L'art de croire             竹下節子ブログ

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その4)

スコセッシはニューヨークのリトル・イタリーという地区で育った。
一方にギャングや不良グループがいてもう一方にカトリックの司祭たちがいる、という環境だ。

彼に外の世界への目を開いてくれたのは11歳から17歳まで指導された司祭だった。
司祭は、スコセッシにイギリスの小説家グレアム・グリーンの『権力と栄光』(1940)を読むように勧めた。

グレアム・グリーンは、イギリス国教会からカトリックに転向した人だ。
この小説は20世紀前半のメキシコ革命下のカトリック迫害をテーマにしたものだ。ウィスキーを飲んでアル中気味の神父がカトリック摘発の警察当局から逃亡して村に隠れるが、当局は村人を人実にとって神父を誘い出そうとする。同僚には当局の弾圧に負けて結婚した神父もいる。

遠藤周作は『沈黙』を書くのにこの本の影響を受けたと明言している。

司祭に勧められてスコセッシが読んだものではこの本だけはない。
もう一冊は、Dwight MacDonaldの『ある革命家の回想』(1960)で、トロツキストからソ連を憎む平和主義者に転向したNY生まれのジャーナリストの作品だった。

スコセッシはぜん息でアパルトマンに閉じこもる少年時代だったから、司祭との出会いや読書が大きな影響を与えたことは確かだろう。

『最後の誘惑』の後でポール・ムーアから「本気で信仰について語りたいのならぜひこれを」と『沈黙』を渡され、ロドリゴの棄教のシーンにはまった。
キリスト教の基礎となるメッセージ隣人愛や汝の敵を愛せよ、に立ち返って信仰を考えようとした。革命的だと思った。ユートピアかもしれないが、非暴力に価値を与えたことで人類はサバイバルに成功したのだ。

とスコセッシは語る。

なるほど。

1920年代、チェスタートンらと同じ時期にカトリックに転向したグレアム・グリーンは、1930年代には共産党に入党した。どちらも当時の知識人にとって一種のブームだったという。晩年にも、確信を持ったカトリック信者と共産主義者には共感があると言っている。「解放の神学」などの影響も想像できる。

『栄光と権力』の直接の舞台となったのは、メキシコ革命に続くクリステロス戦争という白色テロ、宗教迫害の残滓で、1924年のカリェス大統領による迫害から内戦となり、犠牲者たちのうち22人の司祭と3人の信者が殉教者として2000年に列聖されている。カトリックの反乱軍はグアダルーペの聖母の旗を掲げて、司令官の名もイエズス何某だ。

殉教の司祭クリストバルは信徒の武力蜂起を戒めていた。
逮捕されてもすぐに敵を赦し、自分の流す血がメキシコの平和の礎となるようにとの言葉を残して処刑されたという。

内戦はおさまったが、そ1940年にカトリックの大統領が就任するまではカトリックの司祭への追求は続いたという。

『権力と栄光』はジョン・フォードの『逃亡者』として映画化され、ヘンリー・フォンダが追われる神父役だった。
検索するとネタバレ付きのストーリーが日本語でも出てくる。

何かが決定的に『沈黙』と違っている。
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# by mariastella | 2017-02-07 03:12 | 宗教

フラクタルの最期

毎日、楽しみにしていたフラクタルが全滅。

犯人はこいつ。



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ごめんなさーい、と逃げた先がこれ。


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最近変えたPSのモニターの空箱。これを見たネコ飼いは絶対切り取りたくなるよね。
え、私だけ?
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# by mariastella | 2017-02-06 00:02 |

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その3)

映画『沈黙』の公開がいよいよ来週水曜に迫ったので<スコセッシ監督もフランスにプロモーションに来てあちこちでインタビューを受けていたのだが、なかには「へえー」っと思ったものもあった。
いろいろ考えさせられたので少しずつ紹介していこう。

それにしてもスコセッシの知名度は高いから話題にはなるけれど、フランスでの上映館はかなり少ないようだ。
観客動員を見こめそうにない映画という市場原理の方が監督の知名度に勝つということだろう。

今発売中のパリ・マッチ誌なんて、『ムーンライト』(これはわたしも観にいくつもり)を絶賛しているページの片すみに★2つの『沈黙』評がほんの少し。しかも、

「(宣教師が)天皇の審問官によって迫害」

なんていう事実誤認はまあいいとして、

「偉大なスコセッシは的外れで、私たちに、役柄に説得力を与えられなかったスターを使った長すぎる映画をおしつける。拷問の積み重ねもなんの感動ももたらさない。ラストはグロテスクだ。まあ、しょうがない、ZEN(冷静を保つこと)で行こう。」(評者Alain Spira)

という言われようだ。

アメリカでもなんだか「色モノ」という目で観られたり、イエスの言葉が聞えるシーンで観客から失笑が漏れたという話も聞いたけれど、フランスでの一般の反応はどうなるだろう。

スコセッシが、この映画をバチカンに持っていって教皇と会見し、イエズス会士らと共に試写を見てもらったこともよく知られているが、では、教皇と会ってどんな話をしたかというと、

質疑応答はただ一つ、

スコセッシが教皇に

「長崎に行ったことがありますか」と聞き、

教皇が

「ありません」と答えた。

教皇が日本に行ったことがないのはネットで調べたりイエズス会の誰かに聞いたりすればわかるでしょ。

(私なら、せっかくだから、「もし教皇がロドリゴの立場ならどうなさいますか?」と聞いちゃうかも。)

で、教皇からは、映画の成功を祈ってます、good luck、って言葉をいただいたそうで。

でも、スコセッシは大満足。

なぜなら、家族を引き連れてバチカン入りしたスコセッシの目的は多分、教皇からの「祝福」を受けること。
実際、家族全員を「祝福」してもらった。

カトリックの祝福というのは、神父が、物や人に大して神の恵みが働くよう願い求める行為だ。

教皇による祝福も、一司祭による祝福も、「神の救いの業」を想起するのだから「効き目」は変わらない。
でも、代々カトリックであるシチリア系のスコセッシにとっては、NYのリトル・イタリーのゲットーで育った自分が、なんと、バチカンで、ローマ教皇からの祝福を家族と共に受けられるなんて…。と、これがメインになっていたとしても全然不思議ではない。

特に『最後の誘惑』ではスキャンダルになったし、『クンドゥン』ではダライ・ラマに共感する映画を作ってるし、さあ、この辺で、名誉挽回、だと思ったのかどうか…。

(続く)
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# by mariastella | 2017-02-05 00:33 | 映画

フラクタルの話

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枯れ木のように見えるプラント3種を鉢に植えて水をやっていたら、あちこちから芽が出てきた。やがて、ふたつに枝分かれするタイプのものと、三つの葉が出てその真ん中のものだけ延びてさらに三つに分かれる、などのパターンができて、フラクタルってこういうものだなあ、と毎日毎日観察している。ルネ・トムの「構造安定性と形態形成」ってまさにこれだ、と思う。

今日はこれから 演奏会で弾くので昨日の続きはまた後日。

私に殉教者の心を始めて理解させてくれた本は、最近読み返した2冊。昔京都の赤尾照文堂で買ったもの。

海老澤有道『京畿切支丹史話』東京堂書店 昭和17年
木村太郎訳 『日本廿六聖人殉教記』 岩波書店 昭和6年

キリスト教の殉教者の謎が解ける気分だった。
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# by mariastella | 2017-02-04 00:34 | 雑感

高山右近の列福、映画『沈黙』のキリシタン迫害で殉教について考える

大阪城での高山右近の列福式が近づき、スコセッシの『沈黙』が公開され、日本ではキリシタン殉教についての関心が高まっている。(フランスでは来週上映開始)

高山右近は迫害によって殺されたわけではないが、一国の城主だったのに権力や財産をすべて捨てて追放されることを受け入れ、国外で客死した。
それを「殉教」がとして認められたので、「右近の執り成しによる奇蹟」の認定がなくても福者に列せられることになったのだ。

殉教について私はサイトで見られる記事とかブログのこの記事などで何度か日本のキリシタンの殉教のことについて書いてきた。

基本にある違和感は変わらないのだけれど、周辺部ではいろいろ感じ方が変わってきた。

まず、キアラ神父(映画のロドリゴ)などは、やはり、宣教師だったのだから、きっちり殺されるべきだったと今は思う。
他のすべての人についてはそれぞれの状況や性格や情緒に従っていろいろな選択があって当然だと思う。
迷いや恐れや保身自体は、キリスト教の上の「罪」ではないし、近代法風に言っても、迫害されているのだから、「信仰を(いったん)失うこと」「棄教したと形式的に宣言すること(踏み絵を踏むことも含む)」「隠れること」などは明らかに「緊急避難」や「正当防衛」に該当して、「罪」とは思えない。

でも、仮にも、聖霊の恵みと使命を受けたはずの神父で、その中でも危険を承知で別世界の「宣教」に志願したような「宣教師」は、当然想定されるような「迫害」を前にして「緊急避難」や「正当防衛」の余地はない。

内心がどんなに動揺していても、パードレと信頼してくれる信徒たちのの信頼を裏切らない、という責任がある。

つまり、心では決して信仰を捨てていず、人々への拷問をやめさせるというプラグマティックな判断で、

「ここはひとまず人助けのために踏み絵を踏んでおこうか、イエスさまがこんなことで罰を下すと思えないしな。ここは長い目で、この国で地道に信仰の種をまく方が有益かも」

なんて思うのは、合理的には正しいが、やっぱり

「宣教師がそれをやっちゃダメでしょ、たとえ他のすべての人が転んでも、宣教師だけは死を恐れないところを見せるべきでしょ」

と思う。

イエスの一番弟子だったペトロは確かに鶏が鳴くまでにイエスとの関係を3度も否認した。

でも、それは、イエスがまだ殺されていず、したがって復活もしていなかったからだ。
忠実な「弟子」ペトロはイエスを逮捕に来たローマ兵の耳に切りつけたくらいに「師イエスお大切」の情熱はあった。でも当のイエスからそれを戒められて、情熱はしぼみ、後は逃げに回り、自己嫌悪に陥った。

でも、その後にイエスの復活によって「忠実な弟子」が「信仰者」になり、「使徒」となった。
イエスの復活によってキリスト者が「誕生」したのだ。
それからの彼らには怖いものがなくなった。
特に「死」はもう「怖いもの」ではなくなった。「死」は「復活」の信仰の証しだからだ。

キリスト教はそういう宗教だ。
だから、「宣教師」は、宣教師だけは、「イエスに何と言われても、踏み絵を踏むべきではない」。

もちろんイエスは彼らの弱さを赦してくれるだろう。
でも、彼らは、彼らの「証し」を聞いて信仰に入った信徒たちを裏切るべきではない。

私が宣教師だったとしても、もう諦める。殺される以外の道はない。
イエスのためではない。
私の話を聞いてくれた人のためだ。

もっとも私は絶対宣教師にはならない。
石橋を叩いても、下に急流が見える限りは渡りたくないヘタレだからだ。

などと思いながら、最近久しぶりにある本を読み返したら、日本での殉教者の心情が突然理解できた。

いや、理解を超えるものだと理解できたのだ。
こうなったら違和感もへったくれもなく、ただ、感嘆の思いしかない。

それはいったい何かというと…  (続く)
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# by mariastella | 2017-02-03 00:12 | 宗教

トランプ、フェミニズム、ミスユニバース、プルエス、相撲と紅白歌合戦

私は(先進諸国の中で)「日本は遅れている」という言い方は嫌いだ。そんなことは一括してはとてもいえないし、分野にもよるし、時と場合にもよるし、感受性の差にもよる。

ひと世代前の日本人の仏文学者がフランスでの体験を書いて、ソルボンヌの教授のやることなすことに「…しておられた」などと敬語を使いまくっているのを読んでもなんだか不愉快なくらいだ。

けれども、週刊朝日(2/10号)の北原みのりさんの記事をネットで読み、澤藤統一郎さんのブログのこの記事とかを見ていると、暗然とする。

どちらもトランプ大統領がらみのテーマだ。

北原さんのはフェミニズムに引き付けてのものだけれど、もちろんすべての差別において人の「モノ化」は通底している。

この週刊朝日の記事もそうだけれど、実際、インターネットのサービスで、今まで見たこともないいろいろな週刊誌などをザッピングできるので、男性をターゲットにした若い女性のグラビアでの扱い方を目にすると胸が悪くなる。

