L'art de croire             竹下節子ブログ

大統領選を前にしたテロ

大統領選3日前のシャンゼリゼでのテロ、誰もが、2004年のマドリードの列車爆破テロのことを思い出す。あれも総選挙の3日前だった。(スペインは王国だから大統領がいなくて、日本やイギリスのように総選挙の結果で政権が決まる)

テロの後すぐに当時の保守政権がそれはバスク独立派のテロだという見解を出したが、選挙当日の朝にアルカイダが声明を発表し、スペインがアメリカに従ってイラクに派兵したことを断罪された。
政府がバスクに責任転嫁しようとしたのも意図的だと見なされて、結局、選挙では左派が勝利して、スペインはイラクからも撤退した。

この展開に対して、それではイスラム過激派のテロの思うつぼになったのだと批判した人たちも多くいる。

今回のシャンゼリゼのテロの警官狙撃犯は39歳で、23歳の時にも警官殺しをしていて、釈放されてからもまた警官をねらった要注意人物だったという。昔から警察への憎悪があるわけで、大統領選に向けたISの煽りに乗った形だ。

シャンゼリゼはパリでも最も警戒が厳しい地区で、言い換えれば、その気になれば警官も憲兵も兵士もぞろぞろいるので彼らを標的にするのは簡単だ。

今の警官は対テロ仕様になっているから、すぐに射殺される率は高いけれど、もともと警官を殺すことが強迫観念になっているような人物のようだからそれは抑止力にならないのだろう。

ル・ペンはもちろん、自分が大統領であればこんなことは起こらない、とコメントした。金曜が最後のキャンペーンの日なので、各候補はこのテロに対する声明をいろいろ工夫せねばならなかった。

候補者の最年少のマクロンは39歳で今回の狙撃犯と同じ年齢だ。

狙撃犯のカリム某は、パリ郊外生まれで、家宅捜査されたうちもパリ郊外だ。詳しいことは分からないが、おそらくいわゆる「イスラム系移民の子弟」なのだろう。

39歳。

リセのフランス語教師と結婚して銀行家として成功し、大統領の顧問となり、財務大臣にもなり、そのポストを辞めて大統領選に立候補し、ナポレオン風にカリスマ性を発揮しているマクロン。

20代から警官殺しが頭から離れないカリム某。
イスラム過激派と接触したのはご多聞に漏れず刑務所内なのだろう。

何だか反動でマクロンを応援したくなった。
ブノワ・アモンが大麻を合法化すると言っていることもしっくりこない。

39歳でも、大統領になろうとする人がいる。
多くの人に多くの希望を与えて多くの期待を担おうとする人がいる。

青年には大志を抱いてほしい。
テロリストになって天国に行こうなんて自分本位のことを考えないでほしい。
国や、世界や地球のために何ができるか考えることだってできるのだ。
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# by mariastella | 2017-04-22 00:10 | フランス

こんの げん さんの作品を見て考えたこと その2

これは前回の記事の続きです。

こんの げん さんのfacebookを拝見したら、イントロに「保存修復技術 à 東京芸術大学大学院」と書いてあった。

正確にどんなことをする技術なのかは分からないけれど、今回の展示を見た時に、最初に、どこの遺跡の発掘物の展示だろう、などと思ったことを思い出した。

今回の作品は、火災のダメージを受けたものを「修復」するどころか、自然の力によって加作されたもの、メタフォルモーゼしたものとして提示されている。

作者のクリエイトの上に別のクリエイトが上書きされた。

では、制作における作者の驚くべき緻密な技術を支える「保存修復」技術と、この被災の力を取り入れることはどう両立するのだろう。

こんのさんの経歴を見る前に、引き続き以下のような趣旨のメールをお送りした。

*****
こんのさんの「宇宙は異質な物質が満たされている」という言い方に触発されて、電子の話を想起したのだが、ほんとうは、彫刻作品が現出するにあたっての「有」と「非有」の関係を考えていること。

ウパニシャドで、宇宙の初めは「非有」しかなかった、という時、それは「無」とか「空」のような単純な存在否定の意味ではなく、すべてのものが混有する存在混迷で、何物も他から区別されていない渾沌だということだ。「有」は存在秩序が「名と形」に従って分節された事象のシステムで、すべてのクリエーションは存在形成力ということになる。

これはむしろ井筒俊彦さんの受け売りの考え方なのだが、私にとって、彫刻作品とはすべて何かのマチエールから存在を生む行為だと思っていた。

けれども、今回こんのさんの作品の展示を見た時、そこに働いていたのは、コスモスからカオスに戻す、クリエイトとは逆の「非有」の力だったわけだ。

それが、「有」と「非有」の境界領域を可視化してくれたから魅力的だったのか、あるいは、クリエイトを破壊する「暴力」に抵抗する何かが露出したから魅力的だったのかどちらだろう。

作品が完成するのは鑑賞者と作品の間だ。
でも、これまではその出会いは、作品に凝縮し、周りにも漂っている作者の意図、作者が見ていたものとの出会いのような気がしていた。

ルミネでの展示では、それが損なわれた現場と遭遇したわけで、そのインパクトが、創造よりも破壊から来るのだとしたら、アートとはいったい何なんだろう、と衝撃を受けたわけだ。

****

以上。

こう書いた後で、(多分文化財の)「保存修復」にも精通したこんのさんが、自分の作品を「被災」から修復しなかったばかりか、そこに新しい力を認めたのはなぜだろうと、あらためて考えた。

ルミネの展示会で、ショップの人にお話をうかがった時に、「アトリエの火災があったのは、東日本大震災のすぐ前のことで、その後に震災が起こったので、それどころではなくなった」というような話を聞いた。

あの東日本大震災の津波などの圧倒的な暴力的な映像や、破壊、自然の風景や人間による構築物の姿が一変した様子は、多くのアーティストにとってトラウマになったと思う。

それに加えて、一見自然の風景も町の様子も変わらないのに、放射能という目に見えない毒のために見捨てられて廃墟化していく町を見る不条理。

外的な力が加わる破壊と、見捨てられることによる崩壊の両方を私たちは見せつけられた。

最近、自らも炭鉱で働いたことがあるという柿田清英さんによる軍艦島の写真集を見た。

一瞬核戦争後のどこの廃墟かと思うような荒涼とした風景なのに、たった数十年前に人々が「そこから去った」というだけで、町が、生活の匂いが、荒廃し果てている。

フランスには何百年も前に建てられた教会などがたくさんある。

パリのノートルダム大聖堂は850年以上建っている。
もとは外壁が彩色されていた。今はステンドグラスを除いては中も色の名残がない。
宗教戦争の時、フランス革命の時、何度も外も内も破壊の対象になった。

でも、何度も何度も「保存修復」が重ねられてきた。
しかしそれは、決して、彩色された「元の姿」を再現しようというこだわりではない。

「保存修復」しようとされてきたのは、「建物」ではない。

「建物と人間の関係性」である。

ノートルダム大聖堂は、軍艦島や放射能汚染地域のように「見捨てられた」のではなかった。いつも、セーヌ河のシテ島で人々の真ん中にあり、ゴシック聖堂の誕生を何世代にもわたって祈念してきた人々や石工たちの技術の跡を内包していた。

軍艦島の写真が怖いのは、そこに移っているのが時間や災害による崩壊ではなく、忘却と絶望だからだ。

日本でも、奈良時代平安時代からあるような寺院や神社の古びた感じは、いつも人々と共にあり、霊性を内包した枯れた味わいがあると受け入れられてきた。

最近になってきらびやかな色彩の当時の形に再現されたものもある。
その中には、「建物と人間との関係性」を考慮しないものもある。

こんのさんが火災後の作品を展示しているのは、それが受けたものが忘却や絶望ではなく、火災による傷跡と対面したこんのさんが、自分の作品との新しい関係性を発見し、その創造性をあらたに人々の前に提示したのだろう。
こんのさんが、自分と作品との関係のラディカルな変化を私たちと共有したいという「意志」そのものがクリエイトなのだろうと思うと、納得がいく。

忘却や絶望や負のエネルギーのベクトルなど、所詮、人間の価値判断で決まるものではないと改めて考えさせられた。

いのちとは、関係性の中にだけ宿る。
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# by mariastella | 2017-04-21 02:37 | アート

機内で観た映画 その3『海賊とよばれた男』と『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

今回も帰りは昼間の便なので、日本映画も2本観ることができた。

『海賊とよばれた男』は、百田尚樹の原作で「永遠の0」と同じチーム、主演だというのでひるんだのだけれど、モデルになっている人の関係者を個人的に知っている事情もあって好奇心があった。

