L'art de croire             竹下節子ブログ

Ne jamais admirer la force

 フランスの空港で出発前に買って飛行機で読んだ本 、レジス・ドブレの『イスラエルの友へ』"A un ami israélien" Régis Debray( Flammarion)の中に、レジスタンス時代のフランスで若くして死んだ有名なシモーヌ・ヴェイユの言葉が引かれていた。

 平和な世界を実現するための最も大切な三つのこと。

 
 ne jamais admirer la force, (決して力を尊敬しないこと)

 ne pas haïr les ennemis  (敵を憎まないこと)

 et

 ne pas mépriser les malheureux. (不幸な人を軽視しないこと)

 正確に言えば、ヴェイユは、これを、ホメロスの『イーリアス』について書いている。、戦争や政治において「力」の効果は常に栄光に包まれていて悲惨さを隠すようになっていって、近代ヨーロッパでは悲劇はむしろ悲恋など「愛」の物語に応用されたことを書いている。

 そして、力を尊敬すること、敵を憎むこと、不幸な人を軽んじることの三つは、人間にとって宿命的なほどに大きい誘惑だと書いているのだ。

 中でも、決して力を尊敬しないこと、は、最初にあげられていて、さらに、「決して」と強調されている。

 人間が「力」を誇示し、崇めるところでは魂はいつも、ひずみを受けるというのだ。

 私たちは、強いものや大きいものにあこがれる。

 動物行動学的に言うと当たり前、そうプログラムされていると言われるかもしれない。
 弱肉強食で、強いものが選択されて生き残ってきた。
 メスはサヴァイヴァルのチャンスの大きい強い遺伝子を持っていそうな大きくて強そうなオスを配偶者として選択する。
 縄張り争いで勝ったものが子孫を残す。

 力はいつも、数値化されて比較対照され、差別化に使われる。

 力の大小や多寡は、人の価値や優劣やましてや尊厳には何の関係もないのに。
 実際、異種間では、そういう比較には使われない。
 ゴリラがヒトより強くても、チータがヒトより速く走っても、別に尊敬はされない。

 人間同士で力を優劣や勝敗の基準にする世界では、必ず、強いものが弱いものを支配する形で利用されるのだ。

 それでも、力崇拝の遺伝子の誘惑は大きい。

 日本に帰ったとき、サッカーのワールドカップと大相撲などで、スポーツ番組がたくさんあった。

 強い、天才的、というプレーや、それを可能にする才能、すさまじい根性や気合や努力の物語があふれている。

 分りやすい。

 見てると、すごいなと思い、尊敬し、自分も少しは努力しなきゃと思う。

 私は今肩と腕を痛めているので、TV画面で大写しになる力士の裸の腕や肩の筋肉の見事さになおさら感嘆する。力と力がぶつかりあう。全力を尽くして、勝敗が決まる。

 「死闘」という言葉がある。

 ヴェイユは、人が人に力を行使すると究極的には相手を死に追いやりモノ化するという。あらゆる支配とはモノ化だ。

 死闘を見て高揚する私たち。

 ローマの闘技場では、ライオンと人との格闘に狂喜した人たちがいた。

 パレスチナでは、後に神の子と崇められる人が、辱められながら、期待された何の力も行使せずに、十字架上で、苦しみながら悶絶した。 
 
 ne jamais admirer la force(決して力を尊敬しないこと)

 というのは、「その人」が身をもって伝えたメッセージだった。

 力を崇め、求める限り、老いや病気や障害や体質その他いろいろな理由で不幸にも力を持たない弱者を軽視することとつながるかもしれない。ヴェイユの三つ目の戒めは、一つ目を自戒しなければ本当には実現できない。

 「力の発揮を前にして感動する」という分りやすい体験を、何か危険なものへの「誘惑だ」として一度も自問しない人は、十字架をシンボルにする宗教に、全然似合わないと思う。

 
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# by mariastella | 2010-07-14 16:50 | 雑感

公式サイト引越しのお知らせ

 1月末に管理人さんが亡くなった後で対策を考えていた私の公式サイトですが、ようやく Reiko Mery さんのおかげで新しいサイトを立ち上げることができました。
 彼女のサイト http://heyreiko.fr/ を見て、 素敵だなあと思ったのでお願いしたのでした。

 気軽に引き受けてくださったのに、納得のいくまであれこれ最善を尽くしてくださる方で、予想外の大仕事になって恐縮しています。私の場合は、前の管理人さんのパスワードその他が分らなかったためもあって、前サイトの記事のコピーだけで膨大な作業になってしまったのですが、Reikoさんはいろいろな形のウェブ・クリエーションの相談にのってくださると思います。ここで宣伝。私のサイトからもリンクできます。

 で、新サイトのアドレスがこれ。一部工事中もあります。

 http://setukotakeshita.com/

 ここから、前のサイトの掲示板にも引き続きいけます。このブログもリンクしてあります。
 新たに二つのブログもリンクしましたが、まだ記事をアップしてません。
 
 表紙絵は以前に引き続き、八木美穂子さんのものです。原画は私のうちの音楽室に飾ってあります。


 首都圏の書店には明日から並ぶはずの私の新刊、

 「ベスト新書」の『陰謀論にダマされるな!』

 のお知らせはここ。

 http://setukotakeshita.com/page1.html

 です。陰謀論リテラシーの講座は残念ながらやらないことになってしまったのですが、この新書は読みやすいのでどうぞ手にとってください。5月に出した中央公論新社の『無神論』と実はつながってます。

 新しいサイトは多くの方がクリックしてくださると検索しやすくなるそうなので、よろしくお願いします。
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# by mariastella | 2010-07-07 10:27 | お知らせ

切羽詰った時に採用するストーリー

 
 日本とパラグアイのPK戦の時にちょうどTVのある部屋でPC をやっていたので、偶然見てしまった。試合はもうとっくに終わっていると思ったら、延長の末のPK 戦だった。日本の選手が輪になってひざまずいてシュートの成功を祈っているような、今時の若者たちのその必死な一体感が、意外な感じだった。翌日の新聞にその写真が載っていて「祈る日本チーム」というキャプションがあった。では、あれはやっぱり「祈り」だと認識されているのだ。

 誰に祈ってるんだろう。あるいは何に?

 勝負の神さま? あるいは、みんなで「念」というか「気」というか「エネルギー」を送り込んでるだけ?

 怪我の回復が本格的でないといわれるブラジルのカカは熱心な福音派だそうで、結婚前の純潔とかを公の場所で口にしているそうだ。ブラジルでは昔はカトリックが絶対優勢だったけれど、今は福音派の躍進が著しいので有名だ。特に若者に人気だから、スター選手が福音派でも不思議はない。

 そのカカはブレスレットをしていて、そこに「OQJF?」と書いてあるそうだ。

 「O que Jesus faria?」の略で、「イエスならどうするだろう?」という意味。

 まあ、カトリックでも福音派でも、同じ神だから、輪になって祈っても、「気の道」はつながりやすいかなあ。それにブレスレットの言葉は、「勝たせて下さい」じゃなくて、「御旨のままに」って感じだから、それなりに「正しい」感じもするな。

 うちの末猫が先週亡くなった。いろいろあったのだが、とにかく最後は下がってきた体温を温めるために私がはいつくばって息を吹きかけたりしてたので大変だった。はじめは、生きようとして戦っているように見えたので助けてやりたかったが、だんだんと、死ねないで苦しんでいるように見えてきた。強制給餌しようとしても必死で顔を背けるし、背を向けて隠れようとするし。私はいわゆる安楽死には基本スタンスとして反対なのだが、当然それも視野に入ってくる。取って置きのルルドの水で高栄養パテを溶いたりしたんだけど。

 親戚の仏教徒のところで、子猫が死にかけたことがあり、その人は、安楽死させるかすごく迷って、仏教の僧の意見を聞いた。どちらもフランス人。その時の答えはこうだった。

 「その子猫が苦しんでいるのは前世のカルマのせい。それを短縮したりせずに最後までちゃんと苦しめばそれを浄めることになり、それはよいカルマとなり、子猫は来世でステージアップを期待できる。さらに、安楽死させるなどの決断をするのはあなた自身の殺生の罪となり、悪いカルマになるので、あなたの来世は今より悪くなる」

 その人は、それを聞いて、納得がいったので、獣医のところに連れて行かずに、自然死を待ったというのだ。

 仏教ではカルマのメリットやデメリットを計算できるので、ロジックなフランス人に気に入られているという話を聞いたことがあるが、私なら、うちの猫には絶対採用したくないストーリーである。

