L'art de croire             竹下節子ブログ

童話における男の子と女の子

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レミとミーファの冒険
のラストシーンです。

このDVDはまだ仲間のフランス人にしか見せていないのですが、そのうち2人が運悪く?フェミニストの活動家(一人はLGBTの活動家でもあります)で、彼女らから、男の子と女の子を主人公にすること自体に疑問を呈されました。

森に入っていくのに女の子だけがスカートだとか、カゴを持っているとか、行き先を指さして先導するのが男の子だとはいかがなものか、と。

私はそうは思いません。

まあ、この2人は日本語が分からないので、イラストだけを見てストーリーを追うのでそういうことが気になるというのは分かります。

でもナレーションでは、最初と最後にレミとミーファと出てきますが、後はずっと「子供たち」であり、男の子と女の子の区別をまったくしていません。

レミとミーファはもちろん音名のドレミファ由来ですが、日本ならレミだって女の子名でもあるし、それ自体は性別が曖昧です。もちろんフランス語ならレミは男の子だし、レとミは一音差だけどミとファは半音で軟弱だと文句をつけられそうです。

でも私の反論はこうです。

まず、大人たちからの余計な刷り込みさえなければ、子供たちは絵本を読むときに、自分の性別による感情移入をしません。
「星の王子さま」に「星の王女さま」が出てこないからと言って疎外感など感じません。アンパンマンがアンパンウーマンでなくとも平気です。三匹の子豚だって、人間でなくとも、また自分が末っ子とかでなくとも、子供というのは、一番気に入ったキャラに自分を投影します。

だから、女の子が、ミーファを見て、ああ、自分はカゴを持ってレミに従わなきゃいけない立場なのだなあなどと卑屈になるなんてことはまずないと思います。
こんなストーリーで、2人が同じ格好をして全く同じことをするという必要はないと思います。

それだけではなく、1人がイニシアティヴをとって前に進み、1人がちょっとおずおずして後ろからついていくように見える図柄があっても私はいいと思うのです。

それは男の子と女の子の役割の刷り込みなどではなく、どんな子供の中にもある二面性の表現だと思うのです。陰陽の原理や太極図と同じで、別にわざわざ全体をグレーにまとめなくても、黒白でひとつを提示するのは悪いことだとは思えないのです。

「先に進む男の子がリーダーで後に付き従う女の子は従属している」

とも言われましたが、私はそれも文化的な刷り込みがあるかもしれない、といい返しました。

戦争などで突撃隊とか、やくざの鉄砲玉とか、危険なところに真っ先にやられる捨て駒がいて、あるいは露払いがいて、リーダーは背後でゆっくり構えてリスクをおかさない、というシーンだっていくらでもあるわけですから。

しかし、今はなかなか難しい時代だなあと思いました。

同時に、今でも、子供時代に「女の子だから」とか「男の子でないから」とか「男の子に負けないように」とか、いろいろ親に言われてきたことで抑圧されてきたという意識を持つ女性がたくさんいることを、フェミニストのブログなどで読むたびに衝撃を受けます。

そのたぐいの言葉は、私自身は、少なくとも家庭内では一度たりとも耳にしたことがなかったので、そんなことをいう親がいることすら信じられませんでした。

危機管理や行政文書は別として、性別がアイデンティティの一部であったことはないのです。

この音楽ストーリー構成は「ピーターと狼」にヒントを得ましたが、ピーターが男の子だからといって「男の子向けの話」ではありません。

男の子と女の子が出てくるこれまでのよくある童話はたいてい批判されます。
難しいところです。

それに反論すると、「あなたは特別だから(分からないのです)」と返されてしまいます。でも、

「女の子も受動的ではなく能動的でなくてはいけない、決断して前に進まねばならない、それをさせないのが文化的刷り込みだ」

と言われても、だれでも、時と場合によっては受動的でいたい場合もあるだろうし、いろいろな能力の多寡によって、前に進めないこともあるだろうし、決断したくないことだってある、と思ってしまうのです。

誰かが前に進みたいし前に進む能力もあるのに社会や他者からの圧力で自由を遮られるような状況は打破されるべきですが、勇気や覇気が他の徳よりも特別上位にあるものだとも思えないのです。

先週の仲間うちでの議論がなんとなく心の中で尾を引いていて、その時は完全には言語化できなかったので、ここに覚書にしてみました。
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# by mariastella | 2016-12-29 02:41 | 雑感

「ハドソン川の奇跡」クリント・イーストウッド

少し前に観た映画。

その前に見た『インフェルノ』に続いてトム・ハンクスが主演だった。

ここの映画でも、ヒーローなのに、悪夢から覚める最初のシーンから、トラウマを背負って情けない感じで、インフェルノの冒頭が幻覚から覚めるのとかぶって、なんだか、トム・ハンクスって哀れをそそるなあと思ってしまった。

しかし、短いスパンの出来事をうまくフラッシュバックさせてよくできている。
乗客の扱いはミニマムで、母子と親切な隣席の人、ぎりぎりで乗り込めた父子など、少ないのに効果的に配されている。
結末を知っているのにどきどきする。

でも水温が2度で、体感温度は零下20度のNYなんて、私ならあの状況で、低体温で死ぬんじゃないかと思う。まあみなストレスでアドレナリン全開だからもったのかもしれないが。

鳥に突っ込まれてエンジン停止、左旋回して見えたハドソン川への不時着水を試みる機長。

「ラガーディアに行くにはマンハッタンを横断しなければいけない。そこは人口密集エリアだ。もし地上に被害を及ぼすことになったら…」。と、リスクを見積もったと報告書にあるそうだ。

いやでも、沖縄のオスプレイの「不時着水」を思い出す。
あちらは翼も折れて明らかに墜落だと言われているけれど、ニコルソン調整官という人が、住民に被害がなかったのだから感謝しろと言ったとか言わないとか批判されていた。

実際の会見では「私たちは副知事と話し、遺憾だと伝えた。この事故は遺憾なものである。しかし、私たちは沖縄の人々を危険から救おうとした若いパイロットの偉大なる行動については、全く遺憾だとは思わない。」と、言ったそうだ。

オスプレイのパイロットは負傷して入院した。
ハドソン川の「サリー」は無傷だった。

「ハドソン川の奇跡」の事件は、アメリカではものすごいインパクトのあるものだった。
日本でも、「アメリカ通」の人事関係者は、それ以来、「望むべき人材のプロフィール」として「ハドソン川」を引き合いにするそうだ。

確かに、9・11で飛行機に突っ込まれるテロを経験したニューヨーカーのトラウマは半端なものではなかったろう、と今更ながらに思う。

その上に2008年の金融危機の直後の2009年1月だったから、事故で「犠牲者ゼロ」という結果は人々の心をどんなに癒したことだろう。

でも、如何せん、ニューヨーカー、アメリカ人という「当事者」でない場合、メディアは、「心温まる話」や「勇気を与えてくれる話」などよりも、これでもかこれでもかと世界の悲惨を語ったり、来るべき不安を煽ったりすることの方がはるかに多い。
「世界の終り」の方が「売れる」のだろうし、人々が無意識に「怖いもの」に惹きつけられるのかもしれない。悪い予想が外れても誰も文句を言わないけれど、いい予想が外れると責任をとれと言われるかもしれない。

だからフランスにいると、「ハドソン川の奇跡」は普通の「ちょっとしたいいニュース」くらいですぐ忘れられるものだったけれど、アメリカにとっては救世主のような事件だったのだろう。
だから沖縄のオスプレイを「不時着水」とした強弁の裏にも本物の思い入れがあり、「沖縄の市民を救ったヒーロー」という発想は、「植民地に対する傲慢な態度」というより実感だったのかもしれない。

事故の場合のチェックリストは3ページもあって、アナログで、実用的ではない。
飛行歴42年の機長は豊富な経験をもとに、ほとんど直感で行動した。

ほんとうにこの機長はアメリカン・ヒーローの要素をそなえている。

「勇気と忠誠心と善良さ」。

こういうシーンだとフランスの「自由・平等・博愛」のスローガンなど唱えても何の役にも立たないだろう。

実際のサリー機長の写真を見ると、トム・ハンクスよりずっとかっこいい人だった。

自分も航空安全委員会の公聴会の調査側に立った経験があったので、エンジンが止まった時、

「これから自分の言う言葉も行動もすべてが今後10年先まで厳しくチェックされるだろう」

と瞬時に意識したそうだ。

けれどもそれが判断を惑わせることにはならなかったという。
人間の脳って、いざとなればコンピューターよりも早く複数のことを同時に高速で考える。

今読んでいる『あなたの人生の科学』ディヴィッド・ブルックス(ハヤカワ文庫NF)に、人間の脳は同時に1100
万個もの情報を扱えるが、意識しているのはせいぜい40個くらいだという説が紹介されていた。全ての情報処理は無意識によって行われていると。
(この頃自分でもそれを実感するようになった。いろいろなものをインプットして寝かせておくと、ざわざわと何か動いて、すっきり言語化されて出てくることがある)

それにしても、2009年初めのNY、テロと金融危機でニューヨーカーが「恐れと不信」の中にいた時期だからこそ、サリーはヒーローになった。
「奇跡」だけでは必ずしもヒーローは生まれない。
乗客を救うというより、自分の生存本能をプロとしての判断力に投入した。
生きるために全員を救った。

フランス国内でドイツ系の航空機の副機長が心中のようにわざと墜落させた事件とつい比べてしまう。
フランスではこちらの方が当然記憶に残って、定期的に飛行機を使う身としてはトラウマになりそうな事件だった。

それと比べたらえらい違いで、プロフェッショナルが危機を前にして平常心を失わず最適の判断を下す、ということのありがたさと難しさをあらためて感じる。
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# by mariastella | 2016-12-28 01:30 | 映画

田村洋さんのoriental dance のことなど

2014年の日本のコンサートで初演したバロック音楽童話『レミとミーファの冒険』は当初思ってもみなかった展開をしました。

バロック・オペラ仕立てのコンサート用の曲を、養護施設の子供たちのために作った物語に合わせて配したものですが、これに2人の方からの提案がありました。

調布美術研究所の師井栄治さんがイラストとナレーションをつけたデジタル童話をつくることを提案してくださり、そのために去年私たちもスタジオ録音して、このほどようやく完成しました。
来年に入ったらいろいろな形で配信できるようにします。

もう一人は、山陽小野田市芸術顧問の田村洋さんで、同じものを宇部市のコンサートで小中学生向けのコンサート仕立てにした時に聴きに来てくださいました。

夕方のバロック・オペラ仕立てのものは時間の都合で無理で午後のものにいらしたということでしたが、私たちの正五度ギターのバロック曲の演奏を的確にキャッチしてくださって、楽屋に訪ねてきて、私たちのために曲を作りますとおっしゃっていました。

先週、トリオで今年の練習おさめをしていた時、日本に一時帰国していた友人が楽譜をもってきてくれたので、さっそく弾いてみました。
すごく現代的な曲だったらどうしようかと心配だったのですが、弾いてみた「oriental dance 」の1番(tree of a dreamという副題がついています)と3番は、夢幻的でもあり祭礼的でもあり、別世界へのいざない、という雰囲気がフランス・バロック的で、私たちの新しいレパートリー(ラモー8曲)と全く違和感がありません。

全く面識のない同士が、宇部市の「ヒストリア宇部」でたった小一時間を共有しただけで、生の音による「出会い」があり、それが新しいものを生み出していくというのは驚きで、不思議で、わくわくします。

人生にはサプライズがいっぱいだなあと実感します。

来年の秋にはそれをまたいろいろな人と分け合いたいと楽しみにしています。
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# by mariastella | 2016-12-27 06:46 | 音楽

猫カレンダーのコラージュ

前回 アップしたカレンダーの図柄コラージュを気にいってくれた方がいたので、同じく猫カレンダーからのコラージュを披露します。2008年のカレンダーでした。これはもっと手抜きで20分もかかっていません。丁寧に切っていたらもっとマシかも。実はもっと丁寧なコラージュもよくやっていて、そういうのはテーマごとにいろんな人にプレゼントしていました。今なら、差し上げる前に写真にとってデジタル保存していたのになあと少し残念です。
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# by mariastella | 2016-12-26 00:42 |

メリークリスマス!

この2つのコラージュは、10年くらい前にもらったイタリア製の聖母子カレンダーの画像で、1年が終わった後で、画像を切り取って2つ作ったものです。両方で30分くらいで雑に作ったものですが、並べて飾ってみたらなかなか素敵なので、みんなに褒められます。私が作ったと言ったらなんだかがっかりされるのはどうして....