知らなかったことをいろいろ知ることができたという点ではおもしろかったけれど、ここまで「男」の論理、力と突撃の賞賛というのは私のポリシーと逆なので、評価のしようがない。

モデルになった人物がかなり大柄だったようなのに比べて主演の俳優が小柄だけれどカリスマ性があって大きく見える、というのは興味深い。大作であるのは確かだ。

それでもやはり、戦争の「男らしさ」をこれでもかこれでもかと見せつけられるのには少し食傷して、それとは別世界の小品ファンタジーを口直しに観ることにした。詰まらなかったら途中でやめようと思ったのに最後まで観てしまった。

『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』というかわいい作品だ。

ライト文芸の名作と言われているものが原作だそうで、20歳の学生同士という主人公の男女がさわやかで初々しくて楽しい。アニメを見ているみたいだ。

普通のラブストーリーかと思っていたらSF化していき、なるほどこうなのかと驚かされるところも、なんとなく「君の名は」を思わせた。

ついこの前、出町柳の駅を通ったので京都が舞台だということに親近感があったけれど、登場人物の誰一人として京都風や関西風の言葉を話さないのは、原作がそうだとしても違和感がある。

というより、このストーリーには、地方色のないフラットな感じの方が似合っているので、「京都」という背景の方が違和感があるくらいだ。

もちろんあり得ない設定なのだけれど、無理をして受け入れると、すべてのシーンが二重の意味を帯びてくるというのがよくできているし、なんだかループ状になったビルドゥングス・ロマンみたいだ。

それにしても、『海賊とよばれた男』の世界と『ぼくは明日…』の世界の若者の心性は違いすぎる。平和で戦わない、という感じの後者が今の若者のスタンダードなのだとしたら、ほっとする部分と、そんなに内向きで大丈夫か、と心配になる部分とがせめぎあう。
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# by mariastella | 2017-04-20 05:29 | 映画

テレマンの『ブロッケス受難曲』

今年の復活祭は最高だった。

聖週間にパリのフィルハーモニーでテレマンの『ブロッケス受難曲』を聴いたからだ。

フィルハーモニーは去年、ヴィオラでジル・アパップのコンサートに参加したから特別の感じがする。

すばらしかった。

演奏が終わったら聴衆がすべてキリスト教徒になっていた。
美は回心をもたらす。

今、この曲を演奏するのにピグマリオンの古楽器オーケストラは最高だと思う。
ひとつひとつの楽器の音がきれいに聞えてきて音響も独特だ。
オーボエの音色の美しさは際立っている。
フランスでは「キリンのクラヴサン」と呼ばれている縦型のチェンバロ、クラヴィツテリウムも珍しい。

このメンバーの演奏を、フランス語の字幕付きでこのシーズンに聴けるなんて至福だ。
日本で日本語の字幕でこの曲をこのレベルで聴く機会はあるのだろうか。
音楽の好きな日本の友人みんなが聴けるといいのに。

序曲に当たる部分はヴァィオリンやヴィオラも全員が立って演奏していた。
もう気分はオペラ。

バッハの受難曲のように福音書の語句を歌詞にしたものではなくてブロッケスは書き下ろしの台本だ。完全に当時のバロック・オペラの心性である。

バロック・オペラの悲劇にもいろいろと錯綜したストーリーがあるが、考えれば、イエスの受難劇ほど倒錯したものはちょっと考えられない。

この台本では、これでもかこれでもかとイエスの苦悩が語られているのだけれど、それに対して、聞き手は、「私たちの罪のせいでイエスが苦しむ」と罪悪感をかきたてられるとともに、そのイエスの苦しみによって罪が消えるのだから喜びでもあって、満足感が得られるという仕組みになる。
救い主の苦悩がそのまま救い、というわけで、イエスの受難がつらいほど喜びも大きくなる。

彼は苦しみの中で美しい、なんていう言葉も繰り返される。

ほとんどがアリアやレシタティフで楽器だけの曲は少ないのだけれど、たまに、明らかにダンス曲のモティーフがはいっていて甘美さが導入されるのもおもしろい。

曲の変わり目の「沈黙」の部分の静寂はまさに死のような凍り付いた「休止」で怖い。
普通は、音楽における休止は音楽の一部であって真空ではなく、音が満ちてきているか吸い込まれていっているかのどちらかなのだと生徒に教えている。
でも、この受難曲のアリアをつなぐ「沈黙」はほんとうに深淵というか、ぎっしりと無がうずいて肺腑を抉る。
「祈り」だと言いたいところだけれど、そんな能動的なものがはいる隙のない「絶望」なのだ。

この「絶望」はやはり「死」であり、復活祭とはイニシエーションなのだということがよく分かる。「キリストの信仰の中では永遠に生きる」などというが、真の「絶望」に打ちひしがれることでのみ捕らえることのできる光というものがあるのだと、新しい歌が始まる度にすがりたくなる。

「登場人物」が、地の文を語る福音史家、イエス、ペトロ、ユダ、ピラト、イエスを殺そうとする群衆らの他に、「シオンの娘」とか「信じる魂」とかいうソプラノが一人称単数や一人称複数で歌い、それがちょうど聴き手のスタンスと重なる。臨場感というより、登場人物になったような気がするのだ。

もうずいぶん前にバッハのヨハネ受難曲を聴いたとき、演奏の後で指揮者が音をおさえて、手で観客の拍手を制したのを見たことがある。キリストの受難を拍手してはいけない、という意味が伝わった。普通の演奏会ではない。霊的な意味がある。

ブロッケスでは、拍手できる。なぜなら、キリストの受難は我々が罪を赦されて天国を約束された喜びであるからだ。

しかもこのブロッケス受難曲、テレマンのものが最も優れていると言われるが、今回聴いたものはそのテレマン自身が、自分の作品だけでなくカイザーやヘンデルやマッテゾンのヴァージョンを自由に継ぎはぎした良いとこどりの「パスティチョ」と言われるものらしい。
世俗のオペラ座のために作曲するものではなく、宗教的文脈の中でだけ演奏されるために作られたものだから、著作権がどうのという感じの問題は起こりようがない。

いくらでも贅沢な作品を構成することができるというわけだ。

テレマンとヘンデルの共作なんて、信じられない。でもそれこそがこの曲の豊饒さの秘密なのだ。

こんな受難曲を聴いた後の復活祭の日曜日は、ローマの青い空と白い雲を背景にしたフランシスコ教皇の挨拶と全免償をテレビで聞く前に、アイルランドのスライゴのカテドラルのミサ中継を観た。
ヘンデルのハレルヤが高らかに歌われる。
先に退場した司教は、出てくる信徒の一人一人に握手している。
司教の手に接吻するシスターもいれば、差し出された手を無視する子供も、いやいや手を握る、明らかに養子らしい黒人の子供もいる。

ヴァティカンでは、グノーの行進曲とイタリア国歌、スイス人の衛兵にアルゼンチン人の教皇と、これもなんだか現実離れした光景が繰り広げられていた。

その後の番組が、今福者申請中のジョセフ・ヴレジンスキー神父だったのにも感銘した。それはまた別の時に書こう。イエスが復活してほんとうによかった。
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# by mariastella | 2017-04-19 06:17 | 音楽

機内で観た映画 その2『ムーンライト』など

日本からの帰りの機内で観た映画。

まず『ムーンライト』。

オスカー受賞作品の発表の折の間違いなどで『ラ・ラ・ランド』と話題を分け合った『ムーンライト』だが、「ラ・ラ・ランド」はパッとしない平凡な映画だと思ったけれど、「ムーンライト」はもっとつまらなかった。

去年のオスカーで黒人映画と黒人の不在について批判の声が上がったこと、

そして排他主義、差別主義者と言われるトランプ大統領誕生への映画人による抗議、

この二つを背景にした、いかにも政治的な判断による選択だなあと思う。

何だか黒人の黒人による黒人のための映画みたいな雰囲気で、しかし、黒人のコミュニティだけで起こることという必然性はない。
シングルマザーの母親はドラッグ中毒、同性愛傾向ゆえに「弱い者いじめ」の対象になる少年時代、大人になってからのこと、すべてが黒人コミュニティの中で起こる出来事だけれど、黒人でなくとも成立するテーマだ。
人種差別そのものはテーマになっていない。

