L'art de croire             竹下節子ブログ

幼児は右翼か左翼か?

社会党系のリベラシオン紙の中にある「プチ・リベ」というおそらく中高生を対象にしたページが時々ある。その15回目(2016/11/5-6)のテーマは「政治における左と右」というものだった。

もともと右翼、左翼という言葉自体が、フランス革命後の国民議会に由来する言葉で、その歴史や、15歳の少女の政治観、「左」と「右」の考えたの違いなどが紹介されているが、その中に『幼児は「左」か「右」か?』という記事があった。
ここでは「右」とは既成の権威に服する保守、左とは被支配者側につく、というくらいの意味だ。

で、結論は、3、4歳では「右」、
5歳はばらばら、
8歳は「左」、

と、はっきり傾向が変わるそうだ。

三つの国立大学とCNRS(国立科学研究機関)が共同で行った「子供における政治観の誕生」という研究でヒエラルキーに対する感受性を扱ったもの。

やり方は、まず、キャラメルという名の猫とノワゼットという名のネズミのマリオネットが遊んでいるシーンを子供たちに見せる。

その寸劇の中で、何かを決めるのは必ず猫の方で、ネズミはそれに従う。
猫がリーダーだということが明らかに分かる。

それを見た後で、子供たちは大小二つのチョコレートをもらって、それを猫とネズミに渡すように言われる。

3、4歳の子供はみな、大きい方のチョコレートをリーダーである猫に渡す。

5歳の子供たちは、ばらばらだ。

8歳の子供たちは、大きい方のチョコレートを、決定権のないネズミに渡す。

3、4歳の子供たちは生活の多くのシーンで両親による決定に従っている。だから猫の権威を認める。

8歳になるとある程度の自立を獲得するので、弱い方のネズミに多くを与えることで、自分が助けを必要とするときにも与えてもらえるだろうという意識が働くのだそうだ。
猫に比べてネズミの権利が制限されているのを見て、大きいチョコレートを与えることでその「不公平」を「是正」してバランスを取ろうという感覚が働くという。

この結果から、3、4歳の子供たちは保守陣営の大人に似ているのではないかというのだ。

また、社会への見方、政治的志向は、自分の生活の環境や文脈によって変化するということでもある。

おもしろいといえばおもしろい。

フランス人は家庭でも盛んに政治の話をする。

8歳にもなれば親の政治的意見にも左右されるだろう。

逆に、8 歳の子供と政治の話をすることもあるし、その時には自分自身も責任を感じて慎重になる。

そういえば最近こんなことがあった。(続く)
[PR]
# by mariastella | 2016-11-29 02:17 | 雑感

フランス大統領予備選 その8

フランス共和党の大統領予備選は、予想通りフィヨンが大勝した。
全回のフィヨン票とサルコジ票を足した感じだ。

フィヨンの「公約」はかなり具体的なので、「後出し」に向かうル・ペン(FN)や社会党(PS)は戦略が立てやすい。
今朝のラジオではFN(国民戦線)が、フィヨンは国民皆保険の社会保障を事実上なくして、低所得者は医療が受け入れなくなる、と攻撃していた。

昨日の調査では初めて、来年の大統領選の第一回投票でもフィヨンがル・ペンを上回るという結果が出て、決選投票ではジュッペに勝ったのと同じ三分の二の得票、と出ている。
それでも2002年のシラクとFNの決選投票程の差は出ていない。
ポピュリズムが経済格差と比例して増大しているのは確実だ。

首相のヴァルスが出馬する気が満々で、ジュッペが敗れたことからバイルーら中道も出馬しそうだし、(ラマ・ヤデはすでに出馬表明)、フィヨンに対抗する陣営は票が割れそうだ。

それにしても、もう何十年も政治家をやっていて、首相も5年務めたフィヨンが、今になって反動カト(カトリック)呼ばわりをされて揶揄され続けるのを観察するのはおもしろい。
もう一世代前になりつつある「インテリ-左翼-無神論」の伝統がどっと蒸し返されて楽しいくらいだ。

レイモン・アロンは「フランス人は革命はできるが改革はできない」と言ったそうだが、実感がある。
朝のラジオで傑作だったのはフィヨンの勝利でミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』の中のヒット曲
「カテドラルの時代」が流されたことだ。

この曲のこの部分
で、「Il est venu le temps des cathédrales 」というフレーズがとても有名で、「カテドラルの時代がやってきた」とフィヨンが揶揄されているわけだ。
反動カトのフィヨンでは政教分離ももうおしまいだ、宗教行事に合わせて国家試験の受験をずらすことができるようになるかもしれない、とも批判されている。
まあ、ここ最近、イスラム原理主義を規制する度に、イスラムを名指ししないために他の宗教も同様に新たな規制を受けるようになったので、マジョリティであるカトリック側から「信仰の自由を保障せよ」という声が上がっているのは確かだ。

でも宗教の社会的スタンスはそれぞれの歴史的文脈があまりにも違うので、まとめて扱うのは恣意的に過ぎる。クリスマスの馬小屋(イエスの誕生シーン)設置は宗教だと批判されても、中国の新年の行事は文化としてもてはやされる。イスラムに対しては完全に政治的な判断だ。

まあ、今回の大統領選については、前回、DSKのスキャンダルで繰り上がった形のオランドが「反サルコジ」票を集めて当選したことに比べると、まだ冷静に議論されるだろうとは思うし、保守と革新(こういう区別の仕方はもはや成り立たないが)の政権交代があること自体は健全だとも思う。PSから距離をとったマクロンあたりが力を蓄えているようだが、まだまだ伸びしろがあるだろう。

ジュッペは最終演説で、環境やヨーロッパについてふれていたのはよかったが、人々が不満を持つ今の状況を「鎮静させるには、安心させなければならない、安心させるには強くなくてはならない。国を再武装して全雇用の経済を再建するために強くありたまえ(Pour apaiser, il faut rassurer, pour rassurer, il faut être fort. Soyez forts pour réarmer l'État et reconstruire une économie de plein emploi)」などと言った。レトリックではあるが、「武装」とか力とか強さとかいう言葉や経済再建とかいう方向性自体は、みんな同じだ。フィヨンも、幸福とは奪い取るものだとか、特別な力だとか、フランス人の誇りだということばを使っている。

選挙「戦」というだけあって戦闘的なのは分かるけれど、どちらも今の状況を嘆かわしいものというところから出発して、それから脱却するには強くなくては、という路線は同じだ。