トランプに話を戻すと、メラニア夫人がいつもなんとなく悲しそうな顔をしているのは本当だし、これについては、フランスの大統領なら少なくとも自分の連れ合いにこんな態度をとるということはあり得ないだろう。

今年のミス・ユニヴァースのコンクールでで半世紀以上ぶりにミス・フランスが勝利したということについてさえ、ただの遺伝子の比較に過ぎなく、なんのprouesseもない勝負にフランス人が誇らしい、みたいなことを言うべきではない、と批判する人がいた。
フランスの教育やフランスの環境によって学者やアスリートやアーティストが育ったり力を発揮したりして国際的に認められるなら誇ってもいいが、ミス・コンテストはその人の個人的な遺伝子の勝利であり、コンテストの中でprouesseを求められないから意味がない、という。

この「プルエス」という言葉、昔、東大のフランス科にいた時のなんの授業だったかで、すごく細かく説明されていたテキストを読んだ。
とても印象的だったので、おかげで今でも、単に辞書的な意味でなく、その背後にある価値観がよくわかる単語のひとつになっている。

今、ためしにgoogle翻訳で日本語にしたら、「業績」と出てきた。
フランス語から英語にしたらprowessと出てきた。
その英語をさらに日本語に訳したら「武勇」と出てきた。

うーん、まあ騎士道などと関係があるから、「業績」よりは「武勇」の方がまだ近いけれど、もっと、ある「決意」を、克己とか精進とかを伴って遂行した結果に得られたもの、という感じかな。
ヒロイックな含意がある。
ミス・コンテストには確かにそんなものは必要ないから、やはり「見た目」がモノとして評価されているだけだ。

大相撲で、久しぶりに「日本出身力士」が横綱になったと話題になっているのも目にした。
でもフランスにいて聞くとこ、の言葉は微妙な言葉だなあと思う。

モンゴル出身などで日本国籍を取得した横綱と区別するためらしい。
国籍とは関係なく、「日本生まれではない」というニュアンスがある。

では、日本生まれの外国籍の人は「日本出身」ではないのだろうか。
あるいは、両親が日本人で外国で生まれた人が日本で力士になったら、「日本出身」とは言わないで「日本人」というだけなのだろうか。
あるいは「日系二世」とか?

でも、文脈からいうと、「日本出身」というのはどうも、日本の「純粋な血」をひいた、という、例の「単一民族」神話を反映しているらしい。

フランスでも、差別問題で口に出される言葉に「Français de souche」のがある。soucheは木の株というか、土着のという感じで実際は「白人」という人種的な言葉を避けるためかのように使われている。

まあ、いわゆる白人でもフランスにはイタリア移民、ポルトガル移民、ポーランド移民はとても多いのだが、二、三代目ではFrançais de soucheとは呼ばれない。
Français de soucheとは、「先祖代々のフランス人」ということになる。

とはいえ、先住のケルト人だけではなく、ゲルマン人の移動と共にやってきた人、ローマ帝国の版図と共に広がったラテン系の人などがまざっているわけで、「先祖代々」と言っても見た目もいろいろだ。
フランク族のクローヴィスとかシャルルマーニュとかが今の独仏伊あたりを統合したので、そして、彼らがローマの国教だったキリスト教に改宗して共同体をオーガナイズしたので、結局は「白人のキリスト教徒」みたいな含意もある。フランスに多いイタリア、ポルトガル、ポーランド移民はみなカトリック国という共通点も見逃しがたい。

でも、柔道重量級の世界チャンピォンであるテディ・リネールなど、フランス本土ですらないカリブ出身(本人はフランス本土生まれだが)の黒人だし、サッカーで一世を風靡したジダンは北アフリカのベルベル人だし、伝説的なテニスチャンピォンのヤニック・ノアは黒人との混血だが、フランス人がそういう時に彼らを「フランス出身でない」とか「ウィンブルドン現象(よそから来たものに地元が負ける)」だなどとは言わないし、多分思ってもいない。すごく単純に、「フランス万歳」と喜んでいる。

まあ、相撲は日本の「国技」で、世界的にはローカルスポーツだから、「日本代表」対「外国代表」という国際試合がないので、よけいに出身の「差」が目立つのだろう。

日本の外から見ている限りでは、モンゴル出身の横綱も見た目には区別はつかないし、お相撲さんというのは誰でも訥々と語るイメージがあるから、インタビューなどを受けての日本語を耳にしても違和感がない。

ただ、本来閉鎖的な日本の相撲の世界にわざわざ挑戦する外国人力士の出身国と日本には、やはり「経済格差」があるようで、その「出稼ぎモチベーション」抜きには今のような状況には絶対になっていないだろうなあとは思う。
昔は日本でも、ハングリー精神で地方からやってきて横綱を目指すというような例があったのに、もう日本人にはそういう人は少なくなったともよく言われる。

個人戦のスポーツはいろいろな含意や偏見を反映しているから難しい。
チームのスポーツは、その中で多様性を発揮できるからもう少しリベラルな感じがする。
ラグビーなんか、日本でもナショナルチーム自体が国際的だ。
フランスのサッカーのナショナルチームなど、「先祖代々の白人の」フランス人なんてマイノリティだ。

愛国心とは別に選手やチームの「プルエス」を愛でるファンも多いだろう。

そういえば、日本には今も「紅白歌合戦」という、形だけにせよ、「男女対抗」の「合戦」がある。
確かに歌は筋肉のつき方や身長などと関係がないから、男女が「同じ土俵」で競い合うともいえるけれど、パロディだとしても、よくこのコンセプトが続くなあ、と思う。こんな催しって日本以外にあるんだろうか…。
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# by mariastella | 2017-02-02 00:44 | 雑感

ポンピドー文化センター

パリのポンピドー文化センターができてちょうど40年ということで、記念のドキュメンタリー番組を先日見た。

ポンピドー・センターの歴史はそのまま私のフランスでの生活の歴史に重なるので感慨深い。

できた時には、「友の会」のような支援グループに会費を払って登録していたので、その後、展覧会にも並ばずに入れた。

開館一周年記念のパーティにも招かれて出席した時、センターをかたどった直方体の大きなケーキが出されたのも懐かしい。

ポンピドーセンターの近くはなじみの界隈になった。

まだミッテラン政権の前で、同性愛が刑法上の罪を構成していた時期で、この地区にゲイの友人が、フランスで初めてのゲイのためのカフェを開いていて、ある夕方に訪ねて行った。親密な雰囲気のカップルたちがカウンター席で寄り添っていた。私は目立たないように奥の席に通された。

ベトナム人の知り合いが「七つの牛料理」という名のレストランを開いて、七つの調理をした牛肉料理が次々出てくるのをはじめて食べたのもセンターのすぐ近くだ。ネムという揚げ春巻きをミントの葉といっしょにレタスに包んで食べることもそこで初めて覚えた。

図書館の雑誌コーナーに日本の週刊誌が置いてある時期があって、感激したこともある。

だいぶ後で、私のピアノの生徒のお母さんがここで働いていたので、数々の招待券をもらったこともある。

今回のドキュメンタリー番組で初めて知ったのは、ここが、予定の敷地の半分をセンターに、半分を広場にするというデザインが採用されてできたものだということだ。私は最初から広場は広場だと思っていたのだけれど、じつは、広場はセンターの一部、というか、一体だった。

最初に大道芸人がこの広場に集まってきた時に、警察から追い出されたが、みな戻ってきた。
なぜなら、そこはセンターの一部であるから、センターが警察に撤去を要請しない限り、市や警察は無断で介入できないからだ。

で、いつも大道芸人が集まるなじみの光景が出現した。それは折り込み済みだったわけだ。

2000年の改修以来、図書館部分との入り口が別になったり有料部分も増えたりして、広場の大道芸人はぐっと減ったという。

最近は行っていないけれど、テロ対策はどうなっているのだろう。
広場へのアクセスは自由だから、セキュリティ検査はできない。

嫌な時代になったなあと思う。昔はセンターの外側も内側も、町の延長のような感じだったから。

昨年、金沢の21世紀美術館に久しぶりに行ったけれど、そういえば、昔はポンピドーもこんな感じだったなあ。

なつかしい。
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# by mariastella | 2017-02-01 01:03 | フランス

音楽はテロよりも強し、なのに…

音楽によるレジスタンス、人間の尊厳の証のシリーズ です。

第3弾です。前のはここここなど。




ロンドンに亡命しているクルド人のグループNishtiman (故国という意味)だ。

クルド人の故郷はイラン、イラク、トルコ、シリアにまたがる他、レバノンやアルメニアへ流れた人も含めて3千万人近くもいる。
ISと最も勇敢に戦っていることでも知られているが、実はあらゆる国から利用されている感じだ。

オジャランのロジャヴァ革命の女性の自由と平等、信教の自由など、クルドの理念は中東の希望の灯のように思える。

2012年に結成されたグループは、トルコ、イラン、イラクからの亡命者だ。
シリアのクルドはすでにパスポートもなく国を出られない状態だった。

シリアの故郷をテーマにした曲もある。

イスラムとマイノリティのキリスト教だとかいう以前に、二千年以上前からあるゾロアスター教とかミトラ神の信仰も喚起される。
2015年にIS軍の侵入に40日持ちこたえたコバナの町をタイトルにした新曲は、ゾロアスターの火の守護の川の化身である女性の勇気を称えたものだという。

演奏者としてもすぐれている彼らの曲を聴いていると、ああ、今はもう彼らは、絶対にアメリカには入れてもらえないんだなあ、と思いをはせてしまう。

すばらしい音楽の演奏家たちも「アメリカ・ファースト」の壁に遮られるのだ。

剣にも砲弾にも屈しないアートがナショナリズムに屈せられるのだとしたら、深刻さは重大だ。
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# by mariastella | 2017-01-31 01:32 | 音楽

ウィリアムズ姉妹

先日ピアノの生徒の一人と話をした。どれだけ練習すればうまくなれるかという話だ。

彼女はクラシック・バレエもずっと続けている。
その弟はアイス・ホッケーの選手で、かなりの時間を練習と試合に割いているが、私とギターのレッスンも始めているのだ。スポーツ系の訓練と音楽の練習は両立するのか、という話にもなった。

ちょうど、テニスの全豪オープンの女子シングルスで、ビーナスとセリーナ・ウィリアムスの姉妹が制覇したニュースを聞いたばかりで、姉妹の父親が「白人を打ち負かせ」と言ってずっと訓練させていたという話を耳にした。

父親のリチャード・ウィリアムスは、1978年にテレビで偶然全仏オープン女子テニスを見た。ルーマニア人のバージニア・ルジッチがシングルスで優勝し、20万フランの小切手を手にしたのを見て自分も娘をテニスのチャンピォンにすると誓ったそうだ。
1965-73の最初の結婚ですでに3人息子3人娘がいたが、その後で生まれる娘に期待をかけることにする。
「エホバの証人」の信者である新しい妻との間で1980年と1981年に生まれたビーナスとセリーナを4歳でコーチにつけて、男子とだけ練習させて、「白人を打ち負かせ」と激励して週30時間の練習を課した。
テニス界は白人プレイヤーが主だった時代だ。
娘たちの母とは、彼女らが10歳くらいの時に離婚している。その後ビーナスより一つ年上だけの女性と三度目の結婚をしたという。
 
娘たちは14歳でプロになり、17、18歳で父の夢見た全仏オープンに出場してテニス界の常識を変えた。2002年の全仏オープンでは決勝戦を2人で戦い、優勝と準優勝を分け合った。「相手を叩きのめす」パワープレイで有名だそうだ。
以来、姉妹共に世界を制覇し、30代半ばの今年も、全豪オープンの決勝を姉妹で戦ったばかりなのだ。

セリーナは、スポーツも訓練も嫌いだ、と2012年の自伝で語っている。白人からの差別も受けてきたという。
昨年末白人男性とと婚約したばかりだ。

私の生徒が「週30時間練習したらチャンピォンになれるんだねえ」と言ったので、

いや、ひょっとしたら、子供を通して一攫千金をねらうそのような父親は他にもいるかもしれない。
でもまず、父の期待に応えようとして頑張っても、心身の強さがなければ、ドロップ・アウトする子供、故障する子供もたくさんいるだろう、
それに、たとえ、心身頑強で週30時間の練習に耐えても、チャンピオンになるとは限らない。
才能や運が足らずに芽を摘まれるのがほとんどだろう、と答えた。