貧困や麻薬の取引などは確かに社会の弱者のところに起こってくるが、それが黒人の場合にだけ、より大きな意味を持つわけではない。

他のカテゴリーにおいても貧困のきっかけとなるものはたくさんある。

インデペンデント系黒人映画がこのように持ち上げられること自体に、アメリカの人種差別の根の深さを感じて愕然となる。

唯一興味深かったのは、月光の下で浜辺を駆ける黒人の肌が青く見えてブルーというニックネームがついたことや、黒人少年に自信を与えるために、メンターが、黒人はマイノリティではなく世界中にいること、人類のすべてはアフリカから来たので黒人が人類の祖先だからだ、という感じの話をしている場面だ。人類学の成果は社会的にも役にたっているわけだ。

『素晴らしきかな、人生』デビッド・フランケル

『ムーンライト』に比べると、多人種多民族が共生している大都会での広告会社の「成功者」の実存的鬱を扱ったこの映画の主人公が黒人のウィル・スミスだということの方がずっと意味がある。

この主人公がウィル・スミスだという必然性があるからだ。黒人だということも含めて、彼の全人間性がこの役にぴったりだということで、政治的公正などとは関係がない。

日本語タイトルは過去の名作映画から借りているものだけれど、キイワードとなるオリジナルのタイトルの「Collateral Beauty」は映画の字幕では「幸せのオマケ」と訳されている。

フランス語では「Beauté cachée」、つまり「隠れた(隠された)美」となる。

英語では、愛する者を失うという試練にもそれに付随するビューティ(美しさ)がある、という感じだが、フランス語では同じ単語が存在するにもかかわらず、「隠された」という訳をしている。

つまり、付随はしているのだけれど、表には現れていない、表裏をなした関係だという感じがする。

死は誕生と同じで、存在と非存在、実在と非実在との境界領域が一瞬可視化される現象だから、そこに人為の届かないある種の美が表出するのを感知することがある、という含意だろうか。

「美」とは人間の生死を超越した世界を反映する何かであるという感じもある。

ところが、日本語の訳は「幸せのオマケ」。

「美しさ」では通じない。

「幸せ」。

しかも「オマケ」。

これってベースにある文化の違いが翻訳不能を起こしているのだろうか。

ストーリーは、類型的なサブストーリーが並行しているもので、その中でも、意外なオチや、余韻がいろいろあって、まあ楽しめて後味がいいということではアメリカ映画らしい着地点だ。

『LION/ライオン』-25年目のただいま-  (ガース・デイヴィス)

はフランスでも話題になっていた実話がベースのオーストラリア映画で、主人公の少年も青年も名演だし、インドとオーストラリア本土とタスマニアのスラムや都市や自然が対照的で、今回の機内映画で一番面白かった。
ニコル・キッドマンらの演じるブルジョワ夫婦が地球の未来を考える「意識高い」系のディープな人で、それだけでは善人過ぎて押しつけがましいのだが、養子の二番目が自傷癖の自閉症らしい生涯を抱えているなどの困難にぶつかるというリアリティがある。

そしてインド、オーストラリア、とほんとうに「イギリス連邦」the Commonwealthってあるのだなあ、そしてそのアイデンティティがクリケットというのも本当なんだなあ、と再確認させられた。

Brexitの時に、ポーランドなど東欧の移民は受け入れられないが、クリケットをやるイギリス連邦の国からの移民は全く差別なくOKなのだから、いわゆる人種差別ではない、とケン・ローチが言っていたのを思い出した。
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# by mariastella | 2017-04-18 00:29 | 映画

機内で観た映画 その1 『ラ・ラ・ランド』など

まず、往きの機内。

「この世界の片隅に」については以前に書いた

他には、フランスでは観に行く気がしなかった『ラ・ラ・ランド』。

フランスでは、監督があまりにも、ジャック・ドミの映画に影響を受けた、「ロシュフォールの恋人たち」の衣装の色彩、「シェルブールの雨傘」の語り方、などと繰り返していたので なんだか新鮮味がなかったからだ。
実際、ファッションはロシュフォール風、失恋と再会はシェルブール風、だった。
若者の恋と別れというクラシックなテーマは前に機内で観た「イフ・アイ・ステイ」を彷彿とさせた。でもあそこにあった自己犠牲テーマはここにない。
エマ・ストーンはかわいいけれど、男がちょっと若さに欠ける。

おもしろかった映画は「手紙は憶えている」だ。

90歳で、前日の記憶をなくす認知症気味の老人のロード・ムービー風構成そのものの意外さに加えて、途中でのショッキングな展開とラストのどんでん返し、と、よく出来過ぎ。ワグナーをピアノで弾けてしまうのも怖い。
何よりも、クリストファー・プラマーが主演というのが感無量だ。

「サウンド・オブ・ミュージック」のエーデルワイス、あれからもう半世紀以上経ったのだ。思えばあの頃のプラマーはまだ40歳前だったのだ。

彼の抑制の効いた謹厳な顔と、その奥にあるやさしさや温かさのギャップは、実に印象的だった。
それがこの映画では、大老人。
ナチハンターとして彼が追う人々も皆、当然90代の老人ばかり。でも、それゆえにこそ、彼らの表情のすべて、動作の全てが、実存的に迫力がある。シェイクスピア劇みたいだ。

亡命者、バイリンガル、秘密、カナダとの国境、どこを取ってもハラハラだし、なるほどと納得もいく。
プラマーが実はカナダ人で、この映画もカナダとドイツの共同制作という意味もなかなか興味深い。
日本人には、ユダヤ人もドイツ人もポーランド人も区別がつかない。

この映画のような逃亡の仕方は知られていてどのくらい発覚したのだろうか。
エドガー・ヒルゼンラートというホロコーストの生き残り作家がドイツ語で書いた『ナチと理髪師』という有名な小説があって、ドイツではなかなか出版されなかったちいうぐらい微妙な話なのだけれど、私の知っている限りでは、これが唯一、この映画のやり方につながっている。
フランスでは評価が分かれた。ホロコーストの記憶をスリラーの材料に使うこと自体を批判する人がいるからだ。私には十分楽しめた。
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# by mariastella | 2017-04-17 07:12 | 映画

こんの げん さんの作品を見て考えたこと

新宿のルミネ・エストでこんの げんさんの作品が展示されていたのに遭遇した。

すごい迫力の動物の面などで、どこの古い廃墟の彫刻の展示なのだろうと思ったら、現代の作品で、それが2011年に火災にあったものだと聞いて驚いた。

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とても魅力的で強烈だ。

火災以前の状態での展示の写真もあったので、それを見るといろいろと考えさせられた。
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ただの歳月による風化などではなく 一種の不可逆の暴力性というものがここまで、クリエートに跡を残すとは...
置かれていたノートに感想を残そうと思ったのだけれど、どうしても、作家自身がこの衝撃(暴力と創造)をどう受け止めてこれを新たな作品として発表したのかをまず知りたく思った。

たとえば、これにヒントを得て、別の作品をわざと燃やそうというやり方は絶対にしないような気がする。
暴力にさらされた後に残った、というより、それに対抗するように作品の中から噴き上げて来た生命力、外の炎に誘発された中の炎の一回性、というものを感じる。

このことによって、アーティストのそれからの制作に何か変化があったのか、ということにも興味がある。

で、このことをこんのさんに質問してみたら、次のようなお返事をいただいた。
転載してもよいとのことなので紹介する。

>>>問に答える前に、私の仕事上での基本的な考え方を説明させていただきます。
2001年より「同質な異質」というタイトルで活動を続けてきました。ちょっと大きな話になるのですが舞台は宇宙です。
無限の「異質」な物質で満たされていると思われる宇宙は、その構成する組成は100あまりの原子なのだそうです。更につきつめれば粒子に.......というように細かくすればするほど「同質」に近ずくように思われるのです。「異質」なものは「同質」であり「同質」は「異質」を作るというイメージを持つようになりました。
また、「今」という静止した瞬間はなく、存在すべての生成や消滅は生物も無生物も区別なく、「生まれる」や「死ぬ」を含めて、それは始まりでも終わりでもなく、一瞬も同じ形でとどまることのない重層的な変化や循環の過程だと思います。
このようなイメージを作品にしようと思い、誰にでもわかりやすい「たとえ話」の彫刻を作り続ずけているのです。「異質」の存在を表すモチーフは何でもよかったのですが、無限にある対象の中から主に選んだのは人間です。作る自分が人間だからというだけの理由です。「同質同形」の木のユニットを積み上げて接着したものを削り、「異質異形」の人間等を作り出し、普く全体へのたとえにしようと思ったのです。
「同質」から「異質」への生成の場面ばかり制作してきたのですが、なぜか違和感をかんじていました。「でもまあ作ったものよりも作るにあったっての考え方自体が作品なのだから、まあいいか!」と思っていました。
図らずも人為を超えた消滅してゆく作品が手に入ったので活用させていただいたわけです。但しこの作品群は私の作品ではありません。宇宙が作った宇宙の作品です。
自分の作品でないもので個展をやる。なにか後ろめたいような気もしますが、愉快でもあります。
私は作品は作り手の意図よりも見て頂いたときに意味を持つ(完成する)と思っていますので「魅力的」「迫力がある」という評価をいただきとても嬉しいです。
「この衝撃(暴力と創造)をどう受け止めてこれを新たな作品として発表したか」についてはすでに答えさせていただいてしっまたようにも思いますが、私の制作態度は、「宇宙の神秘」とか「驚異」というような感性に根差すものではなく、エネルギー保存の法則的なイメージに根差すものです。ですからきわめて淡々と受け止めて,また発表もさせて頂いております。
人間の側から事象を見るのではなく宇宙の側から事象を見るということなのでしょうか、
これからも基本的なことに変化はありません。工夫をしながら制作を続けていこうと思います。<<<