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# by mariastella | 2016-12-25 07:59 | 宗教

羊飼いの礼拝

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数年前、ドレスデンのクリスマスマーケットで買ったクリスマスの馬小屋。羊飼いたちが幼子イエスのもとに来ます。名もない庶民の代表です。
羊飼いの礼拝と言えばこの絵を思い出します。

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こんなふうに手を伸ばすのはどう見ても3ヵ月以降の赤ちゃんなので、生まれたてとは言えませんが、こんなに子羊との距離が近くて、後ろから羊飼いがリスクを回避するために羊を抑えている仕草が、赤ちゃんが触ろうとする猫を抑えるのと似ていて微笑ましいなぁといつも思ってしまいます。
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# by mariastella | 2016-12-24 00:13 | アート

バッハとラモー

クリスマス休暇で授業やレッスンがなくなったメンバーと、来年のコンサートに向けた新しいラモーの8曲を3日ほど集中練習した。

もちろんギタリスティックなものばかりを選んでいるのだけれど、ほんとうに、ギターの音で別世界が広がる。

それにしても、私たちはラモーのどんな小曲(すべてオペラの間奏曲とダンス曲)でも、研究し尽くし、議論し尽くし、試行錯誤を続けるのだけれど、その度に発見、驚き、感動がある。

時間に裂け目ができ、空間があらゆる方向に押し広げられる感じがする。

同時に、どうして世間の多くの人が、ラモーの曲を敬遠したり軽く見たりするのかという理由が分かってくる。
ずばり、ラモーのオペラを上演するオーケストラは、時間をかけないからだ。
リハーサル一回にかかるコストの問題だ。
ほとんどのオーケストラが、すごく少ないリハーサルで本番にかかる。

ラモーの世界は強靭で複雑な精神世界なので、弾く側も一定以上の「知性」を駆使しなくてはならない。
ラモーの秘密の一定線を越えなければ、時間の裂け目や空間の変化を感知できない。

前にも一度、ラモーにあってバッハにないものは「間」だと書いた。

バッハの曲を例えばチェンバロで弾くとすると、速いパッセージがたくさんあるし、構成も複雑で、何しろあらゆるところにびっしり音符がつまっていて、密度が異常に高いので、かなりの練習が必要だ。
けれどもいったん、指のメカニズムが動き出すと、後は楽譜がものを言ってくれる。
饒舌だ。
例えていえばフィレンツェの大聖堂のそばにあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂の天井を埋めるモザイク画だとか、「スペイン人礼拝堂」の、壁も天井も柱もびっしり埋め尽くしたフレスコ画を連想する。

そう、バッハの音楽は、「祈り」なのだ。神の造った宇宙をくまなく讃えようとする信仰の情念が沸き立ってすべてを埋め尽くす、という感じ。バッハは信仰者だった。それは間違いない。

それに対して、ラモーの音楽は、「頭脳」でできている。
無神論者の音楽だという人もいる。
無神論者というよりソリプシストかもしれない。
(ソリプシストについては前に延々と書いたことがある。)

ラモーの音楽には「間」がある。

その「間」が、「間」ではない部分に意味を持たせる。

ラモーの膨大なハーモニー諭や数学体系の中には無限の要素があって、彼は神のように、好きなようにそこからいろいろ取り出しながら、組み合わせ、クリエーションを行う。

予測はできない。無からの恣意的な創造だから。

しかもそのベースには上機嫌がある。

『創世記』の神が天や地や鳥や獣や魚など創造するたびに、その後で

「神はこれを見て、良しとされた。」

と書かれているように、ラモーも、

「うんうん、さすがにぼくのクリエーションってなかなかいいよね」

と満足しているような、そんな感じだ。

粘土でいろいろなものを作っていく子供のように無邪気で明るい。

けれど、そのベースには、絶対の自信とノウハウと全能感がある。

「祈り」とは言えない。

ラモーを弾くには、そのクリエーションに参加しなくてはならない。
「協働」というやつだ。だから、彼の創造の秘密を徹底的に探らなければならない。

ラモーの「間」を理解して迫ると、クリエーションが理解できる。
ラモーを弾くのは祈りというより、恵みだ。

ラモー研究者といっしょに何十年も弾きながら、いつも、褪せることのない驚嘆を分かち合える私は本当に恵まれている。
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# by mariastella | 2016-12-23 03:52 | 音楽

ベルリンのテロと「民主主義」

これを書いている時点で、今度は24歳のチュニジア人が先日のテロの容疑者として捜索されているようだ。

メルケル首相は、こんな時でも、「戦争だ」とか言わないで、

「民主主義の根幹はオープンであること」にあるから、移民へのオープンドア政策そのものは見直すつもりがない、

という姿勢を(今のところ)貫いている。

この「民主主義」(彼女の政党もこの言葉を冠している)という言葉は、ドイツにとって大切なお題目なのだなあというのが実感される。

前に、アメリカのお題目の価値観は勇気と忠誠と親切心だと書いた。

この「親切心」が、勇気と結びついて識別を誤ると、よその国に出向いて行って、独裁者に支配されている民衆を救わなければ、などという政策に向かう。「小さな親切、大きなお世話」と言われるように「親切心」は上から目線になることが多く、時と場合によってはろくなことにならない。
でも、敗戦後の日本も、いろいろな部分で、末端のアメリカ人の「親切心」に助けてもらったという事例はたくさんある。

フランスのお題目はもちろん「自由・平等・博愛」で、これが「福音書的」と言われるものなのだが、ちゃんと憲法にも書かれている。

本来この「自由・平等・博愛」を突き進めると、日本国憲法九条と同じで、「絶対平和主義」しか行きつくところはない。

けれどもそれは無理なので、言っていることとやっていることがだいぶ違う。

それでも、どんなに揶揄されてもその「理念」だけは上書きしない。
それはそれで、大切なことだ。

で、ドイツの第一のお題目はどうも「民主主義」らしい。

第二次大戦のナチス全体主義への反省、反動から、「民主主義」絶対になった。

日本でも、国家神道と軍部独裁の敗北によって、「民主主義」が理想のお題目になった。
でもドイツと違って、ただのお題目で、それを支えるいろいろな方法の試行錯誤は見えない。

一方、イギリスやフランスなどでは、「民主主義」は今の時点で最も害のない政治体系に過ぎないと認識されているだけで、自負はあってもモットーにはならない。

フランスでも、ヴィシー政権の時代にモットーが「労働、祖国、家庭」になったように、「祖国」なんていうのを「国」が提唱するのはろくなことにならない。

けれども今のフランスでも軍隊の標語は「名誉、祖国」だ。
戦争をするときに「自由・平等・博愛」などと言っていられない。

逆に、国が主導して「祖国」や「愛国」を唱える時には、自由も平等も博愛も絶対に実現しない。

今のドイツの公式の標語は「統一、権利、自由」(Einigkeit und Recht und Freiheit) だけれど、これは敗戦後の東西の分断と全体主義化した社会主義のトラウマから来たものだろう。

ナチスの犠牲者の記念碑には

「平和と自由と民主主義のために。二度とファシズムを許さない」

と刻まれる。

テロに襲われた時、

フランスの大統領がそれをフランスの自由に対する宣戦布告だ、戦争だ、

というのと、

メルケル首相が、民主主義の価値観(オープンドアを含む)は揺るがない、

というのではニュアンスも違うし、拠って立つところも微妙に違う。。

そういえばメルケル首相は、トランプ次期大統領にも、

ほら、私たちは民主主義の価値観を共有している国同士ですよね、

という感じで牽制していた。

トランプは暴言にはオープンだけれど、オープンドア政策とは対極だ。

ベルリンのテロで、メルケルの民主主義を支える「開放」の精神は、否定されるのだろうか。

それともまだ、多くのドイツ人が「オープンドアの民主主義」をメルケルと共有しているのだろうか。

選挙は10ヶ月後である。
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# by mariastella | 2016-12-22 02:29 | 雑感

アレッポの司教の証言の続きとベルリンのテロ

(これは前の記事の続きです)

アレッポの司教の言葉

「2011年に内戦が始まったときもアレッポの住民は自分たちには関係がないと思っていました。それが1年後に波及してきても、まだ政府軍が止めてくれると思っていました。

工場やアトリエの大部分が閉鎖され、失業が増え、給料もダウンしました。一日数時間しか電気が使えず、発電機につなぐのは大金がかかり、占領されてからは70日間も断水しました。

マロン典礼教会のカテドラルと教区教会の二つは中央地区の戦場にあって損傷が激しいのでミサは司教館のチャペルで行っています。2012年以来、信徒の三分の二が逃げていきました。その多くはもう帰ってくることがないでしょう。

私たちが逃げないのは、カトリック教会にはオリエントとオクシデントという両肺が必要だからです。
10人でも残れば教会全部を鼓動させることができます。

2015年にこのアレッポの司教に叙任された時、どうして私がこの十字架を、と思いました。
でもそれはこの町の信徒たちへのメッセージだと思って引き受けました。
内戦開始以来なかった祭礼をスカウトたちといっしょに行い、ムスリムの友人たちも祝福して
くれました。
信徒たちに食事を配り、手当てをし、家賃も助け、彼らが留まるようにできることは何でもしています。
でも、彼らから自分たちの息子は爆死しないかと聞かれると、自分の無力さを痛感します。

私は離れません。羊飼いは羊を見捨てません。もう金もないし、5分後に生きているかどうかも分かりません。私にとっては天に近づける機会です。殉教者は地を見ず、天を見上げています。」

うーん…。

ブッシュのイラク侵攻の時に処刑前のサダム・フセインを尋問したCIAのジョン・ニクソンの本の中で、

アメリカのイラク情報は何から何まで間違っていた、

9・11はサウジアラビア、エジプトなどが関係していてフセインはアルカイダとも関係がなかった、

サダム・フセインは問題はあったがあれほどの人物であったからこそ、部族が林立するあの国を安定して統治できていたのだ、

アメリカはサダム・フセイン軍の兵士たちを登用するべきだった(追われた彼らがISの中核になった)

などとあるのを見ると、あらためて、これまで中東で起こったことの意味を考えさせられる。

19日にはベルリンのクリスマス・マーケットでテロがあった。

テロリストは、なぜか、難民排斥、差別主義、イスラム嫌いの極右政治家などをターゲットにしない。
普通の市民に無差別攻撃をしている。その中にはムスリムももちろんいる。

9・11の以前から、中東を中心に、毎年多くのテロの犠牲者が出ていた。
今でも、テロの犠牲者の90%はムスリムで、テロ多発国は、パキスタン、アフガニスタン、イラクだ。

ドイツはメルケル首相が、移民100万人OKで統合できるなどと言っていたけれど、領邦国統一の遅かったドイツにはいわゆる「旧植民地国からの移民の統合政策」という実績はない。
100万人OKと言ったときには、サウジアラビアが、ではドイツにモスクを200作る金を出しましょう、などと申し出ていた。フランスには絶対に言わないようなことだ。

ドイツは今年6度目のテロだけれど、そしてCDUも今まだ犯人が捕まっていない時点で移民政策を一から見直せ、とメルケルに迫っているそうだけれど、それでも、なんとなく、フランスほどにはショックを受けていない気もする。ショックの受け方が違うと言った方がいいかもしれない。

それはオランド大統領が「戦争だ」と言ったけれどメルケル首相は一度も「戦争」という言葉を口にしていないことの差だ、と誰かが言っていた。
テレビで、1980年7月のミュンヘンのビール祭りでの爆破テロのことまで持ち出して、テロの後も彼らは祭りを中止せずに続けていた、と言うのだ。

今年のシャンゼリゼのクリスマス・マーケットは夏のニースの事件があったから、トラックが突っ込まないことをように様々なブロックがなされている。ベルリンにはなかった。

結局、いつも思うけれど、災害対策と通じるところがある。

いつどのように起こるか予測できないこと、
だからと言っていつも戦々兢々として生活するわけにはいかないこと、
でも過去の被害に学んで対策を立てたり予防したりするべきであること、などだ。

災害対策と違うのは、ヨーロッパの国が、一方で、中東内戦の種をまき、武器を提供し、難民を作り出し、人道支援をし、難民救助をしながら、復讐されるリスクも高め、自国の中からもテロリストやテロリスト予備軍が生まれるのを放置するなど、力と金と石油と覇権主義のせいでその場しのぎの失敗を重ね、ことをさらに複雑にしているところだ。

ベルリンのテロが起こったらアレッポの難民などテレビの画面から消えてしまった。
フランスの大統領選も、セキュリティや難民対策に論点がシフトしていくのだろうか。
要観察。
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# by mariastella | 2016-12-21 09:00 | 雑感

仏大統領予備選 社会党の場合

フランス社会党(緑の党も含む)の大統領予備選の第一回投票は来年の1/22だ。
立候補しているのは共和党と同じく7人で、うち女性も共和党と同じく1人だけ。

普通でいうと、首相を辞任して立候補したマニュエル・ヴァルスが「優勢」というか、現政府の後継として社会党を代表する候補者になってもいいのだけれど、なぜか、メディアは、そういう予想をしない。

共和党の予備選で長い間、口をそろえてジュッペとサルコジの対決と言っていたのが見事に外れたので、もうそういう予想を口にしないという自制が働いているらしい。

分裂していると批判される社会党をまとめるために、みなしきりに、自分はrassemblerする候補だとかとかrassemblementの候補だとか強調している。

「結集する」とか「団結する」という意味だ。

いったん大統領になったら左右の溝を超えてフランス人すべてをまとめあげるというのが大統領制の建前だけれど、予備選までひと月、本選挙まであと4ヶ月だというのに、社会党をまとめあげることすら難しい。