しつこいようだが、シモーヌ・ヴェイユの言葉をいつも忘れないようにしている私にとっては、賛同できるものではない。

フランス人であることの誇り、それを子孫にも伝えて…などという言説も、どこの政治家もいうことだけれど、誇り=自尊心というのも、たいていは他者との優劣関係におけるものだ。

経済力や軍事力の優位に担保されるような「誇り」ではなく、命そのものの「尊厳」が大切だという多くの宗教が伝えるメッセージとも合致していない。

フランス人仏教者とも話したが、同じ意見だった。
その人は、第一回投票の前の7人の候補者の討論で、唯一の女性であるNKMが、司会者たちから他の候補者に比べて2倍の22回も発言を中断させられたことを指摘して、フェミニズムの観点から彼女に投票したと言っていた。

何にしろ、「戦い」を前にしてはいろいろな本音が見えてくる。

それを観察するのは勉強になる。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-28 20:31 | フランス

アスガル・ファルハーディー の『セールスマン』

今年のカンヌ映画祭で脚本賞、シャハーブ・ホセイニーが男優賞を受賞したイラン映画。

前作の『ある過去の行方』については前にここで書いている。その前の『別離』についてはここで

『セールスマン』というタイトルは、主人公のカップルが、劇団員でアーサー・ミラーの『セールスマンの死』を演じているからだが、フランス語タイトルの『顧客』という方が、意味深長だ。

最初にカジノだとかボーリングだとかいうネオンが出てきたので一瞬驚いたけれどアメリカが舞台の芝居の大道具だった。テヘランでアメリカの芝居をやるリスクにも触れられている。女優が帽子の下にちゃんとスカーフで髪を隠しているのもイランならではだ。
主人公が教師を務める学校の文学の教材も検閲されている。

脚本賞を得たのが納得できる、まるでミステリーのようなスリリングな展開で、はらはらするし、驚きの結末だ。
夫婦の関係、そこに仲間の子供が加わるときの関係、隣人関係、高校教師と男生徒たち、怒り、憎悪、復讐、憐憫、赦しなどが、アクションとリアクションとして連なっていく。

どこをとっても巧い。
しかも、決めつけがない。
人はおかれた人間関係や立場によって色々な欲望を持ち、誘惑にさらされ、自分を正当化したり、自制を完全に失ったりする。
強さも弱さも卑怯さも優しさも、みんなほんものだ。
哀しいし、痛切でもあるけれど、主人公の二人が演劇という芸術に情熱を傾けているところ、最後にそれがクラスの生徒たちの心もとらえるところなどに、救いを感じる。

こういう映画を撮ることが、宗教原理主義体制に対する何よりも有効なレジスタンスであり、自由の意味を考えさせてくれる。

いつもは映画についてコメントするときはいわゆる「ネタバレ」を気にしないのだけれど、ここではそれを書く気がしない。

その「ネタ」は思いがけない重いテーマであって、この映画もその解決を語っていないし、主人公たちのリアクションを肯定も否定もしてしない。

これについて書き始めたら映画評ではなく、哲学に足を踏み込んでしまう。

「悪の陳腐さ」はいつも哀しい。この映画で突きつけられる「悪の弱々しさ」は、もっと哀しい。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-28 04:12 | 映画

ロン・ハワード『インフェルノ』

ダン・ブラウン作のロバート・ラングドンの映画化シリーズ第3作『インフェルノ』。

『ルイ14世の死』があまりに息が詰まりそうだったので、気分を変えるためにハリウッド映画に行ってみた。
フィレンツェが舞台というのも大画面で見るのが楽しそうだったし。

なんかもう、007みたいに追跡シーンばかりで展開が速くて飽きないのだけれど、007ならヒーローが絶対強そうでカタルシスもあるけれど、このラングドン教授は最初から最初まで傷だらけで記憶はないの体調は悪いの幻覚は見るの、で、映画を見ているこちらが疲れる。

一方、女優は悪役もふくめてすてきで元気いっぱいだ。イギリス人のフェリシティ・ジョーンズ はかわいいし、デンマーク人のシセ・バベット・ クヌッセンは相変わらずすばらしい。
前にもフランス映画でいい味を出していたが、最近も「ブルターニュの女」というフランス映画でヒロインを演じている。
ひっぱりだこだ。
知的で抑制があって、しかしとても優しく温かく女性らしさがあるというギャップがいい感じで、地味なのだけれど印象に残る人だ。

この映画ではWHOの事務局長役で、最初に出てきたときは、腹に一物ある怖い女ボスというイメージなのだけれど、実はラングドンの元恋人だった。ラングドンはハーヴァードに、彼女はスイスのWHOにと、それぞれ自分の天職の使命を発揮するところに別れていくという設定。

それはなんだか中学生の恋みたいなのだけれど、ファブリス・ルキーニが相手役でもそうであったように、この人が演じると説得力があっていい感じだ。

男の悪役は、フランスのコメディアンのオマール・シーや、目玉が飛び出しそうで怖いインド人イルファン・カーンなど個性的で、パッとしないトム・ハンクスを補っている。
マッド・サイエンチストを演じるベン・フォスターという人だけが普通っぽい。

話は歴史や美術、宗教と直接の関係はなく、007の敵風の陰謀論みたいなものなので、前2作のようなつっこみどころはない。

実は、今年映画館で観たハリウッド映画に『スター・トレックBEYOND』がある。
付き合いで観たのだけれど、そして、飽きずに見て、後からいろいろ情報を収集したのだけれど、
コメントを書くことがどうしてもできなかった。

今年観た中で、同じ種類の映画、つまり、それなりに面白かったのに、コメントの書きようがなかったものに、実はディズニーの『ズートピア』がある。

二作とも、ポリティカリー・コレクトというか、アメリカの描く人類の正しい理想みたいなものがある。

性格や条件や「強さ」などがまったく違うキャラクター間の友情、
平和が実現して戦争のない世界、
しかしそれを軟弱で平和すぎる刺激のない世界とみて、争いの種をまく「悪者」。

『スター・トレック』で、多様な人種が、同じ連邦の理念のもと、平和的に協力し合いながら宇宙探索を進める世界、それを異星間の平和条約にまで拡大しようという使命感。
『ズートピア』で草食動物と肉食動物が共存し、キリンもネズミも同じ列車で旅行できるような多様性を実現している世界。

なんというか、それらのあまりにもの「正しさ」と、理想を鼓舞してくれる「いい感じ」が、現実のアメリカやアメリカが主導している世界の状況とギャップがありすぎて、居心地が悪かった。

