L'art de croire             竹下節子ブログ

ポスト・トゥルースと宗教

ブレクジットとトランプ、英語圏のこの事件で急に脚光を浴びたのが「post-truth」という言葉だ。

ポスト真実とか訳されていて、要するに、一部の人や団体が自分への利益誘導するために都合のいい「真実」をでっちあげる、ような意味で使われている。

言い換えると、今はもう、あることが「真実」であるかどうかよりも、「真実」に見せかけることが重要であり、かつそれがメディア・バイアスやSNSのおかげで可能になる時代だということらしい。

思えばポスト・モダンだって、「モダン」、つまり近代において真実とされていた理念を相対化してたった一つの真実などないのだ、と言った面ではポスト・トゥルースだった。
そして、その後、ポスト・ポストモダンに振り戻ったのではなかっただろうか。
いや、振り戻ったというより、願わくば、螺旋状に回って回帰した?

人は「真実」を必要とする動物だから、相対化が進むと、「真実もどき」の産業によって分断されて食い尽くされる。

それよりはまだ、「老舗宗教」で宗教性を満足させておく方がリスクは少ないし、事実、戦後の日本人の多くは、「無宗教という名の宗教」で、「なんちゃって真実」を上手に使いまわしてきたともいえる。

でも、このポスト・トゥルースのトゥルースは、真実というより「事実」とか「現実」に近い。

宗教の文脈におけるトゥルースは、真実というより真理だろう。

イエスが「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8,32)

という時の真理は、まさに、ポスト・トゥルースなどで加工されるような現実や事実ではなくて、人間の手の届かないところにあるものだ。

私はこれまで、「何かが真実であるためには現実である必要はない」ということをいろいろなところで書いてきた。
その場合の真実とは、「真理に至る道」みたいなもので、それはたとえば、「事実」ではないとみなが認識しているフィクションを通しても表現できるものだ。

よくできた「映画」や「小説」を「体験」することで垣間見える「真実」があるのはみな知っている。

逆に、フィクションでなくてリアルであっても、簡単な手品の前でさえ「わー、すごい」と感心する自分の知覚など何の役にも立たない。

見かけの「不都合な事実」に対する人の態度にはいろいろある。

誰かが挙げていた次の四つの例。

車に乗って急いでいる時に運悪く赤信号に変わった場合。

 1. しょうがないから停止。
 2. ひょっとして青信号じゃないか?
3. 急いでいるんだから命がけでそのまま進む。
 4. 赤信号は他人への停止信号で私には進めという信号だ。

これを宗教風にアレンジすると、

「太陽は地球の周りをまわっている。見れば分かるだろう」

 1. その反対の可能性もあると思うけれど、実際回っているように見えるのだから、受け入れる。
 2.そんな説は間違っている。回っているのは地球。
 3. その説に反対してたとえ火炙りになっても地球は回る、と自説を曲げない。
 4. お説の通り、地球は太陽の周りをまわっている。(いつの間にかすり替わっている)

「われこそは神だ。帰依せよ」

 1, そう言われるのだから帰依する。
 2.そんな神は偽物に違いないから信じない。
 3. たとえ神罰があたっても「私の神」を信仰し続ける。
 4. 「神は私だって? その通り。」

余命宣告みたいなものを前にしたらどうだろう。

信じない、とか怒って抵抗するとか、の段階を経て最後は受容する、みたいなシェーマがよく紹介されているけれど、うーん、「死を信じない」というのもありそうだ。

「死じゃありません、死後の世界への再生です」「次の生まれ変わりの準備です」とか。

現実としての「死」がトゥルースとしたら、死後の世界ってまさにポスト・トゥルースかもしれない。

実は、キリスト教が宗教として成立した時の核には、この問題への回答があった。

それはよく言われているように、「キリストを信じたら永遠に生きるのです、主のもとに行けるのだから幸せです」みたいな単純なものではない。真理と現実をどう見るかという明確な提案がある。

仏教風の「この世は夢幻、執着を捨てて悟りの世界へ」とか、祖先信仰風の「死んだら先だった親や友達に会える楽しみがある」みたいなものとは違う。この説明を今書いているところだ。

「永遠に生きます」とか「復活します」とか「生まれ変われます」という言説だけではとても「受容」の境地に至れないタイプの私には、感情的にも合理的にも「おお、なかなかいいかも」という考え方だった。

結局、大切なのは死後でなくて、生きている間の「生き方」で、それを支えるのは何かということなのだ。
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# by mariastella | 2017-01-27 00:12 | 宗教

フランス大統領選 レバノンのマクロン

私の仲間たちは大統領選でマクロン支持に傾いている。

社会党の予備選を無視したマクロンがひそかにオランドの祝福を受けているというのは先日のレバノン行きで証明されたかのようだ。在レバノンフランス大使館に泊まって大統領にまで会っている。
経済には強いが外交政策は未知? と言われるマクロンの外交力を印象付ける感じだろう。

後は、やはり若さと、セクシーさが人々を引き付ける、といわれる。

マクロンは私には別に好みではないけれど、確かに、ヴァルス、アモン、メランション、フィヨン、ル・ペン、サンダース、クリントン、トランプ…と並べてみると、これらの人々はあまりセクシーな感じはない。
オバマにはそういうアピールがあったのかもしれないけれど。

ミーティングで新興宗教の教祖のように声を嗄らして張り上げていたのも、冷たさを払拭する真摯な感じだとか言われていた。

レバノンについての記事はフランス語を読める方はこのサイトをどうぞ。

このサイトは、「風たちぬ」というユニークなサイトで、注目できる。

フィヨンの方は、ウェールズ人の奥さんが、「専業主婦」として昨年10月にも「夫の政治に介入したことは一度もない」とコメントしていたのが、数年にわたって夫のアドバイザーとして給与が支払われていたということを、今日(1/25)の「カナール・アンシェネ」が書き立てている。

いつも夫のそばで協力していたという証言もあるし、相談にのったからと言って「介入する」とは言えない、とか、配偶者が秘書的役割を果たして給与をもらうのは右派左派を問わず一般的に行われている、とかいろいろ反論もあちこちでコメントされてきた。

フィヨンはもう早々と「飽きられてきた」のだろうか。

政党抜き(でも大統領に好かれている?)で突っ走るマクロンがやはり魅力的に見えるのだろうか?

今日は社会党予備戦の決選投票前の最後のディベートが公営放送で中継されるけれど、私はArteでウェス・アンダーソンの『ダージリン急行』(2007)を見るつもり。
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# by mariastella | 2017-01-26 00:28 | フランス

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その2)

(これは前の記事の続きです)

スコセッシはシチリアのイタリア系で司祭になりたくて神学校に通ったこともあるというほどのカトリック信者だ。

14歳で神学校に入ったが、若すぎる、規則を守らない、ということで1年後に退学させられた過去がある。

1988年の『最後の誘惑』を見たニューヨークの聖公会の大司教ポール・ムーアから原作を与えられて、「この話は真実の信仰についてのものだ、魅力的なテーマだから読んで考えてください」と言われたそうだ。
その後スコセッシは黒澤明の『夢』にゴッホ役で出演するために日本に行き、この本を持参したという。

『最後の誘惑』のスキャンダルはまだ記憶に新しかったから、スコセッシがロドリゴ役に声をかけた役者質の中には、スコセッシとならどんな映画でもやりたいがこれだけはだめだ、宗教ものは自分のスタイルではない、と断られたこともあったと言う。

『最後の誘惑』は、上映中止になった国もあったと覚えているけれど、フランスでは普通に上映されていた。私も観に行った。問題視されたイエスとマグダラのマリアのラブシーンみたいなのは「人間イエスの頭の中の誘惑」という試練の映像化という設定なのだから、別に何でもありだと思った。

その時に、実は多くの人にショックだったのは、ラブシーンではなくて、むしろそれまでの欧米系のイエスの伝記映画の十字架上の受難シーンで初めてイエスが全裸で磔になっていたからではないかと思ったことを覚えている。

といっても、中世の受難の絵には、全裸のイエスのものが普通にあった。
それをフランスで最初に観た時は私も驚いたけれど。
それまで知っていたのは、腰に布を巻いたものばかりだったからだ。

アダムとイヴは禁断の実を食べてから裸でいることを恥じるようになった。イエスは、原罪のない無垢の存在を十字架に捧げたのだから、全裸で問題はない。それに、多分史実的には、イエスでなくともこの種の十字架刑は全裸で執行されたと考えた方が自然だ。で、画像だけでなく全裸のイエスの十字架像は今も残っている。

それが宗教改革後のトリエンテの公会議で禁止された。

イエスは原罪がなくても、見ている信者たちは罪深いのだから誤解を招く、教育によくない、というわけで、教会にある全裸の十字架像は廃棄、もしも芸術的に価値ある作品ならば腰布を巻くようにと通達された。検閲みたいに黒い色を塗られただけのものもある。

絵で有名なのはシスティナ礼拝堂のミケランジェロの『最後の審判』の中央のキリストで、後に腰布が描き足された。

でも、十字架のキリストが全裸であるのが自然だという議論は何度も蒸し返された。

聖フランソワ・ド・サル(サレジオ)は、1614年3月28日の説教で、「われらの主はなぜ十字架上で裸でいることを望んだのか」と語っている。

プロテスタントの多くは、キリストの姿そのものを十字架から消して、シンボルだけを残した。
裸問題は解決する。

そんなわけだから、スコセッシが『最後の誘惑』で十字架のイエスを全裸にしたのは、いわゆる教義や神学には直接関係のない部分であり、伝統的な表現の一つでもあったのだから、そのシーンを見ても、そのことだけを批判することは誰にもできない。
でも、それについて何も言えない、というフラストレーションが、イエスの想像上のラブシーンへの怒りに向けられた。けれども、スキャンダルの火元は、実はラブシーンではなく、全裸の方だったのだ、というコメントを当時書いた。

それから時が経ち、メル・ギブソンの『パッション』だの、ダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』だの、いろんな「過激」な説や表現が世間に広がった。

『最後の誘惑』を見た聖公会の大司教が、スコセッシに『沈黙』を渡して、「真実の信仰についてのもの」だと言い、スコセッシが30年近くかけて完成した今回の映画は是非見てみたい。
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# by mariastella | 2017-01-25 00:27 | 映画

トランプ就任式の報道の差

前に就任式の中継を見て記事を書いた翌日、日本のメディアの報道を少し見た。

「反対派のデモの一部が暴徒化した」という感じの記事が割と目立ったのが気になる。

もちろんフランスの報道でも、襲われた銀行とか催涙弾とか、いろいろ報道されていたけれど、あれはフランス的に言っても、「デモの一部が暴徒化」したのではなく、最初から「暴徒」が侵入したのが明らかだった。
残念ながら、フランスでも、どんな種類のデモにだって必ず現れる「便乗型暴徒」である。

もちろんだから大したことではないというわけではないけれど、フランスの報道では、平和裏にデモをしていた反対派もトランプ信奉者も互いをリスペクトしあっていて、衝突、摩擦は起こらなかった、と強調していた。

第一、反対デモにやってくる人と、トランプ支持で地方から出てきた人たちというのは、互いに初めて見る異星人のようなもので、いがみ合うほどの接点がないというのだった。

そして反対派にとっても、伝統的に就任式の政権交代の成功は「アメリカン・デモクラシー」のピークだとみなされている上に、次の日に大規模デモを予定していたのだから、当日に秩序を乱すという発想はない。

しかしこういう便乗型暴徒が必ず繰り出してくる光景というのは、日本人には理解できないと思う。
日本人って行儀がよくて、「行儀の悪さ」への想像力がなかなか働かなくなっているのかもしれない。

