー」だった。
今から200年前の1817年の10月には、ルターが身を隠したワルトブルク城で500人の学生が改革300周年と、プロイセン王国がライプツィヒでナポレオン軍を破った4周年とを同時に祝った。
第一次大戦のときのドイツのプロパガンダではルターとビスマルクがドイツの根幹を形成してい(た。イタリア人のローマ教皇やフランス人のカルヴァンに反対したということが、ドイツのアイデンティティを称揚したのだ。

ローマカトリック教会のラテン性もルター教会のゲルマン性も(さらにいえば聖公会のようなアングロサクソン性も)、みなそれぞれの地域でインカルチュレーション(文化変容)したキリスト教なのだが、日本のような国からは、みなまとめて「欧米の宗教」だと見なされきた。プロテスタントの民族性を分けて考えることは少ないだろう。

なぜフランスにルーテル教会が根を下ろさなかったのかを引き続き考えていくことで気づかされることは少なくない。
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# by mariastella | 2017-04-23 06:01 | 宗教

大統領選を前にしたテロ

大統領選3日前のシャンゼリゼでのテロ、誰もが、2004年のマドリードの列車爆破テロのことを思い出す。あれも総選挙の3日前だった。(スペインは王国だから大統領がいなくて、日本やイギリスのように総選挙の結果で政権が決まる)

テロの後すぐに当時の保守政権がそれはバスク独立派のテロだという見解を出したが、選挙当日の朝にアルカイダが声明を発表し、スペインがアメリカに従ってイラクに派兵したことを断罪された。
政府がバスクに責任転嫁しようとしたのも意図的だと見なされて、結局、選挙では左派が勝利して、スペインはイラクからも撤退した。

この展開に対して、それではイスラム過激派のテロの思うつぼになったのだと批判した人たちも多くいる。

今回のシャンゼリゼのテロの警官狙撃犯は39歳で、23歳の時にも警官殺しをしていて、釈放されてからもまた警官をねらった要注意人物だったという。昔から警察への憎悪があるわけで、大統領選に向けたISの煽りに乗った形だ。

シャンゼリゼはパリでも最も警戒が厳しい地区で、言い換えれば、その気になれば警官も憲兵も兵士もぞろぞろいるので彼らを標的にするのは簡単だ。

今の警官は対テロ仕様になっているから、すぐに射殺される率は高いけれど、もともと警官を殺すことが強迫観念になっているような人物のようだからそれは抑止力にならないのだろう。

ル・ペンはもちろん、自分が大統領であればこんなことは起こらない、とコメントした。金曜が最後のキャンペーンの日なので、各候補はこのテロに対する声明をいろいろ工夫せねばならなかった。

候補者の最年少のマクロンは39歳で今回の狙撃犯と同じ年齢だ。

狙撃犯のカリム某は、パリ郊外生まれで、家宅捜査されたうちもパリ郊外だ。詳しいことは分からないが、おそらくいわゆる「イスラム系移民の子弟」なのだろう。

39歳。

リセのフランス語教師と結婚して銀行家として成功し、大統領の顧問となり、財務大臣にもなり、そのポストを辞めて大統領選に立候補し、ナポレオン風にカリスマ性を発揮しているマクロン。

20代から警官殺しが頭から離れないカリム某。
イスラム過激派と接触したのはご多聞に漏れず刑務所内なのだろう。

何だか反動でマクロンを応援したくなった。
ブノワ・アモンが大麻を合法化すると言っていることもしっくりこない。

39歳でも、大統領になろうとする人がいる。
多くの人に多くの希望を与えて多くの期待を担おうとする人がいる。

青年には大志を抱いてほしい。
テロリストになって天国に行こうなんて自分本位のことを考えないでほしい。
国や、世界や地球のために何ができるか考えることだってできるのだ。
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# by mariastella | 2017-04-22 00:10 | フランス

こんの げん さんの作品を見て考えたこと その2

これは前回の記事の続きです。

こんの げん さんのfacebookを拝見したら、イントロに「保存修復技術 à 東京芸術大学大学院」と書いてあった。

正確にどんなことをする技術なのかは分からないけれど、今回の展示を見た時に、最初に、どこの遺跡の発掘物の展示だろう、などと思ったことを思い出した。

今回の作品は、火災のダメージを受けたものを「修復」するどころか、自然の力によって加作されたもの、メタフォルモーゼしたものとして提示されている。

作者のクリエイトの上に別のクリエイトが上書きされた。

では、制作における作者の驚くべき緻密な技術を支える「保存修復」技術と、この被災の力を取り入れることはどう両立するのだろう。

こんのさんの経歴を見る前に、引き続き以下のような趣旨のメールをお送りした。

*****
こんのさんの「宇宙は異質な物質が満たされている」という言い方に触発されて、電子の話を想起したのだが、ほんとうは、彫刻作品が現出するにあたっての「有」と「非有」の関係を考えていること。

ウパニシャドで、宇宙の初めは「非有」しかなかった、という時、それは「無」とか「空」のような単純な存在否定の意味ではなく、すべてのものが混有する存在混迷で、何物も他から区別されていない渾沌だということだ。「有」は存在秩序が「名と形」に従って分節された事象のシステムで、すべてのクリエーションは存在形成力ということになる。