7人の候補者がみなこの言葉を使っているのも滑稽だ(ジュッペもフィヨンももちろん使っていた)。

この言葉の「一致団結」というニュアンスは、自然に統合に向かうという意味ではなく、誰かが主体的に呼びかけて、そこに皆が集まる、という含意があるから、いわば団長のもとに団結するということになる。

だから、7人の候補者がみなこの言葉を使うと、団長7人でむしろ立派な分裂だなあという感じだ。

アメリカではトランプがヘイトスピーチを罪に問わない方向に向かうようだ。

そんな中で、カズヌーヴ新首相がカトリック左派の雑誌でとても重要なことを口にしていた。
フランスの理念は「福音的」だというのだ。

「キリスト教的」というのと「福音的」というのは似て非なるものだ。
私が今書いている本はそのことに光を当てている。
いったん行き先が見えてくると、同じ途上にいる人たちの姿が見えてくる。
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# by mariastella | 2016-12-20 04:40 | フランス

アレッポのカトリック司教の証言

アレッポの惨状を見るのはつらい。

反政府軍に300人ばかりのイスラム過激派がいようとも、ためらいなく病院を空爆していくような政府軍(ロシアやイランも加わっている)のやり方は正当化できない。

シリアではこの5年で30万人の戦死者、うち9万人が子供も含む非戦闘員という犠牲者を出し、故郷を捨てた難民は何百万人に上る。

クリスマス気分になれない。

そんな時、アレッポのマロン典礼カトリック教会の司教の証言記事を目にした。 

1971年生まれ、40代なのに髪が真っ白で、それでもにこやかな笑顔が印象的だ。

2015年4月26日、アレッポの聖エリアスカテドラルの屋根が2発の爆弾によって破壊された。

アレップ生まれで25歳に司祭叙階されたヨゼフ・トブジ司教はその年のクリスマスに司教として着座した。

シリア内戦とキリスト教の関係は複雑だ。

これまでもこんな記事、

こんな記事

こんな記事

こんな記事を書いてきた。

イスラムがマジョリティだが「国教」を定めないシリアは、キリスト教コミュニティも守ってきた。
キリスト教会がアサドの共犯者だと言われるのもそのためだ。

実際、今回アレッポが政府軍の手に渡ったことを、「キリスト教徒の解放」などと形容する人すらある。

イラクのサダム・フセインが政教分離でキリスト教徒もリスペクトしていたのが、英米軍の侵攻によって体制が崩壊した途端に、イスラム過激派やISに占領されてキリスト教徒が激減したのと基本的には似ている。

まずはトブジ司教の話を聞いてみよう。(La Vie No.3720より)

----戦争は死です。私たちはこの死を生きています。アレッポの住民は毎日、自分は爆弾に当たるか銃弾に当たるか、死ぬのか生きるのかと不安を抱いています。安全な場所はどこにもなく、家の中にいても、窓から砲弾が飛び込んで家族全員が死ぬこともあるし、建物が崩壊して下敷きになることもあります。

(このインタビューは今回の政府軍侵攻以前のもので、東側が反政府軍やイスラミストの統治下にあり、西側が政府軍で、キリスト教徒の大部分は西側にいた。)

数か月前私の住居の前で砲弾が炸裂し、私は3日間、地下室で寝ました。洗礼式の12倍の数の葬儀を司式します。私の眼前で死んだ人も3人います。

私はアレッポで生まれ、毎日曜日、教会の鐘の音と共に父に起こされ、用意されていた朝食を食べて5人の兄弟姉妹と共に車でミサに向かいました。イエスは友のような存在になりました。
ボーイスカウトに14歳まで、その後キリスト教学生グループに入りました。

19歳の時、助祭だった兄と一緒に教会にいる時に、30秒間、心臓が高鳴り、大きな愛を感じました。
半年間迷いましたが、ある司祭から「跳べ、後は主が答えてくれる」と言われて、跳びました。

当時のアレッポの生活はスペインのリズムでした。
遅く起きて遅く寝る。
シリア第一の産業都市で、世界中に輸出している企業がいくつもありました。
職を求める人々がシリア中からやってきました。-----

うーん、こう聞くと、あらためて、いろいろなことを考えさせられる。

私も「観光都市」だったアレッポを間接的に知っている。有名な「石鹸」にもお世話になった。

この司教の話をここまで聞く限りでは、フランスに住むフランス人の司祭のライフ・ストーリーと変わらない。

「独裁者」が君臨する軍事政権で虐げられていた人、という部分はひとつもない。

けれども、藤永茂さんのブログを読むまでもなく、中東情勢におけるアメリカやトルコの思惑も見え見えだ。

その中で、ロマン典礼のカトリック教会って、どういう立場で何を考えているのだろう。
そして、つい数年前まで、少なくとも司教にとっては「平和に繫栄」していたはずの町が、このように完膚なきまでに崩壊させられてしまうなど、なんという悪夢だろう。

こんなことが実際に起きたのだから、世界の他の地域の「平和で繁栄」している都市が実はどういう地雷を抱えているのか、どういう欺瞞の上に見かけの繁栄がなりたっているのか、などと考えると、おそろしくなる。

2011年に反政府軍の台頭が始まりアサド政権が過酷な弾圧に踏み切ったときも、アレッポの住民には、まだ、それが遠い場所の出来事のように映っていた。(続く)
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# by mariastella | 2016-12-19 04:23 | 宗教

ある新司祭と話してから考えたこと その5

フランスのエリート新司祭のことから日本の湯浅誠さんのことを連想していた頃、「N女」=「非営利セクター(NPO)で働く女子」という言葉をネットで見かけた。

「有力企業に就職する実力がありながら、雇用条件が厳しいと言われるNPO業界を就職先に選ぶ女性」のことだそうだ。

エリート女性の方が、弱者支援の活動に向かうハードルが男性のそれよりも低い?

夫が生活費を稼いで妻がボランティア活動に熱心になる、というような構図はよくありそうだ。

その他に、高学歴・高職歴を持ちながら、条件の悪い社会福祉型NPO法人に転職する女性もいる。
地位や名誉や金よりも生きがい、やりがい、使命感などを選ぶことは「贅沢」の一種なのだろうか。
男性にかかる「妻子を養わなくてはならない」というプレッシャーがない分「自由」なのだろうか。

日本のカトリックの女子修道会で、観想型ではなく社会活動型の修道会には、教師、看護師や社会福祉士などとして働くシスターがたくさんいる。

姉妹で同じ修道会にいるシスターから、「シスターになりたい」という召命よりまず自然に「福祉の仕事をしたい」という召命があったと聞いたことがある。

クリスチャンの家庭に生まれたわけではない。

いわゆる「天職」であり、そういう時に、社会活動型修道会に所属することを選択すれば、一生自分たちの衣食住には悩まないで済むのだから、心置きなく「天職」を全うするのに最高の環境かもしれない。
子や孫や家族関係にも悩まされなくて済む。

みなさん、高齢になっても生き生きと現役で活躍している。

男性が男子修道会に入って同じことをするのはいろいろな意味でハードルが高い。
男性の場合は平修道士でいるか神父になるか、などの内部のヒエラルキーも複雑だ。

昔の家父長的日本的感覚なら

「いつかはお嫁に行って家から出る娘」を神に捧げるのと、

「嫁をもらって子孫に家督家名を継がせるはずの息子」を神に奪われてしまう、

のでは家族の反応も違うだろう。

だから、フランスの高スペック新司祭のような人が生まれる土壌はないし、党派とも宗派とも関係なく暮らしながらコストパフォーマンスの悪い(というか別のロジックで動く)社会活動にフルに人生をかけるような男性は例外となる。

湯浅誠さんはお子さんはいらっしゃらないが、おうちではどうも2匹の猫に「仕えている」ようで、ほほえましくて親近感を覚える。
上から目線でなく下からお世話させていただく、それが何よりの喜びとなるというのが「可能」だというのは、「猫飼い」が日々実感できることだからだ。
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# by mariastella | 2016-12-18 01:18 | 雑感

ある新司祭と話してから考えたこと その4

これは前の記事の続きです。

私の質問にいろいろ答えてくれたフランス人のエリート新司祭のように、社会的にも姿かたちも高スペックなのに、あえて「勝ち組」の道に進まず、弱者支援にやさしく情熱を燃やす若者のことを考えていたら、日本の湯浅誠さんのことを思い出した。

湯浅さんは路上生活者が生活保護を受けて住まいを見つけることができるように保証人になるシステムを作ることからスタートした社会福祉問題のリーダーのような人だ。
今は大学の福祉科でも教えているが、女子学生にすごい人気だというのも納得できる素敵な人で話し方も魅力的だ。

彼について、「視点は低く優しく、だが、理論的である。宗教的いかがわしさとも左翼思想の押し付けがましさとも無縁であることの新鮮さと安心感が、人びとの耳目を彼に向けさせる。」という評を目にした。

なるほど。日本で宗教者が弱者支援をしたら、「いかがわしい」と思われるのか。

確かに、キリスト教福音派などもハイチの地震などの災害地に入り込んで援助と布教をセットにしていた。

カトリックはさすがにそんなことはしないし、ましてフランスのカトリックは、そもそも「公共の福祉」などという概念のない時代に社会福祉活動を始めたグループだから、その活動に専念したいと思う人にぴったりかもしれない。
伝統があり、ノウハウがあり、インフラもネットワークも充実しているから。

同じくネットで検索したら出てきた湯浅誠さんの対談記事で、プロテスタントの佐藤優さんが弱者を助けるのは人としての当たり前のことだと言ったことについてそれがキリスト教と関係があるのかもしれないと湯浅さんが述べていた。

その流れで、対談相手の香山リカさんが、

「でも、弱者を救う理由を、『神が見ているから』とか、『最後に審判が下るから』と説明するのは、キリスト教の内部でしか通用しないロジックですよね。」

などと言っている。

これって、キリスト教でなくとも、

「お天道様が見ている」
「ご先祖様が見ている」
「来生は畜生に生まれ変わる」
「地獄に堕ちる」

などという「教育的ロジック」なんていくらでもあるわけで、そういうレベルの「善行を施す」という促しは幸いなことにかなり普遍的だと思う。

それよりも、キリスト教の根幹には、救われるためにはあらゆる弱者に寄り添うことが大切だというだけではなく、その弱者の中にイエス・キリストを見る、という姿勢がある。

旧約の神がそれまで「預言者」を送ったり、預言者に直接語りかけたりしていたのが、突然、その「ことば」を受肉させて、か弱い赤ん坊の姿になった。人間の親に庇護されてやっと成長したその「神の子」は、スーパーヒーローになる代わりに、あっさり殺されてしまった。

弱肉強食の論理どころか、強者と弱者が覆って逆説をなしている。

「貧しきものは幸いなり」というだけではなく、

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(2コリント8,9)」

というのがキリスト教のキリスト(救世主)なのだ。

ともかくこういうベース、つまり上からの慈悲でなく最も低いところにへりくだって弱者に仕えるという前提のある社会でエリートが宗教者になって弱者救済に向かうことは、ある意味、伝統の一環をなしている。

キリスト教社会主義の伝統もある。

そうではない日本で、宗教家や左翼活動家の弱者救済がいかがわしい、押しつけがましいと取られるのだとしたら、エリートが弱者支援の道を選択するハードルは高いのかもしれない。

特に男性には。

女性はどうだろう? (続く)
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# by mariastella | 2016-12-17 00:16 | 宗教

ジェームズ・グレイ『エヴァの告白』The immigrant

年末、忙しくて、もう映画など見ている暇がないのに、12/14の夜、Arteで『エヴァの告白』を見てしまった。

パリ市長がアレップの攻撃に抗議してエッフェル党の灯を消した夜だ。

実際、毎日毎日、アレップの爆撃シーン、脱出を試みる住民らの絶望的な様子をなすすべもなく見せられて、前にアップしたシャルリー・エブド別冊でフランスにいる難民の困窮ぶりを知るにつけ、町のクリスマス気分よりも、『移民』というタイトルのこの映画にひきつけられたのだ。

フランス人のマリオン・コティヤールが主演でカンヌでも評価されたので、2013年に公開された時にフランスでも話題だったけれど、その時は、1921年のアメリカの移民の話にあまり食指が動かなかったので見ていなかった。

ポーランドの戦争で両親を失ってアメリカにいるおば夫婦を頼りに行くポーランドの姉妹。
NYは日本から考えると遠いけれど、ヨーロッパからの移民の入り口だ。
彼らを一時隔離して移民を認めるかどうかを審査するエリス島を経由してアメリカ市民となった人は膨大な人数に上る。そこから強制送還される人にとっては悪夢の場所だ。

後でヒロインのエヴァに恋するようになるマジシャン、イリュージョニストのオーランドは、彼らのための慰問舞台で、信じられないような空中浮揚を見せますよ、と言い、皆さんもこの国に来るのに未来を信じたでしょう、私も、信じます、と言って手を合わせてから「浮揚」する。