もう一つ、不法移民を追い出すとかいうトランプのディスクールについて、フランスの解説者が、次のようにコメントしていた。

もともとアメリカとフランスでは、移民という言葉の含意が違うんですよ。

フランスでは移民は、労働力がほしい時(炭鉱労働者をアルジェリアから受け入れるなど)に旧植民地(つまりフランス語を解する人)から来てもらった人たちか、経済・政治難民など自国にいられなくなって着の身着のままやってくる人たちのようなイメージですが、

移民の国アメリカでは、移民とは「働く移民」です。努力して働かない移民は認めない、必死で働く移民だけが認められるというのがベースにあるんです。

という趣旨だった。 なるほどと思う。

この感覚はむしろ、フランスと日本の方が似ているかもしれない。

「移民ではない生粋の自国人」みたいなアイデンティティの幻想があって、

「困難を抱えるよその国からやってくる移民」をどこか見下しているのではないかと思う。

日本やフランスの極右の排外主義と、
アメリカがアメリカ・ファーストだとか言っている時の排外主義とは、
ポピュリズムの煽り方が微妙に違うのだろう。

さて、フランスでは社会党の予備選の決選投票が、ヴァルス対アモンに決まった。

ヴァルスが、

本選になったら第一次投票で敗退確実のアモンか
勝利の可能性がある自分か

という言い回しでアピールしていたのは情けない。
これでアモンが代表に選ばれれば、ヴァルスは「さあ、皆さん、アモンのもとに団結しましょう」なんてしらじらしく言えるのだろうか。

どちらが選ばれてもオランド大統領の積極的支持を受けられない可能性もある。
オランドはマクロンを支持したりして。

マクロンとヴァルスの政策は似ていて、民主進歩主義みたいな路線である。
社会党的な部分はソシエタルだけだ。

アモンの政策はメランションに近い。

今回アモンがヴァルスを抑えてトップだったのは、なんだか、アメリカ民主党の予備選で、サンダースを選ばずにクリントンを選んだことでと本選でトランプに敗れた教訓を生かそうとしているかのようだ。左派だから左派らしい政策を、ということで。

けれど、アメリカならサンダースが選ばれていれば本選は「トランプ対サンダース」だったろうだが、フランスではたとえアモンが選ばれても、本選で「アモン対フィヨン」になる可能性は限りなく少ない。左派にはマクロンもメランションもいるのだから。

水曜のディベートで「本選」を視野に入れた言葉がどのくらい出てくるのかが見ものである。
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# by mariastella | 2017-01-24 01:36 | フランス

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その1)

マーティン・スコセッシの映画『沈黙』が日本で公開されはじめたようだ。

フランスでの公開は2月8日だ。知人が出演していることもあって楽しみ。
見てからまた感想を書くつもりだ。

日本の小説が原作で、アメリカの超大物監督による映画というのは多分めったにないだろうから一つの「事件」でもある。

でも、それに合わせて日本の「カトリック」関係者があらためてカトリックの立場から遠藤周作の原作やら評価やらについていろいろ語り始めたので「へえ、そうなんだ」と思った。

キリスト教の神でなくても、地震、津波、障碍者無差別殺人、テロなどのニュースが続く昨今、「神も仏もあるものか」、という悲痛な思いを抱く人たちは多いから、17世紀に拷問された切支丹たちや宣教師たちが「なぜ神に助けてもらえなかったんだ」、と思う人がいても不思議ではない。

その「迫害」の中で、最後まで信念を捨てずに「殉教」してめでたく神の国に行った(かもしれない)立派な人と、
一時の苦しみに耐えられずに棄教して罪悪感に打ちひしがれる人、
の二極化があるように思えることも不思議ではない。

日本のカトリック界では2月に戦国時代の殉教者と認められたキリシタン大名高山右近の列福式があるのでますます「信念を曲げずに大義のために死を受け入れた」人というのは盛り上がる。

もともと日本には「判官びいき」というか、栄光の時もあったのに悲惨な死を迎えた人に思い入れをする伝統もある。
実際、引き立てられていく切支丹たちの姿を「立派だ」と敬意の念を示した役人もいるという。

そういうベースでは、『沈黙』の宣教師は、他の切支丹(転んだ人も含んで)が苦しむのを見てあえて踏み絵を踏んで助かったのだから、日本的なヒーローにはなりにくい。

それを遠藤周作が宣教師が聞いたキリストの声によって正当化したのだから、微妙だ。

まあ、それによって、「踏むがいい」と言ったキリストこそ、日本的心性から見ても「真の自己犠牲のヒーロー」だと納得してもらえるようにできているとしたら、遠藤は立派なカトリック作家だ。

でも、

キリスト教は弱さを煽ったわけではない、とか、

正義や真理の理想を宣言して生命を投げ出した人こそ「神の子」である、とかいう人がいる。

棄教した信者や宣教師の弱さに注目して批判しているわけだ。

キリストなら自分自身が踏まれることを選んだろう、という遠藤の視点はスルーされている。

まあ、鞭うたれて十字架に釘付けにされてという屈辱的で悲惨な「受難」を受け入れたキリストだから、何が描かれていようと「踏み絵を踏む」程度のことで「正義や真理」をうんぬんするとは思えない、と遠藤が考えるのは、別に、日本的な甘えのキリスト教などと批判されるほどのことではないと思うけれど。

命をかけるほどの「正義」だの「真理」だのなんて、異教徒でなくとも、普通の人間の理解を到底超えているだろうし。

それだけではない。後世の歴史によって実は「誤り」だった、と裁かれた「正義」や「真理」や「絶対」などたくさんある。
その「誤り」を守るために人を殺したり、「誤り」に殉じて自分の命を差し出したりした人たちも当然たくさんいるわけだ。

国の大義や、神や主君への忠誠のために、あるいは保身のために、戦場に出向いて人を殺したり殺されたりした人のすべてが、「殉教者」や「英霊」とリスペクトしてもらえるわけではない。
拷問したり虐殺したりする側だって、ただの保身故だったかもしれないし、イデオロギーにとらわれると、人は人間性を失って自分も敵も「モノ化」してしまう。

(続く)
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# by mariastella | 2017-01-23 01:04 | 宗教

アマゾンのバロック音楽

先日パレスティナの女性によるコーラスに感動してリンクをはったので、次に、アマゾンのバロック音楽祭についてもリンクをはろうと思ったのだけれど、ぴったりのものがない。

とりあえずこの画像を見てください

たいしたインフラもないところで、インディオの少年少女、青年たちが教会で毎日数時間も楽器の練習をしている。3歳から参加する子供もいるという。

ボリビアのサンタ・クルス県のアマゾンの近く、すごく奥地みたいなチキスト地方に、17世紀末にスペインから来たイエズス会士たちが、チェンバロ、バイオリン、ビオラ、チェロを持ってきて、修理や制作のノウハウも伝え、ヨーロッパのバロック音楽の楽譜だけではなく、現地でインディオの作品も含めて12000曲を残したという。

このチキスト地方のイエズス会伝道所群というのは1990年に国連の世界遺産に指定され、1996年から2年ごとにルネサンス・バロック音楽祭が開催されている。

中南米のカトリック文化はバロック真っ最中で、建築、彫刻、絵画、装飾もみなすばらしい。プロテスタントの宗教改革があった後のカトリックが、それまで「神に捧げていたアート」を、人々への宣教のために信仰を可視化するアートに転換させたからだ。

イエズス会がやってきて布教というと、

「帝国主義、植民地主義による侵略に便乗、またはその手先」

などと言う人がいるが、例えばこのボリビアのイエズス会士たちは、ひたすら現地の人の福祉のために投資した。

それが植民地主義の搾取とほど遠いことは、このイエズス会士たちが、その後、この地域を自分の勢力下におこうとしたスペイン国王によって追放されたことからも明らかだ。

日本に来た宣教師たちも、音楽、演劇、印刷術などを伝えた。
日本の場合はすでにインフラが発達していて、建築技術も卓越していたから、ボリビアよりも音楽や演劇の割合が高かったかもしれない。
少年のみによる復活祭の野外劇やさまざまなショーの要素を含んだ行列が、「新しい文化」への好奇心を掻き立てた。出雲の阿国がイエズス会劇に遭遇した可能性も大いにある。

ルネサンス音楽やバロック音楽は、後の「西洋近代音楽」と違って、日本の伝統音楽や芸能と相性がいい。産業化以前のアートだからだ。

このことについて、サラバンドとメキシコの関係を前に書いたことがある。サイトのこの部分の 『サラバンドの起源』を見てほしい。

今の時代のイメージでは、素人がバイオリンやチェロでバロック音楽合奏するなんて、スノッブな印象か時代遅れな感じだけれど、バロック音楽はメキシコにもアマゾンにもよく似合うのだ。できればボリビアの子供たちにもバロック・バレーも伝わっていてほしかった。

子供に音楽を禁じるイスラム過激派のひどさをあらためて思う。
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# by mariastella | 2017-01-22 00:33 | 音楽

トランプ大統領の就任セレモニーを中継で見てしまったこと

アメリカの大統領の就任式やパレードの中継を始めてみた。
考えてみれば、日本と違って、フランスとワシントンは時差が6時間だから、夕方のちょうどいい時間帯にダイレクトにテレビを見ることができる。
昔はずっと中継を垂れ流しているニュース専門チャンネルはなかったし、今回はトランプ大統領の話題が派手だったのと、偶然知人から今やっているよ、と言われてなんとなく見てしまった。

前も思ったけれど、米仏二重国籍の学者、評論家、ジャーナリストもテレビに出ているから、コメントなども日本での解説と少し違う。

もちろん「フランスとの違い」もいろいろ言われる。

アメリカのこのパレードは、フランス大統領のシャンゼリゼのパレードとは違って、愛国主義と政治とカーニバルを一緒にしたようなのが伝統なのだ、とか、

アメリカ人はフランスと違って政府と国家を区別しないのだ、などと言う。

また、アメリカは広いし連邦制だから、大都市は別として、コミュニティが固定しているから、ヒラリーを支持するタイプの人たちがトランプを支持するタイプの人たちと顔を合わせないで何十年も生きていくことが普通にある、ともいっていた。

なるほど。

アメリカの独立を助けたフランス人のラファイエット広場やラファイエット像の美しさもちょっと誇らしそうに語られる。

確かにワシントンのこういう感じは日本とは接点がなさすぎる。

気温は7、8度だそうで、ジャーナリストはコートにマフラー姿だが、要人たちはみなスーツ姿で寒くないのかと思う。しかも小雨が降っている。トランプは前日に雨の予想を聞いて、「平気さ、これで私の髪が本物だって分かる」と言ったとか言わないとか。
オバマのヘリコプターが飛び立つときに前髪がなびいたとコメントされていた。
パレードの後半で雨が止んだ。

10年前にトランプが、自分が大統領選に立候補するなら共和党からだ、共和党支持者はバカだから私に投票するだろう、と言っていたという話も出た。

解説がなくても、フランスとはだいぶ違うのがよくわかる。

リンカーンの使っていた聖書と1955年に母親からもらったという聖書を重ねて手を置いた宣誓、最後に神の加護を願う文言、その後の諸宗教の代表からの祝辞、など、フランス視点ではとても政教分離とは思えない。

フランスの大統領は選ばれてから間もなくエリゼ宮に入ってあっさりと交代するけれど、アメリカでは選出されてから2ヶ月以上も準備期間がある。
オランドのパレードは大雨で、オープンカーでびしょ濡れだったけれど、トランプのリムジンは完全防備で外から見えないし、中には輸血用の血まで用意されているのだそうだ。

舞踏会があって、クリントンは14回、オバマは10回やったがトランプは3回だけだと言っていた。
これは何を意味しているんだろう。ブッシュの回数は言わなかったから民主党の方が多いということなのか? それともトランプのイメージ戦略の一つ?