以上がこんのさんからのご丁寧なお返事だ。

以下に、それについての私の感想(こんのさんへの返事をまとめたもの)を入れておく。

***

同質同型の木のユニットから、というのは見ていたので、なんとなく理解できる。

前に山田廣成さんという方の「量子力学が明らかにする存在、意志、生命の意味」という本を読んだ時のことを思い出した。

彼は「電子」にまで遡り、電子には自由意志があること、
そして意志とは「個体を統合する力を有する実体である」と定義する。
そして意志とは「他者から己を区別する力を有する実体」でもあり、
「他者と対話し干渉を起こす実体である」でもある。干渉を起こさなければ意志を有する意味はない。
個体同士は干渉し、認識しあい、自分を置くべき位相空間を決定する、
意志の振る舞いは確率統計原理にふるまう、確率現象は個体に意志と個性があるから発生する。
同じ電子は一つもなく、少なくともエネルギーが異なり、異なる位相空間に存在している。それが電子が意志を持つことと同義だ。人間だけではなくいかなる個体も何らかの意志決定をして存続している。個体にも意志にも階層性があり、位相空間での位置を決めるのは決定するプロセスの複雑さである。

こう考えると、こんのさんの「同質が異質を作る」というのはやはり偶然ではなく、関係性と意志の問題であり、最初の作品に働いたこんのさんの意志の上に、火災という熱と酸化作用が働き、すべての関係性が変化した、位相が変わった、のだと思える。

その変化が可視化されたところが、火災後の作品のインパクトを作っているのではないだろうか。
つまり、火災前の形の上に加えられた暴力によって、こんのさんの追求してきた「同質と異質」の関係が可視化したということだ。

人間の創造行為にとってほんとうに刺激的な問題だと思う。(続く)
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# by mariastella | 2017-04-16 04:41 | アート

フランスにあってドイツにないもの

朝のラジオで、ドイツの新聞のパリ特派員というジャーナリストが、あと十日を切ったフランス大統領選についてのインタビューを受けていて、興味深いことを言っていた。

フランスにあってドイツにないのは民主主義の代替案としての共産主義なのだという。

ドイツは東西分断の後、社会主義の東ドイツ(ソ連型ではなかったが事実上ドイツ社会主義統一党の寡頭政治だった)を吸収したこともあって、「共産主義」はトラウマになっていてもう「政権交代」の選択肢にないという。

そういえば、アメリカもマッカーシズムの共産党狩りがあったし、占領下の日本でもレッドバージがあった。戦前戦中の全体主義下ではもちろん迫害されていた。
その後、戦後の復興や、冷戦終結とともに、新自由主義の独り勝ちになって日本でも社会党は社会民主党になったし、共産党はスティグマを背負ったままだ。

フランスでも、共産党は長い間独自の大統領候補を立ててきたが、21世紀に入ってから弱小化して、2007年から、「左派戦線」のもとでの大統領候補の支援をしてきたり社会党と共闘したりしている。今の極左候補は社会党を2007年に離れて独自の左派党を作ったジャン=リュック・メランションだが、ここにきて共産党からコンタクトされているそうだ。

今回ル・ペンとメランションの対決などになったら、どちらもEU離脱志向なので大変だ。
極右ポピュリズムと極左ポピュリズムの対決になるなら、ほんとうにフランスの保守と革新の政権交代システムが変化してしまう。

私は今から秋までに「神、金、革命(共産主義)」という三つの普遍主義もどき、普遍主義的偶像崇拝システムの歴史と実態の観察をまとめる予定なのだが、この三つとポピュリズムとの関係についてもじっくり考えなくてはならない。

「神」も「共産党」もなくなったら「金」の独裁になるのかなあ。

そして民主主義は金の苗床をから栄養を得ているのだろうか。

神、金、革命が、民主主義とポピュリズムとどういう関係を持っているのかをもう少し分析しなくてはならない。
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# by mariastella | 2017-04-15 00:37 | フランス

復活祭の前に昇天

フランスに戻って最初に耳に入ったニュースは、極左の大統領候補メランションの支持率が今になって上がっているということだ。

ほんとうに「システムを変える」という公約をしているのはメランションだという見方が出てきた。
社会党公認候補のアモンは気の毒に、オランドが秘蔵っ子だったマクロンを暗に支持している様子があるようで、伸び悩んでいる。

おもしろいと思ったのは、メランションの突然の支持率上昇のことが

「復活祭の前の昇天」

と形容されていたことだ。

フランス語の語順で行くと「昇天、復活祭の前に」となる。

昇天と言ったがascension は「上昇」という忌で、ascenseur というとエレベーターのことだ。
社会的地位の上昇もascensionという。

ところが、今は、復活祭の前の聖週間の真っただ中。

最後の晩餐の洗足式が聖木曜日、聖金曜日は十字架の道行きもある受難のクライマックス、土曜日の夜に火がともり、日曜の朝にイエスの墓が空になったのを発見する追体験。

キリスト教国ではクリスマスよりも大切なもので、フランスに限って言うと、少なくとも、チョコレートの売り上げだけは、今でも、一年中で一番多い時期だ。イースター・エッグはもちろん、イエスを表す魚型、鐘、ウサギなどありとあらゆるものが、町のすべてのパン屋さんに至るまで埋め尽くしている。

で、その復活のイエスが40日間、弟子たちの前に姿を現して、自分の死と復活がすべての人の罪を贖ったという福音を伝え、それを広めなさいと言い残して天に上がったのを記念するのが
昇天祭ascensionなのだ。
復活祭が毎年変わる(春分と満月のタイミング)ので、昇天祭も毎年変わって今年は5/24。

その10日後には集まった弟子たちの上に「聖霊」が「降臨」する。

復活、昇天、聖霊降臨の三つがセットとなってキリスト教の信仰が生まれた。

だからこの3日間はフランスの祝日となっている。復活祭と聖霊降臨は日曜日に当たるので月曜が休日となる。
昇天祭は必ず木曜日なので、多くの学校が金曜も休んで四連休を作る。

で、気候がいいこともあって、復活祭、昇天祭、聖霊降臨祭の三つはキリスト教徒でなくともしっかり順序通りにインプットされている。

まず「復活」しないと「昇天」できない。

今、復活祭を前にした聖週間で、それなのに、メランションの支持率が上がったから、

「復活祭の前に昇天祭」という、言葉の遊びが通用するわけだ。

この他に、マクロンとメランションらについて、ラ・フォンテーヌの寓話もあちこちで引用されている。日本でもアリとキリギリスなどで有名なラ・フォンテーヌの寓話は、フランスの学校では必ずいくつかは「暗唱」させられる基本教養だ。

その他に、大統領選をめぐって、哲学者たちの言葉も引用されて飛びかっていた。

フランスはバカロレアで哲学の試験がある国だ。
与えられた課題について4時間かけて、意見を述べなくてはならない。
どんな優秀な答えでも、「先人」哲学者の言葉や意見の引用がないと減点される。
すべての高校3年生の必修科目だからいろいろ本も読まされるし叩き込まれる。

この辺の基本教養を共有しているから、フランス人はどんな人でも滔々と屁理屈を並べ立てる妙なスキルがあるのだし、社会問題や政治問題にも広く応用される。各種コメントのヴァリエーションも豊かだ。

日本から帰ったところなので、改めて不思議な感じがした。

なぜなら、私が帰る前日の日本のテレビは、あるフィギュアスケート選手の引退の特集ばかり繰り返し繰り返し流していて、それについてのコメントも、あまりにも同じようなものばかりだったのに驚いていたからだ。フランス的な感覚からいうとよほどの公的人物の追悼番組かと思うくらいだ。