「信じる」ことが映画自体の通奏低音になっている科のようにシンボリックだ。

でも、結局、だれでもみんな移民局で、審査され、裁かれて、たどり着いた場所で生きる許可をもらえるかどうか、なんていうスタートアップって、多かれ少なかれトラウマになるような気がする。

メイフラワー号で着いたような最初の植民者たちは、先住民の「審査」も「許可」もなく好きなように「開拓」したから別だったろうけれど。

しかも初期の移民はピューリタン的な「神の国」建設の熱意があったかもしれないけれど、後からやってきたカトリック国のイタリアやポーランドからの移民には風当たりが強かった。

エヴァもそのポーランド移民で、ポーランドにいた頃は、カトリックがデフォルトで意識していなかったろうし、過酷な戦争や家族の死などを前に、「神を頼る」なんていうことは頭から吹っ飛んで、ただただ、何とかして生き延びるという本能にだけ導かれていたに違いない。

けれども結核の疑いのある妹が移民局で隔離された。
最後の肉親である妹とは自己意識がフュージョンしているので、エヴァの「生き延びる」本能は「妹と生き延びる」に上書きされてしまった。

そんな中で、女衒でもある興行師のブルーノに頼って、妹を助け出すために必要なコネと金を求めることになる。

しかし、どんな形であれ一応衣食住が保証されると、1920年のポーランドのカトリックだったら骨にしみこんでいるような「売春の罪」を犯しているわけだから、エヴァは恐ろしくなった。
また、窮地に陥る度に、口をついて出てくるのは、やはり生まれた時から身についている聖母マリアの加護を願う祈りだから、自分が「罪」びとであることと、聖母や神の慈悲を願うことの齟齬が意識される。
それを解消するためにポーランド人ご用達のカトリック教会に出かける。

必死に祈るが、告解する必要を感じる。告解して免償してもらえば安心して聖母に頼ることができるからだ。

ポーランド語で告解し始めると、司祭から

「英語で。私はポーランド系だけどアメリカ人だから」

と言われる。
ポーランド系二世なのだろう。そこですでにエヴァの中で、「故郷の聖母」が遠ざかっていく。(典礼は当時どこでもラテン語なので違和感がなかったのだ。)

エヴァは、移民船の中でも性暴力の犠牲になり、その後、道を外した男と出会って、金が必要なので、盗みもすれば、体も売っていると告解する。
自分は地獄に堕ちるような罪びとだと口にすると、あらためて、カトリック教育の成果が意識に上り、怖く悲しく恐ろしくなる。

「生き延びるために何でもするのは、罪ですか?」

と絶望するエヴァに、

司祭は、

「天国はすべての人に開かれています」

と即座に答える。

思いがけない、一瞬の、希望。

しかし、それにはもちろん、悔い改めが必要で、司祭は言う。

「その男から離れなさい」

エヴァはすぐに、

「では、私は、地獄に堕ちます」

と言ってその場を離れる。

彼女のぎりぎりの生き方は、選択の余地のないものだからだ。

地獄堕ちよりも、何とか妹を救い出して二人で逃げることに優先するものなどない。

告解室の外から、ブルーノがこれを聞いていた。

彼は実はエヴァを愛しているのだ。

酒、ギャンブル、女に溺れるタイプのオーランド(実はブルーノの従兄弟)が一見童顔で情がありそうな外観なのに対して、ブルーノは、いかにも酷薄そうで怖い顔。

ラスト近くでは警察にぼこぼこにされて鼻も顎もつぶれてさらに凄惨な顔になる。

このシーンも、今もアメリカでは警察の暴力スキャンダルが絶えないので、リアルで嫌になる。

ブルーノは屈折した男で、アメリカの底辺でのサバイバル能力は優れている。
実はエヴァに最初から目をつけていて、彼女が移民登録できないように手を回していた悪いやつであり、絶対にエヴァに愛されないことは自分で分かっているので、エヴァを残酷に扱ったりするのが自虐になるような救われない男だ。

ブルーノは、結局、ボロボロになりながら、エヴァを連れて小舟でエリス島に行き、エヴァの妹を逃がす交渉をして、カリフォルニア行の切符を渡して二人を出発させる。

つまり、エヴァは、自分を罪の状態に落とすブルーノから離れるよりもまよわず地獄行きを選んだが、それを盗み聞いていたブルーノは、耐えられず、自分から彼女を解放した。
彼女が地獄に堕ちると苦しんでいたのを救ったともいえるが、このことでブルーノは自分が救われたのだ。

実際、エヴァに自分の罪(彼女が自分の手に堕ちるように工作したこと)を「告白」した時に、エヴァに赦される。
免償されるのだ。

彼にとって天国の門よりも大切なのはエヴァからの赦しだった。
そのことでエヴァも、赦しを求めて苦しむ立場から、自分を支配していた男を赦してやるという立場に立てた。

つまり、「自分の敵と和解し、赦す」という、キリスト教的にいうと「罪」と対極の「愛」を実践できたのだ。
ブルーノを赦すことでエヴァは天国に行ける。

女性が庇護者(この場合は病気の妹)を内包する生存本能に駆られた時は、宗教の脅しなど怖くない。

けれども恋をしてしまった男は、弱くなる。
愛する女のためなら自分がぼろぼろになっても、たとえ命を奪われてもいいという一線を越えてしまう。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 (ヨハネ15-13)」というキリスト教最大の愛に向かっていく。ブルーノのそれは屈折していて、そのカリカチュアのようだ。

「エヴァの告白」というのは「ブルーノの告白」とセットになっていて、

「強い女と、女の罪を赦さない司祭」、
「弱い男と、男の罪を赦す女」

というを逆説的な世界を描いているのだ。 

原題は「移民」でフランス語タイトルもそのままだから、もっと政治的メッセージを伝える映画かと思ったら、男と女の支配被支配の関係が男の一方的な崩壊で覆る話だった。

マリオン・コティヤールは確かに、男たちをすぐに魅了するくらいにオーラのある美しさを発している。
でも、船の中で彼女を襲った男たちのように、ただ欲望にかられた男なら暴力で支配するだけだ。
それに対して、「恋心」を抱いてしまった男たちは、弱く、情けなくなる。

恋に慣れていないブルーノのような男は、だんだんと「悪の平常心」を失っていくのだ。

ホアキン・フェニックスにぴったりの役だ。
全然共感できないし、最後は見るのも気の毒な姿になるが、なぜだか、彼を見ていると、エヴァが彼を赦した気持ちが分かるのは不思議だ。

それでも、「移民」というタイトルが表すものは、「移民というルーツ」、「移民の子孫」のかかえる記憶やアイデンティティの独特の思い入れをよく表している。

日本に暮らすマジョリティの日本人やフランスに暮らすマジョリティのフランス人が千年以上もずっと「そこにいた」みたいな感覚からは、想像しにくい。
移民や難民に対する視線も思いも、アメリカとは全く違っているのだろうな、と改めて思う。

で、アレップ。 
アレップは、15日にアサド軍の手に渡った。
避難する住民や反政府軍を乗せたバスをロシア軍が警護している。

朝のラジオで、フランスのロシア大使館のアドバイザーが、

「ロシアがアサド政権に対して持っている力を過小評価しないでもらいたい」、

などと言っていた。

「ロシアはちゃんと対話している。

アメリカとはイラン問題について話し合い、

イランとはシリア問題について話し合い、

中国とはあらゆる問題について話し合っている。」

とも言った。

この発言は、プーチンが日本に向かっていたのとちょうど同時刻のものだった。

日本と話し合っている、とは、言っていなかった。
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# by mariastella | 2016-12-16 07:39 | 映画

ある新任司祭に聞いてみたこと その3

(これはこの前の記事の続きです。)

---12歳の時に召命を受けたっていうけど、すぐには親に話さなかった?

親には言わず、でもバカロレアを受ける時点で、もう決心は固かったので、プレパにいく気持ちはなく、学部に行こうとしました。

(フランスではプレパというグランゼコール受験予備クラスがエリートコースで、大学に進むのは、グランゼコールのない医学部などを除いてエリートコースから外れる)

でも親に反対されたので一応プレパに行き、そこで、すばらしいマドモワゼルとの出会いがありました。

(ここで普通ならfille「女の子」という言葉が使われるところを、彼は「お嬢さん」と言っている。これは司祭だからというのではなく彼の階層の言葉遣いだ)

で、理系のグランゼコールに入りましたが、そのあと神学校に行くつもりだったのであまり勉強しませんでした。


---恋愛はどうなったの?

恋はして、召命のことを忘れて楽しんだこともありました。でも、深いところでは決意は揺らぎませんでした。

---両親はショックを受けなかった? 長男長女に続いて次男までも。

---驚きました。でも、兄のことがあるので免疫はできていたみたいです。

(兄さんはプレパからビジネススクールに行き、会計監査などの職業経験を経てから神学校へ。召命は20歳くらいで、やはり、ぎりぎりまで親には話していなかった。)

---その後、一度も迷いはなかった?

ありません。

---あなたや兄さんは教区の司祭で、兄さんはその後、家族・親戚の結婚式や洗礼やらを一手に引き受けてたりしてある意味にぎやかね。でも、お姉さんは観想型修道院で、家族の集まりにも絶対に参加しないで修道院から出られないよね。それに対する抵抗は?

両親はよく面会に行っています。
ぼくや兄も休暇ごとに行きます。
ぼくはこのクリスマスの後にも姉の修道院に行って黙想します。
ゆっくりと話し合えるし、親密で豊かな時間です。

(なるほど。ただの家族ではなくて司祭だから女子修道院の禁域の中にも入れるだろうし、ふたりきりでじっくり話すこともできるのだろうな。こうなると、親も、シスターになった娘のところに司祭である兄と弟が通うことで安心かもしれない。それに、そういう兄弟がいることで彼女が修道院内で一目置かれるという可能性はおおいにある。
でも、この会話よりも前に、彼らのおばあさまと話したことがあるのだけれど、彼女はこの孫娘をとても可愛がっていて、修道院から一歩も出られないような修道会に入ったことをとても嘆いていた。親がカリスマ刷新系の熱心な信者であることすら祝福していない。)

この新司祭は学生のころから、また神学生、助祭時代を通して、パリの路上生活者の世話を熱心にしてきたので、私が秋に釜ヶ崎を訪問した時の話をしたら目を輝かせて聞いていた。

彼のように、外見がよく、立ち居振る舞いもナチュラルな中に威厳があり、家柄もよく、高学歴の青年、いわば高スペックの若者が、自分の生育環境と縁のなさそうな貧しい人々にすごい熱意で寄り添うのを見ていると不思議な気がする。

フランスにはこういう超エリートの聖職者は少なくない。10年以上も医師として働いた後で神学校に入って司祭となり、司教になった人もいる(ナンテールのオプチ司教)。

日本のことを考えると、ある人のことが思い浮かんだ。
ハンサムでエレガントで高学歴で、でも徹底的に弱者に寄り添うタイプ。
でも、彼は「聖職者」ではない。
この違いについて考えた。(続く)
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# by mariastella | 2016-12-15 00:25 | 宗教

ある新任司祭に聞いてみたこと その2

これは前の記事の続き。

---説教するのは慣れた?  準備はどうやるの?

ミサは一日5回あるものを5人の司祭で分担します。
朝は年配者、夕方は学生や若いビジネスパーソン中心が中心なので、参加者によって話し方を変えます。
若い人には話せる「指輪物語」(トールキンのファンタジー小説。キリスト教の寓話になっている)などを年配者にしても分かってもらえませんから。
後はもちろんその日の聖書朗読の箇所がテーマになることが多く、自分の解釈を披露しますが、香部屋係は同じ人が5回のすべての説教を聞くので、同じテーマでも司祭によって味方の違いなどを聞いて面白いというので、話し合うこともあります。
司祭になる前は説教を聞くたびに、自分ならこうは話さないと思うことがたくさんあったんですが、実際にやってみるとけっこう同じことを言っていたという場合がありますね。

---告解は? もし犯罪者が現れたら免償を与える?

本当に後悔しているかどうかによりますし、警察に自首することを勧めます。それが確かでない場合は免償を与えないこともある。でも、話し合いが大切です。

---これからテロに行くと言われたら?

もちろん免償は与えないし、考え直すように言います。

---でも受け入れないでこれからテロを実行すると言われたら通報する? 告解の秘匿義務は?

あなたが出て行ったら僕は警察に通報するけれどいいですか? と聞きます。

---そしたらそこで襲われるかもしれないよね。

確かに…。 でも、嘘は言えないので、では、何も言わないで見送ります。

---それで通報するの?