まだ、音楽やダンスの夢を娘に託して練習を強要する親の方が、「敵を倒す」というレトリックを弄しないだけましかもしれない。
音楽やダンスはそれに対する情熱があるだろうが、リチャード・ウィリアムスは最初から「大金」にひきつけられて、「黒人女性のテニス・プレーヤー」という付加価値も巧みに心得たうえで、マネージメントしてきた。

リチャードは早く家を出て路上生活に近い暮らしもした人だそうで、姉妹もギャングの町で時として弾丸がとびかうコートで練習や試合を続けてきたという。

セリーナの生涯獲得賞金はすべての女子プロスポーツ選手を含めて史上1位で8000万ドルを超えるという。
父親はさぞや満足している…のだろうか。

姉妹は私の子供といっていい世代だ。

親の夢と子供の関係についても考えさせられる。

彼女らは、「成功者」なのかもしれないが、なんだか「犠牲者」にも見えてくる。
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# by mariastella | 2017-01-30 01:11 | 雑感

アサド大統領の不思議

先日、シリア大統領のバッシャール・アル=アサドについてのドキュメンタリー番組をTVで観た。

私はこのアサド大統領というほど、「自由世界」からの罵倒の言葉とその外見が違う人はいないなあ、といつも不思議に思っていた。

彼が眼科医で、ロンドン大学に留学している時に、兄の死で故国に呼び返されたという過去や、ロンドン生まれのキャリア・ウーマン(銀行の投資部門で働いていた)の美しく聡明そうな奥さんがいることは知っていたので、こんな女性に愛されているのだから悪い男ではないのでは? とも思っていたくらいだ。

迷彩服の兵士たちの間を回るときも真っ白なワイシャツに黒ズボンだったり、モスクで床で礼拝する時もスーツにネクタイ姿だ。

イラクのサダム・フセインだとか、リビアのカダフィだとか、チュニジアのベン=アリだとか、エジプトのムバラクは、いかにも「独裁者」っぽい強面の外見だが、アサドは、内向的で穏やかで、という評判が不思議ではないほど、背は高いが華奢な印象がある。顔もよくみると、かわいいかも。父親のハーフェズの画像検索をすると、独裁者だった父親もすらりと上品な感じだ。

見た目だけなら、どうみてもアサドは理性的な穏健派で、こぶしを振り回す独裁者タイプのトランプとは大違いだ。

そしてアサドは伝統的な「西洋エリートタイプ」の外見をよく心得ていて、それをフルに使っている。

シラク大統領は、フランスにとっての保護国同然のレバノンへの脅威を軽減するために何度もアサドに会っていた。
アサドが大統領に就任する前からだ。

バシャールは自分にとって息子のようなものだ、などと公言していたのだ。

それからいろいろあった。

アサドが、一度は父の時代からの政権の腐敗を一掃しようという改革の気配を見せたにかかわらず、結局父から譲り受けた絶対権力を決して手放さない、そのためには、一般人を含む弾圧(化学兵器も含む)も辞さない、という強硬策に出たのも事実だ。
中東が石油資源を含んで地政学的に複雑なところで、米露欧トルコ、イラン、サウジ、そして数々の軍産複合体の利害と思惑がこの国の「内戦」をこじらせた。

それでも、おなじみの「正義の味方」「国際社会」が干渉して、アサドを放逐してシリアを「民主化」するという方向は動かせないと思われた。

そこに現れた「僥倖」が、誰の目にも分かりやすい「極悪」であるにISだ。

そのうちにフランスについても書くつもりだが、ISの登場によって「救われた」勢力はたくさんある。

ともかく、ISも、最初は「国際社会」から祝福されたシリアの「反アサド軍」も、だんだんと、欧米の目から見ると、「イスラム過激派」に集約されはじめた。

アサドが内戦後初めて国を出た先はプーチンのロシアだ。
ロシアはアサド(とシリア内の自国の軍事基地)を助ける。

そこでまた、イスラムスカーフもかぶらないヨーロッパ人っぽい妻を連れて、スーツとネクタイのアサドが国際メディアに登場。

欧米のジャーナリストも積極的に招いて、インタビューを受け、イメージ戦略を繰り広げ始めた。
ISに破壊されたキリスト教会でキリスト教徒にも寄り添う。

1/26には、英外相のボリス・ジョンソンが、イギリスはアサドの退陣は求めずロシアと協力すると言った。

誰でも、ISの野蛮さやテロを見ると、「アサドの方がまし」だということに異論はない。

ISは、SNSによって、中東の若者やヨーロッパに住む若者を洗脳して、無差別テロを決行させる。

少なくともアサドなら、、シリア政府軍が国境を越えてヨーロッパを攻撃してくることはあり得ない。

けれども、国境を越えてヨーロッパになだれ込んだのは何百万人という「難民」だった。
中東の内戦だと思っていたものが、国境を超えたのだ。

大量の難民の流入という現実は、人権やヒューマニズムを掲げるヨーロッパの「文明国」にとって、ミサイル弾によるよりもずっと、ずっと深いところを狙い撃ちされるものになった。
欧米軍の空爆は、ヨーロッパ人の良心に向かってうち放たれる「大量の難民」というミサイルに対する迎撃ミサイルみたいなものかもしれない。
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# by mariastella | 2017-01-29 00:16 | 雑感

バロック・バレーやバロック音楽の場でも政治談議(追記あり)

日本とフランスの絶対的な違いを感じるのは、政治論議かもしれない。

バロック・バレーのクラスでフランス大統領選についてかなりの議論になった。
エリカは第一次投票でメランション(極左の位置づけ)に投票するが、決選投票でフィヨン(保守)とル・ペン(極右)になったら棄権する、と言う。
他にもメランション派がいるが、棄権には反対だ。

アメリカではメリル・ストリープがトランプを批判したスピーチが有名になったが、アートの世界はたいていインターナショナルで左派が多い。同性愛者も多いし、いわゆる「普通に結婚して子供がいて」という人は少ないから、5人の子持ちのフィヨンなどに親愛感を持つこともない。

しかし、過去に数年間メランションの「左派戦線」の手伝いをしていたというカメラマンの女性が、実はメランションはひどい、権力欲の塊だ、と、熱心に内輪話を暴露し始めた。

メランションの是非をめぐっていろんな意見が飛び交った。
国際情勢の把握についてはメランションが一番まともだという人は多い。

私は5年前にはなかなか説得力があると思ったことはあるけれど、なんだかアクの強さが鼻についてきて、信用できなくなっていた。

ル・ペンが政権につくことは間違ってもないだろう、しかし2002年のシラクとル・ペン(父)の決選投票のようにル・ペンの反対票が80%以上もシラクに集まって、シラクが「勘違い」したようなきっかけをフィヨンに与えたくないから棄権する、というのがエリカの意見だ。

フィヨンの妻の収入についての調査がはやばやと始まったらしい。
正直、清廉潔白を売り物にしているから打撃は大きそうだ。
もちろん反フィヨン派は大喜びで飛びついているが、やればやるほど、女性差別と妙な嫉妬の匂いも漂ってきた。

弁護士の資格を持ちながら、一度も働かずに5人の子の母、というイメージだったのが、数年間にわたってトータル5千万円以上(?)の収入があったというのが不当だという感覚があるらしい。

フィヨンは、妻が実際に仕事をしていて、収入も申告しているのでやましいところはない、と言い、上院議員だった時には特定の問題で弁護士である自分の息子2人に仕事としてアドヴァイスをもらい支払ったこともある、と付け加えた。このことが後から取りざたされたら困ると思ったのだろうか。
でも、そんなことを言われるとつい検索して、彼の議員時代は2005-2007、当時、息子のうち年長の2人は21-23歳くらいと分かり、学生のアルバイトじゃないか?とかえってうさん臭く感じる。(追記あり)

それに比べて、前にも書いたが、マリーヌ・ル・ペンの方は、何度連れ合いを変えても、子供がいても、女性差別的な批判は受けない。

と言ってももちろん父親との関係をはじめとして極右として突っ込みどころは多すぎてさんざんたたかれているので、一回りしてある種のクリーンさを獲得しているのは奇妙だ。

トランプがどんな暴言を吐いても、それが人柄の真摯さだとか正直さ、率直さだとかと支持者の目には映ったこととどこか似ている。

もっとも、ル・ペンは、トランプのように、演出なのか何か知らないが、「下品で頭が悪い」と揶揄されるような態度や言辞をふりまくのとは対極に冷静で堂々としている。

ル・ペンの怖さは、党首のマリーヌ・ル・ペンも、実質ナンバー2のフロリアン・フィリポも頭が切れるということかもしれない。

それをいうなら、どんな階級の人だって、フランス人には、馬鹿にはなり切れない「外面」がある。
開き直り、というのがわりと下手な人たちだ。
ポピュリストたちもそれをよく心得ているから、アメリカなどとは戦略も違ってくるのだろう。

これで4月あたりにあらたなテロがフランスで起こったら? 
ほんとうに排外主義が勢いをつけて何が起こるか分からない。

それにしても、「フィエの振付譜を見てペクールのブーレを踊る」場所の更衣室で「天下国家」が論じられるのは本当にフランス的だ。
日本のカルチャースクール、スポーツクラブ、各種のダンス教室などでは想像できない光景だと思う。

トリオの仲間とはなんでも掘り下げて語りあう。

カルテットの仲間とは、世相の話はしても政治の話は少ない。弾いている音楽に即癒されてしまうので、音楽賛美の言葉ばかり出てくる。

ペプッシュ(Pepusch)のトリオ・ソナタは美しすぎて泣けてくる。ブランデンブルグの第三楽章も弾いていて気持ちがいい。拍と強弱のバランスさえ注意して後はひたすら弾いているだけで、それなりの満足が得られる。本当はバイオリンもビオラも後もう一人とチェロも一人必要なのだけれど、とにかく音が途切れる部分がないので、バイオリンとビオラ2台だけで十分楽しめるのだ。

今日はラモーを3曲練習した。『ダルダニュス』のタンブラン。
こんなに軽やかだ単純そうに見えて、成功で知的な工芸品のような作りでしかもエレガントで独特の色や香りを持つ曲はラモー以外には絶対に書けない。

トリオのMは、大統領選は、原発即時廃炉だけを基準に投票すると言っている。
それもありかもしれない。
美しいものをいつまでも味わえて伝えていける社会が続くには、地球がバランスよく存続してくれないと困る。

(追記: トリオの練習の時に、フィヨンの子供への報酬についての検索結果を話したら、Mから、その日のル・モンド系のネット記事にもそれが取り上げられていたとリンクが来た。

私は息子2人と聞いたと思ったのだが、その記事によると、現在弁護士なのは長女と長男だそうで、もちろんふたりとも、フィヨンが議員だったころはまだ学生だったとある。それに対してフィヨンは、「今弁護士である子供たち」と言うつもりだったので、当時弁護士というのは言い間違いだった、と言っているそうだ。

妻については、議員アシスタントとして月7900ユーロ、その後、フィヨンが政権を去った後で20ヶ月間、ル・モンド誌から月5000ユーロ支払われたが、文学作品についての記事を2本出しただけ、だとかいうそうだ。
いずれも、フランスの公務員の平均サラリーの倍以上ということで、まあ、「裏切られた」という感じを持つ人がいるのは理解できる。中途半端な清廉潔白に向けられる目は厳しい。トランプの妻ならいくら稼ごうが使おうが文句を言われないだろうが。

でも、日本で言えば去年の舛添前都知事のスキャンダルもそうだったが、別に弱者を虐待したとかハラスメントだとか公金の明らかな横領というのでなければ、この主のトピックがあれよあれよという間に広まって攻撃材料となっていくのを見るのは気分が悪い。「罪なき者、石もて打て」っていう言葉が聞こえない人って多いのかなあ、と思う。)
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# by mariastella | 2017-01-28 03:53 | フランス

ポスト・トゥルースと宗教

ブレクジットとトランプ、英語圏のこの事件で急に脚光を浴びたのが「post-truth」という言葉だ。

ポスト真実とか訳されていて、要するに、一部の人や団体が自分への利益誘導するために都合のいい「真実」をでっちあげる、ような意味で使われている。

言い換えると、今はもう、あることが「真実」であるかどうかよりも、「真実」に見せかけることが重要であり、かつそれがメディア・バイアスやSNSのおかげで可能になる時代だということらしい。

思えばポスト・モダンだって、「モダン」、つまり近代において真実とされていた理念を相対化してたった一つの真実などないのだ、と言った面ではポスト・トゥルースだった。
そして、その後、ポスト・ポストモダンに振り戻ったのではなかっただろうか。
いや、振り戻ったというより、願わくば、螺旋状に回って回帰した?

