L'art de croire             竹下節子ブログ

眠れる森の美女

 春の学期が始まった。

 月曜はバロック・バレーと室内楽。

 バロック・バレーはリュリーのAlcideのメニュエット。室内楽はグノーの弦楽四重奏の最終楽章。
 火曜はトリオの練習と、バロック・ダンサーとの資料づくり。

 私たちは今、私のバレー仲間のエマニュエルといっしょに、『眠れる森の美女』のミュージカルを用意している。語りと音楽と踊り。音楽は私たちのミオンが中心。オーロラ姫の両親の世代の舞踏会の時はルネサンス曲を使う予定。私たちは16年前にミオンを発掘、編曲し始めるまではけっこうルネサンス曲も弾いていたのでストックがある。

 エマニュエルが国立音楽院でやったデモンストレーションをはりつけておこう。


http://www.youtube.com/watch?v=L2e2Nwkx4eI


 ここで使っているのはリュリーの曲だ。エマニュエルと踊っているのはカロリーヌで、彼女には、2007年に私たちのトリオと踊ってもらった。『王は踊る』(これにエマニュエルが出ていた。)を観てバロックに憧れてコンテンポラリーからバロックに来た時のカロリーヌは当時七区のコンセルヴァトワールでセシリアの上級クラスにいた私を「先輩」と意識していたのでおかしかった。コンテンポラリーから来たダンサーってどことなくアスリートの感じがする。筋肉の付き方とか。

 これから私たちと組むのはエマニュエルと、もう一人別のダンサーで、彼女はクリスティーヌのクラスでバロックを始めたもとクラシックダンサー。大柄で迫力がある。

 このプログラムは、子供たちにも楽しんでもらうようにできている。ヴェルサイユから映像資料を出すように言われているので昨日それを用意したのだ。ヴェルサイユで演るならリュリーを少し入れた方がいいかも。ただし、使いたいリュリーの曲は、五声部なので、私は中声部を二声同時に弾かなくてはならない。純粋にテクニック的には結構準備が必要だ。
 来年のモンサンミシェルのフェスティバルでも可能性がありそうで、家族連れの観客と接するのはなんだか楽しい。

 私たちは2003年に日本で公演した時、『聖家族の家』という養護施設で演奏した。私たちを歓迎してくれるために女の子数人が日本舞踊を披露してくれた。完成度が高くて、かわいくて、涙が出た。
 私たちを紹介した先生は、「ギターと言ってもいつも僕が弾いてるようなやつじゃないんだよ、宮廷で王様のために弾いていたものだから静かに傾聴するように」と子供たち(3歳から18歳)に注意していたが、私は前夜必死に考えたシナリオをもとに、効果音を入れた話を用意していた。それはもちろん日本語だから、しかるべき所でしかるべき音を出してもらえるように、養護施設に向かう車の中で、フランス人の仲間たちに説明した。しかも始まりは、自動演奏人形を模したスケッチで、三人で一台の楽器を弾く構成になっていた。子供たちは笑ってくれた。

 その自動人形スケッチは、1995年にエール・フランスが阪神大震災の被災児童をパリに招待した時にインタコンチネンタルホテルでいろいろボランティアが集まってコンサートをした時に考えたものだ。あの時に、無償で、自分たちのレッスンや仕事を休んでまでかけつけてくれたのはトリオの仲間と、古い友人のルイ・ロートレックだった。この時の演奏は録画されて被災地の避難所に配布されたというから、どこかで誰かの目に触れたかもしれない。

 『眠れる森の美女』のプランを練ってると、子供たちの笑い声を思い出す。

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# by mariastella | 2010-03-10 19:26 | 踊り

Benoîte Groult

今日は「女性の日」の日だということで、ラジオでブノワト・グルーがしゃべっていた。

 なんて生き生きして説得力があるのだろう。エリザベト・バダンテールに少しつきまとう臭みがまったくない。

 そして、ヒューマニズムとしてのフェミニズムは老いと死の問題に行き着くのだということがよくわかる。フェミニズムを完成させるのは老いと死への洞察なのだ。

 90歳のグル-の写真が下のサイトで見られる。

http://www.leprogres.fr/fr/region/l-ain/bresse-revermont/article/2795243,182/Rencontre-ce-soir-avec-Benoite-Groult-une-femme-d-honneur.html

 すてき。

 でも、バダンテールのかっこよさが、彼女を味方につけることに力を得る人と、ひがみ根性を誘発される人とに二分されがちなのと比べて、グル-のかっこよさが突き抜けているのは、やはり老いの効用なんだろうか。バダンテールが超名士の夫と連れ添い三人の子があり二人の孫がいるというと、スーパーウーマンに見える。フレンチ・フェミニズムの旗手だったボーヴォワールは独身で子供を持たなかったが、バダンテールはその「つっぱり」も乗り越えたように見える。

 しかしグル-が結婚三回、娘三人、孫娘三人、ひ孫娘ふたり、と言うと、なんだか楽しい。
 私はフランスのフリーメイスンの歴史を通してフレンチ・フェミニズムの本を書きたいのだが、それまでグル-に長生きしてもらいたい。

 土曜日に『ルイーズ・ミシェル』(Louise Michel de Solveig Anspach) の映画を見た。Sylvie Testud は今や何を演じても絶好調だ。しかし、この、有名女性アナルシスト、見てるとつらい。

 さて、フレンチ・フェミニズムについては、実は日本との関係が私にはよくわからない。
 フランスでは男は老いても社会的存在だが、女は存在しなくなる、とグル-は言っている。
 日本を見てると、なんだか、リタイアした夫婦とかでは立場が逆転して女性は地域に根を下ろして消費者としても年季が入っているが、組織人間だった男性は肩書を奪われると社会的に存在しにくい、という図式があるようにも思える。

 これは「メチエ」があるかないかの違いかもしれない。

 フランスでのメチエは職業でなく職能であり、たとえばジャーナリストとか哲学者とかいうメチエは、一生ついて回る。日本なら経済学部を出ても新聞社で働けばジャーナリストで、やめればジャーナリストじゃなくなるが、フランスのメチエとはすべて国家資格みたいなものなので、社会的には一生保持できるのだ。

 たとえばTV局で働いていて、リストラがあったとしても、メチエとしての「ジャーナリスト」はかなり保護されている。メチエの元である「同業組合」の力も大きい。同じメディアの会社に同じ職種で入社しても、「ジャーナリスト」であれば、給料も高い。これはフランスが基本的に教育社会主義のような国で、国立大学やグランゼコールの課程で統一されているからでもある。トップ・エリートは「エンジニア」で、「エンジニア」のタイトルを持っていれば、会計監査会社で働こうと銀行で働こうと、特別ルートが待っているし、失業することはまずない。いや、退職してさえ、エリート看板を掲げていられるのだ。「元エンジニア」ではなく「エンジニア」として一生を終える。(日本語や英語のエンジニアとは意味が違う)
 ところが、女性は長い間この「同業組合」から外されていたから、グル-が言うように、「働くのをやめれば存在しなくなる」、という面があるのだろう。いわゆる68年世代からは大きく変わったので、これからは変わるのかもしれないが。

 いろいろあるが、一応、覚書。


 
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# by mariastella | 2010-03-08 20:03 | フェミニズム

C'est toujours les autres qui meurent... (Marcel Duchamp)

  冬休みで練習やレッスンがなかったので、久しぶりに美術展などに行った。
 
  アラブ世界研究所のハリリ・コレクション展、ロダン美術館のマチスとロダンの彫刻(特にダンサー像)の比較展、最後にマイヨール美術館で C'est la vie! Vanités --- de pompéi à Damien Hirst という企画展。

 最後のものは完全に私のツボにはまるテーマだ。

 近頃のネオゴシック・ブームというか、若い女の子なんかが髑髏のアクセサリーをつけてるのにはすごく抵抗があった。不健康、不吉、縁起が悪い、というネガティヴ・イメージがある。若い頃はそういうものを偽悪的、挑発的に身につけても、年取ると死の実感やいろいろな記憶が重なって無意識に忌避したくなるのかもしれない。
 実際、アートにおける髑髏のモチーフは、ナチスのホロコースト発見のショック以来、ヨーロッパでは、かなりわだかまりがあったらしい。現実の残酷さの前でのアートの無力感とか、生き残ったすべての者の罪悪感とかがまざっていたようだ。それをねじ伏せて「死」をテーマにするのはピカソのゲルニカのように、かなりの腕力の持ち主の作品か、ユダヤ系アーティストによる告発の意味とか、政治色も免れなかった。
 その髑髏のモチーフが、アーティストの中で親密で深刻になってきたのは1983年の不治の病エイズが同定されて以来だそうだ。アーティストには同性愛者が少なくなく、エイズの犠牲者も多かった。彼らが死の恐怖と共に髑髏をモチーフとしたいろいろな作品が生まれている。その前にも、アンディ・ウォーホールは、死ぬことでスターは、スターになると言っていた。スカルの作品があるし、有名なマリリン・モンローのポートレートも、不吉といえば不吉なベースがある。

 しかし、ゴスロリなんて悪趣味だなあと思うその私は、自分の内部に髑髏を持って生きている。表に出れば「死」の象徴である髑髏は、「生」が中に詰まっていて外を覆っている限り、生の一部なのだ。

 この展示会のタイトルが「セ・ラ・ヴィ(これが人生だ)」というのもまさにそうで、怖いもの見たさで髑髏を眺める人々の目は、それぞれ、あの、髑髏の眼窩の闇におさまっている。
 
 メメント・モーリというのは、中世からルネサンスのお気に入りのテーマで、この展覧会でも、カラヴァジョ(しかしこの聖フランチェスコはあまりにもそこいらのおじさんすぎるなあ)やド・ラ・トゥールを見てると、迫力がある。
 ダミアン・ハーストというのは切断した牛をホルマリン漬けにしたりして「本物の死?」をアートに持ち込んだ人だが、ここでは、ダイヤで作った髑髏と、ハエの死骸で作った髑髏が、両方展示されている。前にTraces du sacré のテーマ展でもハーストの真っ黒なハエを無数に貼り付けた巨大タブローがあって、ムシ嫌いの私には悪夢の世界だった。ダイヤの髑髏(「神への愛のために」)とハエの髑髏(「死の恐怖」)を見ると、ダイヤの方は歯と顎があって笑っているし、ダイヤは富と美と恒久性のシンボルで、ハエの方はまさに死を樹脂で固めた顎なし髑髏で、あるのは暗い眼窩だけ、という感じだ。しかし、どういうわけか、ダイヤのより、ハエの方が、微視的には気味悪いのに、ずっと美しく見える。なぜだろう。

 ここの売店で、カタログといっしょに、Jacques Chessex の 『Le dernier crâne de M.de Sade』を買ってしまった。1814年に死んでシャラントンの墓地に葬られたサドは、1818年に掘り出されて、頭蓋骨がラモン医師の手に渡り、聖遺物のように守られた。そのあたりの話をテーマにした小説だ。面白すぎ。

 ともあれ、こういう展覧会を見てると、「聖なるもの」とアートの関係が無神論からカオスに行くのと似て、両義的であるのがよく分かる。アーティストが時として冒涜的な作品を創るのは、倒錯や侵犯の歓びもあるだろうし、秩序破壊の衝動もあるだろうが、神にとって代わりたい、唯一のクリエーターとして君臨したいという、独我衝動である場合もある。だとしたら、それはキリスト教世界のヴァリエーションだ。人間中心主義の情熱が、神の全知全能を自分に付与することだったりするのと似ている。神という概念がすでに人間の理想を投影したものだったのなら、神を殺してしっかりとフィードバックしたものが無神論や近代だったのかもしれない。
 
 時はすぎる、死ぬことを忘れるな。というメメント・モーリのメッセージは、そのまま、

 fugit hora, memento vivere

 と背中合わせになっている。時は過ぎるから、生きることを忘れるな、というわけで、carpe diem とも即つながる。この記事のタイトルに載せた「死ぬのはいつも自分以外の人」というマルセル・デュシャンの言葉も、そのままエピクロスみたいなものだ。

 今、書いているのは陰謀論と終末論の仕分け方みたいな本なのだが、私の場合、書き始めるころには、脳内ではすでに仕上がっているので、興味の中心は次に移っている。それは音楽の受容における関係性の問題で、特に、日本でのいわゆる「西洋音楽」に対するアカデミズムの謎を解いて、フランス・バロックが実は「西洋アカデミズム」からの突破口だったことを書きたい。西洋クラシック音楽にまつわる言説は、過去には政治の支配、今は金の支配を担保するための権力構造を持っている。「音楽の無神論」では、「偶像崇拝」がいかに権力的であるかに注目して、フランス・バロックやある種の日本の芸能において創る人、聴く人、演奏する人、踊る人が、クロスオーバーしていたことの意味を考えたい。

 で、そのためのシェーマなのだが、これを、美術作品とその受容、鑑賞と批評の世界に置き換えたら、すごーく分りやすいことがわかった。この「セ・ラ・ヴィ」展のようなケースは非常にすっきり分析できる。
 とにかく「西洋アート」と名のつくものは、絵画にしろ音楽にしろ、クリエーターと作品と批評家と受容者の関係が、創造神であるキリスト教の神とその啓示と仲介者である教会と信者との関係の拮抗とセットになって発展、変容してきた。それを踏まえるといろんなことがクリアーになる。
 絵画は分りやすいので、ほんとはまず絵画論で分析してから音楽論に行くべきだが、音楽のエピステーメーについてはすばらしい論考が周りにたくさんあって刺激的なので一度きっちり書いておきたい。

 このシェーマ、すごく単純なのでここにすぐ書きたいくらいのだが、書いてしまうと後止まらないので、また後日。
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# by mariastella | 2010-03-04 21:20 | アート

フランス人の働き方

 先日TVのニュースで、フランス人はアングロサクソンや北ヨーロッパといかに違うかということを解説して、「知ってますか?」という口調で、「アングロサクソン国や北ヨーロッパでは、19時を過ぎても会社に残っているのは、仕事の効率が悪いことの証明なんだよ、ところがわがフランスでは19時過ぎても働いているのは、熱心だという証明(engagement) なんだから・・・」と批判的に言っていたのを聞いた。

 そこには「デキる人間はてきぱきと仕事を終わらせる。デキないやつがぐずぐずしているんだ」というネオリベ的なコストパフォーマンスの考えがもちろん明らかなのだが・・・
 
 30年前は、企業の日本人でフランスに来た人は、フランス人がすごく働くことに驚くことが多かった。

 「いやあ、フランス人はラテン系で働かないのかと思ってたら、上の人はとにかくよく働く」

 というのだ。ナポレオン以来のフランスのエリート養成システムは、いかによく働くための心身能力があるかの選抜なので、それは実際当たっている。エリートはよりたくさん働く義務があるというか、それを期待され、また身についているということだ。それは今も変らない。

 もう一つ最近よく言われる「比較」は、アングロサクソンの企業戦士は、昼もコーラとサンドイッチだけをPCの前で働きながら一人で食べ、フランスでは、昼休みが昔の2時間から1時間が主流になった今でも、基本的には同僚とそろっておしゃべりしながら食事を楽しむ、という違いだ。これはどちらかというと、フランス人がヨーロッパで最も肥満度が少ないことも含めて、バランスよくストレスをためない食べ方をしている、というポジティヴな言われ方をする。どちらかというと自虐が好きなフランス人だが、さすがに、昼間パソコンの前で一人で食べるのが勝ち組で効率的だというほどには、メンタリティは変化していない。
 食事を楽しむのは、エリートも単純労働者も同じである。アンリ4世の時代から「美食」がトップダウンで政策になった国ならではの根強いこだわりだ。

 日本はどうなんだろう。つきあい残業というのはよくきくし、自分の仕事をもう終わらせていても、周囲が残業していると定時に帰りにくいというのは日本的にはすごく分る。
 食事はどうだろう。女子社員が連れ立っておしゃれなランチというのはイメージがわくが、エリートビジネスマンは、ビジネスランチ以外に同僚と楽しく食事するのが普通だという感じはしない。
 
 日本では儒教の影響で、上の階級はむしろ質素な食事を心がけ、食文化というのは、芝居小屋や遊郭などの「悪場所」で洗練された歴史もあるから、「楽しいランチ」は「女子供」のものというのが残ってるかもしれない。

 アングロサクソンと比べた時、日本とフランスは似てるなあと思うことがよくあるのだが、もし日本の企業人が、昼はアングロサクソンのように慌しく食べて夕方はフランス人のように自主残業するのだとしたら、かなり気の毒だ。

 サラリーマンの鬱病や自殺が増加しているんだから、この問題はきっちりと考える必要がある。
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# by mariastella | 2010-03-01 20:23 | フランス

お知らせ

 1997年から使っていたメール・アドレスが、当時は有力サーヴァーだったのが、ネット世界の拡張によってあちこちに合併吸収されていくうちに、スパムの設定が進化したらしく、特に日本仕様のPCとの日本語の通信がランダム(私にとっては)にはじかれるようになりました。
 昨年くらいからそういうことは時々あり、私は読んでいるのに返事が全く届いていないことやその逆もありましたが、今年からひどくなりました。自分で自分の別のアドレスに送信しても届きません。しかも届いてないことが分らないのです。
 日本からでも、特に、アルファベットを使って外国と通信をすることが多い人とはつながっていることもあるのですが。

 そんなわけで、『知の教科書 キリスト教』(講談社)や『バロック音楽はなぜ癒すのか』(音楽之友社)に載せてある私のアドレスは原則としてもう使わないで下さい。

 たいていの通信相手には個人的に連絡しました。それでも、文字化けして読めないという方もいます。
 サイトの中の著作紹介の読者の感想というところにあるメールアドレスはまだ有効です。今は私が直接見ているので、Gメールアドレスを知りたい方はそちらに連絡してください。初めての方は自己紹介と連絡の理由を願いします。

 何でもネットを介するようになってからかえって不便なことも多いです。全体としてはもちろん、外国にいる者にとっては便利になりましたが、進化の仕方がよく分からなくてついていけません。

 サイトの行方を含め新展開があればここでまた連絡します。
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# by mariastella | 2010-03-01 19:49 | お知らせ

サイトの管理人さんのこと

 先日亡くなった私のサイトの管理人さんについて、彼女と知り合うきっかけになった共通のお友達が掲示板にコメントを入れてくれました。

http://8925.teacup.com/babarder/bbs?