これはむしろ井筒俊彦さんの受け売りの考え方なのだが、私にとって、彫刻作品とはすべて何かのマチエールから存在を生む行為だと思っていた。

けれども、今回こんのさんの作品の展示を見た時、そこに働いていたのは、コスモスからカオスに戻す、クリエイトとは逆の「非有」の力だったわけだ。

それが、「有」と「非有」の境界領域を可視化してくれたから魅力的だったのか、あるいは、クリエイトを破壊する「暴力」に抵抗する何かが露出したから魅力的だったのかどちらだろう。

作品が完成するのは鑑賞者と作品の間だ。
でも、これまではその出会いは、作品に凝縮し、周りにも漂っている作者の意図、作者が見ていたものとの出会いのような気がしていた。

ルミネでの展示では、それが損なわれた現場と遭遇したわけで、そのインパクトが、創造よりも破壊から来るのだとしたら、アートとはいったい何なんだろう、と衝撃を受けたわけだ。

****

以上。

こう書いた後で、(多分文化財の)「保存修復」にも精通したこんのさんが、自分の作品を「被災」から修復しなかったばかりか、そこに新しい力を認めたのはなぜだろうと、あらためて考えた。

ルミネの展示会で、ショップの人にお話をうかがった時に、「アトリエの火災があったのは、東日本大震災のすぐ前のことで、その後に震災が起こったので、それどころではなくなった」というような話を聞いた。

あの東日本大震災の津波などの圧倒的な暴力的な映像や、破壊、自然の風景や人間による構築物の姿が一変した様子は、多くのアーティストにとってトラウマになったと思う。

それに加えて、一見自然の風景も町の様子も変わらないのに、放射能という目に見えない毒のために見捨てられて廃墟化していく町を見る不条理。

外的な力が加わる破壊と、見捨てられることによる崩壊の両方を私たちは見せつけられた。

最近、自らも炭鉱で働いたことがあるという柿田清英さんによる軍艦島の写真集を見た。

一瞬核戦争後のどこの廃墟かと思うような荒涼とした風景なのに、たった数十年前に人々が「そこから去った」というだけで、町が、生活の匂いが、荒廃し果てている。

フランスには何百年も前に建てられた教会などがたくさんある。

パリのノートルダム大聖堂は850年以上建っている。
もとは外壁が彩色されていた。今はステンドグラスを除いては中も色の名残がない。
宗教戦争の時、フランス革命の時、何度も外も内も破壊の対象になった。

でも、何度も何度も「保存修復」が重ねられてきた。
しかしそれは、決して、彩色された「元の姿」を再現しようというこだわりではない。

「保存修復」しようとされてきたのは、「建物」ではない。

「建物と人間の関係性」である。

ノートルダム大聖堂は、軍艦島や放射能汚染地域のように「見捨てられた」のではなかった。いつも、セーヌ河のシテ島で人々の真ん中にあり、ゴシック聖堂の誕生を何世代にもわたって祈念してきた人々や石工たちの技術の跡を内包していた。

軍艦島の写真が怖いのは、そこに移っているのが時間や災害による崩壊ではなく、忘却と絶望だからだ。

日本でも、奈良時代平安時代からあるような寺院や神社の古びた感じは、いつも人々と共にあり、霊性を内包した枯れた味わいがあると受け入れられてきた。

最近になってきらびやかな色彩の当時の形に再現されたものもある。
その中には、「建物と人間との関係性」を考慮しないものもある。

こんのさんが火災後の作品を展示しているのは、それが受けたものが忘却や絶望ではなく、火災による傷跡と対面したこんのさんが、自分の作品との新しい関係性を発見し、その創造性をあらたに人々の前に提示したのだろう。
こんのさんが、自分と作品との関係のラディカルな変化を私たちと共有したいという「意志」そのものがクリエイトなのだろうと思うと、納得がいく。

忘却や絶望や負のエネルギーのベクトルなど、所詮、人間の価値判断で決まるものではないと改めて考えさせられた。

いのちとは、関係性の中にだけ宿る。
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# by mariastella | 2017-04-21 02:37 | アート

機内で観た映画 その3『海賊とよばれた男』と『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

今回も帰りは昼間の便なので、日本映画も2本観ることができた。

『海賊とよばれた男』は、百田尚樹の原作で「永遠の0」と同じチーム、主演だというのでひるんだのだけれど、モデルになっている人の関係者を個人的に知っている事情もあって好奇心があった。