人は「真実」を必要とする動物だから、相対化が進むと、「真実もどき」の産業によって分断されて食い尽くされる。

それよりはまだ、「老舗宗教」で宗教性を満足させておく方がリスクは少ないし、事実、戦後の日本人の多くは、「無宗教という名の宗教」で、「なんちゃって真実」を上手に使いまわしてきたともいえる。

でも、このポスト・トゥルースのトゥルースは、真実というより「事実」とか「現実」に近い。

宗教の文脈におけるトゥルースは、真実というより真理だろう。

イエスが「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8,32)

という時の真理は、まさに、ポスト・トゥルースなどで加工されるような現実や事実ではなくて、人間の手の届かないところにあるものだ。

私はこれまで、「何かが真実であるためには現実である必要はない」ということをいろいろなところで書いてきた。
その場合の真実とは、「真理に至る道」みたいなもので、それはたとえば、「事実」ではないとみなが認識しているフィクションを通しても表現できるものだ。

よくできた「映画」や「小説」を「体験」することで垣間見える「真実」があるのはみな知っている。

逆に、フィクションでなくてリアルであっても、簡単な手品の前でさえ「わー、すごい」と感心する自分の知覚など何の役にも立たない。

見かけの「不都合な事実」に対する人の態度にはいろいろある。

誰かが挙げていた次の四つの例。

車に乗って急いでいる時に運悪く赤信号に変わった場合。

 1. しょうがないから停止。
 2. ひょっとして青信号じゃないか?
3. 急いでいるんだから命がけでそのまま進む。
 4. 赤信号は他人への停止信号で私には進めという信号だ。

これを宗教風にアレンジすると、

「太陽は地球の周りをまわっている。見れば分かるだろう」

 1. その反対の可能性もあると思うけれど、実際回っているように見えるのだから、受け入れる。
 2.そんな説は間違っている。回っているのは地球。
 3. その説に反対してたとえ火炙りになっても地球は回る、と自説を曲げない。
 4. お説の通り、地球は太陽の周りをまわっている。(いつの間にかすり替わっている)

「われこそは神だ。帰依せよ」

 1, そう言われるのだから帰依する。
 2.そんな神は偽物に違いないから信じない。
 3. たとえ神罰があたっても「私の神」を信仰し続ける。
 4. 「神は私だって? その通り。」

余命宣告みたいなものを前にしたらどうだろう。

信じない、とか怒って抵抗するとか、の段階を経て最後は受容する、みたいなシェーマがよく紹介されているけれど、うーん、「死を信じない」というのもありそうだ。

「死じゃありません、死後の世界への再生です」「次の生まれ変わりの準備です」とか。

現実としての「死」がトゥルースとしたら、死後の世界ってまさにポスト・トゥルースかもしれない。

実は、キリスト教が宗教として成立した時の核には、この問題への回答があった。

それはよく言われているように、「キリストを信じたら永遠に生きるのです、主のもとに行けるのだから幸せです」みたいな単純なものではない。真理と現実をどう見るかという明確な提案がある。

仏教風の「この世は夢幻、執着を捨てて悟りの世界へ」とか、祖先信仰風の「死んだら先だった親や友達に会える楽しみがある」みたいなものとは違う。この説明を今書いているところだ。

「永遠に生きます」とか「復活します」とか「生まれ変われます」という言説だけではとても「受容」の境地に至れないタイプの私には、感情的にも合理的にも「おお、なかなかいいかも」という考え方だった。

結局、大切なのは死後でなくて、生きている間の「生き方」で、それを支えるのは何かということなのだ。
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# by mariastella | 2017-01-27 00:12 | 宗教

フランス大統領選 レバノンのマクロン

私の仲間たちは大統領選でマクロン支持に傾いている。

社会党の予備選を無視したマクロンがひそかにオランドの祝福を受けているというのは先日のレバノン行きで証明されたかのようだ。在レバノンフランス大使館に泊まって大統領にまで会っている。
経済には強いが外交政策は未知? と言われるマクロンの外交力を印象付ける感じだろう。

後は、やはり若さと、セクシーさが人々を引き付ける、といわれる。

マクロンは私には別に好みではないけれど、確かに、ヴァルス、アモン、メランション、フィヨン、ル・ペン、サンダース、クリントン、トランプ…と並べてみると、これらの人々はあまりセクシーな感じはない。
オバマにはそういうアピールがあったのかもしれないけれど。

ミーティングで新興宗教の教祖のように声を嗄らして張り上げていたのも、冷たさを払拭する真摯な感じだとか言われていた。

レバノンについての記事はフランス語を読める方はこのサイトをどうぞ。

このサイトは、「風たちぬ」というユニークなサイトで、注目できる。

フィヨンの方は、ウェールズ人の奥さんが、「専業主婦」として昨年10月にも「夫の政治に介入したことは一度もない」とコメントしていたのが、数年にわたって夫のアドバイザーとして給与が支払われていたということを、今日(1/25)の「カナール・アンシェネ」が書き立てている。

いつも夫のそばで協力していたという証言もあるし、相談にのったからと言って「介入する」とは言えない、とか、配偶者が秘書的役割を果たして給与をもらうのは右派左派を問わず一般的に行われている、とかいろいろ反論もあちこちでコメントされてきた。

フィヨンはもう早々と「飽きられてきた」のだろうか。

政党抜き(でも大統領に好かれている?)で突っ走るマクロンがやはり魅力的に見えるのだろうか?

今日は社会党予備戦の決選投票前の最後のディベートが公営放送で中継されるけれど、私はArteでウェス・アンダーソンの『ダージリン急行』(2007)を見るつもり。
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# by mariastella | 2017-01-26 00:28 | フランス

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その2)

(これは前の記事の続きです)

スコセッシはシチリアのイタリア系で司祭になりたくて神学校に通ったこともあるというほどのカトリック信者だ。

14歳で神学校に入ったが、若すぎる、規則を守らない、ということで1年後に退学させられた過去がある。

1988年の『最後の誘惑』を見たニューヨークの聖公会の大司教ポール・ムーアから原作を与えられて、「この話は真実の信仰についてのものだ、魅力的なテーマだから読んで考えてください」と言われたそうだ。
その後スコセッシは黒澤明の『夢』にゴッホ役で出演するために日本に行き、この本を持参したという。

『最後の誘惑』のスキャンダルはまだ記憶に新しかったから、スコセッシがロドリゴ役に声をかけた役者質の中には、スコセッシとならどんな映画でもやりたいがこれだけはだめだ、宗教ものは自分のスタイルではない、と断られたこともあったと言う。

『最後の誘惑』は、上映中止になった国もあったと覚えているけれど、フランスでは普通に上映されていた。私も観に行った。問題視されたイエスとマグダラのマリアのラブシーンみたいなのは「人間イエスの頭の中の誘惑」という試練の映像化という設定なのだから、別に何でもありだと思った。

その時に、実は多くの人にショックだったのは、ラブシーンではなくて、むしろそれまでの欧米系のイエスの伝記映画の十字架上の受難シーンで初めてイエスが全裸で磔になっていたからではないかと思ったことを覚えている。

といっても、中世の受難の絵には、全裸のイエスのものが普通にあった。
それをフランスで最初に観た時は私も驚いたけれど。
それまで知っていたのは、腰に布を巻いたものばかりだったからだ。

アダムとイヴは禁断の実を食べてから裸でいることを恥じるようになった。イエスは、原罪のない無垢の存在を十字架に捧げたのだから、全裸で問題はない。それに、多分史実的には、イエスでなくともこの種の十字架刑は全裸で執行されたと考えた方が自然だ。で、画像だけでなく全裸のイエスの十字架像は今も残っている。

それが宗教改革後のトリエンテの公会議で禁止された。

イエスは原罪がなくても、見ている信者たちは罪深いのだから誤解を招く、教育によくない、というわけで、教会にある全裸の十字架像は廃棄、もしも芸術的に価値ある作品ならば腰布を巻くようにと通達された。検閲みたいに黒い色を塗られただけのものもある。

絵で有名なのはシスティナ礼拝堂のミケランジェロの『最後の審判』の中央のキリストで、後に腰布が描き足された。

でも、十字架のキリストが全裸であるのが自然だという議論は何度も蒸し返された。

聖フランソワ・ド・サル(サレジオ)は、1614年3月28日の説教で、「われらの主はなぜ十字架上で裸でいることを望んだのか」と語っている。

プロテスタントの多くは、キリストの姿そのものを十字架から消して、シンボルだけを残した。
裸問題は解決する。

そんなわけだから、スコセッシが『最後の誘惑』で十字架のイエスを全裸にしたのは、いわゆる教義や神学には直接関係のない部分であり、伝統的な表現の一つでもあったのだから、そのシーンを見ても、そのことだけを批判することは誰にもできない。
でも、それについて何も言えない、というフラストレーションが、イエスの想像上のラブシーンへの怒りに向けられた。けれども、スキャンダルの火元は、実はラブシーンではなく、全裸の方だったのだ、というコメントを当時書いた。

それから時が経ち、メル・ギブソンの『パッション』だの、ダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』だの、いろんな「過激」な説や表現が世間に広がった。

『最後の誘惑』を見た聖公会の大司教が、スコセッシに『沈黙』を渡して、「真実の信仰についてのもの」だと言い、スコセッシが30年近くかけて完成した今回の映画は是非見てみたい。
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# by mariastella | 2017-01-25 00:27 | 映画

トランプ就任式の報道の差

前に就任式の中継を見て記事を書いた翌日、日本のメディアの報道を少し見た。

「反対派のデモの一部が暴徒化した」という感じの記事が割と目立ったのが気になる。

もちろんフランスの報道でも、襲われた銀行とか催涙弾とか、いろいろ報道されていたけれど、あれはフランス的に言っても、「デモの一部が暴徒化」したのではなく、最初から「暴徒」が侵入したのが明らかだった。
残念ながら、フランスでも、どんな種類のデモにだって必ず現れる「便乗型暴徒」である。

もちろんだから大したことではないというわけではないけれど、フランスの報道では、平和裏にデモをしていた反対派もトランプ信奉者も互いをリスペクトしあっていて、衝突、摩擦は起こらなかった、と強調していた。

第一、反対デモにやってくる人と、トランプ支持で地方から出てきた人たちというのは、互いに初めて見る異星人のようなもので、いがみ合うほどの接点がないというのだった。

そして反対派にとっても、伝統的に就任式の政権交代の成功は「アメリカン・デモクラシー」のピークだとみなされている上に、次の日に大規模デモを予定していたのだから、当日に秩序を乱すという発想はない。

しかしこういう便乗型暴徒が必ず繰り出してくる光景というのは、日本人には理解できないと思う。
日本人って行儀がよくて、「行儀の悪さ」への想像力がなかなか働かなくなっているのかもしれない。

もう一つ、不法移民を追い出すとかいうトランプのディスクールについて、フランスの解説者が、次のようにコメントしていた。

もともとアメリカとフランスでは、移民という言葉の含意が違うんですよ。

フランスでは移民は、労働力がほしい時(炭鉱労働者をアルジェリアから受け入れるなど)に旧植民地(つまりフランス語を解する人)から来てもらった人たちか、経済・政治難民など自国にいられなくなって着の身着のままやってくる人たちのようなイメージですが、

移民の国アメリカでは、移民とは「働く移民」です。努力して働かない移民は認めない、必死で働く移民だけが認められるというのがベースにあるんです。

という趣旨だった。 なるほどと思う。

この感覚はむしろ、フランスと日本の方が似ているかもしれない。

「移民ではない生粋の自国人」みたいなアイデンティティの幻想があって、

「困難を抱えるよその国からやってくる移民」をどこか見下しているのではないかと思う。

日本やフランスの極右の排外主義と、
アメリカがアメリカ・ファーストだとか言っている時の排外主義とは、
ポピュリズムの煽り方が微妙に違うのだろう。

さて、フランスでは社会党の予備選の決選投票が、ヴァルス対アモンに決まった。

ヴァルスが、

本選になったら第一次投票で敗退確実のアモンか
勝利の可能性がある自分か

という言い回しでアピールしていたのは情けない。
これでアモンが代表に選ばれれば、ヴァルスは「さあ、皆さん、アモンのもとに団結しましょう」なんてしらじらしく言えるのだろうか。