 で、私も、別のストーリーをさがしてみた。

 人間はいろいろと罪深いけれど、うちの末猫サリーにはそういう罪も業もない。子供は天国に直行できるというように、うちのサリーもピュアだから、天国に直行。

 うちには、15年前にまだ3歳半の元気盛りで医療過誤によって死んだオス猫ガイアがいて、庭に埋葬してある。すごく愛された猫だから、その後の3匹の猫の守護天使みたいになっていたに違いない。

 そのガイアのことを突然思い出し、気が楽になった。サリーの死後の運命が安心できたからだ。


 で、サリーに何度も言って聞かせた。

 「あんたにはね、実は、あんたの生まれる前に死んだ強いお兄ちゃん(実際は血のつながりはないが)がいて、天国から守ってくれているんだよ、で、サリーちゃんが死んでも、ガイアがちゃんと待ってて、天国でサリーちゃんを守ってくれて、世話してくれるからね」

 このストーリーは私の気に入った。

 サリーちゃん、今は思いがけなく苦しいけど、こうやってママがそばについてるし、天国に行ったら今度はガイアに守られてまた元気に遊べるんだよ。

 すごく安心感がある。

 死後の世界って、こういう時のためのストーリーなんだなあ。

 自分より若い小さなものに死なれる時に特に力を発揮するストーリー。

 「畜生道に堕ちる」みたいなのは、「ペットの死」向きじゃない。

 私が死んでも、ガイアやサリーが楽しくやってるとこには行けそうもないが。

 私はストーリーなしで死んでも納得するつもりだったが、猫に死なれるときには、貴重だ。
 生と死って、存在のモードが変るだけ、っていうのが実感になる。

 そうなると、前に失った猫の記憶も貴重だし、次から次へと生と死が別の生と死を豊かにしてくれるのかもしれない。誰もがそういうストーリーに少しずつ貢献していけるんだとしたら、死は決して喪失ではないし、ましてや敗北ではない。

 近いうちに、前に『聖者の宇宙』という単行本で出したものが文庫化されるはずだが、生と死を超えたこういうインターアクティヴで賑やかな関係って、悪くないなとあらためて、思う。
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# by mariastella | 2010-07-02 23:47 | 宗教

マリー・アントワネット

 ソフィア・コッポラの映画『マリー・アントワネット』をTVで見た。 
 
 ヴェルサイユはいつ見ても、郷愁をそそられる。私の両親を最初に案内した時は一般の休館日で、案内してくれたフランス人の友人は、その前に休館日に案内したのは日本の天皇夫妻だった、と言ったので、うちの両親が感激してたのを思い出す。その両親も友人も今は世にない。今、鏡の間でのバロック・ダンスの招待券をもらっているが多分行く暇はない。

 で、マリー・アントワネットだが、彼女の頃には、もう、宮廷のバロック・バレーが死滅していたのがすごくつらい。チェンバロやハープは出てくるんだけれど。

 マリー・アントワネットがやって来た頃、シャルル=ルイ・ミオンはすでに倒れて宮廷を去っていた。彼はほんとうに、時代とずれてしまった人だ。

 ヴェルサイユで、バロック・バレーがぴたりと踊られなくなったのは、17世紀末だと思われる。

なぜか?

リュリーの死、キノーの死という普通に考えられる理由もあるが、最大の単純な理由がほかにある。

 気候の寒冷化。

 1700年から1710年のヴェルサイユは異常に寒く、誰も踊らなくなった。その前は、その反対で、まさに、「寒さに対抗するために」こそ、かなりの運動量を男も女もこなしていたのだ。

 その寒さが限界を超え、飢饉にはなるし、その後でルイ14 世の子も孫もばたばた死んでいる。宮廷ダンスははっきり言って見向きもされなくなった。

 このヴェルサイユでの宮廷ダンスの死滅こそが、フゥイエらによるバロック・バレーの振り付け譜の全盛時代を招いたという人がいる。死滅しそうなのであわてて書き遺した?

あまりにも自明だったので記譜されないままに終わったものもある。メヌエットとガボットだ。パ・ド・ガボットなどは、今はコントルタンとアサンブレの組み合わせが基本となっているが、かなりのヴァリエーションがあったらしい。
しかも相当の技巧を要する複雑なものだ。

 もう一つの仮説は、ただ、金のため、というものだ。ヴェルサイユのバレーや劇場バレーはヨーロッパ中で名声を得ていたので、各地から、特に新興ブルジョワたちが振り付けを依頼してきたのだ。楽譜を送れば、振り付けを記譜して送り返す。これでかなり稼げたらしい。過去のオペラ・バレーの振り付け譜も書き改められたのか、どんどん出された。その出版の仕方にも、金儲けの計算がうかがわれる。

 ということは、今や非常に貴重な資料として解読され、踊られているバロック・バレー振り付け譜だが、記譜されたものがそのまま、最盛期に踊られたものとは限らないということである。

 私たちのトリオは、6月6日に湯浅宣子さんと共に、シャルル=ルイ・ミオンの舞踊曲をオペラ風に構成したものを上演した。その日本語版を秋に日本の3か所で公演する。

 18世紀も半ばに近いミオンの当時の劇場用振り付け譜はまったく残っていない。ラモーのオペラも同様だ。

 湯浅さんは8曲にオリジナルで振りつけてくれた。コメディデラルテ風、パストラル風、宮廷風、と変化がある上、非常に技巧的で繊細な振り付けだ。彼女の腕の動かし方や肘の使い方は、今のバロック・バレーの標準とは違う。でも、彼女の振り付けを見ていたら、そちらの方が、当時に、実際に劇場のダンサーに踊られていたものに近いんじゃないかと思った。つまり、記譜されて出版されたり売られたものは、基本的に商品であって、「見て踊りやすい」ものでなくてはならなかったはずだからだ。18世紀半ばの時点では、劇場バレーはパリの技術が傑出していて、他の国の宮廷だとか「ブルジョワ」だとか劇場に「輸出用」の商品は、「一般向き」だったのではないだろうか。つまり、簡易版。

 今ラモーのオペラなどのバレーの振り付けには、コンテンポラリー風とか、バロックテイストだがクラシック風とか、いろいろな演出があるのだが、正統なバロックがちがち「もどき」という場合も、それはそれで絶対違うなあということが多い。

 湯浅さんのミオンの振り付けを見て、「きっとこれだったんじゃないか」、と思わせられるのは、彼女がまさに「ミオン」の曲にインスパイアされているからだ。私たちはミオンにほれ込んでもう15年以上も彼の曲を発掘してきたわけだが、テンポにしろフレージングにしろ、何年もあれこれ解釈を変えた後で、「これだ、これしかない」という着地点に至る時がある。それが、湯浅さんの振り付けと表現によって、さらに確かなものになる感じだ。

 彼女の振り付けは、記譜しても、おそらくかなり難しいものになるだろう。

 マリー・アントワネットがハープの代わりに本格的にバロック・バレーを習えていたなら、そしてルイ16世もいっしょに踊っていたなら、彼女のヴェルサイユ生活はもっと違ったものになっていたかもしれないし、フランス史も変わっていたかも、と想像してしまう。

 ミオンはルイ15世の子供たちに音楽を教えていたのだが、ミオンの教え子だった王太子は父より早く亡くなったので、孫であるルイ16世はミオンのエスプリを知らない。ルイ15世は、ラモーとルソーのQuerelle des Bouffons の時に、ラモー側についているんだけど・・・

 そんなことを、いろいろ、考える。

 
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# by mariastella | 2010-06-23 00:17 | 踊り

キプロス島のベネディクト16世

 6月はじめにB16がキプロス島を訪れた時、ニコシアで、Nazim Haqqani 師 というスーフィーの神秘家と会った時の写真を見たのだが、周りの人々がすごく和やかにこやかで心温まった。キプロスだからトルコ系のスーフィーということだろうか。本物の神秘主義者というのは、何かみな故郷が同じという気がする。神秘主義者たちが宗教間対話の鍵になるんじゃないだろうか。  

 キプロスはもちろん東方教会がマジョリティだが、カトリックも少しいるし、フィリピン移民もいる。B16は彼らを招いてアラブ語、ギリシア語、ラテン語をミックスしたミサを挙げた。