それはそこで「識別」というのが重要になります。
テロのリスクが高いと判断して、通報が自分の義務だと理解できれば通報します。(続く)
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# by mariastella | 2016-12-14 00:33 | 宗教

ジェローム・カユザックとジャクリーヌ・ソヴァージュ

前にも書いたことがあるジェローム・カユザック元予算担当大臣。

結局隠し財産は何百万ユーロにも達すると分かって、元妻と共に、執行猶予なしの実刑判決が出た。
ごまかした税金は罰金と共にもう支払い済み。

実刑判決が重すぎるという意見もある。 

納税は共和国の根幹にあるものだからそれをごまかしたというのは確かに罪である。
そんな人が、こともあろうに脱税対策を掲げた予算担当大臣に就任していたことがそれに加わる。
普通の人よりも罪が重くなるというのも分かる。

でも、なんだか見せしめ、リンチという感じもぬぐえない。

彼を徹底的に罰することで他の権力者は手を洗っているような。

彼が国会で問われた時に、「外国の口座など持ったことは過去も現在もない」と堂々と嘘をついた映像が何度も流れた。
社会党のユダだとも言われた。

けれども、嘘は罪ではない。

宣誓の後の偽証や、偽造文書を作るとか虚偽の告発をするなどは軽犯罪法や刑法の罪になるけれど、単なる嘘は、それによって被害を受けた人からの告訴がなければ罪にはならない。
モーセの十戒にも、「噓をつくな」とあるわけではなく、「偽証をしてはならない」とあるだけだ。

実際、「嘘も方便」というように、日常生活を円滑にするための嘘はどこにでもあるし、時によっては礼儀でさえある。

カユザックの場合はすでに税法上の罪を犯していて、それを隠すために嘘をついたので、「容疑者」の権利みたいなものだ。

けれども、顔色一つ変えずに堂々と嘘をつき、社会党やフリーメイスンから除名されても、逮捕されても、ポーカーフェイスでいた彼のどこか非現実的な感じが、多くの人に悪印象を与えたのだろう。
私はむしろ、非常に好奇心をそそられるキャラクターだと思ったけれど。

離婚訴訟における不和で妻に密告された。正確に言うと妻が雇った2人の私立探偵から足がついた?
妻のパトリシアはこの前の共和党予備選で惨敗したジャン=フランソワ・コッペの妹だそうだ。コッペも政治に絡んだ金銭スキャンダルの中心人物だ。

まあ、妻の出方の予測も含めて危機管理意識が足りなかったのには驚くけれど、私はなぜかこの人に同情の念を覚える。
まあ、はっきり言って、冷たそうで、誰からも同情をもらえないタイプなのだけれど、彼の「叩かれ方」にはどこか不健全なところがあるからだ。

控訴審でどうなるかはわからないけれど。

もう一つ気分の悪い訴訟事件に、40年以上も虐待を受けたあげくに夫を猟銃で撃ち殺して実刑を受けたジャクリーヌ・ソヴァージュという女性のケースがある。今年初めにオランド大統領が中途半端な恩赦をしたので、結局釈放されなかった。
今は権力争いから抜け出たオランドとカズヌーヴが、この先、完全恩赦に踏み切る可能性はあるのだろうか。

この女性を釈放しないのは、「悔い改めの念が足らない」という理由だった。
もちろん夫は死んでいるから「再犯」の恐れはないし、3人の娘はみな、母が犠牲者であったことを証言し、自分たちも父親に性的虐待を受けていたと証言している。
一人息子は事件の前日に自殺しているそうだ。
女性の実家の父親も妻に暴力をふるっていたと分かっている。

「報復」を連想させる刑罰って気分が悪いし、政治や司法のパワーゲームの影響を受ける刑罰も気分が悪い。

大金持ちで権力も権威も持ち合わせていたカユザックと、生まれながらに不利な環境を抜け出せなかったソヴァージュは、格差社会の両極にいる対照的な人たちだが、どちらからも、「今の世の中の不健全な部分の犠牲者が偽善者たちから叩かれている」かのような印象を受けるのは、不思議だ。
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# by mariastella | 2016-12-13 01:02 | フランス

マクロン、ヴァルス、マリーヌ・ル・ペン

エマニュエル・マクロンが土曜日にパリの集会で1万5千人を集めて、1h 45も喋りまくった映像を見た。

しゃべるというより、叫んでいる感じで、うーん、あのテンションであれだけ長く話せるのってやはり38歳という若さかなあ、と思った。ジュッペには無理だったよね。

それにしても、はっきり言って、どこのカルトの教祖ですか、という雰囲気だった。

私は彼のディスクールをフランス語の政治言説のレトリックの例として分析しているのだけれど、そして、ナポレオンのそれと比較もしているのだけれど、なんだか、私の興味と少しずれてきた。

でも、この洗脳が進めば、ひょっとしたら大化けするかもよ、とフランス人に話したら、
「いや38歳は若すぎる」とシニアの人たちは言う。

「でも、ナポレオンは35歳で皇帝になったんだよ、ナザレのイエスは33歳で神になったんだよ(語弊がありすぎだが…)」

と私がいうと、

「昔の30代と今の30代は違う」、

って必ず言い返される。

今は七掛けっていうから今の38歳は昔なら26歳くらいってこと?

でもジャンヌ・ダルクは17歳でオルレアンを解放してるしね、

成熟や運命は実年齢と関係ないような気もする。

一方、最近、久しぶりにマリーヌ・ル・ペンがテレビでインタビューに答えていたが、服装、話し方、すべて完璧だった。
それこそ「成熟」を演出していた。
姪のマリー=マレシャル・ル・ペンが妊娠中絶の保険払い戻しをやめる、とか言っていることをふられても、それは自分のマニフェストとは違うと即座に否定した。

「ヨーロッパ離脱やユーロ圏離脱の国民投票をする」という典型的なポピュリズム政策を別としたら、すごくまともだ。

ヴァルス元首相はといえば、予備選に向けて社会党内部をまとめるのに必死という感じで、戦闘的にやっているが、土曜日のミーティングに集まったのは350人という話だから、マクロンと比べられて気の毒だった。

マクロンやヴァルスを見ていると、ル・ペンが一番「疲れない」、というのはいかがなものか。
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# by mariastella | 2016-12-12 00:29 | フランス

シャルリー・エブドとカレーの「ジャングル」

カリカチュアでテロに遭ったシャルリー・エブドの画家2人が、今は取壊されたカレー難民キャンプ(一部はダンケルクや救援センターのレポートもある)に通って人々と交流し、最後の日々も記録した貴重な本が別冊になった。

難民の生活、トイレの問題からヘアスタイルのこだわり、子供のための学校や遊び場に至るまでいろいろ描き込まれている。

カレーからは、イギリスに渡ろうとして英仏海峡の手前でせき止められた人びとが決死の渡航を企てては命を落とす。

この本を読んで、初めて、難民は名前や顔や個性を持つ一人一人の隣人になった。

シャルリー・エブドは、テロの後で壊滅に近い打撃に関わらず世界中から読者を獲得して、「超リッチ」になった。だからこそ、こんな贅沢な企画が可能になったのだ。

テロへの最高のレジスタンスだ。

ここには、ノンフィクションの確実な視線がある。
ジャーナリズムの勝利だ。

カリカチュアはひとかけらもない。
いや、これを見ていると、カリカチュアにされているのは、「ジャングル」で何が起きているのかを知ろうとしなかった全ての人だという気がする。
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# by mariastella | 2016-12-11 00:30 | フランス

『君の名は』

先月日本から戻る機内で観たもう一つの日本映画はアニメの『君の名は』だった。

評判が高いのは聞いていたけれど、高校生のラブストーリーのようだったので、少しだけ見て退屈したら他の映画に変えようと思って一応見てみた。

映像の美しさに度肝を抜かれた。

ほとんど「おもてなし」映画みたいに美しく、テクノロジーと伝統、都会と地方が共存するクール・ジャパン。
フランスではまだ公開されていないけれど絶対フランス人に受けると思う。

こちらで仲間にネットで予告編の映像を見せたら息をのんでいた。

すごい。

美を昇華した芸術的な観光映画みたいだ。

飛騨の小さな村の神事やら、普通の女子高生が「巫女」となるシチュエーションやら見どころがいっぱいだ。

ストーリーの方は、はじめは、よくある「人格入れ替わり」ものかと思った。
それが若い男女の間で起こるというのが、新鮮なのか初々しいのか分からないけれど、まあおもしろい。
2人ともスマホをもって交信するというのは「今の子」ならではだし、男女の差だけではなく、都会と地方、マンションで父と2人暮らしの少年と、引き戸の日本家屋で祖母や妹も一緒に暮らす少女、と、シチュエーションが対照的で、目まぐるしく変わる「背景」の美しさが引き立つ。

そこで起こる失敗や友達の反応やらのエピソードは、まあ、コミックにはよくある展開なので、チープだしつっこみどころはいろいろあるものの、想定内という感じだ。

ところが、話は意外な方向に広がり、この「入れ替わり」が、実はヒロインが受け継ぐ伝統技術の組みひもと同じように、パラレル・ワールドが3年という時間のずれをもったまま絡みあっているものだと分かる。

少女の住む村は1200年ごとに彗星のかけらが落ちてクレーターをつくるのだとか、村の滅亡を救うために代々神職の「宮水」家の女性が、その「入れ替わり」能力を介して「協力してくれる男」を近未来で取り込むのだとかいうSFになってくる。

都会の夜、地方の村の夜、そして、そのどちらをも照らす銀河や彗星。
映像はますます美しくなる。

少年は自分に課せられた「使命」を発見できるのか、夢の中のように記憶が定かでない若い2人は村を救えるのか、というスリル、そしてそんな絶対不条理の状況の中でも生まれる2人の恋心は…、と結局、最後までしっかり試聴した。

けれども、ディティールを含めたすべての「背景」のほれぼれする美しさに比べて、当然とはいえアニメのキャラにしか見えない登場人物たちの、特に日常のシーンの貧弱さとのギャップが、魅力というより違和感として残ったのは不思議だ。

この映画のコメントをなかなか書く気にならなかったのは、その不思議さからくる一種のためらいのせいだった。それはまだ、消失は、していない。
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# by mariastella | 2016-12-10 00:45 | 映画

ポランスキー『おとなのけんか(Carnage)』2011

私は時々、フランス人と日本人のメンタリティの方が、アメリカに比べると近いような気がすると書いてきた。時代が変わっても古くからの権威や文化が古層のように残っているのも宗教への関わり方も含めてそう思うことが多い。

でも、このロマン・ポランスキーの映画を見ると、この部分(つまり都会のプチブルジョワの本音と建て前)に関しては、アメリカとフランスがほぼ同じ感じで、日本はまったく違うとつくづく思った。

それを雄弁に語っているのがこの邦題のつけ方だ。

『おとなのけんか』......

あんまりだ。

もとはフランスのヤスミナ・レザの『Le Dieu du carnage(虐殺の神)』という戯曲が原作で、舞台をブルックリンに移してアメリカでもヒットしたらしい。(その戯曲の邦題も『おとなはかく戦えり』だそうだ)
時間、場所、筋の「三一致の法則」に乗っ取ったフランス戯曲らしい構成だ。

映画は、アメリカが舞台だが、ある夫婦の自宅ですべてが展開するので、パリで撮影されたという(ポランスキーはアメリカに入国すると逮捕されるリスクがある)。

11歳の少年がブルックリンの公園で同級生を棒で殴り、前歯の2本を折る怪我を負わせた。「被害者」の親であるロングストリート夫妻は、事の次第を書面にして確認するために「加害者」の親であるカウワン夫妻を自宅に招いた。カウワン夫妻は協力的で下手に出て、お互いに、同じレベルの生活、階層であることに納得しながら上品にことをすませるはずだった。

ロングストリート夫妻の妻はスーダンのダルフールについての著書がある作家ペネロピ(ジョディ・フォスターが相変わらずすばらしい)、夫が金物商を営むマイケル。

カウワン夫妻は、妻が投資コンサルタントのナンシー(ケイト・ウィンスレット)、夫が製薬会社の副作用スキャンダルをもみ消そうとしている弁護士アラン。

最初は「子供の喧嘩」の解決だったものが、弁護士がしょっちゅう携帯電話で話していて、それにみんながストレスを感じ、気分が悪くなったナンシーが吐いて美術書を汚してしまう。
それをきっかけに社交的な仮面が剥がれて険悪になり、言い争いの組み合わせも、夫妻対夫妻、夫同士対妻同士、夫と妻の取り替った状態など、感情のまま、特に日頃のうっ憤などでエスカレートする。

子供のけんかが「大人のけんか」に変わる、という話であるのは事実だけれど、単なるヴォードヴィルではなく社会派ヴォードヴィルなのだ。

弁護士役のクリストフ・ヴァルツ は『ターザンreborn』で、帝国主義時代の差別主義の権化のようなベルギー人役をやった人だ。 この映画でも自分はコンゴに行ったことがあるというのもおもしろい。どこか最近亡くなったロバート・ヴォーンに似た雰囲気があってなつかしい。

両夫婦とも、NY のブルジョワだけど、ロングストリートの方がリベラルで民主党に投票するタイプ、カウワンは共和党に投票するタイプだ。

で、原作がフランスものだから当然とはいえ、この2組の夫婦や、招待されて出向くこういうシチュエーション、アパルトマン、会話の仕方など、フランスでもすごくありそうなことで、とてもリアルだ。こういう感じの夫婦をいくらでも知っている。
でも日本で子供がけんかした時に、夫婦で相手の夫婦とこういう感じでもてなしを受けながら話し合いに出かけるなどというシチュエーションは想像できない。
ブルジョワ家庭でも、子供のこの種の問題で当事者の2組夫婦が行動を共にすることはないだろう。
だからこういう感じの「おとなのけんか」にはなり得ない。

ジョディ・フォスターの演じる妻は、美術が好きで、スーダンの子供たちなど世界の悲惨に関心があって著書もあることをひそかに誇り、社会意識の高い人で、世界のどこで起こっていることでも自分たちに関係がある、と主張する。ジェーン・フォンダの例が出て来る。フランスならジェーン・バーキンか?