就任演説が大統領選の時と変わらなかったことも繰り返しコメントされていた。
普通はいったん大統領になったら、前任者も称えて、対立する党の支持者にも手を差し伸べて団結を呼びかけるのに、そうしないで自分の立場に固執したというのだ。前任者を批判するような就任演説をしたのはルーズベルト以来だとも言う。これは一種の革命だ、と興奮するトランプ支持者もいた。

ある意味でアメリカのこの仰々しさは、合衆国だからかなあとも思う。大統領は封建領主の上に立つ王みたいなものだ。力を誇示する必要がある。

それに比べてフランスは、実は「中央集権の絶対王政」気質のまま来ている。それなのにフランス革命がアイデンティティで、宗教や聖なるものは介在させたくない、愛国主義より普遍主義、という建前があるからかえってシンプルだと言える。「大統領、即、王様」のコンセンサスが無意識にあるのだ。

考えてみたら、アメリカは大して変わっていない。
トランプとの比較でオバマがえらく立派な画期的な大統領だったように言われるけれど、私はなにしろ藤永茂さんの愛読者だから、オバマに幻想など露ほども抱いていなかった。

今回のトランプの就任式を前にしての公聴会に何度も「反共」かどうか確認されたりしているのを見ても、アメリカって冷戦から抜けていない。ロシアもそうで、冷戦後にイデオロギーの時代が終わったなんてとても思えない。

アメリカで二大政党が時々政権交代しようが、ソ連がロシアになろうが、基本は変わらず、それでも地政学的戦略がほとんど全部グローバル経済原理のみに立った戦略へとシフトしているので、その間に中国が帝国主義化し、EUが理念なしのテクノクラシーになった。

「まつりごと」としての政治も文化も霊性も凍結されて、経済に奉仕する国家の中途半端な科学主義、消費主義、テクノ資本主義はもはや「意味」を創出しない。

それなのにアメリカでは「民主主義」が、フランスでは「共和国主義」が、その「意味の不在」をメッキするだけの妙なものに変質している。

日曜はフランス社会党の大統領候補予備選の第一回投票だ。

分かっていたとはいえ、このアメリカのお祭り騒ぎのすぐ後で、なんだかすべてむなしく無気力に過ぎていくような気がする。
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# by mariastella | 2017-01-21 08:29 | 雑感

おかあさんたちの音楽 歌は剣よりも強し

2014年のガザ戦争は悲惨なものだった。多くの子供たちを含む2200人の死者が出た。

その時に暴力でなく対話で平和を訴えようというイスラエルとパレスティナ両陣営の「平和のための母たち」という運動が始まった。2016年10月にも彼女らから発した「平和の行進」というのが、死海の北に集まった4000人のユダヤとムスリムの女性たちのヘブライ語とアラブ語の祈りで締めくくられたそうだ。
今汚職疑惑で捜査されているというネタニヤフ首相の住居前でも15000人の女性が紛争解決を訴えたという。

その他に、同じく、ユダヤとアラブの女性たちが結成したコーラスグループの「母の祈り」などの音楽活動がある。

こういう活動は地味だけれど、あらゆる人間には必ず「母親」がいるのだから、潜在的受け皿はある。

パレスティナの平和を訴える音楽活動というと、ダニエル・バレンボイムが毎年パレスティナでユダヤ人とアラブ人の音楽家を集めて指揮するウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団のことを連想する。

でもこれらの希望を抱かせてくれる「いい話」も、現地の悲惨な報道やドキュメンタリーほどにはインパクトを与えてくれなかった。

でも、このコーラスグループ「ラナ」のビデオを試聴したら、本当にこれはおかあさんたちの戦いなんだなあと思った。

一度ぜひご覧ください。


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# by mariastella | 2017-01-20 00:13 | 音楽

慰安婦少女像の話

韓国の慰安婦少女像の設置について日韓合意を踏みにじると日本側が抗議していることについてどう思うかという質問をある知人から受けたところです。

日韓問題は多分普通の日本人と同じくらいにはウォッチングしていますが、とても一言では言えません。

ただ、いつも思うのは、日韓とか、慰安婦とかいうくくりにすると、人間のもっと根本的な自由とか尊厳が損なわれる問題が起きるように思います。

要するに、戦争においては、

男が兵士として「命を差し出す」ように求められているのだから、
女が「性を差し出す」のは当然。

という含意があるのだと思っています。

その両方に異を唱えない限りは根本的な解決はないと思っています。

命を差し出すように求められた兵士たちが「犠牲者」ではなくて「英雄」とみなされている限り、
性を差し出すよう求められた慰安婦も「犠牲者」とは本気では認められないのではないでしょうか。
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# by mariastella | 2017-01-19 02:07 | 雑感

マイク・ジャッジ『26世紀青年』とトランプ大統領

16日の夜、arteでとんでもない映画を見た。

21日のトランプ大統領就任がなければ絶対に企画されなかった放映だと思うし、私も見なかったと思う。時間が22h50から始まる深夜番組というのもかなり頷けるほど危うい映画だ。

『Idiocracy』邦題は『26世紀青年』。

2006年のアメリカでの上映はわずか130館ですぐに引っ込められたという。
フランスでも翌年Planet Stupid (バカの惑星?)というタイトルで公開されたが話題にならずに終わった(一部のマニアには支持され続けてカルトムービー化している)。

日本では劇場未公開でDVDのみだが、邦題を見ただけでも、多分アメリカやフランスでの一般の受け取られ方とニュアンスがだいぶ違って最初からマニアックな感じだ。

話はアメリカ陸軍の実験で一年の予定で冷却をされた兵士ジョーと娼婦リタが、エラーで放置され、500年後の2505年に目覚めるというもの。

冒頭で、アメリカではIQの高い夫婦は子供をつくらず、IQの平均より低い夫婦はどんどん子孫が増えていくという構図が紹介される。
IQの低い夫婦は粗野で下品で衝動的で、欲望のまま生きるという構図。

で、500年後には、アメリカはイディオクラシーつまり、デモクラシーではなく愚者支配の国になっている。

テレビの周りはCM専用スクリーンが取り囲んでいる。警察も裁判所も病院もあるがみな、言葉もろくに解せない人仕様にアイコンばかりでできている。腕には身元確認のタトゥが入れられている。大統領は元ポルノ映画のアクターの黒人で、閣議などもパロディのようだ。
環境保全の意識がないのでゴミの山が堆積し、都市に崩れ落ち、トイレの水洗以外に水はなく、あとはすべて緑色の健康ドリンクの独占となり、農業用にもそれを使うので、作物は育たず荒地が広がっている。
IQテストで「世界一IQの高い男」と認定されたジョーは大臣になるが、水を農地の灌漑に使って健康飲料の独占企業を敵に回したので捕らえられる。ローマの闘技場のように、スタジアムに引っ張り出されてショーのように殺されかけるのだが…云々。

「諷刺コメディ」なのだけれど、これでは上映する方も見る方も思わず「自主規制」したくなるような突っ込みどころが満載だ。

まず、愚者idiotをIQで図ること。

主人公の2人(21世紀では平均的IQ)以外のすべての人が、IQの低さを表現するように、視点の定まらない「知的障碍者」のような演技をしている。そしてその属性として、粗野で下品で本能のままに、というのがついてくるのだ。

これはひどい。
知的障碍者の家族や支援者が見たら驚倒するだろう。

しかも、オバマ大統領誕生の数年前の制作とはいえ、愚者クラシーの大統領が黒人という設定。

まあ、完全なジョークのB級映画扱いだったともいえる。
アメリカ以外の世界はいったいどうなっているのだろうというような視線はないし、リアルに考えたら破綻しまくる設定だから、まともに批判してみる方がおかしいというところだろう。

ところが今は、トランプ登場で、あれは「予言的作品だった」ということになっている。

すでに昨年3月の「スーパーチューズディ」でトランプが共和党予備選を制した時に、この映画のシナリオをマイク・ジャッジと書いたEtan Cohentが、この映画がドキュメンタリーになるだろうとは思っていなかった、と発言している。

しかし、言うまでもなく、トランプが「自分は教育のない民衆に支持された」などと言ったけれど、教育があるかないかはIQよりもはるかに社会的要因に左右されるだろう。

そして、トランプだろうがヒトラーだろうが、ムッソリーニだろうが、決してIQが低いとは思えない。
一代で独裁者になるような人はむしろ非常に頭の良い人であるはずだ。
頭がいい人の悪意の方がはるかに危険だ。

ポピュリズムの流れを作るのは、IQの低さなどではなく、エゴや支配欲や恐怖や社会不安が利用されているだけだ。他者排除と思考停止の誘惑はすべての人にある。

いろいろな気まずさを別にすれば映画としては、決して悪いできではない。

主演のジョーを演じるルーク・ウィルソンがほんとに「普通の平凡で善良なアメリカ人」という感じで、ヒスパニック系のリタも「普通の人の知恵や良識」を持っている感じが説得力がある。

つまり、エリートでなくともIQが高くなくとも、「平均的なアメリカ人」は根が善良で、困難にも立ち向かえ、どんな状況でも新たな道を開く勇気を持っている、というアメリカンな希望のメッセージはちゃんとある。

一見全く似ていないけれど、『ズートピア』みたいな発想はある。
動物の世界にしてしまえば違和感はなかったかもしれない。

だから、トランプ大統領の登場とこの映画を短絡に結びつけて、トランプやトランプの支持層を「教育のない愚者」と決めつけるのが生産的なこととはどうにも思えない。

好みでもない映画にもかかわらずこれだけいろいろ考えさせてくれたのだから、一見の価値はあったと思う。
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# by mariastella | 2017-01-18 00:10 | 映画

dマガジンと、遊川和彦さんのおかあさまの話

インターネットのdマガジンというので日本の雑誌を拾い読みしている。このおかげで、日本に帰った時ももうほとんど週刊誌などは買わない。

そして日本にいても今まで立ち読みすらしたことのないような雑誌まで時々読む。
たとえば「男性ファッション誌」のカテゴリーに入っているGQ JAPAN では鈴木正文さんのEDITOR’S LETTERを今は毎月読んでいる。

全体としては消費文化の爛熟、煽情、健康カルト風記事の蔓延にショックを受けるし、たまに、「欧米では何々…」「キリスト教は何々…」とかいう記事の中の明らかなエラーや偏見や混同を読むと驚いてクリップしておくが、いちいち訂正する暇もない。

いろいろな人のインタビュー記事などは楽しく読むが、昨日読んだ記事の中に素敵な言葉があった。
週刊現代(1/28日号)にあった遊川和彦さんという脚本家(私とほぼ同じ世代)の回想にあるおかあさまの言葉だ。
広島県で母子家庭を支えて苦労していたおかあさまに、東京の映像系の専門学校に行きたいから「学費だけ出してくれ、後はバイトして迷惑かけないから」と息子が頼んだ。

するとおかあさまは笑って了承し、

「私に与えられるのは自由だけだから、あなたの好きにしなさい」

と答えたという。

いいなあ。人間に自由意志を与えて見守った神さまみたいだ。

母子の絆、と言っても、一方が一方を縛る絆であってはいけない。
きっとこのお母様は自分の息子をよく見ていて、信頼が二人の絆だったのだろうなあ。

親の「束縛」から自分を解放して「自由」を奪って自立する人も多いだろうけれど、親に自覚的に「自由」を与えてもらって自立できる人は、「親を否定する」という「原罪」からも自由だ。

愛と祝福は似ている。
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# by mariastella | 2017-01-17 02:59 | 雑感

ヴァン・ゴッホの耳と宗教

先週の土曜日、Arteでゴッホの耳切り事件の秘密解明のようなドキュメンタリー番組を見た。

耳を剃刀で切り落とした事件は、実は切ったのは耳たぶだけだったというのが通説だったのだが、実際に治療した医師のデッサンが出てきて、ほぼ完全にそがれていたことが証明されたという話だ。