日本のマスメディアに流れる言説があまりにも単純なことが、毎年加速しているようなのは気のせいなのだろうか・・・・
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# by mariastella | 2017-04-14 01:21 | フランス

復活祭の聖週間の始まりのカテドラルと桜

復活祭の聖週間の始まりは枝の主日だ。

エルサレムではシュロの葉だろうが、北のヨーロッパではもっぱら柘植の小枝で、一昔前のフランドルではどこのうちにも前の年に祝福してもらった枯れた小枝がおいてあった。

それは次の年に燃やされて灰の水曜日に額に塗ってもらう灰になるというリサイクル。

この写真で手前の人々が持っているのが柘植。

今では都会ならそれらしい大ぶりの葉を調達できるが、昔の田舎は本当に柘植一種だった。

基本なんでもよくて、自分のうちの庭の木の小枝を持って行ってOK。

教会はどこも歩いて行ける距離だからという事情もある。

何も持ってこなかった人に柘植の小枝を配って、小銭の献金を入れる場合もあるし、小枝を折って分け合うこともある。どんな枝でも聖水をふりかけてもらえば満足。

先日、生まれてはじめて日本の教会の枝の主日に参加したら、立派な葉っぱを、大きめのと小さめのとを選べるようにして全員に配っていた。

東京カテドラルの前は、人でいっぱいで、「ここだけ聖週間」という不思議なテーマパークみたいだった。

カテドラルには聖遺物が増えていて、フランス人の女性が、こういうのはルネサンス時代の巡礼者相手の金儲けだったから私は大嫌い、と、年配の日本女性にフランス語でまくし立てていた。

ミサの間に平和の儀とか平和の挨拶と呼ばれるものがあって、日本ではただ会釈するだけみたいな感じで席から離れないのだけれど、フランスでは、結構、席から移動して握手し合う。
抱き合う人もいればキスするカップルもいる。

東京のカテドラルでは隣がアメリカ人らしい女性2人(英語の式次第を読んでいた)だったので、つい握手の手を出すと、向こうもにっこりして握手したので、アメリカでもそれが普通なのかなあ、と思った。

目白の駅前の学習院大学の構内の桜が満開で「日本の復活祭」という趣があったので、インカルチュレーションってことで「桜の小枝の日曜日」にしたら奇麗なのに、お昼から聖水ならぬ雨が降ってきた。

一週間後にはもう花は散っているだろうけれど、復活祭には若葉も、よく似合う。
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# by mariastella | 2017-04-13 03:21 | 宗教

ニコラ・ブクリエフとロマン・デュリスの『告解』

3月にパリで観た映画、ニコラ・ブクリエフの『告解』は、原作がゴンクール賞受賞作の『レオン・モラン、司祭』で、第二次大戦中ドイツに占領された村でなんとか司牧を続ける若い司祭と、子連れの未亡人で共産主義者すなわち無神論者のレジスタンスの女性が告解室で出会い心を通わせる話だ。男たちが戦争に行って女たちが多い場所で人気を博す新司祭を苦々しく思ったバルニーは、告解室で司祭を観察して試そうとする。インテリ女性と揺らぎない信仰を持つ聖職者と、ナチスの支配する村の緊張。

この映画はジャン=ピエール・メルヴィル監督によって1961年にジャン=ポール・ベルモンドとエマニュエル・リヴァの主演で映画化されている。今回はそのリメイクで、未亡人でなく夫が逮捕されているバルニーに焦点を当てて描かれている。

主演はロマン・デュリスとマリーヌ・ヴァッチで、すごい心理戦が繰り広げられる。

バルニーが未亡人ではないのは、司祭の方にも彼女の方にも、恋愛にタブーを課すためだという。
監督は無神論者からカトリックに転向した人で、この映画は別にカトリック神父の独身制を批判したものではなく、愛が超越につながることを描きたかったのだという。

映画が終わった後、友達連れで見に来ていた3人の60代くらいの女性連れが、

「(結婚できるプロテスタントの)牧師の方がやっぱりいいよねー」などと言っている。

最近のカリスマ神父の結婚の話題があった後だから「やはりそこかい」と思ってしまう。別の女性が、

「牧師の方が小児性愛スキャンダルとかないしね」とも言う。

それはどうかなー。まあ奥さんが見張っているということはあるかもしれないけれど、特殊な少年愛の人が子供たちのリーダーとなるシチュエーション(クラブの先生、学校の先生、キャンプのリーダー)に置かれる場合、というのがリスクなんで、神父が独身だから即、っていうのは短絡でかわいそう。圧倒的に小児虐待の舞台になるのは「家庭」だという統計もあるんだし…と思っていたら、

そのすぐ後に続いた感想は、「戦争っていやねー、私たち戦争って知らないものねー」だった。

最後に移される針金のイエス人形みたいなもの(司祭が娘に作ってあげてこれが守ってくれるから一人で寝ても怖くないよと言った)が映る。これってスコセッシの『沈黙』のラストシーンのショットみたいだ。

結局は、中心となる恋愛そのものは、中学生同士の初恋物語みたいなのだけれど、愛と人間と神の関係もよくわかる。

自分たちの半径1メートルみたいな排他的世界で展開する愛って、絶対続かない。

高さも幅も深さも、2人の世界を超えた何かの愛に肯定されていると思わなくては、愛は「相愛」で成就した瞬間から枯れ始めて、衰退に向かうのかもしれない。
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# by mariastella | 2017-04-12 00:08 | 映画

アメリカのシリア攻撃

アメリカのシリアへのミサイル攻撃について、ヴィヴィエンヌ・ウェストウッドが、「もしヒラリー・クリントンが大統領になっていたとしても同じ結果だったろう」とコメントしていた。

これをどう読むかは各自考えて下さい。

私はこれについて、アメリカのプロテスタント倫理神学の大家であるスタンレー・ハウアーワスの言っていたことを想起せずにはいられなかった。

トランプの言辞は、完全にアメリカという国を「教会」と見なしている。
彼の忠誠や正義にまつわるレトリックは 長い間アメリカでシステムとして機能してきたキリスト教のレトリックと全く同じだ。アメリカの脱キリスト教の状況は、フランスの世俗化や日本の宗教離れなどの比ではない、重大な方向に向かっている。あそこまでアメリカ・ファーストとかアメリカに忠誠をとか言い切って通じてしまう背景には、「神のみに拠る」、神以外の権威を立てない、神以外を拝まない、という一神教の出発点にある超越価値という設定がある。

昨日の記事の続きにもなるが、その超越点を可視化したもの(ここではアメリカ)にを拝むようになればこれは「偶像崇拝」と言って、一神教の求心力に比例するくらい最悪のものになるわけだ。

「神の国」を夢みて出発したはずのアメリカが、いつの間にか「神イコール国」になってしまった。
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# by mariastella | 2017-04-11 00:11 | 雑感

無限遠点と神

同年輩の知人が、「現代数学への招待--多様体とは何か」(志賀浩二、ちくま学芸文庫)というのを読んで興奮するほどおもしろかったと教えてくれたので私も手に入れて早速読んで見た。
まだ第2章だけど、なるほど、刺激的だ。

何より、ほとんど神学理論だと思った。

前に、新書で、ゲーデルの不確定理論からの神の存在証明というのを読んだことがあるが、これはそういうベタなものではなく、数学者が数学の「意味」を語ろうとするものだ。

でも、私が日頃考えていることとぴったりする。

たとえば、私は人と人との繋がりははかないもので、ほんとうに共生するには人同士の関係を超えた何かを拠り所にしなければならないと思っている。

すると、この本には、点がたくさんあるだけではどの点も勝手な方向にどんどん進んで、止まっては方向を変えるという動きを繰り返すしかないが、そこに「無限遠点」を導入すると、その空間は そこを集積点として「コンパクト化」する、しかも、点の動きはずっと自由になるというと書いてある。

また、数学は、目に見えない高次元のものを対象にする時に、手探りしながら座標を選ぶというのも、神や超越をどう語るかという問題に似ている。

神だとか奇跡だとか死後の世界だとかは、実証的な科学と正反対の絵空事だと切り捨てられた時代もあったわけだけれど、考えてみれば、目で見てすぐに理解できるような事象などほんの僅かに過ぎない。

放送大学でも、リモートセンシングによる可視化の話を聞いた。たとえば環境や地球の内部のような目に見えないものをいかに可視化して、可視化したものをどう表現するかといった話だ。

すべての本質的なものは目に見えないのだなあと思うし、だからこそそれを表現する営為はいつも刺激的なのだろう。
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# by mariastella | 2017-04-10 00:55 |