元のタイトルの「虐殺の神」というのは弁護士が口にするセリフで、「僕は虐殺の神を信じている」と言ったり、ジョン・ウェインの名をあげたりするのだけれど、要するに、強い方によって弱いものは淘汰されるということだ。動物の世界では最も強い雄だけが雌を獲得して強い子孫を残す。
けれども、人間は、分かち合ったり、助けたり、弱者を排除しないで生きていくように進化してきた。サバイバルのために争わなくていい人々は特に、弱者を助けることに情熱を燃やすことすらある。

言い換えると、、「子供のけんか」は、「動物レベル」だが、「大人」はそのレベルを超えて上品に平和に協調してやっていけますよ、という「文明人」レベルですよ、という合意がある。「けんかしない」はずだ。

ところが、それが過剰になって、弱者を救う姿勢における偽善や、それをしない他者の弾劾や、ポリティカリイ・コレクトの際限ない検閲や自主規制へとエスカレートしていく。

けれども、オーバーワークで疲れ、家族とのつきあいに疲れ、外面をつくろうことに疲れた人たちは、特に酒で自制心のタガが緩むと、本音が噴出する。

ダルフールについての本を書いた人に対して「セネガルのニガーが」と黒人差別の言葉を使ったり、タブーの差別語が連発される。クー・クラックス・クランの名も出る。

つまり、社会的、階層的な仮面が落ちると、「動物的あるいは動物的本能でけんかする子供たち」のような本音が垂れ流される。

とはいえ、自分だけの利益しか考えない状態から、共同体の利益を考え、近くの弱者を助け、さらに、遠くにいて姿の見えない弱者にすら思いをいたすようになるのも、また、人間が獲得してきた人間らしさのひとつであって、けっして虚偽ではない。

エゴイズムと博愛の気持ち、責任感と無関心、礼儀と乱暴、それらは共存していて、それらを分かつものは薄氷でしかない、ということだ。

この映画を見ていると、この登場人物たちは今年ならみなトランプに投票したかもしれない、と思えてくる。

トランプが勝利したのは、貧しい白人たちの不満の受け皿になったからだと言われているが、決してそれだけではない。NYのブルジョワだって、ストレスフルで孤独で、外面をとりつくろうことに疲れていたら、こうなるのだ。5 年前の映画だが、もうそこには、「トランプを選んだアメリカ」がある。
さらに、この映画を見れば、そのアメリカの心性が、人間性に根差した普遍的な問題だということが、分かってくる。

同時にきわめて21世紀的な問題でもある。

「虐殺の神」というのは、要するに弱肉強食のネオリベラリズムの神でもあるからだ。

20世紀の後半に、「自由世界」が第二次大戦後の「復興」を遂げた間、この「虐殺の神」には枷がかけられていた。「自由世界」の内部で、「共産主義」シンパという身中の虫が増殖しないように、「社会民主主義」を飼っていたからだ。

もとより「自由競争」は公平なシステムではない。
スタート地点からいろいろなハンディを負っている人がいて、そもそも全く競争に参加不可能な弱者もたくさんいる。それらの人々や競争の敗者も含めて、すべての人が尊厳をもって共存できるような社会を運営するために財を分配するという思想が生まれた。生産力が低い時代には個々の共同体でそれなりに機能していた互助システムが破綻したからだ。人間のモノ化に対抗して共産主義が生まれた。

けれども実際に現れたのは、必然的に全体主義化する「一党独裁型の社会主義」だ。
それに対して生まれたのが、「民主主義によって運営する社会主義」というスタイルの社会民主主義だ。

ところが冷戦が終わって、敵が自滅したので、「自由世界」の「虐殺の神」にかけられていた枷が外れた。

「虐殺の神」がグローバルする中で、統治者にとって不急不要になった社会民主主義は、冷戦時代の「意識高い系」の世代を中心に、アフリカの貧困や環境保全、差別撤廃、動物愛護などの方向にシフトしながら、ライフスタイルへとイデオロギー化していく場合がある。

それを担う人の多くが、競争社会におけるいわゆる「勝ち組」である。その中には、この映画が描いているような、

夫が「虐殺の神」を信奉して競争にはげみ勝ち組の場所を確保して、
妻がボランティアをして家庭における夫の不在を埋めて自分の生き方に意味を見出す、

という組み合わせが生まれてくる。

(「夫が稼いだ金で妻が消費に励んで経済を回す」方が多いかもしれないけれど。)

そのような矛盾や欺瞞などが膨らむと、見かけの「幸福」のあやういバランスなど、「逆殺の神」の聖霊がささやくたった「一言の本音」によって崩れてしまうということなのだろう。

『おとなのけんか』は、一見幸せそうな他人のカップルの化けの皮が剥がれる過程を見ておもしろがるような映画ではなく、「ポランスキーの映画を見に行ける」ような人たちに、自分の立ち位置と生き方について本格的な自問を促す映画なのだ。
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# by mariastella | 2016-12-09 00:09 | 映画

アンゲラ・メルケルとアンデン・パクトの男たち

Arteでアンゲラ・メルケルのドキュメンタリーをやっていた。

もう10年もヨーロッパのトップに君臨する彼女についてはすでにいろいろなところで特集とかドキュメンタリーを見たことがある。

父親がプロテスタントの牧師、東独出身の物理学者、牧師館には知的障碍者のための施設が併設されていて彼女も通っていたなど、多少のプライヴェートのエピソードもすでに耳にしたことがある。

でも、今回このドキュメンタリーを見て、なんだか改めて、奇跡のような人だなあ、と思った。

前に女性の政治家について書いたことがある。

フランスの女性政治家についてや、
ジャンヌ・ダルクとヒラリー・クリントンや小池都知事について

そのどちらにもメルケル首相は出てこない。

メルケルが「女性政治家」の観察のフィールドに入ってこないのはマリーヌ・ル・ペン女子と似たポジションのかもしれないと漠然と思っていた。

でも実はメルケルさんのことはかわいいなあ、と思っていた

この番組を見ると、若い頃は超かわいいし、おかっぱ頭もジャンヌ・ダルクそのもので、フランスだったら絶対そう言われていただろうなあと思う。

女性にも好かれていて、側近を信用できる女性で固めたというのも意外だった(girls campと呼ばれる)。 
番組で証言しているヴァチカンのドイツ大使も女性だった。

ちなみにフランスは14世紀から教皇庁に大使を送っているが、女性は一人もいない。

オバマ大統領はキャロライン・ケネディ(カトリック)を大使にするつもりだったが、彼女がプロ・ライフ(中絶反対)ではなかったので拒否されたという。フランスもゲイの活動家を送ろうとして拒否されたと言われている。
今の在ヴァティカンのアメリカ大使は外交官出身ではなく40年もアメリカのカリタス(カトリックの社会福祉組織)で働いていた人だ。昨年引っ越した立派な大使館にいる。

(大使の人選って、相手国が拒否できるのって知らなかった。それともヴァティカン限定? いや、ヴァティカンも公式に拒絶したわけではないけれど。カトリックでないとだめということもなく、イラン大使をはじめムスリム国の大使もいるし。)

話がそれたが、それでも、メルケルのドイツが女性大使をヴァティカンに送っているのはそれなりの意味がある気がする。

で、話はそんなことではなく、この番組で一番驚いたのは、東独から来たジャンヌ・ダルク風の、でも、控えめで野心を表に出さない感じのかわいいアンゲラが、自党内で、典型的なゲルマン男の政治家たちからなる「アンデン・パクト」(メンバーの名が分かるという意味では秘密結社ではなく「非公開互助会」とか呼ばれているが、まあ似たようなものだ。で、男限定。)を敵にしていたということだ。

彼らと彼らの戦略のすべてを出し抜いて、ヘルムート・コールの後に、SPDのシュレーダーの一期をおいて、CDU(キリスト教民主同盟)から出馬して首相になった。

今の堂々とした感じからは、マルティーヌ・オーブリーやル・ペン女史を思わせるけれど、オーブリーやル・ペンは、若い頃から意志の強さとか気の強さとか野心を感じさせる雰囲気だった。
メルケルの若い時は、学生時代ソ連の数学コンクールで優勝したりしているのに、西側の男たちの間にいると、本当に、田舎の物理研究所勤め以外の外の世界を何も知らないでポッと出てきた素朴な女の子(30代でも18歳くらいに見える)という風体なのだ。

一方、コールの後釜を狙う軍団のようなアンデン・パクトの男たちは、もう、「多様性って何?」って言いたくなるほど互いに似ているマッチョなゲルマン・エリートの風貌。
ラテンの男たちやドナルド・トランプみたいに分かりやすい男たちとは正反対の、「秘密」が似合う男たちだ。

よくこんなところで生き延びて彼らを鮮やかに出し抜いたなあと思う。

しかも、彼女の演説は、聞く人によって、左派にも、改革者にも、ナショナリストにも解釈されて共感を呼ぶ柔軟さだ。
社会主義体制、科学研究チームという、自由より規律優先の社会から来たので「変革」を肯定的にとらえるおもいきりの良さも、どこにいようと自分の立ち位置こそが「中道」なのだという自信に満ちたバランス感覚も、アンデン・パクトの男たちには想像もつかないことだったろう。

一方で、ヘルムート・コールとミッテランが思い入れたっぷりに独仏の和解やらEUの発展に尽くしたのと違って、メルケルはEUに対しても科学者らしい知的で冷静な打算を隠さない統治者の顔を持つ。

それでも、ヒラリー・クリントンが逆立ちしても演じられないような「素朴さ」や「暖かさ」みたいな空気を発することもできる。私生活は公開しないけれどジャガイモのスープを作るところはOK。

いやぁ、彼女は4期目も狙うらしいから、まだ先のことかもしれないけれど、リタイアしたらぜひ自叙伝でも読みたい。そんなの書くタイプではない気がするが・・・

アンデン・パクトの男たちによる回想も読んでみたいけれどまだ利害が一致しているからね。
番組でもアンデン・パクトのローラント・コッホなどが証言していたけれど、なかなか微妙なニュアンスも読み取れた。

それにしても彼らをここまでリスペクトさせたのはメルケルって、やっぱり、すてきかも。

(Arteのサイトでこの番組は今のところまだ試聴できます)
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# by mariastella | 2016-12-08 04:03 | フェミニズム

カズヌーヴが首相になった

月曜日、ヴァルスがようやく大統領選出馬を宣言して首相の座を離れた。

マクロンとヴァルスでは

「(上司であるオランドに対する)裏切り者同士の戦いだ」

と揶揄する共和党員もいる。

まあ、オランドも、選挙前にDSKのスキャンダルでチャンスが転がり込んだわけで、カリスマ性はもともとなかったが、ヴァルスやマクロンのようなキャラのたった男たちに囲まれていて大変だったろうなと気の毒にも思えてくる。

で、マクロンの後に、内務相のカズヌーヴが首相に就任した。
内務相から首相にという展開は、ヴァルスもそうだったし、サルコジやヴィルパンも内務相を通過した。

カズヌーヴについては、教会のテロの後に詳しく書いた
オランドもようやく、権力争いとは離れて、忠実なカズヌーヴといっしょに最後の数ケ月は「理想」に立ち返るんだろうか。

カズヌーヴはフィヨンと同じくカトリックだ。

でもこの記事に書いたように、政権にある人として政教分離についてとても気をつけている。

上の記事にあるサロモン・ルクレールは教育修道会の修道士だった。

フランス革命後、1790年の聖職者市民憲章によって、共和国への忠誠(11/26から義務となった)を誓わなかったので、パリで身を隠した。1792年8月に逮捕され、監獄と化したカルメル会修道院に閉じ込められたが、9/2にほとんど全員が修道院内部や庭で刺殺された。

2007年、ベネズエラで毒蛇に咬まれた少女のために修道女たちがサロモンに祈ったら治癒を得たのが、2011年にカラカス司教が奇蹟の治癒の認定をしたて、列聖の基準を満たした。

ベルナール・カズヌーヴ(内務・宗教相)は今回(10/16)の列聖式には出席しなかったわけだが、2015年のジャンヌ=エミリー・ド・ヴィルヌーヴ列聖には出ている。

ピウス11世がフランス革命の188人のカトリック殉教者を列福し始めたのは1926年のことだ。

カズヌーヴは1792/9のカトリック虐殺を容認するものではないし、共和国を守るために共和国の名でなされる犯罪行為を共和国が免償するものでもない。

何があったか?

