L'art de croire             竹下節子ブログ

憲法九条とニーチェとピンカーさん

時々読んでいるリテラにこういう記事があった。


ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のノーベル平和賞に対して、核兵器禁止条約に署名しなかった日本政府はばつが悪いんじゃないかというものだ。


オバマ大統領でさえトライしようとした核先制不使用宣言にさえ水を差したのだから確かにひどい。


ICANが日本の被爆者の証言から生まれたというのは注目すべきことだ。


私は、2003年のブッシュ大統領のイラク派兵に反対して外務省を追われた天木直人さんのブログも時々読んでいる。新党憲法九条というのを立ち上げて、東京21区から今回立候補されている。

彼が、憲法九条こそが日本が世界に誇れる宝、安全保障のための最大の手段と言うのは分かる。

実際、昨日の記事に挙げたリンカーンの就任演説と同じで、「人類の宝」のような演説や宣言は決して少なくない。

憲法九条がアメリカ軍に押しつけられたものだからよくない、などと言う人がいるけれど、アメリカだって、十分に立派な人類普遍の理想を自分たちでも掲げてきたのだから、ただあの時点で敗戦国にもう武力を持たせない、というだけの思惑で日本に不戦宣言を押しつけたのではないだろう。

彼らにも彼らの「理想」の文脈があった。


でも、憲法九条の


 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇叉は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

というこれだけを見て、「宝」だと持ち上げると、


「現実が見えていないお花畑だ」とか

「では敵に攻めてこられたらなすすべもなく滅びてもいいんですか」


などと必ず言われることになっている。


憲法解釈をめぐっていろいろな説が飛び交う様子は、あたかも、聖書解釈をめぐっての二千年にわたる論争のようだ。


実際、イエス・キリストなんて、二千年も前に


「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 (マタイ5,38-40)」


などと、「現状認識」にかけ離れ、危機管理の意識がこれっぽっちもないお花畑で不都合なことを口にしている。被虐趣味ですか、と思われかねない不戦主義だ。


で、本当に、あっさりととらえられて抵抗せずに十字架にかけられてしまったのだから言行一致ではある。

その後、復活と聖霊降臨という不思議なことがあって、その途方もない生き方に続くキリスト者たちが現れ、次々と、大量の殉教者を出した。


その後、権力者に採用されたキリスト教は今度は大量に殺す側にも回っているのだから「なんだ、これは」と言いたくなる。


けれども、二千年のスパンで見れば、日本国憲法の前文にまで、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とか「政治道徳の法則は、普遍的なもの」だとかいう言葉が出てくるのだから、「お花畑の力、恐るべし」とも思う。ピンカーさんの言うとおりだ。


殉教者とは殉教証者であって、信仰について証言する人だ。

ICANが日本の被爆者たちの証言の上に立って活動したというのは大いに意味がある。

なぜなら、ただ核非保有国が集まって核兵器廃絶と唱えることに対して、「負け犬の遠吠え風」の印象を持つ人が少なからずいるからだ。銃を持たない人が銃を持っている人を非難するのも同じように見なされる。


その時思うのは、なぜだかニーチェのことだ。


ニーチェによれば人間は自然状態ならそもそも力を行使したい、他人を支配したいという欲望を持っている。迫害や破壊にも喜びを感じる。しかしそれでは「類」として生存できないからそれを抑え込むために「良心の疚しさ」というのを導入した。言い換えれば、「力を抑制する、力の発動を放棄する」というのは、もとにある権力欲が「鬱屈」したものだというのだ。

特に、自然状態での弱者は、この疚しさをカバーして自分の支配欲を内に抱え込み、外に対して非暴力という「正義」を掲げる。自ら率先して武装解除し、正義を掲げることで強者の攻撃本能やら支配欲を批判し抑え込む。

強者を平準化して弱者と同じレベルに引きずり下ろすためだ。

つまり、弱者のルサンチマンが近代社会の平和や人類愛という「正義」を生み出した。

銃がない人は、自分で銃を持とうとする代わりに、銃を持っている人にそれを捨てさせようとするし、核兵器のない国は集まって核兵器廃絶条約を唱える、というわけだ。


でも、ICANの運動は、違う。


ある時点におけるパワーバランスの不均衡を是正する目的などではない。


実際に被爆した人の犠牲の上に立って、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」と日本国憲法前文がいうのは、ルサンチマンとは違う。

リンカーンも同じだ。

南北戦争の前に(連邦を護るために)「流血や暴力はなんら必要ではありません。そしてそれは政府の権力に強いられないかぎりありえません。私に託された権力は、政府に属する財産や土地をもち、使用し、所有すること、そして税と関税を徴収することに使われることでしょう。しかしこれらの目的に必要と思われることを越えては、いかなる場所の人々に対しても、またそのあいだでも、武力が行使されたり、侵害したりすることはないでしょう。」「法的に厳密に言えば、政府にはこれらの職務の遂行にあたって、権利が存在するかもしれないが、そうする試みは非常にいらいらさせられることでもあり、その上ほとんど実行不可能で、あえてしばらくはそのようなことを控えた方がいいと私は考えています(リンカーン就任演説)」と言っていた。

それにもかかわらず戦争に突入し、その後では


「誰に対しても悪意をいだかず、慈悲の心で接し、神がわれわれに正義を目にするように与えた正義を固く信じ、われわれが取り掛かっている仕事、つまり国家の傷をいやし、戦いに耐えてきたものや未亡人、孤児をケアし、われわれ全ての国民のあいだに正しく永遠につづく平和を実現し、はぐくむ仕事を終えるべく全力を尽くそうではないですか」と呼びかけた。


ルサンチマンとは思えない。


どんなに有効に見えても、「目には目を、歯には歯を」の軍備拡張の方向に向かってはいけないし、それは決して、負け犬の遠吠えでもない、と思いたい。


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# by mariastella | 2017-10-17 00:24 | 雑感

それでも、世界は、だんだんよくなっている by スティーブン・ピンカー

私が日ごろ言ったり書いたりしている実感に、

時代と共に人間社会の暴力は確実に矯められてきている

というのがある。

核兵器だとか、過激派のテロだとか、心を病んだ人による大量殺人とか、女性や子供、高齢者、障碍者など弱者への虐待などのニュースを見聞きすると、暗い気持ちになりがちだ。

けれども、そもそも、私のような、百年前に生きていたなら立派な弱者で踏みつけにされているだろう人間が、自分の部屋でぬくぬくと、世界中の悲惨や暴力の実態を眺めて悲憤したり絶望したりするという状況自体が、人類史的に考えてもすごい。

ピケティの新資本論ではないけれど、膨大な統計を駆使して、30年もかけて、「今は昔より良くなっている」という「福音」を知らせてくれる本がある。

2011年に出たのが最近ようやくフランス語訳出版された。1000ページもある大作だ。

17ヵ国語に翻訳されているというから検索したら日本語訳は見つからなかった。

英語版はこういうの。


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「今までで読んだ中で最も重要な本のひとつ」って、ビル・ゲイツの推薦文もある。

スティーブン・ピンカーの『The Better Angelsof Our Nature』で、副題が「暴力と人間性の歴史」だ。フランス語訳のタイトルは『La partd'ange en nous 私たちの中の天使の部分』で副題が「暴力の凋落」という。序文が、フランス人でチベット仏教僧になった有名なマチュー・リカールによるもの。

人間性の中にある天使というのは、リンカーン大統領が1861年の就任演説の最後に出てくる有名な部分だ。今日本語を検索したら、

「われわれは敵同士ではなく、味方なのです。われわれは敵同士になるべきではありません。感情が高ぶっても、われわれの親愛のきずなを切るべきではないのです。思い出の神秘的な弦が、全ての戦場や愛国者の墓から、この広大な国の全ての生けるものの心と家庭へとのびていて、再び奏でられるとき、統一の音を高らかにならすことだろう。その音は確かに、われわれの本来の姿であるよい天使によって鳴り響くことだろう。」と出てきた。

まあ、今、生存している私たちは、当然、生き残ってきた人たちの子孫だ。ひどく暴力的で反社会的な人たちは長い間には社会的に淘汰されていくだろうから、全体として共生に向いている人が増えるのは社会進化論的にも当然だともいえる。

それにしても、世間では、ネガティヴな言説、危機を煽る言葉ばかりが幅をきかせている。その方がインパクトがあって「売れる」からかもしれない。

総体的に暴力の少ない社会で「国難だ、国難だ」と叫ぶ政治家もいる。

昔はよかった、過去の栄光をもう一度、という人たちもいる。

もちろん、リンカーンの言葉も、その理想とは裏腹に、150年経っても、アメリカの差別も暴力も残っているじゃないかと言われそうだけれど、たまにこういう高邁な演説を読み返すのは精神衛生にいい。日本国憲法の前文だって、現実と乖離していても、読むとほっとする。

ピンカーさん、ありがとう。




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# by mariastella | 2017-10-16 01:37 |

10/28 のコンサート

10/28 の真生会館のコンサートです。

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今回の東京のコンサートでは一番ゆっくりと聴いていただけると思います。

第一部はすべてラモーのオペラからの曲で、全オーケストラのパートを3台のギターの22本の弦でカバーしています。室内楽用のものではありません。

第二部では逆にチェンバロ曲を3台のギターで分けているものがあります。一人の人間の10本の指ではどうしても弾き分けられないものがはっきり分かるようにした上に、補助音も加えてアレンジしています。

いかにご一緒に音楽を創っていくかという楽しみをみなさんと共有したい私たちの意向をキャッチしながら聴いていただければ嬉しいです。

どの曲もいろんなシーンをイメージしているので、それぞれの心象風景のBGMのつもりでお聴きください。


DVDの申し込み先などトリオ・ニテティスのブログでご覧ください。




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# by mariastella | 2017-10-15 04:32 | お知らせ

『キリスト教は「宗教」ではない』に載せなかった部分

小寄道さんのブログ『キリスト教は「宗教」ではない』の感想を書いていただきました。

タイトルのせいでいろいろ誤解される懸念もあったのですが、直球で理解していただけて安心しました。


その終わりに、


>>>追記:4章の「宣教師たちのキリスト教」において、ロレンソ了斎という人物についてなぜ破格のページを割いたのだろう? 全体を考えると、その扱いは不思議に思えた。<<<

とありました。


それについてここでお答えします。


単に、版組のために、ページを削る必要があったので、p124の「一例を挙げよう」の後と「片目の聖徒」の間にあった他のエピソードを削除したのです。


それでも「片目の聖徒」を残したのは、「片目失明者友の会」を支援している友人へのメッセージを込めたかったからです。


で、ここに、削除した部分を再録します。前にも、新書のジャンヌ・ダルクで削除したエピソードをサイトの「ジェンダーの話」に再録したことがるのを思い出しました。ネットって便利ですね。

では、以下が、削除した部分です。(削除したのは、まあ、この部分は、歴史事実関係の記録なので、私の解釈とは関係がないから本質には影響しないと思ったからでもあります。日本のキリシタン史については私でなくとも他の研究死者がたくさんいらっしゃるのだし。ロレンソ自身の資料は貴重なものを手に入れたのでぜひ紹介したいと思いました。私にとって魅力的な存在だったので。)

(以下、単純変換ミスなどを訂正しました)



キリスト教が仏法の一派でないことが分かり仏教勢力からの激しい反発を受けた後で、宣教師ヴィレラ一行が一五六〇年末にようやく京都居住と布教の許可を得た頃の話だ。その許可を得たのも、単なる行政手続きではなく、判断を下す役人が「教えを聞いて魅了された」からだった。「お談義」と呼ばれるキリスト教教義の説明(要理)はカルト宗教のアジテーションや奇蹟のパフォーマンスとは程遠いものだった。次のような例が報告されている。

ある時、天台、浄土、神道と各宗を渡り歩いた禅学の博識で知られていた山田庄左衛門(当て字)という美濃の武士が「天主堂(教会)」にやってきた。対応にでた日本人修道士イルマン・ロレンソは、手順に従って、日本の諸宗と造物主デウスとの間の差異を説明しようとしたが、庄左衛門は笑ってこう言った。

「それらの説明は必要ない、私は禅宗であり神仏は何もない」「禅宗は四大元素を説き、第五の無(涅槃)を加えた。禅学者はその本質を明らかにしようと苦労し、千五百の公案を熟想するが、全生涯を通しても三百の公案を解決する者はほとんど見出せない。我々は中国やインドの碩学の古来よりの著作を多く持っているが、第五の元素に踏み入った者もなく安心と悟りを与えない。それについて知っていると自負する者は他宗の知識の蘊奥を極めた者をも凌ぐと信じられる。貴僧の教法はこの禅宗の核心についてどうするのか伺いたい」