雪村(せっそん)展について

先日、藝大美術館でやっている雪村展に招待していただいた。

非常に興味深い。

近頃流行りの「奇想の」という形容がなされているのだが、肝はそれではない。

動物の動作や表情に個性があるとか、木の枝ぶりにも表情があるとか、岩の輪郭が独特だとかいう指摘の方が注目のしどころであり、思わず、ディテールに目を凝らして感嘆するというのはその通りだ。

これも先日、太田記念美術館に「浮世絵動物園」展を観に行ったのだが、人間の体形や仕草に動物の顔が配されているものが多いし、あるいは魚に役者の顔をつけた人面魚みたいなのがあるが、雪村の鳥や魚のように、一つ一つの個体が個性的なものは見当たらなかった。

雪村画を構成する各部分は実に生き生きしている。
けれど、雪村の特徴は、実は、全体を別の視点から見ると、別の絵が見えてくるというところだ。
だまし絵とか隠し絵とかいうものを見るつもりで見ると、龍だとか、雌伏する虎だとか、冬の枯れ木に座る老白猿だとかが見えてくる。その図も流れがあって生き生きしている。

これは私のこじつけではなく、風景の中の「見立て」というのは造園において顕著なように日本の伝統的なもので、禅文化に普通に見られるものだ。

雪村の風景画や花鳥画を画像検索して試して見てもわかると思う。

雪村は瀟湘八景など、中国の画の模写もしているのだが、雪村らしさは、その中に別の有機的な画像が現れてくるのですぐわかる。逆に、雪村の画が他の画家に模写された作品は、ディテールは書き込まれているのだが、見立てのダイナミズムは全く看過されている。だから画面が息づいていない。

雪村の画を 忠実に模写しようとしたら、有機的な二重構造に流れる勢いをキャッチしなくてはならないのだ。

このことは誰からも言及されていないのだけれど、私の目には明らかすぎるほどの発見だった。
何よりも雪村自身が画論の説門弟資云でこう言っている。

画は仙術である、と。

古人の図画を参照しても 自己の筆意とは関係がない、

形は万象に倣い、
筆跡の省略は師に習い、
筆力は自己の心意に止める。

すなわち、ディテールでは筆跡が見えるが、筆力は 心意、筆意から生まれるもので、細部の筆跡に宿るものではないということだ。
岩も、枝も、落雁の群も、合わさって別の大きな生きた形象を生み出している。まさに仙術だ。

六義園に行ったときも、池の中に「臥竜石」などがあったので、雪村のことを思い出した。

木々の枝ぶりも有機的で、いろいろな見立てを隠している。
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アフォーダンス理論のことも考える。
知覚の九割以上は脳が再構成したイリュージョンだという説も想起される。

植物は自力で移動しない生き方を選択した生命体で、コミュニケーションもとれば 苦しんだり喜んだりもする。そういうことを自然にキャッチする人もいる。

雪村の二重構造は筆跡からは見えてこないから、その気配だけをマニエリズムのように感じ取る人がいる。
筆意がわからないままで、細部の筆跡にだけ感心したり、奇想を愛でたりすることになる。

瀟湘八景を凝縮した作品についてフランドル絵画が引き合いに出されての解説があったが、フランドル絵画にも隠し絵があるので興味深い指摘だと思った。
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# by mariastella | 2017-04-09 00:05 | アート

東京ウィメンズプラザで平塚らいてうのフレンチ・フェミニズムに出会う

うちから歩いて行ける書店である青山ブックセンターに、注文していた本を取りに行った。その帰りに、いつも目に入っていたが素通りしていた東京ウィメンズプラザに入った。
そこの図書館はわくわくするようなものだった。

雑誌「青鞜」の第1号の復刻版を開いた。もちろん平塚らいてうの有名な「元祖女性は太陽であった」を読んだ。当時の雑誌の形で読むとインパクトが違う。
男女同権を目指すアングロサクソン的フェミニズムとは違って、完全にフランス型ユニヴァーサリズムの人間主義であったことも再発見。

「太陽」とは全人格であり、性別を超えたものだと書く。
太陽が男で月が女というような構造を逆転するというような話ではない。

では全人格の取り戻しに何が必要かというと、「熱誠」であるという。その言葉を言い換えると、

熱誠=祈祷力=意思の力=禅定力=神道力=精神集注力

だと言う。

そして精神集注力こそが、人間の深さの奥においてのみ見られる現実そのものという神秘に通じる唯一の力だという。

ロダンのファンで、芸術家はインスピレーションをただ待つのではなく、「欲求」しなくてはならないとも言う。ロダンはインスピレーションを「欲求」した。

何かを欲求するときに超越的な視野なしには、真実に到達できないと言うことだ。

明治44年のこのマニフェスト、全く古くないどころか、今のフェミニズムに決定的に欠けている全てが詰まっている。
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# by mariastella | 2017-04-08 00:24 | フェミニズム

刺抜き地蔵と六義園

先日、はじめて巣鴨の刺抜き地蔵に行って来た。

原宿に住んでるのにどうしてわざわざ「おばあちゃんの原宿」に?と聞かれたが 、それは…おばあちゃんだから…?

その「おばあちゃん」らしさはなるほどいろいろある。

部分カツラの屋台で試着している女性がいたり、痩せて小柄なお年寄りが多いのになぜか大きめの下着がたくさん売られていて、「ご利益パンツ」とか「長寿パンツ」とか書いてある。

境内にある高島易断の占いコーナーには、原宿なら恋愛運ばかりなのに、「これからの人生と寿命 5000円」などと書いてあった。なるほどなあ。

その後で六義園に行ったのだが、ここも65歳以上150円の入園料で高齢者優遇。
年齢を証明するものを何も携行していなかったのだが、何も問われず顔パス。

高齢者でも敢えて普通料金を使うという矜持のある人もいるそうなので、その辺の自主性尊重なのかユルイのか分からない日本の空気はむしろ好感が持てる。

中では江戸の大神楽というのをやっていて、今までは寄席でよく見た芸のルーツ(もっと遡れば門付け芸だが)を、この季節にこの場所で見ることの楽しさを味わえた。

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六義園の枝垂れ桜
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# by mariastella | 2017-04-07 00:33 | 雑感

ロシアのテロ、メキシコの治安、日本の花見

先日、サンクト=ペテルブルクのメトロでテロ?があったようだ。
この夏に行く予定だったのが、別のところに変更したばかりなのでよかったなあと思った。

でも、考えてみれば今でも、日本で、「パリは怖くないですか、フランスはやはりテロで怖いですか」などと聞かれる。最近のテロの記憶があるからだろう。

でも、怖いといえば、アメリカの方がいつも銃撃事件に巻き込まれそうだし、日本でも精神状態の異常な人が保育園に刃物を持って侵入したなどのニュースを見ると、いわゆるテロでなくとも、悪い時に悪い場所に居合わせるリスクは誰にでもどこにでもありそうだ。

宗教的な意味合いのあるテロと言っても、たとえばエジプトや中東で教会が襲われたり、フランスでノルマンディの教会内で司祭が殺されたりしたのと違って、メキシコなんかの方がずっとカトリック司祭に身の危険がある。

メキシコではこの10年で40人以上の司祭が殺されている。
去年は1週間のうちに3人の司祭が誘拐されて拷問されて殺され、今年ももう2人殺された。

イスラム過激派なんかとは関係がない。
大体が組織犯罪、麻薬マフィアによるものだ。

司祭が狙われるのは、カトリック教会がマフィアを断罪するからでもあるし、司祭一人の相場が1万5千ドルだという身代金目当てでもある。

日本やフランスのような国に住んでいたら想像もつかないような危険がある場所は、「戦争」や「内戦」状態の国でなくともいろいろあるということだ。

お花見をしながら、そんなことが頭を離れない。
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# by mariastella | 2017-04-06 00:24 | 雑感

上野教会のルルド、願わくば花の下にて…

先日、カトリック上野教会というところに行った。
祭壇に向かって左側にほぼ等身大の聖母の像があって向かい合って誰かが跪いている。なんだろうと思ったら、その横にとっても日本的な掛け軸がかけてあって、その文を見て、それがルルドの御出現だと分かった。こういうのが教会の内部にあるのって初めて見た。洞窟がなくて、聖母とベルナデッタが同じ面に位置している。

後から検索すると、この教会は聖ベルナデッタ教会なんだそうだ。パリ外国宣教会の神父たちが戦後に建てたそうで、東京にベルナデッタに捧げられた聖堂がまだなかったからだそうだ。