7月のアメル神父の殉教との関係がないとは思えない。

ルクレール修道士もアメル神父も、個人として殺されたのではなく、信仰と宗教上の役割のために殺された。

アメル神父の死は共和国の「信教の自由」に反するイスラム原理主義者によるテロとみなされる。
フランス革命の「恐怖時代」は、まさに「テロ」という言葉を生んだ時期だった。

カズヌーヴの社会党はフランス革命の理念の継承者ということになっている。

難しい立場だが、カズヌーヴの選択はメッセージ性を発していた。

これからは、社会党の予備選やらマクロンやメランションの動向ばかりが取り上げられるだろうが、オランドとカズヌーヴの最後の五ヶ月を見まもってみたい。
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# by mariastella | 2016-12-07 00:11 | フランス

キリスト教ルーツの温度差

日曜の投票結果は一勝一敗という感じだった。

オーストリアで緑の党が極右を退けたことで、難民問題が切迫していても世界は必ず利己的なポピュリズムに流れるわけではない、とほっとさせられた。
一方、イタリアの国民投票の結果レンツィ首相の退陣が決まり、ローマ市長の選挙のような極右の流れが見えてきた。EUはまた危機に面する。ギリシャ危機を乗り越えたからノウハウはあるというのだけれど…。

さて、パリのセーヌ河畔で、12/4、新築の巨大なロシア正教のカテドラルの記念行事が行われ、キリル総主教と共に政府を代表して出席したのがウラジーミル・ヤクーニン(元外交官でプーチンの側近、元KGBことも言われ、2005-2015までロシア鉄道総裁だった)という人だった。

10月にプーチンの訪問がキャンセルされたことは前に書いた

ヤクーニンは、ロシアの「文明間対話研究機関」の代表で、フランス共和党のティエリー・マリアーニと共に「仏露対話」を主宰する。

今回、カテドラルを前に彼が強調したのは、

「ロシアとヨーロッパの国々は互いのキリスト教ルーツによって結ばれている」

ということだ。

つっこみどころがたくさんある。

ヨーロッパ連合が必死になって強調するのを避けてきたのがこの「キリスト教ルーツ」という言葉なのに。

それにロシアのキリスト教ルーツとなった東方正教と、西ヨーロッパのルーツとなったローマ・カトリックとは、伝わり方も違うし、確執が長かったしまだ解消されていない。

それに、こんな風に表現すると、

例えばトルコがセーヌ河畔に巨大なモスクを建設するのならまずいが、

「同じキリスト教の教会ならいいもんね、問題なし」

とでも言いたいのか、含意があるようなないような・・・。

そういえば、今話題の日露関係にも「キリスト教ルーツ」という言葉は使えないしね。

ヤクーニンの言葉、空気が読めないのか確信犯なのかよく分からない。

でも10月以来、多少状況が変わったと思っているのかもしれない。

あの後、プーチンはフランス共和党予備選の決選投票前にフィヨンにエールを送ったからだ。

フィヨンはそのことでジュッペに皮肉られていた。

フィヨンとプーチンは仲がいいと言われている。

誰か別のものを排除する形でなければ、ぜひみんな仲良くしてほしいものだけど。
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# by mariastella | 2016-12-06 00:55 | 宗教

ある新任司祭に聞いてみたこと その1

Bくんは6月末にノートルダム大聖堂で司祭叙階され、パリのある教区に9月1日付で赴任した31歳になったばかりの青年だ。
チャンスがあったので、近頃の政治状況も含めて好奇心全開でいろいろなことを聞き倒すことにした。

--フィヨンのことどう思う? 投票した? みんなで政治のこと話し合う?

ぼくらは共和党の主催の選挙には参加できないんです。大統領選は行きます。
政治のことはほとんど話しません。政治は教会に関与してはいけないけれど教会が政治に対して意見をいうのは大切です。

--でもフランシスコ教皇の難民とか移民支援などに批判的なカトリックもいるよね。どう思う?

教皇のことや司教会議の決定についてはよく話し合います。
でも、反対だとか賛同できないという言葉は使いません。
そういう時は「理解できない」って保留するんです。

--7月にノルマンディでアメル神父が殺されたよね、怖くなかった?

アメル師が殺された時はWYDに参加していたんです。驚きました。何しろミサを挙げてた時の犯行ですから。

--あなたの教会は荷物検査とかするの? 怖くない?

検査はありません。時々兵士が付近を見回ってます。
それに…あのテロがあったのは地方の村で、しかも平日のミサで出席者4人、パリとは全然状況が違います。
あり得ません。

--でも、襲われたらどうする? 護身術って必要だと思わない?

教区の建物の下で週2回クラヴマガ(イスラエル軍の護身術)の教室があります。でもぼくはやってません。
ぼくがやったスポーツはフェンシングくらい。

--ふーん、フェンシングじゃテロ対策は無理ね。まあ、あなたの教区ってムスリム自体が少ないかも。

そんなことないです。近くに大きな社会福祉住宅の建物があって、そこはほとんどムスリムです。
でもアメル師の事件の後、ムスリムの人がミサに参加する機会が何度かあり、むしろ結びつきができました。
ある日、子供をベビーカーに載せたムスリムの女性が訪ねてきて、「私たちを赦してください」と言ったので感動しました。
うちの教会ではは、毎月「野次馬参加OK」っていうミサもあります。信徒1人が5人まで見学の人を連れてきていいというものです。いいシステムです。子供の時以来教会を離れてしまった人も来ます。

--教会のそばに住んでるの? 自分のアパルトマンとかあるの?

あります。教会のそばの赤煉瓦の建物。教区の事務所とかいろいろなものが入っていて、上に住む司祭は現在6人です。9月からの新顔はぼくと、神学研究に留学に来ているルワンダの神父の2人です。

主任司祭は50代で、助任司祭が37歳の神父と、僕の2人。あとはベルナルダンで神学講座を受け持つ教授、他の福祉活動をしている司祭が1人です。

******

ふむふむ。

給料は1000ユーロ前後。

続いて、ミサのこと、説教のこと、告解のこと、召命のこと、将来のこと、など遠慮なく聞いてしまった。
少しずつ紹介しよう。彼はフランスで私の知り合った最も若い神父だ。新しい世代だから興味津々でもある。

一応「神父さま」でローマンカラーをつけて現れたので、まず話し方を決めた。私は彼をファーストネームで読んで親称でOK、彼は私に敬称を使う。年齢的に違和感がないのでOK。

彼の召命については、パリ大司教区のネットニュースでインタビューに答えたのを見ていたので、それももう少しくわしく聞くことにした。

彼のプロフィールは、両親ともいわゆる貴族の名家の出。
父親は5人きょうだいの末っ子。母親も5人きょうだいだ。
で、彼のところも当然のように5人きょうだい。

両親は早くからの熱心なエマヌエル会のメンバー。
(このブログのパリの奇蹟の治癒シリーズにでてくるカリスマ刷新派)

6歳上の兄は別の修道会に属する司祭だけれど、やはりパリの小教区を担当している。
姉は、ベネディクト会修道女。すぐ上の兄と下の妹は結婚している。

兄さんはビジネススクールを出て会計監査の仕事もした。
Bくんもフランスで王道ともいえる理科系プレパからグランゼコールへ進学し卒業している。

背が高くハンサムで学歴もあってパリに住んで、何が悲しくて司祭になるのかなあ…
それともこういう人たちって生まれ育った時からそういう感性の方向性があるのかなあ。

移民の子弟として生まれたり、同じインテリ家庭でも68年の学生活動家あがりの無神論家庭に生まれたりする青年とは最初から見えている世界、見えていない世界が違うのかなあ。

Bくんは、早くからカトリック系のボーイスカウトに入り、今も世話している。路上生活者の支援などボランティア体験も数限りない。

世の中には「神の名」のもとに人の命を奪う若者もいれば、Bくんのように

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」
(ヨハネ15-13。彼が引用するフランス語では「友」は「愛するもののために」となる)

を叙階の言葉に選ぶ若者もいる…。

外的な条件だけ比べると、カリカチュラルだ。

でも、人間性の深淵では、何の力が、どのように働いているのだろう。
本当は、若いジハディストにもいろいろ質問してみたい。

で、とりあえずはB君のことをもっと知ろうと質問続行。
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# by mariastella | 2016-12-05 01:31 | 宗教

オランド大統領の不出馬

木曜日、オランド大統領が次の大統領選への不出馬を表明した。
現職大統領が二期目をあきらめるのは珍しいことだ。

テロの後に、テロリストの国籍剝奪の提案をしたことだけが自分の失敗だった、とも言っていた。
それによって国民を一体化しようと思ったのに、かえって分断させてしまった、と。

確かに、国籍剥奪なんて、極右の言いそうな排除の論理だ。
フランスの普遍主義には似合わない。
それに、実際のテロリストはフランス国籍を持っているとは限らないし、実行犯の多くは自爆したり射殺されたりするから、その後では意味がないし、国籍剥奪されるのが嫌でテロをあきらめる、などという抑止力などあり得ないだろう。

それでも例えばイギリスが最近、シリアでISに加わったイギリス人の700人のジハディストのうち最も危険な80200人のリストを公開して彼らをすべて逮捕もしくは殲滅すると宣言したのは、フランスでは考えられない。

ISの訓練場所を空爆する時に、そこにフランス国籍の者がいるのでフランス人を殺すことになる、その是非、ディレンマについて議論があったことがあるくらいだ。

フランスの死刑廃止において戦時を除くという例外があったから、イギリスにもあるのかもしれない。
「テロリストとの戦争」が宣告しているのだから、国籍の有無にかかわらず「テロリストの死刑」はあり得るという理屈なのだろうが、少なくともフランスはそんなことを大きな声では言えないし言っていない。

オランド不出馬表明の後でヴァルス首相がすぐに出馬を表明していないのは「礼儀の期間」をおくからだ、と言われる。Delais de décenceだが、今回の場合、「喪の期間」にも似ている。

その辺もまあ、フランスらしい、抑制というかジェスチャーなのだろう。

どちらにしてもヴァルスの勝機は少ない。
マクロンの方がまだ人気がある。

けれども、「一度も政権に関わっていない」からまだ誰も失望させていない、という理由だけで、マリーヌ・ル・ペンが第一回投票で有利であり続ける情勢は変わらない。

どうなることやら。
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# by mariastella | 2016-12-04 10:01 | フランス

フィヨン、シャルリー・エブド、カトリック

フランソワ・フィヨンが共和党の予備選で大勝したら、今週の『シャルリー・エブド』は、フィヨンを揶揄する傑作なカリカチュアが表紙で、中味も、例のフィヨンとカトリックを結びつける短絡な記事が満載だった。

カトリックがこんなに攻撃されるなんて、なんだか19世紀末か20世紀初めですか、と言いたくなるくらいアナクロな感じがする。
でも私の直接知らなかった反教権主義イデオロギー自体のカリカチュアを見ているようで興味深くもある。

ちょうどフランス司教会議が、政治の理念についての声明を出したし、議長のマルセイユ大司教が、中絶を考え直させるサイトの禁止法案に異議を唱える手紙を大統領に出したものが公開され、翌日のラジオで広報担当の司教がそれを解説するというタイミングでもあった。
11/30にはリヨンのバルバラン大司教が司教区の議員ら260人を連れてのローマ巡礼の3日目に教皇の話を聞いている。
教皇は言わずと知れた格差社会の底辺にいる人の味方で、難民の味方でもあり、その話は極右はもちろん共和党の主流とはかけ離れている。

私が感慨深く思うのは、フランスのインテリ左翼の系譜の人たちがいまだに、というか最近あらたに、カトリックというと、偽善者、小児性愛者、終わったコンテンツ、のように唱え続けることだ。
そして、それが、ヨーロッパの他の国、特に、旧共産圏の国々とはまったくずれているということだ。

東ドイツ出身のメルケル首相のいるドイツも含めて、多くの国では、無神論的物質主義は、政治警察、迫害、強制収容所などを思い出させる。
ロシアでは、ミハイル・カリーニンの時代、1930年に「神なき5年」プロジェクトによって教会は壊されイコンは焼かれ、聖職者や修道者が虐殺された。
アルバニアでもキリスト教だろうとイスラム教だろうと、宗教を信じているという人はすべて殺されたり強制労働に送られたりした。

東ドイツでは、プロテスタント教会は独裁からの避難所として機能し、1989年にベルリンの壁崩壊に至るデモの組織にはライプツィヒやドレスデンの牧師たちが大きな役割を担った。