 私はこのブログには詳しいことを書くのは控えたのですが、そのような事情でした。
 「闘病」と「生活の質」との兼ね合い、折り合いは難しいものがあります。

 それは生と死との折り合いかもしれません。

 健康意識が強迫的になりがちな今、「一病息災」教のように各種の数値管理をしている人たちもいます。
 もっと具体的な「闘病」の毎日を送っている人もいます。
 ジョギングしたりスポーツジムで筋トレに励む人はそれなりの充実感があっていいですが、各種の療法や服薬の副作用で苦しむ人もたくさんいます。合併症などの恐怖も判断力を狂わせますが、薬品による治療の副作用としての倦怠感も確実に生活の質を蝕みます。

 生と死の折り合いって、ひょっとして、体と心の折り合いなのでしょうか・・・・
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# by mariastella | 2010-02-25 18:37 | 雑感

正五度コンサート

 2月20日に、Théatre du Ranelagh に、ハイチ地震支援のチャリティ・コンサートに行って来た。ロンチボー・コンクールの過去の優勝者であるStéphane Tran Ngocが仲間のヴァイオリニスト、ヴィオラ、チェロ、総勢20人で、弦楽器だけのコンサートをしたのだ。デュオや、バッハの2台のヴァイオリンのコンチェルトや、Niels Gade の Octuor à cordes など。最後のは、もとは8人用だが、20人でやるのでなかなかの迫力。

 非常に興味深かった。

 ヴァイオリンは下から、ソ、レ、ラ、ミの五度間隔の調弦で、ヴィオラは上のミを捨てて下にドを加えてドレソラの五度。チェロはヴィオラと全く同じで、1オクターブ低い。
 この3種の組み合わせだから、まさに五度が安定していて、非常に気分がいい。弦のこういう組み合わせ以外にここまでぴったりくるのは、ピアノ伴奏のない合唱くらいだ。後、私たちの正五度ギターが近い。この頃耳がそれに慣れているので、本当にしっくりくる。
 普通のギターは、下から ミラレソシミ になっている。 四度と三度の組み合わせ。すでに開放弦だけでも調弦するのが難しい。四度は逆五度だから、もう少しぴったりきてもいいのだが、結局、平均律でごまかすしかない。

 最近読んだ音楽書には、人間の声や、擦る弦楽器は女性楽器と言われて、自分で音程を作るしかない、平均律の楽器なんかは男性楽器といわれ、音程を変えられない、とあった。で、音程を変えられない型にはまった楽器で演奏を比べる方が、逆にそこをぬって現れる演奏者の個性が分るのだそうだ。なるほどなあと思った。ものはいいようだ。

 もう一つ、あらためて驚いたこと。薄々感じてたんだけど、どこかで誰かが書いてるのは読んだことがない。
 それは、ヴァイオリニストやヴィオラ奏者や管楽器奏者は、本質的に歌い手であり、立って演奏するのが基本だということだ。
 このラネラグ劇場は小ぶりで、20人が出てくると、座る場所はなく、3人のチェリストをのぞいて、全員立ったままで弾く。コンチェルトでソリストは前に出てくるが、基本的にはみな起立だ。

 こうすると、弓の振り上げ方とか、まさに戦士の踊りのようである。

 立って演奏するのと座るのと、違いが出てくるかというと、明らかに出てくると思う。

 チェロやギターやピアノは座って演奏するしかない。
 チェロやギターは、騎馬戦みたいな感じだ。馬の上に乗って弓を射るとか、あるいは砲兵みたいな感じ。
 ピアニストやオルガニストは、戦車や巨大ロボットの中で操作している感じ。

 でも、管楽器や、小ぶりの弦楽器や、歌い手は、手に刀を持ったり、あるいは素手で戦う戦士みたいなものである。

 私は、自宅で椅子に座って練習する歌手やヴァイオリニストやフルート奏者を知らない。あり得ないと思う。
 自分に関して言えば、いつも立っている。
 非常に疲れ果てた時に練習しとこうと思って、座ったことが一度だけある。
 あと、室内楽を始めた時に、座って弾くのが居心地悪くて、上手く腕が動かない気がして、また音量も出ない気がして、座って練習してみたことがある。

 しかし、基本的に、ソロの曲を練習する時は、立っている。

 歌い手もそうだと思う。

 ただし、歌うのは、ピアノやギターの弾き語りというのもあり、そういう時は当然座ってるし、風呂桶に浸かりながら声をはりあげる人もいるし、赤ちゃんのベッドの横に座って子守唄を歌う人もいるだろう。
 オペラなどで、瀕死のヒロインが、ヒーローの腕の中に崩れ折れながらほとんど横になってソプラノを朗々と歌うこともある。
 訓練した演奏者なら、どんな体勢でも、声量や音量や演奏技術に影響ないパフォーマンスができるのだろう。

 しかし・・・・

 オーケストラの弦楽器奏者は全員座らされる。コントラバスとかは別として。

 なぜ?

 長丁場で疲れるから、ではない。
 長大な交響曲でも、年配の指揮者が立ったまま指揮する。

 なぜなのか、Tran Ngoc のグループを見てて分った。

 オーケストラでソリスト以外の弦楽器や管楽器奏者が座らされるのは、犬に首輪をつけられるようなものなのだ。

 オーケストラにおいて、演奏するのは、歌うのは、音楽を創るのは、「指揮者」一人で、「座った演奏家」たちは指揮者の「楽器」なのだ。
 管楽器奏者や弦楽器奏者に座れというのは、「ここはきみが一人で歌うところでも一人で戦うところじゃないからね」と知らせるためだ。戦士じゃなく歩兵になる。

 ギターは基本的にポリフォニー楽器なので、演奏者はソリストのメンタリティがある。だから、複数で座っていても、自分を矯めるのが大変だ。しかし固定平均律楽器だから、音程と自分の間にそれなりの距離がおける。

 トリオやカルテットなどで弦楽器奏者がみな座るのは、視覚的なバランスもあるだろうが、やはり、ソロではなくて「みんなで創ろう」という心構えの現われだ。これがデュオとなると、まず、立つ。二人なら、一騎打ちしながら共に舞えるからだ。

 8重奏を20人で、3人のチェリストだけが着席という構成では、まあ、指揮者代わりのカリスマ性のあるStéphane Tran Ngocがいるからぴたりとまとまっているけれど、歩兵のマスゲームでなく戦士の行進だ。
 コーラスは、着席しない。ソリストは前に出てくるだけだ。歌は体が楽器だから、座らせることで失うものが大きすぎる? しかし、第一第二ヴァイオリン、ヴィオラや管楽器のグループを起立させれば、彼らはまたたくまに空飛ぶ小鳥になって自分の歌を歌いだすかもしれない。弓という翼があるから。
 ギターは自分の指しかない。ヴァイオリンから、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、と、楽器が大きくなるにしたがって弓はどんどん短くなる。ヴァイオリニストが長い弦を振り上げるのは音楽の一部だ。

 長年、オーケストラの一員として、座ったまま、譜面台を前に楽々と弾くことだけを続けるヴァイオリニストって、どんな心理なんだろう。もし、オーケストラのパート譜を、うちで座ってさらっているだけの日々だとしたら・・・彼はもう永久に戦士にはなれないんじゃないだろうか。

 Stéphane Tran Ngocのヴァイオリン隊はみな、はじけていた。バッハでは楽章を変えるたびに違う二人のソリストが前に進み出た。歌う喜び、が伝わってくる。演奏の身体感覚と着席起立の関係は大きく、本質的な何かを含んでいる、と実感した。ほんとうにすばらしいオーケストラでは、座っても立っている音が鳴っているのだろう。
 バロック時代のオーケストラでは、チェンバロ奏者がチェンバロの前に座りながら指揮したりした。楽器はみな不安定な「女性楽器」で、音も濁らず、ソリストの集まりのような不思議なハーモニーがある。

 みんなで何かを創る時、みんなが立つのか、みんなが座るのか、なかなか難しい問いである。
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# by mariastella | 2010-02-25 00:29 | 音楽

バロック・バレーに二つの流派はあるのか?

 1月の末のコンサートの後、うちの近くの音楽院で、バロック・ダンサー二人と、「バレー付きコンサート」の検討をした。うちひとりは、6月4日にフランスで、10月29日に岡山で、11月3日に東京でごいっしょする湯浅宣子さんだ。もう一人はクリスティーヌ・ベイル(Christine Bayle)のクラスで時々私といっしょに踊っているフランス人ダンサーで、日本にもプリセツカヤやオペラ座バレー団とともに来たことのある男性ダンサーである。『王は踊る』(ジェラール・コルビオ)という映画にも出ていた。

 この二人の踊り方はかなり違う。湯浅さんはボストンでフランス流のダンサーを見たことがあるので驚かなかったがそれがなければとても驚いただろうと言っていた。概して、イギリス流の人は、フランス流が違うことを意識しているが、フランス流の人はイギリス流を意識してないという話だった。

 湯浅さんの話を聞いて驚いたのは、イギリスでのバロック・バレーのクラスの様子が限りなくクラシック・バレーのレッスン風景に似ているということだ。
 つまり、手脚や胴体の細かい形までたえず、一定の形にはめられ、矯正され、それが「正しく」達成されないと「だめ」ということだ。とにかく、できるまで繰り返し指摘される。

 クラシックではその通りで、基本的には、小さい時から何度も何度も言われるので、何年かやった人は、足やひざはほっといてもちゃんと外側に開くし、ひざを伸ばした時は、必ず、その人のマキシマムに伸びる。「良い加減」というのがなく、よりまっすぐにとか、より高くとか、より柔らかくとかいう、明らかな基準がある。私のように何十年ぶりでクラシックバレーを再開した者でも、筋肉とかを今の自分なりにぎりぎりまで使う反射が残っている。それでもバロックバレーの癖で、つま先立ちが低かったり、腕の伸びが少なかったり、足のポジションが甘かったり、跳ぶ高さが低かったり、ステップの移動距離が短かったりするので、頭と体の切り替えがけっこう大変だ。

 私は1996年にパリでバロック・バレーを始めてから、複数の教師について初級から上級クラスまでひととおりやったが、一度も、「形のための形」をしつこく注意されたことはなかった。筋肉は決してマキシマムにはならない、マキシマムに感じなくてはいけないのは、重力と、固まりとしての身体との関係を通した身体感覚の良好感であると言われた。だからこそ、私はバロックバレーと太極拳が似ていると思い、年配の人でも踊れる楽しみとして最高の可能性があると思ってきたのだ。逆に、それぞれのダンサーのその「良好感」は、形を忠実にまねても必ず得られるものではなく、何年やっても、明らかに、「形だけ」という人もいる。そうなると、昔、「テクニックが不足してるとか指の短いピアニストとかがチェンバロに転向する」という現象があって、クラシックより難易度が低いバロック曲を、平板に弾く、ということが起こったのと同じように、バロックバレーはひじもひざも曲がり、華やかなジャンプ力も回転力もない、素人にもできる何となく気取った踊り、という誤解さえ出てくる。
 その意味ではイギリス風の厳密さは、「素人には真似できない」というプロの差異化というか付加価値をもたらすが、それでは、フランスでバロック・バレーをやっている楽器演奏者や歌手なんか、半分以上はギブアップしていなくなるだろう。

 早い話、たとえば、横のステップで、体重を片脚にかけた時、フランス風では、体を足の方に傾ける。落下をおそれないできれいにおさまるこの揺れる感覚というのは、体得すると、すごく気持ちいい。ステップによっては体がこうして左右に触れるので、その落とし込みやずれ方がとてもいい感じなのだ。

 湯浅さんによると、イギリス風ではクラッシックと同じで、上体は必ずまっすぐに保たれる。フランス風のダンサーが踊りながらふりこのように揺れると見ている人から笑いが起きることさえあるそうだ。
 日本のバロックバレーはもちろんこのイギリス風が主流で、というか、それ以外は「ペケ」のようである。日本人は英語の方がアクセスが楽だからおのずと、イギリス風のレッスンで修行することになるのだろう。

 しかし、一体この差は・・・

 当時、スペインやフランスの宮廷では大体同じダンスのメソードが流通していた。その最大の権威がフイエの振り付け譜と、ピエール・ラモーによる解説書である。
 バロックバレーというのは200年くらい完全に途絶えていたから、師から弟子へと伝わったものはない。
 1970年代くらいから、Francine Lancelot 女史が本格的に研究を始めて、1980年に今や伝説的なRis et Danceries 団を立ち上げた。クリスティーヌ・ベイルはその時の創立メンバーである。当時フランシーヌは48歳、クリスティーヌは32歳だった。Marie-Geneviève Massé もその頃の同期だ。彼女らがバイブルのように読み込んだのが、ピエール・ラモーの解説書である。

 そして、ピエール・ラモーは、「体の傾きを忘れるな」とはっきり書いている。現在のバロック・バレーがこの書に基づいている限り、体の傾きや自然な落ち方や体重の受容は、正統的だといえる。

 では、なぜ、こうなったのか。

 すでに、ラモーの本は、18世紀に英訳されたが、たとえば腕の動きなどが訳されていない部分がある。完訳ではない。今でも、「当時の図像」に拠っていろいろ分析しているようだが、所詮静止画であるから、動きと身体感覚という文脈にない。

 フランシーヌもそうだったが、クリスティーヌも非常なインテリだ。研究者である。そのクリスティーヌですら、何十年もやるうちに、コントルタンの腕の下ろし方などに思い込みや思い違いが出てきたことを認めるし、一方でフランシーヌも気づかなかったことをあらたに発見したりしている。フランシーヌは2003年に亡くなった。私は共通の友人のオリヴィエ・ルー(『からくリ人形の夢』岩波書店・参照)を通して会ったことがあるがいっしょに踊ったことはないし、彼女が踊るのを見たこともない。第一私がバロック・バレーを始めたのは、Ris et Danceriesが解散した翌年のことである。(1992年からRis et Danceriesに参加していたエレーヌが偶然私のピアノの生徒の母親で、ミオンの曲に振付けてもらったことがある。)