 緊張の高まっている中近東などイスラム世界で生きるキリスト教徒たち、特に聖職者や修道者らのコミュニティが危険を回避して引き上げないで踏みとどまるようにと、教皇は呼びかけた。

 1996年にアルジェリアのトラピスト修道士たちが、イスラム過激派から強迫されていたのに踏みとどまって地域の奉仕を続けた末、全員拉致されて惨殺された事件を扱った映画が今年のカンヌ映画祭で話題になったが、そのことを思い出してしまった。その地に残ると命が危ないと分っているのに絶対残れというのは普通の国の外務相だとかが、危険地域の自国民に避難勧告を出して、勝手に残って誘拐されたら自己責任だからね、とかいって逃げたりするのと対照的だ。

 で、教皇の言うのは、キリスト教がマイノリティで試練に会っている場所にこそ残って、キリストの希望の証しを見せ続けなくてはいけない、と言う。それは、キリスト教徒のためだけでなく、その地域に住むすべての人々のためだそうだ。確かにそういう地帯では、ムスリムである地域住民であれば身が安全というわけではない。彼らはずっと命の危険にさらされている。そんなところに「福音」を伝えに来た宣教師なんかが、さっさと「安全地帯」に逃げ帰ったとしたら、「人は愛し合える」という証言の重みは消えうせるだろう。

 最近、南アのワールドカップがらみで、黒人地区に留まってアパルトヘイトと戦ってきた白人キリスト教司祭たちの話をいろいろ読む機会があって、感動していた。

 アパルトヘイトをキリスト教的に正当化していたのは、旧約聖書のノアの泥酔のエピソードで、父の裸を見た息子ハムが黒人の先祖だと言われていて、「奴隷の奴隷となり兄たちに仕えよ」とノアから呪われた部分らしい。
 このテーマについてはシスティナ天井画の解釈をめぐってあれこれ考えてきたのだが、まあ、普通に考えて、泥酔して裸で寝たノアさんがそれを見つけた息子を一方的に呪うなんて・・・と、ひどい話だと思うんだけど、キリストの受肉によって旧約のいろんな律法とかの意味がラディカルに変わったはずのキリスト教で、アパルトヘイトの正当化にそんな口実が使われていたんだなあ。
 知らなかった。まあ、そういうふうに正当化する必要があったということは、キリスト教内部で、アパルトヘイトの人種差別はキリスト教に見て間違っているという異議申し立てがあったからこそなんだろう。実際、白人の司祭だの修道士だのの中に、当時もちろん違法であったのに勇敢に黒人地域に住み、彼らと共に人種差別撤廃のため、自由のために戦った人たちがいたわけだ。

 その一人のJacques Amyot d'Invilleの書いているものを読むと、ずいぶん危険な生き方をしてきたのに全然悲愴ではなく、「明るいのが一番」という感じなのだ。

 ユーモアの感覚を養い、積極的にオプティムズムを育てようと言う。

 そして、ニーチェがキリスト教徒について言ったことを常に考えなきゃいけないという。それは、

 「私が彼らの救い主を信じるようになるためには、救い主の弟子たち自身がもっと救われた様子をしていないとだめだ!」

 と言うものだ。

 愛を説いたり、救いや希望を説く者、「福音」を説く者が、深刻な顔をして、危機に際して真っ先に逃げ出したりしたら、確かに、救われてるようには見えないなあ。

 よく、拷問されて磔にされた殉教者なんかが、「パライゾ、パライゾ」とか叫んで恍惚として死んでいくイメージがあって、ああいうのは狂信で病的で不健康じゃないかと思っていたけど、一理あるかもしれない。

 そして、神秘家とか、悟った人とかって、確かにいつもニコニコしてたりする。

 私は何かと悲観的な人なのだが、よし、ちょっとは喜びに向うように生きてみよう。
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# by mariastella | 2010-06-16 23:39 | 宗教

一年ぶりの仏舎利

 ヴァンセンヌの森のパゴダで恒例のフランス仏教連盟のお祭りがあった。去年大騒ぎして拝観した釈迦の「真骨」は今では祭壇後ろに納められている。去年のように至近距離ではもう見られないけれど、今年はいろいろ心配事があるのでご利益を期待してみた。

 この場所では初めてのクラシックのコンサートがあって、思いがけなく音響が優れていることが分かったので、来年は私のトリオがパゴダ改修資金集めのコンサートをやることになりそうだ。

 このパゴダの金色の仏像はいつ見てもいまひとつありがたい気がしない。なんだかパリの「ブッダ・バー」にいるような気がする。

 座禅の解説と実演があった。私はチベット・アートのスタンドで楽器を買って、豆腐とグルテンのチャーシューや偽魚などを買った。

 今年はチベット内部の対立に巻き込まれないように関係者との話に深入りしないことにした。観光客気分である。
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# by mariastella | 2010-06-13 07:26 | 雑感

ソリプシストKのための覚書10

 エリカの新訳が出た。

http://www.decitre.fr/livres/Oeuvres-completes.aspx/9782729118785

 私はデータでも持っているからいいけれど、重くて字が細かいので、何かこれから先Kと付き合っていくのが難しい。

 エリカは7月から半年間ウィーンに招かれてパトチカの哲学書の翻訳のチェックにとりかかるそうだ。

 今、代替医療の陰謀論的構造について考えているので、エリカにその話をしたら、つまり、気功とmagnétiseurとが同じ原理ではないかという話をしたら、彼女は自分の体験を話してくれた。一度magnétiseurのところに行ったら、あなたは狂気の淵にいると言われて、治療されずに金も取られずに追い出されたそうなのだ。それって、ある意味怖い話じゃないか?

 で、お勧め代替医療として、有名なホメオパシーの医者を紹介してくれた。

 これがなんと、

 ユニシスト uniciste

なのだ。

 ソリプシストの次はユニシストかい。

 ホメオパシーは子供や動物にも効く。まあ、得意分野とそうでないのがあるのだけれど。

 フランスではどの薬局でも安く売っているので、うちにも常備薬としていろいろある。子供の蕁麻疹がすぐに消えて助けられたこともある。他の薬の副作用が消えたこともあった。

 そういう標準薬と違って、ユニシストはまったく違う処方をする。しかも予約に半年待たされたりして信頼のほどを試されるのだそうだ。基本は紹介制。フリーメイスンみたいだなあ。

 どんな宗教でも、中途入信の動機は「持病の治癒」が一番強力だ。障害や痛みが消えるということが人にもたらすインパクトは計り知れない。その前では障害や痛みを受け入れる意味付けなんてふっとんでしまう。

 自己治癒力やプラセーボ効果は今でもすべて謎の領域だ。

 私のような懐疑とネガティヴ・スパイラルの人が「奇跡」を体験したらほんとうに「回心」とかするんだろうか。多分そういう奇跡や回心がセットになっている地平とは別の地平で私は痛がったり思考したりしているような気がする。

 
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# by mariastella | 2010-06-01 18:16 | 哲学

無神論―二千年の混沌と相克を超えて

  amazonに、 『無神論―二千年の混沌と相克を超えて 』(中央公論新社)のレヴューが出ていた。

 この本を読んで最初になにか言う人の声を聞きたかったので、ネットって、ほんとにありがたい。

 まあ、敷居が低い分、時には無責任や勘違いもあるのでがっかりするけれど、伝えたかったことをきっちりキャッチしてくれた人のコメントを読むと、ほんとにほっとする。その時やっと、本が完成した気がするのだ。
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# by mariastella | 2010-05-17 18:03 | 宗教

B16とキリスト軍団

 何かというと脇が甘かったり、批判の対象になってきた教皇B16だが、私はファンだ。
 
 今回のキリスト軍団に関する彼の態度は一貫していた。

 ピウス12世からヨハネ23世、パウロ6世、ヨハネ=パウロ2世と、四代何十年にも渉って騙してきた男を、ラツインガーは執拗にチェックして来た。

 キリスト軍団はメキシコ生まれで、福音派のカトリック版というか、マーケッティング戦略に則った顧客獲得がすごかった。創設当時のイエズス会ってこんな感じだったのかなあと思ったこともあったけど、全くひどい組織だ。

 でも、中にいる人、かわいそう。完全にカルトや秘密結社と同じ構造である。

 あらゆる陰謀系組織もそうだが、オメルタが支配している。オメルタ、は、自由の敵だ。

 B16の融通のきかない誠実なところが、こういうところで発揮できてる。
 彼もラツインガー時代に現金入り封筒を渡されてつきかえしたそうだ。

 カトリックにこういう自浄能力があるのは信頼感をそそられる。

 金、権力、秘密、美辞、脅し、カリスマ、これが組み合わさった「悪意」を告発するのはどんな分野でも容易なことではない。
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# by mariastella | 2010-05-16 05:44 | 宗教