ロレンソは答えた。

「それを聞いてくれて非常にうれしい。というのは毎日理性に満足も与えず役にも立たないことを説く煩わしさを免れさせていただけたからだ。貴下の言う第五元素、禅宗で考究し苦労されているものを知っているからこそ、パードレがはるかかなたの国より渡来されたのであり、それが主要目的であり最大の動機である。日本人の知らなかった第五元素の本質を少しの誤謬もなく真理に基づいて知るパードレの教えにより最終解決を与えられるのが現世における唯一の有効な方法だ。それがパードレの直接の天職であり目的であり熱望であるからだ。ヨーロッパの古代哲学者は第五元素を天と呼んだ。しかしこれも他の元素と同じく被造物だ。デウスとは無限の隔たりがある。しかし高邁なことを理解するには順序があるので、まず、被造物と目に見えるものとについて説明し、次に、すべての理性的被造物の持つ不可思議で不滅の本体、理性的霊魂(アニマ・ラショナル)とは何か、次にわれらのアニマと天使や堕天使との相違を説明しよう。これらについての認識を持ち理解された後で、それを観じ永遠の歓びのために我らを創造された最高の霊的本質(スピリツアル・スタンシアであるデウスについて話そう」

これを聞いて非常な喜びと満足を覚えた庄左衛門は、突然、紙と墨を所望した。話の要点を書きとめるためかとロレンソは思ったが、それは、さらに重要な一一の質疑を書くためで、その疑問を説いてくれれば自分はキリシタンになる、と庄左衛門は言った。ロレンソとロレンソの相談を受けたヴィレラがそれらすべてに答え、満足した庄左衛門はようやく「要理」のお談義を聞きに通って洗礼を受けたのだ。


お談義と大名布教

お談義は、世界は永遠でなく始まりがあったこと、太陽も月も神ではなく、人には理性的霊魂と知覚的霊魂とがあり、理性的霊魂が後世にも生き残ること、をまず伝え、その後の質疑応答に移る(ここで天文、博物学の知識による自然神学の弁神論が使われる)。

 次に相手の宗旨を個別に取り上げ、根拠を挙げて誤謬を是正する。それが理解されると、三位一体の玄義(ミステリヨ)、天地創造、ルシフェルの追放、アダムの原罪とデウスの御子のこの世への受肉、受難と復活昇天、十字架の玄義の力、最後の審判、地獄の戒め、天国の快楽が説明される。

これらの「真理」を理解した時に、デウスの十戒を授け、それまでの宗旨を捨てること、戒を守ること、咎を悔いることを説明し、最初の秘跡である洗礼が必要なこととその玄義を解説する。

畿内におけるキリシタン隆盛の嚆矢となった一五六三年の奈良における大名たちの劇的な入信も、同様にきわめて知的なプロセスを経たものだった。旧弊を排する進取の気風に満ちた若者や、現実に不満のある下層の民を扇動したり迎合したりするものではない。全てを言葉で説明して理解を求めるというキリスト教の布教は、一見すると、不立文字の「禅」が人気を博していた当時の武家社会とは相いれないように思えるかもしれないが、もともと日本は漢文を通して「学」を深めてきた社会だ。新しい宗教との出会いにおいてそれがどのように「言語化」されているかを確認するのは、実は、知識階級にとって不可避の欲求だった。

布教にはずみをつけたのは、松永久秀の重臣で山城守結城忠正という文武両道の達人である「老人」である。そのきっかけは、比叡山の僧徒が松永久秀に提示した「天下の治安維持策一三ヶ条」だった。そこに伴天連追放の二ヶ条が組み込まれていた。それには「伴天連居住の山口や博多は戦乱によって荒廃しているから、都から追放すべし」という言いがかりも含まれている。とはいえすでに公方(足利義輝)から宣教の認可状が出ているのだから久秀の一存で無下に追放はできない。久秀は重臣である碩学の結城忠正と清原外記に宗論させようと考えたのだ。

都の仏僧は忠正に贈賄し、忠正のような高識の学者なら、伴天連と宗論すれば二、三語で説伏できるであろう、伴天連を放逐し財産と家屋を没収できる、と、そそのかした。

乗り気になった忠正は松永久秀に、伴天連を追放するのと殺すのとどちらがよいか、と尋ねた。その時点で忠正はキリシタンにも伴天連にも会ったことがなかった。ところが、ディエゴという洗礼名を持つある信徒が訴訟事件で久永のところに来た時、結城忠正が取り次いだ。ディエゴがキリシタンであると知って、「汝の神はなんと言うか」と質問したところ、ディエゴは滔々とあざやかにあらゆる質問に明快に答えたので、忠正は深い眠りから覚めたごとく畳に手を突き、頭をさすってキリスト教を賛美し、切支丹になろう、と言って、堺にいるパードレを招く書簡を送った。

日本人の一信徒がこのように明確に尋問に対応できたということは、洗礼を授けるにあたっての教義の理解が徹底していたということだろう。「先祖代々からの宗派」でもなく、現世利益を約束する甘い言葉による新宗派による勧誘でもなく、ましてや脅しによる改宗でもない。キリスト教はその宗教の教義によって人々を知的に納得させ、決断させていたわけだ。

さて、忠正が本気で感動して書簡を送ったのに、堺のヴィレラは半信半疑で真意を測りかねた。とりあえずロレンソを遣わせて探らせることにした。奈良に着いてすぐに忠正を訪ねたロレンソを待っていたのは、久秀に指示されて伴天連を論破するためにやってきた公家の清原外記だった。ご談義と討論が数日にわたって続いた。ご談義の知的説得力は大きかった。忠正だけではなく和漢の学に通じた外記も、数日後には完全な理解に至ってキリシタンになる決意を固めた(後に忠正は主君久秀にもロレンソを合わせたが、久秀は心を動かされたものの、熱心な法華信徒であるので改宗には至らなかった。)

 六日以内に報告する手はずだったのに十日過ぎてもロレンソから消息が来ないので心配していたヴィレラのもとに、忠正からの洗礼志願の書簡を携えたロレンソが戻ってきた。洗礼には、入信希望者の自筆の願書が必要である。入信とは、「理解」、「決意」、「願い」という三段階のプロセスを経てはじめて可能になるものだったのだ。後に「踏み絵」を踏むことで「棄教」とみなされる日本のキリシタン史のことを思うと、「入るのは簡単で脱退は難しい」カルト宗教などと全く逆のものであることが分かる。

 

さらに四十日ほどして、忠正の要務が終わった時にヴィレラは奈良に来て、忠正、忠正の嫡子左衛門尉、外記、その他数名の身分ある士に洗礼を授けた。それまでの経緯を耳にしていた同じ奈良の沢城主もひそかにやってきて、二日二晩ロレンソのご談義を聞いた後、その場で洗礼を志願してかなえられた。

忠正の嫡子である結城左衛門尉は飯盛城で三好長慶に仕える放埓な武士だったが、受洗後は人が変わり、城にロレンソを招いた。好奇心からデウスの話を聴きに来た人もいたが「他の及ばざる智慧と才能、無常の記憶力」を有していたロレンソが「非常な霊感と熱をもってお談義をし、非常に豊富な言葉を用いて、典雅、明晰にして精緻」であったことに皆が驚嘆した。名談義を前にして尊敬と畏怖の念を持ち、夜昼を問わず教談が続けられてついには三好殿の重心七三名他五百人が一挙に受洗を決意した。

奈良で洗礼を受けた沢城主の高山友照も、戦乱中にありながら、妻子家臣にも談義を聴かせたく思ってロレンソを招いた。そのお談義を聞いて妻子と家臣一五〇名が受洗を決意した。

これらの経過も興味深い。今の私たちは、家父長制と主君の絆の強固な昔の日本において家長や主君が宗旨替えをしたのだから、一族郎党が自動的に宗旨替えをしたのだろうと考えてしまいがちだ。けれども、ザビエルの方針通り、「理解」、「決意」、「受洗の願い」のプロセスは、「女子供」に対してもまったく平等に適用され、求められるものだった。この時、嫡男の高山右近は十歳だった。ヨーロッパでも幼児洗礼を受けた子供が要理を学んで初聖体拝受にあずかることのできる年齢である。右近はその後キリシタン大名として、戦国時代を通して多くの功名を立てたにかかわらず、切支丹禁令に従わないことで地位や領地を失って一六一四年末にフィリッピンのマニラに追放され間もなく客死した。

右近の次の世代に幼児洗礼を受けたカトリックの子弟は、右近や友照のように「言語」によって劇的な回心を遂げた世代ではないので、家父長制度の圧迫を免れていなかったとは言えない。殉教の覚悟を固めた親や主君を見ながらあえて法に従って棄教するという選択の自由はなかったかもしれない。それでも、その後、遠藤周作の『沈黙』のモデルとなった一六三〇年代や四〇年代、日本のキリスト教を根絶するための徹底的な迫害を前にしても棄教することなく神を称えながら残酷に殺されていった信徒が多くいたのだから、知的な革新と決意の上に成り立った一六世紀後半の日本人の「回心」は本物だったのだろう。


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# by mariastella | 2017-10-14 06:57 |

猿でも分かるパラダイス その7

7 天国で、愛する人たちに再会できるの ?

イエスはサドカイ派の人々に、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(マタイ22,30)と答えています。天使とは「使い」です。私たちは関係性を生きる者として復活するのです。

Sekkoのコメント

このイエスの言葉は、未亡人になって複数の夫を持った妻が天国ではどの夫の妻になるのかというと問いに答えたものだ。この答えの後で、イエスは「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」 とも言っている。

うーん、イスラム過激派が若者を自爆テロ要員にするとき、殉教者は天国で72人の処女に迎えられて云々という話を持ち出すというのはよく知られているが、確かに、そんな風に捻じ曲げられるよりは、「神は生きている者の神」と言い切る方が潔いかもしれない。

私のイメージでは天国ではようやく神に会えて神を賛美して、というのがあったけれど、個人的には確かに、別に神に会えなくてもいいや、と思う。

先に逝った懐かしい人々と会えるというのは魅力的ではあるが、永遠に一緒にいると再会の感激も薄れるような。

死後に関係性が広がるという感じの方が興味がある。つまり生と死で隔てられているようなあり方から解放されて全体性の中で生者とも死者ともつながりあえるのではないか、という予感。


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# by mariastella | 2017-10-13 06:34 | 死生観

猿でもわかるパラダイス その6

6 パラダイスって少し退屈なところでは ?

天国を表現する多くの画像や言葉のほとんどは、私たちの地上の生活における「幸福」にヒントを得たものです。

聖書にも、「婚姻の宴」のイメージが出てきます。

「至福」とは、人々が慰められ、安心を得たイメージです。天国の「幸福」とは宴で飲んだり食べたりするような「身体活動」ではなく、沈思、瞑想に近いものでしょう。

Sekkoのコメント

永遠に飲んだり食ったりと宴を続けるのは確かに退屈というか飽きてしまう。でも、じゃあずっと瞑想、黙想して「安心」(儒教や仏教的な安心立命や悟りの境地の意味でも)にとどまるというのもひょっとして退屈かも。というか、もう死の恐怖はないのだから、「安心」を得ても意味がない。それなら、まだ地上にいて安心を得られず苦しんでいる人たちのために何かできないかトライした方が死後の生き甲斐( ?)があるのではないだろうか。

実際、多くの聖人、聖女たちは自分たちは結構苦しんで死んだのに、死ぬ前に、「死んだらあなたたちのためにがんばります、あてにして祈ってください」と言い残して、死後に「効験あらたか」になっている。生前苦しんだ人ならば天国で宴会もいいし瞑想もいいが、戦争や飢饉や災害や犯罪に巻き込まれないで健康で長生きしたような人は「霊」となってからこそ発揮できる(かもしれない)ご恩返しを、残された人たちにする決意を死ぬ前に持っておこう。(だめもと)


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# by mariastella | 2017-10-12 01:00 | 死生観

猿でもわかるパラダイス その5

これは前の記事の続きです。


5  煉獄はやっぱりカトリック限定 ?