 私が最初にバロック・バレーを習ったセシリアも、当時博士論文執筆中のインテリだった。バロック・バレーの狙うところをすごくよく教えてくれた。クリスティーヌはもっと徹底していて、フランシーヌの亡き後、ピエール・ラモーを暗記するほど読んでいるのは彼女じゃないだろうか。踊り方について、国別、時代別の変遷も研究している。

 そのクリスティーヌに、イギリス流のことをどう思うかと聞いた。

 「イギリス人ダンサーは傘を呑みこんでいる」というジョークが返ってきた。
 
 クリスティーヌは、1983年にRis et Danceriesを出て自分のカンパニーを創設したので、Ris et Danceriesで彼女の教えたダンサーは少ないし、ラモーの言葉はどんどん曲げられたり無視されたり忘れられたりしていった。フランシーヌは、なぜか、もうあまり、訂正しなくなったという。共に研究した同期のMarie-Geneviève Massé は1985年に自分のカンパニーを創設、すでに、はじめの頃のエスプリはなく、クリスティーヌとほとんどすれ違ったBéatrice Massinも、今やラモーもどきでしかない、とクリスティーヌは言う。つまり、初期のRis et Danceriesの研究成果をさらに掘り下げているのはほぼクリスティーヌ一人だけで、後はどんどん水増しされ、クラシック化(ダンサーの多くは元クラッシック・ダンサーである)され、伝言ゲームのように細部を変えつつ、みなが「マイ流派」のように家元割拠状態になっているわけである。

 この話にクリスティーヌの矜持やいくらかのルサンチマンもあるのは確かだ。彼女は、踊りと演劇と音楽と研究と守備範囲が広い。その意味でやはりスーパーウーマンだったフランシーヌと一番近いかもしれない。しかし、売込みとか根回しとかマーケティングとかには強くない。逆に彼女のもとに集まるのは彼女の解釈に納得し、その人柄に魅せられた人であるので、とても絆は強い。

 で、イギリス流の高いハードルを越えて、国際的に活躍を続ける湯浅さんだが、そんなイギリス流の彼女と私たちトリオでは多少のカルチャー・ショックがあっても不思議はないのに、これが、ないのである。
 彼女は「傘を呑みこんだイギリス人」風どころか、非常に優雅で柔軟で楽しそうな踊り方をするからだ。

 湯浅さんは私の『バロック音楽はなぜ癒すのか』(音楽之友社)を読んでコンタクトしてくれたのだが、その時に、「自分が感じていても言語化できなかったことをそっくり書いてくれている」ので感激したと言ってくれた。

 でも、イギリスでは言語化されてないというか、踊り方にも本当には反映されてないようなバロック・バレーにおける身体部分の体重の流れの意識化と気持ちよさの追求というテーマは、私がバロックバレーを習い始めてからずっと、フランスじゃ耳にタコができるくらい言語化しまくられてきたものだ。まず、エスプリありき、という感じだった。それを頭で理解して、気持ちよさの感じ、体の各部の重さの落とし方を探っていって「腑に落ちる」所に至るには、それなりの試行錯誤があるのだが、目指すところははじめから、よく分かった。一度コツをつかむと、気持ちいいので、それを楽器のレッスンにもそのまま応用できたほどだ。

 しかし、頭で分っても明らかに体は解放されてないままでいる人や、スタイルを多少バロック風に変えてもクラシックやコンテンポラリーの体をそのまま引きずっている人もたくさんいて、それはそれで、一目で分る。クリスティーヌのやり方がいかに「正し」くて気持ちいいかは、彼女の体の使い方を見ていれば一目で分るのと同じように。

 逆に、イギリスでイギリス風のかなり緻密なコントロールを要求される踊り方を習った人たちの中でも、そのまま「形」だけで仕上げる人もいれば、湯浅さんのように、ピエール・ラモーのねらっている気持ちよさに到達する人もいるわけなのだろう。日本の他のバロック・ダンサーが私の本を読んで啓発されないのは不思議だ、みたいなことを彼女は言ってくれるが、イギリス流の「家元」になっている人たちには、ひょっとして、「これなに?」の世界だったのかもしれない。そう思うと、湯浅さんがその「流派の差」を超えて、バロック音楽とバロック・バレーの身体良好性を感得したというのは稀有なことなのかもしれない。イギリス風はある意味非常に禁欲的なので、その体勢で気持ちよさや自然さを感得するのは並大抵なことではない気がする。彼女がマイムやアーリーダンスなどにも造詣が深いこととも関係しているのだろう。

 フランスのバロック・バレーは、始まりに騎士たちの「健康増進」という目的もあった。芸術性や芸能性とはややずれたところにあったのだ。宮廷中が踊ることを奨励されていた。その辺の感覚が切り離されれば、もう、それは似て非なるものになるかもしれない。
 
 クリスティーヌのカンパニーのダンサーの方は、コンテンポラリーの振り付けや演出もしているのだが、バロックのエスプリを最大限に生かしてコンテンポラリーなクリエーションをしたいと言っていた。

 どちらにしても、振り付け譜の失われたミオンのオペラ曲は、ダンサーの体に纏われることで、真によみがえる。楽しみだ。
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# by mariastella | 2010-02-10 09:39 | 踊り

Le botulisme

7月の帰国時に、あるNPOに依頼されて陰謀論のリテラシーについて講義をすることになりそうだ。

 1998年に、ノストラダムスの予言についてのリテラシーについて、朝日カルチャーセンターで連続講義したのを思い出した。1999年の7の月は遠くなったが、21世紀になって、終末論は影をひそめたかというわけではなく、当時とは比較にならないほどに、インタネット世界が広がっているせいで、端末機の前で孤独に恐怖に駆られる人も飛躍的に増えるわけで、ある意味、深刻になっている。

 今度出す『無神論』にも書いたが、科学主義や合理主義が一見デフォルトになっているかのような今の時代なのに、トンでも論というのはますます盛んで、冷静に考えれば絶対ありえないような陰謀論などもむしろ巧妙、悪質になり、マーケッティングによって何でもできるというか、個人は昔より脆弱になっている気もする。

 体と心がしばしば乖離するように、合理主義や現実主義と、救済願望や不安も別個に共存しするのだろうか。
 一番不愉快なのは、「情報」とか「知識」とかが権力と結びついたり、弱者の支配の道具になることだ。

 「秘密の智恵」は選ばれた仲間にしか教えられないとか、警告だけはしてやるが、その理由付けは普通人の理解を超えるからしない、とか、検証のできないような「権威」を持ってきてそれを楯にして「真実」を振り回すとか、安全や健康若さや美や長命は金で買えるとか、コーチングや、自己管理や自助努力で達成できるとか、そういう言説が私はすごく嫌いだ。

 昔から陰謀説も終末論による脅しも存在した。ニューエイジによって増幅し、その後グローバル化し、今はそれがネオリベラリズムと結びついてますます複雑になっている。
 それを読み解くリテラシーは、究極的には、自己肥大から背を向けて身近な弱者と連帯するアンテナを調整するだけでいいのだが、一度懐疑や恐怖にとらわれたら、そこからの脱出が容易に自己目的化するのは、誰でも体験することである。

 2012年問題の読み解きについて頼まれていた仕事も、終末論と陰謀論の切っても切れない似た語り口をまたささやかながら分析したいので、講義の準備とともに進めるかもしれない。

 私にそう思わせたのは、昨日(2月8日)のニュースで、あのBHL(人気哲学者)が、botulisme の犠牲になったと認めたことを知ったからである。ノルマリアンのくせに、ノルマリアン伝統のcanular(意図的な嘘)に引っかかったわけだ。
 『イマニュエル・カントの性生活』という偽書(Jean-Baptiste Botul )からまじめに引用してしまった本が2月10日に出るそうで、それをすっぱ抜かれ、明後日のLe Point誌でBHL自身が釈明というか、騙されたことを認めたコラムを書いてるらしい。

 まあ、モノを書く仕事をしている者として、ちょっとひやりとしないでもない出来事である。
 しかし、以前にダヴィンチコードがらみで書いたことがあるように、ヨーロッパ、特にフランスにおける「偽書」のメンタリティは独特のものがあり、エリートの芸として成り立っているのに、それが一人歩きしてアメリカあたりでおおまじめに あげつらわれたりする。

 逆に言えば、偽書であってもそれがどうした、という部分もある。それが人のお役に立ってみんな幸せとか、みんな楽しんだとか、真実にはいろんなレベルがあるとか、結果オーライというのはいいのだが、BHLのようなインテリがまともに脚をすくわれては、かなりまずい。

 まあ、今度のことは、ちょっとした笑い話だが、BHLだからこそ、こうして明らかにされたわけで、たとえば普通の人が偽書やあやしい言説を真に受けてそれが、増殖され、脅しのツールになったり、「売れるものが正しいもの」みたいになると、どこかでほんとの犠牲者が出るかもしれない。
 
 来月からジャンヌ・ダルクについての連載をはじめるのだが、ジャンヌ・ダルクをめぐる言説ですら、ノストラダムスをめぐる言説と変わらないというか、同じような「流言」定着の構造があって、ちょっとショックでもある。

 もっとも、人々を結びつける神話や大きな物語というものもこの世にはたくさんある。その要素にあやしいものがあるとか嘘があるとか、証明できないとかいう反論だけでは切って捨てることのできない「意味」を担い続けてきた物語もあるのだ。それを利用する権力者や、自分の都合のいい神話をつくって支配のツールとする権力者もいるから、評価はますます難しくなる。しかし、偽書や流言やトンでも話をどのようにかわしていけばよいかという智恵も、古今東西の事例からきっと学ぶことができる、と、ひとまず「信じる」ことにしよう。

 

 
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# by mariastella | 2010-02-09 23:51 | 陰謀論と終末論

未知動物と神

 『無神論』の発売が5月はじめってことになりそうだと編集者から連絡をいただいた。
 楽しみ。
 久しぶりに日本の単行本を2冊読んでいたら、そのうち1冊の書き方が、何だか、『無神論』を書いていた間の私の気分とそっくりだったので笑ってしまった。

 高野秀行さんの『アジア未知動物紀行』(講談社)

 この中のいくつかのフレーズの未知動物とか幻の動物とかを「神」に置き換えて引用してみよう。

   ・・・・・・・・・


 神について語る人のタイプ。
 
 1、神の存在を信じており、興味がある。
 2、神の存在を信じておらず、興味もない。
 3、神の存在を信じていないが、興味がある。
 4、神の存在を信じているが、興味はない。

 彼らは彼らなりの納得の仕方で神を受け入れている。神はどうやら理屈で説明するものでなく、「感知」するものらしい。

 
 神は人を選ぶ。人もまた神を選ぶ。飾り気のない人にはシンプルな神が似合っている。

 あまりに神について深く考えすぎた挙げ句、「理解」するより「戦慄」したくなってきた。そっちのほうが「ほんとうのこと」に近づくようにも思える。神を神のまま放り出したっていいじゃないか。

     ・・・・・・・・・

 著者が、未知生物の目撃者(これは見神者みたいなもの?)に話を聞くと、みんな認識が違うのに、それぞれ同じものについて語っていると信じているらしい。
 著者が科学的精神によって未知生物を検証しようとすればするほど、その姿はぼやけてくる。
 それなのに、それに立ち会った人たちには、目撃談を聞く著者のその真剣さによって、未知生物の実在性が鮮やかになってくるらしい。いつもゆるやかに揺れる存在、存在と意味とが乖離することもある。

 著者は、遠野物語の柳田國男が現場に行って検証しようとせず、ただ記録して不思議な話をそのまま人々に提供したが、その後、怪現象を民俗学的に研究してそれらを歴史的精神史的に解釈し、「怪」を武装解除してその力を無化していったのに対して、自分の道は逆のような気がするという。
 はじめは、科学的なアプローチと民族学的理解を目指したのに、「未知を解明したい」欲求と「未知を未知のまま放り出したい」という欲求の間を揺れ動くのだ。

 この感覚ってすごく親近感がある。「科学」とか「論理」とか「証拠」とか「実在」とかいや、「真実」なんていう枠すら超えたところに、なにか「ほんとうにたいせつなもの」との出会いがある気がするのだ。

 仮説を立ててその妥当性を検証するとか、方法論的厳密さとか、トラサビリティとか、多様性とか、パラダイムの変換などというこ難しそうなことを煙に巻いて、それでも残る何かがありそうだ。

 もう1冊は、『やっぱり人は分かり合えない』(中島義道/小浜逸郎)PHP新書。

 これは、還暦を過ぎた男性文化人のガールズ・トークみたいな本だ。
 すごく日本的だと驚いた。エリート同士で、自分は引きこもりだの落ちこぼれだの、普通人だの生活者だの競って言い合ってる様子は、たとえばフランスのエリート哲学者同士ではあり得ない展開である。何もガールズ・トークが悪いわけじゃないけど、空しいより、つらい気分もした。こういう人たちが生い立ちや本音だのをわざわざ自分たちで掘り下げてあげつらうのはもったいないなあ。じゃあ、読まなきゃ、と言われそうだけど。

 小浜さんが、「多くの人にとって信念の対象となるものは存在としての権利を保証される」というのを西洋哲学の認識論の到達点というのも、なんだか、西洋哲学の神の存在論の手のひらから出てない気がする。
 誰かが「聖母の処女懐胎を信じる」と言明するのはすでに「信念」と「真なる知識」の対立がはじまっているからですでに懐疑の芽が含まれているとか、未来への時間軸の立て方が普遍的だというのも、例が処女受胎だからよけいに、キリスト教全盛時代にも「信仰告白」は根幹だったのだから、妙な気がした。キリスト教の聖人信仰における非時間軸性や、典礼における循環時間もあるし、もっと複合的だと思うのだけれど。

 「自由とは法則の否定を意味する」とか、「幸福」や「快」や場合によっては「善」も、えらく「欲求充足」と関連して自明のように語られているところは私とまったくスタンスが違うが、この二人はけっこう分かり合ってるじゃないかと思う。

 このお二人と、高野秀行さんは、全く別種のタイプだ。 
 そして、ジャングルとかで絶対冒険したくないインドア派のこの私が、冒険家の高野さんのメンタリティの方に、ずっと近い感じがするのはおもしろい。
 
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# by mariastella | 2010-02-04 04:01 |

哀悼

 私の「公式サイト」を管理、運営してくださっていたI さんが1月31日の朝、亡くなられました。
 ここで哀悼の意を表させていただきます。

 サイトの彼女の自己紹介にはこうあります。

 「竹下節子のお部屋へようこそ♪ 当サイトの制作運営スタッフのPickyです。196×年生まれの会社員兼主婦です。
竹下節子氏の著作、『テロリズムの彼方へ我らを導くものは何か』でガツンと衝撃を受け、『不思議の国サウジアラビア』で「ほ~」「へえ~」「ふふふ」となり、『大人のためのスピリチュアル「超」入門』では笑ったり泣いたりし、『アメリカにNOと言える国』では目からうろこがぼろぼろっと落ちました。竹下氏の著作にはいつも大いなる刺激を受け、そして氏の本を読んだ後の胸のあたりに暖かいものが降りてくる感覚が好きで、縁あってこのサイトの運営スタッフをしています。」

 2年半ほど前に病気が発覚、早期なのですぐに手術すると助かる、手術しないと余命は1年、と言われ、手術しない道を選び、半年後に同じ医者から、もう遅い、余命は6ヶ月、などとというような心ない言われ方をしたのに反撥してその後もいろいろな代替療法、免疫療法などで闘病を続けていましたが、やはり「奇跡」は起こりませんでした。
 代替療法、民間療法の中には、たとえ病気を治さなくても、「痛みや苦しみを緩和する」といった効果を発揮するものがありますが、彼女の場合は、「病気を克服する」のが絶対のテーマだったこともあり、痛みや苦しみは避けられなかったようで、本当に辛かったと思います。この2年半、彼女に負担をかけないようにと、私の記事はこのブログに移行してきましたが、彼女自身は、サイトの存在が他の世界とのつながりの一つでもあり、決して閉じることを考えていませんでした。だから、もし、彼女が回復したら今度は二人でもっと具体的に人の役に立てるようなネットワークを何か新しく作りましょうね、と言っていたのです。
 