『眠れる森の美女』

 エマニュエルが私たちの音楽(途中から入る)をバックに、眠れる森の美女(http://spinou.exblog.jp/13916455/)の最初の紹介ビデオをウェブで流しているので紹介しておこう。

http://www.youtube.com/watch?v=bLkrcsxzlz8


 エマニュエルは、しゃべりながら踊ってる。すごい。終りの方に入っている私たちのトリオの演奏写真は、なんと、2003年に大阪の養護施設で弾いた時のものだ。子供たちが座って聴いている。この小さなバロックミュージカルも、ファミリー向けなので、こういう雰囲気がぴったりだと思ったらしい。

 6月6日のコンサートが終わったら、エマニュエルたちと本格的に練習に入る。言葉の壁がなければ日本でも絶対に楽しんでもらえそうなレパートリーなんだけれど。
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# by mariastella | 2010-05-12 05:29 | 踊り

IRIS 会議

 結局IRISの会議に行ってきた。

 こういうの。

 http://www.iris-france.org/docs/pdf/2010-05-programme-csa.pdf

 何と、私が興味ないので失念していたのだが、Le Roy Ladurie は、数年前に紀元千年以降のヨーロッパの気候について本を出していて、地球温暖化の文脈で話題になっていた。今回は全くそれを繰り返しただけだ。地球温暖化とそれにまつわる終末論者の盛衰について何か話すのかなあと思っていた私が完全にずれていた。彼の名の字面を見ただけで中世のオクシタンに心がとぶ私って・・・

 でも、そのおかげで、普通はスルーしそうなテーマの会議に出席できた。原則一般公開だが、参加登録時にIRISとの関係優先になるし、いわゆる宣伝はしてないから、「関係者」ばかりという感じだ。

 結果的に非常に興味深かった。

 コペンハーゲンの環境会議の失敗について、環境会議のパラドクスは、

 一番汚してるやつが一番発言力が強くなる、 La nuisance est la puissance.

 というところだというのがおもしろい。

 もちろん、アメリカ、中国、ブラジル、インドなどで、これら、最も地球を汚している国が相対的に、クリーンにする力も最も大きいわけだから、主導権を握るというのだ。それに対して、アジア・アフリカの他の新興国はどんなになりふりかまわず汚していても、主導権をとるほどには汚していないというわけだ。日本やオーストラリアやヨーロッパのようにすでに環境対策に取り組んでいる国は、発言の重さが足りない。

 しかし今までの国際会議はパワーゲームだったが、環境会議だけは、どこかの国が一人勝ちとかできるテーマではなく、一蓮托生なのだから、この場所でこそ世界秩序を、という話だ。そこでネックになるのは、もちろん世界の南北格差や、貧富の差であり、各国間の格差の是正と公正な分配がないとそれはあり得ない、しかし、それを実現するには、各国の内部における格差の是正と連動しなければならない。「豊かな国」ほど、格差が広がっている。また、アメリカや中国でも、政府の都合とは別に、民間レベルで環境意識や弱者救済の分配ソシアルが盛り上がっているし、先ごろのコチャバンバ(ボリヴィア)での国際ソシアル・フォーラムでの「国際環境法廷」をつくろう決議のように、政府レベルやリーダーレベルでない国際共闘も高まりつつある。

 「フランスやヨーロッパ中心主義ではないか」という発言に、「ヨーロッパは地球をこういう形で搾取してきた歴史的責任があるから、同じ意識を新興国に課すことはできない」とちゃんと答えていた人がいたのも好感が持てた。


 最初に世界の貧困対策を訴えた国連の人は、「ここで décideurs にメッセージを伝えられるのは嬉しい」と熱弁した。

 ということは、ここに参加しているのは、やはり、(私をのぞいて)政策決定力のあるリーダーたちなのか、と、先ごろ書いた『脱陰謀論』のせいで、好奇心が湧く。元財務大臣のゲマール議員も発表したが、この人の名を聞くと、「あの子沢山でパリの真ん中にトレーニングルームつきの広大な官舎をあてがわれたスキャンダルで失脚した人だなあ」と思ってしまう。

 実際、何度も何度も、gouvernance mondiale  という言葉が連発される。陰謀論のせいで、何だか、色目で見てしまう。黒人の作家が、「さっきから gouvernance mondialeが充分でないという話があるが、ということは少なくともgouvernance mondiale がすでに存在するということですね」と、陰謀論者チックなことを言った。

 EUの関係者は、「いや、その胚芽のようなものはある、国連だってその一つだ、しかし、各国のローカルな事情と国際会議のタイミングは合うとは限らず、国連も世界政策の触媒となる代わりにただの公証人となっている。国際会議は協力coopérationの場ではなく調整 coordinationの場でしかないのが現実だ。」とこたえていた。

 食糧問題で、先進国で食糧の四割が捨てられる無駄と、途上国で倉庫や道路や加工場所の欠如のためにやはり生産された食糧の半分以上が打ち捨てられることがある無駄について、二つを混同するなという議論、ブラックアフリカでは、灌漑も肥料も欠如しているので真の農業大臣は太陽だ、という話、それから、この種の話で必ず出てくる、こうしている間にも6秒に一人の子供が貧困のために死んでいるという話・・・

 私は、環境原理主義とか環境ビジネス、環境の政治利用などが嫌いだし、絶望感や罪悪感をかき立てる言説も嫌いなのだが、同じことでも誰がどこでどのように言うかということで、全く変ってくるのを痛感した。

 マラウェイの例のように4年で飢餓から農産輸出にまでラディカルに変わった成功例もあるらしく、強くて大きい立場の者が弱くて小さい立場の者の尊厳を保証しながらサポートする限り、2050年に90億人に達する人類を養うために食糧の70%増産(無駄を解消することも含めて)は決して不可能ではないらしい。

 ル・ロワ・ラデュリーなんかは、フランスが21世紀に入って温暖化してることを保証して、そのおかげでワインの出来がきわめていい年が多かった、と締めくくった。とぼけていい味の人だ。

 この会議録はそのうちに少なくとも一部はネット上で公開されると思うが、早起きして出かけていった価値はあった。
 トップダウンの世界秩序なんて所詮不可能だが、草の根のボトムアップにも、高い視座が必ず必要だ。陰謀論や終末論に凝っている人たちにも、たまには、良心的な国際会議で語られていることをきっちり聞いてもらいたいものだ。
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# by mariastella | 2010-05-05 23:58 | 陰謀論と終末論

近況

 これを書いてるのはフランス時間でまだ4月30日。連載の締め切りもクリアしたし、『無神論』の見本が思いがけなく早く届いて、嬉しい。

 5月は生徒たちが戻ってくる。
 聖人論の校正と脱陰謀論の校正、夏休みに向けて連載の書きため、20日に室内楽の発表会、6月初めの踊り付きコンサートの準備、そして、秋の日本でのコンサートの時に出したい音楽本の執筆。

 その前に、頭を無神論や陰謀論から切り替えるために、数冊の本を読み返す必要がある。どうせ参考文献として出すのでここに挙げておく。

 英語ものが2冊

1.Daniel Levitin
  This is your brain on music Dutton)

2.Charles Dill
 Monstrous Opera -Rameau and the Tragic Tradition (Prinston)

3.Ivan Wyschenegradsky
  Une philosophie dialectique de l'art musical

4.H-C Fantapié
  Restituer une oeuvre musicale - de l'oeuvre imaginée à l'oeuvre partagée

5.Ana Stefanovic
  La musique comme métaphore - La relation de la musique et du texte dans l'opéra baroque français:de Lully à Rameau

6.Jocelyne Kiss
 Composition musicale et sciences cognitives- Tendances et perspectives

7.Chrystel Marchand
 Pour une didactique de l'art musical

8.Jean-Luc Leroy
  Vers une épistémologie des savoirs musicaux

フランス語のものはすべて、 
  L'Harmattan が出版社である。
  4番目の著者は私のトリオと長い間攻防戦を続けてきた問題ありの人なので、買うのはすごく抵抗があったのだが、買ってしまった。