ゴッホが耳切り事件の後でアルルの住民80人の署名で危険人物だとされて精神病院に監禁されたが、実は30名で、ゴッホが入院して二日目にもう彼の家を別の人に賃貸契約してしまったのを、ゴッホも契約中だから抗議したので困った家主がバーに集まった人などに署名を頼んだものだったという話もある。事実は、癲癇の発作はあったものの、何ら「危険人物」ではなかったという。

それら20世紀を通じて語り継がれてきたいろいろなことが、アルルに30 年住むイギリス人女性が7年かけて調べ上げて真実に迫ったというドキュメンタリーなのだけれど、私の驚いたのは別のことだった。

私も、私の世代の日本人にはよくあると思うけれど、ごく子供のころからゴッホの絵と耳切り事件などの話に親しんできた。「ゴッホの手紙」も読んだし、ある意味「伝説の人」の一人だった。
私が小学六年生の時に読んだ画集と伝記は今でも手元にある。
ゴッホの過激さと悲劇と、孤独、貧困、そして迫力のある絵柄には強烈な印象を受けたのを覚えている。

で、改めて確認すると、確かに、正気を失って耳を切った、血まみれの耳をもって娼館に行き、娼婦に渡して気絶された、などとある。

でもこの番組で初めて知ったのは、27歳でハーグで知り合ったシーンという娼婦をモデルにしたという話の真相と、パリを発ってアルルに発った動機だった。

シーンは、子供を抱えて妊娠中の路上生活者でゴッホが連れて帰って1年半同棲し、生まれた子も入れて二人の子供もいっしょに、シーンに守られているという安心感で落ち着いた生活を送ったというのだ。

もうひとつ、パリよりも南フランスに行きたいと思っていたのは事実だったろうが、突然それが排他的な地方都市アルルに特定されたのにはわけがあるらしい。
出発のひと月前に、アルルで狂犬病に罹った犬に腕をかまれて一昼夜かけてアルルからパリのパスツール研究所に連れてこられた16歳の少女がいた。ラッシェルというこの少女はパスツール自らの治療を受けて一命をとりとめたが、かなりの傷跡が残ったという。
ゴッホはこの少女とパリで遭遇した。で、彼女にインスパイアされたか、彼女を追う形でアルルに行ったらしい。

当時のアルルでは、21歳の成年に達していれば売春は公認の職業だったが、16歳のラッシェルは娼家で下働きをしていた。
ゴッホは二週間に一度はこの娼家に客として通っていたが、その度にラッシェルにも会っていたのだろう。切り落とした耳をもってラッシェルを呼んでくれと頼み、「これをぼくの記念に」と渡して気絶されているが、単に正気を失って理解不可能の行動をしたというより、ラッシェルに特別な思いがあったという方が納得できる。

そう思ってみていくと、ゴッホがプロテスタントの牧師の息子で、自分も牧師になりたくて神学も学び、労働者の運動も支援し、画家になってもオランダでは不幸な人、貧しい人、虐げられる人のようないわば「社会派」の暗い絵ばかり描いていたことも、シーンへの寄り添いも、ラッシェルヘの思いも、いや、ゴーギャンを呼びよせたように、画家の共同体を作ってみんなの収入を分け合う「共産主義」を夢見たのも、すべてひとつながりのことであったように思う。

アルルで住んだ場所が、1840年代にできた鉄道で働く労働者の住む界隈でプロテスタントが多かったということも分かっている。
1952年に80歳で死んだというラッシェルの曽孫はまだアルル近くに住んでいるらしいが、ひよっとして彼女の家庭もプロテスタントだったのかもしれない。

狂犬に咬まれて死の危険があったのだから、病院付きのカトリック司祭が終油の秘跡のためにやってきて、彼女がプロテスタントだということでプロテスタント教会になんらかの問い合わせがあったのかもしれない。ゴッホはカルヴィニストだから、少女もひょっとしてカルヴァン派で、そのつながりでラッシェルと知り合ったということもあり得る。これは全くの想像に過ぎないけれど。

このドキュメンタリーではそういう面は注目されていないけれど、今思うと、たった37歳で自殺したこの画家の不幸や悲しみへの共感や「共同体」への熱い理想と信仰の関係が分かってきて痛ましい。
ゴーギャンがいさかいの後で出て行った時の怒りや絶望の深さもその理想の高さ故だったかもしれない。

ゴッホの画集をつくづくと眺め返しながら、いろいろなことを思う。
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# by mariastella | 2017-01-16 08:42 | アート

フランス社会党予備選

フランス社会党の予備選も、共和党にならってか、候補が7人で、うち女性が1人だけ。

10日間で3度も公開ディベートがあるあわただしさで、1度目が12日の夜にあったが、盛り上がりはなかった。

それと並行してマクロンやメランションがミーティングで盛り上がっていた。

社会党と離れて中道左派を行って大人気の若いマクロン。
彼の周りに集まる人々が本当に投票所に出かけるのかどうかは問題だ。

社会党との共闘にうんざりして「本当の左派」を行くメランションは5年前より人気がある。

左派はこの5年間の社会党政権にうんざりしている。社会党予備選に出ている7人のうち4人までがヴァルスを含めて現政権の大臣経験者だから、予備選で勝って正式な社会党の候補になったとしても、4月末の決選投票にまで進める確率は少ない。
今の社会党は、ENA出身のエリート中心のエスタブリッシュメントが采配を振るってきたから、「民衆」から見放されている。

ここで、メランションのような「真正左派」のような受け皿に、「民衆」が向かうのならいいけれど、それがないとマリーヌ・ル・ペンのような極右に向かう。
アメリカの民主党予備選でバーニー・サンダースに希望をつないでいた人たちの票が、サンダースが敗れてからトランプに流れたことの二の舞になってもおかしくない。
実際、メランションとル・ペンの政策は重なって、この両極の二人がアンチEUと言っていい。その意味で逆に、ル・ペンの票を回収するかもしれない。

けれど、アンチEUではない「慎重で常識的な」左派は、そうするとメランションに投票することは控えるだろう。
でも社会党にはノンを突き付けたい。
かといって共和党のフィヨンには原則として投票したくない。

そこで、マクロンの登場。
しかしマクロンもついこの前までオランド政権の経済相だった。
ネオ・リベラリズム財界との相性もいい。
社会党に愛想をつかした「民衆」がマクロンなんかに投票してもいいのだろうか。

しかし、民衆がうんざりしているのは共和党・社会党にかかわらずここ20年の政権の無能さだ。

民衆が期待しているのは「変革」。
ラディカルな変革は、近代革命の旗手だったフランスのお家芸でもある。

それなら、経歴にかかわらず、わずか38歳のマクロンは、大いに「新しく」見える。

フランス革命が始まった年、ダントンが30歳でロベスピエールは31歳だった。ナポレオンは35歳で皇帝になった。マクロンはそれを意識しているし、それが伝わっている。

社会党予備選の第一回目のディベートは、かれらの間で互いを批判しない、という申し合わせがあるようで、上品だけれど覇気のないものだった。
まあ、社会党の現政権が不人気だと分かっているのだから、下手に批判すると藪蛇でもある。

番組後の視聴者アンケートではヴァルス、モンブール、アモンの三人が有力とか。

この3人を見てフランスっぽいと思うのは、プライベートだ。

ヴァルスがスペイン生まれでフランスに帰化していて、連れ合いは有名なヴァイオリニストだ。

モントブールは女性にもてて、最初の妻が貴族。他に女優、ジャーナリスト、元大臣などの女性と関わっている。

アモンの連れ合いはデンマークとカタルーニャのハーフのエリートで、高級ブランド・グループLVMHで要職についている。

アメリカならヴァルスなど大統領選に出る資格もない。他の候補もいろいろ言われそうだ。

ヴァルスの攻撃的な雰囲気は今やサルコジを彷彿とさせるし、アモンは大統領という雰囲気ではない。

「見た目」だけで言うとヴァンサン・ペイヨンが一番「大学教授風」の品格で、こういう人が、軍事と外交と共和国の統合という本来の大統領ポストを守って、内政はもっと民主的なシステムにすればいいんじゃないかと思ってしまう。

ともかく「社会党」は、右をマクロンに左をメランションにはさまれて、今の政権政党だというのに、冷ややかに見られている。

本選でマクロンが選ばれればまさにマーケティングの勝利だなあと思う。
今の時代の「若さ至上主義」もベースにあるかもしれない。

ともかく、来週の今頃は、社会党予備選の決選投票に出る2人が決まっている。
その2人のディベートには少しまともに耳を傾けるつもりだ。
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# by mariastella | 2017-01-15 02:09 | フランス

分からない日本語など その4

(これは前の記事の続きです)

Exil(亡命)に引かれているのはフィンランド語Kaihoとウェールズ語hiraethとドイツ語heimweh。

フィンランド語は、行きつくことのない遠い場所を求める嘆き、孤独と激しい欲求と実現不可能の感覚。

ウェールズ語は、亡命の傷。二度と戻れない故郷へのノスタルジー(その故郷は実は訪れたことなどない場所かもしれない)。

ドイツ語は望郷。しかしこの他に対照的なFernwehという言葉があって、それは自分の地平をどんどん広げていくという意味で、これについての解説があった。

私は「Fukushima」など思い浮かべてしまった。

最後の La Fuite 「逃避」。

中央アメリカのスペイン語のAchaplinarseは逃げるかどうかためらった後、チャップリンのように慌てて逃げるという意味だそうだ。
ブラジルのポルトガル語のQuilomboは、逃亡奴隷が奥地で作った共同体のことで、その他にバスク語と日本語があって、この日本語がこの日本語にこの号の最後を飾る長い解説(毎日新聞のTakashi Ishizuka氏の記事)がついている。

この日本語も私は分からなかった。

ひら仮名で検索したら出てきた。

Tendenko 「てんでんこ」である。

津波が来たらてんでんばらばらに逃げろ、ということだ。
他人の指示を待ったり、他の人と一緒に行動しようとする傾向の強い日本人だからこそ、津波の被害を体験した地域ではこのサヴァイヴァルの言葉を言い伝えて来たという風に読み取れる。

フランス語にも同じ意味のsauve-qui-peutという逃げることのできるものはともかく逃げろ、という表現がある。
連帯とか協調とか言っていられないタイプの危機があるということであり、また、そういう風にとりあえず自分の安全のみ確保するという反射によって救われる危機があるということだ。

それにしても、この年末年始特別号のクーリエ・インターナショナルに取り上げられた日本語、

Nensu、
壁ドン、
心中、
鼻血、
おかま
鶏姦、
のぞき、
ちらりズム
うなじ、
腹芸、
阿吽、
過労死、
居眠り、
OGU、
ネトウヨ、
飲みニケーション、
てんでんこ、

って...。 

得意になってこれらの言葉を選んだジャーナリストの目に映っている日本ってどんな国だろう ?
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# by mariastella | 2017-01-14 01:56 | 雑感

分からない日本語など その3

(これは昨日の続きです。)

まず昨日の答え。

Corruption(腐敗、汚職)の項には日本語は引かれていません。 
ほっ。安心していいのか・・・・

Mots dangereux (危険な言葉)。

ペルシャ語とヒンディ語に堂々並んで引用されている日本語一つは、

Neto-uyo、ネトウヨでした。

これにはかなり突っ込んだ解説があって、東京新聞が「安倍首相が自分のFacebookにネトウヨのサイトの記事をシェアしたことがある(後に削除)」だとか、左派の時事解説者があってである北原みのりが安倍政権を「ネトウヨ内閣」と呼んだことがある、などと書いてある。

次のparadis(楽園、天国)では日本語は引かれていず、アラビア語が四つと英語一つだ。

英語はLubberlandで、怠け者専用の神話の楽園とある。知らなかった。

次のキイワードは IVRESSE(酩酊)だ。

ロシア語二つ、ドイツ語、デンマーク語一つずつ、ここでも日本語が一つ登場。
日本語の頻度が高い。

その日本語とは、

Nominication だって。

そこにもかなり長い解説があって、日経の統計では60%の日本人が、勤務後の飲み会に行く義務感を感じているとして、東洋経済のサイトのブログに「自腹を切る残業みたいなもの(パトロンが一緒の時は別)」、とあったと引用、日経からは、飲みニケーションについてのセクハラ注意の記事など紹介している。

他の国の言葉は泥酔、二日酔い、迎え酒に当たる言葉で、ロシア語のものにだけ、深刻な社会問題が提起されている。

次に、Bonheur(幸福)。

中国語はQING(遠い山の緑、または青)。ハンガリー語が「他者のつらさを見て得られる幸福)、ロシア語は「払うつもりでいたのに突然無償になる幸福」という意味の言葉。

ナバホ・インディアンの「生命、自然の美しさを見て喜びを得る生き方」、タイ語の「人生のすべてに喜びを求める」、スウェーデン語の「人生を深く愛しぎりぎりまでそれを生きようとする人」、ノルウェー語の「自然との完全な調和の状態」などと、なかなか哲学的なものもある。こにsekasekaという言葉があったので、また変なチョイスの日本語かと思ったら、コンゴやザンビアの言葉で、「理由なく笑う」という意味だった。 ほっとする。でも、幸福の項で取り上げられないのも寂しい。

次のHiver (冬)には圧倒的にロシア語が多い。エスキモーのイヌイット語もある。チョイスには地球温暖化のエコロジー的視点が感じられる。日本語はない。

最後は Exil(亡命)とLa Fuite(逃避)という難民問題を抱えたヨーロッパならではのキイワード。

さて、この二つに日本語は引かれているでしょうか? 引かれているとしたら、何でしょう?