 ではほんとに治る日が来るのか、それは大いに疑問だったので、もう「神頼み」しかないので、彼女にこう書いたことがありました。昨年の夏、パリのヴィクトワール広場に、リジューの聖女テレーズの両親が前年に福者になった後でリジューから譲られた聖遺物の特別展示を観にいったことです。

 「テレーズのおかあさんのゼリー・マルタンは乳癌で亡くなったんですが、ルルドの聖母を信仰していて、いろいろな恵みがあったそうです。この夫婦は、後ひとつ「奇跡」が認定されたら福者から聖人に認定されるので、とりなしの祈りをみんな熱心にしていました。それで私はIさんのことをお願いしました。だから、これから劇的に奇跡的に回復したら、バチカンに申請しなくっちゃ・・・」

 すると彼女からは、

 「ありがとうございます!きっと奇跡をおこします!バチカンに申請してもらえるように。」

 という返事が来ました。もともと彼女がその時に、ある宗教の関連の病院に入院していて、「そこの方たちが熱心に祈ってくれるので感謝している、自分の祈る神社の神さまなんかとみんな大元は同じですね」、と書いてきたからです。私も何かしなくっちゃ、と思い、でも私の「信仰心」レベルではどんな神仏も耳を傾けてくれることはないだろうから、ヨブの時代から可能性がありそうな、「聖人によるとりつぎ」ならどうかと考えたのです。
 どちらにしてもかなり非現実的な話ですが、彼女の「気晴らし」程度にはなったかもしれません。

 彼女がその前にパリに来た時は、バック通りの奇跡のメダイの聖堂に案内し、とても感動されていたことを思い出したからでもあります。

 しかし、私の読者の方で、たった一人こうして、サイトの立ち上げと管理に関わってくださった方が、5年後に亡くなるとは、まったく想像だにしないことでした。私よりはるかにお若い方ですし、アウトドア派で活発で、健康意識も高い方だったのです。

 思えば不思議なご縁でしたが、彼女の作ったこの「公式サイト」を通じて知り合った方、ご縁のできた方もいます。この場を借りて、あらためてIさんに感謝の言葉を捧げさせていただきます。

 サイトはおそらく閉じることになります。記事を保存したい方は今のうちです。
 サイトの著作案内の「読者の感想」のメールも彼女がチェックしていたので、今朝はじめて開きまして、昨年末からコンタクトされていたのにそのままになっていた方たちがあるのを知りました。お詫び申し上げます。
 遅ればせながらお返事しました。

 そのメールアドレスは少なくとももう少しはおいておきますので、お使いください。
 掲示板ももう少しあけておきます。「おしゃべりルーム」でコメント可能です。

 このブログは独り語りなので、コメントを閉鎖しているので、これからどうやってコミュニケーション可能にしていくか検討中です。自分でサイトや掲示板を運営するスキルがないこともあり、迷ってます。これを読んでいらっしゃる方で、何か提案がありましたらどうぞ。
 
 
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# by mariastella | 2010-02-03 02:11

ハイチとライシテ

 フランスでは相変わらずハイチ報道が衰えていない。カリブ海に海外県があるし、一応フランス語圏なので、メンタルな距離はかなり近い。アメリカに対するライバル意識というのもあるようで、ハイチに送られたアメリカの軍隊のことを、災害に紛れて占領しているかのように言って問題を起こした政治家もいる。

 私のところにはカトリック関係からも、ハイチ支援について複数のメールが来た。 
 カトリックはかなり活躍している。こういう時になるとドサクサに紛れて、布教に来るかなりあやしい団体もあるので、まあ、カトリックはその点安心だ。それなら、教会、カテドラル、学校など、もっと耐震構造にしておいて、避難所として機能するように造っとけばよかったのに、とも思うが・・
 
 カトリックは、理念的にはユニヴァーサルな組織だから国境はないし、移民や非定住民を支援する部署もあって、フランスの不法移民も教会に避難したりしている。ハイチに残る人口に匹敵すると言われるくらい世界中に広がるハイチ人コミュニティの多くは、カトリックの恩恵をどこかで受けながら亡命や移住を成功させてきた。軍事独裁が終わった時、荒廃した国で病院や学校を支えてきたのも、ハイチのカトリック教会だった。病院や学校というのは、もともとカトリック修道会の得意分野でもある。

 ハイチでは特にフランスのブルターニュの修道者が基礎を築いた。1804年の独立以来、1860年にローマ教会と和親条約が結ばれ、ローマは、ハイチの教会の現地人運営を望んでいたようだが、結局ブレストのカルム会司祭を大司教に任命した。1850年から1900年の半世紀に2500人のブルトン人がハイチに渡って現地の神学校で学んで聖職者となった。
 第二ヴァチカン公会議以降は、5人の司教をはじめとしてほとんどの聖職者がハイチ人である。

 統計をとると、ハイチのカトリック人口は80%で、プロテスタントが40%だそうだ。すでに数があわない。
プロテスタントは、1915年以来アメリカからどっと流入してきたもので、何百もの小教会が林立する。最近は中南米の他の国と同様、福音派の進出もめざましい。

 で、ここで書きたかったのは何かというと、ハイチには「ライシテ=政教分離」という概念はないことだ。
 
 政教分離が成り立つためには、国家が神の代わりに人々を守るシステムがなければならない。
 Etat Providenciel という言葉があるが、「神の手」を持つ強い国家が必要なのだ。入信を条件とせずに神の役割を果たせる国家が神と拮抗しないところでは政教の分離はできない。

 ハイチと言えば、貧困、独裁、ハリケーン、地震・・・ よくよく不幸にばかり見舞われる国だと思われがちだが、では、だから「神も仏もあるものか」(ハイチの人は仏とは言わないだろうが)と絶望したり神を呪ったり、あるいは不幸は神罰なのだと思って打ちのめされたり、ということは、なぜか、ない。
 不幸をもたらす負のエネルギーが彼らに作用しているので、それに対抗して正と生命のエネルギーを喚起しなくてはならない。彼らには、目に見える世界のほかに目に見えないパラレル・ワールドがあり、「不幸」が起こるたびに、「そっち」の方におうかがいをたてているのだ。

 それが何かというと、「ブードゥー教」である。

 つまりハイチには、80%のカトリックと40%のプロテスタントの他に、それと並行して、「夜の宗教」であるブードゥー教が確固として存在する。ブードゥ教は、アフリカの宗教とキリスト教、特にカトリックの聖人崇敬などが習合して形成されたもので、「見えない世界」に働きかけて、諸問題の解決を図るのである。

 現地のカトリック教会はもちろんそれを認めているわけではないが、実際問題としてそれはパラレルに機能している。

 ハイチを見ていると、ライシテとはそもそも何であったのかが分る。

 ライシテとは、誰かが「神」を信じなくても、ある特定の宗教や儀式を信じなくとも、国が貧困や病や災害援助の保障をしてくれるというシステムなのだ。

 そのような「国家」がないところには、ライシテは成立しない。

 もちろん、国家宗教を信じることや国家の首長に対する絶対服従も、保障を受ける条件にならない。王権神授や神権政治を敷くところではライシテはない。

 弱い人間の実存的危機や災害において、国や宗教とは別に唯一「保障」をしてくれるのは、家族や部族である。家族や部族の互助システムの基本には、ご先祖さまや部族の守り神のような「共同体の神」が祀られることが多い。ハイチはもともと奴隷貿易によって強制移住させられた人々の国である上、歴史的、構造的に、そのような強い共同体の守りが充分ではなかった。そこで社会的な救済活動をしてきたのがカトリックという中央集権的な「普遍宗教」だったというのは、彼らを国際社会のネットワークに繋ぐ意味でよかったと思う。

 「ある特定の神とか教祖とかを拝まなくても、困った時に最低限の保障を受けられる社会」というのは、私たちは慣れてしまっているが、非常に少ないし、新しいし、人工的でもあり、絶えず自覚して更新していかないとまたたくまに「あっちの世界」に足を救われたり、有名無実となったりしそうな脆弱なものなのだ。
 
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# by mariastella | 2010-01-28 01:03 | 宗教

非平均律ギターのサロンコンサート

 昨日は非平均律=正五度ギター特に10弦バスギターを使っての最初のパリでのコンサート。
 プログラムは作っていなかったし、昨日は私の主宰するアソシエーションとも関係ないので、ほとんどが、私たちをはじめて聴く人ばかりのプライヴェートコンサートだ。
 つまり、私たちの独占レパートリーを初めて聴く、正五度ギターを初めて聴く人ばかりだ。
 だから丁寧に説明する。

 音楽とか絵画とかは、誰の目にも見え、耳に聞えるものだから、先入観なしに見たり聴いたりして自分の感受生に忠実になればいいと言われたりするが実は大違いで、事前に準備していればいるほど、感受性の幅も増すし、受容が複合的になる。たとえば、旅をしてもツアーで決められたところをまわるのと、知らない土地に知り合いがいて、知ってる店に連れて行ってくれたり、その場所の歴史やらゆかりの人について長く思いを温めていたというような場合とでは、まったく印象が違うのと同じだ。

 音楽でも、たとえば、自分が苦労して練習してきた曲を他人が弾いてるのを聴くと、聴くところや感動のしどころが選択的になるというのはよくあることだ。和声学をやっていると和声進行ばかり気になったり、オーケストラでも自分の弾ける楽器のパートばかりはっきり聞えてしまうということもある。それをもう一歩踏み込んだところで、新しく自由な受容ができる。練習を重ねた難しいパッセージが、いつか、自在に弾けるようになるのと同じである。どんなに自在に弾いていても、脳の中にはそれまで練習のフィードバックが起こるから、最初から易しかったパッセージとは全然違う。

 一回きりの聴衆にはもちろんそんな反復や成熟は期待できないわけだから、音楽のコンセプトや楽器のコンセプトや歴史的背景を説明することで、「たんに受身で音が聞こえてくるのを待っている」という状態から、脳のいろんな部分を活性化状態にしてもらう。音楽を聴いているときの脳の活動状態というのは、このような準備によって、どこまでも広がることが知られている。ミラーニューロンが働いて、自分も弾いているような気分、あるいはダンス曲では踊っている気分にもなれるし、実際に筋肉が疲れることさえある。

 招待者の顔ぶれはかなり多彩だった。場所はパリ18区の女性画家のアトリエ。彼女の娘も画家。出席した息子は音楽家だ。イギリス人、スコットランド人の美術愛好家二人、イギリス人俳優一人、アルゼンチン出身の舞台監督でヤスミナ・レザ作品を上演している女性、アメリカ人でKの翻訳家エリカ、彼女が連れてきたチェコのジャーナリスト二人。一人は昨年のパトチカの学会をまとめた人だ。でも彼らはチェコ語、英語、ドイツ語しか話せなかったので、フランス語の説明はよく分らなかったかもしれない。メンバーの中ではMのドイツ語が私の英語より上手いので相手をしてもらったが、彼らのドイツ語はあまり上手くなかったと言っていた。
 アトリエと同じ住所に住んでいるフラメンコのスペイン人と、インドのシーク人のカップル。彼らとはフラメンコの話や、シーク派の祈りの形について話せた。他にはメンバーのHの音楽教師仲間たち。
 私たちのトリオと一緒に活動したいと前から言っていたカウンターテナーのセバスチャン・フルニエもようやく私たちを生で聴けた。
 彼は6月の上海公演でジョイントできないか考えてくれるそうだ。Hはオペラ座図書館に戻って、歌のパートの歌詞と楽譜をコピーしてくると約束した。「聖霊の踊り」の歌のパートについては、私の楽譜に書き込んであったので見せた。日本ではこの部分をバロックフルートに吹いてもらえないかと考えているからだ。

 夕方に早いうちに始めたのでカクテルパーティでゆったりと話せた。 
 この時に感じたこと。

 私が20人から40人くらいのカクテルパーティをする時は、紙かプラスティック製の使い捨てコップや皿を使うのだが、この画家、ミシェル・ルメルシエ(ヴェネローゼ信奉者)は、すべて紋章入りの皿やクリスタル食器を用意していた。これは気分がいい。私もこんな風にやりたいところだが、うちのパーティでは未成年の生徒もいるし、今ひとつ気が進まない。(でも、何を隠そう。私は自分のうちでパーティをしてる時、自分だけはこっそりマイコップで飲んでたりするのだ。)
 紙コップ類だと遠慮がなくて気楽でどこにでも打ち捨てられるというメリットはあるが、クリスタルならこちらも注意を払うので実際は破損のリスクは少ないかもしれない。食器というのはメンタル面ですごく重要だとあらためて確認。

 そのアトリエには、息子がイエスとしてポーズを取った『マリアとマルタの家のキリスト』の大きな油絵がかかっている。マリアとマルタのモデルは同じ女性とかで、確かにマリアとマルタは双子のように似ている。
 このテーマの絵では、厨房や食べ物や食器の細部をいかに綿密に描くかのようなところに画家の力量が発揮される場合も多いのだが、ミシェルは、ベラスケスの作品をイメージして、それを逆転させ、前面にはイエスとマリアのみ、マルタは背景という構図を採用した。このマルタはなかなかいい。嫉妬と不安に表情を汚くして台所仕事をしているのではなく、長椅子に座っているだけだが、そこからにじみでるのは孤独である。
 霊的な知的な活動だから料理を手伝わなくともOKというマリアでなく、「師」を独り占めにしているマリアに対して「独り」であるマルタの孤独が迫ってくる。

 ミシェルとこのテーマについて話したら、その絵のオリジナリティに反して、フェミニスト的なよくある意見がかえってきた。
 キリストは無性的で、それによって女性を性的対象から開放して霊的知的な世界に招いた。そのおかげでビンゲンのヒルデガルドのような大インテリが登場した。
 女性は台所で労働するのが当たり前という時代に、キリストは、女性でも学ぶことが、最も高貴なことであると見なしたのである。

 私はこの見方にことごとく異論を唱えた。この場面でのイエスはイエスであってまだキリストではない。イエスが無性的というのは根拠がないし、このテーマにおいて意味もない。台所仕事よりも知的な仕事が価値があるというのはメーッセージでないばかりか誤っている。

 この続きは、音楽のテーマと関係ないので、また別に記事を書く。
 30日の土曜には同じ解説付きコンサートを今度は公開でやる。ロンドンからいらしてくださる湯浅さんのほかに、私のバロックバレー仲間のエマニュエル・スーラも来てくれて、翌日にこの二人とダンス付コンサートの練習を試みる。

 土曜のコンサートは、

  Récital du Trio Nitétis
  30/01/2010 à 20h30

 Lieu::Les temps du corps
 10, Rue Echiquier
 75010 Paris
 tèl : 01 48 01 68 28

 Accès : Métro Bonne Nouvelle / Strasbourg St Denis

 パリにいる人はどうぞ。解説はフランス語だけです。
 来秋の日本ではもちろん私が日本語でレクチャーします。


 ミシェルのアトリエにはネコが2匹いて、ギターケースの上で寝てくれた。かわいい。043.gif

 

 
 
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# by mariastella | 2010-01-25 20:04 | 音楽

歌え、翔べない鳥たちよ / マヤ・アンジェロウ

先日の記事 http://spinou.exblog.jp/13481666/  の中で、

 Maya Angelouの 『 I know why the caged birds sing 』を読んでると書いた。もう半分くらい読んだが他の本を読むことが必要になってちょっと中断。
 この翻訳が出ていることを教えていただいた。

 『歌え、翔べない鳥たちよ / マヤ・アンジェロウ』http://www.amazon.co.jp/gp/product/4651930166

 など。原題がすごく印象的なので、翻訳タイトルがやや平凡なのが残念。

 マヤ・アンジェロウとカタカナ表記なのだ。マヤ・アンジェロで少し出てきたので、それ以上進めなかった。よくある名前なら「・・・ではありませんか」と検索サイトが提案してくれるのだけれど。まあ、日本であまり知名度はないのかもしれない。ここで改めて紹介するとともに、情報提供してくださった方にお礼申し上げます。