知らなかったことをいろいろ知ることができたという点ではおもしろかったけれど、ここまで「男」の論理、力と突撃の賞賛というのは私のポリシーと逆なので、評価のしようがない。

モデルになった人物がかなり大柄だったようなのに比べて主演の俳優が小柄だけれどカリスマ性があって大きく見える、というのは興味深い。大作であるのは確かだ。

それでもやはり、戦争の「男らしさ」をこれでもかこれでもかと見せつけられるのには少し食傷して、それとは別世界の小品ファンタジーを口直しに観ることにした。詰まらなかったら途中でやめようと思ったのに最後まで観てしまった。

『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』というかわいい作品だ。

ライト文芸の名作と言われているものが原作だそうで、20歳の学生同士という主人公の男女がさわやかで初々しくて楽しい。アニメを見ているみたいだ。

普通のラブストーリーかと思っていたらSF化していき、なるほどこうなのかと驚かされるところも、なんとなく「君の名は」を思わせた。

ついこの前、出町柳の駅を通ったので京都が舞台だということに親近感があったけれど、登場人物の誰一人として京都風や関西風の言葉を話さないのは、原作がそうだとしても違和感がある。

というより、このストーリーには、地方色のないフラットな感じの方が似合っているので、「京都」という背景の方が違和感があるくらいだ。

もちろんあり得ない設定なのだけれど、無理をして受け入れると、すべてのシーンが二重の意味を帯びてくるというのがよくできているし、なんだかループ状になったビルドゥングス・ロマンみたいだ。

それにしても、『海賊とよばれた男』の世界と『ぼくは明日…』の世界の若者の心性は違いすぎる。平和で戦わない、という感じの後者が今の若者のスタンダードなのだとしたら、ほっとする部分と、そんなに内向きで大丈夫か、と心配になる部分とがせめぎあう。
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# by mariastella | 2017-04-20 05:29 | 映画

テレマンの『ブロッケス受難曲』

今年の復活祭は最高だった。

聖週間にパリのフィルハーモニーでテレマンの『ブロッケス受難曲』を聴いたからだ。

フィルハーモニーは去年、ヴィオラでジル・アパップのコンサートに参加したから特別の感じがする。

すばらしかった。

演奏が終わったら聴衆がすべてキリスト教徒になっていた。
美は回心をもたらす。

今、この曲を演奏するのにピグマリオンの古楽器オーケストラは最高だと思う。
ひとつひとつの楽器の音がきれいに聞えてきて音響も独特だ。
オーボエの音色の美しさは際立っている。
フランスでは「キリンのクラヴサン」と呼ばれている縦型のチェンバロ、クラヴィツテリウムも珍しい。

このメンバーの演奏を、フランス語の字幕付きでこのシーズンに聴けるなんて至福だ。
日本で日本語の字幕でこの曲をこのレベルで聴く機会はあるのだろうか。
音楽の好きな日本の友人みんなが聴けるといいのに。

序曲に当たる部分はヴァィオリンやヴィオラも全員が立って演奏していた。
もう気分はオペラ。

バッハの受難曲のように福音書の語句を歌詞にしたものではなくてブロッケスは書き下ろしの台本だ。完全に当時のバロック・オペラの心性である。

バロック・オペラの悲劇にもいろいろと錯綜したストーリーがあるが、考えれば、イエスの受難劇ほど倒錯したものはちょっと考えられない。

この台本では、これでもかこれでもかとイエスの苦悩が語られているのだけれど、それに対して、聞き手は、「私たちの罪のせいでイエスが苦しむ」と罪悪感をかきたてられるとともに、そのイエスの苦しみによって罪が消えるのだから喜びでもあって、満足感が得られるという仕組みになる。
救い主の苦悩がそのまま救い、というわけで、イエスの受難がつらいほど喜びも大きくなる。

彼は苦しみの中で美しい、なんていう言葉も繰り返される。

ほとんどがアリアやレシタティフで楽器だけの曲は少ないのだけれど、たまに、明らかにダンス曲のモティーフがはいっていて甘美さが導入されるのもおもしろい。

曲の変わり目の「沈黙」の部分の静寂はまさに死のような凍り付いた「休止」で怖い。
普通は、音楽における休止は音楽の一部であって真空ではなく、音が満ちてきているか吸い込まれていっているかのどちらかなのだと生徒に教えている。
でも、この受難曲のアリアをつなぐ「沈黙」はほんとうに深淵というか、ぎっしりと無がうずいて肺腑を抉る。
「祈り」だと言いたいところだけれど、そんな能動的なものがはいる隙のない「絶望」なのだ。

