L'art de croire             竹下節子ブログ

超越について その3

 一昨日、College des Bernardins に行った時、今年からEcole Cathedrale の一部がここに移ると聞いたので、毎木曜日のディスカッションに登録しようかと思った。特に最初はAntoine Guggenheim 師の「神は存在するか?」がテーマだったので、興味を持っていた。
 でも、そこの本売り場で、彼の『Les preuves de l’existence de Dieu』を見つけたので他の本とともに買った。

 他に買った2冊は、

 Rene Remond  『Le nouvel antichristianisme』
 
 Henri Bremond 『 Hisatoire litteraire du sentiment religiex en France
              Les mystiques francais du grand siecle』

 だ。

 今、無神論の系譜で頭が飽和状態で、神の存在証明はそのネガみたいなものであり、これももう充分なんだが、Guggenheim師の本はよくできている。

 焔が継続するには空気が必要なように、神も存続するためには無神論を絶えず食っているみたいなものである。

 で、この本の最初のぺージに、ヘブライ人への手紙の11-1が引用されていた。

 La foi est la garantie des realites que l’on espere,  
          la preuve des realites qu’on ne voit pas.

 というところである。

 すごく胸に響いた。

 私が近いのはヨーロッパ・ベースのローマ・カトリックだから、ラテン語的発想や構造と、それを訳したフランス語が琴線に触れる。思考のタイプも、西洋弁証法的だからかもしれない。

 直訳すると、

 「信仰とは、期待するリアリティの保証であり、
  見えないリアリティの証拠である」

 ここのところは、パウロの神学上の3つの徳のふたつである「信仰と希望」の文脈で読むべきなのだが、とにかくこのふたつは「神的リアリティ」を通してセットになっているのである。

 前に書いたことがあるが、この「希望」は、フランス語では「期待」に近い。
 ちょっとコピーしてみよう。

 「次に、もうひとつの徳である希望についてです。
 この訳も、すごく微妙なものだと私は思っています。
 ギリシア語には触れませんが、ラテン語のsperare(期待する、待つ) という言葉が12世紀頃にフランス語でesperer、esperance、espoir などという語になりました。
しかし、esperance と espoir はニュアンス が違います。日本語の辞書では両方とも期待と希望が挙げられていますが、前者は期待、後者は希望と言うのが近いでしょう。
 
 それで、信仰、希望、愛という3つの徳は、foi、esperance、charite なんです。
foi、espoir、amour ではないんですね。似て非なるもの。

 希望とは、希望的観測という言葉があるように、あまり根拠がなくても こうなってほしいという主観、文字通り望みなんですが、期待値という のは、それなりの根拠があってのものです。
 これだけやったんだから期待できる、みたいな。

 平均寿命のことはフランス語で esperance de vie といいます。統計的な期待値ですね。espoir というのは、ある人は大病をしたけど、まだ回復が望めるかもしれない、Espoir を捨ててはいけない、となります。
 その気力がなくなればdesespoir で絶望となりますが、検査結果がすべて悪化していれば、もう回復を期待することはできないdesesperanceとな ります。希望を断たれるというより期待が不可能になるのです。

  さて、信仰におけるesperanceというのは、単に、今は悪くてもいつかはよくなるかもしれない、希望を捨てちゃだめだ、と言うことではありません。この世が終わった時点で、神において救われるのを確信して「待つ」ということなのです。根拠は、イエスの誕生と復活により、我々が愛を通して超越と交わることができるという「信」です。
つまり信仰がないと期待できない、とセットになっているのです。

信仰があって心は安らか、希望があってポジティヴに前向き、愛があって地球に優しい、なんて3つではないのです。

それまでのストア派のコスモス哲学の理知的世界観を捨てて、「信仰を根拠にして、救いを待つ」と謳ったのがキリスト教でした。それに生命を与えているのが神との愛であり、自分が神から愛されているのと同じように神から愛されている隣人(=他者)を愛さなければならないというchariteだったわけです。

 (・・・)

 希望は人生のビタミン、
 期待は信仰を通して神様の約束の実現を待つことにだけとっておかなければならない。
 これがパウロのいう3つの徳におけるesperanceの意味なのです。」

 これは去年の夏に書いたものだが、今思うと、間をとって、「待望」というのがいいかもしれない。

 で、ヘブライ人の手紙の新共同訳聖書を見てみると、

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、
        見えない事実を確認することである」


 とある。

 もう一度フランス語の直訳を挙げる。

 「信仰とは、待望するリアリティの保証であり、
        見えないリアリティの証拠である」

 大分ニュアンスが違うな。

 パスカルは、単語はその配列が異なると異なる意味を生じ、意味は、その配列が異なると、異なる効果を生じる、とか言っていた。だからフランス語の直訳もちょっと違う。

 ここだけ読んだら、日本語の方は、

 「信仰とは、神や救いや天国があるといいな、と望んでることを、疑いを持たずに信じちゃうことで、そうしたら見えないものも見えて来るんだよ」

 ととられそうだ。フランス語の方は、

 「神や救いや天国があるってことは、信仰によって事実になるよ、
  信仰があるってこと自体が、見えないものがあるってことの証拠だね」

 ととられそうだ。

 じゃあ、原文はどうかというと、

 ここではギリシャ語の解釈とか議論するつもりはないので、私が学生時代に買って日本から大事に持ってきた岩隈直訳注の『希和対訳分冊版新約聖書』山本書店の『へブライ人への手紙』の訳を見てみよう。

 「信仰は希望されていることの保証であり、
      見えない事物の確信である」


 とある。フランス語では「リアリティ」と同じ言葉が2度使われているが、実は違うということが分かる。

 手元のフランス語聖書を見てみると、

 Or la foi est la garantie des biens que l’on espere,
            la preuve des realites qu’on ne voit pas.

 とある。

 直訳すると、

 「信仰とは、待望する事物の保証であり、
        見えない事実の証拠である」

 という感じかな。

 保証と証拠は同じだけど、事物と事実が違う。

 日本語聖書の1955年訳版もみてみよう。

 「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、 
            まだ見ていない事実を確認することである」


 「まだ見ていない」というところが、死後の魂の運命を想像させる。新共同訳はそういう「解釈」を廃して、原文に忠実にしたようだ。

 で、まとめると、日本語は

 「事がらの確信、事実の確認」

 フランス語は

 「現実の保証、現実の証拠」

 または、

 「事物の保証、事実の証拠」


 だ。


 ところが、希和対訳の岩隈さんの訳注によると、 この最初の「希望する(原文では希望されるという受動態現在分詞中性複数属格である)」 という言葉は、「確信」と解されることもあるそうだ。
 Bauerは、「実現」と解し、

 「(信仰の中に)希望されているものが実現される(あるいは、現実となる)」

 と解するそうだ。 

 ここでは全て日本語で比較してるわけで、それは漢字であり、みな似ていて錯綜していてわけが分からなくなる。「信」とか、「事」とか、「実」とか、「望」とか「証」とかが、いろいろ組み合わされて渾然一体になっているという印象を持ちそうになるほどだ。

 しかし、実は、「意味の配列」の問題でもあり、まさに、パウロにおいては、信とか実と事とか望とか証とかが、切り離されない一つのものであるということが、まあ、パウロを読んでいると分かってくる。

 こうなると、神だって、超越だって、「信」や「望」と切り離しては存在しないということになる。
 パスカル風にいうと、人はそういう「不可解」の認識を内にもっているからこそ、超越の意識なしには、自分自身について考えることもできない。

 「人間は無限に人間を超えている」、というやつだ。

 そして、キリスト教は人格神によって人間の中に超越をとりこんだ。
 アダムとイヴが、僕らも神さまと同じになるもんね、と智恵の実を食べて、最初の無神論者になったのが原罪で、原罪とは、人の内なる超越を否定したことになる。

 パウロやパスカルがせっかくここまで考えたというのに、

 19世紀的無神論や人文科学が、神とは人間が自分の最善の部分を外化してでっちあげたものだという逆方向に行ったことは、思えば不思議なことだ。当時の科学信仰進歩主義の全能感がそう勢いつけたのかもしれない。

 ま、昔から、どこの世界でも、「神」とは呪術的なオペレーションの対象となるあの「神々」の意味がほとんどだった。理性がその神から脱出しようとするのは当然だ。古代にはストア派的な脱出の仕方や、仏教的な脱出の仕方があった。そういう無神論的な脱出と違って、キリスト教は「神の受肉」という考え方によって、超越を取り込んだ。

 その「受肉の神」を追い出すと、人間の存在の「不可解なリアリティ」も見失うんだろう。

 パスカルが、

 「自己の悲惨を知らずに神を知ることは傲慢を生む、
 神を知らずに自己の悲惨を知ることは、絶望を生む」

 としつこく言っているのは、なんか、人間の歴史そのものだ。

 自己の栄光と悲惨という逆説に引き裂かれてない人には、超越はいい感じで、外と内に、自分の生まれる前と死んだ後に、広がっているんだろうなあ。

 頭が痛くないのに「頭が痛いんですか」と聞かれても、人は怒らない。
 頭が痛いかどうかを自分で知っているからだ。
 でも、「頭が悪い」といわれれば怒る。
 自分が頭が悪いかどうか確信を持てないからだ(これも by パスカル)。

 確信を持ちたいっていうのも西洋的弁証法という枠組みの副産物なんだろう。
 
 でも、私たちが、同じ西洋的思考法の産物であるテクノロジー社会とか人権社会とかに日々生きているのは紛れもない事実だから、その中で、「人類の栄光と悲惨」という逆説的テーマと折り合いをつけないと、QOLが落ちるだろうな。

 私は私みたいなタイプの人間がいかにも陥りそうな絶望を引き受ける力はないんで、内なる超越の片鱗でも愛することにしよう。超越は片鱗でも超越で、片鱗でも無限だから、ね。

 

 





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# by mariastella | 2008-09-19 22:23 | フランス語

Fondation Cartier

 夏の終り(フランスでは秋分の日までが夏だ)の気持ちのいい日、Fondation Cartier と 先週教皇が講義をしたCollege des Bernardins に行った。両方ともカルチエ・ラタンから遠くなく、カルチエの美術館には中世の修道院をイメージした中庭(Theatrum Botanicum)がついているのもおもしろい。