 私の書く本にはカタカナ名が多く、その表記にはいつも苦労する。日本で紹介されているものはできるだけそれを採用しようとするのだが、ばらばらだったり、明らかに間違っているものもある。だから、私の採用したカタカナを読んで逆に悩む人がいては悪いので、本来ならいちいちアルファベットをつけたいが、煩雑になる。99%の人は、わざわざ原語で検索しようとは思わないだろうし、そんなことをする人なら、すでにその名を知っているか、文脈で見当がつくだろうし。

 フランス読みというのもあるし。この著者ならマヤ・アンジェルーだ。

 音楽の曲も、今弾いている組曲には Air gay というのと Air vif というのがあって、一応「陽気な踊り」、「元気な踊り」と訳してるのだが、このgay とかvif というのは、イタリア語のallegro とvivace のフランス語訳であり、まあ、速さの指示なのだ。もちろんイタリア語のアレグロやヴィヴァーチェにも、歓びとか活き活きしたという元の意味があるわけで、歓びとか活き活きには、スピード感の含意があるのだろう。18世紀の演奏ピッチは今のものより半音ほど低いのに、テンポは今より速かったと言われている。翻訳する時悩むのも演奏で悩むのも共通点がある。
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# by mariastella | 2010-01-22 22:43 |

ブルカ禁止法

 フランスに亡命アフガニスタン人などが増えたせいか、いわゆるブルカという全身を隠して目のところが網目になっている服を着ている女性がたまに見られるようになった。その他に、サウジ・アラビア風の全身真っ黒のものとか、イスラム系女性が外で身にまとうものはいろいろあるのだが、フランスでは、顔を含めて全身を隠すものをブルカと総称し、これを公道で来て歩くことを制限する法律を作るかどうかでいろいろもめている。

 少し前の学校における「イスラムスカーフ禁止法」が、イスラムを特定しないように、あらゆる宗教のシンボルの目立つものは禁止と言い換えたように、宗教と結びつけた抑圧と取られるのはいかがなものかという考えもある。
 私も、どちらかといえば、もぐらたたきみたいに法律を作るよりも、ケース・バイ・ケースで、ある女性の全身ヴェールが、どういう力関係によって決められているのかをチェックして、セクト禁止法や女性差別に関する法律などで対応すればいいんじゃないかと思っていた。
 もちろん、学校に子供を迎えに行く時に、ほんとに母親なのかどうか分らないような服装でいくとか、身分証明書の写真に無帽の顔出しを拒否するとか、明らかな不都合は回避すべきだし、すでに、デモ行進などで顔を隠すことは規制されている。ヨーロッパの他の国では特定の祭り(カーニヴァルなど)をのぞいて公道での顔を隠すことを含む「変装」を禁じている地方もあるらしい。コスプレなんかはだめなわけだ。まあ、フランスにも、女性のズボンを禁止する法律がまだ残っているが、もちろん誰も罰せられない。

 しかし・・・

 ヌーヴェルオブスのジャック・ジュリアールのコラムを読んで、ブルカ禁止法もありかなあと思うようになった。
 
 女性の顔、髪、腕、脚を隠すのは、女性を性的次元に矮小化することであり、それらの部分が性的機能を持っていること=つまり、特定の男(父や夫)の私的所有物であるか「罪」であると見なすことである。
 「好きでヴェールをかぶっている」と主張する女性がいる。男に強制されたのでなく自分の選択だと。
 それには、『いやいやながら医者になり』(モリエール)のマルティーヌの「私が殴られるのが好きだとしたら?」というセリフを対応させればいい。

 それはこういうことだろう。
 世の中には殴られるのが「好き」でそれを「選択」する人もいるだろうし、それは自由だ。では、運良く「殴るのが好きな人」に頼んで、合意でプライヴェートに楽しめばいいので、公道で殴ったり殴られたりのシーンを繰り広げてはならない。ヴェールをかぶったりコスプレの好きな人は、それが合意となる空間でやればいいので、それを不快や不都合だと思う人が見ることを避けられないような場所でやってはいけない。

 ジュリアールは、1848年にラコルデール神父が労働者を守る法律を支持して言った言葉を引く。

 「強者と弱者の間、金持ちと貧乏人の間、主人と召使の間では、自由が抑圧し、法律が解放する。」

 つまり、「自由にまかす」「規制しない」というのは、平等な者たちの間では「解放」の要因になるが、すでに強弱の差異やヒエラルキーのある関係においては、弱者を守る法律が必要で、「自由」にしておくとその「自由」を享受するのは強者だけであって、支配関係はますます強まるのだ。

 ほんとだなあ、と思って、この話を友人たちとした。

 まず若い女性から異論が出た。

 全身ヴェールだけが性的含意というのはおかしい。それなら、私たちが顔を出しても、化粧したりいろいろファッションに心を砕くのも、同じ意味で、私たちが性的コードに捕らわれていてそれに呼応していることである。女性についてあらゆる化粧やファッションや体型に関するプレッシャーを取り除くのでなければ偽善である。

 というのだ。むむ・・・

 まあ、私はたとえ80代の女性でも、美容やファッションや体型やブランドが強迫観念になっていることがあることを見聞きしたし、その人たちは、確かに情報操作の犠牲者とも言えるが、「男に気に入られよう」という性的含意はなく、多くの場合は、たんに近所の人とか、たまに会う友人とかサークルとか、同年輩の親戚の女性とかの目を意識しているのだ。これは、若くない女性一般に言えることで、すごく狭い範囲の知り合いから「あの人きれいね、若いね、すてきね、違うわねえ」とか言われたいだけだったりする。
 サウジアラビアでも、外では真っ黒ヴェールだが、家の中の女たちだけの集まりでは、みんな、美しさやファッションや宝石を競い合ってたのを目撃した。異性の目がなくても競争心は健在なのだ。
普通の国でも、公道で不特定の男に見られたい、という欲望により装いに夢中になるというのは、めったにないんじゃないんだろうか。若い女性でも、せいぜい、職場で、学校で、合コンという狭い範囲で他の女性より目立ちたいだけじゃないかなあ。
 やはり、全身を隠すブルカを来て歩くのと同じくらいに、見せるファッションをすることが社会的抑圧だと言うのは、やや違うようにも思える。

 大体において、21世紀のフランスでおしゃれに金と時間を費やしているような若い女性には、19世紀における弱肉強食の中から弱者が少しずつ権利を獲得してきた歴史の重みが想像できないのだ。そして、その同じ21世紀のフランスに、構造的弱者としての女性が共存していることも。

 もう一つの証言は、ある郊外のシテ(これが移民とその子弟のゲットー化している低所得者用公営団地)のイスラム系住民を調査した人の話。

 そのシテではブルカを着用しているのはまだ若い3人の女性のみだ。マグレバン系のごく普通の「移民の2世」である。彼女らは自分で「選択して」ブルカを着用している。移民1世の親たちはせいぜいスカーフどまりだ。
 しかし、その3人というのは、「よきムスリム」ではなくて、全員が、ごく若い頃からさんざん「遊びまわって」、そのシテの多くの男たちと関係を持った女性だというのだ。

 それを皆に知られているから、彼女らはもう結婚もできない。

 で、ブルカ。

 ブルカは、改悛のシンボルであり、要するに彼女らが、過去を悔いて「尼寺に行った」「修道院に入ってしまった」のと同等らしい。つまり、もう存在しないことによって、女としての機能を担う部品(腕や顔や髪や脚)を隠すことで、「世を忍ぶ姿=もう誰でもない亡霊のような存在」になることで、シテで生き続けてるのを容認されているというのだ。ブルカとは、女性を、個性(性別も含めて)を消して、非人間的なモノとするわけである。

 この問題はやはり奥が深い。

 
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# by mariastella | 2010-01-21 01:35 | フランス

Port-au-Prince

 ハイチの地震で、被害の大きかった首都のPort-au-Princeのことを、日本語のネットでも たまに見かけるのだが、ほとんどが「ポルト・プランス」という表記なのには、違和感を持っていた。日本語のユニセフのページやWikiとかでもそう書いてあったし、フランス在住の日本人のブログにもそう書いてあった。私はポール・オ・プランスだと思っていたからだ。

 まあ、普段は耳にしない固有名詞だし、私の聞き違いかと思ってたが、昨日久しぶりにTVを見たらやはり「ポール・オ・プランス」と、2種のニュースのキャスターも特派員も言っていた。近くにいたフランス人にも確認すると、やはりTのリエゾンはない。近くにポルトリコとかあるからじゃないかといわれた。Porto Rico は、プエルトリコのフランス語読みだ。プエルトは「港=ポート」のスペイン語だろう。

 フランス語の port は、最後のT を発音しないからポールとなるが、確かに、peut-être(多分)のように、母音とつながると、プテートルのようにTが出てくるというのはよくあることだ。
 もし、意識的にTを発音しないならRがリエゾンして「ポーロ・プランス」となってもいいが、R の後で僅かに休止があって「ポール・オ・プランス」と読まれている。だから意識の中で、ポールとその形容詞が分かれているのだろう。
 ハイチのハイチ人は何と発音してるんだろうか。彼らは英語圏やスペイン語圏に囲まれてるから、ポルト・プランスで慣れてるのだろうか。日本は現地読み(に近いもの)に表記するが、ニュース類は英語を通してくるから英語風になってるのかしら。

 マルチニーク人の生徒にギターを教えたことがあるが、ドレミのレ(フランス語で「Ré」)が発音できなかった。本人は聞けるし、発音してるつもりなのだが私には「リュウ」と聞えるのではじめは困った。

 リエゾンも、たとえば、pas encore (まだ・・・ない)は、「パザンコール」が「正しい」が、北の地方の人はリエゾンしないことの方が多いし、「標準語」でもリエゾンさせないで「パ・アンコール」と言えば、「まだでよかった」というニュアンスが加わったりする。南仏語も、カナダのフランス語やベルギーのフランス語もなまりや用法まで微妙に違うし、いろいろあるのだが、固有名詞って、もっと一本化していいような気もするのだが。

 まあ、日本語だって「にほん」か「にっぽん」か、Tokyo か Tokioかと、聞かれても迷うし。

 フランス語は英語と違って、大体綴りと読み方が対応してるので、仏仏辞書に発音記号はないし、逆に固有名詞などで普通と違う読み方の時は、フランス語でルビがつけられてたりする。中学生用の英語の学習テキストなんかにもフランス語読みが付記されている。これを見てはじめてなるほどと思った英語の発音もある。発音記号とカタカナだけでは分らなかった曖昧音などだ。

 もっとも普段バイリンガルで暮らしていると、聞こえ方と言うのは世界の分節の仕方で、基準になる言葉によって全く違うということがよく分かるので、あまり悩むのは不毛なんだけれど。音楽のリズムやハーモニーでさえ、「全く違いが分らない」という人から、非常に繊細な人まで驚くべきグラデーションがある。驚くのは楽しいことではあるが。
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# by mariastella | 2010-01-20 22:55 | フランス語

近況(続き)

 さっき、近況とした記事をUPしたが、何だか、近況を伝えてない陰謀論の話になっていたので、もう一度。

 ようやく無神論が終わったので、仕事と関係ない本を1冊読み始めた。
  Maya Angelouの 『 I know why the caged birds sing 』の仏訳本だ。
 あのジェームス・ボールドウィンが最高に感動したと言うので、どきどき。
 最初から、胸が詰まる。
 アメリカで黒人であることとか、教会との関係とか。
 本って、いろんなことを教えてくれるなあ。

 こんなすばらしい古典だが、マヤ・アンジェロで検索したら、日本語訳が出てこない。何だか、児童虐待のサヴァイヴァーの例として挙げられてるのだけが見つかった。ほんとに訳がないのだろうか。

 年末年始は忙しかったので、娯楽は、映画は『Le concert』(Radu MIHAILEANU)を、後、フランスでは始めての上演になるミュージカル『 The sound of music 』 を観ただけ。前者の映画の舞台がモスクワのボリショイ劇場とパリのシャトレー劇場で、後者のミュージカルはそのシャトレー劇場での上演なのでおもしろかった。

 前者は、まあ話は安易な感動ものなんだが、細かいところがいろいろ笑える。
 チャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルトを延々と聴かせるラストは確かに感動させられるが、こういうのに感動したとうっかりトリオの仲間に言ったら嫌がられそうだ。

 前に、『De battre mon cœur s'est arrêté 』 ( Jacques Audiard)に感動したとトリオの仲間に言ったら、ああいう安易な映画は(音楽)教育によくないと言われた。18歳の時以来、10年もピアノを触っていない青年が、必死に練習すれば2週間でバッハのフーガを仕上げられるというストーリーが、幻想を与えるというのだ。
 それを言うなら、ブレジネフ時代から30年も弾いてないオーケストラ員たちが、新しい楽器とか急に渡されたりして、30年弾いてないチャイコフスキーをリハーサル抜きで弾けてしまうというこの映画は、まさに荒唐無稽でしかない。ソロのヴァイオリンに触発されてインスパイアされ、昔の感覚がよみがえるというのは分るけど、感覚とテクニックは別だしなあ。
 いや、あり得ない、ほんとに。指揮者は分る。30年間頭の中で指揮し続けてたんだから。ヴァイオリニスト一人とチェリストが引き続けてたので何とかいけるというのも分るが・・・

 私と室内楽トリオをやっているヴァイオリニストのジャンは、感動した、と言っていた。でもジャンは、音楽教師ではない。結局、現役の楽器教師で、若い子たちと向き合っているうちのトリオのメンバーには迷惑な映画だと言うことなんだろう。
 同じような外国で公演する音楽家グループにまつわるどたばた劇でも、フランス・イスラエル合作の『迷子の警察音楽隊 La Visite de la fanfare』(Eran Kolirin)の方が、確かに感動が深かった。

 ミュージカルの方は私のヴィオラの先生コリンヌがオーケストラで弾いていた。
 私の世代の日本人にとって、サウンド・オブ・ミュージックと言えばミュージカル映画の古典で、今回始めて舞台で見て、懐かしさに泣けてきたが、そういう歴史のないコリンヌは、5つくらいのメロディーしかなくてそれを繰り返し弾くのは飽きて疲れた、長すぎると言っていた。プログラムで、実在のマリアがどう生きてきて、ミュージカルにどう関わったかなどのエピソードが書かれていて、そんなことはすっかり忘れていたし、1960年代以降の後日談は知らなかった私には興味深かった。

 いくつかのナンバーをネットで検索すると楽譜、歌詞、コードが出てきて簡単にプリントアウトできた。ほんとに便利な時代だ。

 1月は、24日にプライヴェートのサロン・コンサート、ここではじめて私たちの非平均律ギターを披露することになる。12月半ばの生徒の発表会の前に少し弾いたのだが、今回が本格的なもの。
 30日には10区でレクチャー付コンサート。ここで、ロンドンからバロック・ダンサーの湯浅宣子さんが合流してくれるので、31日にはダンスつきで練習する。6月にダンス付き公演。基本的に同じものを10月末から11月はじめに日本で公演する。いろいろ考えたが正律ギターと言うのをやめて、非平均律、又は正五度と呼ぶことにしよう。正律は不可能だし、五度がぴたりと来るのを目的としているから。
 「西洋近代音楽」は平均律とともに成立したようなもので、「非平均律」はそれだけで、もう古典邦楽に近いものがある。音楽の受容についての本を書き上げたい。

 後は、ジャンヌ・ダルクの連載分を今月から書きはじめなくてはならない。新しい資料もたくさんあるので、何から書いていいか迷うが、これも、いわば、「無神論」と、無神論フランスの宗教となったライシテと、ローマ教会と、陰謀論とがミックスした近現代フランスの心理ドラマである。19世紀末から20世紀初頭(つまり反教権主義的ライシテとカトリックとナショナリズムとが混然となって葛藤していた時期)に復活したジャンヌダルクに関する言説の資料がほとんどすべてネット上で読めるのもすごいことだ。
 ユニヴァーサルなことと超越との関係、それとナショナリズムやアイデンティティの問題、ポスト・ポストモダンとの関係という、極めて「現在」的なさまざまなテーマを、ジャンヌ・ダルクを通して見ていくのは興味深いことである。

 バロック・バレーではムニュエにおけるエミオルの演奏とずれをやっている。
 Menuet では、123456、と2小節ずつの展開だが、急に、1 3 5 というアクセントになり、それをキャッチした後でダンサーがエミオルを始めるので、4、6、にアクセントがずれる。これがきれいに入ると非常におもしろいのだが、なかなか難しい。
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# by mariastella | 2010-01-14 03:17 | 雑感

近況

 このブログにご無沙汰してたので近況を少し。

 たった今、サイトの掲示板

 http://6318.teacup.com/philosophie/bbs?