この「絶望」はやはり「死」であり、復活祭とはイニシエーションなのだということがよく分かる。「キリストの信仰の中では永遠に生きる」などというが、真の「絶望」に打ちひしがれることでのみ捕らえることのできる光というものがあるのだと、新しい歌が始まる度にすがりたくなる。

「登場人物」が、地の文を語る福音史家、イエス、ペトロ、ユダ、ピラト、イエスを殺そうとする群衆らの他に、「シオンの娘」とか「信じる魂」とかいうソプラノが一人称単数や一人称複数で歌い、それがちょうど聴き手のスタンスと重なる。臨場感というより、登場人物になったような気がするのだ。

もうずいぶん前にバッハのヨハネ受難曲を聴いたとき、演奏の後で指揮者が音をおさえて、手で観客の拍手を制したのを見たことがある。キリストの受難を拍手してはいけない、という意味が伝わった。普通の演奏会ではない。霊的な意味がある。

ブロッケスでは、拍手できる。なぜなら、キリストの受難は我々が罪を赦されて天国を約束された喜びであるからだ。

しかもこのブロッケス受難曲、テレマンのものが最も優れていると言われるが、今回聴いたものはそのテレマン自身が、自分の作品だけでなくカイザーやヘンデルやマッテゾンのヴァージョンを自由に継ぎはぎした良いとこどりの「パスティチョ」と言われるものらしい。
世俗のオペラ座のために作曲するものではなく、宗教的文脈の中でだけ演奏されるために作られたものだから、著作権がどうのという感じの問題は起こりようがない。

いくらでも贅沢な作品を構成することができるというわけだ。

テレマンとヘンデルの共作なんて、信じられない。でもそれこそがこの曲の豊饒さの秘密なのだ。

こんな受難曲を聴いた後の復活祭の日曜日は、ローマの青い空と白い雲を背景にしたフランシスコ教皇の挨拶と全免償をテレビで聞く前に、アイルランドのスライゴのカテドラルのミサ中継を観た。
ヘンデルのハレルヤが高らかに歌われる。
先に退場した司教は、出てくる信徒の一人一人に握手している。
司教の手に接吻するシスターもいれば、差し出された手を無視する子供も、いやいや手を握る、明らかに養子らしい黒人の子供もいる。

ヴァティカンでは、グノーの行進曲とイタリア国歌、スイス人の衛兵にアルゼンチン人の教皇と、これもなんだか現実離れした光景が繰り広げられていた。

その後の番組が、今福者申請中のジョセフ・ヴレジンスキー神父だったのにも感銘した。それはまた別の時に書こう。イエスが復活してほんとうによかった。
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# by mariastella | 2017-04-19 06:17 | 音楽

機内で観た映画 その2『ムーンライト』など

日本からの帰りの機内で観た映画。

まず『ムーンライト』。

オスカー受賞作品の発表の折の間違いなどで『ラ・ラ・ランド』と話題を分け合った『ムーンライト』だが、「ラ・ラ・ランド」はパッとしない平凡な映画だと思ったけれど、「ムーンライト」はもっとつまらなかった。

去年のオスカーで黒人映画と黒人の不在について批判の声が上がったこと、

そして排他主義、差別主義者と言われるトランプ大統領誕生への映画人による抗議、

この二つを背景にした、いかにも政治的な判断による選択だなあと思う。

何だか黒人の黒人による黒人のための映画みたいな雰囲気で、しかし、黒人のコミュニティだけで起こることという必然性はない。
シングルマザーの母親はドラッグ中毒、同性愛傾向ゆえに「弱い者いじめ」の対象になる少年時代、大人になってからのこと、すべてが黒人コミュニティの中で起こる出来事だけれど、黒人でなくとも成立するテーマだ。
人種差別そのものはテーマになっていない。

貧困や麻薬の取引などは確かに社会の弱者のところに起こってくるが、それが黒人の場合にだけ、より大きな意味を持つわけではない。

他のカテゴリーにおいても貧困のきっかけとなるものはたくさんある。

インデペンデント系黒人映画がこのように持ち上げられること自体に、アメリカの人種差別の根の深さを感じて愕然となる。

唯一興味深かったのは、月光の下で浜辺を駆ける黒人の肌が青く見えてブルーというニックネームがついたことや、黒人少年に自信を与えるために、メンターが、黒人はマイノリティではなく世界中にいること、人類のすべてはアフリカから来たので黒人が人類の祖先だからだ、という感じの話をしている場面だ。人類学の成果は社会的にも役にたっているわけだ。

『素晴らしきかな、人生』デビッド・フランケル

『ムーンライト』に比べると、多人種多民族が共生している大都会での広告会社の「成功者」の実存的鬱を扱ったこの映画の主人公が黒人のウィル・スミスだということの方がずっと意味がある。