その点、この『インフェルノ』には、そのマッド・サイエンティストの「巨悪」みたいなものも、それを善意で信奉してしまう人々の「間違った理想」「間違った正義感」も、ある意味で、リアルな愚かさなので、イデオロギーが入り込む余地もない。なんだかぱっとしないヒーローの等身大のあがきの後を追うだけ、という気楽さがある。

大仰な人類救出劇の中で小さな安堵、小さな迷い、などの表現が一応成功している。

まあ、この『インフェルノ』を見てライフポイントを回復したので、次はシリアスなイラン映画アスガル・ファルハーディー の『セールスマン』に挑戦だ。これについては次に。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-27 00:51 | 映画

フランス大統領予備選 その7

日曜に最終投票となる今回のフランス共和党予備選、事実上の本選だとも言われている。

そのくらい、オランド大統領の人気はないし、社会党が内部分裂を起こしていることもあって、政権交代の可能性は大きいからだ。

では私がフィヨンとジュッペのどちらがましかと思っているのか、と聞かれたのだけれど、社会党の分裂を反面教師とし、アメリカの共和党の分裂も反面教師とし、彼らは、どちらが選ばれても協力態勢で行くことは大体予想できる。

2人ともフランシスコ教皇を引き合いに出して「良心」のある所を強調しているけれど、如何せん、2人とも、教皇とは正反対の「経済成長優先」であることは明らかだ。

いまだにサッチャーの規制緩和を見習えなどと言っているが、考えたら、これ以上経済成長を指標にしたら、地球が壊れてしまうのが分かっているような時代にどうしていまだにそんなことを言えるのだろう。

セキュリティの問題や社会の不満は、みな失業者が多くて可処分所得が減っているのが原因だ、だから「企業と投資家を優遇して景気を良くし、雇用を創出して、利益をみんなに還元する」という理屈がうまくいかないのはもうどこでも証明されていると思うのに。

フィヨンもジュッペも富裕層の特別税を廃止してTVA(消費税に相当)を上げる、などと言っている。

国際的な競争力、発言力はとにかく経済力だ、というのは、もう通用しない。

しかも、今の世界の国々の経済力の大きな部分は軍産複合体にある。
早い話が、経済成長のためには、武器や軍備を増強するのがてっとりばやい。
それは潜在的に戦争を必要とするということであり、街や道路を戦争で破壊したら、今度はそれを再建するための公共事業や復興産業が待っている。

こういう、かなり分かりやすい利権構造が見えているのに、みんな、とりあえずは自分ちの庭に爆弾が落ちなければいいのだろうか。

もう一つ、フランスのカトリックが共和党寄りか社会党よりかという質問だが、全体の傾向としては、
ソシアルにはとても左寄り、ソシエタルには右寄りであると言えるだろう。

ソシアルというのは、同じ共同体のメンバーに対する人間的な関係で、弱者やマイノリティに寄り添う無償の社会福祉的なものは社会党と親和性がある。

ソシエタルは、主として経済的政治的なレベルで使われる言葉で、異なる社会に対する関係と言える。
例えば、企業が自分の従業員に対するのはソシアルだけれど、外国の原料供給者だとか、地球の環境の保全とか、地球レベルでの平等や持続可能性などを考えるのはソシエタルである。

その意味で、自分ちの経済、自分の国の国力増強を優先するのはフィヨンもジュッペも変わらないし、フランスのカトリックと親和性があるだろう。 経済至上主義や金の偶像崇拝を弾劾する教皇とはまったく反対なんだけれどね。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-26 06:14 | フランス

フランス大統領予備選 その6

先ほどTVでフィヨンとジュッペの最終討論を見た。

週明けは両陣営から非難と揶揄の応酬が続いたので、おやおやアメリカ化するのかと思っていたら、まあ、まともだった。

今週フィヨンは保守反動カトリックのレッテルを貼られたし、ジュッペはボルドーのモスクに絡めてアリ・ジュッペなどと言われた。

特にジュッペは70代の年よりだというイメージを払拭するためか月曜のミーティングで

「J'ai la pêche! Mais avec vous j'ai la super pêche!" 」

と気勢を上げたことでSNSでさんざんからかわれた。

la pêche は「桃」で、元気いっぱいという意味の口語で、くだけた言い方だけど、「私は元気です、皆さんといると超元気です!」と 「la super pêche 」と言ったのが、私は覚えていないけれど前世紀のスーパーマーケットの宣伝文句だったらしくて、藪蛇というか、かえって年より臭い、ということになった。

アメリカならなんでもありかもしれないけれど、確かにこんな言葉の使い方をフランスの大統領にしてもらいたくない。おまけに pêche には、ボクシングのパンチという意味もあるので、その pêcheをジュッペの顔面に打ち込んでやる、みたいな応酬もあって、揚げ足取り、言葉遊びのレベルになっていた。

こんなことでは、本選でポピュリストに敗れる種をまいているようなものだと心配だったが、公開討論ではまあまあ上品だったのでほっとしたけれど、インパクトもなかった。
そうなると、「見世物」としては、サルコジがいないとキャラが立っていなくてつまらない。

アメリカでトランプやサンダースが傍流から飛び込んだのと違って、2人とも同じ共和党の同僚同士で親称で呼び合っているし。

でも、サルコジがいなくなったので、決選投票に行く人は減るのではないかとか、フランス人は天邪鬼だから今度はフィヨンを落として番狂わせを狙うとかいう人もいて、どうなるかは蓋を開けないと、分からない。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-25 08:12 | フランス

 アルベルト・セラ『ルイ14世の死 La Mort de Louis XIV』

イオネスコに『Le Roi se meurt』(王が死ぬ)という戯曲がある。死を受け入れない王の周りで舞台の小道具や装置が少しずつはぎとられる。

この映画『ルイ14世の死』は、1715年、太陽王ルイ14世が寝たきりで過ごす最後の3週間。
なにもはぎとられない。はぎとられるのは生命だけ。

薄暗がり。
鳥の声、虫の声、羽音、時計の音。
ひそひそ話。
孤独。

足の切断をためらう医師たち。すでに完全な体ではなくなっている。
イギリス人にしか抽出できないというエッセンスを入れたあやしい薬を売り込む男。
豪華な部屋と黄昏の暗さ。まるでレンブラントの絵の世界。
特に解剖のシーンは。



入れ歯を飲み込んだ大理石のライオンのような顔
の周りを大振りの鬘が覆う。

容態が変わるたびに医者たちが議論する。

嚥下できない。
話せない。
ミサ。
告解。
終油の秘跡。

宗教は役に立っているのか?
ナントからかけつける枢機卿。
王がMonseigneur と呼んでいる。
それは司教の呼び方で枢機卿は votre Éminence ではないのかなあ。