みんなあの世では神に出合いたいと思っています。けれどもどうも、神の前に出るのにふさわしくない、という思いにもとらわれています。煉獄は、人間の不完全さと普遍的な万人救済の考えをとりなすために考え出された神学的構築です。でもそれは聖書の中には書かれていませんから、プロテスタントも東方正教も認めていません。今のカトリック教会は煉獄は「罰」ではなく、神に会う前に神の聖性に見合うように自分を変える時間だと考えるようにと勧めています。

Sekkoのコメント


なるほど。「煉獄」の「煉」という字や、他の言語での浄めるというイメージから、火や水などをくぐってのみそぎ、「垢離」というイメージがあり、しかも何かみんな一緒くたに共同浴場みたいに投げ込まれるという画像がよくあるけれど、「内省の時間」と考えるといいのか。

ほんとうならば生きているうちに反省して後悔したり罪を償えれたりできればいいのだけれど、なかなか難しい。心にやましいところがまったくなく死んでいける人は多分少ないから、死んでからも内省の時間がまだあるといってもらえるのは、それだけで結構救いになるかもしれないなあ。

(死んでからは実際どうなるか分からないけれど、何か「罪」を犯したと自覚した人が、どうせ地獄堕ちだと思って自暴自棄になるよりも、まだチャンスがあると思って生きているうちに生き方をリセットできた方がいいとは思う)


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# by mariastella | 2017-10-11 02:22 | 死生観

「赤いキリスト」チェ・ゲバラの回想

109日は、チェ・ゲバラが死んでちょうど50年目だった。

1ドルが360円の固定為替で、パスポートも一回限定みたいな半世紀前の日本の高校生だった私に、ボリビアで殺されたゲリラのニュースがあれほど衝撃的だったのはいったいなぜだろう。

今ちょうど、「神、金、革命」の執筆を再開して、「革命から、神、金」へと回収されていった例としてゲバラのことを書いていたので、あらためて感慨を覚えた。

あの頃すでにキューバが徹底してゲバラを神格化するのに成功していたということだろうか。いやあの時点ではまだ「英雄」だった。


共産主義国家となったキューバといえども、カトリック文化は浸みわたっている。

ゲバラがイエス・キリストと同じ30代(39歳)で殺されたことではじめて、革命の「英雄」から、「殉教者」「殉教聖人」への格上げ、いや、その死に顔の映像が「イエス・キリスト」にそっくりだ(ゲバラがスモーカーになったのもイエスのように髭をはやしたのも、ゲリラ戦中にジャングルでの蚊の攻撃を防ぐためだったと言われる)というので、ゲバラのキリスト(=メシア、救世主)化の路線ができたのだと思う。

その時点ではまさかフィデル・カストロもゲバラと同世代(2歳年上)の自分が90歳まで生き延びて共産圏の崩壊を目にしたりローマ法王の調停を歓迎したりするなどとは思っても見なかっただろう。

革命の勇士を「神」と祀りあげるためにいろいろな演出がなされた。

そして、ラテンアメリカの「神」と、「死者の祭」は切り離すことができない。


で、ゲバラの「聖遺物」探索がはじまった。


ゲバラの遺体から両腕が切り離されて25cmのガラス瓶にホルマリン漬けされたという話にもすでに「聖遺物」幻想がある。(その聖遺物は1969年にボリビアの内務大臣からデスマスクと共にジャーナリストに託されてキューバに届いたという。石膏のデスマスクには髭や髪がついていた。)


キューバとボリビアの国交が回復した時に、キューバは歴史学者をボリビアの大使館に送って、ゲバラの腕時計や愛用のカップなどを見つけてキューバに送らせた。


ゲバラの異名は「赤いキリスト」である。

ボリビアはと言えば、独立後のボリビア革命によってインディオの権利を認めたりしていたのに、何度も何度も覆った。要するに、錫鉱山や天然ガスなどの資源をめぐって、アメリカが「傀儡政権」を通して利益をひとり占めしようとしたからだ。

ゲバラはCIAの指示でボリビア軍に殺された。

イエスの頃のユダ王国がローマ帝国の属国だったことと重ね合わせて、CIAがローマ帝国で、ボリビア軍がユダヤの既得権益者にあたると形容された所以だ。

今からちょうど20年前にゲバラの遺体がボリビアの空港滑走路脇で発掘されたという話にも怪しい部分がたくさんある。

ハバナの法医学者が調査隊を率いたこと、TVが賞金までかけて大騒ぎした後、「発掘」は結局秘密裏に行われ、3日間はメディアに伏せられ、アルゼンチン人の法医学者はその後にしかチェックできなかった。

しかも、DNA検査がされていない。遺体に両手がなかったこと、骨がホルマリンで変色していたこと、歯や眼窩の形でゲバラだと断定された。


発掘の責任者はボリビア人だが、もとキューバのボリビア大使でカストロ議長と親しい人物だった。


遺体は大々的にキューバのメモリアルホールに埋葬された。

他にもいろいろある。その「怪しさ」は、十字軍時代の「聖遺物」ブームと共通するあやしさだ。殉教者の「聖遺物」がブームとなったのは、それを手に入れた修道院や教会が巡礼地となって「経済効果」があったからだ。

古代ローマ世界の殉教者たちの「聖遺骨」が、ヨーロッパ中で崇敬されたように、ゲバラは故郷のアルゼンチンから切り離されて、聖遺物を基盤とする普遍的なイコンとなった。

ゲバラの肖像は、Tシャツ、キーホルダー、ありとあらゆるグッズとなっている。

カトリック世界で、今でも十字架やロザリオや各種聖人のカード、聖遺物(墓の土など)が配されたメダル、ペンダントトップが人気だ。「信者」でなくともアクセサリーとして、あるいは単なるお守りグッズとしてそれを身につける人もたくさんいる。同じように、「聖ゲバラ」グッズを購入する人たちはゲリラでも革命家でもない。

ゲバラは神格化され、すべての「神」のように、グッズに姿を変えた。

ゲバラのキーホルダーを購入する人は、ゲリラなんかにならない。

お守り十字架を購入する人は、自分や自分たちのためにお願い事をする。

ゲバラは五人の子供に手紙を残している。

「(…)君たちの父は、考えに従って行動し、信念に忠実な男だった。

良き革命家として大きくなりなさい。(…)

世界のいかなるところで誰に対してなされる不正に対しても、君たちの最も深いところで、感じることができるようにしなさい。それこそが革命家の最も美しい長所なのだから」

ナザレのイエスが福音書の中で言い残したことと変わらない。


自分はイエス・キリストではない、十字架にかけられるよりも武器を取って敵と戦う、とゲバラは言っていた。

「世界のあらゆるところで繰り広げられる不正を解消するために行動を起こす共感の力」の大切さを訴え、それが革命家の最も美しい長所だという部分はイエスと変わらない。イエスの行動も、剣をとって戦う「革命家」よりももっと「危険」だと見なされたからこそ、捕らえられて殺されたのだろう。

時代が変わっても、


不正と戦い、弱者を護るために強者に立ち向かう人は、


殺された後で多くの人の罪悪感を刺激して、

「英雄」「聖人」「神」

と仕立て上げられることで「毒気」を抜かれ、

偶像(アイドル)崇拝のグッズとなって経済を活性化するのかもしれない。

ゲバラの死にあれほど衝撃を受けた半世紀前の高校生の心の「最も深いところ」に合ったものをもう一度見つめたい。


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# by mariastella | 2017-10-10 02:18 | 雑感

猿でもわかるパラダイス その4

4  救われるかどうかはあらかじめ定まっているという予定説はプロテスタントのものなの ?


ルター、特にカルヴァンにとって、そしてアウグスチィヌスのような教父にとっては、人間はあまりにも堕落しているので、救われるのはただただ、信仰による恵みによってだけだと考えられました。けれども、神はこの恵みをすべての人に与えるわけではありません。救いを予定されている人とされていない人に分かれていて、人間にはどうすることもできません。

カトリックは、17世紀のジャンセニズムを除いて、私たちは神のうちに生きることになっていますが、あらかじめ決まっているわけではありません。恵みを受け入れるか受け入れないかは自由意志に任されています。

Sekkoのコメント

 これも、煉獄の導入の否定と共にプロテスタントとの大きな争点となった。

これについて、雑誌に「煉獄について」という記事を書いたのでその一部をここに掲載。

>>>一五一七年にルターがマインツ大司教に突き付けた九五箇条の論題のベースは、贖宥状の売買で煉獄の魂の罪を償うという乱用の批判だった。聖書のみに真実があり、教会はそれを補完するものであってはならない、という主張は、その二年後のライプニッツでの論戦の対立の中で発せられたものだ。その結果、贖宥状はもちろん、カトリック教会の「伝統」であった煉獄の概念自体がプロテスタントから消えてしまうことになった。

煉獄を経る必要のない「救い」は、教会の様々な教えの遵守や贖宥状を買うような善行によって得られるのか、ただ信仰によってのみ得られるのか、という問題は、協働論と決定論としてカトリックとプロテスタントの分裂の中心を占めることになった。人間が努力する自由意志によって救いが得られるなら、神の恩寵は必要ないことになる。実際、人間の自由意志とは罪を犯させるだけのものだとルターは主張した。これに対してルターの尊敬していたエラスムスでさえ、救済が恵みにだけよるものならば人間の「自由」は失われる、と『自由意志論』(1524)で異を唱えた。

生きているうちに自由意志で犯した罪を、死後に天国にいく前に煉獄で浄めるチャンスがあるとするのは、煉獄での苦しみを減らすために生前から「善行」を積んでおくという「教育的」意味も果たしてきた。その「善行」が金で買える贖宥状になったところに堕落と倒錯があったが、「人間が自分の救いのために努力する」という指針は残すべきではないか、とカトリック教会は考えた。放縦や頽廃も招いたにせよ、「自由」とはルネサンスが獲得した貴重な価値だったからだ。(…)

人は生きている限り絶対に罪から逃れられないという「弱さ」の自覚が、煉獄という最後のチャンスを求めさせた。火に焼かれて浄化されるだけでなく生き残った人から捧げてもらう祈りも救いのために働いてくれる。もちろん諸聖人も動員される。神と人だけではなく生者と死者も「協働」するのだ。これは日本の祖先信仰に近い感覚だ。仏教では本来、悟りを開いた人間でないと死んで仏に成れず、畜生道や餓鬼道に堕ちて輪廻を繰り返すはずだが、日本仏教では残された人たちが「供養」することで死者は必ず「成仏」できることになった。すぐに仏に成れなくても、南無阿弥陀仏と唱えるだけでとりあえず煉獄ならぬ極楽に行けるという宗派もある。そのベースには、先祖が子孫を守護してくれるという伝統的な死生観があるのだ。

キリスト教が生まれた地中海世界では死後に生前の行いの善悪を測られて「仕分け」されるという死生観が主流だったけれど、カトリックが広まったヨーロッパでは死者の魂が毎年戻ってくるという日本のお盆のような死生観があった。聖母マリアに祈っただけで聖母が魂を救ってくれるとか、死者が聖者となって時空を超えて人々を守ってくれるという「交わり」を信じることはそれだけで多くの人々を救ったことだろう。

残念ながらそのような信心が利用されたり本来の意味を失ったりして堕落に向かうことも稀ではない。プロテスタントが異議を唱えたのは故のないことではなかった。それでも、救いに向かう自助努力や、信仰心の篤い人や諸聖人のとりなしの祈りに頼む心を完全に封印するのは難しい。

(…) 

人が自分で悲惨や暴力や恐怖の連鎖を打ち破る決意をすることで創造主の意図に参画できるという希望がなければ、神のみ旨は「偶然」や「運命」に似てくる。ルターが正論を唱えたおかげで、カトリック教会も刷新を図った。(…)<<<


以上。

時代と場所の社会的文脈の中で生きる人間が打ち立てたり議論したり壊したりする神学理論やら教義やらは、やはり文脈の中で読み取るべきだ。

今の時代、あるいは、すごく限定的なところで「今の自分」にとって、良心にかなう有効なものとなるかどうかという関係性にだけ注目して選択したり指針にしたりするのが無理のないところかなあと思う。


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# by mariastella | 2017-10-09 01:07 | 宗教

猿でもわかるパラダイス その3

これは前の記事 の続きです。


問3 聖書には天国と地獄についてなんと書いてあるの?


聖書の初めにある『創世記』の中では、地上のパラダイスはエデンの園という「場所」です。そこで人間が神と調和しながら生きていたのですが、神に背を向けて脱落(堕ちて)してしまいました。

聖書の最後にある『ヨハネの黙示録』の中では、キリストの再臨についてのヴィジョンの中で、「天のエルサレム」という言葉が使われています。そこでは選ばれた人たちが、同胞として分かち合い、永遠の命を生きるだろうというものです。その反対概念として、人々が神なしに生きる「虚無」の場所が「地獄」となります。火に焼かれて滅ぼされるゲヘナのようなイメージが地獄で繰り広げられる苦しみの表現となっています。

それはイエスが十字架上で息絶えた後で降りて行った「地獄」とは別物です。イエスが訪れたのは復活を待っている死者のいる場所でした。

Sekkoのコメント : なるほど。

カトリック教会は天国と地獄の間に「煉獄」を想定して、善悪二元論を回避したけれど、火によって浄められるイメージの「煉獄」と永遠の懲罰のゲヘナなどが、民衆レベルの絵画表現では完全に混同されてきた。

イエスは、「自分の十字架上の死」という犠牲によって、その時点で「地獄」にいた人たちを一気に救い解放したというわけだが、この地獄は、陰府(黄泉)である。その「人たち」というのもノアの時代の大洪水で滅ぼされた「霊」だという。このあたりのことは、イエスを裏切ったユダが救われたかどうかという話で考察したので(『ユダ-烙印された負の符号の心性史』中央公論新社p42~)ここで繰り返さない。


神学や教義の成立や発展と、人々の

「自分の死後の運命は ?

「死んだ家族の運命は ?