 で、認識論と存在論の違いについてお返事したところ。

 このところ、ようやく終わった(というか、一旦おわらせた)『無神論の系譜』(4月出版予定、仮題)の中で、君たち、どうしてそんなにそれにこだわるんだい、と言いたくなるくらいに強迫的な、キリスト教世界(特にヨーロッパ)の「神は存在するのか?」という問いに付き合ってきたので、それと分けて考えることができなくなっている。

 (その掲示板で触れたウィルスの論文というのはとても面白かったので、でも日本語に訳する元気がないので、もし読みたい人はお分けします。)

 でも、こういう斬新な論文を読んでると、陰謀論とかトンでも説もちょっと頭をよぎる。

 陰謀説とか世界の終わり説について、1999年のノストラダムスに続いて、2012年に向けて何か言わないかという誘いを受けたので少し読んでみたら、科学トンでも説とSFが双子のように同時に生まれたこととか、「闇の権力の陰謀」というのは、1830年ごろにアメリカで生まれたメンタリティ(その理由は連邦政府と州政府の権力関係の逆転に関係する。フランスみたいにもともと中央集権の国ではなるほど生まれないわけだ)だとか、面白いことがいろいろ分ってきた。ま、結論からいうと、2012年に、世界は今とそう変わってないと思う。私個人が死んでる確率は、歳相応に大いにあるわけだけど。

 陰謀論で言うと、12月下旬に発表されたピウス12世の尊者(福者や聖人になるのは奇跡認定待ち)決定にまつわるニュースにも、すごく複雑な思いがした。
 過去に、ピウス12世「ヒトラーの猟犬」とかいう告発本を「カトリックの反省も込めて」訳してくれと持ちかけられたことがあるので、他人事とは思えない。

 まあ、列福とか列聖というのは、カトリック内部の基準であるので、ある人物の歴史的評価とかではない。
 しかも、今でこそ、ヨーロッパ中で、ユダヤ人問題とか過去のホロコーストとかは、手を触れれば火傷しそうなデリケートな政治的テーマであるが、1940年代の初めには、ヨーロッパにおいてそれほどの優先的な関心事ではなかったという現実がある。時代によって、事項のズームのされ方というのは変わってくるので、当時必死でユダヤ人を守る言説を繰り返さなかったからといって、今の見方で軽々しく断罪はできない。

 ピウス12世は、ナチスのホロコーストを見逃したとさんざん言われているのだが、彼が1958年に亡くなったときには、当時のイスラエルのゴルダ・メイヤーを含めてユダヤ世界はその徳を讃えている。ピウス12世の采配でカステル・ガンドルフォだけでも3000人のユダヤ人が命を救われているということで、彼は、ユダヤのPave the Way 財団によって、義人としてヒューマニズムと信仰と勇気の模範とかさえ言われているのだ。ローマの大ラビもイスラエルの大ラビも認めている。
 ただし、教皇という立場だから、「どこそこの夫婦が危険を冒してユダヤ人の家族を屋根裏にかくまった」というような分りやすい義人ぶりではなくて、間接的ではある。それでも、昨年の12月8日にNYのYeshiva UV でこのテーマの資料の展示会があって、ラビになる勉強をしている学生たちもピウス12世の「義人」ぶりを認めているそうだから、コンセンサスはあるようだ。
 しかも、今サイトが見つからなかったが、ユダヤ人で、これも異様な熱心さで、ピウス12世を弁護する本を何冊も出している人がいる。不自然なくらいだ。

 それでも、怖いと思うのは、それほど、どちらかといえばユダヤ人受けしていたピウス12世なのに、1963年に Rolf Hochhuthe の戯曲ひとつで、ころりと「ヒトラーの猟犬」側へと、評価の風向きが変化してしまったことである。
 時代が大物のスケープゴートを求めていたということもあるだろう。でも、それ以来の執拗なネガティヴな意見の嵐と、「ヴァチカンが秘密資料を隠匿している」式の陰謀説の根強さは一体なんだろう。
 アメリカの陰謀論体質とヨーロッパにある強固な反教権(つまり反教皇)主義と、当時の冷戦構造と、左翼運動の高まりが混ざって大きなうねりになった?

 確かに、無神論の歴史を調べていくと、「左翼=無神論=反教権主義」は、健気なくらい、セットになって、三位一体の宗教になっているのだ。

 お前ら、トラウマ、大きすぎ、といいたくなる過剰反応をする。

 もちろん、現教皇のB16 が 「空気読めな」さ過ぎて、何もがんばってピウス12世の徳をこの時期に讃えなくとも、という意見もあるが、彼は彼の立場でやることをやっているんであって、1月17日に始めてローマのシナゴグを訪問するチャンスをこんなことで潰してはいけないと、ラビも言ってる。すごく冷静に見ると、キリスト教の敵はユダヤでなくて、キリスト教圏の人間同士だなあと思う。

 まあ、逆に、彼ら同士でしかできないようなしっかりした研究もあるんで、Pierre Blet とか Philippe Chenaux なんかは、信頼できると私は思っている。

 後は、インタネットの存在と陰謀論の流布の仕方の関係だ。

 デマ、噂、流言、ジョーク。

 ネットがあると、想像のつかない広がり方をするし、信じられないような効果を与えることもある。

 適切なマーケティングをして情報戦略をたてれば、2ヶ月あれば、世界中の人に神の存在を信じさせてみせる、と言ったのは誰だっけ?

 悪魔の存在なら、2週間で、OKだろうなあ。

 
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# by mariastella | 2010-01-14 01:03 | 雑感

『自由人イエス』

 ドンボスコ社からクリスチャン・デュコック師の『自由人イエス』(Jésus homme libre)が届いた。

 http://www.donboscosha.com/product/3157

 表紙のイエス像は私の本の装画を何度かお願いした八木美穂子さんで、

 『聖女の条件』(中央公論新社)

 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4120035859/ref=cm_rdp_product

 の表紙の聖母の顔と今回のイエスの顔が瓜二つなのは、伝統通りだ。この時の聖母の顔は小さかったので分りにくいが、イコンの伝統も、能面の伝統も、正面の顔画左右不均衡というのも面白い。
 人間は左右完全対称の顔を美しいと感じるらしいが、能面で右半分の悩み多い顔を見せて橋懸かりから出てきたシテが、戻っていく時には安らかな左半面を見せるように、左右の不均衡が時間性を導入するんだなあと思う。それは聖と俗とか、彼岸と此岸とか、神と人間とかいう両義性の分裂やら共存やら統合をいろんな形で象徴しているのだろう。

 『自由人イエス』の後に自分で書いた解説をさっと読んで感動した。感動したというのは、へえ、この本を読んだらこんな感想が出てくるんだなあ、という感慨である。この解説には、私がここ数年取り組んでいるユニヴァーサリスムの擁護、無神論の系譜から、Kに触発されたソリプシスムまでが、この本で説かれる「自由論」に収斂していることが反映している。

 この本は、キリスト教系出版社から出ているので、「キリスト教の内輪の話」のようなバイアスをかけて見られるリスクがあるから、この解説で触れた「自由他在」の思想について、別に書き進めている。

 『自由他在の思想』のフランス語のタイトルは、『Solitaire et solidaire』を考えている。

 ユニヴァーサリスムが全体主義に逸脱することなく真に連帯に向うためには、 絶対に必要なことだ。

 2010年は、忙しくなりそうだ。

 非平均律ギターによる秋の東京公演の準備、そのための本の準備、
 自由他在の思想のまとめの他、『ふらんす』での新ジャンヌ・ダルクもの連載、
 他にも企画がいくつか持ち込まれている。

 そのすべてには、同じ「自由の希求」がある。
 
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# by mariastella | 2009-12-10 19:20 |

手ぶら Mains Libres

 フランスにはホームレスのための支援のアソシエーションがたくさんある。

 うちは部屋数が多いし一応庭もあるので、10人ぐらいはなんとかなるなあといつも思いつつ、いや、いろんな面で絶対無理、管理もできないし、ケアもできないとあきらめて罪悪感を抱いていた。

 今朝、はじめて Mains Libres (手ぶら)というアソシエーションのことを知って、これならできるかも、と思った。
 ここは、ホームレスの人が手ぶらで移動できるための無料無期限のロッカー貸し出しなのだ。
 日に2回2時間ずつ開くだけ。その間、ボランティアの人が来る。登録しているホームレスの人は、自分のロッカーで荷物を出し入れしたり、コーヒーを飲んだり、インタネットを使ったり、カードゲームをしたりできる。
 貴重品を置いておける、仕事や宿泊所や給食センターにも手ぶらで移動できる。
 運営も、ボランティアと登録ホームレスの人が共同でいろいろ決める。
 パリの中心地にある。

 食事を出さなくてもいい。寝るところを提供しなくてもいい。
 基本はロッカーへのアクセス。それも一日数時間。後はインタネット。

 こういうちょっとしたことが積み重なると、路上生活から抜け出るきっかけにつながるかもしれない。
 フランスにはコインロッカーが日本ほどにはないし、ネットカフェ難民を受け入れられるようなネットカフェも少ない。無期限というのがいい。実際ここから出発して、定職や住まいを得てボランティアとして戻り、後輩(?)の相談にのっている人もいるそうだ。
 
 これなら、個人でも、10人分くらいならできそうだ。
 何人かで協力したら、かなり実現可能性はある。

 私には絶対非現実的だと思っていた実戦ソシアルの可能性を知っただけで少し元気が出てくる。
 
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# by mariastella | 2009-12-08 22:39 | 雑感

最大の敵は「不寛容の精神」

『La Vie』 のJean-Pierre Denis のEditorial を読んでびっくりした。

リビアのカダフィ大統領が公式訪問先のローマで、ホステス派遣のエージェントに頼んでイタリア人の美女を何百人も招いて、イスラム教に改宗するように勧めたのだそうだ。

今のヨーロッパでは、100年前と違って宗教的にも民族的にも多様性が定着してそれは動かない事実なのだから、ライシテの概念も信教の自由の概念も、それに応じてアレンジするべきなのは当然であるが、現状はまったく、悪い方に向って硬化しつつある。

『2012』の監督も、バチカンやリオの巨大キリスト像やチベットの僧房が崩壊するところは映像にできたが、メッカのカーバ神殿の崩壊の映像化ははばかられた、とはっきり言っている。
たとえば、ブッシュがいくら神懸りでも、リビアに出向いてイスラムの美女を集めてキリスト教に改宗しろと勧めるなんてあり得ない。

前にも書いたが、構造主義人類学が利用されて、一種の欧米自虐観が定着し、そこに南北の経済格差と宗教地図が重ねられたりといういろいろな操作があり、罪悪感と拝金主義がないまぜになってしまった今のヨーロッパに、信教の自由に関する「非シンメトリー」が生まれた。過去の怪物であったローマ教皇だのキリストだのを思い出したように叩いて見ても、見かけの批判精神の底には、この非シンメトリーに対する怖れや不全感があり、だからこそ、それが突然、スイスの「直接民主主義」によるイスラムの自由への介入(ミナレ建設の禁止)などという現象に噴き出したりする。

他のヨーロッパ諸国がいっせいにこれを批判して、基本的人権としての信教の自由を掲げるのは当然だし、まあいい。

しかし、彼らは、カダフィーの行動はもちろん、たとえばサウジアラビアでキリスト教が教会の建設はもちろん、いっさい宗教行為を禁止されていることについては決して異を唱えない。私はサウジ人の大学教授で無神論者を知っているが、彼はそれを決して書いたり口にしたりできない。イスラムであることとサウジ人であることは同義だから、イスラムを公に捨てるには、国籍も捨てて亡命する他に道はないのである。

ライシテや政教分離、信教の自由の元にある精神に忠実であれば、信教の自由や表現の自由はメッカでもスイスでも擁護されるべきなのだ。それはほとんど口にされない。

本当の敵は、イスラムではもちろんない。

最大の敵は、「不寛容の精神」なのだ。スイスの民主主義は「不寛容」というウィルスに感染した。宗教原理主義、カルト、独裁政治、全体主義はもちろんこのウィルスの巣窟だし、ナショナリズムやエコロジーから嫌煙運動まで、このウィルスに感染すると、人間性を損なわれていく。人間に固有な「自由」という輝きは失われる。

私はヨーロッパのライシテは、キリスト教については100年かけていい温度になったと思う。

行き過ぎて、宗教についての立ち居地を失った感じでもある。

過去の無神論者や反教権主義者は、守るべき場所を持っていた。

今は、それがない。

スイスのプロテスタントのうち、日曜に教会に通う人の率は何と5%ほどだそうだ。彼らには、自国のイスラム人口の宗教行為の必要性など分からなくなっているのだろう。

不寛容の精神、繰り返すが、これは宗教だけではなく、すべての人を蝕む。
ヨーロッパの歴史的文化的構築物としてのキリスト教もまた、不寛容の精神に何度も襲われた。
民主主義でさえ、自由主義でさえ、この精神に襲われるのである。
本来ならば、真の宗教者は常にこのウィルスと戦わなくてはならない。
民主主義や平和な世界を望む、すべての人が。

このウィルスが自由を奪い、人間性を奪う

自由も人間性も、他者と連動してこそ意味を持つのだ。

不寛容はそれだけで、緩慢な自殺である。
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# by mariastella | 2009-12-04 21:52 | 宗教

Hadewijch de Bruno Dumont

ブリューノ・デュモンの『ヘドウィッジ』

 ヘドウィッジはフランス語ではアドウィッジに近いが、13世紀のライン=ベギン会神秘主義の系譜の有名な修道女で、ブラバント(フランドル地域)のハデウェイヒという神秘家として、幻視について書いた記録を残している。ビンゲンのヒルデガルトなんかもそうだが、ハデウェイヒもなかなか濃縮で、豊かなイマジネールを展開し、ヒステリーの事例にされたり、エクスタシーを伴う性的ミスティシズムの事例にされたり、宇宙人との遭遇の事例にされたり、キリストへの愛は情熱的であるが、どこかパセティックでもある。

 この映画では、Julie Sokolowski の演じるパリの外交官の娘セリーヌが、神秘熱に駆られて、このハデウェイヒを修道名にして修道女となるべく志願者となる。しかし、多くの神秘家のように、食を断ったり、過激な苦行を自分に課したりするので、修道院から、それは自己愛の一種である、と批判されて、規則を守って共同生活ができないならもとの生活に戻った方がいいと言われて追い出される。

 元の生活とは、サンルイ島の大邸宅で、神学の勉強をし、権力と見栄しか頭にないような父親と、娘に無関心で鬱症状に逃げる母親との愛のない生活である。

 こういう、金や名誉はありそうだが愛のない家庭から、愛に飢えて宗教に倒錯的な愛の対象を見出す娘が出るという図式は何だか安易で嫌だが、このジュリー・ソコロスキー があまりにもうまいので、存在感がある。
 ちょっとぽっちゃりしていて、可愛いのだが、化粧気がなくいかにも修道女志願という無頓着さで、そのくせ、体の線がはっきり出る大胆なデコルテにミニスカートというような、そこらへんの娘と変わらぬ格好をする。その辺のアンバランスも、いかにも、大人になるのを恐れる娘の抑圧された欲望が狂信に向わせるという感じなのだが、丁寧に繊細に描かれているので、成功している。ブルジョワの屋敷も、郊外のアラブ系移民の青年と出会うところも、すべてちょっとシュールでもある。カメラのフレームや動きや色彩がすばらしいので、どのシーンもすべて味わい深く美しい。