監督はカタルーニャのアルベルト・セラ。スペイン・バロックの色も濃い。
撮影はポルトガルだったらしい。

こんな映画、だれが観るのか。

ルイ14世とその時代のファン。
ダンサーでバロック・ギタリストでダンス・アカデミーやヴェルサイユ文化を作ってくれた人への敬意。

ヌーヴェル・ヴァーグへのノスタルジー。
ジャン・コクトーとフランソワ・トリュフォーに見出された少年ジャン=ピエール・レオ-がヌーヴェル・ヴァーグのシンボルのような映画人生を生き、72歳になって、75歳のルイ14世を演じているからだ。

すごい迫力だ。

権力者の死、に興味がある人には必見かもしれない。

ナポレオンの死を思う。
生前退位できずに苦しみながら死んだヨハネ=パウロ二世。
生前譲位できない日本の昭和天皇の死。
パブリックの死。
逆説的にすごく孤独だ。

半熟卵を口にしたりビスケットをかじったりするたびに宮廷の人が拍手する。
目を開けると大仰に歓声を上げる。
見世物のようでもある。緩慢な公開処刑。完全に死ぬまで退位はできない。
職務、機能、権能を担ったまま死ななければならない。

こういうのを見ていると、権威も権力も宮殿もいらないから、清潔で近代的で、鬘と宮廷服をつけていない医師に看取られて安らかに死にたい、と実感する。

今の時代に生きていてよかった、とも思うけれども、中東の野戦病院で血を流して死んでいく子供たちを思い浮かべると、やはり、問題は死に方でなくて、どう生きるかなのだ、と分かる。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-25 00:23 | 映画

聖ウラジーミル・プーチン

共産主義体制が崩壊していく経過においてロシアがそれまで人民の阿片などと蔑んでいた宗教にすり寄ってロシア正教を利用したのは理解できる。

でも、今(11/4)になって、クレムリンの前に17メートルのウラジーミル一世が右手に十字架、左手に剣を持っている彫像をプーチンが建てるとはね。

ウラジーミル一世は10世紀にロシア、ウクライナ、ベルラーシの揺籃の地であるキエフをキリスト教(東方正教)に改宗させた人物だ。
この像の建立に反対する人は多く、当初予定されていたの30メートルの高さを17メートルに縮小させた。

それまで最大のウラジミール一像はキエフにあった。
モスクワ市民はこの像を歓迎しなかったようだ。

ウラジーミル一世は、ウラジーミル大王、赤い太陽、聖ウラジーミルとも呼ばれる。

ビザンティン皇帝の妹と結婚する条件(他にもクリミア半島の征服や、眼病治癒もあり)で988年に正教の洗礼を受けて、正教を国教に制定した。
実質的に人々に帰属を強制した。

イスラム教も、ローマ・カトリックも、ユダヤ教も当時のキエフに「勧誘」に来たという話が伝わる。

イスラムは天国であてがわれる70人の処女のことを聞いて心を動かされたけれど、酒が飲めないのは問題外なのでやめた。

カトリックの使節団は断食の典礼のせいで追い返された。

ユダヤ教は、ユダヤ人が神のみ旨によってエルサレムを捨てて世界中にばらまかれたのだから説得力がないと言った。

正教は典礼が華麗なところが気に入られた。

プーチン大統領の名はウラジーミルだ。ウラジーミル一世は彼の守護聖人のようなものだ。
剣と十字架を持つ聖ウラジーミルの像は、聖プーチンの自意識を反映しているのかもしれない。

先ごろ青土社から出した『ナポレオンと神』には、ナポレオンが自分の権威を聖なるものにまで高めるためにどのような彫像を創らせたかについても書いた。

フランスでは『ウラジーミル・ボナパルト・プーチン』などという本が出ているし、今のEU会議がプーチンを批判する様子を、2世紀前にウィーン会議がナポレオンを扱った様子に例える人もいる。

そういえば、プーチンは、昨年だったか、ナポレオン戦争でのロシアの勝利の記念式典を行った。

無神論的共産主義から一転して政治と宗教がずぶずぶになったロシアのシンボルとして、聖ウラジーミルの巨大像が、人々を威圧する。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-24 03:02 | 宗教

フランス大統領予備選 その5

アメリカの大統領選に比べてフランスは腐っても鯛、上品だなあと思っていたのに、フィヨンとジュッペの一騎打ちになって、突然相手への誹謗が飛び出した。

フランスがカトリック文化圏の国で、それを倒して共和国を造った国だというのもあらためてよく見えてくる。

カトリック信仰を隠さないフィヨンには「カト、トラディ(伝統主義者)、レアク(反動)」などの言葉が浴びせられる。
カトリックを「カト」というと、すでに、反革命、蒙昧な保守主義者、ブルジョワ王党派などの含意がある。

これを受けてフィヨンは

「カトリックです。でもトラディでもレアクでもない。すべてを変革しようとしているのだから」「信ずる価値観があるのは大事です、私は家庭、国の権威、労働などの価値を信じます」

と答えていた。

ジュッペも、「自分の方がフランシスコ教皇に近い」と明言するし、カトリックに属する二人ともが教皇を引き合いに出して自分の立場を正当化している。

今のローマ教皇は、フランスが力を入れている環境保全の最大の味方だし、社会政策についても、保守どころか社会党からも共感を寄せられるくらいの徹底した弱者擁護である。

ニースのテロの犠牲者や家族を宗教と関係なくヴァティカンで励ましたことも好意的に受け止められている。

アメリカの方が「宗教共同体」の縛りや建前がはるかに強い国だけれど、フランスのような「無神論的共和国」の建前の強い国の「建前の狭間」から漏れてくるカトリック臭というのはある意味で「かわいい」と思ってしまう。

そう思うこと自体、私の世代の日本人がいかに「信仰に無関心」の空気の中で育ったかの表れかもしれない。
建前宗教共同体のアメリカに比べると日本とフランスは似ているなあと日頃思っているけれど、日本の霊的無関心の荒野の乾燥度は半端でないかもしれない。そこを狙われたら誰に水を与えられても識別力が働かない可能性がある。

フランスは果たして、砂漠を掘り返すと泉の気配が見えてくるのだろうか。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-23 19:27 | フランス