という素朴な心配とがクロスして、いろいろな解釈、いろいろな表現、知恵、教育的配慮、などが生まれてきたのは確かだ。

自分や先だった人たちについて、「死んだらブラックアウト、無に還る」という割り切り方など、安全で豊かな時代に長生きした少数の人ならいざしらず、なかなかできるものではない。

人間とは、まだ死んでいないのに死を考える動物なんだなあとつくづく思う。


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# by mariastella | 2017-10-08 02:39 | 死生観

ノーベル平和賞

北朝鮮問題が「国難」とされているこの時期に、ノーベル平和賞が核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に与えられたというのは久しぶりにいいニュースだった。日本の「憲法九条」にノーベル賞を、なんていう運動もあったけれど、日本は核兵器禁止条約にさえ賛成しなかったのだから、憲法もかすむ。

このことについて考えることもあるのだけれど、今日はこれについて二つのブログを読んだので、ひとまず気が落ち着いた。

このブログ  

このブログ  です。

フランスではマクロン大統領が次々に高飛車に「口を滑らせて」、教養のある雄弁家のイメージのはずが、すっかり、「サルコジの再来」扱いされている。

今にして思うと、サルコジにはそれなりの愛嬌があった。

まあ、リーダーに必要なのは別に愛嬌ではないけれど。



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# by mariastella | 2017-10-07 07:32 | 雑感

クリスチャン・カリオン監督/ギヨーム・カネ主演 『Mon garçon(息子)』

ギヨーム・カネが熱演する『Mon garçon』(クリスチャン・カリオン監督)を観に行った。



先日、映画2本を続けて観に行ってしまったところだったが、付き合いでもう一本。

いそがしいのに「毒食わば皿まで」の心境。

話題にはなっていた。主人公役がシナリオを知らされていないで、6日間の撮影の間ホテルも他のスタッフとは別で過ごした。「なりきってくれ」ということで、リテイクなしの一発勝負だという。だから話の流れが破綻しているところもある、というコメントもあったけれど、悪くはなかった。

主人公を演じるギヨーム・カネも嫌いじゃないし、元妻役のメラニー・ローランが好みの女優だというのもあった。


地質学者でアフリカなど世界中を飛び回って家にいない夫ジュリアンに嫌気がさして分かれ、七歳になった子供マティスを連れて別の男と暮らしているマリー。そのマリーが泣きながら、伝言して雪山のクラスに参加したマティスがテントから姿を消したとジュリアンに告げる。

まずマティスが自分の意思で失踪したのではないかという疑いが持たれた。

マリーが数か月前に妊娠を告げてから関係がうまくいっていなかったからだ。


新しいパートナーであるグレゴワールの発案で、マリーがゆっくり休めるように、マティスを、子供たちを対象にした何日かの山でのグループ活動に登録する。行きたがらないマティスを説得して。


ジュリアンはマリーが流産していたことを知る。


ジュリアンの前で、マリーとの子供を望んでいると夢を語るグレゴワールの様子を見てジュリアンは、この男がマティスの反抗によるストレスのせいでマリーが自分の子を流産したのだと思って復讐したのだ、と思いついた。

その瞬間から、何かが切れてしまったように、ジュリアンは「手負いの獣」に変身してしまう。暴力の嵐。

しかし、グレゴワールはただのエゴイストだった。


ジュリアンは息子がうつっているビデオカメラを何度も見て、手掛かりを見つけようとする。追跡がはじまる。

暴力が結構激しいので(多分最終的に3人は殺した ? 殺すシーンはないが)、まったくシナリオを知らないとは信じられない。セリフなどは書かれていないかもしれないが、「これこれこうなったら暴力をふるう演技をしろ」というガイドラインはあるんじゃないかと思う。

セリフは主人公になり切ってアドリブでいうにしても、暴力シーンは実際に暴力をふるっていいわけではないから、きっちりとした演出が必要になるだろう。。

「父が息子を救い出す」というテーマなのだから、いくら何でもハッピーエンドだろうと思ったので心の余裕は持って観ることができた。

すごくまともな「ドキドキハラハラ」のエンターテインメントで、普通に面白かった。

時間の無駄を後悔するような映画でもないし、世界が変わって見えるような映画でもない。

母親役のメラニー・ローランの悲痛な演技がうまいので、「子育て」についていろいろ考えさせられる。

フランスでは子供のいる二組に一組のカップルが別れ、ステップファミリーも多い。他の男や女にはれたほれた、とか、連れ合いへの愚痴や不満や嫉妬のレベルで懊悩しているのは何とでもなるが、子供が行方不明になった、誘拐されたなどとなると、もうすべて吹き飛んで、親の罪悪感はマックスだ。


子供のそばにいるべきだった、

両親が愛し合い、子供に信頼感を与える安定した平和な環境を与えるべきだった、

など、もう、人生の目的は、「自分の子を失わないこと」だけになってしまう。


その動物的感覚が、映画の中で子供をさがす主人公を「獣」化させたのかもしれない。

フランスで最近、結婚式の野外パーティで8歳の女の子が姿を消して見つからないという事件が起きた。容疑者は見つかったのだが、黙秘を続けているという。両親がメディアを通して容疑者に何とか話してほしい、と訴えていた。

マルセイユでテロリストに斬殺された女子学生の葬儀も映されていた。

子供を持つ人が、子供をなんとか無事に育てあげて送り出し、子供に先立たれないですむ、という「普通のこと」は、そんなに普通ではないのかもしれない。


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# by mariastella | 2017-10-06 07:21 | 映画

アンドレ・テシネ『Nos Années Folles,(私たちの狂熱の時代)』

先週はこの映画を見損ねて、趣味ではない『Un beau soleil intérieur 内なる美しい太陽』を見てしまったけれど、気を取り直して頑張ってアンドレ・テシネーの『Nos Années Folles,(私たちの狂熱の時代)』に挑戦。期待にたがわず途方もない映画だった。

途方もないというのは人間性の途方のなさだ。

しかも、実話がベースだ。



第一次大戦は、形こそフランスはドイツに勝利しているが、フランスにとって勝利体験よりも悲惨体験としてトラウマを残した戦争だった。

この映画の一番の効果は、主人公夫婦の倒錯的な関係よりも、まさに、フランスにとっての第一次大戦大戦の傷を別の形でまた再現しているところだろう。

反戦映画というより、厭戦映画だ。

兵士として戦争に駆り出されるのは誰にとってもトラウマになるだろうけれど、フランスに住み、フランス人の気質を知れば知るほど、彼らほど戦争に向いてない国民はないと思う。(革命には向いているみたいだが…)

愛する妻と幸せに暮らすポール・グラップという、ごく普通の男が招集されて前線に駆り出されるが、戦死する気はさらさらない。

それでも二年間を前線で戦わされたポールは耐えられなくて自分の右手親指を切り落として病院に運ばれた後で、さらに逃亡する。

欠席裁判で死刑判決が下される。

戻ってきた彼を隠すために、妻のルイーズがポールに女装させてシュザンヌと名を変えさせる。電気脱毛もさせ、ゆっくりと男を女に仕立て上げる細やかさ。

憲兵たちがやってくる。そこにはポールはもういない。ルイーズの愛人シュザンヌが編み物をしていた。(映画ではそのシーンはない。地下に隠れたポールを見つけられないという場面だけだ)

きっかけは、ポールが地下での逼塞に耐えられずうつ状態になったことだ。

ルイーズは彼が外に出られるように女装させようとしたのだ。

はじめは、ポールは大いに抵抗した。

しかし、外に出たい。

最初の外出が深夜のブーローニュの森だった。

というか、昼間に普通の場所には行けないから、娼婦がたむろするブーローニュの森に行くしかなかったのだ。

そこは何でもありで、女装だろうが、男装だろうが、同性愛者であろうが、無礼講の世界だ。

戦場の反動であるかのように、自由で極端な享楽しかそこにはない。

第一次大戦の時代は、その前線の悲惨さとは別に、「銃後」には不思議な「解放」の空気が生まれていた。女性の力が増し、男装の女性、同性愛者たちがパリのダンスホールで踊っていた。一方、ジャンヌ・ダルクよろしく、兵士の服を着て前線に赴く女性たちさえいた。

その享楽的なパリとは別の、労働者の住む貧しい界隈のアパルトマンで、一人の男が「レズビアン」に変身したのだ。夜のブーローニュでは階級差は消滅する。


ポールはもともとバイセクシュアルだったのか ?

あるいは単に「女装が好き」な男になったのか ?


(あるいは、ひょっとして、人は、性別にかかわらず、「見た目」の部分を偏執的に手入れしてきれいにすること、飾ることに「はまる」動物なのかもしれない。戦場の兵士には絶対に許されない贅沢だが、「女装」という形で「開き直る」なら、その道を究められて、ポールはそれに「はまった」だけなのかもしれない)

ともかく、その後、二人とも、この不思議な関係自体に「はまって」しまう。

夫婦はレズビアンの関係になるのだ。ポール(シュザンヌ)はキャバレーの舞台にも立ち、ルイーズも彼を手伝う。

第一次大戦が終わって二人はスペインに逃げる。スペインから戻ると住所を変え、「すてきなシュズィ」という名で女性パラシュート家としてデビュー。ブーローニュの森で客をひく娼婦としても、「ギャルソンヌの女王」と呼ばれるほどの人気者となる。夫婦のそれぞれの愛人が入れ替わることもあった。

1925年、ようやく脱走兵の恩赦が認められてシュザンヌはポールに戻れるのだけれど、それはなかなか難しい。ポールにはもう自分のアイデンティティが分からない。

酒におぼれ、妻を殴る。口紅を塗り、セーヌの河辺で見知らぬ相手に声をかける。

2人にはポポルという子供が生まれる。新生児を殺すと脅迫してこぶしを振り上げたポールを、ルイーズは引き出しから取り上げた拳銃で撃ち殺した。


ルイーズは赤ん坊を守ったということで免罪される。当時の裁判記録の中には「猥褻写真」というファイルがあるが抜き取られている。

赤ん坊はほどなく髄膜炎で死に、ルイーズは、1981年まで生きた。


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実際のシュザンヌとポールの写真。1925年のもの。

以上が「実話」なのだけれど、映画で描かれているので興味深いのは、ルイーズが「お針子」として働いている女性ばかりのアトリエの責任者が女性で、レズビアンで、シュザンヌという女と暮らし始めたけれど誰にも紹介しないルイーズに関心を示すシーンだ。

映画のポールは別に女性的な体でなく、がっしりして背も高い。ルイーズも大柄で、胸が薄く、彼女が男装してもさまになると思える。

映画は夫婦の「現在」と「過去」が交互に配される。その「現在」というのは、ポールが、戦争中の「シュザンヌ」としての自分を演じることで収入を得ていて、ルイーズは戦争以来需要が増えた「鉛の兵隊」に着色する内職仕事をしている。

2人は相変わらず男と女として愛し合っていて、ルイーズは妊娠するのだが、妊娠することで「母」となり子供の「父」を必要とするので葛藤してそれを隠している。妊娠を知ったポールは女装や過去を引きずるようなキャバレーの仕事をやめるのだが、仕事が見つからない。子供が生まれ、子供第一の「母」になったルイーズ、彼らを養えないことで「父」としての自己肯定のできないポール、彼のこれまでの「栄光」は」すべて女装の女王「シュザンヌ」としてのものだった。

すべての依存症、アディクションと同じで、そうなると、女装によってのみ脳内麻薬が分泌される。

これは、「性倒錯」の物語ではなく、アディクションの物語でもあるのだろう。

その意味では、有名人である「シュザンヌ」のパートナーという暮らしぶりはルイーズにもアディクションをもたらしていた。

でも、ルイーズのきっかけは、何としてでも愛する男を戦争によって殺させない、という決意だった。

この映画で流されるアカペラの『Auprès de ma blonde』という歌がある。

私でも何十年もなじみの子供の歌で、童謡、民謡のイメージだった。「ぼくのブロンドちゃんのそばで寝るっていいなあ」という感じで、ブロンドの女性が現れると気軽に口ずさまれたりする。でも、父親のうちの庭には花が咲いて鳥がいて、という牧歌的な歌詞の部分ばかり耳にしてきたので、この映画でその先の部分を聴いて驚いた。


検索すると、17世紀の軍隊行進曲だなどとあった。

1966年になんとエルビス・プレスリーが英語版を歌ったほどポピュラーだとも知らなかった。

17世紀の終わりにルイ14世の戦争に駆り出されてオランダで捕虜となった王立海軍士官が獄中で妻のことを思って作った歌だそうだ。18世紀初めにルイ14世に身代金を支払われて自由の身になったので、感謝の念をこめて1704年に発表されたという。

確かに、

ブロンドちゃん、君の旦那はどうしたの?