どちらが選ばれてもオランド大統領の積極的支持を受けられない可能性もある。
オランドはマクロンを支持したりして。

マクロンとヴァルスの政策は似ていて、民主進歩主義みたいな路線である。
社会党的な部分はソシエタルだけだ。

アモンの政策はメランションに近い。

今回アモンがヴァルスを抑えてトップだったのは、なんだか、アメリカ民主党の予備選で、サンダースを選ばずにクリントンを選んだことでと本選でトランプに敗れた教訓を生かそうとしているかのようだ。左派だから左派らしい政策を、ということで。

けれど、アメリカならサンダースが選ばれていれば本選は「トランプ対サンダース」だったろうだが、フランスではたとえアモンが選ばれても、本選で「アモン対フィヨン」になる可能性は限りなく少ない。左派にはマクロンもメランションもいるのだから。

水曜のディベートで「本選」を視野に入れた言葉がどのくらい出てくるのかが見ものである。
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# by mariastella | 2017-01-24 01:36 | フランス

マーティン・スコセッシの『沈黙』 をめぐって(その1)

マーティン・スコセッシの映画『沈黙』が日本で公開されはじめたようだ。

フランスでの公開は2月8日だ。知人が出演していることもあって楽しみ。
見てからまた感想を書くつもりだ。

日本の小説が原作で、アメリカの超大物監督による映画というのは多分めったにないだろうから一つの「事件」でもある。

でも、それに合わせて日本の「カトリック」関係者があらためてカトリックの立場から遠藤周作の原作やら評価やらについていろいろ語り始めたので「へえ、そうなんだ」と思った。

キリスト教の神でなくても、地震、津波、障碍者無差別殺人、テロなどのニュースが続く昨今、「神も仏もあるものか」、という悲痛な思いを抱く人たちは多いから、17世紀に拷問された切支丹たちや宣教師たちが「なぜ神に助けてもらえなかったんだ」、と思う人がいても不思議ではない。

その「迫害」の中で、最後まで信念を捨てずに「殉教」してめでたく神の国に行った(かもしれない)立派な人と、
一時の苦しみに耐えられずに棄教して罪悪感に打ちひしがれる人、
の二極化があるように思えることも不思議ではない。

日本のカトリック界では2月に戦国時代の殉教者と認められたキリシタン大名高山右近の列福式があるのでますます「信念を曲げずに大義のために死を受け入れた」人というのは盛り上がる。

もともと日本には「判官びいき」というか、栄光の時もあったのに悲惨な死を迎えた人に思い入れをする伝統もある。
実際、引き立てられていく切支丹たちの姿を「立派だ」と敬意の念を示した役人もいるという。

そういうベースでは、『沈黙』の宣教師は、他の切支丹(転んだ人も含んで)が苦しむのを見てあえて踏み絵を踏んで助かったのだから、日本的なヒーローにはなりにくい。

それを遠藤周作が宣教師が聞いたキリストの声によって正当化したのだから、微妙だ。

まあ、それによって、「踏むがいい」と言ったキリストこそ、日本的心性から見ても「真の自己犠牲のヒーロー」だと納得してもらえるようにできているとしたら、遠藤は立派なカトリック作家だ。

でも、

キリスト教は弱さを煽ったわけではない、とか、

正義や真理の理想を宣言して生命を投げ出した人こそ「神の子」である、とかいう人がいる。

棄教した信者や宣教師の弱さに注目して批判しているわけだ。

キリストなら自分自身が踏まれることを選んだろう、という遠藤の視点はスルーされている。

まあ、鞭うたれて十字架に釘付けにされてという屈辱的で悲惨な「受難」を受け入れたキリストだから、何が描かれていようと「踏み絵を踏む」程度のことで「正義や真理」をうんぬんするとは思えない、と遠藤が考えるのは、別に、日本的な甘えのキリスト教などと批判されるほどのことではないと思うけれど。

命をかけるほどの「正義」だの「真理」だのなんて、異教徒でなくとも、普通の人間の理解を到底超えているだろうし。

それだけではない。後世の歴史によって実は「誤り」だった、と裁かれた「正義」や「真理」や「絶対」などたくさんある。
その「誤り」を守るために人を殺したり、「誤り」に殉じて自分の命を差し出したりした人たちも当然たくさんいるわけだ。

国の大義や、神や主君への忠誠のために、あるいは保身のために、戦場に出向いて人を殺したり殺されたりした人のすべてが、「殉教者」や「英霊」とリスペクトしてもらえるわけではない。
拷問したり虐殺したりする側だって、ただの保身故だったかもしれないし、イデオロギーにとらわれると、人は人間性を失って自分も敵も「モノ化」してしまう。

(続く)
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# by mariastella | 2017-01-23 01:04 | 宗教

アマゾンのバロック音楽

先日パレスティナの女性によるコーラスに感動してリンクをはったので、次に、アマゾンのバロック音楽祭についてもリンクをはろうと思ったのだけれど、ぴったりのものがない。

とりあえずこの画像を見てください

たいしたインフラもないところで、インディオの少年少女、青年たちが教会で毎日数時間も楽器の練習をしている。3歳から参加する子供もいるという。

ボリビアのサンタ・クルス県のアマゾンの近く、すごく奥地みたいなチキスト地方に、17世紀末にスペインから来たイエズス会士たちが、チェンバロ、バイオリン、ビオラ、チェロを持ってきて、修理や制作のノウハウも伝え、ヨーロッパのバロック音楽の楽譜だけではなく、現地でインディオの作品も含めて12000曲を残したという。

このチキスト地方のイエズス会伝道所群というのは1990年に国連の世界遺産に指定され、1996年から2年ごとにルネサンス・バロック音楽祭が開催されている。

中南米のカトリック文化はバロック真っ最中で、建築、彫刻、絵画、装飾もみなすばらしい。プロテスタントの宗教改革があった後のカトリックが、それまで「神に捧げていたアート」を、人々への宣教のために信仰を可視化するアートに転換させたからだ。

イエズス会がやってきて布教というと、

「帝国主義、植民地主義による侵略に便乗、またはその手先」

などと言う人がいるが、例えばこのボリビアのイエズス会士たちは、ひたすら現地の人の福祉のために投資した。

それが植民地主義の搾取とほど遠いことは、このイエズス会士たちが、その後、この地域を自分の勢力下におこうとしたスペイン国王によって追放されたことからも明らかだ。

日本に来た宣教師たちも、音楽、演劇、印刷術などを伝えた。
日本の場合はすでにインフラが発達していて、建築技術も卓越していたから、ボリビアよりも音楽や演劇の割合が高かったかもしれない。
少年のみによる復活祭の野外劇やさまざまなショーの要素を含んだ行列が、「新しい文化」への好奇心を掻き立てた。出雲の阿国がイエズス会劇に遭遇した可能性も大いにある。

ルネサンス音楽やバロック音楽は、後の「西洋近代音楽」と違って、日本の伝統音楽や芸能と相性がいい。産業化以前のアートだからだ。

このことについて、サラバンドとメキシコの関係を前に書いたことがある。サイトのこの部分の 『サラバンドの起源』を見てほしい。

今の時代のイメージでは、素人がバイオリンやチェロでバロック音楽合奏するなんて、スノッブな印象か時代遅れな感じだけれど、バロック音楽はメキシコにもアマゾンにもよく似合うのだ。できればボリビアの子供たちにもバロック・バレーも伝わっていてほしかった。

子供に音楽を禁じるイスラム過激派のひどさをあらためて思う。
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# by mariastella | 2017-01-22 00:33 | 音楽

トランプ大統領の就任セレモニーを中継で見てしまったこと

アメリカの大統領の就任式やパレードの中継を始めてみた。
考えてみれば、日本と違って、フランスとワシントンは時差が6時間だから、夕方のちょうどいい時間帯にダイレクトにテレビを見ることができる。
昔はずっと中継を垂れ流しているニュース専門チャンネルはなかったし、今回はトランプ大統領の話題が派手だったのと、偶然知人から今やっているよ、と言われてなんとなく見てしまった。

前も思ったけれど、米仏二重国籍の学者、評論家、ジャーナリストもテレビに出ているから、コメントなども日本での解説と少し違う。

もちろん「フランスとの違い」もいろいろ言われる。

アメリカのこのパレードは、フランス大統領のシャンゼリゼのパレードとは違って、愛国主義と政治とカーニバルを一緒にしたようなのが伝統なのだ、とか、

アメリカ人はフランスと違って政府と国家を区別しないのだ、などと言う。

また、アメリカは広いし連邦制だから、大都市は別として、コミュニティが固定しているから、ヒラリーを支持するタイプの人たちがトランプを支持するタイプの人たちと顔を合わせないで何十年も生きていくことが普通にある、ともいっていた。

なるほど。

アメリカの独立を助けたフランス人のラファイエット広場やラファイエット像の美しさもちょっと誇らしそうに語られる。

確かにワシントンのこういう感じは日本とは接点がなさすぎる。

気温は7、8度だそうで、ジャーナリストはコートにマフラー姿だが、要人たちはみなスーツ姿で寒くないのかと思う。しかも小雨が降っている。トランプは前日に雨の予想を聞いて、「平気さ、これで私の髪が本物だって分かる」と言ったとか言わないとか。
オバマのヘリコプターが飛び立つときに前髪がなびいたとコメントされていた。
パレードの後半で雨が止んだ。

10年前にトランプが、自分が大統領選に立候補するなら共和党からだ、共和党支持者はバカだから私に投票するだろう、と言っていたという話も出た。

解説がなくても、フランスとはだいぶ違うのがよくわかる。

リンカーンの使っていた聖書と1955年に母親からもらったという聖書を重ねて手を置いた宣誓、最後に神の加護を願う文言、その後の諸宗教の代表からの祝辞、など、フランス視点ではとても政教分離とは思えない。

フランスの大統領は選ばれてから間もなくエリゼ宮に入ってあっさりと交代するけれど、アメリカでは選出されてから2ヶ月以上も準備期間がある。
オランドのパレードは大雨で、オープンカーでびしょ濡れだったけれど、トランプのリムジンは完全防備で外から見えないし、中には輸血用の血まで用意されているのだそうだ。

舞踏会があって、クリントンは14回、オバマは10回やったがトランプは3回だけだと言っていた。
これは何を意味しているんだろう。ブッシュの回数は言わなかったから民主党の方が多いということなのか? それともトランプのイメージ戦略の一つ?

就任演説が大統領選の時と変わらなかったことも繰り返しコメントされていた。
普通はいったん大統領になったら、前任者も称えて、対立する党の支持者にも手を差し伸べて団結を呼びかけるのに、そうしないで自分の立場に固執したというのだ。前任者を批判するような就任演説をしたのはルーズベルト以来だとも言う。これは一種の革命だ、と興奮するトランプ支持者もいた。

ある意味でアメリカのこの仰々しさは、合衆国だからかなあとも思う。大統領は封建領主の上に立つ王みたいなものだ。力を誇示する必要がある。

それに比べてフランスは、実は「中央集権の絶対王政」気質のまま来ている。それなのにフランス革命がアイデンティティで、宗教や聖なるものは介在させたくない、愛国主義より普遍主義、という建前があるからかえってシンプルだと言える。「大統領、即、王様」のコンセンサスが無意識にあるのだ。

考えてみたら、アメリカは大して変わっていない。
トランプとの比較でオバマがえらく立派な画期的な大統領だったように言われるけれど、私はなにしろ藤永茂さんの愛読者だから、オバマに幻想など露ほども抱いていなかった。

今回のトランプの就任式を前にしての公聴会に何度も「反共」かどうか確認されたりしているのを見ても、アメリカって冷戦から抜けていない。ロシアもそうで、冷戦後にイデオロギーの時代が終わったなんてとても思えない。

アメリカで二大政党が時々政権交代しようが、ソ連がロシアになろうが、基本は変わらず、それでも地政学的戦略がほとんど全部グローバル経済原理のみに立った戦略へとシフトしているので、その間に中国が帝国主義化し、EUが理念なしのテクノクラシーになった。

「まつりごと」としての政治も文化も霊性も凍結されて、経済に奉仕する国家の中途半端な科学主義、消費主義、テクノ資本主義はもはや「意味」を創出しない。

それなのにアメリカでは「民主主義」が、フランスでは「共和国主義」が、その「意味の不在」をメッキするだけの妙なものに変質している。

日曜はフランス社会党の大統領候補予備選の第一回投票だ。

分かっていたとはいえ、このアメリカのお祭り騒ぎのすぐ後で、なんだかすべてむなしく無気力に過ぎていくような気がする。
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# by mariastella | 2017-01-21 08:29 | 雑感