(続く)
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# by mariastella | 2017-01-13 07:10 | 雑感

分からない日本語など その2

(これは昨日の続きです。)

まず昨日の答え。

Travail(仕事、労働)を表す「よその言葉」として引かれているのが英語ふたつと日本語ふたつ。

まず英語がto cram で、日本語がkaroshi だ。to cram は過労死の前の状態かも。

「働きすぎによる死、日本では法律で認められた言葉」、と解説にあった。
これは確かによく知られていてフランス語として通用している場合もあるくらいだ。

二つ目は英語がTo moonlightで、夜に二つ目の仕事をすること。非合法なものが多い、とある。

日本語はinemuri。

丁寧に解説されている。居眠りはほとんど国民的スポーツで、ケンブリッジの人類学者が電車の吊革につかまったまま寝るサラリーマンの存在を報告していると。
日本はOECDの中で韓国に次いで睡眠時間が少ない、公共の場のセキュリティがしっかりしているのが要因かもしれない、週刊文春は居眠りがマイクロ・シエスタの役割を果たして健康の役に立つと書いている、オムロンは議員が60%以上居眠りしたら自動的にSMSを送って起こすというアプリを開発した、などといろいろ。

Créativité(創造性)の項で引かれている日本語は ogu 。

私には意味が不明。

解説には「使用不能な実用品を発明する業。例えば、パスタを冷ますためにフォークにつける携帯用の扇風機」とある。何? (検索しても出てこない。どなたか教えてください)

さて次はCorruption(腐敗、汚職)。

メキシカンが圧倒的に多い。果たして日本語は引かれているでしょうか? いるとしたらなんだと思いますか?

次が Nouveaux riches(新興富裕層)。ニューリッチ。ここは中国語のオンパレード。「成金」という日本語はまっとうすぎるのか出てきません。

その次は Mots dangereux (危険な言葉)。

引かれているのはペルシャ語とヒンディ語に堂々並んで日本語一つ。何だと思いますか?

次がparadis(楽園、天国)。

日本語は引かれているでしょうか? いるとしたら何?

(続く)
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# by mariastella | 2017-01-12 03:19 | 雑感

分からない日本語など その1

日本でもクーリエ・ジャポンという関連誌があるフランスの『Courrier international』の1363号は12/15-1/4 でいわば年末年始の特別号だった。

「よその言葉」(他者の言葉)というテーマで、フランス語のいくつかのキーワードの外国語を紹介してフランスにはないコンセプトを開設するという比較文化的なものだ。

まあ、面白おかしくできているので、恣意的な選択であるのは当然なのだけれど、日本語が引かれている率がかなり多くて、しかもその中には私の分からない言葉がいくつもあった。

いくらサブカル的選択としてもなんだか抵抗のあるものもある。

最初の言葉がPouvoir(権力)。

これには日本語が紹介されていない。ジャワ語、中国語、ヘブライ語、ハンガリー、ウクライナ語などが挙がる。

次のVoyous(不良)は ロシア俗語、ブラジルのポルトガル語みっつ、ローマ俗語ふたつなど。

次がAmour(アムール、愛)。
ここにはメインページに日本語がふたつも。その後のサブページにはアラビア語が目立つ。たとえばAlkhoullaは愛と友情の混ざったもの、というようにさまざまなニュアンスだ。ここにも日本語がなんと7つも。

私が思いつくとしたら愛、恋、大切、いつくしみ、とかだけれど、ここに引かれているのは、

メインの2つが

nensu
kabédon

壁ドンは私にもわかった。解説には、男の子が女の子を壁に押し付けて右手を壁につけ、目を見つめる、とあり、日本では女の子はこれが大好きだとある。・・・・・・

nensu は胸を高鳴らせて同性の人にやさしく思いをはせる、とある。 ???

サブのリストに出てくる日本語は、
Shinju、
Hanaji (性的興奮。日本では鼻の大きさが男性器の大きさを表す、とある)、
Okama(通常受け身の男娼)、
Keikan(解説を読むまで何のことか分からなかった)、
Nozoki、
Chirarism、
Unaji

の七つ。

話を面白くするためだとしても「愛」で出てくる日本語がこれってあんまりじゃ…。
これを担当したのが日本にいるフランス人ジャーナリストだとしたら、サブカルオタクみたいな人で他の日本語ができるフランス人に対して自分のディープな知識を披露したいのだろうか。

その次がNON-DITS
つまり、言われないこと。(ディスクールの最中の「えー」とか「うー」とかいうためらいは、言葉と同じくらいに理解にとって不可欠なものである、とある)

ここには、ペルシャ語、韓国語が一つずつ、日本語は二つ。

Haragei(内臓的、間接的、非言語的コミュニケーション)
AH-UN(モノの最初と最後。とても親しい友人間の無言のコミュニケーション)

だって。

腹芸には「腹にいちもつある」みたいな言葉とリンクしている感がもっと強い気がする。
阿吽はいいとしても、どうせなら仏教的な意味も書いてほしい。

次の「怒り」には米語三つと英語一つ。

このチョイスを見ているとまあ、時事問題を解説したいという気持ちは分かる。

Redneck,  white trash,  hillbilly,  underdog

日本語はない。日本語のネット語の「死ね!」とかは出てこないようだ。

次はTravail(仕事、労働)。

ここには、ドイツ語、メキシカン、セネガル語とともに英語ふたつと日本語ふたつ。

何だと思いますか?  (続く)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         
次はCréativité(創造性)。英語、アラブ語、ドイツ語、メキシカン、ヒンディ語、ボーランド語、エスペラント語とにぎやかで、日本語も一つ入っています。何でしょう ? ちなみに私はこの日本語も解説もよく分からなかった。

(続く)
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# by mariastella | 2017-01-11 00:38 | 雑感

Jeenerの新作『Mahomet』その2

昨日は、このMahometについて、今のフランスの状況を分析して続きを書こうと思っていた。
2005年以来のテロ対策の方向性のエラー、アメリカや中近東と違うヨーロッパ向けのテロの方向性と戦略の誕生、イスラム・イデオロギーのフランスを的にしたロビーCCIFとそれがメディアと左派社会学者(エマニュエル・トッドら)に助長されてISのテロを巧妙に使い、問題を混乱させている状況を詳しく書こうと思ったのだ。
でも、それをしていると、一冊の本になってしまうことが分かった。

だから、この問題についてはいったん筆を置こうと思う。
今書いている本の中に組み入れるつもりだ。

で、Jeenerの『マホメット』だが、これは決してイスラムの否定ではないが、Jeenerのキリスト者としての信仰告白になっている。

すごく単純に言って、イスラムがキリスト者に改宗を迫るとき、「唯一の神」なのに三位一体とか言って分裂させるのがそもそもおかしい、多神教だ、偶像崇拝だ、というのがある。

この戯曲でも、マホメットとペトリュスが、一人の女性の運命をめぐって、命がけの神学論争をする。
「コーラン」対「福音書」だ。

コーランは絶対の神の言葉。しかし大天使ガブリエルから伝えられた。
これに対して福音書も聖書も、聖霊にインスパイアされたにしても、人間の書いたものだから「人間の弱さ」を抱え込んでいる。

ところが、キリスト教的の神学的には、神の言葉(=ロゴス)が受肉して送られたのがイエス・キリストなので、もうそれ以後には神の言葉も必要ないし、それを伝える天使やそれを聞く預言者も必要ない。
ガブリエルが最後に現れたのは、マリアに受胎告知した時で、イエスが言葉を話せるようになってからは、イエス自身が「神の言葉」を体現していた。

だから、またガブリエルがやってきて神の言葉をマホメットに伝えたというのは受け入れられない。

その内容には関わりなく。

というのが、ペトリュスの立場だから、改宗を迫るマホメットと折り合うはずがない。

しかし、ペトリュスと妻の絆、神の前で結ばれた、という貞節の意志と、コーランで一般に定められたよりも多くの妻を娶る特権を行使するマホメットの女性観は当然対立する。

マホメットが25歳の時に40歳の未亡人と結婚し(3人の息子は夭折、4人の娘が残る)、その妻の死後9人の妻を娶ったことなども言及される。

この上演では、マホメットが若くて魅力的で、自身に満ち溢れ、自分の絶対的優位と正しさを信じ切って落ち着いているのに対して、ペトリュス役は妻もともに、きわめて「人間的」だ。
だから、マホメットの前で、妥協したふりしようとしたり、それが通じないと、怒りをぶちまけたり、支離滅裂な行動もとる。

けれども最終的には、

「あやまちある人を私たちがゆるすように私たちのあやまちをゆるしてください。」

という主の祈りを2人で唱えて去っていき、結局彼らの頑固な人間性を前にして、彼らを解放してしまったマホメットは、たった一人残って、

「神よ、私の弱さをおゆるしください」

と祈って芝居が終わる。

私たちはこの芝居を観て、Jeenerがなぜキリスト者であるのかを理解する。

ペトリュスは改宗を拒否したが殉教者にはならなかった。
妻を殺すと脅されても改宗はしない。

この2人を見ていると、日本のキリシタン迫害で、改宗せずに殉教した人々の気持ちがなんとなく分かる。

今までは、「踏み絵くらい踏めばいいのに。役人にいたずらに人殺しの罪を負わせることもないのに」と少し思っていたのだけれど。

そして、キリスト者としてのJeenerのことがよりよく分かるとともに、いろいろなことがはっきり見えてきた。

この戯曲で描かれているのは宗教の戦いや神学の戦いなどではなく、人間が信仰をどのように人間的に生きるかという話なのだ。

宗教は信仰の社会的表現であるが、信仰はイコール宗教ではない。

これからはこのことを分かりやすく書いていくつもりだ。
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# by mariastella | 2017-01-10 07:05 | 演劇

Mahomet

先日、Jean-Luc Jeener の新作戯曲『Mahomet』に行ってきた。

彼の劇場の今年最初のテーマは「宗教とライシテ」で、今とてもデリケートなテーマだ。

その上に新作が『Mahomet』なんて。

切符を買う人のほとんどが「モアメッド」と言っていた。
イスラムの預言者の名は、フランスではモアメッドで、ムスリムの名としてなじみがあるからだ(アラビア語の母音部分は国によっていろいろ変わる)。

これを「マオメ」と書いて読むと、そこいらにいるモアメッド君じゃないよ、最終預言者のマホメット(ムハンマド)だよ、という感じがする。

これが、大劇場だったら、私は怖くていけないだろう。すでにいろいろ話題になって警戒されているだろう。

舞台は前半が預言者とキリスト教徒のペトリュスの対話だ。
ペトルスはキリスト教のコミュニティの指導者的役割を担っている。
戦争に負けて連れ去られた妻を取り戻しに来る。
預言者は、イスラムに改宗するなら二人を生きたまま解放しようという。

真っ暗な舞台(と言っても観客席と同じ床だ)に明かりがつくと、金襴の布がかけられた椅子に預言者が座っている。

ちょっとどきどきする。

確か、預言者の顔を描くのも冒瀆で、演じるのもまずいのではなかったか ?