オランダにつかまってるの。彼を取り戻すためなら

ヴェルサイユもパリもサンドニ(歴代国王の墓所のあるカテドラル)も、

ノートルダムの鐘だって、地元の教区の鐘だって、なんでもあげるわ。

という歌詞がある。

ノートルダムの部分は、「父と母の王国の全部をあげるわ」というヴァリエーションもあるという。

つまり、愛する男を戦争から取り戻すためなら、国も国王も何もかもいらないわ、

という愛情表現であり、ルイーズがポールに捧げた思いと確かにリンクしている。

そして、絶対王政の太陽王ルイ14世は、一士官を解放するために身代金を払った。

思えば、フランスの民謡には、もっと古い「脱走兵の歌」もある。

日本の軍歌はポピュラーなものが多いけれど、厭戦的な歌が童謡にまで昇華したものがある記憶はない。出征した兵士を思う女性の心で連想するのは、シベリア抑留の子を待つ「岸壁の母」とか「君死に給うことなかれ」など、母や姉の視線であり、演歌にはなっても童謡に変身する感じではない。

映画としてなんといっても絵になるのはミシェル・フォーの演じるキャバレーの興業主だ。彼について前にこの記事でも書いた。

映画『偉大なるマルグリット』では、マルグリットの声楽教師として雇われるオペラ歌手役を演じていた。ほとんど「色物」しかできないんじゃないかというほど個性的な外見だが、本格的俳優で名役者だ。海千山千のしたたかさで狡猾な中にどこか人間味もある興業主役にぴったりだった。

名演にかかわらず外見としては正統派の美男美女によって演じられるポールとルイーズの物語、それににコクを与えるミシェル・フォーなしにはこの映画は成り立たなかっただろう。

第一次大戦がフランスのカトリックの立場に大きな変化をもたらしたことは以前にも少し解説した。(この記事を読んでみてください

同時に、女性の地位も大きく変わった。女性の活躍が半端ではなかったからだ。

死者や傷病兵が山のように出る戦争では、彼らの精神的肉体的ケアをする宗教者や女性たちの役割が増大する。

この映画でも、移動中の兵士が墓地の十字架を見かけて思わず隊列を離れて駆け寄ってその前にひざまずいてロザリオの祈りを唱えるシーンがあるし、傷病兵に聖体パンを授けに回る司祭の姿も映し出される。ある兵士は意識がないし口も開かない。そこで司祭がナイフを差し入れて口を開かせて聖体パンを差し入れるのだ。兵士のやむにやまれぬ神頼みと、とにかく義務を果たす司祭のプラグマティズムが対照的だ。

さらに、この映画を見て「そうか」と納得できたのが、カトリックと女性の関係だ。

フランスはフランス革命の国なのに、女性の参政権が認められたのは1944年でしかない。イギリスでは、やはり第一次大戦の影響で、1928年に女性の参政権が認められた。

フランスで遅れたのは不思議だと思っていたが、この映画で女性たちが、第一次大戦での「銃後の守り」のために外に出て働いた活躍で地位向上した女性たちに参政権を与えないことについて、それはカトリックに票が行くのを阻止するためだと話しているのを見て理解できた。

フランスで男性の普通投票(21歳以上で同じ場所に6ヶ月以上住んでいるのが条件)が成立したのは1848年だが、兵士、外国滞在者、そして聖職者には選挙権がなかった。

フランス革命以来のカトリック教会との対立の根は深い。

それでもナポレオンがカトリック教会と和解したのは、社会の秩序のため、要するに、「婦女子」のために宗教が必要だという認識からだった。「女子供」は教会に通い、男の子は「大人」になれば「共和国」的無神論者あるいは不可知論者としての通過儀礼を経て「市民=男」になるという図式が用意されたのだ。

だからこそ、女性は21歳を過ぎても、「カトリックの良い信者」であるから、女性に選挙権を与えたら、第一次大戦で復権したカトリック教会の眼鏡にかなう保守政治家に投票する可能性が大きい、司祭の言うことに従うからだ、それは避けたい、という事情だったらしい。(聖職者については、1905年の政教分離法によって一般市民との権利の差が解消されている)。

国王が同時に国教会の首長であるイギリスなどとは事情が違う。

なるほど。

この映画はテーマ的にも私の好みのツボにはまるものだが、いろいろなことを気づかせてくれた。


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# by mariastella | 2017-10-05 03:13 | 映画

最近のニュース: マルセイユとラスベガスのテロ、サウジアラビアとカタルーニャなど

先日、マルセイユの駅でテロリストに喉などを切られて二人の女性が死亡したニュースがあり、今回は警官や兵士を狙ったものではない、いわば「弱者」狙いだからショックを受けた。


これでまた、もう2年近く続いている「緊急事態」が延長されるか、普通法に監視事項が増えるかもしれないという危惧と、ナイフで襲われるなんていやだ、という生理的な恐怖も沸き起こる。。


そうしたら、その後すぐに、ラスベガスの拳銃乱射で58人もの死者、500人以上の負傷者が出て大パニックというニュース。


「これでフランスのテロの影が薄くなってよかった」

「さすが拳銃社会のアメリカは規模が違うなあ」

「アメリカでは分かりやすくアラーの名を叫ばなかったからまだテロ認定していないみたいだけれど、イスラム過激派のテロでなくても、これはテロだよね」

「日本でも秋葉原の無差別殺人とかあったよね、運が悪いとどこでも危険なのは同じ」


などと、身近で起こっている「悪」や「恐怖」を相対化してしまおうという妙な自衛本能からか、つまらないことばかり頭をよぎる。


一般人が銃を持つ拳銃社会でなくても、武装した過激派によるテロ、爆破テロ、トラックで突っ込むテロ、など、なんでも起こり得るし、実際、起こったのだけれど。


遊興のパラダイスとして成り立っているラスベガスだから、翌日から半分は通常営業しているらしいことにも驚いた。これが他の場所だったら、三日間くらいは全体が喪に服して営業停止となってもおかしくないのに。

これまで、テロがある度に、ろうそくや花束を持って人々が集まるシーン、黙禱のシーンばかり見てきた。

見慣れてしまってインパクトがへったなあ、と思っていたが、商業価値を第一にして、ラスベガスの名と惨事が結びつかないようにと最大の配慮がなされているようなのも怖い。

サウジアラビアで女性の運転が解禁になったというニュースも異様だった。

あの真っ黒の装束のまま運転しているのが何度も映されたからだ。


運転するなら髪や顔を隠さないこととセットにするべきだ。


サウジの男たちですら、運転する時は視界が悪くなるから頭巾を外している人が多いのに。

しかも、全身たっぷりとしたアバヤで覆って目だけ出していると、正直言って、中身が男か女かさえ分からない。腹に自爆ベルトを巻いていようとも武器を隠し持っていようとも分からない。

黒づくめの人が運転する車が迫ってきた方が何かおそろしい。


カタルーニャの独立投票もひどかった。スペイン政府は投票の結果がどうあれ選挙自体が違法で無効と言えばいいだけなのに、警察力で排除しようとしたので、ことは、独立がどうとかいうより、投票の自由、投票という形の表現、意見表明の自由を力で排除(90人以上の負傷者が出た)するという結果になった。

それに反発してにわかに「分離派」になった人もいるほどだ。


これからどうなるのだろう。


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# by mariastella | 2017-10-04 02:16 | 雑感

新刊のお知らせ

もうすぐサイトのコーナーにもアップしますが、10/6に、中公新書ラクレから新刊が出ます。


『キリスト教は「宗教」ではない』


というタイトルです。


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サイトにのせる著者コメントを一足先にここでアップします。


昨日、フランシスコ教皇が異端批判をされていることについての記事をアップして、あらためて「宗教」ではないキリスト教や、「宗教」であるローマ・カトリックについて考えさせられました。


「普遍」であるということ、この世のすべての人の自由と平等と安全に生きる権利、愛される権利を守る、ということを、「社会」秩序であり文化である「宗教」の中で実現していく、いや少しずつでもそこに向かっていくということの難しさを痛感します。


では、コメントのコピーです。

>>>長崎県の五島出身でノンフィクション作家の今井美沙子さんが「恩師」である福江教会の松下佐吉神父について語ったものに、努力すべきは、まずよき人間であること、次に、よき社会人であること、最後に、よきカトリック信者であることのために努力するようにという言葉があった。

まずカトリック信者であるならばカトリック信者としての物差しで計って、人を批判する材料になりがちである、まず良い人間であるよう努力し、次に社会人としての責任を果たすことがカトリック信者の物差しで「良き信者」になることに優先する、というものだ。

この三つは、私がこの新書で語った

「ひとりひとりの生き方としてのキリスト教」

「イズム(共同体の規範)としてのキリスト教」

「宗教としてのキリスト教」

に重なる。

「カトリック教会」の教義や典礼というのは歴史の文脈の中で生まれた「宗教」であって、その遵守を第一の指針として生きていくべきではないと松下神父は言っているわけだ。カトリック教会、という「宗教」のシステムの中でキイとなる立場の「司祭」である神父にこう言わせているところが、「良き人間とは何か」という問いであり続けるキリスト教の底力だなあと思う。

この本を書いた後で、この「宗教ではない」というタイトルが挑発的に聞こえるのではないかと少し心配して、知り合いのカトリックの司祭やカトリック雑誌の編集者などに話したことがある。みな拍子抜けするくらいに「ああ、いいですね」と言ってくれた。でもよく考えたら、教義や典礼は時と共に成立し、キリスト教世界でも時と場所によって多くのヴァリエーションがあるのだけれど、彼らが「クリスティアニズム」(キリスト教、キリスト主義)と自覚しているベースには、「宗教」とは別の、「いかに生きるべきか」というのがあるのだなあと再確認した。

一方で、いわゆる、「キリスト者」ではないある人からは、「護教的」だと言われた。これも意外だった。私は「宗教」としてのキリスト教やカトリックが「正しい」と言っているのではないからだ。

それでもこの本の中でカトリック教会の誕生と変遷が一つの導線になっているのはいくつかの理由がある。

日本を含む今のグローバル社会の「先進国」スタンダードが、過去にローマ帝国の版図に広がったローマ・カトリック教会の影響を正逆の方向性はあっても、ほぼそのまま受け継いでいるからだ。

プロテスタントの誕生も、近代革命も、政教分離も、不可知論や無神論さえも、ローマ・カトリック教会がケルト人やゲルマン人らの「蛮族」をまとめて今の「ヨーロッパ」を形成した基盤から生まれた。

私は、プロテスタントとの宗教戦争の後でカトリックを政治的に選択した「カトリック文化圏」フランスに住んでいる。そのフランスは、また、近代啓蒙思想の中心地のひとつでもあり、革命によって、プロテスタント諸国よりもはるかに世俗的な社会を築いてきた。しかも中央集権的で中華思想の強い国柄なので、何層にも複合する「物語」を何度も語りなおしたり創りなおしたりという跡が比較的よく見える。

それは、地政学的な共同体であるフランスを「普遍主義」の国として語ることの営為だ。そこに「無理」があったり「欺瞞」があったり「粉飾」があったりするのは当然だけれど、この「普遍」(「カトリック」は普遍という意味でもある)は、この国に住む日本人(しかも女性で今やシニアという弱者要素満載)である私にとってとても快適な「建前」であり続けた。

「愛国、忠誠、勇気」などが国是の国ではなく、「自由、平等、博愛」という「普遍」看板が掲げられている国だからこそ、マジョリティの白人であろうがマイノリティの人たちであろうが、いっしょにフランス・バロック音楽を語ったり演奏したり教えたりさえすんなりとできてきたのだ。

 その意味で、私は「普遍主義」の恩恵を受けてきた信奉者だから、その「建前」としてのフランスやカトリックに対して「護教」者であることは認めよう。

その「普遍という建前」が「フランス」という「国」や「カトリック」という「宗教」の枠内に閉じ込められない「本来」の意味を指している限りにおいて。<<<<


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# by mariastella | 2017-10-03 01:38 | お知らせ

ローマ法王の異端糾弾

ローマ法王の異端糾弾、と言っても、ローマ法王が誰かを異端だと言って糾弾しているのではない。

糾弾されているのはローマ法王その人なのだ。

家族に関する司教会議の後でフランシスコ教皇が出した教勅「Amoris loetitia」(2016/3/19付け、公開は4/8)について、すでに、同年6月に、枢機卿会筆頭のアンジェロ・ソダノ枢機卿に対して、45人の神学者が連名で、教勅の中の19の提案について批判の手紙を出した。それらの提案は、異端を暗示し助長するものだという。

さらに、2017/8/11、ついに、62人の連名で、今度は教皇に直接長い手紙が送られた。

その「異端の伝播に関する副次補正」が9/24に公開された。

最初の部分は、このように教皇を批判することが自然法においても、キリストの法においても教会の法においても正当であることを説明するものだ。「歴代教皇たちの教義における不可謬性」と両立しないことを教皇が言った時に信徒はそれを批判する権利がある、ということだ。

この教勅とそれに関する教皇のコメントは教会内に信仰とモラルに関するスキャンダルを引き起こした、モラルや、結婚や、聖体拝領の秘跡について司教たちが神の啓示による真実を護ろうとしている時に、異端の言説がまかりとおり、教皇から叱責されないで黙認されている。

逆に教皇に疑問を呈した者には沈黙によって無視している、と言う。

疑問というのは教皇からの返事がないというので201611月に公開された4人の枢機卿による質問状のことだそうだ。

今回の「補正」が「異端」とするのは、再婚者が聖体拝領を受けて「救い」至ることができる可能性についての提案(2)などを含む七つである。

そして今カトリック教会がこのような状態に至った理由はふたつある、という。

1. 神は教会に最終的な真実を与えてはいないという近代主義解釈

2. マルティン・ルターが教皇に及ぼす影響

だそうだ。

もともと第二ヴァティカン公会議以来、カトリック教会がプロテスタント化したという批判は常に内部で存在した。

今回の62人は国籍も多様でそのほとんどが神学者か大学教授、聖職者も信徒もいる。

フランシスコ教皇が全面改革を目指すヴァティカン銀行の前責任者のエットーレ・ゴッティ・テデスキ(2009年に解雇された)や最近ルーヴァンのカトリック大学から追われた哲学者ステファン・メルシエ、アンチ・イスラムのビデオ発信で知られるパリの司祭ギイ・パジェスも名を連ねているから、政治的な匂いもする。