この主人公がウィル・スミスだという必然性があるからだ。黒人だということも含めて、彼の全人間性がこの役にぴったりだということで、政治的公正などとは関係がない。

日本語タイトルは過去の名作映画から借りているものだけれど、キイワードとなるオリジナルのタイトルの「Collateral Beauty」は映画の字幕では「幸せのオマケ」と訳されている。

フランス語では「Beauté cachée」、つまり「隠れた(隠された)美」となる。

英語では、愛する者を失うという試練にもそれに付随するビューティ(美しさ)がある、という感じだが、フランス語では同じ単語が存在するにもかかわらず、「隠された」という訳をしている。

つまり、付随はしているのだけれど、表には現れていない、表裏をなした関係だという感じがする。

死は誕生と同じで、存在と非存在、実在と非実在との境界領域が一瞬可視化される現象だから、そこに人為の届かないある種の美が表出するのを感知することがある、という含意だろうか。

「美」とは人間の生死を超越した世界を反映する何かであるという感じもある。

ところが、日本語の訳は「幸せのオマケ」。

「美しさ」では通じない。

「幸せ」。

しかも「オマケ」。

これってベースにある文化の違いが翻訳不能を起こしているのだろうか。

ストーリーは、類型的なサブストーリーが並行しているもので、その中でも、意外なオチや、余韻がいろいろあって、まあ楽しめて後味がいいということではアメリカ映画らしい着地点だ。

『LION/ライオン』-25年目のただいま-  (ガース・デイヴィス)

はフランスでも話題になっていた実話がベースのオーストラリア映画で、主人公の少年も青年も名演だし、インドとオーストラリア本土とタスマニアのスラムや都市や自然が対照的で、今回の機内映画で一番面白かった。
ニコル・キッドマンらの演じるブルジョワ夫婦が地球の未来を考える「意識高い」系のディープな人で、それだけでは善人過ぎて押しつけがましいのだが、養子の二番目が自傷癖の自閉症らしい生涯を抱えているなどの困難にぶつかるというリアリティがある。

そしてインド、オーストラリア、とほんとうに「イギリス連邦」the Commonwealthってあるのだなあ、そしてそのアイデンティティがクリケットというのも本当なんだなあ、と再確認させられた。

Brexitの時に、ポーランドなど東欧の移民は受け入れられないが、クリケットをやるイギリス連邦の国からの移民は全く差別なくOKなのだから、いわゆる人種差別ではない、とケン・ローチが言っていたのを思い出した。
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# by mariastella | 2017-04-18 00:29 | 映画

機内で観た映画 その1 『ラ・ラ・ランド』など

まず、往きの機内。

「この世界の片隅に」については以前に書いた

他には、フランスでは観に行く気がしなかった『ラ・ラ・ランド』。

フランスでは、監督があまりにも、ジャック・ドミの映画に影響を受けた、「ロシュフォールの恋人たち」の衣装の色彩、「シェルブールの雨傘」の語り方、などと繰り返していたので なんだか新鮮味がなかったからだ。
実際、ファッションはロシュフォール風、失恋と再会はシェルブール風、だった。
若者の恋と別れというクラシックなテーマは前に機内で観た「イフ・アイ・ステイ」を彷彿とさせた。でもあそこにあった自己犠牲テーマはここにない。
エマ・ストーンはかわいいけれど、男がちょっと若さに欠ける。

おもしろかった映画は「手紙は憶えている」だ。

90歳で、前日の記憶をなくす認知症気味の老人のロード・ムービー風構成そのものの意外さに加えて、途中でのショッキングな展開とラストのどんでん返し、と、よく出来過ぎ。ワグナーをピアノで弾けてしまうのも怖い。
何よりも、クリストファー・プラマーが主演というのが感無量だ。

「サウンド・オブ・ミュージック」のエーデルワイス、あれからもう半世紀以上経ったのだ。思えばあの頃のプラマーはまだ40歳前だったのだ。

彼の抑制の効いた謹厳な顔と、その奥にあるやさしさや温かさのギャップは、実に印象的だった。
それがこの映画では、大老人。
ナチハンターとして彼が追う人々も皆、当然90代の老人ばかり。でも、それゆえにこそ、彼らの表情のすべて、動作の全てが、実存的に迫力がある。シェイクスピア劇みたいだ。

亡命者、バイリンガル、秘密、カナダとの国境、どこを取ってもハラハラだし、なるほどと納得もいく。
プラマーが実はカナダ人で、この映画もカナダとドイツの共同制作という意味もなかなか興味深い。
日本人には、ユダヤ人もドイツ人もポーランド人も区別がつかない。