そう思う自分に驚く。

完全に、ここ10年来のイスラムへの警戒心が刷り込まれている。
舞台のマホメットを演じる俳優は若い。
イエス・キリストと同じ30代に見える。髭の具合もイエスっぽい。目はとても青い。

ペトリュスの方は年配でシーザーみたいな雰囲気だ。

マホメットの語ることばは慎重にコーランから引用されているらしいことが分かる。

それでも緊張を強いられる。

Jean-Luc Jeenerは 2005年くらいに、「宗教と正義」のテーマで、ヴォルテールの『Mahomet』を同じ場所で上演した。

その時と今では、イスラム過激派をめぐる情勢がかなり変わっている。

ヴォルテールの『マオメ、または狂信』と言えば、イスラムの野蛮さをテーマにした悲劇(兄と妹がそうとは知らずに愛し合う)で、コメディ・フランセーズで1742年に初演されたものだ。

ヴォルテールは「狂信者マホメットは残酷で嘘つきで人間の恥で、商人の若造が預言者、立法者、君主になった」などという言葉を手紙の中に残しているからほんとうにイスラム嫌いだったらしいが、この戯曲は実はカトリック教会を攻撃していたのだという説もある。それをごまかすためにヴォルテールはわざわざこの戯曲を当時のローマ教皇ベネディクト14世に贈呈したというのだ。

その後ヴォルテールはだんだんとイスラム好きになって、1770年には、イスラムはヨーロッパの誰よりもましなことを考えていると称賛したらしい。

そういう検証は、フランス語のイスラム系サイトにいくらでも載っている。
啓蒙思想のヒーローであるヴォルテールをイスラムの味方につけるのは大きな意味があるらしい。
その辺がフランスっぽい。

このヴォルテールの戯曲をドイツ語に翻訳したのがゲーテだ。
ゲーテはそのことをナポレオンに出会ったときに話題にした。
ナポレオンは、「私はあの芝居が嫌いだ。カリカチュアだ。」と答えたという。

ゲーテは「彼はそれを意に反して書いたのです。狂信を長々と攻撃したこの悲劇はイスラムではなくキリスト教会を攻撃しているのです」と言い、ナポレオンは「それがあまりにも隠されているのでローマ教皇に贈られて祝福されたのだ」と答えた。

真相はよく分からないけれど、確かなのはこの芝居が興行的に失敗だったこと、そして、ヴォルテールもゲーテも、宗教原理主義、宗教の過激派、人々を解放する代わりに縛り付ける宗教全般を憎んでいたということだろう。

(ナポレオンと宗教についてもっと知りたい方は『ナポレオンと神』をお読みください。)

Jean-Luc Jeener が2005年にこれを上演したのも、別にイスラムの批判ではなく、この芝居に出てくる狂信的言辞、全体主義的言辞に対する告発だった。

けれども、それを2017年に上演することは不可能だ。
で、自ら、同じタイトルで新作を書き下ろした。

先日は彼とゆっくり話すことができなかった。しかし彼の言いたかったことは分かる。
でもどうして敢えてマホメットなのか、それは、シャルリー・エブドの記念号を読めば分かってくる。
シャルリー・エブド襲撃事件なしにこの新作は存在しなかった、と、私は思う。(続く)
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# by mariastella | 2017-01-09 00:49 | 演劇

今日の記事

フランスの昨夜にアップした今日の記事が、操作エラーで「ファン限定」になっていました。
そんなものがあるのも気づいていませんでした。

お知らせを受けて解除しましたのでよろしくお願いします。
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# by mariastella | 2017-01-08 19:59 | お知らせ

「シャルリー・エブド」事件から2年経って思うこと

日本が全体主義独裁国家になりつつあるのではないかという不安の言葉がサイトのForumに寄せられました

この記事はそれに対する答えに代えるものです。

今、これを書いているのはフランスの1/7で、2015年のシャルリー・エブド襲撃事件からちょうど2周年、シャルリー・エブドの2周年記念号はなかなか読みごたえがあった。

1周年の去年は、前年11月にパリで同時多発テロがあって、人数で言うと記録的な犠牲者が出たこともあって、テロリズムの深刻化、国籍剥奪や緊急体制などの様々な処置も議論されていたので、シャルリー・エブド事件そのものとの距離の取り方が混沌としていた。
その上、去年も、ヨーロッパレベルで、ベルギー、フランスではニース、年末のベルリンと無差別テロが続いたので、様相は、ますます、

「自由に楽しみたいヨーロッパ人が委縮しないで済むようにセキュリティを強化しなくては」

という感じにシフトしていった感がある。

けれども、シャルリー・エブドのテロは、他のテロとは違う。

他の無差別テロは、恐ろしいけれど、いわゆるISやISシンパのテロリストでなくとも、彼らのインスパイアされた人々、社会的、個人的な様々な病理を抱えた人々による暴挙、蛮行と近い。

アメリカでの銃乱射や日本でも繁華街での車の暴走などどこでいつ何が起こるかは分からない。

シリアの内戦にどういう立場をとっているかというような直接の外交問題とは関係のないものがほとんどだ。
それが口実に使われてマインドコントロールされている場合はもちろんあるとしても。

それに対して、シャルリー・エブド編集会議の襲撃は、

「政治的に立場を異にする者を抹殺する」

というタイプのものであった。

こういうと、やはりISが悪い、テロリストが悪いなどと思うかもしれないが、

「政治的に立場を異にする者を抹殺する」

というのは、まさに全体主義独裁の行動パターンである。

ロシアの反政府的ジャーナリストたちも、中国の反政府的ジャーナリストたちも、拉致されたり、白昼何者かによって暗殺されたり、毒殺されたりしている。
それなのにいつの間にかうやむやになっている。

全体主義独裁の行動パターンに合致する。

権力者を批判する表現の自由は否定されるのだ。

そして、こういう言い方をすると誤解を招くのであまり言いたくないけれど、
「欧米民主主義・自由主義」を絶対善とする「先進国」が、それに反するものを、宗教政権であろうと軍事政権であろうと「敵」と認定して殺しに行くのも実は同じパターンだ。

みんな同じパターンで動いている。
ある意味で、日本もそれを踏襲しているにすぎない。

外交上の影響力の大きい世界の主権国の首長の中で、その抹殺パターンを否定して、ひたすら話し合いと弱者支援を通しての平和を訴えているのはローマ教皇くらいだ。

そのローマ教皇でさえ、

「『じぶんちキリスト教』の正義に外れる者は抹殺しても当然」

と主張する少なからぬカトリック信徒たちから執拗に批判されている。
そのうち教皇も抹殺されるかもしれない。

日本の憲法九条は「抹殺パターン」を明確に否定した珍しいものだったけれど、それが例外だったので、行動指針とならぬうちに、早くから「その他大勢」のパターン、昔なじみのパターンに従って変質していった。

それは「原罪」なのだろうか。私たちは、「自分と違うもの、自分を否定するものは消えればいい」とほんとうに思っているのだろうか。

「自分と異なるものによって生かされている、人は関係性のネットワークを途切れずに紡いでいくことで生きている」

ことも私たちは知っているはずだ、とは言えないのだろうか。

怒りや絶望は人の判断を狂わせる。

キリスト教が正しいかどうかなどは知らないが、力によって紛争を解決してはならないという今の教皇の言っていることは正しいと思える。
その「力」が破壊兵器に守られる抑止力であっても同様だ。

どうやってこの確信を日常の生き方のレベルに反映できるのだろうか。

それなしには世界は変わらない。
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# by mariastella | 2017-01-08 00:42 | 雑感

ふくらはぎと中足の関係。 戦争は愛で勝つ?

2017年、新年初のバロック・バレーのクラスに行ったら、20年も踊っているのに、突然新しい感覚が得られた。

クリスティーヌ(そういえば彼女の弟が去年の秋から日本のフランス大使館の文化担当官になっている)が、つま先で立った時に、ふくらはぎが緊張していてはいけない、という。

いわばふくらはぎが中足骨に落ちてしまった、という感覚でないとだめだと。

これのコツがなかなかつかめなかったのだが、1700年代半ばのバレエの本に、ひざを曲げる時は、ひざを曲げるのではなくて足首を曲げるのだと書いてあることを応用したら実感できた。

確かに、踊りでひざを曲げるいわゆる「プリエ」の動作は、もちろんひざが曲がるわけだけれど、実はそうすることで脚と足の角度が小さくなる。だから、ひざを曲げる代わりに足首を曲げるのだと意識すれば、当然ひざも曲がる。

この時、「ひざを曲げる」と意識するのと、「足首を曲げる」と意識するのとでは、ふくらはぎにかかる感覚が変わってくる。

その感覚を思い出しながら、つま先で立つときも、足指と中足骨(足の甲の前半分)の間を曲げるのだという意識で床を押すと、確かにふくらはぎに力が入らない。

バロック・バレーはクラシック・バレーと違って巧みに脱力する部分が多くて気持ちよくできているのだけれど、「筋力で解決」してはいけないことがたくさんある。その緩急、強弱が面白いのだけれど。

その後で、リュリーの「アムール(愛)の勝利」の話になった。

今から10年くらい前に見つかった銅版画で、1681年のこのオペラ・バレエにはバッカスの子供たちとしてルイ14世の子供たちが出演していたことが分かったという。
ルイ14世そのものは1669年以来踊らなかったけれど、このバレエの女性ダンサーはほとんど彼の愛人だったという。子供たちというのも愛人たちの子供が多い。王太子が多分バッカスだったようだ。
コーラスに振付があったこともほぼ分かっているし、歌手がダンサーの踊っている真ん中で歌うこともあって、音楽と歌とダンスが別々に配されていたわけではないことも分かっている。

少なくとも宮廷ヴァージョンでは。

1681年のルイ14世は、アルザスも占領して絶頂期だった。
インドにも手を出していた。
「愛の勝利」にはその舞台であるギリシャ世界に本物の「インド人」も出てきたという。

そして、「愛の勝利」というのは、実は自らの戦功を称えたものなのだけれど、自分の出陣する戦争は力や欲望の戦争ではなくて「愛の戦争」なのだという含意がある。

いつの時代も戦争の言い訳をするリーダー、戦争とは「命」を守るための愛の行為であると主張する支配者がでる。
太陽王を自称する絶対君主でも、あからさまな「力」よりも、太陽の光や熱を「愛や命」の源として「侵略も愛」と正当化したかったのは、やはりキリスト教文化に生きていたからなのだろうか。
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# by mariastella | 2017-01-07 02:02 | 踊り