そういえば、あの掛け軸もいかにもパリ外国宣教会のテイストだなあと思った。

上野の方に歩く道の両側が桜並木になっていて、白っぽくてはかなげなソメイヨシノの花ってやっぱり独特な風情だと嬉しかった。

もう半世紀近く昔に祖父が亡くなった時、火葬場への山道を車で登った時に見た満開の桜のことを思い出す。
出席者のほぼ全員が西行の「願わくは花の下にて春死なむ……」の歌を口々に引用していた。

よかったね、って。

この和歌のおかげで、この季節に葬いをした人々はさぞや慰められてきたのだろうな、と感無量だ。
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# by mariastella | 2017-04-05 00:16 | 雑感

決定実験

放送大学がどうしてこんなに面白いのかの理由が分かった。
私は滅多にこの時期に日本にいないから気づかなかったけれど、要するに今新学期ということで、どの講座も「つかみ」の概論をしてくれているからだ。
植物から見たヨーロッパ史というのも日本との関係も含めて興味深かったし、分子分光学というのも衝撃的におもしろかった。

それは「決定実験」の考え方だ。

私はこれまで、量子力学などでは不確定性理論などがあるし、「目には見えない世界」についてはいわゆる決定不全性があるのだと思っていた。

でも、光子が波動であると同時に粒子でもあることを示す実験と、粒子である電子が波動であることを示す実験を並べて これは「決定実験」なので、理解はできないけれども「無理やり納得」しなければならないという事態があるのだそうだ。

これって、神の存在証明のような不毛な話や、奇跡の治癒の証明のような怪しげな話のことを連想すると、なかなか感銘深い。

信じられないこと、目に見えないこと、「超越」というものを「無理やり納得」させられる「回心」とは一体なんだろう、などと思ってしまった。
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# by mariastella | 2017-04-04 00:13 | 雑感

アートと知識の関係 -- 放送大学から

雑誌はビッグイシュー TVは放送大学ということで、先日観た番組が「西洋芸術の歴史と理論」第一回で、芸術とは何か、見方・味わい方 by 青山昌文、というものだ。

芸術作品は最近、先入観なしに、感性に合うかどうかで見ればいい、自分の好みに正直に、などと言われているが、それは間違いで、その歴史的社会的文脈の知識がなければ本質には迫れない、
知的に理解することでしかアクセスできない美というものがある、そしてそれは素晴らしい体験だというようなイントロだった。

すごく嬉しかった。

そのことは、私たちのトリオがラモーを弾くたびに感じていることだからだ。
何年も研究し、試行錯誤を繰り返し、バレエのステップや踊りの種類も考え、考え尽くしても、まだ先があって そこには慄えるくらいの美しさと別世界が開けるのだ。

誰かから単純に、バッハはユニヴァーサルだがラモーはフランスを超えなかった、などと言われると、私たちはどう説明していいかわからない。

また、バロック・オーケストラを手軽に3台のギターに編曲しているのだと思われる時もある。
実は、本当にこれをラモーに聴いてもらって、私たちとラモーと4人で天国に行きたいと思えるほどの知的な必然で弾いているのだ。

私は、楽器としては擦弦楽器の方が弾き手としては好きで 、他のメンバーも、チェンバロ 、オルガン、テオルブ、バロックギターなども弾く。

でも、ミオンやラモーのある種の曲を弾く時、私たちの楽器の選択ほど美を引き出せる組み合わせはない。その良さを最大限に分かち合いたいのだけれど、解説には限界がある。

歌舞伎や美術館の音声ガイドみたいなものは解説、見どころなどによって鑑賞を豊かにしてくれるのがよく分かる。でも音楽の演奏に同時に音声ガイドは入れられないし…

などと共感できた番組だった。
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# by mariastella | 2017-04-03 00:55 | アート

ビッグイシュー 日本版

東京のうちから5分くらい歩くと表参道と青山通りの交差点がある。そこでいつも「ビッグイシュー 日本版」を買う。普段いないからバックナンバーも買う。

今はネットで多くの雑誌のデジタル版が読めるので日本に来てももうほとんど雑誌を買わないし、大抵は広告ばかり多くてつまらない。
TVもニュース以外は、いつも同じような人たちが同じようなことを言っていて、それでも微妙に好奇心を引き出されて、見てしまうと後悔する。

で、雑誌はビッグイシュー、TVは放送大学がお気に入り。

3月のビッグイシューの「どこにもない食堂」特集はとても興味深かった。

神保町の「未来食堂」のコンセプトなど秀逸だ。誰でも賄いを手伝えて、50分手伝うと1食がタダになって、余分な権利はただめし券としてお店の入り口にメッセージ付きではって、ひつようなひよにつksってもらえる。とてもエレガントなやり方だ。

その他、毎日外国人シェフが変わる日替わりカフェ、
聾者が手話で働くスープカフェ、サイン・ウィズ・ミー。
LGBTのコミュニティベースのアジアンビストirodori。

その他いろんな記事があるがどれも個性的だ。
どの号も決して失望させない

ビッグイシューを買いましょう。
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# by mariastella | 2017-04-02 01:15 | 雑感

宇治神社、宇治上神社、平等院、奏楽の菩薩たち

これは兎の通う道「兎路」に由来するという宇治神社の清めの水
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宇治にゆっくりするなんて何十年ぶり。
宇治上神社の方の、「桐原水」の方は、小洞窟といった趣きだった。

平等院が極楽浄土のテーマパークみたいな意味で造られたこと、本堂を囲む阿弥陀来迎図と、それを待つ臨終者の絵を見ていると、年のせいかはじめて、実感を伴って、古来、死にゆく人たちは本当に阿弥陀のご来迎だの、聖母マリアのお迎えを信じてそれで死の不安が和らいだのだろうかと想像してみる。

無神論者の方が、死ねばブラックアウトと覚悟を決めていたのだとすると、信仰を持っている人の方が希望も恐怖もセットにして持っていたのかもしれない。
西方浄土の渇望は、来世での転落への不安のリアクションなのか、死の苦しみや痛みから解放されることがメインなのかどちらだろう、自分はこのような演出で「救われる」タイプなのだろうか、いざとなるとパスカルの賭けのような方向に行くのだろうか、やはり想像が及ばない。

如来のまわりに配された踊ったり舞ったりの「雲中供養菩薩」たちは、聖母を囲む奏楽の天使たちと同じ役どころだけれど、素晴らしい造形だ。

それにしても、 浄土に迎えられるとしても、九品という等級があるのは世知辛い気もする。
キリスト教的には恩寵 、恵みは「無償」という含意があるから、もっと救われるかもしれない。浄土に行ってまで格差があるなんて。

先日、大相撲の千秋楽の後 、相撲評論家みたいな人が国技とは何かについてコメントして、アメリカの国技は野球でメンバーが9人、スリーアウト、三塁、9回までと、3の倍数なのは三位一体のキリスト教で、多く点を取ったら勝ちというのは資本主義、などと言っていた。

私はすぐに三品に上中下の生が分かれた九品の浄土のことに思いがいたって、一見気の利いたことを軽々しくいうものではないなあと、自戒。
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# by mariastella | 2017-04-01 17:38 | 雑感

宝積寺の亀や菩薩や金剛力士

天王山の中腹、大山崎山荘のほぼ隣にある宝積寺の清めの水の亀。蛇口じゃなくて亀口だ。
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天下分け目の天王山。
宝積寺には秀吉の出世石とか、一夜で出来たとかいう「一夜の塔」(三重の塔)があったり、迫力満点の閻魔大王やと眷属の像がある。十一面観音もいい。

本堂の脇の廊下にはこんな菩薩(?)もいる。
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木造の金剛力士像の一人の腕が、手を逆に回して腕全体の筋肉の表現が解剖学的にリアルだ。
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個性的な真言宗のお寺だった。
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# by mariastella | 2017-03-31 00:30 | 雑感

大山崎山荘と夏目漱石

京都盆地の西 桂川、宇治川 木津川が合流して淀川になるのが見える景勝地天王山の中腹にある大山崎山荘のテラスからの風景。桜はまだ蕾だった。
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庭園ははっとするほど個性的でとても大正時代のものとは思えない。邸宅も美術館も、昭和7年にできたモネの睡蓮などのある地下のギャラリー なんて、まるで直島の地中美術館みたいだ。
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でも、なにより驚いたのは、この山荘を造った加賀正太郎という証券業者と、明治の文豪 夏目漱石との関係だ。漱石は亡くなる1年前に京都に滞在した時、祇園の女将が連れてきた加賀と会う。