 ボーイフレンドの兄さんがイスラムのイマムで、コーランの勉強会に誘われる。シテの中には広いモスクがある。モスクといえば、この週末、スイスで、モスクのミナレ(尖塔)の建設禁止を憲法に書き込むことが国民投票で決定したことが、ヨーロッパの恥、と言われてスキャンダルになっている。
 ルソーの出身地だからなあ。性善説を信じて直接民主主義をやってると、こういうことが起こる。人間はひとりひとり、愚かにもなるし、恐怖や憎悪にとらわれることもあるし、プロパガンダに洗脳されることもあるし、同じ人でも、愛憎や嫉妬や寛容が共存していてめまぐるしく入れ替わることもある。白人の人種差別者たちが黒人をリンチするのも彼らなりの「直接民主制」の多数決だろうし。 
 まあ、フランスでも、モスクはOKだが巨大なミナレはだめというケースもあった。
 それ自体は、それこそケース・バイ・ケースだろう。観光が売り物の歴史都市に景観を損ねるような建物は建ててもらうと困るので条例を作って規制するとか、ヴェルサイユでは城より高い建物が建てられない、とか、建物というのは、私有地に建てても、外から見える環境の一部だから、何でも好き勝手は困る、住民の意見も尊重すべきであるというのは分るし。だからといって、特定の宗教の建物の一律禁止を憲法に入れるというのは明らかに変だ。フランスが、学校のイスラムスカーフを禁止するために、十字架もターバンも特定宗教の目立つシンボルはすべて禁止、として、まとめてライシテを守ったように、本当は「ミナレ」が嫌だとしても、そこは一般化して、何メートル以上の宗教建築の建設はすべて禁止、とかいわなきゃまずいよなあ。スイス銀行の地下金庫にはアラブの富豪の大金もさぞ眠っているだろうに。

 で、セリーヌの話に戻ろう。この勉強会は、目に見えぬものを信じるのが信仰だという話である。「神はその不在のうちに現存する」という。こういう時、語られるのは、神の「非存在」ではなく、「不在」である。聖女たちが「信仰の夜」を語り、神を見失った、という時も、神は存在しないというわけではない。
 まあ、存在していても、自分の前に開示されなければ、関係性がなければ、いないのと同じなのだが。
 イマームは、セリーヌがキリストを愛しているし、愛されているというと、「もし神を愛しているなら神はそこにいるんだ、関係性の中で現れるんだ」と述べる。

 メッカに向って額を床につけて祈る兄弟のそばで跪き、両手を合わせて祈るセリーヌ。キリスト教が両手を合わせて祈るようになったのは仏教と接触して影響を受けたからだというのをどこかで読んだ。そのせいもあって、土下座するより手を合わせて拝む方がなじみがあるなあ。

 その後、セリーヌは、神を信じるなら行動を起こさなくてはだめだ、と煽られて、テロリストのグループに利用され、シャンゼリゼで大爆発を起こす。こういうシーンですら審美的でシュールなのだが。神秘家がいかにしてテロリストになったのかという疑問は、この手の娘ならあり得るよなあという納得に変わる。

 その後で修道院に戻るのだが、警察がやってきて・・・

 宗教の映画でも、神秘家の話でもなく、人が愛したり愛されたりすることが、本当はいかに難しいことなのかという話なんだろう。
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# by mariastella | 2009-12-01 09:35 | 映画

2012

 ローランド・エメリッヒ監督の『2012』を結局観にいった。大迫力特撮モノは嫌いじゃない。

 Mが、カリカチュラルだと言っていた。権力者、金持ち、白人とかは「悪」で、有色人種や慎ましい人々が「善」という図式とか、中国やヒマラヤのキャパシティとか、アフリカが最後に残る希望の大陸(無理して象やキリンを運ばなくてもよかったかもしれない)とか、世界の終わりになるとイタリア人はみなカトリックになるのかとか、お決まりのチベットの坊さんの智恵へのファンタスムとか。
 特にMをイライラさせたのは、「実の父親」が最終的に子供を救う、という図式みたいだった。Mは同性のパートナーの子供二人と暮らしてきて、子供たちに不当干渉する実の父親の横暴ぶり、倒錯ぶりにうんざりしているからである。(黒人大統領が殉死すると「白くなる」んだよ、とも言っていたが、雪のせいのあれをそう深読みできるのか?)

 それに、この映画見てると、子供たちを救うには、実の父とステップ・ファーザーと二人が要るなあ。車の運転のプロでSF作家と、飛行機の運転ができる医者との連携が最低必要だ。

 実の親が云々というより、何かこれを見ていたら、やはり世界(あるいは個人の人生)の終わりには、人間としての幸せは、「愛する人とめぐり合って子供を持てること」、みたいなメッセージが挿入されるのが、抵抗があった。まあ、「男女が出会って子供が生まれるのは価値あること」という基本的なインプットがないと、それこそ種が絶滅するのだから、それはいいけど、「わが子を助ける」ことや、「親子が愛してると言い合う」ことばかりが、人間性の発露とか人生の意味みたいなのに矮小化されるのは嫌な気分だ。人生において伴侶を得られなかった人、子供を持たなかった人、子供を守れなかった人なんか、は救われないし、実の親でもほんとうに鬼のような親だっているしね。

 うちはチベットの坊さんたちと関係が深いのでよけい感じるのだが、こういう異文化への憧憬みたいなのも、構造主義人類学以来の西洋人のファンタスムと切り離せられない。
 
 白人文化はもうだめでアマゾンの奥地や遠いヒマラヤに真の智者がいると思う心性と、移民の子孫や不法移民が治安を妨げる悪徳分子だと排除したい心性とは、表裏一体である。

 幸福の青い鳥は、他所に探すが、結局自分のすぐそばにあった、というのはよく言われることだが、悪や不幸も、がんばって不法移民や狂信者などに投影しても、結局、自分の中にあるのだ。

 ほんとうに世界の終わりが来そうなら、私は特に生き延びたくもないし、無理だと思うが、それでもできるだけは生き延びて、終わりの様子を見てみたい、地球の様子だけじゃなく人間の行動も。その「好奇心」が恐怖より強い。

 まあ、この映画は、結局、聖書的な展開をするので、「贖罪による再出発」という「希望」のメッセージになっている。商業映画のお約束でもあるが、大切なことでもあるな。

 つまり、やたらと「世界の終わり」を言いたてて不安を煽り自滅するより、「何かの終わり」はまた「何かの始まり」でもあることを信じることの大切さだ。既得権や良い思い出や失われた健康や若さなどにしがみついて変化についていけずに自分を不幸に追いやるというケースは多いからなあ。

 この映画、10年前の、1999年の「世界の終わり」話を思い出しながら、観た。
 あの時も、何月何日に世界が終わる確率は、それまでに病気や事故で私の終わりが来る確率より小さいだろうなと思っていた。この10年の間に私の両親の世界は終わっている。
 彼らにとって宗教はどうだったろう。生きている時には何かしらの役に立ったかもしれないが、亡くなる時には、別に必要としなかったみたいだ。

 そういえば、「人間を信じる人はみんな神の子」、ってシスター・エマニュエルが言っていたなあ。

 


 
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# by mariastella | 2009-11-30 03:24 | 映画

ハミングはいつも孤独

 半世紀以上も音楽をやってきて、つい先ごろ始めて知って、驚倒したこと。

 ある種の楽器奏者にはひょっとして常識なのかもしれないが、私もその種の楽器を始めてもう15年になるというのに、先ごろ気づいたのだ。

 ことの起こりは、クリスマスに室内楽のトリオで弾くためのCambiniの曲。私がヴィオラで1小節に三連音符を4つ続けて弾くのが10小節くらい続くところでヴァイオリンのジャンとフルートのエリカがメロディっぽいものをかぶせて弾く。しかし、メインはこの三連音符の連なりであり、本来なら他の二人が私にあわせなくてはならない。2拍子なのでテンポはかなり速い。つまり2拍のうちに12の音を弾くのである。しかも80歳近いジャンは近頃耳がとおいこともあって、マイペースで弾く。だからジャンにあわせるのはいつもこちらであるが、私は三連音符を外さないことに集中していてなかなか彼のパートを聴けない。で、彼の楽譜を借りた。出だしの彼のリズムは、付点四分音符一つに十六分音符二つである。私は彼のパートを何度か弾いて、それから、自分のパートを弾きながら彼のパートを歌って練習しようとした。

 すると、

 声が出ない。

 で、もう一度、彼の楽譜を見て、「ラーン、ララ」(最初のラーンの間に私は三連音符を三つ弾き、後のララの間に三連音符をひとつ、つまり三つの音を弾く)としっかり頭に入れて、トライ。

 やっぱり、声が出ない。
 まったく、出ない。

 確かにすごく簡単なリズムでもないが、それにしても、この程度なら、ピアノで、左手で同じ三連音符を引き続け、右手でヴァイオリンのメロディーを入れるなんてことは普通にできる。

 クリスマスの発表会では生徒たちとピアノの連弾やギターのデュオもするのだが、私はいつも自分のパートを弾きながら、生徒のパートを同時に歌ってやっている。何の問題もない。バロックのギター・トリオの曲を一人で練習する時も、MやHのパートを歌いながら弾くのはよくあることである。
 
 それなのに・・・

 ヴィオラのレッスンに行った時、先生にそのことを言ったら、

 「ああ、それは当然よ。だって、ヴィオラはそれ自体歌だから。」と言われた。

 ヴィオラやヴァイオリンは脳の楽器でピアノやギターは物理だから、というのだ。
 それってどういうこと? ピアノだって脳も使っていると思うけど。

 つまりこういうことらしい。

 ピアノやギターは早い話が、楽譜を読んで、しかるべきキーを叩いたり弦を押さえたり弾いたりすると目的の音が出る。これに対して、例えば、声を出して歌を歌う時、声を出す一瞬前に、私たちは音程を脳の中でつくらなくてはならない。かってに音が出てくるわけではない。
 そして、ヴィオラやヴァイオリンのようにフレットのない楽器では、やはり先に音程をイメージしない限り、正しい音は絶対に出ないのである。だから、ヴィオラを弾く時の脳は歌う時の脳になっているので、別のメロディーを同時に歌うことはできないのだという話である。

 うーん、そういえば、ピアノやギターの弾き語りというのは普通にあるが、ヴァイオリニストがヴァイオリンで伴奏を弾きながらメロディを歌うなんて聞いたことがないなあ。

 もちろん、ヴィオラを弾きながら、ヴァイオリンのパートを「聴く」ことはできる。それができなければアンサンブルもオーケストラもなりたたない。しかし・・・他のパートを自分で声に出すことは、できないのだ。

 それは、一つの歌を歌いながら別の歌を同時に歌えないのと同じよ、と言われた。
 
 そこでよみがえった思い出。

 『サウンド・オブ・ミュージック』というミュージカルに有名な「ドレミの歌」があって、その中で、「ドミミ、ミソソ、レファファ、ラシシ、」とハーモニーを繰り返させた後で「ソー、ドー、ラー、ファー、」とメロディラインをのせていくという「練習」がある。これを一人で口ずさむ時、「どっちか一方」しかできないのである。自分としては、どっちか一方を歌いつつ、脳内でもう一方を喚起してハモりたいのに、不可能なのだ。
 もちろん声さえ出さなければ、両方を脳内で思い浮かべることはできるし、管弦楽曲や協奏曲だって、全体として喚起することはできる。しかし、いったん、一つのメロディを声に出すと、脳内でその音程を作る回路が優先して他の音楽喚起機能がブロックされるらしい。
 まあ、ドレミの歌くらい単純なものなら、細切れの画像を早送りすればつながって見えるような感じで、高速で頭を切り替えると、それらしい気分にはなれるのだが、いつもフラストレーションがあった。

 考えると、すごーく単純な輪唱、たとえば、「Are you sleeping」みたいな曲でも、二人で歌って相手のパートが重なってハモるのを聴くのは楽しいが、一人じゃできない。自分のパートを声にしたとたんに、別のパートは、脳内で喚起できないのである。

 人間の耳は2種類以上の音を処理できないので、指揮者なんかは、一秒の何分の一とかという高速で各パートを選択して聞き分けて脳内で再構成して繋げているという話は読んだことがあるけれど。

 そういえば、一口に、たとえばレコードで聴いた大オーケストラの曲や、ナマの演奏会で聴いたポリフォニーの大コーラスとかを、後で脳内再現したつもりでも、それって、どの程度の再現なんだろうか。メインのメロディーの追っかけでなければただの「印象の連なり」ではないのか。だんだんあやしくなってくる。

 もちろん、訓練もあるだろうし、個人差もあるだろうけど。

 歌手が伴奏なしに練習する時、伴奏を思い描けない。協奏曲を弾くヴァイオリニストも、ソロパートを一人で練習する時、オーケストラは聴こえてこない。できるのは、伴奏者と音合わせする時のために自分の楽譜に相手のパートを書いておいたり、あらかじめチェックしておいて、聞き取れるようにスタンバイすることだけである。もちろんイントロとか間奏部分などは一人でも、自分で歌ったり喚起したりできる。

 だとしたら、ハミングは、いつも孤独?

 試しにこれを書きながら、特定の曲(ベートーベンの歓びの歌)をハミングしながら、飛行機の轟音がバックにあることを想像してみた。

 できたよ。

 次に同じ曲をハミングしながら、うちの猫がうるさくなくところを想像。

 できた。

 次に同じ曲をハミングしながら、「子曰く、朋あり遠方より来る、また楽しからずや」と脳内で唱えてみた。

 できた。

 次に同じ曲をハミングしながら、後ろからシューベルトの『楽興の時』が突然流れてくるところを想像。

 できないよ。

 先生が言った。

 「それが分るには、耳栓して練習してみるといいわよ、弾けないから」

 って。

 ピアノでもギターでも、実は、こう言われる。

 1.下手な演奏者は自分の出した音を聴かない。
 2.普通の演奏者は自分の出した音を聴く。
 3.真の演奏者は音を(脳内)で聴いてから出す。

 微妙だなあ。

 だとしたら、アルペジオなんか弾きながら歌ってる人は、絶対、3はあり得ないなあ。
 機械的に弾いて、それを声と一緒に聴いて楽しむ耳があるだけだ。

 左手で三連音符の連続を速いテンポで弾きながら右手でメロディーを弾くピアニストは、少なくとも片手は2どまりだなあ。けっこう複雑な気分だ。


 

 
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# by mariastella | 2009-11-29 03:38 | 音楽

『移民の子供たちの運命』


LE DESTIN DES ENFANTS D'IMMIGRÉS. de Claudine Attias-Donfut et François-Charles Wolff. Stock,

忘れないうちにメモっとこう。

 信頼できるらしいエコノミストと社会学者が書いた上記のタイトル『移民子弟の運命』の本に拠れば、フランスの6000人の移民とその子孫2万人の統計では「移民の子弟=失業、犯罪、暴動」という昨今の報道のされ方は全く事実を反映していないらしい。

 私は、フランスのユニヴァーサリスムに基づいた移民の同化政策を支持している。フランス語の習得(フランス文化の享受可能性)と、普遍的人権を掲げる共和国主義への合意ということであって、別に、みんなが同じように横並びになれというわけではない。第一、生粋のフランス人ほどそういうのが最も苦手である。
 これに対して、近年は、マイノリティ側に、コミュノタリスムに根ざした犠牲者主義というのが蔓延し、「旧植民地の子孫とか奴隷の子孫」という圧力団体が形成されがちなのを苦々しく思っている。

 しかも、2005年の「移民の子弟の暴動」報道のようなものがある度に、

 「ほーら、フランスのユニヴァーサリスムはもう賞味期限が切れている、機能していない、理想主義、偽善だ」

 といった類の、アングロサクソンのプロパガンダみたいなものが横行した(2003年のイラク派兵の際にアメリカのコミュノタリスムとフランスのユニヴァーサリスムの戦いが表面化したのを受けていた)。それを受け売りした日本の評論家の中にはそれをリピートする人がいて、ユニヴァーサリスム擁護する者を「フランスかぶれ」扱いする人さえいた。

 私は、今の世界の状況では、日本はユニヴァーサリスムを採用した方が外交戦略としては圧倒的に有利だと思うので、別にフランスかぶれでユ二ヴァーサリスムを擁護しているわけではない。

 それに、30年以上の私の生活実感としても、フランスのユニヴァーサリスムはまだ機能していると思うし、自分ははっきりその恩恵を受けている。
 でも、郊外のシテ(低家賃集合住宅)は無法地帯で移民の子孫が騒いでいてゲットー化しているという報道を見るたびに、居心地が悪かった。