おかあさんたちの音楽 歌は剣よりも強し

2014年のガザ戦争は悲惨なものだった。多くの子供たちを含む2200人の死者が出た。

その時に暴力でなく対話で平和を訴えようというイスラエルとパレスティナ両陣営の「平和のための母たち」という運動が始まった。2016年10月にも彼女らから発した「平和の行進」というのが、死海の北に集まった4000人のユダヤとムスリムの女性たちのヘブライ語とアラブ語の祈りで締めくくられたそうだ。
今汚職疑惑で捜査されているというネタニヤフ首相の住居前でも15000人の女性が紛争解決を訴えたという。

その他に、同じく、ユダヤとアラブの女性たちが結成したコーラスグループの「母の祈り」などの音楽活動がある。

こういう活動は地味だけれど、あらゆる人間には必ず「母親」がいるのだから、潜在的受け皿はある。

パレスティナの平和を訴える音楽活動というと、ダニエル・バレンボイムが毎年パレスティナでユダヤ人とアラブ人の音楽家を集めて指揮するウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団のことを連想する。

でもこれらの希望を抱かせてくれる「いい話」も、現地の悲惨な報道やドキュメンタリーほどにはインパクトを与えてくれなかった。

でも、このコーラスグループ「ラナ」のビデオを試聴したら、本当にこれはおかあさんたちの戦いなんだなあと思った。

一度ぜひご覧ください。


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# by mariastella | 2017-01-20 00:13 | 音楽

慰安婦少女像の話

韓国の慰安婦少女像の設置について日韓合意を踏みにじると日本側が抗議していることについてどう思うかという質問をある知人から受けたところです。

日韓問題は多分普通の日本人と同じくらいにはウォッチングしていますが、とても一言では言えません。

ただ、いつも思うのは、日韓とか、慰安婦とかいうくくりにすると、人間のもっと根本的な自由とか尊厳が損なわれる問題が起きるように思います。

要するに、戦争においては、

男が兵士として「命を差し出す」ように求められているのだから、
女が「性を差し出す」のは当然。

という含意があるのだと思っています。

その両方に異を唱えない限りは根本的な解決はないと思っています。

命を差し出すように求められた兵士たちが「犠牲者」ではなくて「英雄」とみなされている限り、
性を差し出すよう求められた慰安婦も「犠牲者」とは本気では認められないのではないでしょうか。
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# by mariastella | 2017-01-19 02:07 | 雑感

マイク・ジャッジ『26世紀青年』とトランプ大統領

16日の夜、arteでとんでもない映画を見た。

21日のトランプ大統領就任がなければ絶対に企画されなかった放映だと思うし、私も見なかったと思う。時間が22h50から始まる深夜番組というのもかなり頷けるほど危うい映画だ。

『Idiocracy』邦題は『26世紀青年』。

2006年のアメリカでの上映はわずか130館ですぐに引っ込められたという。
フランスでも翌年Planet Stupid (バカの惑星?)というタイトルで公開されたが話題にならずに終わった(一部のマニアには支持され続けてカルトムービー化している)。

日本では劇場未公開でDVDのみだが、邦題を見ただけでも、多分アメリカやフランスでの一般の受け取られ方とニュアンスがだいぶ違って最初からマニアックな感じだ。

話はアメリカ陸軍の実験で一年の予定で冷却をされた兵士ジョーと娼婦リタが、エラーで放置され、500年後の2505年に目覚めるというもの。

冒頭で、アメリカではIQの高い夫婦は子供をつくらず、IQの平均より低い夫婦はどんどん子孫が増えていくという構図が紹介される。
IQの低い夫婦は粗野で下品で衝動的で、欲望のまま生きるという構図。

で、500年後には、アメリカはイディオクラシーつまり、デモクラシーではなく愚者支配の国になっている。

テレビの周りはCM専用スクリーンが取り囲んでいる。警察も裁判所も病院もあるがみな、言葉もろくに解せない人仕様にアイコンばかりでできている。腕には身元確認のタトゥが入れられている。大統領は元ポルノ映画のアクターの黒人で、閣議などもパロディのようだ。
環境保全の意識がないのでゴミの山が堆積し、都市に崩れ落ち、トイレの水洗以外に水はなく、あとはすべて緑色の健康ドリンクの独占となり、農業用にもそれを使うので、作物は育たず荒地が広がっている。
IQテストで「世界一IQの高い男」と認定されたジョーは大臣になるが、水を農地の灌漑に使って健康飲料の独占企業を敵に回したので捕らえられる。ローマの闘技場のように、スタジアムに引っ張り出されてショーのように殺されかけるのだが…云々。

「諷刺コメディ」なのだけれど、これでは上映する方も見る方も思わず「自主規制」したくなるような突っ込みどころが満載だ。

まず、愚者idiotをIQで図ること。

主人公の2人(21世紀では平均的IQ)以外のすべての人が、IQの低さを表現するように、視点の定まらない「知的障碍者」のような演技をしている。そしてその属性として、粗野で下品で本能のままに、というのがついてくるのだ。

これはひどい。
知的障碍者の家族や支援者が見たら驚倒するだろう。

しかも、オバマ大統領誕生の数年前の制作とはいえ、愚者クラシーの大統領が黒人という設定。

まあ、完全なジョークのB級映画扱いだったともいえる。
アメリカ以外の世界はいったいどうなっているのだろうというような視線はないし、リアルに考えたら破綻しまくる設定だから、まともに批判してみる方がおかしいというところだろう。

ところが今は、トランプ登場で、あれは「予言的作品だった」ということになっている。

すでに昨年3月の「スーパーチューズディ」でトランプが共和党予備選を制した時に、この映画のシナリオをマイク・ジャッジと書いたEtan Cohentが、この映画がドキュメンタリーになるだろうとは思っていなかった、と発言している。

しかし、言うまでもなく、トランプが「自分は教育のない民衆に支持された」などと言ったけれど、教育があるかないかはIQよりもはるかに社会的要因に左右されるだろう。

そして、トランプだろうがヒトラーだろうが、ムッソリーニだろうが、決してIQが低いとは思えない。
一代で独裁者になるような人はむしろ非常に頭の良い人であるはずだ。
頭がいい人の悪意の方がはるかに危険だ。

ポピュリズムの流れを作るのは、IQの低さなどではなく、エゴや支配欲や恐怖や社会不安が利用されているだけだ。他者排除と思考停止の誘惑はすべての人にある。

いろいろな気まずさを別にすれば映画としては、決して悪いできではない。

主演のジョーを演じるルーク・ウィルソンがほんとに「普通の平凡で善良なアメリカ人」という感じで、ヒスパニック系のリタも「普通の人の知恵や良識」を持っている感じが説得力がある。

つまり、エリートでなくともIQが高くなくとも、「平均的なアメリカ人」は根が善良で、困難にも立ち向かえ、どんな状況でも新たな道を開く勇気を持っている、というアメリカンな希望のメッセージはちゃんとある。

一見全く似ていないけれど、『ズートピア』みたいな発想はある。
動物の世界にしてしまえば違和感はなかったかもしれない。

だから、トランプ大統領の登場とこの映画を短絡に結びつけて、トランプやトランプの支持層を「教育のない愚者」と決めつけるのが生産的なこととはどうにも思えない。

好みでもない映画にもかかわらずこれだけいろいろ考えさせてくれたのだから、一見の価値はあったと思う。
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# by mariastella | 2017-01-18 00:10 | 映画

dマガジンと、遊川和彦さんのおかあさまの話

インターネットのdマガジンというので日本の雑誌を拾い読みしている。このおかげで、日本に帰った時ももうほとんど週刊誌などは買わない。

そして日本にいても今まで立ち読みすらしたことのないような雑誌まで時々読む。
たとえば「男性ファッション誌」のカテゴリーに入っているGQ JAPAN では鈴木正文さんのEDITOR’S LETTERを今は毎月読んでいる。

全体としては消費文化の爛熟、煽情、健康カルト風記事の蔓延にショックを受けるし、たまに、「欧米では何々…」「キリスト教は何々…」とかいう記事の中の明らかなエラーや偏見や混同を読むと驚いてクリップしておくが、いちいち訂正する暇もない。

いろいろな人のインタビュー記事などは楽しく読むが、昨日読んだ記事の中に素敵な言葉があった。
週刊現代(1/28日号)にあった遊川和彦さんという脚本家(私とほぼ同じ世代)の回想にあるおかあさまの言葉だ。
広島県で母子家庭を支えて苦労していたおかあさまに、東京の映像系の専門学校に行きたいから「学費だけ出してくれ、後はバイトして迷惑かけないから」と息子が頼んだ。

するとおかあさまは笑って了承し、

「私に与えられるのは自由だけだから、あなたの好きにしなさい」

と答えたという。

いいなあ。人間に自由意志を与えて見守った神さまみたいだ。

母子の絆、と言っても、一方が一方を縛る絆であってはいけない。
きっとこのお母様は自分の息子をよく見ていて、信頼が二人の絆だったのだろうなあ。

親の「束縛」から自分を解放して「自由」を奪って自立する人も多いだろうけれど、親に自覚的に「自由」を与えてもらって自立できる人は、「親を否定する」という「原罪」からも自由だ。

愛と祝福は似ている。
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# by mariastella | 2017-01-17 02:59 | 雑感

ヴァン・ゴッホの耳と宗教

先週の土曜日、Arteでゴッホの耳切り事件の秘密解明のようなドキュメンタリー番組を見た。

耳を剃刀で切り落とした事件は、実は切ったのは耳たぶだけだったというのが通説だったのだが、実際に治療した医師のデッサンが出てきて、ほぼ完全にそがれていたことが証明されたという話だ。

ゴッホが耳切り事件の後でアルルの住民80人の署名で危険人物だとされて精神病院に監禁されたが、実は30名で、ゴッホが入院して二日目にもう彼の家を別の人に賃貸契約してしまったのを、ゴッホも契約中だから抗議したので困った家主がバーに集まった人などに署名を頼んだものだったという話もある。事実は、癲癇の発作はあったものの、何ら「危険人物」ではなかったという。

それら20世紀を通じて語り継がれてきたいろいろなことが、アルルに30 年住むイギリス人女性が7年かけて調べ上げて真実に迫ったというドキュメンタリーなのだけれど、私の驚いたのは別のことだった。

私も、私の世代の日本人にはよくあると思うけれど、ごく子供のころからゴッホの絵と耳切り事件などの話に親しんできた。「ゴッホの手紙」も読んだし、ある意味「伝説の人」の一人だった。
私が小学六年生の時に読んだ画集と伝記は今でも手元にある。
ゴッホの過激さと悲劇と、孤独、貧困、そして迫力のある絵柄には強烈な印象を受けたのを覚えている。

で、改めて確認すると、確かに、正気を失って耳を切った、血まみれの耳をもって娼館に行き、娼婦に渡して気絶された、などとある。

でもこの番組で初めて知ったのは、27歳でハーグで知り合ったシーンという娼婦をモデルにしたという話の真相と、パリを発ってアルルに発った動機だった。

シーンは、子供を抱えて妊娠中の路上生活者でゴッホが連れて帰って1年半同棲し、生まれた子も入れて二人の子供もいっしょに、シーンに守られているという安心感で落ち着いた生活を送ったというのだ。

もうひとつ、パリよりも南フランスに行きたいと思っていたのは事実だったろうが、突然それが排他的な地方都市アルルに特定されたのにはわけがあるらしい。
出発のひと月前に、アルルで狂犬病に罹った犬に腕をかまれて一昼夜かけてアルルからパリのパスツール研究所に連れてこられた16歳の少女がいた。ラッシェルというこの少女はパスツール自らの治療を受けて一命をとりとめたが、かなりの傷跡が残ったという。
ゴッホはこの少女とパリで遭遇した。で、彼女にインスパイアされたか、彼女を追う形でアルルに行ったらしい。

当時のアルルでは、21歳の成年に達していれば売春は公認の職業だったが、16歳のラッシェルは娼家で下働きをしていた。
ゴッホは二週間に一度はこの娼家に客として通っていたが、その度にラッシェルにも会っていたのだろう。切り落とした耳をもってラッシェルを呼んでくれと頼み、「これをぼくの記念に」と渡して気絶されているが、単に正気を失って理解不可能の行動をしたというより、ラッシェルに特別な思いがあったという方が納得できる。