 Cesarの展覧会だ。

 この美術館は環境展示の一種で、現代のアーチストが内部とぐるりの庭を自由にデザインできるようになっている。 Installation アートにも向いている。

 セザールは10年前に死んでいるので、この美術館の設計者でもある建築家 Jean Nouvel が、作品を選んで展示した。つまり、容れものの作者がセザールの作品で中をデザインした形になっているので、アーティストが場所を見てから考えるというのと逆になる。インスタレーションをするのは、建築家なのだ。

 たとえば、スイスで1996年にセザールが、地元の新聞720トンを6m四方くらいの型にはめて押し込んで五つ並べたインスタレーションを、今回のジャン・ヌーヴェルは、パリの新聞を押し固めたのを三つ並べて庭に置いた。

 それでも、それは、「セザールの作品」である。

 コンセプチュアル・アートとはこんなものかなあ。「仕様書」だけが作品なのか。

 セザールのコンセプトというかアイディアには三つの大きなシリーズがある。

 親指や手や乳房など体の器官を拡大したもの。
 どろっとしたジェル状の液体が垂れて広がるところを固めたもの。(Expansion)
 それから最も有名な compressions シリーズで、自動車なんかを潰したものだ。

 どれも、着色や大きさの変化と素材(親指をクリスタルやブロンズや大理石などでつくる)の変化で無限のヴァリエーションができる。

 親指は、手の彫刻の展覧会に自分の指のかたどりを出そうとしたらそれは彫刻とは認められないと言われて、pantographie を使って拡大したのがきっかけだという。
 コンピューターによる拡大とかできない時代だから、すごいテクニックを要したと思う。

 便器をおいて「泉」と題するのは、コンセプチュアル・アートといっても、コンセプトしかない。詩みたいなものである。

 しかし、「親指を拡大したものをいろんな素材で作る」というアイディアは、完璧なテクニックがあってこそ成立する。「下手」では、アイディアの強靭さが失われる。

 で、吉井秀文のボンド・アートと同じで、そのコンセプトそのものにアーチストの署名があるわけで、後は、他人がもっとうまく作成しても、その人は、エピゴーネンであるか、ただの技術者である。コンセプトに署名したものの作品なのだ。

 親指や乳房のコピーだと、セザールの作品であり(親指は彼自身の親指で指紋もはっきりしてるしなあ)、そこから抜け出るには、ロン・ミュエックみたいに全身を拡大しなくてはならない。全身拡大のリアリズムは、ハイパー・リアリズムでもあり、表情や姿勢つきの全身となると、コンセプトだけでなくデザインや演出もあるから、それはオリジナル性を獲得する。でも、他の人が違う全身像を拡大制作しても、それはロン・ミュエックのエピゴーネンになるだろう。

 そして、セザール作のたくさんの親指をどこにどうやって配するかは、ジャン・ヌーヴェルの「作品」である。この出会いは一期一会であって、今パリにいる人には一見の価値がある。

 自動車のスクラップを見ていたら、それが Desacralisation だというのがよく分かる。
 つまり、聖なるものの否定であり冒聖なのだ。
 自動車は普通スクラップになったところを見せない。
 それを見せるから、冒聖になる。
 美女の死体を野ざらしにして腐敗していくのを観察するような倒錯がある。
 美女なら、最初は美女だったという認識があり、腐敗によって美のはかなさが見えてくる。

 しかし、自動車が権力や金や文明や進歩などというさまざまな含意をまとう「偶像」であることは、それがスクラップになった時に、その全容を表すのである。
 冒聖によって、「聖なるもの」の喪失を知る。機能や外観の魅力やいろいろなシンボルごと見る影もなく押しつぶす「冒涜」が、我々が自動車や機械に聖性を付与していたことを痛みとともに悟らせるのである。汚された時にはじめて感知される聖性だ。

 逆に、親指だの、乳房だのという、ヒューマニズム的には「聖なる」ものであり、「自然」としても「聖性」を持っていそうな「体の一部」は、全体から剥離され、拡大されることで、ある意味で同じように冒涜される。官能的である。聖なるものを否定してるはずなのに原始宗教的ですらある。

 それに比べると、どろっとした流れや垂れを固めた作品は、時の封じ込めとか、マチエールの侵犯とか、存在のとらえ方で遊んでいるので、冒聖的な感じはない。

 昨日だったか、ロンドンのサザビーズで、Damien Hirst の作品が1億ユーロを超す売り上げを見せたという。この人は、動物の死体を丸ごと薬液につけてナチュラルヒストリーとかいって作品にしている。さすがに本物ではないが、妊婦や胎児を再現したりしてるのも、「冒聖」の系譜なんだろう。

 これにも技術力が要される。

 私の近頃考えているのは、芸術における「うまいか下手か」の問題であるが、コンセプチュアル・アートを腕力的で圧倒的な技術力で完璧に呈示する、っていうのは、それなりに敬服というか、センス・オブ・ワンダーを刺激される。
 技術力というのは神への挑戦なんだか、神殺しなんだか知らないが、見るほうも腹に力が入って疲れるぞ。きっと「自分の内なる聖なるもの」を守ろうという警戒心が生まれるのかもしれない。
 やっぱり「超越」感覚をいじられるかどうかが、アートを前にしているかどうかの基準なのかもしれないな。

 
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# by mariastella | 2008-09-18 06:31 | アート

Catherine Kintzler

 Kintzler女史の説には、いつも、もっともだと思う。

 フランスの18世紀においてオペラは古典演劇の隠れた部分に注目して、それを表に出した。
「隠れた部分」というのは、超現実的ディメンションの出来事だったりする。
 たとえば、古典劇では戦争があった、とセリフでは言っても、戦闘シーンは見せない。死後の冥界なんかも見せない。オペラでは全部見せる。
 言葉による魅惑の美学から、大掛かりな機械仕掛けのけれんの美学になったと言う。
 大掛かりに、全て見せるが、深さはなく、ヴァーチャルである。

 まあ、古典劇の詩想の要求にはしたがっていたので、アナロジーの法則があるらしい。

 それって、パロディとはどう違うんだろう。

 たとえば、能でシンボリックに表現するものを歌舞伎では全部見せる、って言うのがある。見せれば見せるほど、深さはなくなりヴァーチャルで人工的になるのも同じ。

 しかし、能で見せないものを別の見せ方で見せたら、狂言になる。

 フランス古典劇にも、「リリック悲劇」と呼ばれたバロック・オペラにいく前に、本流の「古典悲劇」と違って「喜劇」もあった。古典悲劇と古典喜劇の関係が、能と狂言の関係に近いんだろうか。

 隠すところが多いと深くなる、または深く見えるというのは、洋の東西を問わない感覚らしい。
 全部見せるというやり方には、笑いたくなるやり方と、存在の重みを消してしまうやり方と2種類あるらしい。

 
 

 
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# by mariastella | 2008-09-17 02:15 | 演劇

カトとソシアル

 夕べはリーマン・ブラザーズの倒産のニュースのせいで、大騒ぎだった。大手保険会社(AIGではない)重役の親戚がちょうどうちに泊ってたからだ。彼らの1人息子(私の甥)の親友がロンドンのリーマン・ブラザーズで働き始めたところで、彼らの姪の1人もドバイのAIGで働いているからだ。

 といっても、みんな独身だし、もともと実家に金がある上に本人たちも国際的に高学歴の連中だから、別に困らないんじゃない? と私が言ったので「危機感を共有しないやつ」って感じで見られた。

 少なくともイスラム系の金融機関にはサブプライム危機はないと読んだことがある。金が金を生んではいけないというコーランの原則が生きていて、現物経済にしか投資しないし、無理なローンを組むというメンタリティもないのだそうだ。
 カトリックも元はそれが生きてたときいている。だから、ユダヤやプロテスタント資本に太刀打ちできなかったとかいう文脈だった。(テンプル会はどうなんだ?)
 どちらにしても、サブプライムが高度資本主義の病気であることは確かなのだろう。

 ヨーロッパのカトリック、特にフランスのカトリックは産業革命以降の大都市で生まれたの工場労働者の悲惨さに対抗して弱者救済の事業を次々と起こした。普遍宗教と名がつく宗教はたいていその発祥において弱者救済の社会事業を興している。
 しかし、たとえば日本史なら、光明皇后が仏教に帰依して悲田院とか施薬院を創設した、みたいに上からの慈善、という感じがするが、伝染病などは社会の秩序維持のために隔離されるのが為政者として「正しい」やり方という認識があったのではないだろうか。16世紀の宣教者たちが日本のあちこちで、「お家芸」ともいえる、不可触賤民(ハンセン氏病患者など)の保護施設を作って親身に世話した時は、そんなソシアルの発想のなかった日本の領主などが驚いた、そして立派だと言ったという記録が残っている。

 Claude Gutman という人の保育所についての本を翻訳している人から、パリの養護施設と愛徳姉妹会の関係について質問されたのでちょっと調べてみたら、フランスの社会福祉事業の大もとは、ほとんどヴァンサン・ド・ポールと彼の姉妹会の関係者が一手に基礎を築いてることが分かってあらためて驚いた。

 「社会的弱者に仕える」というのはもともとすごく福音書的なので、政教分離がぱっとしないアメリカの大統領候補者たちは誰でもみな福音書をわざわざ引きながら弱者救済をうたっている。金権選挙を勝ち抜く彼らの口からでるとしらじらしいというか、ほんとにそう思ってるんだったら世界がもうちょっとどうにかなってるはずなんだが、と思う。

 フランスでは宗教にソシアルを求めるという伝統はそれでも潜在的に根強く、B16が来るというので、多くの人が、彼から「世直し」のインスピレーションを期待していたのが印象的だった。

 資本主義の害悪がはっきりしてきたと思われた1891年、レオ13世が『Recum novarum』を発表した時、フランスの社会主義者ジャン・ジョレスは、「こりゃあ、社会党のプログラムじゃないか」と叫んだという。