フランス大統領予備選 その4

(追記あり)
予備選の結果について仲間2人と話し合った。

2人とも投票に行かなかったことを後悔していた。
2ユーロ払えば誰でも投票できる。
投票率は高かった。

2人は次の日曜にフィヨンの当選確率が高いことにショックを受けている。
もちろんサルコジが敗退したのはいい。

でも、同性愛のカップルの養子問題についてフィヨンが保守的なこと、
労働時間を週35時間から39時間に戻すこと、
公務員を50万人減らすと言っていること、(ジュッペは25万人)

が受け入れられない。

2人とも、公務員(音楽教師)で「当事者」だ。
50万人減はかなり非現実的だ。
公務員の労働時間についてはジュッペも同じだが、他のセクターまでは48時間まで可、とフィヨンは言う。

アスペルガーの支援団体の表看板になっているフィヨン夫人への評価は高い。

うーん。

私の周りのリタイア世代の元公務員にこのことを話したら、
自分たちは現役のころ39時間をはるかに超えて働いていた、
と言われた。

音楽教師で、勤務時間を調整してコンサート活動をしている演奏家とは比べられないかもしれない。

週末には、フィヨンの地元で彼を知っている人がうちに泊まる。
地元での話を聞いてみよう。

宗教に関しては、フィヨンは二人とも洗礼を受けているという点ではカトリックだが、ジュッペは教会へ通うことはなく、離婚や再婚もしている。フィヨンは伝統的な地方のカトリックのタイプ。

フランスの司教団は政治的声明を出した。
新自由主義経済推進の政策に反対する。

ジュッペの考え方は司教団の意見書に近い。
でもフィヨンは、司教団の意見書に対して文書で回答したはじめての大統領候補者だ。

フィヨンの側近には保守的なカトリックが数名いる。

今回の予備選の一度目に投票したのはコアなカトリックの15%程度などであまり影響はなかったと言われる。
これからは意味を持ってくるとも言われている。

要観察。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-23 03:58 | フランス

ジュッぺとフィヨン フランス大統領予備選その3

今日のニュースではジュッペとフィヨンがそれぞれ別のチャンネルでインタビューに答えていた。

サルコジはカルラ夫人と末娘を学校(幼稚園?)に迎えに行くシーンが映されていた。

で、ジュッペとフィヨンの政策の違いが比べられたが、確かに大きな相違点はない。
フィヨンの「勢い」みたいなのは目に見える。
ジュッペへの投票が多かったのは彼の地元であるボルドー近辺とパリだった。
なんとなく分かる。

ボルドーにもフィヨンの地元にも親戚がいる。
フィヨンに投票した人はその「人がらのよさ」を強調する。

うーん、「見た目」のポピュリズムとは別に「私生活」をポピュリズムの視線で見ると、確かにフィヨンはフランスの政治家として珍しく安定している。

ミッテランは愛人を公費で住まわせて隠し子がいた。今になってラブレターが公開されている。
シラクも隠し子の噂で有名だった。
サルコジは3度の結婚のたびに子供がいる。トランプと同じ。
オランドは事実婚のロワイヤル女史との間に子供が4人もいるのに、ジャーナリストと浮気して別れて、そのジャーナリストとも別れて暴露本を書かれているし、今も女優と交際中。
ジュッペは2度の結婚で3人の子供。

フィヨンはリセで知り合ったウェールズ出身のイギリス人の奥さんと1980年の結婚以来5人の子供のカトリック家庭。昔から家族写真がよく出ていた。

マクロンのような型破りの純愛家庭もあるが、フィヨンはまず、クラシックな家族イメージ。
強烈な政治と権力の鬼みたいなキャラクターの政治家たちからそろそろこんいう落ち着いた感じの家庭人を人々が求めるとしても不思議ではない。しかもただの優等生ではなくて、中学時代も高校時代も「停学」歴があって、趣味はカーレースというのもユニークだし、若いころはなかなかハンサムだった。

フィヨンがこのまま公認候補になる確率は高い。
プーチンと気が合うという話は、緊張緩和の役に立つかもしれない。

「2番目の男」のイメージが完全に覆った。こういうこともあるんだなあ。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-22 07:20

フランス大統領予備選 その2

昨日の深夜と今朝のニュースなど。

サルコジの敗北演説の落ち着き、格調の高さが称えられていた。
2012年の敗北の後も堂々といい演説をした。
この人のこういう演説の技量はすごいのだから、こういう調子で選挙戦をやっていたら結果が出たかもしれない、という人もいたくらいだ。
いやそれではサルコジにならない、などの声もある。

ナポレオンの国だなあと思う。

失墜してフォンテーヌブローを去るナポレオンの演説について『ナポレオンと神』に書いた。
引き際の美、というのがある。
でも、一年もたたずにエルバ島から戻った。

サルコジも現職大統領として2012年の敗北の後、今回の選挙運動中、またチャレンジして戦闘的なアジ演説を繰り返した。
まだ現役の大統領のままであるかのように。

やはり、ナポレオン・テイスト?

で、今度は、セント・ヘレナ島?

ナポレオンには二度目の敗北の時に、演説の機会が与えられなかった。
裏口から逃げだすしかなかった。
まあその後十分時間をかけて聖人伝のような回想記を残したけれど。

敗北、失脚の仕方には国民性ってあるなあと思う。

日本でもフランスでも、一種の「潔さ」が評価されるが、

日本なら、「消え方」は、討ち死に、切腹、出家だった。

フランスでも、「討ち死に」はヒーローの一つの形でナポレオンも望んだが、殉教者は崇められるので、敵はそれを望まない。

キリスト教文化圏には、イエス・キリストの受難と復活というモデルがある。
だから、「屈辱」を味わっても、敵に対して

「神よ、あいつらを赦してやってください、自分たちの愚かさが分かっていない、私の真価、私が神から遣わされたということを理解できないのですから」

と言って去っていける美学がある。

同時に、イエス・キリストやナポレオンが期間限定(イエスは40日、ナポレオンは100日)で「復活」したように、「復活」の可能性もにおわせる効用がある。

昨日の結果は、コペの0.3%がみじめだった。
数年前に、サルコジの後継者として党代表(UMP)をフィヨンと争ってひと悶着起こした男とは思えない。

それこそ「潔さ」とは正反対のあの騒動のせいで、コペもフィヨンも悪印象を残したから未来はないなあ、と誰もが思っていた。それなのにフィヨンの復活、というか新生を遂げた。
それに比べてコペはみじめだ。決定的にカリスマ性がない。

コペに比べると泡沫候補とされたポワソンですらもっと票を獲得している。
昨日の投票者の15%は保守・中道以外から来たという。
極右と極左がポワソンに投票した、と揶揄されている。