 このうちちゃんとノートをとって読んだのは最後の本だけで、後は、コメントを直接本に書き込んであるだけ。最後の本ではアートにおけるコンセプチュエルとは何かがよく分かったので、カトリックのドグマについてのエッセイですでに応用したことがある。(『カトリック生活5月号』)

 他にもうすっかり非言語領域に溜めこんで熟成しているタネがあるので、それにこれらの本からインスパイアされたものを投げ込んで…なんとなくイメージはあるのだけれど、日本語として出してくるのに2週間くらいはかかりそうだ。イメージはこういうの。

http://spinou.exblog.jp/13872300/

 これを書いてた時はかなりクリアになってたのに、その後無神論の校正をして脱陰謀論を書いてるうちに非言語領域に抑圧しちゃったので活性化しない。

 来週はやはり、IRIS会議

http://spinou.exblog.jp/14196878/

 が気になるので、参加申し込みをしてきた。脱陰謀論を書いたところなのでなんだかビルダーバーグ会議にでも顔出すような気分になる。

だとすると、来週はバロック・バレーも再開するから週三度もメトロを乗り継いで外出ということになって、ほんとに本を読む元気なんてあるんだろうか。エネルギーの絶対量がもともと乏しいのにこの頃とみに疲れやすくて足らないからなあ。

 でも、仮に今ぽっかりと一週間あいたとしても、別に元気は出ないと思うから、やることがあるだけまだましかもしれない。トリノに行って聖骸布の公開を見たかったのに、なんか今はすべて脳内でシミュレートして、これでいいや、って思っている。
 


 
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# by mariastella | 2010-05-01 06:17 | 音楽

ブラック・ホール

 TVの科学番組に招かれた天文学者が、

 「ブラックホールについてどう思われますか?」

 と質問されて、すごくまじめに、

 「ブラックホールは・・・なかなかやっかいです」

 と答えたんだそうだ。

 フランス語だと

 「Qu'en pensez vous du trou noir?」

 「Le trou noir...c'est troublant.」

 だ。すなわち、

 「ブラック・ホールって・・・ホワイト・ホール」

 となる。 ダジャレにしても面白すぎ。
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# by mariastella | 2010-05-01 01:56 | フランス語

adorer

 白水社の『ふらんす』という雑誌に連載しているので、送ってもらった雑誌をぱらぱらとながめていたら、『マノン・レスコー』を使っての対訳講義というか仏文和訳の練習みたいな連載があった。

 そこで、魔性の女マノンから愛の言葉をかけられた主人公が、感激して夢中になって、

 「tu es trop adorable pour une créature.」と言うシーンがある。

 その訳が

 「君は被造物にしてはどんなに崇めても崇めたりないほどだ。」

 だって。気持ちは分かるんだけど。

 あまり日本語のフランス語本はじっくり見ないようにしているんだが、これは・・・・
 語感の差にも笑えるが、別の問題もありそうだ。

  フランス語のadorerという動詞は本来は神を崇める時にだけ使われる。

 それが、今は、aimer とたいして変わらず頻繁に使われる。もともと英語のように like と love の区別もしないから、「アイスクリーム大好き!」というのだって、動詞の上では、愛したり崇拝したりというさわぎになる。

 まあ、今でもカトリックのギョーカイ内なんかでは、adorer(崇拝する) はきっちりと父と子なる神に対してだけで、聖母や聖人と言えども、vénérer(崇敬する)という動詞を使わなくてはならない。

 高貴な言葉ほど転落してしまうのはどこでもいっしょで、アイスクリームを「崇敬する」って言ったらそれこそ新種の偶像崇拝だが、アイスクリームを「崇拝する」のは、幼稚園の子たちでも連発する。

 でも、ふた昔くらい前までは、公教要理なんかで、adorer は神さま専用ってことが子供たちに言い聞かされてたから、よくある表現に、

 「On n’adore que le bon Dieu!」

 というのがあった。

 子供たちが「J’adore なんとか」(なんとか大好き)と言う度に、お母さんやおばあちゃんが、

 「Adorer(崇拝するの)は神さまだけですよ」

 と注意していたのだ。

 「On n’adore que le bon Dieu!」

 というのは、だから、なじみの決まり文句だったわけだ。

 で、もと聖職者になろうかと思っていた『マノン・レスコー』の語り手は、マノンに強烈に入れあげているのに、神学の縛りが強いものだから、わざわざ「恋の言葉と神学の言葉とを世俗的なまぜこぜにして」、

 「tu es trop adorable pour une créature.」

 などと持って回った言い方をした。

 この時代でも恋人たちは何のためらいもなく

 「Je t’adooooooore!!!」

 と言い合ってたんだろう。

 だからここは語感としては、

 「ああ、君は僕の(女)神だ!!」

 っていうのが一番近い。つまり、マノンは崇拝に値しすぎるから被造物じゃなくてすでに神の域にある、と持ちあげているのだ。

 まあ、今も、adorer に比べると、adorable
の方が、規制が弱い気がする。adorable は単にすてき、かわいい、すばらしいという感じだ。アイスクリームのようなモノやコトにじゃなく、ヒトに対してよく使われる。adorer の方が何でもOKで、濫発されるが、子供や若者があまりにしばしば何にでも「J’adore!!」と言っているのを聞くと、おばさんたちは心の中でつい、

 「On n’adore que le bon Dieu!」

 とつっこみを入れたくなるのである。
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# by mariastella | 2010-04-29 02:02 | フランス語

Mignon

まだ春休み中。数日前、ようやく『脱陰謀論』(仮題)を仕上げたので気分も春。『無神論』も完成したそうで、うちに届くのは連休明けとか。楽しみ。

 春休みの最初の日曜日、突然思い立ってOpéra Comique に Ambroise Thomas の Mignon を見に行った。 オペラ・コミックとオペラの違いは、前者はすべての台詞が歌われるのではなく語りのシーンがあることだそうだから、ミュージカルに近いかも。

 私はミニオーケストラで年に1、2度、オペレットの序曲を弾いている。どれもみなよく似ていて、転調やリズムの変化とか、構成が共通しているし、「どことなく懐かしいメロディー」ばかり出て来る。「存在のあまりの軽さ」という感じで非常に心地よいものばかり。
 薄っぺらで中身がないようなのに、押しが強い。何曲も弾いているうちに、すっかり癖になる。

 私のやっているバロックとは対極の、19世紀の化身みたいな音楽なのに。なんだかその秘密を探りたくて、パリのオペラコミックの中で最高の人気を博していたアンブロワーズ・トマのこれまた超人気オペレット『ミニョン』を聴きたくなったのだ。

 私のオペレット鑑賞体験はオッフェンバックの『パリの夜』や『オルフェ』などの数曲しかない。

 『ミニョン』といえば、歌曲よりも、ゲーテの原作の方が記憶にある。大学でドイツ語クラスにいたので、ドイツ科で『ウィルヘルム・マイスター』を読んだのだ。教授は辻ヒカル(変換できない)さんだった。学生は多くても3、4人で、フランス科が女子学生もいて華やかなのとは対照的で私が一人だったので、みんなにやさしくしてもらえたのを覚えている。
 で、「君よ知るや、南の国・・・」。

 それくらいこのオペラに関する予備知識なしで見に行ったら、かなり予想と違っていた。19世紀的にセンチメンタルでナイーヴなばかりかと思っていたら、オーケストラ譜も難しそうだし、歌の方も、イタリア・オペラばりのテクニカルなものだった。ハープは素晴らしいし、音楽は全体に感傷的すぎないし、むしろアカデミックである。きっちりとフランス的だし、ガボットなどのダンス曲もちゃんと入っている。トマがマスネーなどの教師だったのもよく分かる。

 なんだかモーツァルトとバロックオペラとオペレッタとヴェルディなんかが全部アマルガムされているようなハイブリッドな代物でもある。異国趣味、イタリア、ゲーテ、シェイクスピア(劇中劇が『真夏の夜の夢』に設定されているのも楽しい)、火災シーン(この上演中にオペラコミックは実際に全焼したことがある)、男装の少女、女性歌手が男装で演じる貴族、記憶を失ったさすらいの老人、実は別れ別れになっていた貴族の父と娘、メロドラマティックな筋書き、なかなか濃い。

 フランス・バロックオペラとの共通点は、一時熱狂的な人気を誇っていたのに、「忘れ去られた」ということだ。

 興味深いのは、指揮者が客席に向かいあってることで、逆にオーケストラ奏者たちは舞台の進行をよく感じることができる。指揮者の向きというのは18世紀頃から試行錯誤があって、なんだかカトリックのミサにおいて司祭が信者に向かうか背を向けるかという推移を連想する。