 カトリックのソシアルの過激ぶりが目立たなくなったのは、というか、ニュアンスが変わったのは、人間性を奪われて搾取される労働者を同じように救おうとして声を上げながら同時にキリスト教を蛇蝎のように排除しようとした共産主義の台頭のせいだ。

 キリスト教はもともと「人間はシステムよりも価値がある」という姿勢だから、共産党独裁システムにもそぐわなくて、結局、カトは、リベラリズムもマルキシズムも批判して、「システムの構築ではない、現場での草の根的救済策を守った。その結果的な中立路線のあまり、カトリック・ソシアルの帰結だった中南米の「解放の神学」をも切り捨てたくらいだ。
 JP2は、1991年に、共産主義陣営を倒してポーランドを救った勢いからか、『Centesimus annus』の中で、市場主義経済の擁護(警戒の意味もあったはずなのだが)ともとられることを言って、経済というものを分かる初めての教皇だ、などと言われたこともある。

 フランスには、カマンベールと同じくらいの特産と言われる「左派カトリック」(カト左派というより〉というのがあって、社会党のミシェル・ロカールやジャック・ドロールなんかがそうだった。彼らの政策はあまりにも「現実的過ぎる」として、建前や理想主義、理念にはしる社会党から嫌われたくらいだ。
 今でもセゴレーヌ・ロワイヤルが「超越」という言葉を口にするなど、カトの香りはないでもないが、サルコジのカトすりよりと対して変わらぬレトリックの域をでない。68年世代のPascal Lamy とか Jacques Maillot などを別として、いまや、若い世代は、政党よりもNGOの中でのソシアルに向かっているようだ。

 サルコジに至っては、彼の「神すりより言辞」はアメリカの真似プラス、ボナパルティスト的な行動原理ゆえである。
 この男は、フランス的エレガンスというものを持っているふりさえしないという驚くべきキャラで、去年、あるカトリック系雑誌(La croix)のインタビューに答えてこう言ったらしい。

 「ええ、たまに教会に行くのは好きだよ、私にとっては文化的、アイデンティティ的な手続きのひとつだね。いろんな思い出がよみがえるよ」

 だそうだ。昨年12月にはじめてヴァチカンでB16と会見する時30分遅刻したり、B16の説教の間に携帯メールを確認したり、2度の離婚3度の結婚の履歴も含めて、こんな男にこんなことを言われたくないとフランスのカトは思っているだろう。
 
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# by mariastella | 2008-09-17 01:54 | 宗教

神に呼ばれる時

 超越についてのその2で「文化の真の基礎」と書いてしまったが、今日、教皇の講演を読み返すと、「真の文化の基礎」だった。
 訂正ついでに、その部分を載せておく。理性についてのB16の見方がよく分かる。

« Chercher Dieu et se laisser trouver par lui : cela n’est pas moins nécessaire aujourd’hui que par le passé. Une culture purement positiviste, qui renverrait dans le domaine subjectif – comme non scientifique – la question concernant Dieu, serait la capitulation de la raison, le renoncement à ses possibilités les plus élevées et donc un échec de l’humanisme, dont les conséquences ne pourraient être que graves. Ce qui a fondé la culture de l’Europe, la recherche de Dieu et la disponibilité à l’écouter, demeure aujourd’hui encore le fondement de toute culture véritable. 》

 で、よく見てみたら、Chercher Dieu や、la recherche de Dieu は、
 se laisser trouver par lui と、la disponibilité à l’écouter とセットになっているのだ。

 神を探すことは、神に見出され、神の声に耳を傾けること、とセットになってる。

 実際、たとえば、

 「私がシスターになりたかったわけじゃない、神に呼ばれたんだ」

 というような証言はよく耳にする。

 だとすると、この場合の神は、「絶対」とか「超越」には置き換えられない。
 有神論や理神論の神でも呼んでくれなさそうだ。
 「無」神論の神だけが、「呼んでくれる神」と相補的存在だから、沈黙によって、存在を主張してる。

 ともかく、「超越」は、こちらからの探求はできるけど、超越の方が声をかけてくれたり、こちらを見つけに来てくれるというのは無理だ。
 「呼んでくれる神」というのが、ひょっとしてキリスト教的ペルソナ神のいいところかもしれない。

 神に呼ばれるというのはどんな感じだろうか。
 ついつい、統合失調症の「やらされ体験」症状だとか、いわゆる「電波系」のこととか思い出してしまう。実際、神秘家と呼ばれている人の「お告げ体験」も、現象だけを見ると明らかに病理的なものもある。

 今年になって、大部の『聖母マリア御出現事典』(Fayard)を出したこの道の権威ローランタン師は、2000年には、400から500の事例と言っていたのに、いまや、2450例を挙げている。「御出現」が何らかの(信仰にとってポジティヴな)跡を残した、何かを生んだ、という例を全部数えたらそうなったのだそうだ。御出現はドグマでないから、線の引きようがない。公認されたのはたったの13か14(間接的)だそうだ。公認といっても、容認みたいなもので、司教や教皇も、非公式になら個人的に信じていることを公言してもいい、とされている。

 ともかく、信仰というのはどうやら双方向的なものであるようだ。
 呼びかけに答えたり、召しだしに応じたりすることも探求の一つの形であり、逆に、神はどこにいるんだろうと探しそうとすることがすでに神から見出されていることになるのかもしれない。神とはそうやって双方向的なかたちではじめて存在するのだろうか。


 
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# by mariastella | 2008-09-16 08:24 | 宗教

神の存在の仕方

 今日はルルドでの教皇ミサをTVでちょっと見た。

 昨日のアンヴァリッドの野外ミサの方がよかったな。

 国際色豊かなところがルルドっぽいし、水が潤沢にふるまわれるところもルルドっぽいが、各国から枢機卿とか偉い人がたくさんいるのが、ルルドとそぐわない。
 ルルドは弱い人が主役のところだから、偉い人が並ぶと変だ。
 最晩年のJP2がぼろぼろになった体で巡礼したのは似合ってたけど。

 『理性の限界』(講談社現代新書)で、ハイゼンベルクの不確定理論とかについて読み返してたら、聖なるものって、光子とか電子みたいに存在してるのかなあ、と思った。つまり、あるべきところ全体に波のように広がっていて、見神者という観察者が現れると御出現みたいに、粒子的ににキャッチされるという感じ? 御出現は聖なる電子の波の収縮。しかし、聖なるものはどこかでキャッチされても、収束した残りが消えるわけじゃない。比喩はぴったりこないかな。
 もっとも、波とか粒子とかいう概念そのものがニュートン物理学的概念だから、パラダイムを変えれば、電子のありようだって別に奇妙じゃないのかもしれない。神のありようだって、実はすごく自然で、人間の体の原子の中で電子が「奇妙な形」で存在してるように、内的でミクロなところにも充満してるのかも。

 それに、「神は存在する」というのは、実は、真偽性と関係ないのかもしれない。
 つまり、「神は存在する」というのは、命題ではなく、感嘆文なのである!!
 だとしたら、 「神は存在しない」というのは必死の「命令文」かも。

 そして、有神論と無神論は電子の波と粒子みたいに相補的な共存の仕方をしているのかもしれないな。

 こう考える方が、不完全定理による神の非存在論よりもずっとおもしろい。

 道元なんかは、「佛性があるとかないとかいう言い方についての限界や例外が本当にあり得ないのか」を問うたそうである。それは、「佛性があるかないか」という言い方が自壊するほどに問いを強靭にすることらしい(by宮川敬之)。

 これも、存在するとかしないとかを命題にすることの拒否だろう。

 道元って、すごく弁証法的だし、近代的だなあ。空海がスコラ哲学的なのとは大分違う。

 
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# by mariastella | 2008-09-15 02:49 | 宗教

B16 の野外ミサ

 朝11時にアンヴァリッドのミサがどうなってるかと思ってTVをつけたら、1チャンネルも2チャンネルも中継をやっていた。25万人とかいう人出だそうだ。

 TVの解説を聞いていると、数年前のJP2の臨終と葬儀の時にTVがヴァチカン放送みたいになってたのを思い出した。

 JP2ほどのカリスマ性も演技性もないB16だが、人は目にみえるシンボルが好きなんだなあ。
 アンヴァリッドに集まった若者の1人がインタビューされて、「人生と愛とSEXについての教皇の大事なメッセージを期待してる」と返事していた。

 どんな育ち方をしたらこんなことを真面目に言えるんだろう。

 戦争中などの国でレイプされて妊娠したが中絶したくないと思う女性が、教皇の言葉にすがれるのはいいなと思う。中絶はつらくとも、まあ日にち薬というのがある。でも子供を生めば一生だ。中絶できるんならすればよかったのに、と周り中から思われながら子供を育てるのはつら過ぎる。少なくとも、「教皇様」は一生この誕生を祝福してくれる。

 それに中絶する人はそれどころじゃなくて、ヴァチカンの意向なんて最初から気にしてない。いわゆる信者でも、罰則さえなきゃどうってことない。
 第一、中絶禁止を含む「Humanae Vitae」って、51%対49%の多数決で採択されている。 実際、もっとリベラルな決定をしている司教会議〈ベルギーなど〉だってある。
 カトリックより保守的なことも多い正教においても、この種の決定〈中絶など〉は、当事者と司祭とがプライヴェートに相談して合意した決定を教会は批准する、ってなっている。

 いや、素直な若者を揶揄してるわけではない。でも、一応平和な国フランスで、裕福そうな多分ブルジョワの階級の若者が、愛や人生やSEXについてくらい、自分で悩めよ、と思う。最初からアドヴァイスやガイドラインに期待するなよ。

 ま、フランスは伝統的に反教権主義が盛んだったから、教皇が人を集めてることにアレルギー反応を示す人もたくさんいる。
 でも、教皇を生で見て感激してぽーっとしている信者さんの顔を見てると、ついこないだフランスに来ていたダライラマを拝んでた熱心なフランス人仏教徒たちと同じ顔だ。