聖ピオ10世会の総長ベルナール・フェレーの名もある。

聖ピオ10世会は2009年に破門を解かれ、フランシスコ教皇からは赦しの秘跡の有効性を認められた。

そのことを、ヴァティカンとの妥協だと見なして不満な会員に向けててのスタンドプレーかもしれない。

フランシスコ教皇が、

バリバリの伝統主義者に手を差し伸べることと、

排除されていた再婚者に手を差し伸べることは

どう考えても同じ「寛容」の裏表だと思うのだが。

政党でもそうだけれど、なんでもかんでも踏み絵を踏ませて党首の色一色で全体主義に道をつけるよりも、多様性を共存させる幅や懐の広さや深さというのは大切だと思う。


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# by mariastella | 2017-10-02 03:49 | 宗教

フリーメイスンの新資料について

昨日の記事について、サイトのForum


「フリーメイスンの雑誌、あるんですか。需要があるからでしょうけど、部数はどのくらいですか?それにしても、旧ソ連のKGBが何ゆえに、フランス・フリーメースンの大量の文書を保管していたのでしょうか? その目的とは・・。」


という質問をいただいた。


この雑誌は昔は予約購読制だったものが2009年からリニューアルして3万部の発行で一般書店の雑誌売り場に並んでいる。隔月が基本で年8冊刊行。

汎ロッジで、特定のロッジの刊行物ではない。


フランスとヨーロッパのメイソナリーの歴史、シンボルや典礼についても記事があるが、社会問題や、政治、哲学、書評も充実していて、総合雑誌の趣さえあり啓蒙の世紀を担ったフリーメイスンの伝統を継承している感じだ。信頼度は高い。メイスンかどうかとは関係のない論客の署名記事や、参考資料のリストも充実している。確かに、この雑誌の存在そのものが、アングロサクソン型のフリーメイスン、陰謀論型のフリーメイスンとの違いを明らかにしていると言えるだろう。

雑誌のサイトはこれ。


なぜフランスのロッジの記録がロシアにあったかというと、要するに、ナチスドイツがフランスで押収したものがベルリンに送られ、それが戦争末期に北ドイツやポーランドなどに移されて隠されたものを赤軍が見つけて押収したものらしい。だからモスクワだけではなく、ミンスク(ベルラーシ)などにも多く残っている。ミンスクには特にボルドーのロッジの18世紀以来の記録がほとんど全部あるという。

ニース大学の歴史学教授ピエール=イーヴ・ボールペールさんは、自分の学生であった日本人の研究者が18世紀ボルドーのフリーメイスンについて論文を書いていた2010年頃にミンスクに行ったが閲覧できなかったものが、20152月のメルケル、プーチン、オランドらとの合意によって可能になったので、その年の5月に行ってすべてデジタル化できたと言っている。広く研究者の役に立てるようにネット上で公開すると言っているので楽しみだ。

KGBが保管していたものは、エリツィンの合意でフランスに戻されたのだが、今はプーチンとの関係が悪くなってかえっていろいろ難しくなっている。

それとは別に、いわゆる、古文書コレクターというのがいて、啓蒙の世紀の文書は人気が高い。そこにもフランスのロッジの記録が散見される。


フランス革命のアイデンティティというのは、トリオ・ニテティスのブログ

に書いたばかりだが、フランス人にとってイデオロギー的にとても重要で、フリーメイスンはその部分と切り離せないから特別の位置を占めている。


10/6中公新書ラクレから『キリスト教は「宗教」ではない』という本が出るのだけれど、フリーメイスンについてはこのように新しい資料もいろいろ出てきたので、次は『フリーメイスンは「秘密結社」ではない』という新書が書けそうだ。(出版関係で興味のある方はぜひ声をかけてください !

お知らせ。

10/21のコンサートの申し込みがこのブログからできます。

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# by mariastella | 2017-10-01 00:36 | フリーメイスン

「真理とは何か」と「フリーメイスンのロシア文書」(月刊雑誌から)

哲学の月刊誌『Philosophie magazine』の「真実とは何か」の特集で、久しぶりにMichel Serresがインタビューに答えているので買った。
もう87歳だが、もっとも信頼できる知識人の一人。

今の情報社会では「真理」を求める方向が変わってきている。
「アスピリンは効くのか?」というのを調べる代わりに、
「アスピリンは効くと思っている人はどのくらいいるのか?」という方向になっているのだ。

真理とはいつも、長く、謙虚で、忍耐強い探求の実りである、という。
探求の過程そのものに真理が宿っているのかもしれない。
その方向が間違っているかもしれないという可能性を認める謙虚さも必要だ。

どこに軸足を置くかによって、論理的思考も変わってくる。
天動説と地動説みたいなものだ。
科学的真理とは別に、軸足を置く場所から見た真実というのもある。
みんなが地動説を認め、地球が太陽の周りを回っていることは納得しながら、毎日の生活ではやはりどの国でも、誰にとっても、日が東から昇り、西に沈み、太陽が高くなったり低くなったり、月が満ちたり欠けたり日が長くなったり短くなったりする。
それを蒙昧だとして表現が修正されることなどない。
真理の探求の出発点からすでに足元を確認する必要があるわけだ。

ついでにフリーメイスンの雑誌を買ったら、1999年にロシアからフランスに戻ってきた文書についての記事があった。
1940-45年、フランスのフリーメイスンは表向きにはすべて壊滅し、多くの文書が破棄されたのだが、ソ連のKGBの書庫に、グラントリアンの文書が段ボール750箱、フランス・グラン・ロッジのもの350箱、人権ロッジのものが30箱保存されていたのが冷戦後に分かったのだ。
全部で数十万点という記録は、18世紀以来、共和国の教会と呼ばれるくらいにアクティヴだったフランスのフリーメイスンの貴重な歴史を伝える。おもしろい。

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# by mariastella | 2017-09-30 06:50 | 雑感

ジュリエット・ビノシュの『Un beau soleil intérieur』(内なる美しい太陽)

今日はすべての調子がなんとなく狂った日だった。


ほんとうは、『Nos Années Folles,(私たちの狂熱の時代)』という映画に行くはずだった。

監督がアンドレ・テシネーで、テーマが前のローラ・パテールと同じく性倒錯に近いものとあっては、絶対見逃せないので忙しいのに無理に観に行ったのだ。

そうしたら、今日はスクリーンを変える(?)都合で、その映画の昼の上映がないという。その代わりに、同じ時間帯にある クレール・ドゥニ監督のUn beau soleil intérieur』(内なる美しい太陽)はいかがですか、いい映画ですよ、と切符売り場で勧められた。そこは私のよく行く映画館で、午後の初めはすいている。シニア料金があるのでシニアの姿ばかりで落ち着く。ロビーには、本棚があって、みんなが自由に本を持ってきたり持ち帰っていいシステムになっている。

だから、ま、いいか、と思って観ることにした。


主演のジュリエット・ビノシュがTVのニュース番組でインタビューされていたのも見ていたし。カンヌの出品作でもある。ジョジアンヌ・バラスコ、ジェラール・ドゥパルデュー、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキなどと言うすごい顔ぶれがちょい役で出ているというのもすごいし。


ストーリーは、ビノシュの演じるシングルマザーの画家が銀行家や役者の愛人などとからみながら、セックスレスと愛のないこととのはざまで悩んで鬱っぽくなる話で、最後に、ドゥパルデューの演じる霊媒師のところで男たちとの今後について占ってもらい、「内なる太陽を見つけなさい」などと言われて終わる話だ。




ストーリーは、ビノシュの演じるシングルマザーの画家が銀行家や役者の愛人などとからみながら、セックスレスと愛のないこととのはざまで悩んで鬱っぽくなる話で、最後に、ドゥパルデューの演じる霊媒師のところで男たちとの今後について占ってもらい、「内なる太陽を見つけなさい」などと言われて終わる話だ。

一人の女性の裏も表も丹念に表現する名演なので、彼女をめぐる男たちとの会話でいろいろな人間模様が描ける。でもほとんどは会話の妙味だ。

しかも、フランスの、パリの、アートや画廊経営者らの世界で、みながスノッブであることは、ビノシュが、それら「お友達の輪」を外れた男と付き合っていると分かるや否や、「その男はRSAで暮らしているのか」(つまり失業者の支援金で暮らす)とか「学歴はなんだ」「BACG」(これはつまり、今の技術系バカロレア、つまり普通高校からではなく技術系高校からのバカロレアで一段下だと差別しているわけだ)とか、嫉妬や当てこすりや偽善的な言葉が渦巻くことでよく分かる。

孤独や寂しさ、愛の渇き、欲望などが普遍的なテーマなのだとしても、あまりにも、「お仲間うち」の話で、微妙な感情がいくら巧妙に描かれていても、ひいてしまう。

芸術的な悩みとかないのか、君たちは。


私は暴力やホラーシーンのある映画はもうできるだけ見ないようにしようと思っていたけれど、こういう熟年男女の色事のかけひきの映画もこれからは時間がもったいないからもう見ないようにしようと思った。


しかも、最初にビノシュと愛人の意味なくリアルなベッドシーンが延々と続き、どういうわけか途中で館内の照明がついた。がらがらの館内で客の大半を占める70代くらいの連れだった女性同士の姿が目に入り、これをどう見ているのかなあなどと気まずい感じがしていると、誰かがクレームをつけに行ったので、照明が消されて、五十がらみの熟年男女のベッドシーンがやっと終わったところだったのに、映画があらためて冒頭から始まったので、また見るはめになった。男はでっぷりとした銀行家で、ビノシュも疲れ、たるんだ体だ。

手や指も何度か大写しになったのだが、その指や爪の美しくないことにも驚いた。ローラ・パテールのファニー・アルダンはさすがにすみずみまで人工的に美しかったのに。金を払ってまで映画館で「等身大」の疲れた同時代人を見たくない。


最後に出てくるドゥパルデューの異様な存在感も、みな、末梢神経をくすぐるような「濃さ」で、あっけにとられた。


映画館を出てオペラ座の方に歩いていくと、マクロンの経済政策に抗議するリタイア組のデモ行進が長々と続いていた。(年金から自動的に引かれる福祉税が増税される)


昼間からベッドシーンを見ている70歳もいれば、粛々とデモ行進をする70歳もいる。


その後でバロック・バレーのクラスに行くと、今年71歳のクリスティーヌが、相変わらずドイツ・バロックにはまって夢中でドイツ・ステップのクーラントを教える。

なかなか不思議な日となった。

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# by mariastella | 2017-09-29 07:52 | 映画

猿でもわかるパラダイス その2

問2  あの世とはコミュニケーションがとれるの ?



カトリックの信徒は、神、聖母、聖人たちだけでなく死者にも、神のとりなしを祈って語りかけます。それは仲介者なしに神との直接の関係をとらえるプロテスタントの信徒から見ると奇妙なことです。一方、カトリック教会は、死者の霊(エスプリ)が生者にコンタクトするという考え(スピリティズム)の類は一切認めていません。


Sekkoのコメント :


聖人崇敬というのはとってもカトリック的で、プロテスタントから大いに批判された部分だが、聖者の連祷というので聖人の名がぞろぞろと唱えられて、その度に「われらのために祈りたまえ」と唱和するシーンというのは、ロザリオと同じく、連帯感が生まれたり、まあ数の力で、こんだけ呼び出せば何とかなるかも、という楽観も生まれたりと好む人が多いせいか、今もしっかり続いている。

元は、ヨブ記にあるという説もある。ヨブ記では、ヨブに苦しみばかり与える神を信じなかったヨブの友人たちに対して最終的に神は妥協する。

(主は)テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。 しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」 (ヨブ記42,7-8

つまり、不信心者も、聖人にしかるべき例を尽くして神に祈ってくれるようお願いすれば、聖人に免じて神が願いをかなえてくれる、

というイメージだ。

聖人ならぬ普通の死者に呼びかけてお願いしても果たして神の心に届くのか、と当然考えてしまうが、いったんこの世の存在形態からシフトした世界では、こちら側で判断してしまう善悪だとか聖性だとかの物差しは多分意味をなさないのだろう。


どちらにしても、ふたつの世界は「神」を通して神の中でこそつながっているわけで、「死者の魂」が直接生者にコンタクトをとるなどというシステム?を放置すると、あやしい霊媒やら超能力者やらが跋扈することにもなるので、カトリック教会は禁止しているわけだ。


でも各種の聖人伝やら、熱心なカトリックの「霊能者」の手記などを読むと、どんな「霊とのコミュニケーション」でも、それがもたらす「結果」さえOKなら、神のみ旨にかなっているということでお目こぼしされたり、それとなく宣伝道具にされたりする現実もある。


次の質問と答えが楽しみ。


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# by mariastella | 2017-09-28 02:29 | 宗教

猿でもわかるパラダイス その1

問1 なぜパラダイスは上にあるの ?