これらの国々の人たちは、国家による20世紀の殺人が、神の名よりも、科学の名や無神論の名でより多く犯されてきたことをまだ覚えている。

一方、メルケル首相のドイツキリスト教民主同盟や、キリスト教社会同盟など、主要政党に「キリスト教」の名が冠されるなんて、フランスでは考えられない。

アメリカと宗教の関係も根が深いけれど、フランスの反教権主義の根も深い。

そういえば2002年のマリー・ド・ラ・パッションというフランスの修道女の列福式にフィヨンが参加してヨハネ=パウロ二世に謁見しているけれど、フランス革命で殺され殉教したサロモン・ル・クレールが10/16に列聖された時は、フランス革命を加害者にする儀式には出られないとして、カズヌーヴ内務相(宗教も担当)が欠席した。

それにもちろん、フランスではイスラム過激派はもちろん、普通に敬虔なイスラム教徒をどう扱っていいか分からない、彼らだけを差別していると取られると困るから宗教全部を規制しようという動きもある。

『シャルリー・エブド』など、イスラム教への揶揄より何倍もひどいというより下品な表現をカトリックに向けているのは有名で、フィヨンにもそのネタが応用されたわけだ。

フィヨンがカトリックのボーイスカウトに属していたこと、息子たちもそれに続いていることまで、まるでベネディクト16世がヒトラーユーゲントに組み込まれていたのと同じように書き立てているメディアもある。

なんだかいろいろなトラウマをまだ消化も昇華もさせないで抱えているような複雑なものが底に流れている。
オーストリアの状況もそうだし、イタリアの国民投票もリスクが大きく、ヨーロッパは一体どうなるのだろう。
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# by mariastella | 2016-12-03 08:15 | フランス

イエズス会のジョーク

イエズス会士とフランシスコ会士とドミニコ会士を比較するジョークは面白い。
いろいろ考えさせられる。

****

ある人がフランシスコ会士に、懸賞でレクサスが当たるようにノベナをお願いしたいと頼んだ。

(ノベナというのは、「9日間の祈り」という意味で、イエスが昇天してから弟子たちが9日間ひたすら祈り続けたら10日目に聖霊が降臨したという話に由来するとも言われる信心行で、聖母や聖人に神への執り成しを頼むものだ。個人でもできるけれど、修道会に頼んで祈ってもらうとより「効験」あらたかそうなのか、いろいろな折に修道会に寄進してノベナを頼む人がいた。それをふまえたジョークだ。)

フランシスコ会士は「レクサスって何ですか?」と答えた。

「高級車ですよ」

「おやおや、聖フランチェスコさまは、それは清貧の誓いに反するとおっしゃるでしょうよ。
残念ですが、私にはその種のことのために祈ることはできません」

その人は次にドミニコ会士を見つけた。

「レクサスが手に入るようにノベナをお願いしたいのですが…」

「レクサスって何ですか?」

「高級車です」

「おやおや、聖トマス・アクィナスさまはこの世の財への愛から身を守るようにおっしゃっています。
残念ですが、私にはその種のことのために祈ることはできません」

がっかりしたその人は、最後にイエズス会士に頼むことにした。

「神父さま、お願いです。レクサスが手に入るように私のためにノベナをお願いできるでしょうか…」

「ノベナって何ですか?」

*******

このジョークについてのイエズス会士の解説はこうだ。

イエズス会士の活動範囲は広くて、天文学者、数学者など科学者もいれば、エコロジーの専門家、経済倫理学、ロックミュージックから国際政治、インターネット、映画、ダンスなどいたるところで活動している。

いたるところで神の働きがあることを明らかにしたり問いかけたりすることが使命だからだ。
世間の垢にまみれることなく世間の中で活動する、という姿勢だという。

イエズス会出身の現教皇が聖フランチェスコを崇敬していて教皇として初めてフランチェスコ(フランシスコ)を名乗ったことなど考えると楽しい。

イエズス会を創始したイグナチオ・ロヨラには峻厳なイメージがあるけれど、
同時代人のLuis Gonçalvès da Câmaraの証言によると

「小柄で、少し足を引きずっていて、いつも楽しそうな眼をしていた」

そうだから、ジョークだってOKだったかもしれない。
それにしても、18世紀後半にローマ教会から一度禁止されてしまった修道会から250年後に教皇が出たというのも考えてみるとすごいことだ。

フランシスコ教皇も、いつも楽しそうな眼をしている。
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# by mariastella | 2016-12-02 03:53 | 宗教

『後妻業の女』

日本からの帰りの機内で見た日本映画のひとつが『後妻業の女』。

日本映画の独特のおもしろさをよく伝えているので、見ていて「日本人としての視点」を離れることができない。

よくできた映画は、どんなに特殊な国の話でも、遠い過去やありえない未来の話でも、その特殊性の中にかえって普遍的な人間性がくっきりと見えてきて、観客の自我の普遍的な部分に訴えて人間性を養ってくれるところがある。

でもこのタイプの日本映画って、どこかでとても日本的な心性に居直って作られているので、見ているとすごくおもしろいのだけれど、「普遍」どころか、いわば末梢神経を刺激されるような満足感に着地する。

大竹しのぶや豊川悦司が巧いのは分かるが、特に印象的なのが、笑福亭鶴瓶だった。

大竹しのぶらは「演技が巧」いので、このブラック・コメディが生き生きと展開する。

でも笑福亭鶴瓶の演じるキャラは、なんだかリアリティがあって怖い。

笑福亭鶴瓶という人は、いかにも飾り気がなく優しく楽しく、誰からも親しまれて好かれるタイプだと思う。
彼がそのキャラのまま出てきて、それが実は、後妻業のカップルを上回る「ワル」だったという設定だ。
こういう「見かけによらない悪い奴」というか、「相手を警戒させない見かけを武器にした悪い奴」というギャップの怖さが、鶴瓶だからこそ強烈だ。
そして、ある意味リアルだ。
こんな奴はいくらでもいる。いや、人は誰でも「他人を警戒させないようにふるまって生きている」のだから、その本音が出るか出ないかは紙一重の差ではないか、と思えて怖くなった。

その点、「後妻業」カップルは、もちろん詐欺のために表の顔をつくろってはいるのだけれど、いわば「分かりやすいワル」であって、相手が下心や欲で目が曇っていない限り、「想定内のワル」だ。

一方、鶴瓶の演じるワルは、にじみ出る「全人格」を裏切る想定外のワルであり、相手の「無防備」を襲う最もたちの悪いものだ。

こういうタイプをこういう形で見せるのは日本映画以外で見たことがない。

いいことにつけ悪いことにつけ、癖になる感じのすごく日本的なツボというのは確かにある。

今回、ハロウィーンの後では、日本でもクリスマス用のデコレーションや小物がたくさん売っていた。
その中には、同じように、日本以外では絶対お目にかかれないような、独特のものがたくさんある。やはりどこか末梢神経を刺激するような、とか言えない。
とても新鮮で、日本にいた時あれこれ買いこみたくなった。

いやいや、私は中東やアフリカに帰るわけではない、フランスに帰るのだから、クリスマス用品やプレゼントはいたるところで売っている。日本のようにクリスマスが終われば正月用品に切り替わるのでなくクリスマスと新年が一体化しているから、市場の規模も大きい。フランスで買えばいいのだ、と自分に言い聞かせてセーブした。

フランスに戻ればやはりクリスマスセールが始まっていてとても華やかだし、奇麗なものがたくさんある。
けれども、ちょっとひねった、ガラパゴス・テイストのものはない。

LEDランプが一般化してからは家庭用イルミネーションの種類はぐんと増えたし、メイド・イン・チャイナのものもたくさんある。でも、全体的に大味、正道、というか、普通というか、がほとんどで、あとはブランド品や伝統工芸品などのすてきなものがあるけれど、日本のようにはっとするひとひねりしたものが巷の隅々にまでほとんどデフォルトになっているのとは違う。

『後妻業の女』のおもしろさを考えていたら、そんなことに気づいてしまった。
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# by mariastella | 2016-12-01 03:18 | 映画

子供と政治 その2 と、聖霊

8歳の少年と世界情勢を話す

この夏、日本で参政権が18歳に引き下げられた話題を見ていて、まるで子供に政治について説明してやらなくてはいけないという調子のものが少なくなかったのに驚いた。

フランスでは高校生がデモに参加するというのは社会の通過儀礼のひとつのようなものだからだ。

日本でも私が高校生だった頃は、いわゆる大学紛争のあった「政治の季節」で、政治活動に参加したり議論したりする高校生はめずらしくなかった。

フランス人はもともと、ホームパーティでもメトロに乗り合わせた者同士でもバカンス先でも、政治の話をするのが好きであり天気の話と同じくらいにハードルが低い。それでもこの夏に8歳の少年と2人きりで小1時間も世界情勢の話をすることになったのは初めての経験だった。

家庭で大人たちといっしょにテレビニュースを見て大人たちのコメントを聞いていろいろ考えていたらしい。でも最も意外だったのは、少年と話していると、普段仲間と議論している時とは全く別の言葉が私の口から出てきたことだ。

まず少年は、フランスの極右政党の党首を批判して、

「フランスから外国人を追い出すと言うのはよくない、外国人のいないフランスはフランスではない」

と言いだし、その党首が人種差別主義者だとかなり激しく弾劾した。
これが大人と話しているのなら私も同意したかもしれないけれど、不思議なことに私はその党首を弁護し始めた。

「でも彼女(党首ル・ペンのこと)のような人が自分の意見を言えるということが表現の自由だし、彼女のような人がそういうことを言ってくれるおかげで、『それは良くない』と人々が批判したり差別の存在を意識化したりできるから大切なことよ。差別感情は必ずあるもので、もし誰もそれを外に出さないままでいたら、偽善がまかり通ったり排外感情が蓄積したりなどもっと深刻なことになるよ。」

と言ったのだ。

「彼女のような人の発言のおかげで私たちは自分の感情も含めて何が正しくないことかについて考えることができるでしょう」と。

次に少年はイランの情勢について語り、イランは大統領がいる共和国で民主主義だと言ったが、私は

「問題は、そういう政治システムとの上に宗教のリーダーがいて、宗教のリーダーが最終的な権威を持っていることだ」

と言った。

「イスラム共和国はイランを利用したけれど、イランにはゾロアスターの伝統も生きていたし、日本に仏教が伝来しても民間信仰と習合したように、一宗教のリーダーが上から社会を縛り異質なものを排除するのは民主主義とは言えない」。

こう話しながら、ああ、政教分離というのは人間が獲得した本当に大切な知恵だなあ、と私は初めて実感した。

話はさらにフランスから遠ざかり、少年が、今度は「絶対悪」として北朝鮮を引き合いに出して来た。

それにも驚いたけれど、私はまたもや弁護し始めた。
朝鮮が分裂したのは当時の政治イデオロギーの対立のせいでむしろ犠牲者であること、その後冷戦が終わって北朝鮮はソ連から見捨てられ、市場経済政策によって欧米と接近した中国からも裏切られて孤立せざるを得なくなったこと、などを説明したのだ。

切って捨てられるような「絶対の悪はない」と。
実際に人の自由や安全を脅かす個々のケースを批判して対応しなくてはならない。

同時に、政治や社会を論じる時には、「恐怖」と「怒り」に基づいてはいけないと話した。
「恐怖」にとらわれている時には正しい判断、識別ができないからだ。

また「怒り」に駆られた時は、必ず自分が絶対正しいと思ってしまうからだ。ところが「絶対正しい」などということはあり得ないのだから、怒りにまかせた判断は必ず間違っている。いったん怒りを鎮めた後で状況を検討し判断しなくてはいけない。
これはセネカの『怒りについて』の受け売りで私が自分に課しているものだけれど、少年はすべてについて納得したようだった。

共和国理念よりも上にあるもの

「外国人とは何か」についても話し合った。私は日本人だし、フランス生まれの少年も祖父母やその前まで遡ればフランス以外のいろいろな国のルーツを持っている。
少年が「ぼくはフランス人というより外国人かもしれない」とむしろ自慢げに言った。
私はこれに対しても、普段とは違う反応をした。

「いや、きみはフランス人だよ。フランス人というのは国籍や血統でなくてフランス語とフランスの理念を共有しているかどうかだから。その意味では私もフランス人だと思う。」

そして「共和国理念」とは自由・平等・きょうだい愛(フラテルニテ)だと付け加えた。

「きょうだい」とは、人種や言葉と関係ない普遍的な人類のことだから、人種差別や外国人排斥とは相容れない。
たとえこの理念が現実には反映されていなかったり捻じ曲げられたりしているとしても、これを掲げるかどうかは譲れないところだ。

話がこの段階に入った時、少年はいたずらっぽく笑って、「いや、その理念よりももっと大切で上位に来るものがある」と言い出した。

「なんだか、分かる?」

「分かるよ」

私は腕を広げた。

さっきまで真剣な表情で「天下国家」を論じていた少年は天使のように幸せな表情で私の腕の中に体を投げかけてきた。

「アムール(愛)!」

二人は同時に言った。

私と彼が話しているあいだに「聖霊」が二人のそばにずっといたことを感じた。

夏休みに入り、旅行に行く前にうちに寄っていた少年とのひと時である。
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# by mariastella | 2016-11-30 01:20 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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