 宗教儀礼は社会的な連帯体験として優れているという見方もある。

 今はちょうど、共産党の「ユマニテ祭」の時期でもある。

 集団で儀礼や祝祭で盛り上がるには、メガ・アイドルのコンサートというのもあるだろうし、スポーツ観戦もあるだろうし、まあそういうのは栄枯盛衰が激しいと客の方も知ってるから、個人崇拝の次期は短い。
 熱狂的な党大会っていうのは体質的に嫌いだ。独裁者に万歳というのは問題外。

 まあ、息子を大企業のパトロンの娘と結婚させたどこかの大統領の周りで熱狂したり陶酔したりするよりは、80近くで最高位に就いたものの子孫も持たず家庭も持たぬB16や、同じく生涯独身で苦労人のダライラマを見て感涙を流す方がずっとましである。

 B16は芝居気がないから、ミサも地味である。でも、聖餐のために、司祭たちがずらりと列をなして、アレクサンドル3世橋の方までびっしり埋まった信者に聖体を運んで配るのは、壮観だ。お天気良くてよかったねえ、そう、君、教皇からのアドヴァイスを待ってた君の心がけが良かったんだよ、と言いたくなる。
 このイエスの「体」を食べることをもって、キリスト教って、カニヴァリズムで野蛮で好戦的だって言うこちらのインテリがいるが、シエナの聖カタリナでもなければ、ぱりんとした聖体パンを「ああ、血の滴る主の体だなあ」と陶酔して食べる人はいないだろう。

 むしろこのシーンは、イエスが、パンや魚を奇跡的に増やして4千人とか5千人の群集に分けて食べさせた文字通りの「分かち合い」、のイメージだろうな。聖体拝領してアドレナリンが出て聖戦に出発って思う人はいないだろう。お釈迦さまにさし上げるものが何もないからって、自分の身を火に投げたウサギの話なんかの方が迫力があるくらいかもしれない。

 で、ミサはほとんどフランス語だが、「主の祈り」はラテン語だった。TVの画面を見てると、言えてない若者も多そうだった。唇の動きから、明らかに勝手にフランス語で唱えてるなあ、という人もいそうだった。ま、解説によると、B16は懐古趣味でなく、多様性を取り戻したいと思っているんだそうで、ミサは美しさや沈黙の部分を大切にして、聖なるものの喚起を目指してるんだそうだ。

 私は個人的には静かなのが好きだ。熱狂は困る。

 こういう「荘厳」な儀礼を見るのはいやじゃない。

 昭和が終わった時には日本にいなかったので、いろんな儀礼の荘厳さとかが実感できなかった。日本のTVの記憶で、荘厳っぽいのは、大晦日の「ゆく年来る年」くらいである。除夜の鐘はもちろん、あれで、毎年、はい、長崎の天主堂の大晦日のミサの風景です、みたいなのがキリスト教風景としてインプットされた。儀礼とは、「超越の探求」の装置なんだろうなあ。

 病者や障害者がヴォランティアに先導されて前の優先席に陣取ったり、教皇から直接聖体拝受する人が、セレブじゃなくて「貧しい人(といっても厳選されてるんだろうけど)」優先っていうのもお約束とはいえなかなかいい。

 アベ・ピエールの後でエマウス共同体のトップになっていたマルタン・ヒルシュが、サルコジの左派取り込み路線で閣僚になっているが、この夏、ついに、悲願のRSA法案を大統領に承認させた。20年前社会党政権が実現したRMIという最低保障支給の進化形だ。日本でも、生活保護を受けてる人が少しでも働き出すと打ち切られてしまうという問題があるように、RMIも、パートでも働くともらえなくなって、生活が成り立たないので働かない方がまし、というケースが多かったのだ。
 今回の連帯アクティヴ保障は、収入に応じて、足らない分を補給してくれる。その財源は庶民からでなく資本からとりたてる。簡単そうで難しい改革である。

 そう、「社会的弱者に仕えよ」というのがイエスのメイン・メッセージであって、その意味で、キリスト教は本来とても「ソシアル」なのだ。

 Patrice de Plunkett が「convertiは必然的にソシアルに向かう」というようなことを書いていた。converti とは回心者のことで、この文脈では「真に神に目覚めた者は」、というような意味だろう。  
 してみると、B16風に言って神の探求は文化とか美に向かい、神の目覚めは弱者救済に向かうのか? 多分同根なんだろう。そうでない神なんて存在論より存在理由論の対象になりそうだ。
 
 
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# by mariastella | 2008-09-14 00:12 | 宗教

超越について その2 

 昨日、B16が一般向けに言ったことの中で、文化の真の基礎は神の探求にある、みたいなのがあった。「真の=veritable(B16はフランス語が達者なんでフランス語の講演だ)」というのは、「相対主義」と戦う彼の文脈の中では「絶対」に近いかな。

 この「神の探求(recherche de Dieu)」について、「価値の探求と同義ですね」と解説した人がいた。「絶対の探求ですね」という人も。

 フランスのインテリが、教皇の言葉を非宗教的に言い換えるこだわりはおもしろい。
 日本人が天皇制について、客観的にものを言いにくかったり、すぐに誤解されてしまうのを恐れるのと同じだ。

 その分裂ぶりを正直に語って好感が持てたのは、ジャーナリストのジャック・ジュリアールである。彼は自分のことを

 「心理的には無神論者、

  文化的には反教権主義者、

  霊的にはキリスト者」


 だと言っている。

 朝起きると、無神論者だし、考え方も無神論者。
 家庭、教育など成育環境からは反教権主義者。つまり、カトリック教会や教皇の権威に批判的。
 しかし、スピリチュアルには、キリスト教的教養があり、イエスのメッセージを核においている、んだそうだ。ヨーロッパ世界の平和主義とかユニヴァーサリスムとか、神の前の平等主義はたいていイエスのメッセージから来てるんだから無理もない。

 平均的な戦後日本人の私は、一神教的な無神論の感覚はない。
 困った時に「神さま、ほとけ様」、と言う時点で神も無神論もない。有神論のないところでは無神論もないのだ。無神論は有神論や理神論のヴァリアントであり進化形であり、神を担保するものだ。
 カトリックは超マイノリティだから、日本には反教権主義なんてものもない。フランスに反ダライラマがないみたいなもんだ。
 日本では同じマイノリティであるある種のカルトやプロテスタントなんかが反カトリックを唱えるかもしれないが、一般の人はその区別なんてつかないだろう。

 で、ジュリアールが、霊的(=spirituellement)にはキリスト者(=chretien)、って言っちゃえるところもフランス的だなあ。日本人が「霊的にはご先祖様信仰」という程度の自然さと根深さがありそうだ。

 そして、こういう正直なインテリたちが、教皇に、彼らのアイデンティティの分裂ぶりを破壊しないような言辞を期待する様子はおかしい。教皇はカトリックの長なんだから、いくらヨーロッパ的インテリであっても、無神論や反教権主義にはなり得ないんだから、「神」を口にして何ぼである。
 
 で、「文化の真の基礎(拠り所、土台=fondement)が神の探求にある」ってところだが、分裂気味キリスト者のインテリたちは、これを「絶対価値の探求」とか、「超越の探求」とか置き換えて、霊的な共感を示したりするのである。

 しかし、「神の探求」が「価値の探求」とか、「超越の探求」とかに置き換えられるとしたら、文化の拠り所として重要なのはひょっとして「探求」の部分ではないだろうか。

 彼らの言ってるのは、「探求が文化の源泉である」ということで、人が神や価値や絶対や超越を押し付けられたら、そこには真の文化が成立しないってことかもしれない。

 そう考えたら、超越って言葉のよさも分かる。

 神だの価値だの絶対だのは、

 「ほうら、これこれであるぞ、ありがたく拝め」

 という風に「おしつけられ」がちである。

 いや、歴史においてはたいてい、権力者による支配ツールになってきた。

 しかし「超越」と言ってしまえば、せいぜい、その方向を漠然と指すだけで、何しろ超越なんだから、押し付けにくい。
 超越という概念は、神や何々主義や価値の押し付けの安全弁になり得る。

 本当に大切なものは目には見えないんですよ、

 というやつだ。

 本当に大切なものを見ようとする視線だけが残る。
 探求が残る。

 文化とか芸術が生まれてくる。

 という仕組みかもしれない。

 そしなら、

 「ひょっとしたら、神も仏もいないのかも」

 って疑いだした人が、「超越」まで放り捨てて、

 物質主義の中で固定されたり、
 現実を失ってヴァーチャルなコンフォルミズムの波にすくわれたり、
 金やブランドや権力の偶像をひたすら拝んだり

 という自体を防げるかもしれない。

 だとしたら、超越が必要なのは、永遠の探求を可能にしてくれるからだ。

 探求の自由を含まない自由なんて、自由じゃない。


 
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# by mariastella | 2008-09-13 22:44 | 宗教

超越について

 公営TVをつけてみたら、教皇のパリ到着の特別番組をやっている。
 
 ヨーロッパ人は3人に一人は「信者」と答え、フランス人は2人に1人しか信じてると言わない。無神論者が一番多いのもフランス。
 でも、JP2がなくなった前後は、全チャンネルがヴァチカンに釘付けだったし、今回もいざ教皇が来るというと、明日のアンヴァリッドのミサのためにフランス中から集まる若者が今夜から広場で集まるのだそうだ。今日の午後は多分ライシテに関してのスピーチ、夜はノートルダム、日曜はルルドのミサ、これもTVで放映されると言っていた。
 こういう時は、フランスはカトリックの国なんだなあと思う。ミシェル・オンフレイのような昔タイプの無神論者が健在なのもそのせいだろう。 
 サルコジ夫妻は教皇を空港に迎えた。これも信者というより、ブッシュ夫妻の猿真似だろうな。調子に乗ってライシテ・ポジティヴで「神、神」って言うなよ。

 今執筆中の本のために無神論を研究することは、思想史や精神史をすべて無神論のフィルターにかけなおすことだった。
 私は平均的日本人なんで、神がいるとかいないとかの論議にはあまり揺さぶられないだろうと思っていた。

 意外だったのは、「超越」は存在しないという論議だった。

 神とか「聖なるもの」は、文化や歴史の産物なので、いろいろなヴァリエーションがあると思っていたが、漠然と、「超越存在」はあると信じていたらしい。

 ある意味で、超越はまさに超越なんだから、「どのようにあるか」は意味論的には認識できないんだが、人間が、生まれる前とか、死んだ後とかの観念を持つ以上、この世の時空以外の「超越」観念をかかえているのは自明だと思っていたのだ。
 音楽のような非物質的な美を鑑賞したりできることも、「超越」を受け入れられやすくしていたかもしれない。
 
 でも、無神論にまつわる物質主義というのは、一貫して「超越」の否定だったのだ。
 
 ボードリヤールが継承したので日本でも知られているギイ・ドゥボールの『スペクタクルの社会』のことを考える。

 資本主義のプロパガンダ、中央集権的なマルキシズムのプロパガンダ、嘘、虚構に基づいている点で実は一つのものであるとドゥボールは看破し、いまや、その統合形が北京オリンピックとなった。現代世界は市場経済原理が自律的に牛耳るので政府の力や責任は幻想に近い。
 で、現実と虚構が相互貫入し、一種のニヒリズムが生まれ、それも、アクティヴなニヒリズムというか、破壊、脱構築の世界である。
 今は、相互貫入どころか、ウェブの発達でヴァーチャル世界が現実の外装フィルムみたいになっている。人はそのフィルムの上で生きている。あるいはフィルムと現実の隙間で。

 そして、超越が消滅する。

 つまり、世界は、現実を失った時に、「神」も一緒に失うのだ。

 ということは、実は、「神は現実の側にいる(いた)」らしい!