星の王子さまとプラトンとパスカル

星の王子さまについて前にこんな本を読んだ記事を書いた。

最近、ラジオのコメントと、ある論文を読んだことで、なるほどなあと思った。

ラジオのコメントは、星の王子さまは、jeunisme(若者中心主義というか若さ礼賛主義)のバイブルになっているというのだ。

大人たちが、子供時代の自由な発想、物事の本質を直観する力、といった幻想の楽園を懐古する教えだと。

子供たちが「星の王子さま」を読んで気に入るのは、最初の絵解きのところとキツネとのやりとりの一部だけだと。

まあ、そう言われてみれば納得できる。
よく人生の指南書みたいに扱われているからだ。

もう一つはフランスのDEAの論文で「星の王子さま」のイデオロギーのルーツを分析したものをネットで読んだことで、日本などでは特に「星の王子さま」由来であるかのように言われている様々な警句のほとんどすべてが哲学者や神学者から来ているものだというのが一望できた。

ある意味で、フランスの貴族家庭に生まれ、しっかりと道徳教育を受け、カトリック系の学校に行き、哲学の授業を受けて哲学のバカロレアを通過したというサン・テグジュペリが、20世紀前半のフランス上流の文化生態系の産物だった、という当たり前の事実である。

日本でもえらく有名な星の王子さまに与えるキツネの教え。

「じゃあ秘密を教えるよ。
 とてもかんたんなことだ。
 ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。
 いちばんたいせつなことは、目に見えない」

というやつだ。

On ne voit bien qu'avec le coeur,
l'essentiel est invisible pour les yeux.
(心で見なくてはよく見えないってことさ、
本質というものは目に見えないんだ)

 
本質というのを「かんじんなこと」と訳すものもある。

「本質は目に見えない」というのはプラトンだ。

「心で見なくてはならない」というのはパスカルだ。

 
プラトンは「善」を至高のイデアだとする。太陽が近く可能な光のすべての源であるように、「善」は知的な光の源である。「善」は、それ自体は目に見えないが、物事を見えるようにしてくれるものだ、とソクラテスに言わせた。

パスカルは、

C’est le coeur qui sent Dieu, et non la raison. Voilà ce
que c’est que la foi, Dieu sensible au coeur, non à la rai-
son (Pensées- 278).(神を感じるのは心であって理性ではない。信仰とはこれだ。神は心で知覚できるもので理性ではない(パンセ278)

と言う。

これを普通の日本人が目にしたら、遠い国の遠い時代の別々のことに聞こえるかもしれないけれど、サン・テグジュペリの生きた文化生態系においては、自然に結びついている行動指針の言葉だった。

よく見てみると、肉体の器官としての「目」と「心」を対比しているのではなく、「理性」と「心」の対比であり、それが見る「いちばんたいせつなこと」とか「かんじんなこと」というのは実は、「善」であり「神」なのだ。
特定の価値観が前提になっている。

日本語訳が「いちばんたいせつなこと」とか「かんじんなこと」とあって、「「いちばんたいせつなもの」とか「かんじんなもの」とはなっていないのは本質をとらえている。
「善」や「神」は、「もの」ではなくて「こと」だからだ。

けれども、パスカルがあれほど悩んで「理性」から「心」に「転向」して「パスカルの賭け」を決意したのだけれど、今の「無意識心理学」によれば、理性と心は実は対立関係にあるわけではない。

「判断」「識別」には感情が大きく関係している。いや、感情抜きでは、情報の収集と分類はできても、絶対に結論に至らないという。
理性の機能をつかさどるのは感情だ。情報を最終的に処理するのは「心」だ。

脳と心は同じものではない。脳は頭蓋骨に納まった期間で、様々な働きをするが、「心」はネットワークの中にしか存在しない。心は脳と脳が相互にかかわった結果生まれるものだという。

パスカルにこの知見を読ませたかったなあ、と思う。
(私がパスカルと話したかったと前に書いたのはこういうことも関係している。)

理性と心に関するこのような知見に至るまで、西洋思想の文脈では、プラトン、アウグスティヌス、パスカル、サン・テグジュペリは一連であって大きな変革はなかったのだ。
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# by mariastella | 2017-01-06 00:05 | 哲学

ベルナノスの言葉 その2

<< Les dernières chances du monde sont entre les mains des nations pauvres ou appauvries. C’est, en effet, la dernière chance qui reste au monde de se réformer, et si généreuse et magnanime qu’elle puisse être, une nation opulente ne serait pas capable de mettre beaucoup d’empressement à réformer un système économique et social qui lui a donné la prospérité. Or, si le monde ne se réforme pas, il est perdu. Je veux dire qu’il retombera tôt ou tard à la merci d’un démagogue génial, d’un militaire sans scrupules ou d’une oligarchie de banquiers. >> (Le Chemin de la Croix des Ames)

「世界の最後のチャンスは貧しい国、貧しくなった国々の手にある。富める国はたとえどんなに寛大であっても、自らの繁栄をもたらしてくれた経済と社会のシステムを改革するのに本気でとりくむ力などない。しかし、世界は、変革しないなら、滅びる。遅かれ早かれこの世は巧みな扇動者、勇ましい軍人、少数の金融業者たちの意のままになってしまうということだ。」

この言葉も、まるで今の世界についてのコメントのようだ。
というより、もう、遅いんじゃないか、世界はもう扇動者や軍産共同体の意のままに動かされているのではないかという気もする。
でも、先日書いたベネズエラの「エル・システマ」だとか、キューバの医療制度とか、新自由主義経済の恩恵を受けていない貧しい国で新しい取り組みがなされてきたのは事実だ。

今、これらの国のシステムは揺らいでいるけれど、大国や大資本にすべてつぶされていくのではなく、問題提起が続いてくれるように 願うばかりだ。
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# by mariastella | 2017-01-05 02:24 | フランス

ベルナノスの言葉 その1

ジョルジュ・ベルナノスは60年の生涯の中で第一次大戦と第二次大戦の両方にしっかり遭遇した。そのせいで、フランスやヨーロッパや政治や宗教について観察し考え抜いた人でもある。今聞いてもなるほどと納得できる言葉がたくさんある。

<< Une Démocratie sans démocrates, une République sans citoyens, c’est déjà une dictature, c’est la dictature de l’intrigue et de la corruption. >> (La France contre les robots)
「民主主義者抜きの民主主義、市民抜きの共和国は、すでに一つの独裁だ。謀略と腐敗の独裁である。」


主義や理念だけ掲げていても、その実践者が内部で常に生きた対話を通してそれを更新続けなければ、残るのは私利私欲にとらわれた「独裁」と独裁者による支配だ。

共産主義も社会主義もそうやって壊れていった。
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# by mariastella | 2017-01-04 03:34 | フランス

多難な年明け

元日の夜のTV総合ニュースでは、大警戒のもとで賑やかに過ぎたシャンゼリゼのニューイヤー・イベントのことをやっていた。そういえば、前の年は11月のテロの影響で花火が中止されたのだった。
私は日本にいたからその雰囲気は分からなかった。

で、去年テロがあったニース、ベルギーのブリュクセルやドイツのベルリンなどでもいずれも、無事に年が越せた、ニューヨークもタイムズスクエアに人が集まった、とニュースのアナウンサーがにっこり笑って言っていたのを見て驚いた。

1日深夜のイスタンブールのナイトクラブの無差別射撃、31日と1日と、自爆テロなどで続けてたくさんの犠牲者を出したイラクのバクダッドはまるで数に入っていないかのようだ。
フランスからの距離で言うとNYより近いのに。

やっぱり「欧米」「キリスト教文化圏」視線なのかなあ、と思う。

オランドは1日にイラクに行って現場のフランス軍兵士たちを「慰労」した。
「そんなことをしてISを刺激するなよ」、と思ってしまう。
テロに「宣戦布告」している彼にとってはそれ以外にない選択なのだとは分かるけれど。
武器や戦闘機などを売りまくっている時点で私にとってはアウトだけれど。

今年はエピファニーが教会的には8日だけれど、ガレットはもう出回っている。
スペインでは昔通りに1/6がエピファニーの休日で、三博士がイエスに贈り物をしたことにちなんで子供たちにはプレゼントをもらえるのだそうだ。クリスマス・プレゼントから二週間も経たないのに。

スカンジナビアやアイルランドでは、クリスマス以来毎日灯していたクリスマス大蝋燭を灯す最後の日になる。

私がフランスに住むようになった40年前のクリスマスには、フランスでも、1/6のエピファニーで降誕祭が終わってツリーを片付ける、というのが習慣だった。でも今は、エピファニーも移動祭日で1月いっぱい飾りが出しっぱなしという家や店もある。

フランスでは毎年大統領にガレットが贈られるのだそうだが、フェーブは入っていないそうだ。
ガレット・デ・ロワは王様のガレットで、本来はイエスを礼拝に来た三憲王にちなんで、パイの中のフェーブに当たった人が王冠をかぶって「王様」になるのだけれど、「大統領は王になれない」からだそうだ。

なるほど「王殺し」のフランス革命を継承するシンボルの共和国大統領が戴冠してしまったら洒落にはならない。革命後にも「フランス王」でなく「フランス人の王」だの「フランス人の皇帝」だのという名目で戴冠してきた人たちもいるけれど、第三共和制以降は「王様」はアウトとなっている。

今では日本でもガレット・デ・ロワが登場しているようだ。
昔はガレットと言えば、『シェルブールの雨傘』でのドヌーヴの冠しか知らなかったっけ。

私が一時帰国して当時飯田橋にあったリセ・フランセで教えていた1980年の1月には、6日(フランスのカレンダーで新学期が始まっていた)の給食のデザートがガレットだったらしくて、午後の授業には金髪に金色の紙の冠をつけたままのかわいい女の子がクラスに出席していたのを覚えている。

あの頃にもすでに、中東ではテロがあった。
誰もそんなことを話さなかった。
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# by mariastella | 2017-01-03 02:13 | 雑感

グスターボ・ドゥダメルとニューイヤー・コンサート

元日のウィーンフィルの新年コンサートをTVで聴いて、はじめてグスターボ・ドゥダメルの指揮を見た。

もうウィーンフィルとは何度も共演しているとはいえ、35歳の若いベネズエラ人と、「老舗」ウィーンフィルの面々の取り合わせは不思議な感興を呼び覚ます。

ドゥダメルは、ベネズエラの音楽教育システム「エル・システマ」の出身者で、ロサンジェルス・フィルの音楽監督となった今も、積極的に故郷の子供たちのために献身しているそうだ。

とても楽しそうで、エル・システマのユース・オーケストラを振るときも、ウィーンフィルを振るときも、同じ自然体というのがいい。
アメリカ型の新自由主義に反旗を翻すベネズエラの音楽政策の勝利というのも気持ちがいい。
ベネズエラの音楽にキューバの医学。
どちらも人間を育て、癒す。

ドゥダメルを愛する人たちはその生き方そのものも愛しているのだ。

エル・システマには「ホワイトハンド」コーラスというのがあって、肉体的・精神的障害を持つ子供たちと白い手袋をした手の動きで歌う聴覚障害・聾唖の子供たちがからなる合唱団だそうだ。

どんなものかと思っていたが、ドゥダメルを見ていると、その意味が分かる。

指揮するドゥダメルが、振付師に似ているからだ。

特に、時々、両手をおろして、まるでタクトを振るのをやめてしまったかのように見えるとき、彼が、オーケストラと一緒に「踊っている」こと、「指揮は振付けなのだ」ということが分かる。

「ジェスチャーによるコーラス」との距離は近い。
というより、内的な振付なしの音楽なんて考えられない。

以前に、聴覚障碍者のために、全身に振動で音楽を伝える活動をしていた方とお話したことがあったけれど、音楽を発する側も全知覚、全人間的なものだと分かる。

音楽とダンスの関係についてあらためてヒントを得ることができた。
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# by mariastella | 2017-01-02 00:14 | 音楽