中道を唱えるジュッペが落選したら、バイルーら中道が独自に大統領選に立候補するのかどうかまだ分からない。
フィヨンは、まあ安定した「保守」を掲げているからかえって安心感を与えたと言われている。

また、ジュッベの立ち位置(左右をまとめ上げる)には、イデオロギー的にはマクロンがすでに立候補している。

ともかく、共和党はこれで二人の対決になったので、政策の違いやニュアンスがまな板にあげられるだろう。
「見た目」ポピュリズムの影響は少なくなるだろう。

木曜は二人の討論になる。

こうなると、サルコジがいない分だけ、かなりレベルアップすると思う。
「政治の言葉」としてのフランス語はアメリカ英語よりもはるかに強度がある。

「見た目」よりも「中身」の重要度が増すだろう。
でも、それよりも重要視されるのは、大統領の本選において、どちらが有利かということだ。

予備選でサンダースを落としたアメリカ民主党の失敗の教訓は記憶に新しい。

5月の大統領選でマリーヌ・ル・ペンが決戦に出てくるなら、右派の票も集められるフィヨンの方がル・ペンを切り崩すことができるだろう。
それ以外なら、中道の支持を得るジュッペの方が危機の時代のまとめ役としてふさわしい。

現職のオランドは、この予備選の結果を見てから、来年の大統領選に出るかどうか決める。
今は、社会党の分裂ぶりを見せつけられた左派の人々が「オランドよりジュッペ」、と言っているが、フィヨンとなると、左派がどこまでついてくるかは、分からない。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-21 18:18 | フランス

フランス共和党予備選の結果

共和党予備選の結果が出た。

フィヨンとジュッペの決選投票になる。

ほっとしてなんだか気が抜けた。

サルコジが敗れたのはトランプの反面教師効果だなあと思う。

フランス人、ブレクジットを批判し、アメリカの大統領選をせせら笑ったからには、ここでサルコジ、とはいかなかったのだろう。

フィヨンもジュッぺもゴ―リストでありソシアル、ソシエタル路線なので、どちらが勝っても「フランスらしい」候補者になりそうだ。

しかし、最後の2、3日でフィヨンの勝利がこれほどはっきりと「分かった」のはおもしろかった。
アメリカにいたら、こんな感じでトランプの勝利が「分かった」のだろうか。

本命の3人、ジュッペはシラクと組んでいたし、フィヨンはサルコジの首相だったのだから、どいつもこいつも、という感じで、新しさはないと思っていた。

最後のアンケートで、ジュッペが17%失い、フィヨンが15%上がった。

明らかにジュッペ支持者がフィヨンに乗り換えている。

あるジャーナリストが、フィヨンがだんだんと器を大きくしていくのに比べて、相変わらず落ち着いたジュッぺは、「ancien」だ、と評したのを耳にした時、あまりにもぴったりだったので説得力があり、ああ、これはフィヨンが勝つ、と思った。

確かに、今回の本命の3人は、いずれも普通なら定年でリタイアの年齢だ。
でもフィヨンとジュッペの間は10歳近く離れている。この年代での10年の差は看過できない。

「ancien」つまり、過去の人、だ。
シラクのスケープゴートになって有罪になり、カナダで暮らしていた過去もある意味で暗い。
それに見た目の差もある。
一度「年寄り」と言われれば、ついこの前までの「賢人」「長老」風のプラスのイメージが劇的にひっくり返った。

ポピュリズムは言動にだけでなく「見た目」にもはたらく。

ジュッペの禿げ頭は、ミッテランやシラクを思い出させてしまう。

髪が薄いこと自体がマイナスというわけではない。
サッカーのジダンのように、生え際が後退してきて髪を剃ってしまう人もいるし、それはそれで精悍な感じがする。でも、一定の年を超えた人が、一定の形容をされると、「おじいさん」に見えてくる。

考えてみたら、同じ70代のトランプも、75歳になったサンダースも、髪がある。
トランプの金髪はジョークの種になるほどのトレードマークだ。
サンダースはきれいな白髪だ。

もちろん誰も髪のことなど言わない。
でもこれだけ姿がメディアに出ずっぱりの状況で、最も目立つ顔かたちの印象を大きく変える髪や髪形は無視できない。

フィヨンは姿かたちが「大統領候補」の形に追いついた。
ジェスチャーや声も大きくなった。

ジュッペの余裕たっぷりで落ち着いた感じは、「覇気のなさ」に見えてきた。

興味がわいてきたので、候補者7人の年齢と身長も調べてみた。
コペとジュッペが182cm、ル・メールが190cmとトランプと同じ。フィヨンは175cmとある。
前に165cmのサルコジと組んでいたからもう少し背が高いかと思っていた。

コペは51歳と若いが、彼も額が禿げ上がっているので、老けて見える。

サルコジは来週フィヨンに投票すると言っている。

もしフィヨンがこの先、大統領になるなら、またフランソワだなあ、と思う。
フランソワ・ミッテラン、フランソワ・オランド、フランソワ・フィヨン。

フランシスコ教皇もフランス語読みではフランソワだ。
アッシジのフランチェスコは父親がフランスに行っていたときに生まれたのでフランチェスコと名付けられた。

とってもフランスっぽい名前だが、実は、若い世代ではほとんど見られない。
この名前だけで、もう、60代以上だと分かる。

フィヨンといえば、ギニョールのカリカチュアではいつも目の下にクマができた暗い顔で登場していた。
近頃は、明るい顔をしている。

マクロンほどではないけれど。

マクロンは不思議なキャラだ。あまりもの若さがどう受けとめられるだろう。
ナポレオンは皇帝になった時、35歳でしかなかった。
マクロンの話しぶりを聞いていると、ナポレオンもこんな風だったのかなあと思う時がある。

さて、木曜日にはジュッペとフィヨンの最終討論を聞いてみよう。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-21 07:41 | フランス

クリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』

2003年のこの作品。昨日書いたように、「名作」とは私には思えない。
俳優たちが名演なのは認める。

でも『ポリナ』のような、ビルグンドゥス・ロマンやイニシエーションの物語がない。

人は人生のどの段階でも、少しずつ新しいものを発見したり地平や視界が開けたり、見えないものが見えるようになったり、試練や喪失を経ても成長したと思えたりできるものだ。
だから、映画のテーマというのも、どこかにそんな要素を描いているか、あるいはそのような体験をさせてくれるものがほんとうに心に残るのかもしれない。