 オペラの時には、指揮者もオーケストラも、全員が舞台を向いていた時代や場所もあった。今回の指揮はフランソワ=グザヴィエ・ロトで、時々舞台の方をを振り向いていたが、指揮棒も使わないし、楽しそうで、「踊る舞台装置」みたいだった。彼の姿はビデオで映されて、別のところにいるコーラスも、ちゃんと合わせられるようになっているのだ。指揮者の表情を最初から最後まで見るのは初めてなので、とても新鮮だった。

 
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# by mariastella | 2010-04-29 00:49 | 音楽

オンフレイがフロイトにかみついた

 Michel Onfray の宗教攻撃無神論本は、気持ちは分かるがブリミィティヴだなあと日ごろ思っていた。獲物を追う狩人みたいな人だが、狩りの季節も狩場も道具もかみあってないよ、という感じだった。

 そのオンフレイが今度は同じく無神論仲間のフロイト大先生を「裸の王様」だと噛みついた。フロイトは自分でも精神分析学は科学でなくて冒険家だと言っていたそうだ。

 フロイトの生い立ちがまたすさまじく、その自分の生い立ちを基に世界観を築いたので、最初に理論ありき、後は、こじつけに継ぐこじつけで、まるで、陰謀論世界観構築の構造と似ている。

 これほど「あやしい」のはかなり分かっているのに、ツールとして使いまわしができるせいか、何よりも、高価な「治療」が産業として成り立っているからか、ユングなど別の方向に流れたりして境界が曖昧になって、周辺部では水増し正常化とプラグマティックな方法論とニューエイジ系オカルトに吸収された部分とが混在してるからか、いまさら、「教祖」フロイトをわざわざあげつらって嘲う人はいない。オンフレイくらいだろうな。読めば楽しめるかもしれない。後はカントの性生活のJean-Baptiste Botul くらいかも。
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# by mariastella | 2010-04-18 20:01 | 雑感

IRIS 会議

 今年のIRIS(institut de relations internationales et stratégiques )の定例会議(Conférences stratégiques annuelles)の案内を受け取った。

 「持続可能な成長は地政学の新しい策となるか」というのがテーマで、政府関係者、国連関係者、政治学院やビジネススクールやEU関係者、各種の研究所代表とかが公開でディスカッションするのだが、「気候変動は国際関係の新しいパラディグムか?」というグループのところに、
Le Roy Ladurie の名が入っていたので驚いた。

 モンタイユーの研究などで有名な精神史家で、この人の本はずいぶん読んだ。

 彼がこの文脈で何を話すのか非常に興味をそそられる。行ってみようかな。
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# by mariastella | 2010-04-18 19:38 | 雑感

ポーランド

 カチンスキー兄弟は、政治的に結構批判されてたのに、今のポーランドは異様に盛り上がっている。JP2の逝去以来の盛り上がりかも。これに懐疑的な人もいる。
 
 事故機のボイス・レコーダーによると、無理な操縦を強要したのは大統領自身だという話もあるし、そうなると、他の人たちこそが犠牲者だとも言える。

 ユダヤ人、アルメニア人、ポーランド人たちに特有の、「悲劇の主人公アイデンティティ」「敗北における英雄主義」を語る人もいる。こういう「悲劇」が、宗教色を帯びて無批判的な「挙国一致」を生むとしたら、あちこちで政治が宗教を利用したくなるのも無理はない。

 イスラエルのように、反動で超タカ派軍事国になるケースもあるし。

 悲劇の中でこそ、知性と穏便さが求められる。

 スペンサーが

 「人間は、容易な時は、高潔ではありえないのだ。困難な時に、はじめて高潔でありえるのだ」(パーカー『約束の地』)

 と言ってた。暴力は名誉を維持することのできる分野だとも。

 暴力で維持する名誉って…

 名誉って、多分、「他人の名誉を尊重する」という文脈で活躍すべきだ。「自分の名誉」っていうのは、かなり自制してケアしなきゃ。
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# by mariastella | 2010-04-16 22:15 | つぶやき

神の存在理由

 『無神論』がようやく校了したとのお知らせをいただいた。今は『陰謀論』執筆真っ最中。

 「神の存在証明」というのは私の手に負えないが、「神の存在理由」というのは思いつく。
 「困った時に頼める先」というんじゃなくて、極限科学について読んでいて思いついた。推論と観測により裏付けられる極限の「認識量」とは、「到達量」ではない。しかし「存在」が分かった以上それを求めて旅を続けるのが人間の宿命だそうだ。(@伊達宗行さん)

 神が存在するのは人が旅する宿命、かも。
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# by mariastella | 2010-04-16 21:52 | つぶやき

Wim Delvoye

 ベルギー人アーティストのWim Delvoye。

 この人の豚の刺青を見てると居心地が悪い。北京郊外の農場の三歳の豚を全身麻酔でレーザー刺青して、自然死を待って剥製にして展示するというのだから、化粧品の開発の実験に使われる豚や、生きたまま殺される食用豚よりも残酷な運命というのではないのだが。

 また、ダミアン・ハーストのように動物の遺体そのものをアートに構成するのと違って、生きながらアートの「場」に仕立て上げるのだから、抵抗は少なくてもいいのだが。

 このWim Delvoye(これで検索したらいろいろな作品が見れる)だが、日本語だとデルヴォワではなくてデルヴォイとなっていた。そして「笑いをとるのがねらいの折衷アート」という解説もあって驚いた。

 豚の刺青って笑えるのか?

 十字架をらせん状につないだDNAとか、ゴシック聖堂を模したトラクターとかは美しいと思う。

 デルヴォワに豚とおそろいの刺青を入れてもらったスイス人の背中の皮を「終身年金」払いで「購入」した若いドイツ人のコレクターがいるらしい。金を払い続け、スイス人が死んだ後で皮を遺贈される。まさか剥製にはしないだろうな。いやプラスティネーションの国だからあり得るかも。背中に傷つくような事故で死ぬとか年とって劣化したらどうするんだろう。写真を見ると、そのスイス人も若そうだ。

 この手のアートにはたいてい倒錯というより挑発という言葉が似合うのだが、デルヴォワの作品には、「聖なるもの」のアバターがあり、複雑な気分にさせられる。
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# by mariastella | 2010-04-13 19:29 | アート

月を盗んだ子供たち

 前に「信じられない」「あり得ない」とあきれまくった記事をどこかに書いたが、ポーランドの一卵性双子政権が、これまた驚くべき形で終焉した。弟、これから、大統領になるのか?

 今度の事故で初めて知ったが、この2人は13歳の時に『月を盗んだ子供たち』というドラマ(映画?)で共演して、国民的人気を得ていたそうだ。

 そうか、同じ姿のおじさんがふたり突然、権力の座についたわけではなかったのか。「二人でひと組」というのが少年時代から認知されていたんだなあ。そういえば童顔だから、面影もあったんだろう。合掌。

 世の中には、権力者の政敵に事故で死んでほしいと望んでいる輩もいるだろう。めったにそんなことは起こらないが、今回起ったのは、政敵にチャンスが転がり込んでくるようなシチュエーションじゃなくて、姿かたちまで同じのスペアがあるという特殊なケースだ。運命とは皮肉だ。亡くなったのもロシア領内だし。

 カチンスキーのお兄さん、今頃、ほんとに月を奪っているかも。
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# by mariastella | 2010-04-13 17:59 | 雑感

陰謀論について

 7月21日の東京での講義のお知らせです。

http://www.parc-jp.org/freeschool/2010/kouza/kouza_11.html

 私は一日だけですが、おもしろそうなラインアップだなあと思います。

 「オルタナティブな市民の学校」ってことで、エコロジーやニューエイジっぽいテーマもちらほら。この「オルタナィヴ」というのは、大切な概念なんですが、今や、「神」と同じくらい偶像化したりツール化したりしてるので、関わり合い方はなかなか難しいです。

 相対主義と全体主義は薄紙でしか隔てられてないという気もします。

 私はこの別の講座で取り上げられているチベット医学ともなじみがあるし、痛いところがあると伝統医療を試したり薬局のカウンターで「一週間で痛みが軽減」と大書されてる薬の宣伝を見かけるとつい「ダメ元」と買ってしまったりします。まっとうな懐疑心と行動が合ってない。他のすべての人にとって毒でも偽薬でも、今ここで私の痛みが消失すれば世界はなくなってもいい。怖い心理です。