多くの文化で「善」に向かっての進歩していくことと「天に上る」ことはセットになっています。そのせいで、パラダイスは天にあることになりました。縦方向のシンボル性がとても強いです。神が十戒を記した板を渡したりイエスが訓示を垂れたりしたのも「山の上」ですね。と言っても、「彼岸」「あちらの世界」が地獄だの天国だのという空間で表現されたとしても、それは物理的な場所ではありません。

Sekkoのコメント

うんうん、やはり人間が空を見上げた時の広大無辺な感じが「あちらの世界」をイメージさせるのかも。阿弥陀来迎図も雲に乗ってやってくるシーンだし。


でも、死者の国が「水平線の彼方」にあるという信仰もあり、それもナチュラルな感じはする。今村昌平の「神々の深き欲望」で難解の孤島から沖に流される小舟のシーンは強烈で「海の向こう」の死者の国というイメージが焼きつけられた。


死者の国は地下にあるという道教的イメージを教えてくれたのは私の『ヨーロッパの死者の書』(デジタル版で読めます)を訳してくれた台湾の潘さんだった。そこは別に地獄でなくて死者が生前と同じように暮らしているのだとか。日本留学中に故郷のお父様を亡くして、そういうパラレルワールドでは「喪」が完成しないで悩んでいた時に私の本と出合って翻訳を決意したという話だった。


亡くなった親しい人が「お星さまになって見ているからね」、と言ってくれるイメージは一番心やさしい気もする。(「完成に向かって上昇していく」なんていうイメージは少なくとも私にはない。)


注: カトリック雑誌(La Vie 2008/10/30)を訳出したものですが、読むと同時に訳しているのでそのまま先に書いているあることは分からないままのコメントです。


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# by mariastella | 2017-09-27 02:34 | 宗教

ジェルファニョンにミルネール、彼らはすごい

このブログにそのうちアップしようと思って書き留めておいたはずのデータが見つからなくなった。こんなことならもっと早く載せておけばよかった。

それはリュシアン・ジェルファニョンのこの本についての記事だった。還俗した元司祭で、歴史学者で、枢機卿が序文を書いている。この本は彼のたどった道を照らしてくれる。

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その後で読んだ本も忘れないうちに挙げておこう。

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の4冊。いつも明快なティモシー・ラドクリフは英語からの翻訳。しかし、この4冊の中で最も衝撃的、目から鱗の本はジャン=クロード・ミルネールのフランスとヨーロッパについての論考。アンチ西洋主義や近代、ポスト近代、文明の衝突論などがなんでもかんでも混在させてしまったものを見事にすっぱりと説明している。

「西洋の理念」が新自由主義経済などを生み出した、だからその西洋の理念を批判、否定しようというよくある説に対して、
そこで「西洋の理念」といわれているものはポストモダンのテクノロジー、新自由主義経済などが生んだ仮説の総体であって、「結果」なのだ、だから、それを批判しても意味がない。

石油がヨーロッパ以外のところで産出されたということと二度のオイル・ショックによって、「神」は中東に引っ越した。

ヨーロッパ構想はフランスの「共和国主義」の敷衍だった。イギリスが入った時点でそれは崩壊した。

などなどの解説が説得力ある形で展開する。
フランス語が読める人にはぜひお勧め。

でも今の日本を見ていると、こういうような問題意識の意義を分かってもらえるようにも思えない。

先日フランスのTVのニュースで、日本のJアラートの話に続いて、小学校で避難訓練し、サイレンが鳴ったら子供たちが机の下に隠れる、というシーンが映されていたのに驚倒した。
あまりにもカリカチュラルだ。
地震警報の避難訓練のシーンを間違えて使っているのではないかと思ったが、実際にそういう訓練があったそうだ。さすがに「本土決戦」に備えた竹槍訓練ですか、と揶揄されていたようだが。

アラートを鳴らした時点では、ミサイルがはるか上空だということが分かっていて何の防衛リアクションもなされていないというのに。第一、そんな上空にあるミサイルを迎撃する技術はまだないともいう。

そんな状況でアラートを鳴らしたり、避難しろと言ったりする政府、これがフランスだったら正気を疑われる。韓国の文在寅はカトリックで、就任後すぐにローマ法王にコンタクトして、キューバとアメリカの間で根回ししたように北朝鮮との間に入ってくれと頼んだのだそうだ。それが何らか力になるかどうかは分からないけれど、少なくともあらゆるルートを駆使して戦火を忌避する努力は見える。日本の政府はあんなトランプとしっかり組んで、国連の核兵器禁止条約にも反対するのって、リスク管理の観点だけからいっても理解できない。

時事問題を追っているとくらくらするので、次回からは、「天国」、死後の世界、神についていろいろ書くことにする。まずは「サルにでも分かる天国」15のQAをカトリック雑誌から紹介。そして最近読んだD.H.ロレンスの神に関する論考を紹介しよう。この人、とても気が合う。

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# by mariastella | 2017-09-26 01:10 |

ウィーンの話 その25 ガイドブック事情

2ヶ月近く書いてきたウィーンの話、まだ行ったコンサートについてとか、美術館についても書いていないことが多い。このブログを覚書にしようと思っていたのだけれど、なんだか時間に立つにつれてモチヴェーションが下がってきた。

昔は旅に出るたびにノートを持っていて毎日毎日その日のうちに記録していたものだ。
今は、写真だけ取っておいて、後は少しずつブログにアップして…などと思っていると、かえってこぼれおちるものが多い。

そしていろいろな旅を重ねたり、同じ場所でも世紀をまたいで再訪するとその違いに驚いたり、全部が複合的になって、記録よりも一冊の論考を書きたくなってしまう。

細切れな覚書はかえって記憶を風化させるということが分かった。
行ってみれば、外付けメモリーに入れておいたことで安心して本体の記憶にうまく組み込めなくなる。

だからここでひとまず打ち切ることにする。

多くのシリーズが「中途半端」になっていることに申し訳なさ(続きを待ってくれる人もいるので)を感じるが、これまで書いたもののすべてはこれから書くものの栄養となっていることは確かだ。

で、今回のウィーンで驚いたことのひとつにガイドブックがある。

21世紀に入ってから、いやここ数年、ヨーロッパの各地に出かけるたびに、気づかされることだ。

それは、日本語のガイドブックとフランス語のガイドブックのあまりもの違いだ。

同じ国のことを書いているとは思えない、というくらい雰囲気が違うことがある。

昔はそうではなかった。

多分、昔の日本のヨーロッパ観光ガイドブックは、英語圏のガイドなどをベースにしたごく基本的なものだったろうし、フランスのミシュランのガイドブックなどもきっと参考にされていたのだと思う。フランスのガイドブックは今も昔もミシュランのものがあるし、今は、体験者の声を集めた「地球の歩き方」風のものも多くなったけれど、それは予算別みたいな感じがある。バックパッカー用と、カルチャー中心のものと。


ところが、日本は、バブル時代以来、外国旅行者がどっと増えたり、リピーターが増えたり、そして何よりも、今はインターネットのおかげで、誰もが写真入りの紀行文をアップしたりするので、間口がどっと広くなった。

個人がネット上で情報を発するハードルは日本が圧倒的に低い。

そして、それにつれて、もちろん、ガイドブックを製作したり編集したりする側も、何度も何度もリピートして、体験して、写真を撮りまくっているので、なんだか個人のブログと同じような感じになっている。


写真が多すぎ。


食べ物情報が多すぎ。


今回のウィーンのために日本語では「まっぷる」というのと「ことりっぷ」というのを2冊買ったのだけれど、とにかく、ケーキの写真が多い。

「ばらまきみやげはここで買おう」という記事もある。


私は基本的にフランス語のガイドブックを使う。その方が使い勝手がいい。(日本語でカタカナ表記が多いとかえって不便なだけだから)


けれども、日本のガイドブックには日本人ならではの贅沢さやツボにはまる部分があるので参考にすることにしていた。


ところが、まあ、私が目的としている教会巡りや聖遺物巡りについての情報などは最初からあてにはしていないものの、食べ物とケーキ、レストランとカフェの写真入りの詳細な紹介のオンパレードには正直驚いた。


この傾向はなんだかだんだんひどくなっている。


日本語ガイドブックのパリ観光のものは見たことがないので分からないが、ウィーンのものと同じように、レストランやカフェやお土産物の写真満載なのだろうか。

これだけでちょっとしたカルチャーショックだ。


さすがに、日本の観光地や寺社巡りなどの日本語のネット情報にはコアなものもあって参考になるのだけれど、例えばウィーンって、もうシュニッツェルかザッハートルテばかりで、モーツアルトとシュトラウスとクリムトとシシ―(皇妃エリザベト)がいろどりとしてあるだけ、みたいな印象だ。


日本の観光客にとって、ウィーンもパリもロンドンも、似たようなものではないかという気さえする。


バロックバレエで久しぶりにエリカに会ったので、ウィーンとプラハとドイツのバロックの違いについて最近考えたことを少し話した。


思えば、プラハに行ったときはもちろんエリカにアドヴァイスしてもらったので日本語のガイドブックは買わなかった。今度ウィーンのものを買ったら、ウィーン、プラハ、ブタペストは三つでセットになっているのだ。


ウィーンのことをエリカと話すと刺激的だ。

先にもっと聞いておけばよかった、と少し後悔。

(エリカはチェコのソリプシスト、ラディスラフ・クリマ研究の第一人者です。クリマについては『無神論』p264で少し触れました。このブログでもソリプシストKで検索すればいろいろ出てきます。ここなど


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# by mariastella | 2017-09-25 03:17 | 雑感

ユヴァル・ノア・ハラリ式気楽な生き方

『サピエンス全史』で有名な歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ は新作『Homo deus』で未来論を繰り広げている。

結構希望を持たせてくれる楽観的なことも書いているのだけれど、なんだかなあ、とも思ってしまう。


L’OBSno2757のインタビューを読んで少し微妙な気分になった。

例えば、フランスで暮らしている私にはいつも金正恩のミサイルならぬダモクレスの剣みたいに気になるテロリズムについて、こう言い切る。

2000年に入ってから今まで、EU全域でテロの犠牲者は平均すると年50 人。

それに対して、交通事故による死者の数は平均して年8万人。

肥満と糖尿病による死者でも5千人。テロ攻撃で死ぬよりコーラを飲み過ぎて死ぬリスクの方が大きいんですよ。

テロリズムは何よりも一種のショーです。

人の恐怖を掻き立て、それを鎮めるために国家は過剰防衛をしてみせる。

象の耳にハエを入れて陶器店に入れたら暴れてすべてを破壊する。

アメリカという象の耳にテロを仕掛けると世界を破壊して回る。

過剰反応はテロより怖い。実際のリスクに見合って冷静に扱えばテロリズムはなくなる、


と。

ううーん、言うことはもっともでもある。

でも、ということは、交通事故を減らすためのキャンペーンとか標識や道路の整備とか、安全性の高い車の開発とかの方にテロ対策の千倍以上の予算を費やすというのは多分不可能だから、テロ対策の予算を今の交通事故対策予算の千分の一にしろということなのか?

テロリストの巣屈を無人機で「空爆」するとか、テロ対策の警備パトロールを増やすとか監視カメラを増やすとか持ち物検査を厳格にするなどの「ショー」的な対策をやめて、紛争地域での貧困や差別の解消に協力するなどの地道な対策に特化しろということ?

このハラリさんは絶対に肉を食べないし、テクノロジーの発展で肉が動物を殺さずに合成で作られるような形の「進歩」を夢見ている。2013年に実験室で作られた最初のハンバーガーは33万ドルの開発費がかかったのが今は11ドルでできるというから、家畜を殺すような産業は近い未来になくなるだろう。

自由とは好きなものを手に入れることだなどと信じさせたのは資本主義だ。これからは内的自由と「意識」を高めなくてはならない。

と、ある意味で引き算の思考でもあり、実際、スピリチュアル系であるそうだ。

でも、スピリチュアルな部分と、統計の数字を並べて納得させる部分との流れがなんとなく不自然だ。

テロと交通事故と糖尿病は比べられないだろ、とも思う。

こういう言説を「意識の高くない状態」で読むと、自分の保身と長生き志向に意識が傾いてしまう。

そういえば、ジェフリー・S・ローゼンタールの『運は数学にまかせなさい』(ハヤカワ文庫ノンフィクション)を思い出した。メディアのウソを見抜く回帰分析などを紹介して、確率・統計論で人生を賢く生きる方法の本だ。

人生で起こることはランダムで、まあ、情報の多くは陰謀論と同じで誰かが得をする罠なのだから、気楽に生きた方がいいよ、というポジティヴなメッセージの記憶がある。でも、今確認していないから分からないが(同じころに読んだ同じシリーズのマーク・ブキャナンの『歴史は「べき乗則」で動く』だったかもしれない)、ひとつ心にとめたことがあった。確か、数多くの保険商品は確率論から言うと無意味で不要だけれど、火災保険だけは、どんなに確率が低くても、起こる可能性はゼロではないし、起こった時の損害や責任は普通の人の全財産でも償えないほどの膨大なものだから、かけておく必要があり、義務がある、という話だった。

それを思うと、パリの街でテロに遭遇しても即死とは限らないしフランスなら国家がケアしてくれるけれど、北朝鮮が日本の米軍基地に核爆弾を打ち込んだりしたら、その確率がどんなに低くても、壊滅的被害になるのだから、「恐怖を煽る」ことを誰かが利用していても、無視することはなかなか難しい。

「賢明な技術とは何を見過ごすかを見極める技術だ」(ウィリアム・ジェームズ)という言葉をもう一度、反芻してみよう。



付録。今日のニテティスブログです。




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# by mariastella | 2017-09-24 05:49 | 雑感