3/20 文芸芸妓として知られた女将と知り合い、その機知を気にいる。
3/22大山崎に別荘を建設中の加賀が、女将に頼んで、漱石にその別荘の命名を依頼に来る。
単に命名だけでなく実際にその地を見てほしいと執拗に頼む。
4/15 女将と共に大山崎へ。
4/17 東京に戻る。
4/18 手紙が溜まっていてその返信に追われ、加賀の依頼にまだとりかかれていないと書く。
4/29 山荘の命名案を14,5も送る。しかも弁解がましい。

考えないわけではないが、何も頭に浮かばない、と言いつつ、竹とか三川という言葉を入れた一つ一つの案について、その言われ、長所短所のコメントも丁寧に付けている。(これらの書簡が表装されて展示されていた)
で、「気に入らなければ遠慮はいりませんから落第になさい」と書いた。

それを真に受けたのか、まだ20代の若き富豪の加賀は、文豪の漱石の命名案をボツにして、「大山崎山荘」とだけ名付けたのだ。

これを知った漱石は「悪ければ悪いで、あれでは気に入らないからもっと別なのを考えてくれと言えばいいのに」と語っていたそうだ。

おそらく事前に漱石に十分な謝礼でも 前払いしていたのだろうけれど…驚きだ。
加賀はイギリス帰りでキューガーデンに感銘を受けて山荘の造営を思い立ったというから、おそらく同じイギリス帰りの漱石に何かイギリス風の命名を期待していたのだろう。「文豪に命名してもらった」という成金の名誉欲はでなく、イギリス風が欲しかったのだ。
その後の加賀の活動や感性を見ていると、彼は本物の「国際人」だったようで、「イギリス帰り」と言っても中味は明治の文人だった漱石の命名センス(杜甫の詩句や荘子などが出典)には失望したのだろう。

それにしても、漱石の書簡や日記を見ていると、あまりにも自然体で、まるで今の若者がfacebookで日記を書いているようなノリで驚く。鬱っぽい気分も率直に書くし、親近感をおぼえるほどだ。
私は3月末の寒さにうんざりしていたのだが、ある冬、最初に京都に着いた時の漱石は、「日本にこんなに寒いところがあったとは……」みたいなことを書いていて、東京から持ってきた自分の熱がどうなることやらなどと言っているので笑えた。それら全てがしっかりした墨蹟であるのもミスマッチで楽しい。

「今、午後十時です。」とか「現に今書く手紙は」とか、臨場感というか同時性があるのもまるでメールのやりとりみたいだ

ともかく、加賀が、結局「山荘名撰主人意に満たず」としながらも、さすがに別の人にイギリス風の名をつけてもらうことはなく、ただ「大山崎山荘」としたのは漱石へのリスペクトだったのかもしれない。

漱石は大山崎を訪れた翌年に沒し、その翌年山荘が完成した。ちょうど百年前のことだ。
1932年に漱石書簡が表装されて1935年の漱石忌に橋本関雪邸で展示され、その次が2017年の今年(漱石生誕150周年)だそうだ。

いいところに巡り合わせた、と思う。
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# by mariastella | 2017-03-30 00:19 | 雑感

大野初子さんの人形

白沙村荘の橋本関雪記念館ではじめて見た大野初子さんの人形。
これは未完の遺作。
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すごく絵画的な造形なのだと驚いた。

お婆さんと孫。
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これは「女形」。なんだか本物よりリアル。
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# by mariastella | 2017-03-29 00:41 | アート

首相夫人と大統領夫人

日本についてから散々目にし耳にしたのがやはり森友学園疑惑。
国会喚問の籠池さんのキャラがユニークだ。
首相夫人はメールといい「私人」認定といい支離滅裂な状況。

思えば、フランスでは、大統領夫人といえば、法律的にはともかく、非公式の陳情窓口として表向きに機能していた。

もっとも、特別の配慮とか利益誘導を願うのとは反対で、いろいろなレベルの行政から不当な搾取や損害を受けている人の駆け込み寺という位置づけだった。

コネもなく、弁護士に払う金もなく困っていて助けを求めている人、またそういう人を助けてあげたいと思っている人が、大統領あてではなく夫人宛に手紙を書く。
専任の係りが取捨選択しているのだろうが、まず間違いなく、読んでもらえて、返事が来る。

今は政治家もローマ法王もツイッターのアカウントをもっていて、メッセージを送ると少なくとも多分オートマティックに返事が来たりするのでて、それだけで一定の満足感を得られる人もいることだろう。

大統領夫人への訴えも、フランス人ファーストではなく、誰にでも開かれていた。
お役所仕事の緩慢さ、複雑さをスルーして、弱者優先の精神があった。
必要とあらばちゃんと「忖度」なり「口利き」があって救済措置が取られたようだ。

私も、今となってはもう何であったか覚えていないけれど、シラク大統領夫人に手紙を書いて、秘書の人だかに返事をもらったことがある。日本だったら考えもつかなかった。

もっともこの「伝統」はシラクの後途絶えたといってもいい。

サルコジ大統領は就任前から妻に逃げられていたし、いったん家族でエリゼ宮入りしたもののすぐ離婚し、再婚相手はよく知られたイタリア人歌手だった。

その後のオランド大統領は、4人の子をなしたロワイヤル女史とすら結婚しておらず、就任したときにいっしょだったジャーナリストとも別れて暴露本を書かれる始末だった。
その後の恋人の女優とも一緒にすんでいない。

すでにフランスでは「夫婦」「結婚」という制度自体がマイナーになりつつあるので(これに夢を持ち?こだわるのは同性愛カップルだったりする)、「セーフティネットとしての大統領夫人」はもう出てこないかもしれない。
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# by mariastella | 2017-03-28 11:46 | フランス

橋本関雪のキリスト

先日の河鍋暁斎のキリストに続いて、橋本関雪のキリストとユダ。

なにかオリジナルがあっての模写なのかどうか分からないけれど、これはまったく違和感がない。

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どちらにしても、暁斎といい関雪といい、明治時代以降にキリスト教美術の倒錯的?なテーマ(教祖?が裏切られたり処刑されたりする)に遭遇した日本の画家たちの驚きが想像できて興味深い。
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# by mariastella | 2017-03-28 00:24 | アート

哲学の道の猫

銀閣寺から南禅寺へ向かう哲学の道にいた猫です。さすが京都(なにが?)。


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南禅寺の屋根の猫。さすが京都(なにが?)。 (拡大してください)

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# by mariastella | 2017-03-27 00:11 |

南禅寺と白砂村荘

つい先日、東銀座の歌舞伎座で、南禅寺山門の上で藤十郎の女五右衛門が「絶景かな」という華麗壮大な舞台を観たところだ。舞台と違ってあいにく桜はまだ蕾だったけれど、私もその山門(三門)に上がって来た。その階段の段差が半端ではなく、女五右衛門のあの豪華な着物では絶対上がれないだろうな、と思ったり。
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白砂村荘の庭にある藪羅漢の表情は味がある。
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# by mariastella | 2017-03-26 00:14 | 雑感

三月大歌舞伎

先日、歌舞伎座の三月大歌舞伎の夜の部に行った。

絶妙の三作組み合わせだった。

ビジュアル的にも、『引窓』の引窓を使った効果、相撲取りという設定が印象的だし、昔風の家父長的親子関係でなく、義理の息子、別れた息子、遊女だった義理の嫁、など家族関係が錯綜していて、登場人物が少ないのに複雑な感情が書き分けられていて見ごたえがあった。

次が『けいせい浜真砂』で女五右衛門が南禅寺山門の場で「絶景かな」とやる。贅沢の極み。

名優ふたりの掛け合いで短いけれど極端に豪華絢爛な舞台。でも、人間国宝でなくてもいいから、藤十郎よりもっと若い細面の女形だった方が仁左衛門とバランスがとれたのに。

最後が『助六由縁江戸桜』で、これも豪華絢爛の上にあらゆるタイプの登場人物が出てくるので、まるで歌舞伎百科事典みたいだ。

海老蔵は2年ぶりで、前は「うまい」ことに感心したが、これは、「うまい」よりも前に姿のよさが引き立つ。
口上がついていて河東節付きのバージョンを観るのは初めてで、300年来、旦那衆とその夫人らが特訓するという話を聞いて、まるで300年前のフランスのオペラ・バレーみたいだと思った。日本では今でもそんなことを続けることができる層が存在するというのがすごい。

フランスのバロック・オペラは王侯貴族主導だったので、フランス革命でいったん絶滅したけれど、日本の江戸歌舞伎はそういう身分制度の枠外でいわば「悪所」で栄えた文化だから、「近代」の激動を乗り切って続いたのだろうなあと感慨深い。
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# by mariastella | 2017-03-25 00:11 | 演劇



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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