この映画のような逃亡の仕方は知られていてどのくらい発覚したのだろうか。
エドガー・ヒルゼンラートというホロコーストの生き残り作家がドイツ語で書いた『ナチと理髪師』という有名な小説があって、ドイツではなかなか出版されなかったちいうぐらい微妙な話なのだけれど、私の知っている限りでは、これが唯一、この映画のやり方につながっている。
フランスでは評価が分かれた。ホロコーストの記憶をスリラーの材料に使うこと自体を批判する人がいるからだ。私には十分楽しめた。
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# by mariastella | 2017-04-17 07:12 | 映画

こんの げん さんの作品を見て考えたこと

新宿のルミネ・エストでこんの げんさんの作品が展示されていたのに遭遇した。

すごい迫力の動物の面などで、どこの古い廃墟の彫刻の展示なのだろうと思ったら、現代の作品で、それが2011年に火災にあったものだと聞いて驚いた。

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とても魅力的で強烈だ。

火災以前の状態での展示の写真もあったので、それを見るといろいろと考えさせられた。
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ただの歳月による風化などではなく 一種の不可逆の暴力性というものがここまで、クリエートに跡を残すとは...
置かれていたノートに感想を残そうと思ったのだけれど、どうしても、作家自身がこの衝撃(暴力と創造)をどう受け止めてこれを新たな作品として発表したのかをまず知りたく思った。

たとえば、これにヒントを得て、別の作品をわざと燃やそうというやり方は絶対にしないような気がする。
暴力にさらされた後に残った、というより、それに対抗するように作品の中から噴き上げて来た生命力、外の炎に誘発された中の炎の一回性、というものを感じる。

このことによって、アーティストのそれからの制作に何か変化があったのか、ということにも興味がある。

で、このことをこんのさんに質問してみたら、次のようなお返事をいただいた。
転載してもよいとのことなので紹介する。

>>>問に答える前に、私の仕事上での基本的な考え方を説明させていただきます。
2001年より「同質な異質」というタイトルで活動を続けてきました。ちょっと大きな話になるのですが舞台は宇宙です。
無限の「異質」な物質で満たされていると思われる宇宙は、その構成する組成は100あまりの原子なのだそうです。更につきつめれば粒子に.......というように細かくすればするほど「同質」に近ずくように思われるのです。「異質」なものは「同質」であり「同質」は「異質」を作るというイメージを持つようになりました。
また、「今」という静止した瞬間はなく、存在すべての生成や消滅は生物も無生物も区別なく、「生まれる」や「死ぬ」を含めて、それは始まりでも終わりでもなく、一瞬も同じ形でとどまることのない重層的な変化や循環の過程だと思います。
このようなイメージを作品にしようと思い、誰にでもわかりやすい「たとえ話」の彫刻を作り続ずけているのです。「異質」の存在を表すモチーフは何でもよかったのですが、無限にある対象の中から主に選んだのは人間です。作る自分が人間だからというだけの理由です。「同質同形」の木のユニットを積み上げて接着したものを削り、「異質異形」の人間等を作り出し、普く全体へのたとえにしようと思ったのです。
「同質」から「異質」への生成の場面ばかり制作してきたのですが、なぜか違和感をかんじていました。「でもまあ作ったものよりも作るにあったっての考え方自体が作品なのだから、まあいいか!」と思っていました。
図らずも人為を超えた消滅してゆく作品が手に入ったので活用させていただいたわけです。但しこの作品群は私の作品ではありません。宇宙が作った宇宙の作品です。
自分の作品でないもので個展をやる。なにか後ろめたいような気もしますが、愉快でもあります。
私は作品は作り手の意図よりも見て頂いたときに意味を持つ(完成する)と思っていますので「魅力的」「迫力がある」という評価をいただきとても嬉しいです。
「この衝撃(暴力と創造)をどう受け止めてこれを新たな作品として発表したか」についてはすでに答えさせていただいてしっまたようにも思いますが、私の制作態度は、「宇宙の神秘」とか「驚異」というような感性に根差すものではなく、エネルギー保存の法則的なイメージに根差すものです。ですからきわめて淡々と受け止めて,また発表もさせて頂いております。
人間の側から事象を見るのではなく宇宙の側から事象を見るということなのでしょうか、
これからも基本的なことに変化はありません。工夫をしながら制作を続けていこうと思います。<<<

以上がこんのさんからのご丁寧なお返事だ。

以下に、それについての私の感想(こんのさんへの返事をまとめたもの)を入れておく。

***

同質同型の木のユニットから、というのは見ていたので、なんとなく理解できる。

前に山田廣成さんという方の「量子力学が明らかにする存在、意志、生命の意味」という本を読んだ時のことを思い出した。

彼は「電子」にまで遡り、電子には自由意志があること、
そして意志とは「個体を統合する力を有する実体である」と定義する。
そして意志とは「他者から己を区別する力を有する実体」でもあり、
「他者と対話し干渉を起こす実体である」でもある。干渉を起こさなければ意志を有する意味はない。
個体同士は干渉し、認識しあい、自分を置くべき位相空間を決定する、
意志の振る舞いは確率統計原理にふるまう、確率現象は個体に意志と個性があるから発生する。
同じ電子は一つもなく、少なくともエネルギーが異なり、異なる位相空間に存在している。それが電子が意志を持つことと同義だ。人間だけではなくいかなる個体も何らかの意志決定をして存続している。個体にも意志にも階層性があり、位相空間での位置を決めるのは決定するプロセスの複雑さである。