 「今ここで」治るとか、「いつかどこかで」を期待するとか、「あの時あそこで」を後悔したり懐かしんだりするのは、ナンセンスで、人生は偶発の連鎖なんだけれど、それでも、周りの人と「その時、そこで」を共有して同じ方向に歩こうとするのがほんとうの生きる力かなあ、と思います。素粒子はばらばらですかすかなんだから方向がそろわないと、存在しないのと変わらない。

 オルタナティヴというのが「その時」や「そこ」へのいざないであればじっくり見てみたいですね。
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# by mariastella | 2010-04-11 19:23 | お知らせ

エッベル塔

 今朝のラジオで、おもしろいことを聞いた。個別には知ってたのに関連付けたことはなかった。

 アラビア語にはPの発音がないから、アラビア語でしか育っていないアラブ人は「パレスティナ」って発音できないんだそうだ。(語源はぺリシテ人だとかだろう)

 音声学的に破裂音PはBに置き換えられやすい。そしてPとFも互換性がある。で、パリ(バリ?)でエッフェル塔に寄るパレスティナ人が、「ちょっとエッベル塔に)と言った。
 Fはそのまま発音可能なのに、Fをわざわざ脳内でまずPに変換してそれがBというなまりになって出てきたわけだ。

 Hの音が聞こえないフランス人が日本語の書きとりの時間に、

 「あしたのあさ、おかあさんが」

 と言うのを完璧に聞いているのに、わざわざ気をきかせて

 「はしたのはさ、ほかあさんが」

 と書きとったり無理に発音したりすることがあるのと同じだなあ。
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# by mariastella | 2010-04-11 18:52 | つぶやき

  鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター教授/神道ソングライター)さんのお言葉。

 「心は嘘をつくが、体は嘘をつかない。そして、魂は嘘をつけない」、それがわたしのこころとからだとたましいの定義である。」

 心身が元気な時はその通りだと感動する言葉だが、あちこち不調がある時は、心も体も魂も正直だとはとても思えない。少なくとも私の心と体と魂はね。どうもやつらは共謀してドタバタ劇を上演してる気がする。

 嘘つきたち。

 でも、嘘つきの国では、ちょっとした本音が光ることもある。正直者の国で嘘がなかなか見抜けないのと対照的だ。
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# by mariastella | 2010-04-11 18:25 | つぶやき

ロシアの天然ガスとユダヤ女性のカツラ

 今日、プライヴェートのパーティで、トルコ人の生化学者と話しこんだ。副業(?)に地政学のジャーナリストもしているということで面白い話が聞けた。うちで検索したら、軍事コンサルタントという肩書もある人だった。

 ロシアって、中央アジアから安い天然ガスを輸入して使い、自分のところで生産する天然ガスをその五倍の値でヨーロッパに売りつけてそれが国の総生産高の四分の一を占めているそうだ。

 私がトルコのライシテと女子学生のヘアウィッグ(髪は見せてはいけないが、イスラムスカーフも禁止なのでカツラをかぶる)の話をふると、それは一部のユダヤ人女性の間でもよく知られた現象なのだそうだ。自毛を見せてはいけないがカツラOKって完全にどこかおかしいのに、内部にいたらそれが分かんないというのは、他人事とは思えない。

 女性の髪について、隠さなければいけないようなものを神が創るはずがない、と彼は言った。

 私は無神論の話をして、陰謀論は無神論の一形態という説を披露した。

 ユニヴァーサリズム擁護のために共闘しようというところで話が一致した。

 EUとトルコとの関係についていろいろ偏見を抱いていたが、少し見方が変わった。生身の人間の力って大きい。
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# by mariastella | 2010-04-05 07:48 | 雑感

ちょっとつぶやく

 Twitterとか利用する趣味は毛頭ないのだが、今、諸事情で時間が取れないので、時々覚書にここでつぶやくことにした。気になってることをおなかにためとくと健康に悪そうだから。

 ラブクラフトはマルファン症候群じゃなかったか。

 だからどうしたと言われればどうもしないが。
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# by mariastella | 2010-04-01 23:11 | つぶやき

ハートブレーカーL'Arnacoeur (パスカル・ショメイユ)

Pascal ChaumeilのL'Arnacoeur というロマンティック・コメディを観た。
先週のコメディがいまいちだったから。

 Romain Duris, Vanessa Paradis, Julie Ferrier, François Damiens

という配役が、ハリウッドのロマンティック・コメディには絶対あり得ないようなタイプなので、親近感がある。

なんで近頃フレンチ・コメディを見たいかというと、目的は、言葉のニュアンスが隅々まで分かる状況で笑いたい、というのに尽きる。時事ネタとかでも笑えるのはあるが、棘があると後をひくし、いろいろ考えたくない。これが日本にいる時ならまよわず寄席に行っているケースだ。

そういう目的なら、この映画は先週の家族モノより笑えた。カップルを別れさせるためのプロ・チームの話で、アシスタントは主人公の姉さん夫婦という設定で、この二人が常軌を逸しているのに妙にあたたかくてほっとさせられる。

このチームは、愛し合っているカップルは壊さない、カップルを壊しても心は壊さない、という原則だったのが、金に困り、難しいケースに手を出して、自分の心が壊れてしまう。

日本で、やはり金をもらってカップルをつぶすという別れさせ屋みたいな商売の人がいるというノンフィクションの記事を読んだことがあるが、それは、要するに、誘惑する、浮気させる、という方法だった。

この映画のチームは、相手の情報を調べつくして、ハイテクやエキストラも駆使した大がかりなもので、誘惑したりもしない。カップルをなしているもののすでに懐疑にとらわれている人を、カップルから解放するひと押しをするとか、ほんとうに求めているものが何なのかを気づかせると言った、なかなか高度な(?)話なのだ。

モナコ周辺が舞台で、同じ場所が舞台の他のコメディの記憶もかぶり、なかなか楽しい。アメリカ映画にありがちな直線的な盛り上げという分かりやすい迎合がない分、疲れなくて済む。一応メモ。
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# by mariastella | 2010-03-21 20:32 | 映画

Pièce montée

 先日観た『シャッター・アイランド』があまりにも期待はずれだったんで、全然違うタイプのフレンチ・コメディで気分を変えてみようと思ってDenys Granier-deferreの『Pièce montée』を観た。

 Julie Gayet, Charlotte de Turckheim, Clémence Poesy, Jérémie Renier, Jean-Pierre Marielle, Danielle Darrieux, Christophe Alévêque, Léa Drucker, Julie Depardieu, Hélène Fillières などのうまい俳優がたくさんそろっているので、見ている間は飽きない。群像処理もまあうまい。 

 半世紀も離れていた恋人同士が孫娘の結婚式で司祭と祖母という立場で再開するという話は、すごくステレオタイプなのに、年老いた元恋人同士のくさいセリフをここまで感動的に見せるのは、芸の力なのだなあ、と、ダニエル・ダリューが単にある世代のマドンナを超えて名女優なのだと感心した。

 花婿役のJérémie Renierは、ダルデンヌ兄弟の『L’Enfant』で赤ん坊を売ったりする若い父親役が印象的だったベルギーの男優で、これも、うまいと思った。

 ジュリー・ドゥパルデューとエレーヌ・フィリエールの最後のダンスシーンは、こちらのゲイ雑誌『テチュ』に、このシーンを観るだけでもこの映画に行く価値あり、と書かれていたが、あまり私の琴線に触れなかった。ジュリー・ドゥパルデューがあまりにもエキセントリックで女っぽいからかも。

 この種の女性二人のダンスのからみシーンではやはり、もう古いがベルトリッチの『暗殺の森』のステファニア・サンドレッリとドミニク・サンダの伝説的シーンとつい比べてしまう。
 レズのカップルは私の周りに何組かいるが、両方ともがアンドロギュノスっぽくて、いわば「宝塚の男役」が二人いるようなカップルが一番好みだ。
 「宝塚の男役」二人が女装しているみたい、というのはもっといいなあ。ドミニク・サンダたちってそんな雰囲気だった。

 ダニエル・ダリュー演じる祖母が、結婚した孫娘に、「時々姿を消しなさい、そうしていつも求められるようにするのよ」とアドヴァイスするのも面白かった。彼女は何しろ50年も恋人の手の届かないところにいたことで、ずっと過去の恋人から想われ続けていたと後で分かるので、なかなか説得力がある。