 この本によると、移民の子孫の80%は普通の町に住んでいる。普通の町ではアメリカのような人種や宗教の棲み分けはもとよりない。移民の子孫は親も子も、3分の2以上が、親よりも子の生活水準が上がった、と答えている。これは「普通のフランス人」の2倍の数字である。
 その理由は、移民の第一世の親には、子供を成功させたいという上昇志向があって、それが子供のモチヴェーションになっているからで、フランスの教育社会主義が、それを可能にしている。女性が男性よりも社会的に上昇率が高く学歴も高いのは、移民家庭の「母親」が娘のジェンダーの縛りの解放をより望むからだというのだ。日常的に差別を感じる人は5,8%に過ぎず、これは、たとえば、女性や障害者が女性や障害者であることで差別を受けていると感じる数字と大差ないかもしれない。

 アフリカの旧植民地国出身の親には、citoyenneté de contestation つまり、クレーマー公民性というのがある場合があり、これが若い世代の犠牲者主義運動につながり、この場合には、社会的上昇や統合も困難になる。

 なんといっても、フランスでコミュノタリスムや犠牲者主義が広まってしまったのは、もう20年以上、政権保持者が、左派も右派も、ソシアルの問題を人種問題や宗教問題にすりかえてきたからである。
 低所得や失業やホームレスなどに結びつく社会的弱者の救済を、ソシアルの問題としてちゃんとユニヴァーサルに取り組まないで、移民などのマイノリティの問題にすりかえたからだ。

 (実はもう一つ理由があって、これは日本にいると本当に分りにくいのだが、最近亡くなったレヴィ・ストロースなんかがさんざん利用されたのだが、遠隔地のマイノリティ文化の「発見」による西洋文化の相対化とポスト・モダンの底に流れるフランス人独特の自虐趣味がこの風潮を放置したのだとも言える。この辺についてはまた書くが、日本のように、フランスから見て「周辺」文化にいる者たちは、その自虐趣味を都合のいい所取りして、問題をますます見えなくした。笹野頼子さんのような方に「西哲野朗」と呼ばれる追随の仕方で、大きな「勘違い」をした部分が多々ある。私が今「無神論の系譜」について書いている目的のひとつはその「勘違い」に光をあてることである。私もまた70年代の構造主義が抱える裏のニュアンスに当時はまったく気づかなかった一人だ。)

 今フランスでは不法移民の排除を厳しくして、国民アイデンティティの問題を政策的に話題にし、「移民の子弟の暴れそうな」郊外シテの警備をますます厳しくする(今の大統領は安全を求める人の不安を煽ってこれに迎合することでのし上がってきた)とまた言い出した。これがまた犠牲者主義に油を注ぐだろう。

 共和国理念というのが、まがりなりにも「普遍的人権」だったように、フランス人のアイデンティティとは、そのままコスモポリタンのアイデンティティであリ続けてほしい。
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# by mariastella | 2009-11-29 02:07 | フランス

Sasの話

 うちには室内飼いの猫が3匹いて、そのうちの雌2匹はここ6年来完全棲み分け体制である。いろいろわけがあるのだが、とにかく間違って接触したら確実に血を見ることになる002.gif。その一番若いサリーは、基本的に階下のLDKのみに住んでいて、家政婦さんが来るときにだけ、寝室のひとつに閉じ込める。玄関からLDKに行くには4メートルちょっとの狭い廊下がある。あるいは客用ダイニングを通るがそこは猫禁止ゾーンなので、たいていは廊下を通る。こうすれば、通行自由の雄猫スピノザもついて来れるからだ。

 その時、うっかり廊下のドアを開けるとサリーが飛び出すことがあるので、私たちは廊下の両端のドアを両方閉めることにしている。こうすればLDKのドアを開けたときサリーが逃げ出しても、危険ゾーンには行かないで廊下に閉じ込められるから、ゆっくりと連れ戻すことができる。

 先日階下のLDK の向こうにあるトイレの水漏れがあったので、修理の人に来てもらった。彼を案内する時、廊下のドアを開けて、二人が入るとただちに後ろ手にドアを閉めることになる。狭い廊下に二人きりで閉じこもり、さらにドアを開けてLDK に入ってもらって、またただちにドアを閉める。「猫がすみ分けてるもので・・」と言い訳するが、自分でも変だ。しかも、サリーは臆病だから、LDK の冷蔵庫の上に隠れていて見えなかった。猫の姿は見えないわけだ。ますます気まずい042.gif

 すべてのドアが閉まっていて、通過するとすぐに閉めるこのシステムを見て、ホラー映画みたいだ、と言われたこともある。

 私たちはこの廊下のことを「sas」と呼んでいる。逃亡防止の安全地帯である。潜水艦や宇宙船で船外から戻ってくる時に内部と分ける中間地帯である。

 先日、このsas のことを日本語で何というのかわからないことに気づいた。

 うちでは全く日常的な言葉なのだが。日常語でも、日本語訳を度忘れするということはあるので、ひょっとして知ってる言葉じゃないかと思って考えてみたが、やはり分らない。
 ついに辞書を引いた。仏和を引くのは翻訳している時以外ではめずらしい。

 すると、「sas 」は、「運河の閘室(こうしつ)」とあった。知らなかったよ。
 しかも字面もなじみがないし、聞き覚えもない。猫のせいで毎日のように普通に使ってる言葉が、こんなにレアな日本語とはね。
 食べ物や動物、植物の名では、フランスにあっても日本にないとか、名と本体が一致しなくて日仏語の対応が分らない、ということはよくあるのだが、こういうなじみのある一般語ではめったにない。それとも日本語では、何とかルームってもっとなじみの英語を使っているんだろうか。と思って今ネットの仏英辞書でしらべたら、

 sas とは、
 1.airlock;
 2.(on canal) lock;
 3.(in bank) security double door system.

 とあった。

 そうか、うちのはこの「セキュリティ・ダブル・ドア・システム」だなあ。
 長いよ。
 sasって短い。ほんとに日常的な言葉だ。何度も繰り返すことを 「Ressasser」と言って、クロスワードパズルにもよく出てくる言葉なんだけど。

 うちの廊下のドア、「あ、これ、猫のためのsasなんですよ」と笑って言えばなんとかなるが、「あ、これ、猫のためのセキュリティ・ダブル・ドア・システムで・・・」って言うと驚かれるだろう。かといって、「閘室(こうしつ)でして・・・」なんていって通じる人なんているのか・・・

 言語の対応って、ほんとに不思議なゾーンだなあ。
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# by mariastella | 2009-11-25 08:45 | フランス語

洗礼、砂漠、その他

 知人の話では、ベルギーでは続けて7番目に生まれた男の子の洗礼に国王が代父となり、続けて7番目にうまれた女の子には女王が代母になるそうだ。7番目まで続く男子や女子は珍しいので、少ないそうだが、実際にいるとのこと。
 ベルギーでは国王夫妻は必ずカトリックだ。先代のボードワン国王は、1990年中絶容認の法律を通さざるを得ない時に一時的に廃位したくらいだ。でも、同性の7人の子持ちの親がカトリックでなかったり洗礼を望んでいない場合はどうなるのかなあ。
 フランスでは、大統領が男女に関わらず12番目の子供の代父になる。
ただしフランスはライシテの国だから、カトリックの洗礼とは限らないのだろう。洗礼による代父代母の設定は孤児率の多い時代の互助保険みたいなものだった。フランス革命の時に共和国洗礼というのを市庁舎でできるようにして、代父代母制度も温存していて、今もあるはずだから、12番目の子は「共和国洗礼」が前提なのかなあ。もしカトリックの親がカトリックの洗礼で大統領に代父を頼んだらどうなるのだろう。代父母のどちらかがカトリックならばもう一人はカトリックでなくてもいいことになっているから。小説では知っているが、実際のケースは聞いたことがない。
 
 砂漠の神秘家としてシャルル・ド・フーコーは超有名なのだが、大きな声では言えないが、私はこの人の聖性の裏には、ヨーロッパ人にたまに見られる異常なまでの「砂漠好み」が関係していると感じていた。
 今でも、ニューエイジ風スピリチュアル・グループが主催する砂漠での瞑想ツアーみたいなのが盛んだが、私はサヴァイヴァル系が苦手なので敬遠している。 砂漠は大海にも似ていて、魅せられると共に、警戒心の方が勝つ。最近、そのシャルル・ド・フーコーと、アラビアのロレンスを並べた評伝 『L'Aventure du désert 』(Christine Jordis 、 Gallimard ) が出て、なるほどと思った。聖人対冒険家なのだが、二人ともその「過剰さ」が共通している。ロレンスがマゾヒストだったということも何となく納得した。ヨーロッパ人の孤独な砂漠のロマンチシズムにはどこか倒錯の香りがすると思っていたからだ。
 シャルル・ド・フーコーをテーマにした歴史小説 『Les amants du silence 』(Alain Durel、 Ed. L'Oeuvre )の方は、彼が従妹への恋を契機に砂漠と神に向ったとある。
 シャルル・ド・フーコーとその従妹とアラビアのロレンス。三人並べると聖なる殉教者が人間くさく見えてきて、その信仰が何かでびっしりと満たされているのが予感されるようだ。
 
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# by mariastella | 2009-11-16 00:56 | 宗教

Le Cantique de Jean Racine de Gabriel Fauré

 スーパーに行ったら今週末からクリスマス仕様になっていた。

 何だかあわただしい。ものがあふれているのを見ると気分が悪くなる。

 12月には13日と18日にクリスマスコンサートを企画しているので、自分も弾いて生徒たちにもクリスマス曲を弾かせているのでますます落ち着かない。
 でも今日は、フランス語のクリスマス・コーラスで一番好きな フォーレのLe Cantique de Jean Racine を合わせたので楽しかった。これを作曲した時のフォーレは19歳だったというが、いかにもシンプルな若々しさがあるんではないだろうか。

 http://www.youtube.com/watch?v=-OFOOjxmC-s

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# by mariastella | 2009-11-14 07:44 | 音楽

Ludibrionisme(ソリプシストKのための覚書9)

 サイトの掲示板でKの 「Je suis LUDENS absolu」という文が引かれていたので少し。

 Ludibrionisme は、K のソリプシスムのシステムにおいては重要なものの一つである。
 
 私には何となくシュールリアリズム系のイメージがあったのだが、K にとってはこの世の不条理からの逃走、絶望のねじ伏せの香りがする。

 K の中ではいろいろなISMが循環していて階層化しにくい。

 私がK の文の難解さの前で尻込みする理由の一つは、頭の隅にエリカのフランス語能力への不信感が拭いきれていないからだと思う。今日ついにそのことを遠まわしにエリカに言ったら、K の原文の方が難解で、エリカの翻訳のおかげで理解できたことがたくさんあるとチェコ人から感謝されているのだと言われた。

 11月にはチェコに行き、パトチカの国際学会の報告書をチェックして英仏語とチェコ語の翻訳語の検討をするのだそうだ。メール文書を送ってもらえないのかと聞いたら、メールではチェコ語のアクセントがとんだりスペースがあいたりとても細かいチェックができないそうだ。

 パトチカでさえ、翻訳は、伝言ゲームみたいに大変なことになって内容が変わっているケースもあるそうだ。
 例えば、彼にとっては重要な1936年に書いた論文は、カナダに移住した英語使いのチェコ人が、フランス語に逐語訳して、それをもとにベルギー人がリライトしたものだそうだ。たとえば、現象学にはよくあるKinesthésie(この言葉は、バロック音楽奏法でも使われる。バロックバレーでも重要な身体運動意識概念だ)という言葉を知らなかった訳者が、わざわざ「これはSinesthésie (共感覚)のことでしょう」とパトチカに言って変えてしまったというのだ。パトチカは絶望のあまり「ああ、それはいいですね」とか言って礼を言ったらしい。パリで学んだパトチカはフランス語が分るのでそのフランス語訳のひどさにがっかりした。
 そのひどいフランス語訳を読んで引用したイタリア人学者が、学会発表のためそれを学生に英語に訳させて、報告書ではその英語からまたチェコ語に戻されたので、最初のものとは似ても似つかない代物になっていた。ひどい話だ、
 
 昔、ノストラダムスの『予言書』の訳が、世界の終わりだとか歴史上の事件を予言していると類の話がはやったが、あの時も、日本の訳は英語からの重訳がほとんどで、もともと分りにくい詩がなおさら変な風になっていたのを思い出す。たとえば、原文のフランス語で動詞の原型がぽつんと置かれているのを、英語でも対応する動詞になっているのだが、英語では原型と現在形が同じであれば、日本語ではそれがちゃんと活用しているように訳されていたりした。ある意味で分りやすくなっているが恣意的だ。

 言語の壁はやはり大問題だ。私は個人的には、思想の核というのは非言語領域にストックできるような気がするのだけど、それを元の言語と違う言語で取り出すときには、逆の操作をした時にまた元に戻るかどうかというのは確かに微妙だし。

 エリカが pdf で送ってくれたテキストの分は、例えば Ludibrionisme で検索すると当該箇所が次々出てくるからこれはありがたい。もう少しじっくり読む時間が取れればいいのだけれど万聖節の休みはトリオの録音にかかりきりだったし・・・ そのうちもう少しまとまったことを書きたいが今はメモだけ。
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# by mariastella | 2009-11-10 09:25 | 哲学

V・Iはユダヤ人?

 『ダウンタウン・シスター』の後半には、

 「ガブリエラがユダヤ人だということでジャイアック夫婦から受けた昔の侮辱の数々がよみがえってきた」という文章がある。それに続いて、

 「よくも自分たちをクリスチャンだなんていえたものね。あなたなんかより、うちの母の方が千倍もクリスチャンにふさわしかったわ」

 というヴィクの言葉がある。彼女のアイデンティティ意識はどうだったんだろう。

 母方の祖母がユダヤ人の学者の家庭の出身で「一族はユダヤとの混血だった」というからには、例の、「ユダヤ人とは母親がユダヤ人であること」という「公式」にあてはまると自分を多少はユダヤ人と見なしていたのか?

 しかし母のガブリエラは、カトリック右派である大叔母に引き取られて、「ふしだら」ということで追い出されたくらいだから、叔母のところでは教会に通っていたはずだ。だからこそ罪悪感も一生引きずっていたのだから。
 しかしジャイアック夫婦がガブリエラをユダヤ人と侮辱していたのは、単に差別や憎悪の現われなのか、娘のヴィクの洗礼を「省略」したための言いがかりなのか、ガブリエラが私はユダヤの混血ですから、とでも言ったのか? ヴィク派サウス・シカゴのカトリック系の白人地区で生まれ東欧系カトリック小教区で周りが熱心に教会に通うような環境で育った。母の「秘密」を知らず、アーティスト風のリベラルさと女性の自立を教えてくれた母に感謝し、自分がいわば無党派でただ社会の差別と不正に戦いを挑む人間であることに埃を持っている。だから、別に自分はユダヤ人とかは思っていないだろうし、「うちの母の方が千倍もクリスチャンにふさわしかったわ」という言葉は、周りのクリスチャンの偽善は弾劾しても、キリスト教的慈悲の価値観は刷り込まれていたのだろう。

 ヴィクとロティの関係がもっと出てくる作品を読まないと分からないなあ。
 ウォーショースキー・シリーズは日本でもとても人気でファンクラブがあるくらいだから、こういうこともくわしく調べてる人もいるのかもしれない。アメリカ人には、別に気にならないのだろうか。

 ちなみに私の周りにもユダヤ系フランス人がたくさんいるが、母親がユダヤ人だからとユダヤ意識のある人もいるし、カトリック(洗礼は受けているが別に教会に通わない)と結婚して普通に子供も洗礼だけ受けさせている女性もいれば、カトリックのイタリア系女性と結婚したユダヤ人男性が、息子たちにしっかり割礼を受けさせて、離婚した後で、母親が慌ててカトリックの洗礼を受けさせてという例もあるし、「公式」なんてあまりない。
 ヨーロッパではもう二千年近く混血が進んでいるし、少なくとも日本人の目から見たら、誰がユダヤ人なのか全然分らないことも多い。アメリカのような棲み分けもないし。

 サラ・パレツキーの世界に興味ない人にはどうでもいいことだろうが、一応メモ。

 
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# by mariastella | 2009-11-09 20:18 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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