 神や超越が現実を担保していたのだ。
 少なくとも、現実構築の一要素だった。

 虚構の世界には、政府が要らないように、神も要らない。

 神や聖なるものなんて「嘘だ、迷信だ」と、無神論者が長い間声を上げてきたが、何のことはない、世界中が虚構になれば、神も消えるのだ。

 仏教が、現実の苦悩からの救済理論として、超越を否定した無神論だというのも、こう考えるとロジックである。
 苦悩に満ちた「この世」は幻に過ぎない。
 つらい現実と見えるものは、存在のモード、命のモードの一つに過ぎず、不定のものである。
 現世は夢まぼろし。苦悩はもうないし、神や超越も必要ない。

 大日如来なんかテイズムの神に似てるしな。テイズムやデイズムは無神論のヴァリエーションだった。

 西洋における「汎神論=パンテイズム」という言葉も、無神論を指す造語だったことを思うと、感慨深い。

 じゃあ、ネオリベのアメリカ人がしきりに神、神、って言ってるのは一体なんだ。
 アリバイか?
 神を口にすることでよりよく虚構世界を管理するつもりなんだろうか。

 私はヴァーチャルな人間ではないらしく、また、この世は幻と見る悟りにも程遠く、超越とセットになった現実を実感してるようだ。

 考えてみると、フランス・バロック音楽理論とその実践における人工性というものは、広い意味では現代と同じ「虚構」や「スペクタクル」でも、実は脱構築やニヒリズムとは正反対で、「超越と現実をセットで再構成する」という意思と方向性を持っている。

 だから、楽しい。
 果たして強者の遊びなんだろうか。
 「生の歓び」っていうのは私にとって自然な一つのテーマなんだけど。
 人は、神が死に、現実を失った世界でも、楽しく生きられるのか?

 (余談だが、ドゥボールに触れようとして、「状況主義」という言葉を日本語で検索してみたら、状況によって行動が変わるというパーソナリティ理論とか、日本は状況主義国家で状況に流されるだけ〈日和見に近い意味らしい〉、なんていうのが最初に出てきた。芸術運動としても、68年当時の過激左派としても、「状況主義」は消滅した感がある。)
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# by mariastella | 2008-09-12 19:48 | 宗教

B16 がフランスに来ることでいろいろ。

 ベネディクト16世がフランスに来るんで、それなりに盛り上がってる。ライシテ・ポジティヴとかいってサルコジが馬鹿なことをしたり言ったりしませんようにと、フランスのカトは冷や冷やしている。フランスのカト側は、もう、ライシテとカトリックの対立は過去のことで、教皇が来たからといって、カトは、特にプロパガンダを展開しようというわけではない。サルコジの変に宗教っぽい挑発的言動によって政治的な厄介ごとが起きないように願っている。
 サルコの宗教趣味は、ハンガリー貴族というその出自のせいではなくて、WASP的アメリカの政治的セレブが宗教帰属を表に出して宗教ロビーを大事にしてることの猿真似であろう。

 私個人は、B16個人が相変わらず、どちらかというと好きだ。いつも見た目が可愛いと思うんで、彼が悪人顔とかいう人の気持ちが全然分からない。
 若い時の写真なんてほんとうにハンサムで可愛くて上品だ。ちょっとワイルドなお兄さんと対照的。

 確かに、教理省の長官だったり、ドイツ人だったり、悪名高いDominus Iesus を発表したり、こわもての保守主義者ってイメージはあるが、何しろここ3世紀の最高齢で教皇位に就いただけあって、もうすっかりJP2晩年と重なるような枯れぶり。

 『ナザレのイエス』って著書を出したが、序文で、教皇でなく一神学者として書いたと断る腰の低さで、教皇庁プレスのイエズス会士は、わざわざこういう区別をしたことに不満だったらしい。

 後、私がB16を好きな二つの理由。

 彼はヴァチカンの自分の部屋にピアノを入れた。ヴァカンス先でもピアノを弾いて、それを写真に撮らせたりTVに映されても嫌がらない。大体、モーツアルトがレパートリー。で、
 ピアノを弾くとき、たとえ写真に撮られても平気で右手の薬指の聖ペトロの指輪を外す。教皇のシンボルの一つの金の重そうなやつである。だから、ピアノを弾くときには外して、重ねた楽譜の上とかにちょこんと置いておく。

 どうでもいいことかもしれないけれど、楽器を弾くときにできるだけ軽くしようとしてブレスや腕時計や指輪を外す私には親愛感を感じさせる。これって、なんていうか、人間として信頼感と好感をそそる。

 もう一つは、うふっ、彼が猫好きなところ。

 Pentlingの地所にいるお気に入りの猫は私好みのクリーム・ベージュのヨーロピアンのChicoちゃん。なんと、ドイツでは、『ヨーゼフ(B16の名)とChico』っていう子供向きの本まで出ていて、Chicoちゃんの視点でB16の生涯が語られてるそうだ。教皇秘書官の序文つきで。

 まあね、キリスト教の未来を考えるなら、私はベルギーのガブリエル・ラングレ神父と同意見で、はっきり言って、今のローマ教会とかは、もう、肥大と硬化と、地政学的コンテキストのせいで、キリスト教の本質を貫くのは無理、まあ、歴史によって学習した智恵と技術を駆使して、今できる限りの最大の寄与を地球の平和と安全のためにがんばってしてください、と思うだけだ。

 聖アウグスチヌスを通したプラトン主義者であると自他共にいうB16だって、だから、本来は、キリスト教のイデアに忠実でいようと努力しているのだ。宗教と理性が切り離せないという、グレコ=ロマンの伝統にある人で、その思考の方程式は、

 「信仰 + 理性 = 解放する真実」

 というのに尽きる。

 ナチズムの全体主義の中では、聖職を選ぶことが内的自由の確保だった。それはJP2も同様だ。

 その後、そのリベラルな精神を維持していたが、1960年代以降のポストモダン的相対主義に失望した。

 逆説的ではあるが、ポストモダン的な相対主義や脱構築は、ユニヴァーサル理念を瓦解させる結果、ばらばらの個人を「エゴと欲望に忠実であれ」という知的モラル的な画一主義へと向かわせがちなのである。そういう画一主義を利用して個人を消費者として再編成するマーケットの力がそれを助長する。

 だから、B16が、ヴァチカンⅡの重要性よりも、キリスト教を「イエス・キリストとの出会い」に位置づけなおそうとした気持ちも分かる。

 残念なのは、ちょっとKYで、メディアの使い方に疎いし、自分でヴァチカン政治に乗り出さず全てを担当枢機卿に委任したりするので、去年、ワルシャワ新大司教の就任の日に共産党秘密警察との関係が暴露されるとか、この春、宗教間対話担当のトラン枢機卿が知らされぬままに元ムスリムを洗礼してしまうとか、齟齬が生じる。
 エコロジーがらみなどでなかなかいいことも言ってるのに注目されず、保守的な言動ばかり叩かれる。

 プラトン=アウグスチヌス系の世界観が、アリストテレス=トマス系と違ってペシミスティックなのも暗い感じだ。

 しかし、彼は、JP2の対極で、演技とか、演出とかを絶対にしない人で、根回しやらロビーイングにも疎い人、信者に個人崇敬されることを嫌い、カリスマ的でないので、相手を魅惑したり呪縛しないで、自由にさせる人だそうだ。目立たず、無理をせず。

 今回、現役教皇としてルルドに巡礼する二人目で、ポーランドの田舎っぽいイメージのJP2ならいざしらず、知的で理性主義のドイツ人B16までがルルドに来るんだぜ、って感じでフランス人カトはけっこうはしゃいでる。

 でも、マリアの「母なる御加護をみなさんに・・・」なんてメッセージを口にしてるのをTVで見ると、白髪の教皇と聖母崇敬は似合ってるよな、と思う。
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# by mariastella | 2008-09-12 01:26 | 宗教

グルジアについて

 グルジアの問題について何か言うのはすごく難しい。
 
 私は物心ついたときから、いわゆる「東西冷戦」真っ只中だったので、世界とはそういうもんだ、という刷り込みが何となくあった。
 だから、KGB出身のプーチンのあの顔見るだけで、悪役っぽいなあとか思うし、佐藤優さんがいかにソ連がすごかったかあちこちで語ったり、かなり反動的なあやしいことも言ってたはずのソルジェニーツィンが亡くなったとたんにまるで自由の聖人のようにいっせいに讃えられたりするのを聞くと、さもありなんとか思ってしまう。

 ほんとは、ひそかに、コーカサスでのアメリカのやり方はあまりにもひどいロシアの挑発だと思うし、なんだか、第2次大戦に突入してしまった日本の哀れさなんかも連想してしまって、冷戦をやめてないのはアメリカだろ、と思うことがある。