少なくとも小さなエゴを突破するようなシーンがほしい。

『ミスティック・リバー』は人間の心理のいろいろなスペクトルを描きだして見事であるのに、そこに閉じこもっているせいでカタルシスを得られないのだ。

人は人生で受けた傷をどのように生きるのかに関しての洞察は与えてくれる。
この映画の中心になる傷は、ある少年が子供の時に友人2人の目の前で拉致されて監禁されたトラウマが大人になった3人に残っているというものだ。

この映画の救われなさから、教えられることもある。

やはり、「恐れるな」ということだ。

「他者からの残忍な行為に対して恐怖を抱く」ことが「他者に対して残忍になる」ことにつながる。

恐怖が悪の連鎖を生むのだ。
憎悪が憎悪を生むというのもそうだが、憎悪にまでいかない恐怖が十分、残忍さを生む。

テロリズムというのもそうで、いつ襲われるかもしれないという恐怖(テロル)を与えることが最大の効果となる。無差別殺人の残忍さへの恐怖が、人の心を残忍さで武装させる。
抑止力などという名がつくこともあるが。

そのことからしても、子供の虐待はもちろん、残忍な行為の犠牲者にトラウマのケアをすることがいかに大切かが分かる。

フランスでカトリックの聖職者による過去の小児性愛スキャンダルを隠してきたことについて、司教団がルルドでの総会で公式に謝罪した(11/7)。
この種の事件は隠れてひっそりと扱われるべきだと考えたことが誤りだったと。
もちろん、保身の意識もなかったとは言えない。
これからはこの悪と立ち向かうために、自分たちの存続を優先しようという誘惑に負けないで立ち向かうと明言した。

ナチスの時と同じだ。一人一人のユダヤ人の運命よりもカトリック教会はカトリック教会の存続を優先するために、ナチス非難の矛先を和らげた。その意味で、今回、そこまで踏み込んで謝罪するのはなかなか潔い。

そのことについてあるカトリック新聞に一コマ漫画が載っていた。

男の子の手を引いた男が暗い顔をしている。
男の子が心配して「悲しいの?」「あの人たち(司教たち)が謝ったのはパパにだったの?」と聞く。
父親は答える。
「ぼくの中にまだいる君と同じくらいの年の男の子にって言った方がいいかな」「だけどどうやってその子の年でも分かるような言葉で説明していいのか分からないんだ」

そうなのだ。
傷ついた子供は傷ついたまま葬られている。
その屍をかかえたまま大きくなったのは別の男だ。
屍を蘇生させ、傷を癒さない限り、謝罪など意味をなさない。

『ミスティック・リバー』の犠牲者にも過去の自分と同じくらいの年の息子がいる。
父親となった自分は、子供のころの自分ではない。傷ついた子供はゾンビとなって大人の男の中に巣くっている。
男は、自分を葬ることでしか、傷ついた子供のゾンビを追い払うことはできなかった。

この映画をこのように終わらせては、トラウマをかかえて生きている多くの人たちに希望のメッセージを届けることはできない。『ポリーナ』の美しさを観た後なのでなおさら、アートというものの使命について考えさせられてしまった。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-21 01:56 | 映画

Polina, danser sa vie『ポリーナ、命を踊る』ヴァレリー・ミュレール, アンジュラン・プレリオチャイ

原作はなんとバスチャン・ヴィヴェスのBD(2011年に各種の賞を受けた)で、ロシア人の少女が大人になる過程で、バレエの練習や振付を通して真に「生きる」ことの意味を獲得していくビルドゥングス・ロマン、イニシエーションの物語だ。

親元を離れる。
恩師を離れる。
国を離れる。
怪我をして練習を離れ、役を失い、恋人を失う。
金を失い、住む場所を失う。
バーでの仕事で世間を観察し、
「即興」と出会い(実は子供時代にも即興の動きをしていたことが映されていて伏線となっている)、
パートナーと出会う。

このBDは日本語に翻訳出版されているようだ。

映画は、まず、バレエが好きな人は必見。

カメラワークが斬新だ。

ほとんど真上からとらえたクラシック・バレエのシーンは、脚が見える範囲が限られているのにチュチュがまん丸でくるくる回るのが新鮮だ。
トウシューズの動きだけのクローズアップもある。

ロシアのバレエ学校のレッスン風景は、用語が全部フランス語なのをきいて、あらためてバレエはフランスから来たんだなあと思う。
半世紀以上前の日本でだって、意味の分からないフランス語ですべてのステップに名がついていたのだから、今はその「意味」が分かるのが不思議だ。

バロック・バレーを始めて20年にもなるのに、やはりクラシック・バレーのレッスンや振付がいまだに恋しいのだから、子供時代に習うということの重大さが分かる。
そういえば、ヴィオラももう始めてから四半世紀近く経つのに、まだ自分が擦弦楽器を弾けることの実感がない。日本から帰って久しぶりにカルテットの練習に行って、モーツアルトを2曲、ベートーヴェンを1曲弾きながら、こういうものを初見で弾けることが非現実的な気がする。くらくらするほど美しく、両者はあまりにも、違う。どちらも天からの贈り物のような感じがするのは同じで、こういう曲を一緒に弾いて味わう仲間がいることの幸せを思う。

で、このポリーナ。

監督のひとりアンジュラン・プレリオチャイは、フランスのコンテンポラリー振付師で、映画にあるエクス・アン・プロヴァンスのカンパニーは彼のものだろう。ジュリエット・ビノッシュが素晴らしい。

ポリーナのロシアの恩師は、「演技の難しさ、苦労を外に出して感心してもらえるのはサッカーのサポーターくらいだ。バレエはエレガンスと優美さのみを外に出さなくてはいけない」と言う。

これは楽器演奏でも同じで、難しいパッセージをいかにも難しい部分であるように弾くのは言語道断だ。
(けれども、フィギュア・スケートを見ていると、いつもこのアートとスポーツの境界が分からなくなる。優雅さ、演技力は芸術点になるけれど、各種4回転などはいかにも難易度が高い上に、オリンピックレベルの選手でさえ失敗して転倒することがあるのだから、エレガンスどころか見ている方までハラハラだ。水泳や陸上では実力を出せなくてもタイムや記録が伸びないだけで、「失敗する姿」を見せられるわけではない。でも、スケート・リンクで転倒したら、素人の転倒と同じでエレガンスはなく、克服できなかった困難さが見える。楽器演奏でも、バレエでも、普通は、ミスタッチの一瞬前、バランスを崩す一瞬前に分かるもので、「ごまかす」「失敗を回避する」というテクニックが身につく。弾いたふりをして一瞬音が消えても、流れさえあれば聴衆が脳で補完してくれる。スケートなら、4 回転を2回転とか1回転にするとかスルーするのと同じだ。でもスケートは先にいつ何を飛ぶかが分かっていてカウントされるからだろうか、それとも難易度が高すぎて、失敗の予測がつかないのだろうか、転倒シーンを必ずと言っていいほど見せつけられる。不可解だ。以上、余談)