そう思ってみていくと、ゴッホがプロテスタントの牧師の息子で、自分も牧師になりたくて神学も学び、労働者の運動も支援し、画家になってもオランダでは不幸な人、貧しい人、虐げられる人のようないわば「社会派」の暗い絵ばかり描いていたことも、シーンへの寄り添いも、ラッシェルヘの思いも、いや、ゴーギャンを呼びよせたように、画家の共同体を作ってみんなの収入を分け合う「共産主義」を夢見たのも、すべてひとつながりのことであったように思う。

アルルで住んだ場所が、1840年代にできた鉄道で働く労働者の住む界隈でプロテスタントが多かったということも分かっている。
1952年に80歳で死んだというラッシェルの曽孫はまだアルル近くに住んでいるらしいが、ひよっとして彼女の家庭もプロテスタントだったのかもしれない。

狂犬に咬まれて死の危険があったのだから、病院付きのカトリック司祭が終油の秘跡のためにやってきて、彼女がプロテスタントだということでプロテスタント教会になんらかの問い合わせがあったのかもしれない。ゴッホはカルヴィニストだから、少女もひょっとしてカルヴァン派で、そのつながりでラッシェルと知り合ったということもあり得る。これは全くの想像に過ぎないけれど。

このドキュメンタリーではそういう面は注目されていないけれど、今思うと、たった37歳で自殺したこの画家の不幸や悲しみへの共感や「共同体」への熱い理想と信仰の関係が分かってきて痛ましい。
ゴーギャンがいさかいの後で出て行った時の怒りや絶望の深さもその理想の高さ故だったかもしれない。

ゴッホの画集をつくづくと眺め返しながら、いろいろなことを思う。
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# by mariastella | 2017-01-16 08:42 | アート

フランス社会党予備選

フランス社会党の予備選も、共和党にならってか、候補が7人で、うち女性が1人だけ。

10日間で3度も公開ディベートがあるあわただしさで、1度目が12日の夜にあったが、盛り上がりはなかった。

それと並行してマクロンやメランションがミーティングで盛り上がっていた。

社会党と離れて中道左派を行って大人気の若いマクロン。
彼の周りに集まる人々が本当に投票所に出かけるのかどうかは問題だ。

社会党との共闘にうんざりして「本当の左派」を行くメランションは5年前より人気がある。

左派はこの5年間の社会党政権にうんざりしている。社会党予備選に出ている7人のうち4人までがヴァルスを含めて現政権の大臣経験者だから、予備選で勝って正式な社会党の候補になったとしても、4月末の決選投票にまで進める確率は少ない。
今の社会党は、ENA出身のエリート中心のエスタブリッシュメントが采配を振るってきたから、「民衆」から見放されている。

ここで、メランションのような「真正左派」のような受け皿に、「民衆」が向かうのならいいけれど、それがないとマリーヌ・ル・ペンのような極右に向かう。
アメリカの民主党予備選でバーニー・サンダースに希望をつないでいた人たちの票が、サンダースが敗れてからトランプに流れたことの二の舞になってもおかしくない。
実際、メランションとル・ペンの政策は重なって、この両極の二人がアンチEUと言っていい。その意味で逆に、ル・ペンの票を回収するかもしれない。

けれど、アンチEUではない「慎重で常識的な」左派は、そうするとメランションに投票することは控えるだろう。
でも社会党にはノンを突き付けたい。
かといって共和党のフィヨンには原則として投票したくない。

そこで、マクロンの登場。
しかしマクロンもついこの前までオランド政権の経済相だった。
ネオ・リベラリズム財界との相性もいい。
社会党に愛想をつかした「民衆」がマクロンなんかに投票してもいいのだろうか。

しかし、民衆がうんざりしているのは共和党・社会党にかかわらずここ20年の政権の無能さだ。

民衆が期待しているのは「変革」。
ラディカルな変革は、近代革命の旗手だったフランスのお家芸でもある。

それなら、経歴にかかわらず、わずか38歳のマクロンは、大いに「新しく」見える。

フランス革命が始まった年、ダントンが30歳でロベスピエールは31歳だった。ナポレオンは35歳で皇帝になった。マクロンはそれを意識しているし、それが伝わっている。

社会党予備選の第一回目のディベートは、かれらの間で互いを批判しない、という申し合わせがあるようで、上品だけれど覇気のないものだった。
まあ、社会党の現政権が不人気だと分かっているのだから、下手に批判すると藪蛇でもある。

番組後の視聴者アンケートではヴァルス、モンブール、アモンの三人が有力とか。

この3人を見てフランスっぽいと思うのは、プライベートだ。

ヴァルスがスペイン生まれでフランスに帰化していて、連れ合いは有名なヴァイオリニストだ。

モントブールは女性にもてて、最初の妻が貴族。他に女優、ジャーナリスト、元大臣などの女性と関わっている。

アモンの連れ合いはデンマークとカタルーニャのハーフのエリートで、高級ブランド・グループLVMHで要職についている。

アメリカならヴァルスなど大統領選に出る資格もない。他の候補もいろいろ言われそうだ。

ヴァルスの攻撃的な雰囲気は今やサルコジを彷彿とさせるし、アモンは大統領という雰囲気ではない。

「見た目」だけで言うとヴァンサン・ペイヨンが一番「大学教授風」の品格で、こういう人が、軍事と外交と共和国の統合という本来の大統領ポストを守って、内政はもっと民主的なシステムにすればいいんじゃないかと思ってしまう。

ともかく「社会党」は、右をマクロンに左をメランションにはさまれて、今の政権政党だというのに、冷ややかに見られている。

本選でマクロンが選ばれればまさにマーケティングの勝利だなあと思う。
今の時代の「若さ至上主義」もベースにあるかもしれない。

ともかく、来週の今頃は、社会党予備選の決選投票に出る2人が決まっている。
その2人のディベートには少しまともに耳を傾けるつもりだ。
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# by mariastella | 2017-01-15 02:09 | フランス

分からない日本語など その4

(これは前の記事の続きです)

Exil(亡命)に引かれているのはフィンランド語Kaihoとウェールズ語hiraethとドイツ語heimweh。

フィンランド語は、行きつくことのない遠い場所を求める嘆き、孤独と激しい欲求と実現不可能の感覚。

ウェールズ語は、亡命の傷。二度と戻れない故郷へのノスタルジー(その故郷は実は訪れたことなどない場所かもしれない)。

ドイツ語は望郷。しかしこの他に対照的なFernwehという言葉があって、それは自分の地平をどんどん広げていくという意味で、これについての解説があった。

私は「Fukushima」など思い浮かべてしまった。

最後の La Fuite 「逃避」。

中央アメリカのスペイン語のAchaplinarseは逃げるかどうかためらった後、チャップリンのように慌てて逃げるという意味だそうだ。
ブラジルのポルトガル語のQuilomboは、逃亡奴隷が奥地で作った共同体のことで、その他にバスク語と日本語があって、この日本語がこの日本語にこの号の最後を飾る長い解説(毎日新聞のTakashi Ishizuka氏の記事)がついている。

この日本語も私は分からなかった。

ひら仮名で検索したら出てきた。

Tendenko 「てんでんこ」である。

津波が来たらてんでんばらばらに逃げろ、ということだ。
他人の指示を待ったり、他の人と一緒に行動しようとする傾向の強い日本人だからこそ、津波の被害を体験した地域ではこのサヴァイヴァルの言葉を言い伝えて来たという風に読み取れる。

フランス語にも同じ意味のsauve-qui-peutという逃げることのできるものはともかく逃げろ、という表現がある。
連帯とか協調とか言っていられないタイプの危機があるということであり、また、そういう風にとりあえず自分の安全のみ確保するという反射によって救われる危機があるということだ。

それにしても、この年末年始特別号のクーリエ・インターナショナルに取り上げられた日本語、

Nensu、
壁ドン、
心中、
鼻血、
おかま
鶏姦、
のぞき、
ちらりズム
うなじ、
腹芸、
阿吽、
過労死、
居眠り、
OGU、
ネトウヨ、
飲みニケーション、
てんでんこ、

って...。 

得意になってこれらの言葉を選んだジャーナリストの目に映っている日本ってどんな国だろう ?
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# by mariastella | 2017-01-14 01:56 | 雑感

分からない日本語など その3

(これは昨日の続きです。)

まず昨日の答え。

Corruption(腐敗、汚職)の項には日本語は引かれていません。 
ほっ。安心していいのか・・・・

Mots dangereux (危険な言葉)。

ペルシャ語とヒンディ語に堂々並んで引用されている日本語一つは、

Neto-uyo、ネトウヨでした。

これにはかなり突っ込んだ解説があって、東京新聞が「安倍首相が自分のFacebookにネトウヨのサイトの記事をシェアしたことがある(後に削除)」だとか、左派の時事解説者があってである北原みのりが安倍政権を「ネトウヨ内閣」と呼んだことがある、などと書いてある。

次のparadis(楽園、天国)では日本語は引かれていず、アラビア語が四つと英語一つだ。

英語はLubberlandで、怠け者専用の神話の楽園とある。知らなかった。

次のキイワードは IVRESSE(酩酊)だ。

ロシア語二つ、ドイツ語、デンマーク語一つずつ、ここでも日本語が一つ登場。
日本語の頻度が高い。

その日本語とは、

Nominication だって。

そこにもかなり長い解説があって、日経の統計では60%の日本人が、勤務後の飲み会に行く義務感を感じているとして、東洋経済のサイトのブログに「自腹を切る残業みたいなもの(パトロンが一緒の時は別)」、とあったと引用、日経からは、飲みニケーションについてのセクハラ注意の記事など紹介している。

他の国の言葉は泥酔、二日酔い、迎え酒に当たる言葉で、ロシア語のものにだけ、深刻な社会問題が提起されている。

次に、Bonheur(幸福)。

中国語はQING(遠い山の緑、または青)。ハンガリー語が「他者のつらさを見て得られる幸福)、ロシア語は「払うつもりでいたのに突然無償になる幸福」という意味の言葉。

ナバホ・インディアンの「生命、自然の美しさを見て喜びを得る生き方」、タイ語の「人生のすべてに喜びを求める」、スウェーデン語の「人生を深く愛しぎりぎりまでそれを生きようとする人」、ノルウェー語の「自然との完全な調和の状態」などと、なかなか哲学的なものもある。こにsekasekaという言葉があったので、また変なチョイスの日本語かと思ったら、コンゴやザンビアの言葉で、「理由なく笑う」という意味だった。 ほっとする。でも、幸福の項で取り上げられないのも寂しい。

次のHiver (冬)には圧倒的にロシア語が多い。エスキモーのイヌイット語もある。チョイスには地球温暖化のエコロジー的視点が感じられる。日本語はない。

最後は Exil(亡命)とLa Fuite(逃避)という難民問題を抱えたヨーロッパならではのキイワード。

さて、この二つに日本語は引かれているでしょうか? 引かれているとしたら、何でしょう?

(続く)
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# by mariastella | 2017-01-13 07:10 | 雑感

分からない日本語など その2

(これは昨日の続きです。)

まず昨日の答え。

Travail(仕事、労働)を表す「よその言葉」として引かれているのが英語ふたつと日本語ふたつ。

まず英語がto cram で、日本語がkaroshi だ。to cram は過労死の前の状態かも。

「働きすぎによる死、日本では法律で認められた言葉」、と解説にあった。
これは確かによく知られていてフランス語として通用している場合もあるくらいだ。

二つ目は英語がTo moonlightで、夜に二つ目の仕事をすること。非合法なものが多い、とある。

日本語はinemuri。

丁寧に解説されている。居眠りはほとんど国民的スポーツで、ケンブリッジの人類学者が電車の吊革につかまったまま寝るサラリーマンの存在を報告していると。
日本はOECDの中で韓国に次いで睡眠時間が少ない、公共の場のセキュリティがしっかりしているのが要因かもしれない、週刊文春は居眠りがマイクロ・シエスタの役割を果たして健康の役に立つと書いている、オムロンは議員が60%以上居眠りしたら自動的にSMSを送って起こすというアプリを開発した、などといろいろ。

Créativité(創造性)の項で引かれている日本語は ogu 。

私には意味が不明。

解説には「使用不能な実用品を発明する業。例えば、パスタを冷ますためにフォークにつける携帯用の扇風機」とある。何? (検索しても出てこない。どなたか教えてください)

さて次はCorruption(腐敗、汚職)。

メキシカンが圧倒的に多い。果たして日本語は引かれているでしょうか? いるとしたらなんだと思いますか?