 冷戦だの9・11だので、アメリカ=自由の国につくか、それ以外のあやしい国につくか、みたいな二元論に慣れさせられて、そりゃ、どっちかって言うとアメリカだよな、って思うし、状況によってはアメリカ批判は唇寒し、って感じだ。
 フランスにいても、サルコジが親米なんで、アメリカ批判はサルコジ憎しの反動だけだと受けとられかねないしな・・・。

 確かに、プーチンは見るからに怖そうだ。
 相似形でポーランドの大統領と首相を務めるザ・双子のカチンスキーも、見るだけで「信じられなーい」と思う。

 でも、フランスで、パリ地方の一つで最も所得の高い県であるオードセーヌ県議会の与党のプレジデントは、サルコジの21歳の息子だ。

 常識で考えたら、いや、戦略的に見ても、対外的に見ても、普通はあり得ないチョイスだろう。

 21歳だよ。

 日本でもいくら2代目3代目議員がいるといっても、ここまではないだろう。

 しかもメディアにも出まくってるし。国営ラジオがサルコジ夫人の歌のCDの宣伝してるし。

 こわもてのプーチンも、カチンスキー兄弟も、当地では普通なんだろう。

 で、CIAがオレンジ革命だのバラ革命だの資金援助しまくって、他国の国境線定義には介入しないと約款しているヨーロッパを無視してアメリカがコソボの独立宣言を2月に公認したり、3月にウクライナとグルジアのNATO入りを提唱してうまく行かなかったり、なんと言っても、核兵器のあるなしに関わらずに世界の安全の脅威となる国に対しては核攻撃を仕掛けることができるって理論を去年の終わりにNATOに採択させたことなど、ロシアを硬化させた。
 この7月8日、アメリカによるアンチミサイルのレーダー設置にチェコが合意したし、8月14日にはポーランドが2012年の10台のアンチミサイルの砲台設置にサイン。7月にはアメリカ軍人1000人がグルジアで軍事教練を指導していた。アメリカ政府がグルジア軍のオセアチア自治区攻撃準備を知らなかったとは思えないし、ロシア軍がそれに備えて待機していたことも知っていたはずだ。すべては、ロシアの反応の速さとロシア世論の展開をテストするための挑発だったのかもしれない。

 どっちにしても、コーカサスから、ロシア軍を追い出してNATO軍に置き換える、という意図は見え見えで、こんなことされ続けたら、プーチンじゃなくてもキレルかもしれないし、少なくとも、それを逆に利用して、とにかく力には力を、って連鎖は終わりそうもない。

 今日は9・11の7周年ってことで、昨日の夜、TVでそれに関する英国のブレアのドキュメンタリーをやってた。その時に、2003年、国連の承認なしのイラク派兵に反対するシラクが、ブレアに、「戦争は汚いモノ(une seule chose)だから」という理由を第一に挙げていたのを、あらためて、共感を持って見た。

 そんなこともあって、グルジアを巡る情勢を

 「冷戦が終わっても、ロシアは本当には西側民主主義の国にはなれないのよね」

 式の旧共産圏差別やアメリカ・グループ正当化の言辞では矮小化したくない。

 金と権力に対する欲望の増大が、ありとあらゆる機会をねらい、ありとあらゆる理屈をつけて、弱い者を殺しながら、世界を踏み潰していく。

 所有しているモノや消費するモノで人を測る精神の罠から脱して、自分がいかにあるか、他者をいかにリスペクトできるか、を、自分でも自覚しながら、次世代にも伝えていかなくてはならない。
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# by mariastella | 2008-09-11 21:05 | 雑感

Theopsychologie

 ドイツの哲学者 Peter Sloterdijik が Theopsychologie というのを提唱している。従来の宗教異常心理学とちょっと違って、主に一神教原理主義に現れる死への傾斜、タナトスから人々を解放しようというものだ。

 イスラムのジハードとか、キリスト教が聖餐で犠牲の救世主の血をみなで飲み合うというようなのは本来の戦いのエネルギーよりも死を鼓舞し、ストレスが最大になると彼は言う。

 アメリカの終末論的カルトグループには、堂々と自殺奨励を謳ったもの(安楽死教会、1991よりChrissy Korda)がある。

 「他者を破壊するより、自分を壊せ、動物を破壊するより、自分を壊せ、太陽と森を破壊するより自分で死ね、今夜、今すぐ」

 と勧めている一種のディープ・エコロジーだが、宗教法人として認められていて税金優遇処置を受けている。
 ヨーロッパではいくらなんでもこんなことはない。

 どちらにしても、宗教原理主義と死への傾斜が一神教に特有というのは、ちょっと違うだろう。

 破壊的な宗教原理主義との戦い方には、啓蒙主義以来、アングロサクソン型とフランス型と2種ある。

 ジョン・ロックが、どのような宗派も自分たちを正統だと思っているのだから、共存には寛容の道しかない、狂信主義とは、いつも、権力と権威に抵抗する人間の戦いの徴であるのだから、と言った。

 つまり、権力側が寛容を示して共存を認めれば、狂信はなくなると思ったのだ。確かに、21世紀の宗教原理主義のテロリズムなどは、ネオリベの競争原理に取り残された南北格差や貧困などによって拍車がかかっているかもしれない。でも、ジョン・ロック型の、どんなおかしな言い分の宗教でもみんな寛容の精神で公認してしまうというやり方で、自他の破壊主義が緩和するとは言えない。

 フランス型はヴォルテール型で、狂信は伝染病のようなものだと言う。野放しにすると広がるばかりなので、予防や撲滅も必要だと言う。

 フランス型は一つ間違うと、アンチ・リベラルの全体主義にも使われそうだ。実際、初期共産主義社会では、宗教そのものが、天然痘みたいに撲滅すべき対象だと考えられた。

 ここに「自由」尊重の問題も関わってくる。自然な内なるモラルを行使することが真の自由であり、神はそのような実践理性に要請されるものだとカントは言った。カントの考えるような内なるモラルや自然とは、タナトスや破壊衝動から免れているのだろう。

 Sloterdijik によるテオ・サイコロジー=神心理学、の提唱も、考えると、皮肉だ。もともと心理学の成立そのものが、無神論の一表現だったからだ。神や神々にリアリティのある社会や文化圏では、心理学など存在せず、発祥もなかった。というか、全ての「人文科学」が、神を心的現象に疎外したのだ。
 少なくとも西洋近代史の中では、科学と宗教が対立するのではなく、人文科学と神学が対立するのだ。無神論の誘惑に最も悩んだのは、自然科学者ではない。
 それを思うと、明治の日本の和魂洋才なんて簡単だった。

 エコロジーとの関連でいくと、Patrice de Plunkett の提唱する「新しい解放の神学」の、消費主義と決別する姿勢は共感が持てる。でもこの人のブログを見てると、明日からフランスにやってくるローマ教皇萌えぶりにちょっと引いてしまう。彼が福音派やオプス・デイと仲よさそうなところも。

 いくらよいテキストを発表しても、著者は当然、コンテキストも読まれてしまう。他のところで言ったり書いたりしたことを完全に囲ってしまうことはできない。肝に銘じなくては。

 
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# by mariastella | 2008-09-11 19:42 | 宗教

新共同訳聖書について

 ある読者の方からお手紙が来て、私が『知の教科書キリスト教』で聖書の新共同訳を推奨していることについていかがなものかと言われた。

 プロテスタントの文語体の聖書は荘重流麗で人の心を打つが共同訳の拙劣さは耳をおおわんばかりで、たとえば、

 「真に真に汝らに告ぐ」 

 とあるとありがたいが、

 「はっきり言っておく」

 ではまるでけんか腰でみもふたもない、

 とおっしゃる。

 笑ってしまった。

 私だってそう思う。

 「天にまします我らの父よ」

 なんてフレーズも、7-7で語呂がよく、キリスト教信者でなくても、知ってる言葉だったから、急に

 「天におられるわたしたちの父よ」

 って言われてもね。

 でも、私のあの本は、「キリスト教と特に関係ない大学生、大学院生を対象に」、ということで書かれたもので、新共同訳の親切さはやはりよくできてると今も思う。今はじめて聖書を読んでみたいという若い人に勧めるとしたら、新共同訳が現実的だ。

 コーランは、基本的にアラビア語が神の言葉だったんで、翻訳は厳密には聖典ではない、というか、原語にあたらなくてはならないと言われてきた。

それに比べてキリスト教の聖書は、書かれた言語が変化したり、ヘレニズム世界で展開したり、ラテン世界でラテン語でヨーロッパ化したものがもっとも「近代社会」のヘゲモニーを得たので、どれが「啓示の言葉」なんだと言われても、けっこうハイブリッドになっている。

だから、翻訳された「聖句」はそれぞれの言語のそれぞれの時代の文化を背負ってるし、受け手の感性もそれぞれだろう。

 でも、これも、芸教分離論と同じで、

 確かに美しいことは力であり、美しい言葉で伝えられた「ありがたい」言葉はいっそうありがたいと思うけれど、

 今の私は、何となく、もう、「ありがたさ」を運ぶものは、
 言葉にしろ、建築にしろ、音楽にしろ、絵画や彫刻にしろ、
 美や芸術的価値から分離して考えた方がいいんじゃないかと思っている。

 美や芸術を軽視して言ってるんじゃない。
 
 むしろその反対で、美や芸術の力はすごいから、
 たとえ偏狭や不寛容や、いや、悪や頽廃を隠していたって、
 ありがたく、美しく、目くるめくこともあり、それに仕えたくなるからである。

 翻訳の言葉が拙劣で、それで本質なものを失ってしまうような宗教なら、それはその宗教の器なのかもしれない。

 日本の聖書も、有名な東北弁のケセン語訳とか、大阪弁訳、なんてのもあるそうだ。イエスの語った言葉が、その時その場所でどのような語感を持っていたのかは分からない。結局、一度テキストの形になれば、後はコンテキストと共に読むしかない。流麗な文語で聖書を学んだ世代の方には、古式ミサの美しさやそれを取り巻く次代の雰囲気そのものがそのコンテキストになっているだろう。