こう考えると、こんのさんの「同質が異質を作る」というのはやはり偶然ではなく、関係性と意志の問題であり、最初の作品に働いたこんのさんの意志の上に、火災という熱と酸化作用が働き、すべての関係性が変化した、位相が変わった、のだと思える。

その変化が可視化されたところが、火災後の作品のインパクトを作っているのではないだろうか。
つまり、火災前の形の上に加えられた暴力によって、こんのさんの追求してきた「同質と異質」の関係が可視化したということだ。

人間の創造行為にとってほんとうに刺激的な問題だと思う。(続く)
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# by mariastella | 2017-04-16 04:41 | アート

フランスにあってドイツにないもの

朝のラジオで、ドイツの新聞のパリ特派員というジャーナリストが、あと十日を切ったフランス大統領選についてのインタビューを受けていて、興味深いことを言っていた。

フランスにあってドイツにないのは民主主義の代替案としての共産主義なのだという。

ドイツは東西分断の後、社会主義の東ドイツ(ソ連型ではなかったが事実上ドイツ社会主義統一党の寡頭政治だった)を吸収したこともあって、「共産主義」はトラウマになっていてもう「政権交代」の選択肢にないという。

そういえば、アメリカもマッカーシズムの共産党狩りがあったし、占領下の日本でもレッドバージがあった。戦前戦中の全体主義下ではもちろん迫害されていた。
その後、戦後の復興や、冷戦終結とともに、新自由主義の独り勝ちになって日本でも社会党は社会民主党になったし、共産党はスティグマを背負ったままだ。

フランスでも、共産党は長い間独自の大統領候補を立ててきたが、21世紀に入ってから弱小化して、2007年から、「左派戦線」のもとでの大統領候補の支援をしてきたり社会党と共闘したりしている。今の極左候補は社会党を2007年に離れて独自の左派党を作ったジャン=リュック・メランションだが、ここにきて共産党からコンタクトされているそうだ。

今回ル・ペンとメランションの対決などになったら、どちらもEU離脱志向なので大変だ。
極右ポピュリズムと極左ポピュリズムの対決になるなら、ほんとうにフランスの保守と革新の政権交代システムが変化してしまう。

私は今から秋までに「神、金、革命(共産主義)」という三つの普遍主義もどき、普遍主義的偶像崇拝システムの歴史と実態の観察をまとめる予定なのだが、この三つとポピュリズムとの関係についてもじっくり考えなくてはならない。

「神」も「共産党」もなくなったら「金」の独裁になるのかなあ。

そして民主主義は金の苗床をから栄養を得ているのだろうか。

神、金、革命が、民主主義とポピュリズムとどういう関係を持っているのかをもう少し分析しなくてはならない。
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# by mariastella | 2017-04-15 00:37 | フランス

復活祭の前に昇天

フランスに戻って最初に耳に入ったニュースは、極左の大統領候補メランションの支持率が今になって上がっているということだ。

ほんとうに「システムを変える」という公約をしているのはメランションだという見方が出てきた。
社会党公認候補のアモンは気の毒に、オランドが秘蔵っ子だったマクロンを暗に支持している様子があるようで、伸び悩んでいる。

おもしろいと思ったのは、メランションの突然の支持率上昇のことが

「復活祭の前の昇天」

と形容されていたことだ。

フランス語の語順で行くと「昇天、復活祭の前に」となる。

昇天と言ったがascension は「上昇」という忌で、ascenseur というとエレベーターのことだ。
社会的地位の上昇もascensionという。

ところが、今は、復活祭の前の聖週間の真っただ中。

最後の晩餐の洗足式が聖木曜日、聖金曜日は十字架の道行きもある受難のクライマックス、土曜日の夜に火がともり、日曜の朝にイエスの墓が空になったのを発見する追体験。

キリスト教国ではクリスマスよりも大切なもので、フランスに限って言うと、少なくとも、チョコレートの売り上げだけは、今でも、一年中で一番多い時期だ。イースター・エッグはもちろん、イエスを表す魚型、鐘、ウサギなどありとあらゆるものが、町のすべてのパン屋さんに至るまで埋め尽くしている。