次が Nouveaux riches(新興富裕層)。ニューリッチ。ここは中国語のオンパレード。「成金」という日本語はまっとうすぎるのか出てきません。

その次は Mots dangereux (危険な言葉)。

引かれているのはペルシャ語とヒンディ語に堂々並んで日本語一つ。何だと思いますか?

次がparadis(楽園、天国)。

日本語は引かれているでしょうか? いるとしたら何?

(続く)
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# by mariastella | 2017-01-12 03:19 | 雑感

分からない日本語など その1

日本でもクーリエ・ジャポンという関連誌があるフランスの『Courrier international』の1363号は12/15-1/4 でいわば年末年始の特別号だった。

「よその言葉」(他者の言葉)というテーマで、フランス語のいくつかのキーワードの外国語を紹介してフランスにはないコンセプトを開設するという比較文化的なものだ。

まあ、面白おかしくできているので、恣意的な選択であるのは当然なのだけれど、日本語が引かれている率がかなり多くて、しかもその中には私の分からない言葉がいくつもあった。

いくらサブカル的選択としてもなんだか抵抗のあるものもある。

最初の言葉がPouvoir(権力)。

これには日本語が紹介されていない。ジャワ語、中国語、ヘブライ語、ハンガリー、ウクライナ語などが挙がる。

次のVoyous(不良)は ロシア俗語、ブラジルのポルトガル語みっつ、ローマ俗語ふたつなど。

次がAmour(アムール、愛)。
ここにはメインページに日本語がふたつも。その後のサブページにはアラビア語が目立つ。たとえばAlkhoullaは愛と友情の混ざったもの、というようにさまざまなニュアンスだ。ここにも日本語がなんと7つも。

私が思いつくとしたら愛、恋、大切、いつくしみ、とかだけれど、ここに引かれているのは、

メインの2つが

nensu
kabédon

壁ドンは私にもわかった。解説には、男の子が女の子を壁に押し付けて右手を壁につけ、目を見つめる、とあり、日本では女の子はこれが大好きだとある。・・・・・・

nensu は胸を高鳴らせて同性の人にやさしく思いをはせる、とある。 ???

サブのリストに出てくる日本語は、
Shinju、
Hanaji (性的興奮。日本では鼻の大きさが男性器の大きさを表す、とある)、
Okama(通常受け身の男娼)、
Keikan(解説を読むまで何のことか分からなかった)、
Nozoki、
Chirarism、
Unaji

の七つ。

話を面白くするためだとしても「愛」で出てくる日本語がこれってあんまりじゃ…。
これを担当したのが日本にいるフランス人ジャーナリストだとしたら、サブカルオタクみたいな人で他の日本語ができるフランス人に対して自分のディープな知識を披露したいのだろうか。

その次がNON-DITS
つまり、言われないこと。(ディスクールの最中の「えー」とか「うー」とかいうためらいは、言葉と同じくらいに理解にとって不可欠なものである、とある)

ここには、ペルシャ語、韓国語が一つずつ、日本語は二つ。

Haragei(内臓的、間接的、非言語的コミュニケーション)
AH-UN(モノの最初と最後。とても親しい友人間の無言のコミュニケーション)

だって。

腹芸には「腹にいちもつある」みたいな言葉とリンクしている感がもっと強い気がする。
阿吽はいいとしても、どうせなら仏教的な意味も書いてほしい。

次の「怒り」には米語三つと英語一つ。

このチョイスを見ているとまあ、時事問題を解説したいという気持ちは分かる。

Redneck,  white trash,  hillbilly,  underdog

日本語はない。日本語のネット語の「死ね!」とかは出てこないようだ。

次はTravail(仕事、労働)。

ここには、ドイツ語、メキシカン、セネガル語とともに英語ふたつと日本語ふたつ。

何だと思いますか?  (続く)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         
次はCréativité(創造性)。英語、アラブ語、ドイツ語、メキシカン、ヒンディ語、ボーランド語、エスペラント語とにぎやかで、日本語も一つ入っています。何でしょう ? ちなみに私はこの日本語も解説もよく分からなかった。

(続く)
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# by mariastella | 2017-01-11 00:38 | 雑感

Jeenerの新作『Mahomet』その2

昨日は、このMahometについて、今のフランスの状況を分析して続きを書こうと思っていた。
2005年以来のテロ対策の方向性のエラー、アメリカや中近東と違うヨーロッパ向けのテロの方向性と戦略の誕生、イスラム・イデオロギーのフランスを的にしたロビーCCIFとそれがメディアと左派社会学者(エマニュエル・トッドら)に助長されてISのテロを巧妙に使い、問題を混乱させている状況を詳しく書こうと思ったのだ。
でも、それをしていると、一冊の本になってしまうことが分かった。

だから、この問題についてはいったん筆を置こうと思う。
今書いている本の中に組み入れるつもりだ。

で、Jeenerの『マホメット』だが、これは決してイスラムの否定ではないが、Jeenerのキリスト者としての信仰告白になっている。

すごく単純に言って、イスラムがキリスト者に改宗を迫るとき、「唯一の神」なのに三位一体とか言って分裂させるのがそもそもおかしい、多神教だ、偶像崇拝だ、というのがある。

この戯曲でも、マホメットとペトリュスが、一人の女性の運命をめぐって、命がけの神学論争をする。
「コーラン」対「福音書」だ。

コーランは絶対の神の言葉。しかし大天使ガブリエルから伝えられた。
これに対して福音書も聖書も、聖霊にインスパイアされたにしても、人間の書いたものだから「人間の弱さ」を抱え込んでいる。

ところが、キリスト教的の神学的には、神の言葉(=ロゴス)が受肉して送られたのがイエス・キリストなので、もうそれ以後には神の言葉も必要ないし、それを伝える天使やそれを聞く預言者も必要ない。
ガブリエルが最後に現れたのは、マリアに受胎告知した時で、イエスが言葉を話せるようになってからは、イエス自身が「神の言葉」を体現していた。

だから、またガブリエルがやってきて神の言葉をマホメットに伝えたというのは受け入れられない。

その内容には関わりなく。

というのが、ペトリュスの立場だから、改宗を迫るマホメットと折り合うはずがない。

しかし、ペトリュスと妻の絆、神の前で結ばれた、という貞節の意志と、コーランで一般に定められたよりも多くの妻を娶る特権を行使するマホメットの女性観は当然対立する。

マホメットが25歳の時に40歳の未亡人と結婚し(3人の息子は夭折、4人の娘が残る)、その妻の死後9人の妻を娶ったことなども言及される。

この上演では、マホメットが若くて魅力的で、自身に満ち溢れ、自分の絶対的優位と正しさを信じ切って落ち着いているのに対して、ペトリュス役は妻もともに、きわめて「人間的」だ。
だから、マホメットの前で、妥協したふりしようとしたり、それが通じないと、怒りをぶちまけたり、支離滅裂な行動もとる。

けれども最終的には、

「あやまちある人を私たちがゆるすように私たちのあやまちをゆるしてください。」

という主の祈りを2人で唱えて去っていき、結局彼らの頑固な人間性を前にして、彼らを解放してしまったマホメットは、たった一人残って、

「神よ、私の弱さをおゆるしください」

と祈って芝居が終わる。

私たちはこの芝居を観て、Jeenerがなぜキリスト者であるのかを理解する。

ペトリュスは改宗を拒否したが殉教者にはならなかった。
妻を殺すと脅されても改宗はしない。

この2人を見ていると、日本のキリシタン迫害で、改宗せずに殉教した人々の気持ちがなんとなく分かる。

今までは、「踏み絵くらい踏めばいいのに。役人にいたずらに人殺しの罪を負わせることもないのに」と少し思っていたのだけれど。

そして、キリスト者としてのJeenerのことがよりよく分かるとともに、いろいろなことがはっきり見えてきた。

この戯曲で描かれているのは宗教の戦いや神学の戦いなどではなく、人間が信仰をどのように人間的に生きるかという話なのだ。

宗教は信仰の社会的表現であるが、信仰はイコール宗教ではない。

これからはこのことを分かりやすく書いていくつもりだ。
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# by mariastella | 2017-01-10 07:05 | 演劇

Mahomet

先日、Jean-Luc Jeener の新作戯曲『Mahomet』に行ってきた。

彼の劇場の今年最初のテーマは「宗教とライシテ」で、今とてもデリケートなテーマだ。

その上に新作が『Mahomet』なんて。

切符を買う人のほとんどが「モアメッド」と言っていた。
イスラムの預言者の名は、フランスではモアメッドで、ムスリムの名としてなじみがあるからだ(アラビア語の母音部分は国によっていろいろ変わる)。

これを「マオメ」と書いて読むと、そこいらにいるモアメッド君じゃないよ、最終預言者のマホメット(ムハンマド)だよ、という感じがする。

これが、大劇場だったら、私は怖くていけないだろう。すでにいろいろ話題になって警戒されているだろう。

舞台は前半が預言者とキリスト教徒のペトリュスの対話だ。
ペトルスはキリスト教のコミュニティの指導者的役割を担っている。
戦争に負けて連れ去られた妻を取り戻しに来る。
預言者は、イスラムに改宗するなら二人を生きたまま解放しようという。

真っ暗な舞台(と言っても観客席と同じ床だ)に明かりがつくと、金襴の布がかけられた椅子に預言者が座っている。

ちょっとどきどきする。

確か、預言者の顔を描くのも冒瀆で、演じるのもまずいのではなかったか ?

そう思う自分に驚く。

完全に、ここ10年来のイスラムへの警戒心が刷り込まれている。
舞台のマホメットを演じる俳優は若い。
イエス・キリストと同じ30代に見える。髭の具合もイエスっぽい。目はとても青い。

ペトリュスの方は年配でシーザーみたいな雰囲気だ。

マホメットの語ることばは慎重にコーランから引用されているらしいことが分かる。

それでも緊張を強いられる。

Jean-Luc Jeenerは 2005年くらいに、「宗教と正義」のテーマで、ヴォルテールの『Mahomet』を同じ場所で上演した。

その時と今では、イスラム過激派をめぐる情勢がかなり変わっている。

ヴォルテールの『マオメ、または狂信』と言えば、イスラムの野蛮さをテーマにした悲劇(兄と妹がそうとは知らずに愛し合う)で、コメディ・フランセーズで1742年に初演されたものだ。

ヴォルテールは「狂信者マホメットは残酷で嘘つきで人間の恥で、商人の若造が預言者、立法者、君主になった」などという言葉を手紙の中に残しているからほんとうにイスラム嫌いだったらしいが、この戯曲は実はカトリック教会を攻撃していたのだという説もある。それをごまかすためにヴォルテールはわざわざこの戯曲を当時のローマ教皇ベネディクト14世に贈呈したというのだ。

その後ヴォルテールはだんだんとイスラム好きになって、1770年には、イスラムはヨーロッパの誰よりもましなことを考えていると称賛したらしい。

そういう検証は、フランス語のイスラム系サイトにいくらでも載っている。
啓蒙思想のヒーローであるヴォルテールをイスラムの味方につけるのは大きな意味があるらしい。
その辺がフランスっぽい。

このヴォルテールの戯曲をドイツ語に翻訳したのがゲーテだ。
ゲーテはそのことをナポレオンに出会ったときに話題にした。
ナポレオンは、「私はあの芝居が嫌いだ。カリカチュアだ。」と答えたという。

ゲーテは「彼はそれを意に反して書いたのです。狂信を長々と攻撃したこの悲劇はイスラムではなくキリスト教会を攻撃しているのです」と言い、ナポレオンは「それがあまりにも隠されているのでローマ教皇に贈られて祝福されたのだ」と答えた。

真相はよく分からないけれど、確かなのはこの芝居が興行的に失敗だったこと、そして、ヴォルテールもゲーテも、宗教原理主義、宗教の過激派、人々を解放する代わりに縛り付ける宗教全般を憎んでいたということだろう。

(ナポレオンと宗教についてもっと知りたい方は『ナポレオンと神』をお読みください。)

Jean-Luc Jeener が2005年にこれを上演したのも、別にイスラムの批判ではなく、この芝居に出てくる狂信的言辞、全体主義的言辞に対する告発だった。

けれども、それを2017年に上演することは不可能だ。
で、自ら、同じタイトルで新作を書き下ろした。

先日は彼とゆっくり話すことができなかった。しかし彼の言いたかったことは分かる。
でもどうして敢えてマホメットなのか、それは、シャルリー・エブドの記念号を読めば分かってくる。
シャルリー・エブド襲撃事件なしにこの新作は存在しなかった、と、私は思う。(続く)
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# by mariastella | 2017-01-09 00:49 | 演劇



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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