 美を分離した宗教なんて耐えられない、って思う方もいるだろうし、美は神を讃えたり祈ったりすることの本質とつながっているんだ、という方もいるだろう。宗教的美と聖なるものへの信仰心こそが美や芸術を生んだのだという考えもあるだろう。

 それでも、私は、美と宗教を分離しない時の危うさはあると思う。

 イスラム教で今も政教がセットになっていたり、宗教と教育が切り離せない社会も多くあるように、美と宗教もフュージョンしていてそれがありがたさのよりどころになってたりするから、その分離は思いもつかず、分離後の世界を想像できないと思いそうだが、それでも、私の中ではそういう時期が来ていそうだ。

 美と分離して「みもふたもなくなって」しまったところで、どこまで宗教が普遍であり得るかを探りたい。その意味では、やっぱり、新共同訳は貴重なとっかかりであると思う。
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# by mariastella | 2008-08-26 22:03 | 宗教

べートーベンとラモー

 小鍛冶邦隆のWeb連載「音楽・知のメモリア」の第5回は「テロリスト・ルードヴィッヒ」を読んだ。
 バッハ、モーツアルトと続いた後で、ゲルマン人は、ベートーベンに来て本格的にラモーから遠くに来たなあ、と思った。

 ラモーは、システムの変革をしなかった。

 ラモーにとって、システムは、どうでもよかったのだ。

 その意味を新たに考えさせられる。

 一定の視点と視野の設定はラモーにもある。ってか、それしかない。

 それが確固としてるのにシステムの構築に結びつかないところがすごい。

 数学者ラモーのハーモニー論を、バッハも研究し尽くした跡がある。
 バッハの記号的、教育的な曲の組み立て方を見てるとよく分かる。

 ベートーベンにおいては、不協和音が身体的な暴力装置になっているという指摘がすごい。懲罰的だって。

 ラモーにおいて、きらきらした雲母のような、白銀の月の火口のような、「色」になる不協和音が、ベートーベンでは、規律性を起動するための破綻となるのだ。

 まあ、ラモーの不協和音を近代楽器でやったら、懲罰的になることもあるかも。
 ラモーの不協和音には、バロック楽器という素材が前提だったから。

 ベートーベンは、身体性によって、構造の側から聴き手を「順化」させようとしたのだそうだ。これって、すごくゲルマン的ではないか。

 ラモーの身体性は、聴き手を招待する。あれほど数学的な脳内人工楽園の創造主が、なんで共感覚的な世界を展開できるんだろう。

 ベートーベンに殴られるのが好きな人は多そうだが、 
 私はラモーに淫するのが好き。

 


 
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# by mariastella | 2008-08-25 06:48 | 音楽

芸教分離

 政教分離の萌芽は、ローマ法が完備していたローマ帝国世界で発展したキリスト教自体の中に潜んでいた。

 しかし、現実は、たとえばローマ教会が領地を得て封建領主化したように、宗教と政治はなかなか切り離せなかった。

 今のヨーロッパ、特にフランスは政教分離が進んでいる。私は日本からフランスに来たからぴんとこないが、社会が宗教離れしている点では日本とフランスは今の世界でも特異な国だろう。
 でもそこに至った経緯は全然違うので、要注意なんだが、それはまた別の話。

 で、政教分離がよくできているのは、教育と宗教が分離してる教教分離の様子でよく分かる。アメリカの公立学校から十字架や祈りがなくなったのなんて1960年代だ。

 私がこの頃思うのは、自分の中の芸術と宗教の分離である。これは見落とされがちだけど、けっこう本質的ななにかを秘めているかも。

 カトリックからラテン語ミサが姿を消していたのが、最近、併用OKになった。それで、ノスタルジーも含めて、古式豊かなのが荘厳でいいというような話をあちこちで耳にするようになった。

 私は、キリスト教の教会美術や教会音楽や建築を過小評価するわけではない。
 カトリックに改宗したユイスマンスがパリのあちこちの教会のミサや典礼を比較して、審美眼を駆使した『En route』なんて何度読んだか分からないし、バロックのモテットも好きだし、レクイエムも好きだし、バッハの教会音楽も好きだし、フランスでもわざわざソレムスにグレゴリアン聖歌を聴きに行ったこともある。

 ただ、それと、いわゆる信仰を結びつけたことはない。

 人が、超越的なものをいかに表現しようとするかとか、霊的なものを求めるとか、それがどうやって美に向かうのかとかいうことにはとても興味がある。

 芸術における精神性や聖性に感動することもある。

 でもそれは、たとえば、比叡山の声明を聴いても、ペルシャの宗教音楽を聴いても、グレゴリアン聖歌を聴いても、変わらない。

 声明に感動したからといって天台宗に帰依したくなるとか、スーフィーの踊りを見てシーア派になるとかならないように、別にすばらしいミサ曲やレクイエムを聴いても、だからキリスト教がすてきだとは思わない。

 実際、いろいろな宗教や宗派の中で、明らかにキッチュでありがたくないような建築物や絵や音楽にも出合う。玉石混交だ。というか、どのようなコンテキストにおいても、ほんとうに深く美しいものは少ない。

 もちろん、宗教の中で、特に宣教とか布教において、芸術の力が効を奏することはあるだろう。美しい女神や聖母像や仏像を見て心を動かされて回心することがあるだろう。貧しいブラックアフリカの真ん中に突如としてこの世の天国のような金色に輝く大聖堂が建てられ、そこではじめて、「この世」とは別の精神性に出会い、洗礼を受けるばかりか修道士や修道女になり、その美の豊かさに支えられて清貧の奉仕活動をしたあげくテロに巻き込まれて殉教した人々も知っている。美によって愛に触れる人だっている。

 でも、宗教が政治や教育とくっつくと、いろいろな取り込まれ方をするように、芸術が宗教に取り込まれると、その美の優越性のゆえに、美を所有している側が優越を主張したり、偏狭になったりする。
 美の祭神なんて言葉があるように、美そのものも宗教化しやすい。美の神とはたいてい不寛容だ。美と原理主義ってその点で親和性があったりする。

 でも、宗教は芸術を担保にしてはいけないし、
 芸術は宗教を担保にしてはいけない。

 芸術が、広義な聖なるものとか超越の感情なしに成り立つものかどうかは難しいところだ。でも、芸術や美は、残念だけど、モラルなしでも成り立つと思う。

 そこのとこも含めて、芸教分離の意味をよく考えてみたい。

 人は火が好きだ。火は超越だの美だの命だの聖なるものを喚起する。

 ルルドの夜のろうそく行列を見るとキリスト教でない日本の学生たちも感動する。でも、外国人が日本の寺の火祭りや薪能を見ても感激するし、人はテーマパークの光のパレードでも、隅田川の花火でも、感動するのだ。
 
 部屋の電気を消し、光ファイバーのクリスマスツリーが繊細に光の漣を繰り出す時、どんな子供でも、目を輝かせて見入る。

 うちの猫たちは、全く興味をしめさない。

 こういう時だけ、やつらが死を恐れない理由が分かるような気がするよ。

 昔は、美や祝祭は、宗教が独占していた。

 今は劇場があり、音楽会があり、美術館もあり、テーマパークがあり、室内プラネタリウムだってある。


 そんな時代に、芸教分離とはどんな可能性を持つのか。
 政教分離、教教分離、の後の、最後の何かになり得るんだろうか。
 
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# by mariastella | 2008-08-25 05:05 | 宗教

ジュール・ラフォルグ

 無神論的表現と詩作について、19世紀において文学者が信仰を失うということについて考えようとして、ジュール・ラフォルグの詩集『月聖母のまねび』なんかどうだろうと思い立った。

 象徴派の詩は昔、若い頃にたくさん訳詩を読んだけど、また、訳詩を原詩と照らし合わせるというような作業は何度もしたけれど、そう、今は、すっかりフランス語も自家薬籠のものになってるから、ラフォルグを訳さずに直接読んだらさぞやインスピレーションを受けることだろう・・・・と思った。

 今は便利な時代。ラフォルグの詩なんてすぐネットで拾える。

 http://www.laforgue.org/laforgue.htm

 さっそく『月聖母のまねび』を選んで、インスピレーションの得られそうなタイトルを次々に開く。

 おや、『ギター』なんてのもあるではないか。


 しかし・・・


 難しいよ。


 昔の日本の仏文学者って、すごいなあ。

 彼らはたとえばマラルメやユイスマンスがラフォルグを読んで愛したようにラフォルグを愛したんだろうか。

 それとも、「マラルメやユイスマンスがラフォルグを愛した」と知って、ラフォルグに挑み、一つ一つの言葉を日本語に置き換えて、それを研磨して、きらめくような日本語の詩を創り上げたんだろうか。

 アラン・ポーの詩の英語はそんなに難しいものではない。
 でも、あれが日夏耿之介の訳詩になるにはどんな錬金術があったのやら。
 その秘密はポーの側にあるんじゃなくて明らかに日夏耿之介の側にあるなあ。

 哲学関係の本や思想書なら、昔、翻訳で読んでえらく難解そうだったものが、今フランス語で読むとすごく分かりやすいということがよくある。

 詩や歌詞もフランス語のほうがしっくり分かりやすいし綺麗だと思うことがよくある。

 でも、ラフォルグを前にして、詩作表現に見る無神論の不安の分析をやる気力が萎えた。

 絵画表現や音楽表現はうまく行ったんだけど。

 言語の壁って独特だ。それともラフォルグの壁なのか・・・


 結局、評論においてもそれが問題だ。

 言語が介在しない分野では、誰でも評論家気どりができる。

 この音楽は気に入らないとか、この絵は分からない、とかね。

 説明できなくても平気だ。感性の問題だから、とか言える。

 でも、言語で表現されてるものはね・・・
 
 わかんなければ頭が悪いんじゃないかとか、語学力がないんじゃないかとか悩んでしまう。

 一読しただけでラフォルグがわかんないとは、思わなかったよ。
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# by mariastella | 2008-08-23 06:16 | フランス語