で、その復活のイエスが40日間、弟子たちの前に姿を現して、自分の死と復活がすべての人の罪を贖ったという福音を伝え、それを広めなさいと言い残して天に上がったのを記念するのが
昇天祭ascensionなのだ。
復活祭が毎年変わる(春分と満月のタイミング)ので、昇天祭も毎年変わって今年は5/24。

その10日後には集まった弟子たちの上に「聖霊」が「降臨」する。

復活、昇天、聖霊降臨の三つがセットとなってキリスト教の信仰が生まれた。

だからこの3日間はフランスの祝日となっている。復活祭と聖霊降臨は日曜日に当たるので月曜が休日となる。
昇天祭は必ず木曜日なので、多くの学校が金曜も休んで四連休を作る。

で、気候がいいこともあって、復活祭、昇天祭、聖霊降臨祭の三つはキリスト教徒でなくともしっかり順序通りにインプットされている。

まず「復活」しないと「昇天」できない。

今、復活祭を前にした聖週間で、それなのに、メランションの支持率が上がったから、

「復活祭の前に昇天祭」という、言葉の遊びが通用するわけだ。

この他に、マクロンとメランションらについて、ラ・フォンテーヌの寓話もあちこちで引用されている。日本でもアリとキリギリスなどで有名なラ・フォンテーヌの寓話は、フランスの学校では必ずいくつかは「暗唱」させられる基本教養だ。

その他に、大統領選をめぐって、哲学者たちの言葉も引用されて飛びかっていた。

フランスはバカロレアで哲学の試験がある国だ。
与えられた課題について4時間かけて、意見を述べなくてはならない。
どんな優秀な答えでも、「先人」哲学者の言葉や意見の引用がないと減点される。
すべての高校3年生の必修科目だからいろいろ本も読まされるし叩き込まれる。

この辺の基本教養を共有しているから、フランス人はどんな人でも滔々と屁理屈を並べ立てる妙なスキルがあるのだし、社会問題や政治問題にも広く応用される。各種コメントのヴァリエーションも豊かだ。

日本から帰ったところなので、改めて不思議な感じがした。

なぜなら、私が帰る前日の日本のテレビは、あるフィギュアスケート選手の引退の特集ばかり繰り返し繰り返し流していて、それについてのコメントも、あまりにも同じようなものばかりだったのに驚いていたからだ。フランス的な感覚からいうとよほどの公的人物の追悼番組かと思うくらいだ。

日本のマスメディアに流れる言説があまりにも単純なことが、毎年加速しているようなのは気のせいなのだろうか・・・・
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# by mariastella | 2017-04-14 01:21 | フランス

復活祭の聖週間の始まりのカテドラルと桜

復活祭の聖週間の始まりは枝の主日だ。

エルサレムではシュロの葉だろうが、北のヨーロッパではもっぱら柘植の小枝で、一昔前のフランドルではどこのうちにも前の年に祝福してもらった枯れた小枝がおいてあった。

それは次の年に燃やされて灰の水曜日に額に塗ってもらう灰になるというリサイクル。

この写真で手前の人々が持っているのが柘植。

今では都会ならそれらしい大ぶりの葉を調達できるが、昔の田舎は本当に柘植一種だった。

基本なんでもよくて、自分のうちの庭の木の小枝を持って行ってOK。

教会はどこも歩いて行ける距離だからという事情もある。

何も持ってこなかった人に柘植の小枝を配って、小銭の献金を入れる場合もあるし、小枝を折って分け合うこともある。どんな枝でも聖水をふりかけてもらえば満足。

先日、生まれてはじめて日本の教会の枝の主日に参加したら、立派な葉っぱを、大きめのと小さめのとを選べるようにして全員に配っていた。

東京カテドラルの前は、人でいっぱいで、「ここだけ聖週間」という不思議なテーマパークみたいだった。

カテドラルには聖遺物が増えていて、フランス人の女性が、こういうのはルネサンス時代の巡礼者相手の金儲けだったから私は大嫌い、と、年配の日本女性にフランス語でまくし立てていた。

ミサの間に平和の儀とか平和の挨拶と呼ばれるものがあって、日本ではただ会釈するだけみたいな感じで席から離れないのだけれど、フランスでは、結構、席から移動して握手し合う。
抱き合う人もいればキスするカップルもいる。

東京のカテドラルでは隣がアメリカ人らしい女性2人(英語の式次第を読んでいた)だったので、つい握手の手を出すと、向こうもにっこりして握手したので、アメリカでもそれが普通なのかなあ、と思った。

目白の駅前の学習院大学の構内の桜が満開で「日本の復活祭」という趣があったので、インカルチュレーションってことで「桜の小枝の日曜日」にしたら奇麗なのに、お昼から聖水ならぬ雨が降ってきた。

一週間後にはもう花は散っているだろうけれど、復活祭には若葉も、よく似合う。
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# by mariastella | 2017-04-13 03:21 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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