新年のごあいさつ。 パスカルとクリスマス

これを書いているのは大晦日の午後です。
でもアップする頃には日本ではもう2017年に暦が変わっているでしょう。

だから、まず、このブログを読んでくださっている読者の方々に、2017年が平和で穏やかな年になりますようにご挨拶します。

私にとって2016年は大きな変化のあった年でした。

ひとつは、眼鏡もコンタクトレンズもいらなくなって活動時間が長く有効になったこと。
その一つの結果が、もう半年以上もブログを毎日更新していることに表れています。

前は、気づいたこと、思いついたことは、とりあえずストックして寝かしておいたのですが、その8割くらいは、全体の思考回路に加えてもらえないまま忘れられたという状況がありました。

今はかなりのことをブログに載せることでフロー化しているので、回転率がよくなった気がします。

読者を想定していない覚書なのでコメントも閉鎖しているわけですが、思いがけないところで私のブログを紹介してくださる人がいることを教えていただいたりして、少しはお役に立っていることもあるのかとうれしいです。
想定読者もテーマもないのですが、誠実に書くことを心がけているので、「あの人に読まれたらやばい」というようなものはないと思います。

変化と言えば、今年は、ブーレーズ・パスカルを見る目とクリスマスを見る目が劇的に変わりました。
何か決定的なことが起こったわけではなく、長年の積み重ねがある一線を越えて質的に変化したという感じです。

年末はとても忙しかったのですが、たった一日自分の時間が持てた時に、国立図書館のパスカル展(パスカル、心と理性)に駆けつけました。

パスカルが完全に分かったので、それを確認するためでした。

何がどう分かったのかというと長くなるので書けませんが、言えることは、今パスカルが私の前にいてEntretien avec M. de Saci. 1655. のように彼と対話ができたら、彼を、アウグスティヌスの呪縛から解き放つことができるような気がしていることです。

大げさだと思われるかもしれませんが、パスカルと同じ土俵で、同じ言葉と同じ感性を使って彼を助けることができる気がします。もっともそうしたら、『パンセ』の半分は残らなかったかもしれませんが…。

キリスト教におけるノイズとの付き合い方が自分の中ではっきり分かった年でした。

ノイズだから重要でないとか意味がないとかいうことではありません。

時代や場所が規定する文化や伝統の形としての典礼や神学、人間性と社会心理学的考察などからきれいに距離を置くコツがわかったということです。

クリスマスもそういう形で現れました。

キリスト教の降誕祭としてのキリスト教は、昔は、「救世主の誕生」、星が羊飼いを導くとか、三博士の礼拝とか馬小屋とか、ハレルヤとか「聖夜」とか、要するにまあ「おめでたい」出来事だと把握していました。

ところがある時から、あまりおめでたく思えなくなってきていました。

飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃん、この子が33年後にああいう無残な殺され方をすると知っているのに、どうしてみんな喜べるのだろう、と思ったのです。
もちろんその後で「復活」して神の子だとか永遠の命だとかいうことになって全人類を救うのかもしれませんが、まあ、私が親だったら、そんな立派なモノになってくれなくてもいいから、親の目の前で仲間に裏切られ鞭打たれ釘打たれて磔にされて息絶えるのだけは見たくない、と思ったからです(まあ、だから私の子は救世主にはなれないでしょうが)。

しかも、わずか3、4ヶ月後の復活祭の前には嫌になるほど受難の姿を見せつけられ、その後に復活昇天したとはいえ、どの教会にも十字架上の最悪のシーンが飾られているのに、クリスマスの時だけ、「わーい、救世主が生まれた」などと喜ぶ気がしなかったのです。

で、いろいろありまして、信仰の社会的表現である宗教のレトリックと「福音」とを自然にきれいに分けて考えることができるようになり、その後でクリスマスが来てみると…

残ったのは、

赤ん坊が1人、

でした。

神は自分の言葉(ロゴス)を人の形で世に送ったのに、言葉も話せない人間の赤ちゃんにそれを託しました。
アダムとイヴなんて神の似姿で「大人」だったのだから、天使とか預言者とかスーパーヒーローの姿でもよかったのに。

それが新生児。

この子を生かすこと、この子が言葉を覚えて話せるようになれるまで育てること、は神ではなく、人間の大人にしかできません。

イエスは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25-40)」といって、弱者を助ける、弱者に仕えることを、救いいを得る業としましたが、イエス自身が、旅先で生まれた新生児、そのすぐ後で亡命を余儀なくされた赤ん坊であったのだから、納得がいきます。

ルルドで病人のためのボランティアをする人たちが、病者の中にイエスを見る、と言っているのも当然だなあと思います。

クリスマスに、だれの助けも得られず両親にだけ見守られて生まれてしまった赤ん坊、放置されれば生きていけないこの子を守らなくてはいけない、みんなで、あるいは、自分の心の中で。

イエスを救世主とする「福音」を信じたいという人は、言葉もなく寝たきりで一人で生きていけない赤ん坊に寄り添うしかない。

天使が歌わなくても、星が導いてくれなくとも、三博士のプレゼントがなくとも、今ここで、裸の赤ん坊を温めて、抱いて、あやして、飲ませて、守ってやる以外に大切なことはない。

今年のクリスマスには、教会のプレセピオに一本の藁を置き、そこに寝かされた赤ちゃんの人形を見て、難民キャンプで暮らす赤ちゃんたちや、他の人の助けなしでは生存が不可能なすべての人々のことを本当の意味で考えることができました。
秋に釜ヶ崎に連れて行っていただいたこともシンクロします。「あいりん地区」ってそのものずばりでした。

日本では、クリスマスが終わったら、即「お正月」モードに切り替わり、それこそ、前の年を無事に過ごせた人ならそれを感謝し新しい年を祝うところですが、フランスは、クリスマスから、三博士の礼拝(エピファニー)やら生後40日でのエルサレムの「お宮参り」まで、「クリスマス・ストーリー」が続いているので、この話を新年のご挨拶に代えました。

みなさま、よいお年を。
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# by mariastella | 2017-01-01 00:05 | 宗教

プーチンとロシア正教

(これは昨日の続きです)

プーチンがヨーロッパにすり寄るには「キリスト教を」使う。前にも何度か書いたけれど、ロシア正教の使い方が、ヨーロッパ的には前近代的だ。

プーチンはよき正教徒であることをを自認していて、ことあるごとに、自分はソビエト政権下で母親自らの手で洗礼を受けたのだ、と証言している。

ソ連が崩壊する過程で、正教がナショナリズムの形成に役立ったのは理解できる。

もともと、ロシアの共産主義自体が、宗教のようなものだった。
スターリンは「ローマ法王は装甲部隊をいくつ持っているのか」と尋ねたと言われるし、
プーチンは、セーヌ河畔のロシア正教カテドラルの建設についてフランスと交渉した時に、
「カテドラル一つ造るのにエアバスを何機買えばいいのか」と聞いたと言われる。(当時の文化相の回想)

シリアの反政府軍への空爆を非難されたせいで10/19のカテドラル落成にプーチンは出席をキャンセルしたが、12/4には1億5千万人のロシア正教徒の頂点に立つキリル大主教が初めてフランスでのカテドラルの献堂式を行った。
パリ市長が出席した。

キリル大主教は、ロシアとヨーロッパの屋根の上でどんなに風が吹きすさんでいても、屋根の下ではみなが仲良くやっている、カテドラルの建設を祝うのは、ロシアとヨーロッパの人民と文化の親愛のシンボルだ、という感じのスピーチをした。

ロシア正教は必ずしもプーチンと同じ政見を持っているわけではないが、互いに互いを必要として一種の紳士協定を結んでいる。
シリアの反政府軍への攻撃も、ロシア正教から正式に支持されていた。
「中東のキリスト教徒を救うための正当防衛」という名目が使われた。

「キリスト教」を切り札にすれば、いろいろなことができる。

実は、今のほとんどのロシア人にとって、正教徒であることは宗教行為とほとんど関係のない愛国主義アイデンティティで、「キリストなしの正教」などと言われている。

で、プーチンのレトリックにおけるキリスト教というのは、なんと「ヨーロッパの白人のキリスト教」であり、だからこそロシアはヨーロッパと共にイスラム教を「征伐」する、という差別的含意が透けて見える。

けれども、ヨーロッパのほとんどの国は、EUの起源にあるキリスト教文化という言葉をあらゆる憲章から周到に消去したように、「世俗性」と「多様性」を建前にしている。

特にフランスのような無神論イデオロギーで近代革命を経た国では、「キリスト教仲間だから友好関係」というレトリックなどタブーに等しい。

だからプーチンが、セーヌ河畔に金ぴかドームのカテドラルを建てて「ロシアとヨーロッパの共通のルーツ」みたいなものを刷り込もうとするのは、どこかアナクロニックに響くのだ。

30日、プーチンはアメリカのロシア外交官35人国外退去処分に対して同じ形での報復処置はしないと表明した。冷静なプーチンの方が、なんだか怖い。

ともあれ、プーチンやメルケルのように長く政権に留まる人たちは、いろいろな意味で奥が深い。
同時代に彼らを観察できるのは興味が尽きない。
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# by mariastella | 2016-12-31 05:35 | 宗教

年末のニュース、オランドとプーチン

以前の記事でも触れたジャクリーヌ・ソヴァージュさんが28日に大統領による全恩赦を受けて娘たちのところに戻った。

オランドが来期に出馬しないと表明してから、多分、この不発に終わった部分恩赦を全恩赦に変えるだろうと予想していたのだが、それが当たった。
ジャーナリストへの暴露インタビューで、司法への不信を口にして謝罪に追い込まれていたくらいだから。

でも、この王政の名残である「恩赦」の制度を使うのは、社会党マインドのオランド自身が原則的に躊躇していたらしい。

でも今年の初めにJS(ソヴァージュ)さんの娘たちをエリゼ宮に招いてかなり心を動かされたというから、司法に裏切られた末、やはり強権発動に踏み切ったというべきか。

司法の側は怒っている。何度も法律にのっとって様々な制約をクリアして釈放拒否の判決を出しているのに、自由な大権であっさり覆されるのなら、これからみんなが司法を通さずに大統領府の門を叩くことになる、と。

しかし、JSさんには再犯の恐れというのはゼロだし、共に犠牲者だった娘たちが母親を救おうとして引き取るのだから、さすがに、政治家たちはみな賛意を表明している。
娘さんたちが父親から性暴力を受けていたのを守れなかったことでJSさんを責める声もあったというが、彼女は当時それに気づいていなかったという。
いや、自分自身が毎日激しい暴力の犠牲になっている時、人の識別力など曇ってしまうとしても無理はない。

仮にJSさんが、夫が娘に乱暴しているのを現行犯で目撃してその時に猟銃を持ち出して撃ち殺していたとしたらどうなんだろう。いや、そんなことをして娘たちのトラウマをより拡大するよりも、たった一人で謀殺を選んだわけだ。ともかく、すでに4年も投獄されていたのだから、この釈放は誰が聞いてもほっとするニュースだった。

それにしても、こんなことすら「いいニュース」だと感じられるくらいに、世界中から悪いニュースがどんどん届いている。

29日には、いいのか悪いのか分からない奇妙なニュースも入ってきた。

ロシアが「欧米」抜きで、トルコ、シリア、シリア反政府軍、の代表を集めて停戦条約をまとめようとしていることだ。

ISとの戦いは終わっていないので、クルド軍は相変わらず戦っている。

でも、アレッポをあれだけ叩いた後で、どう停戦に持っていくのだろう 。
アレッポでのロシア軍の容赦のない感じは不思議ではなかった。
今時、アメリカだってあれほどの絨毯攻撃はしない。
チェチェン戦争のグロズヌイ攻撃のことを思い出す。

そういうあからさまな殲滅作戦みたいなのを堂々とやって、プーチンは一方で、安倍首相と会ったり、トランプやフィヨンにすり寄ったり、イランや中国やトルコに働きかけたり、「外交」にも勤しんでいる。

その中で、フランスとヨーロッパに向けたレトリックがまたアナクロニックで不思議なものだ。(続く)
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# by mariastella | 2016-12-30 07:35 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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