奇跡とは困ったもんだ

 『聖骸布の男』(講談社)というムックでも縁があった不思議好きの編集者から、ルネサンスのキリスト教絵画の中に散見されるUFOについてのコメントを求められる。

 私のサイトの宗教質問箱では、福音書に出てくる「おかしな記述」をどう信じるかについての質問が来ていた。まだ、答えてない。

 他のブログで、聖母の処女受胎についてのコメントであれこれ過剰反応があったからみたいだ。

 受肉と復活というのは、キリスト教が成り立つには信じざるを得ない部分で、まあ、これを受け入れると、必然的に、聖母の処女性とかなんとか、細かいことにファンタズムも生まれるし、そこにのめりこむ神学もある。

 今年は聖パウロの年というんで、パウロの手紙を読み返してると、彼のとらえたキリスト教というものの骨格がすごく分かって、それに感動したら、聖母にまつわる議論がいかに本質的じゃないかが実感できる。時には「変だよ」とか、「神の子にしてはいまいち・・」と指摘されるイエスの言動だって、受肉と復活のダイナミズムが、ヘレニズム世界の弁証法に合流して、今につながる近代理念だのそれがはらむテクノロジーの肥大だのを生む「歴史」がスタートしたことのすごさに比べたら、瑣末なことに感じられる。

 神の化身というのは繰り返し、神の受肉というのは1回きりである。

 すごい発想だが、これがあるから、「では、イエスが生まれる前の時代に生きた人類は永遠に救われないんですかい」という素朴な問いに対する答えに窮するわけだ。

 こんな苦しいキリスト教がシンクレチックに風化しないで、常に異端を創ることで自らを確立していったのは驚きだ。その道があまりにもアクロバティックだったので、そこから逃れるのはたまに起こるミスティックな狂熱だけだったのだろう。

 それで、原則として、キリスト教にまつわる枝葉の奇跡譚には、結構辟易しているのだが、グアダルーペの聖母だけは、執拗に存在感を押しつけてくる。

 昨年メキシコ人の音楽学者と話した時、メキシコでもインテリは誰も信じてないよ、教会がいろんなデータをでっち上げてるのはみんな知ってるよ、みたいに一笑された。

 メキシコという土地がまた微妙である。

 これがヨーロッパなら、どんな田舎でも、たとえばメジュゴリェの聖母御出現なんかでも、のめりこむ人もいるが、シビアに切って捨てる人もいて、いろんな解析が可能だ。司教の認定とかヴァチカンのお墨付きとかにはまずならない。

 アフリカとかアジアでも、データが乏しい、伝統が乏しい、すごく蒙昧かそれを批判するインテリかに分かれそう、非宗教的オカルトやカルトや超常現象趣味と区別が曖昧になる、などの理由で、ま、お話として聞いときましょう、面白かったらそれでいいんじゃない、という感じになる。

 ヨーロッパで、しかもカトリックの伝統のあるところ、スペインとかフランスとかイタリアに分散するイエスの聖骸布系の奇跡は、中世に山のようにあった「偽物」が全て淘汰されてきた末に生き残ったのだから、その信憑性を云々するのはかなり慎重かつ深刻になる。「最新のテクノロジーを駆使した科学的検証」というのになりがちで、奇跡のイメージと対照的だ。

 で、メキシコ。

 やってることは、「欧米か」って言えるほど、科学的検証っぽい。

 『大人のためのスピリチュアル超入門』でも書いたけど、グアダルーペの聖母がプリントされたファン・ディエゴのポンチョには不思議が多すぎ。

 染料が特定できない、筆の跡がない。(1936年化学者に繊維を分析させた。)

 1791年に塩酸がたれて右上に10センチの穴が開いたが30日後にふさがった。
 同じ繊維の布にコピーが作成されたが、15年で塵となった。

 1921年、アナーキストがダイナマイトを仕掛け爆発したが、ポンチョもガラスも無傷。

 1929年、カメラマンが聖母の右目に人の姿発見。

 1956年、眼科医が聖母の眼底を見ようとしたら瞳孔が閉じたり開いたりした。

 同年、8ヶ月にわたる研究の結果、Purkinge-Samson光学反応を聖母の目に発見。 

 1979年2月、メキシコのIBMの科学センター所長がデジタル処理をしたら聖母の目に12人の姿が。2500倍ではポンチョを見せるディエゴの姿が見えた。

 同年7月、フロリダ大学の生化学教授などNASAのメンバー二人が、絵具の不在と、ポンチョが、原因不明に、36,6から37度の「体温」を維持していることを「発見」。

 1981年、聖母のマントの上の星模様は、1531年12月12日(ディエゴがポンチョを司教に見せた時)の冬至の10時26分のメキシコの空のものだと発見され、天文学者が認める。

 NASAによると、聖母の姿から10センチまで近づくと、色が見えなくなる。横からレーザー光線を当てると、絵が布から0,3mm浮いているように進む。

 聖母は妊娠していて、その腹に聴診器をあてると、115-120の心拍音が聞える。これは胎児の心拍数に相当。

 極めつけ。

 去年、2007年、4月24日、中絶法が通過した後で、聖母の姿が薄くなり、変わりに強烈な白い光が差し、胎児の形に輝いた。
 多くの人が写真を撮り、それを分析した専門家たちは、それが合成でもなくフラッシュの光でもないことを証言。

 この最後のはまだ司教の認定を待ってる最中。

 何かやり過ぎ。

 政治的なのもモラル的なのもうさんくさい。

 じゃあ、実際に見ればといわれても、今は、動く歩道式に参拝するだけだし、テーブルマジックのトリックだって見抜けない私が行って検証したってどうなるものでもない。本を読んだり写真を見たりするだけ。
 結構まともな文書もある。ディエゴの列聖が最近だったので、いろんな研究書が出たからだ。

 イエスの遺骸を包んだ血塗れの布がヨーロッパのあちこちで大事に取っておかれたってことは、まあ、理解できる。でも、16世紀にメキシコで突然出現した聖母の絵に、これだけの「不思議譚」をこれでもかこれでもかって、付け加える意味は何?

 メキシコのインテリたちは「けっ」といって無視するから、「民衆御用達」のままでいいのか?

 ヨーロッパのキリスト教というのは、それが最初からかかえる弁証法の中に無神論を包含していた。脇に無神論の壁を築くことで神学が発達したといっていいぐらいだ。

 だから、奇跡譚にもそれなりの含羞だとか陰影がある。ニュアンスがある。

 メキシコのなりふりかまわなさはなんだ。

 王様は裸って言う人はないのか。

 聖母のマントの星の模様に見える星はそんなに多くない。
 いつの年のいつの空にだって、任意にこの位置の星を取り出せるだろうと思うのは私だけか。

 不思議話は魅力がある。

 どんどん深入りしていくことの魅力。

 5月に直島の南寺で、ジェームス・タレルの光の作品を見た。
 暗闇の中で瞳孔の開くのを待つ。

 奇跡みたいだったよ。

 
 

 

 
 
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# by mariastella | 2008-08-23 04:02 | 宗教

漢文って・・・

 日本から送ってきた雑誌の冒頭に長沢規矩也の『支那学術文芸史』からの引用が載っていた。「漢文は、形式的で、文辞形容を重んじ、誇大に奔る」とある。漢文は実相を表現するのに適さず、物事をごまかす作用に有効だというコメントもある。
 
 司馬遼太郎の『空海の風景』に、鎮護国家の祈祷のパフォーマンスを披露しようとした空海が嵯峨天皇に向けて、「山門を閉づるに、六箇年を限る」と言って、高尾山寺に籠もると上奏した話が出てくる。天皇はこれに感激、次の年には空海を別の寺の別当に任命して、空海もほいほいと従う。
 漢文的表現とは、あくまでも表現世界にとどまり、必ずしもそれを守るに厳密である必要はないという習慣を、空海も嵯峨も、教養の前提として身につけていたからだろうと作者は推測している。
 空海が得意な六朝文は特に、頭から嘘を書くほうが名文になったそうだ。

 日本ではこういう漢文の教養が衰退して農民の出が武士や郎党として政権を構成する鎌倉期になってやっと誓いや約束が守られるメンタリティができたともある。

 そういえば、『起請文の精神史』(佐藤弘夫、講談社)ってのもあったなあ。天地神明やあれやこれやにかけて約束する形式だ。

 ひょっとして、中国って、当然ずーっと、「漢文」だから、言行一致なんて野暮なことしなくてもいいよ、ってそういう「教養」が残ったままなのかなあ。オリンピックだのにまつわるいろんな話を聞きながら何となくそう思った。

 冒頭の雑誌とは、『新潮45』だ。日本にいないので、いただく雑誌は大体全部目を通すけど、この雑誌にはいつも引いてしまう。猟奇事件簿みたいなのが表紙に並んでるからだ。今回のはエログロでなくて「貧乏もの」なんでわりと私好みのテーマだけど・・・ 
 この雑誌に連載してる曽野綾子さんや中島義道さんも私みたいに全部読んでるのか?
 
 この雑誌のために書いたフランス裁判員制度についての記事のゲラが届いた。ドンボスコ社の殉教者ムックのために書いた仮想座談会のゲラもほぼ同時に着いた。かわいい挿絵がついてて座談会っぽくなってる。もう大分前になるので、読み返して、結構楽しめた。
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# by mariastella | 2008-08-23 02:20 | 雑感

角膜移植

 フランスの話。

 昨年のこと。あるおばあさんが、おじいさんが亡くなった時、医者から角膜を移植してもいいかどうか聞かれた。おじいさんは80歳なのでおばあさんは驚いたが、角膜は90歳まで移植可能なのだそうだ。おばあさんはOKした。なんだかとっても嬉しかったと言う。

 移植のために臓器提供が可能なのは60歳までだと聞いたことがある。

 私ももうじき臓器提供できなくなるなあと思っていた。
 特に目なんて、近視、乱視、老眼の三重苦で、白内障や網膜剥離も恐れてるくらいで、心肺機能や脳よりも先にダウンしないように祈ってるありさまだ。

 でも、角膜は90歳まで、提供可能なんて。

 私も、なんだか、嬉しくなった。
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# by mariastella | 2008-08-22 21:30 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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