真生会館のコンサート

10/28 午後7時、信濃町のカトリック真生会館のホールで、トリオ・ニテティスのコンサートをします。

プログラムは以下の通りです。

第一部 ジャン=フィリップ・ラモー(1702-1766)のオペラより

アントラクト    « 栄光の殿堂 »オペラ・バレエ1745
タンブラン 1 、2  « ダルダニュス» 抒情悲劇1739
ガヴォット 1 、2 « アカントとセフィーズ » パストラル英雄劇1751
リゴドン  1 、2  «プラテー» 抒情喜劇 1745
優美な歌       « ザイス» パストラル英雄劇1748 
アントラクト     « エベの祝宴 » オペラ・バレエ 1739
リゴドン  1 、2   « 優雅なインド » オペラ・バレエ1735
優美な歌        « カストールとポリュックス » 抒情悲劇1737
コントルダンス   « シュパリスの人々 » バレエ1753


第二部   音楽童話をめぐって

シャコンヌ          ベルナール・ド・ビュリィ(1720-85)
パスピエ           ジャン=フィリップ・ラモー 「ゾロアストル(1756)
冬のプレリュード       シャルル=ルイ・ミオン「優美な四季(1747)」
ゼフィールの踊り       シャルル=ルイ・ミオン「優美な四季(1747)」
リトゥルネル   シャルル=ルイ・ミオン「ニテティス(1741)」
バッカスとポモーヌの踊り   シャルル=ルイ・ミオン「優美な四季(1747)」
精霊の踊り          シャルル=ルイ・ミオン「ニテティス(1741)」
フォルラーヌ     シャルル=ルイ・ミオン「優美な四季(1747)」
フラトゥーズ         リュック・マルシャン 「チェンバロ曲集」(1747)
タンブラン 1と2 シャルル=ルイ・ミオン「ニテティス(1741)」

10/29 の午後2時には、子供たちのためのバロック音楽童話のDVDをスクリーンに映して、音楽を生演奏します。

前日の第二部の曲にメヌエットやミュゼットなども加わります。
童話のイラストの原画も展示されると思います。
原画に生演奏、贅沢な紙芝居をお楽しみください。

もちろん子供連れ歓迎です。

3年前はその後に「メヌエットを踊ろう」というタイムを設けました。
場所や子供たちの希望があれば今回もやるかもしれません。

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ADDRESS〒160-0016
東京都新宿区信濃町33-4
TEL03-3351-7121(受付代表)
FAX03-3358-9700
受付時間10:00-16:45

■交通アクセス

JR総武線信濃町駅改札を出て右側徒歩1分


真生会館へのお申し込みは


とか


でもできるようです。

座席数が限られているので、どちらの日か、人数とお名前をお願いします。



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# by mariastella | 2017-09-23 07:28 | お知らせ

10/24、25のコンサートのお知らせ

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10/24, 25日に山陽小野田市で開かれるトリオ・ニテティスのコンサートのポスターです。3年前の宇部市でのコンサートで聞いていただいた田村洋さんとのご縁で実現しました。いつも新しい出会いがまた別の出会いをもたらせてくれます。前回の曲とは違うラモーの新しいシリーズで構成されています。
私たちが弾くということは、ラモーのオペラ曲の中で、三台のギターで弾くとバロック管弦楽団で弾くよりもはるかに美しいという曲を選択しているということです。
一番聞いてもらいたい人はラモーです。

メンバーは古楽器の奏者でもあり、私もチェンバロやピアノやヴィオラの方が、弾く感触としては好みなのですが、正五度にカスタマイズしたクラシックギターの音色の美しさは何物にも代えられません。

ギターは実はものすごく難しい楽器です。音階を弾くだけでも他の楽器ではありえないようなアクシデントが生まれる可能性があるくらいです。
けれどもその音色の魅力には抗えないので、どうしても手離せません。もし他のアンサンブルがこのプログラムを弾くなら絶対に聴きに行きたいです。でも誰も弾いてくれないので自分たちで弾くしかありません。私たちのパッションをみなさんと分け合えたら素敵です。
一回性のアートである音楽を分かち合える贅沢にくらくらします。

トリオ・ニテティスのブログも合わせてどうぞ。

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# by mariastella | 2017-09-22 05:54 | お知らせ

国連総会での首脳演説 トランプとマクロン

日本でも国連におけるトランプの「北朝鮮破壊」のような強気発言が報道されていたけれど、なんだかもうこの人の品のない過激ぶりに麻痺してしまった。


フランスではもちろん、その後の演説でマクロン大統領が環境保護や弱者救済をエレガントに語るのが何度も映されて、オバマ大統領を思わせるとか言われた。

トランプの時代だからそのコントラストが際立って、ある意味で得しているかもしれない。


その上、イギリスのEU離脱が決まっているから、国連の安全保障委員会の常任理事国の中で、フランスは唯一のヨーロッパの顔となる。


米、中、露、英、仏。


経済的には今のロシアは弱いが軍事大国だし、英と仏が分かれると、イギリスが過去の帝国主義の盟主、フランスは団結したEUの代表、と見えるから、これもイメージ戦略的には悪くない。


経済的な覇者であるドイツは、こういうところでは、日本と同じくやはり第二次大戦の敗戦国というレッテルから逃れられない。


この安全保障「五大国」、いずれも核兵器所有国だから、北朝鮮でなくとも鼻白むが。

で、このマクロンの、一応「フランスらしい」、アメリカに盾突く発言だが、それを評して「地球という人類の集合住宅の管理組合(国連)の自治会会長」のスタンスだと言った人がいた。

悪くないたとえだ。

最上階に住み自分ちだけリフォームしてセキュリティシステムや耐震設備を整えている金持ちが自分は管理組合なんて無視してもいい、と言ったとしても、

建物全体のメンテナンスが放置されれば、害虫や害獣も忍び込むかもしれないし経年劣化もあるし、いつか土台から崩れるかもしれないのだ。

余裕のある居住者が金を出し合って全体を支えたり、孤立した居住者のケアをしたりした方が最終的には建物全体の健康寿命を延ばす。


そのようにスケールを変えて考えてみると、先日読んだ『プラチナタウン』も別の視点で見えてきた。


あそこで語られた赤字財政、過重負債、過疎化、少子化、人口の老齢化、介護の問題など、実は、「日本の中の一地方都市」の問題ではなく、「世界の中の一地方都市」である日本の縮図だと言えるのではないだろうか。

あの本では、日本の中の「都会」と「田舎」の格差だとか人口の偏りとかが語られているが、地球全体をひとつの国としてみたら、まったく同じようなことが起こっているわけで、日本はまさに、もうすぐ、「公共事業をやり過ぎて立派な施設がいたるところにあるが負債は膨らむばかりで消費は伸びず人口減の進む地方都市」のようなものだ。あの本にあるように世界中の各地へのアクセスは飛躍的によくなっているから、富裕者は、シャッター街になった日本を捨ててもっとリッチな場所に移住していくかもしれない。


そんな「地方都市」日本の再建のカギは『プラチナタウン』にあるような福祉政策かもしれないし、それを地球規模で考えて、地球集合住宅の自治会で積極的に全体の運営対策に参加することかもしれない。


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# by mariastella | 2017-09-21 02:30 | 雑感

10/21 17h pm のコンサートのお知らせ

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10/21(土)の午後5時に東小金井市の双ギャラリーで私のトリオのコンサートをします。

2011年の東日本大震災の後で私が企画したチャリティコンサートに来てくださって以来、いろいろな冒険をご一緒させてもらっている師井公二さんの個展の開催に合わせたものです。


この双ギャラリーには春におじゃましましたが、ギャラリーのサイトを見ても、コンセプトが一貫したこんな経営ができるというのは日本が到達した豊かさの上に立っているのだなあと戦争のなかった70年以上に感謝の念を抱きます。スペースが狭いので先着20名くらいです。必ずギャラリーにお申し込みください。
私たちはギターのトリオですから、親密な空間の方が絶対に楽しめます。
しかも弾いているのは室内楽でなく基本的にバロック管弦楽の全パートの再現で、ギタリスティックなものを選んで、クラシックギターを正五度にカスタマイズしたものを使っています。
著作を含めた私の全活動は自由と平和という同じ夢に基づいています。

トリオの仲間の2人は個性的で才能にあふれ、強靭さと壊れやすさが共存しているユニークな人たちです。
大波小波、嵐を乗り越えて、彼らと過ごした四半世紀のおかげで、極めて難解な(解釈の話で、聴く分には難解ではありません。ダンス音楽です)フランス・バロックを掘り下げるという贅沢を極めています。

全人格が投影されたこのようなアンサンブルが成立して持続するのは奇跡のようなものです。

彼らもそれぞれコンセルヴァトワールの教授や音楽教授の他にバロックの古楽器を使ったアンサンブルの活動もしていますが、1991年のスペインへの演奏旅行で知り合って以来、人間的に惹かれ合った私たちは私たちの美学に完全に合致した妥協のないフランス・バロックの冒険を続けています。

今回の一連のコンサートに関して、トリオ・ニテティスのブログを再開していきます。

合わせてご覧ください。


以下は、これまでに師井公二さんとご一緒したものの例です(師井さんのサイトより)




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# by mariastella | 2017-09-20 01:02 | お知らせ

楡修平『プラチナタウン』祥伝社文庫

久しぶりに小説、しかも日本語の小説を読んだ。

最近手に入れて、日本の文庫本「読み待ち」の棚(ここには加賀乙彦さんの『宣告』やら、東野圭吾、殊能将之のミステリーなどがもうずっと置いてある)に並べる前にパラパラと目を通したら面白くてつい全部読んでしまった。

小説は仕事が一段落した時にゆっくり読もうなどと思ってとってあるのについたまってしまう。日本語の文庫はノンフィクションや科学読み物の方を先に読んでしまうからだ。後は膨大な「読みかけ本」があって、その他、仕事に必要な本を読んだり資料を作っているうちに日が経つ。

最近は、10月のコンサートのために練習も毎日しているのでますます一日が短い。

それなのに…。

本の名は楡修平『プラチナタウン』祥伝社文庫

なぜ引き込まれたかというと、

最近日本の記事を読んでいて気になっていたことの空気がすごくよく分かったからだ。

知事と都議会の関係(この本では町長と町議会の関係)とか、
公有地の無償貸与の話とか、
地元への「見返り」とか、
高齢者問題とか、

いずれも、ユニヴァーサルであるようで、すごく日本的な部分がある。

フランスもいくらでもスキャンダルなどあるのだけれど、日本とは突っ込みどころが違う。
議員の「不倫」疑惑などがフランスでは歯牙にもかけられないことなどは日本人にも想像できると思うけれど。

私は友人も家族も近い人には商社マンや政治家がいないので、日本のそういう世界についてはこれまでも企業小説や政治小説で知識を仕入れてきた。

でもこの『プラチナタウン』は、小説としての強度はないのだけれど、あらゆる意味で、ちょうどいいサイズで、町の財政再建のストーリーが進んでいく。明快だし後味もいい。

日本経済において総合商社が占めていた位置についてもノスタルジーと共に考えさせられる。

文庫の解説にもあるように、舞台となるのが宮城県であり、この小説の最初の刊行が東日本大震災以前だったことには感慨を覚える。

考えてみると風光明媚な場所の多くは、火山帯だったり海辺だったりするので、噴火、地震、津波、台風などのリスクが常にある。

折から、裕福なリタイアカップルが老後を過ごすパラダイスのようなイメージのカリブ海だとかマイアミ・ビーチなどがハリケーンによって大きな被害を受けた。

「対話」や外交努力が不可能な自然リスクがたくさんあるのだから、その上に人間同士がわざわざ武器開発をエスカレートしないでほしい、とつくづく思う。

日本の中の「都市」と「田舎」の抱える問題や、知識としては知っていたけれど日本では一戸建てでも50年経てば資産としては土地の値段しか残らず、マンションは古くなると資産価値がなくなるというのもあらためて驚かされる。
この小説でもアメリカでは築100年のビルも立地が良ければ資産価値が上がることもある、ということが紹介されている。パリ市内など一戸建ては例外だからなおさらだ。

日本で快適に年取るのにはお金がかかる、というのはなんとなく感じていた。
でも、お金さえあれば快適さや安全を変えるところだなあとも。
フランスでは大金持ちは知らないが、お金を払ってもなかなか快適さが買えない。
でも、リタイアした人が普通に暮らしていたらあまりお金もかからない。
サルコジが「ぶっ壊す」としたものをマクロンがさらに推し進めているから、これからどうなるかは分からないけれど。

ともかくこの本を読むとリバースモゲージだとか介護の話、公共事業神話、地方再生と福祉、ネットで読む日本の雑誌でもよく取り上げられることがリアリティを持って語られるので、知識が整理できる。
もちろん思いは「国家戦略特区」の今治市の議会のことにまで飛んでいくのだが。

私が日本に行く頃に解散総選挙になるのだろうか。






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# by mariastella | 2017-09-19 02:19 |

ウィーンの話  その24 美術市美術館 2

美術史美術館で興味を掻き立てられたのは、天使たちの造形。
天使といっても、大天使ナントカではなくて、子供型のいわゆるキューピッドというやつだ。



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保育園でもめている子供たちですか。


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なんか凶器を作っている天使のそばで、もう一人が嫌がる子の手を無理やりにひっぱって、いじめの現場みたいな光景。実際はアトリエで作業している様子らしいが、絶対に何かの含意がありそうだ。こんな絵、誰が注文したのだろう。

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# by mariastella | 2017-09-18 02:38 | アート



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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