 全体としてヘテロセクシズムと偽善とを揶揄しているのがテーマでもあるのだが、とてもフランス的だ。
 結婚とか結婚式とか子育てとかいうシーンになると、フランスと日本はかなり意識の差が出てくると思う。フランスではブルジョワ階級の偽善者ぶりも半端でないが、その暴き方も伝統的に筋金入りだ。

 聖アガタ教会のアガタ像がショッキングで隠してしまう母親、式を手伝う子供のミスで聖別するための無酵母パンが全部床に落ちたこと、とか、おもしろいディティールもあった。ま、テレビ画面でも楽しめるタイプの映画なので、わざわざ出かけるほどのことはなかったかも。

 
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# by mariastella | 2010-03-15 00:52 | 映画

宗教と民主主義

 宗教に合議制というのは必要だが、民主主義、特に多数決というのは合わないんじゃないだろうか。

 インドの南に、日本の資金援助によってダライラマが再建した名刹ガンデン僧院がある。2008年の3月、そこを二つに区切る壁ができた。壁には窓も扉もない。

 私は、ダライラマに請われてそこの僧院長を6年勤めたことがある高僧と関係が深い。壁の両側に彼の弟子がいて、互いに憎みあっている。今年84歳になる彼の悲しみが大きいのを見ていると、心が痛むし、危険も感じる。

 ことの解説はこんな記事こんな記事が参考になると思う。

 
 簡単に言うと、、チベット仏教内部のあるシンボル(ドルジェ・シャグデン)の崇敬をめぐって、ダライラマがそれを禁止し、それを捨てない僧は各僧院から追放するという決定を下したことである。

 ダライラマは、宗教間の対話の立役者だし、イスラム教やキリスト教も尊重し、評価もするし、チベットの古宗教であるボン教にすら寛容だ。その彼が、なぜ、内部の分派争いで不寛容になるのかと攻撃されているわけだが、彼の発言から推察すると、内部争いがある場合、たとえば70%が賛成すればそっちを選択する、というような原則に従うという方針のためらしい。

 ダライラマは、もし、ある日、チベットに戻ることがあっても自分は一人の僧として戻りたいというような趣旨のことを言っている。チベット亡命政府にも「民主主義」体制を敷いている。

 彼は、中国共産党からさんざん「封建主義」の独裁シンボルとして非難されてきた。実際は、ごく若くして、政治的な動乱の渦中に入り、責任感の重圧の中で、生き延びて、チベット文化や仏教の平和主義を世界に知らしめることができたのだから、その功績は大きい。

 苦難の中で、仏教の基本を守ることと共に、他宗教や他文化との連帯も目指して、リベラルになり、非常に近代的な世界観も体現しているように思われる。その中で、過去のチベットの単一宗教による社会の支配の体制を見直し、「民主主義」に行き着いたのかもしれない。

 で、たどりついたのが、対外的には尊重と寛容、内部的には民主主義(=多数決)だったとしたら、それが今回の混乱を招いているのではないだろうか。民主主義の理念にはマイノリティの尊重もあるはずだし、宗教のことでは、たとえ、99%が賛成しても、それが自分の掲げる大義に反しているなら採択しない、という判断もあるはずである。
 
 今回のことで「迫害」されている側は、彼のことを偽善者だと非難もするが、私はそう思わない。むしろ彼は自分に課した「民主的原則」の犠牲者かもしれない。確実にいえるのは、今二分された壁の両側では、互いへの憎悪が高まっていて、それは、チベット人たちにも彼らの宗教にとってもマイナスだということだろう。

 「ダライラマが宗教の自由を認めない」と言って、中国政府に訴えるチベット僧すらいて、あの共産党政府が、「宗教の自由」の側に与する戦略をとって介入するなど、何だか、とんでもない状況になっている。

 宗教共同体が半世紀以上も亡命や離散を余儀なくされていると、当然いろいろな部分で緊張、齟齬、誤解、劣化、破綻も起きるだろう。これは、とても人間的な危機なのだ。

 神託によって導かれて子供の時に認定されて選ばれるダライラマが、多数決路線を採用して批判されたり、多数決で「民主的」に選ばれるローマ法王が、自分の信念を曲げないことで批判されたり、皮肉なものでもある。
 ただし、今のチベットのように非常に政治的な局面では、パンチェンラマの問題でも明らかなように、今のダライラマが亡き後に、次のダライラマが誰にどのように選ばれて利用されるかどうか、混乱は目に見えている。そして、そのシステムを続ける限り、必ず一人の「子供」が政治と権力と宗教の道具にされるわけで、それを考えると、民主主義への移行というダライラマの気持ちは分る。一人の子供の「人権」を考える時、自らも幼くして選択の余地なく今の地位に着かされたダライラマの決意には、やはり、重いものがある。
 
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# by mariastella | 2010-03-12 21:07 | 宗教

眠れる森の美女

 春の学期が始まった。

 月曜はバロック・バレーと室内楽。

 バロック・バレーはリュリーのAlcideのメニュエット。室内楽はグノーの弦楽四重奏の最終楽章。
 火曜はトリオの練習と、バロック・ダンサーとの資料づくり。

 私たちは今、私のバレー仲間のエマニュエルといっしょに、『眠れる森の美女』のミュージカルを用意している。語りと音楽と踊り。音楽は私たちのミオンが中心。オーロラ姫の両親の世代の舞踏会の時はルネサンス曲を使う予定。私たちは16年前にミオンを発掘、編曲し始めるまではけっこうルネサンス曲も弾いていたのでストックがある。

 エマニュエルが国立音楽院でやったデモンストレーションをはりつけておこう。


http://www.youtube.com/watch?v=L2e2Nwkx4eI


 ここで使っているのはリュリーの曲だ。エマニュエルと踊っているのはカロリーヌで、彼女には、2007年に私たちのトリオと踊ってもらった。『王は踊る』(これにエマニュエルが出ていた。)を観てバロックに憧れてコンテンポラリーからバロックに来た時のカロリーヌは当時七区のコンセルヴァトワールでセシリアの上級クラスにいた私を「先輩」と意識していたのでおかしかった。コンテンポラリーから来たダンサーってどことなくアスリートの感じがする。筋肉の付き方とか。

 これから私たちと組むのはエマニュエルと、もう一人別のダンサーで、彼女はクリスティーヌのクラスでバロックを始めたもとクラシックダンサー。大柄で迫力がある。

 このプログラムは、子供たちにも楽しんでもらうようにできている。ヴェルサイユから映像資料を出すように言われているので昨日それを用意したのだ。ヴェルサイユで演るならリュリーを少し入れた方がいいかも。ただし、使いたいリュリーの曲は、五声部なので、私は中声部を二声同時に弾かなくてはならない。純粋にテクニック的には結構準備が必要だ。
 来年のモンサンミシェルのフェスティバルでも可能性がありそうで、家族連れの観客と接するのはなんだか楽しい。

 私たちは2003年に日本で公演した時、『聖家族の家』という養護施設で演奏した。私たちを歓迎してくれるために女の子数人が日本舞踊を披露してくれた。完成度が高くて、かわいくて、涙が出た。
 私たちを紹介した先生は、「ギターと言ってもいつも僕が弾いてるようなやつじゃないんだよ、宮廷で王様のために弾いていたものだから静かに傾聴するように」と子供たち(3歳から18歳)に注意していたが、私は前夜必死に考えたシナリオをもとに、効果音を入れた話を用意していた。それはもちろん日本語だから、しかるべき所でしかるべき音を出してもらえるように、養護施設に向かう車の中で、フランス人の仲間たちに説明した。しかも始まりは、自動演奏人形を模したスケッチで、三人で一台の楽器を弾く構成になっていた。子供たちは笑ってくれた。

 その自動人形スケッチは、1995年にエール・フランスが阪神大震災の被災児童をパリに招待した時にインタコンチネンタルホテルでいろいろボランティアが集まってコンサートをした時に考えたものだ。あの時に、無償で、自分たちのレッスンや仕事を休んでまでかけつけてくれたのはトリオの仲間と、古い友人のルイ・ロートレックだった。この時の演奏は録画されて被災地の避難所に配布されたというから、どこかで誰かの目に触れたかもしれない。

 『眠れる森の美女』のプランを練ってると、子供たちの笑い声を思い出す。

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# by mariastella | 2010-03-10 19:26 | 踊り



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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