次に、エクスの振付師(ジュリエット・ビノッシユ)は、うまく踊れるのは当然で分かっている、もっと自分自身を表現しろ、恐れや拒絶、人生の中で足りなかったこと、などの情念を踊らなければ何の意味もない、と言う。ダンサーでなくポリーナが踊るのだ、と。

別のオーディションでも、手足が動くのは分かった、それを見せる必要はない、自分にしかできないことを見せろ、と言われて、床に寝転がるが、追い返される。

ベルギーの即興のクラスで、「動物になれ、模倣でなくエネルギーを表現しろ」と言われて、はじめて、子供のころにやっていた「何かになりきる」自由さを少し取り戻す。

最後に、自分の振付でフランスのフェスティヴァル参加のオーディションを受ける。

アンジュラン・プレリオチャイ(フランス語ではこう発音されるが日本語ではプレルジョカージュという表記があった)は、難民としてフランスにやってきたアルバニア系ユーゴ人の両親から生まれて、パリ・オペラ座バレエ団に所属したクラシック・バレエ出身だ。共同監督のミュレールは彼の伴侶であり、エリック・ロメールの弟子でもある。

プレリオチャイの振付は、映画の中のビノッシュもそうだが、徹底したクラシックの要素が前提となっている。ラストの舞台でポリーナがアドリアンと踊るところ、アドリアン役の俳優はプロのダンサーでないのにすごい(ポリナ役は600人から選ばれたマリンスキー劇場の本物のバレリーナだ)。

私はコンテンポラリーが好きではないけれど、これを見ると、男と女の体の美しさ、体の使い方の美しさに、圧倒される。
バレエの歴史において、バロック・バレーにあった心身統合の官能の追求が、クラシック・バレーの技巧、難易度の高さ、商品となるヴィルチュオジテへと変わっていった。
コンテンポラリーは、バロック・バレエに戻る代わりに、時計の針をさらに進めて、螺旋的にバロック・バレエの臓腑的な官能をクラシックのテクニックの彼方に再発見したという感じかもしれない。

単に、動物的な即興のエネルギーとか、情念を垂れ流すというのではない。
考えつくされた情念の再構成、即興に限りなく近く見せるよう計算しつくされた緻密に統制された流れ、など、実はとてもバロックだ。

私がこれまで苦手だったのはプリミティヴ系のコンテンポラリーだったらしい。

思えば、「大地を踏みしめて、エネルギーを吸い上げて、声を上げて叫んで、自分の内なるマグマを噴出して」系の即興ダンスのクラスにも何年か通ったことがある。

楽しくはあったし、そこに通ってくる人の性格やリアクションを観察するのもおもしろかった。

でも、自分も含めて、踊っている人たちの体、姿が特に美しいと思ったことはない。

見て楽しめるのはやはりクラシックのバレリーナの体の使い方かなあと思っていた。

バロック・バレエでも、プロで踊っているほとんどすべての人はクラシックから転向した人だ。
(コンテンポラリーやロマンティックから来た人もいたが。)

ポリーナの映画は、若い女性の「自分探し」のような、ある意味で平凡なテーマなのに、その若い女性が苦行者のように肉体を鍛え上げる特殊な人物であり、心と魂の迷いや震えが肉体のパフォーマンスと一つになっていることから強烈なインパクトを受ける。

時代は携帯電話の形から見て古くない設定のようだが、社会主義が崩壊した後のロシアでも、アメリカの曲を積極的に使う振付師が「愛国心が足らない」と批判されるという話は結構リアルだった。

寒そうだし、いろんな意味で、ロシアに生まれなくてよかった。

パリでこの映画を観た同じ日の夜、TVで2003年のクリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』をはじめて観た。名作の評判高い映画なのに、後味も悪いし、あまり気に入らなかった。

『ポリーナ』の方がいい。

なぜだろう。

(ミスティック・リバーについては次に)
[PR]
# by mariastella | 2016-11-20 01:56 | 映画

「感動」の文化史

11月後半から新しい仕事に専念するつもりで、少しの間、テーマとは別の本を読む贅沢を味わった。この本はシリーズで、いつも最高に面白い。

なんでもネットで検索できる時代でも、圧倒的に豊かで整理された上質の情報が編集されているこのような本を読むのは至福の時だ。

“Hisoire des émotions” (Seuil) の1巻2巻だ。

情動、感動というものの文化史という感じで、ヨーロッパにおいて人間の感動表現がいつどうして生まれて受容され展開されて行ったかが豊富な図版と共に紹介される。
ぱらぱらと読んでいるだけでも発見の連続で楽しいが、私が真っ先に読んだのは、もちろん、第一巻で、Gilles Cantagrel というバッハ研究者でバロック音楽学者の受け持つ項目『L'émotion musicale à l'âge baroque』(バロック時代の音楽的情動)というやつだ。

16世紀までは、神へ捧げる賛歌は中世の神学と同じで完璧な秩序によって高みへ上ろうとしたポリフォニーで、そこには人間的な「情動」がなかったが、ギリシャ演劇の復活の試みと共に「人間の情動の演出」が生まれていった経緯が語られる。

音楽がディスクールになること、作曲者と演奏家のレトリックとロゴスが聴衆のパトスを喚起することなど、これまでに何度も読み、弾き、聴いてきたことではあるが、非常に明快にまとめられていて分かりやすい。

音楽がディスクールになることと、ダンスがディスクールになることの関係をもっとパラレルに考えてみたい。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-19 03:07 |

トランプとアメリカのカトリック (移民政策とプロ・ライフ)

11/15、バルティモアで秋のアメリカ司教会議の総会が開かれて、新会長に67歳のダニエル・ディナルド枢機卿、副会長に65歳のロスアンゼルス大司教のホセ・ホラシオ・ゴメスが選ばれた。

会長は慣習的人選ですんなり決まったけれど、10人の候補者から、三度目の投票でゴメス大司教が副会長に選ばれた意味は大きい。

彼は熱心なアメリカの移民支援者であり、この人選が、2, 3百万人の不法移民を追放すると言っているトランプ新大統領への牽制を示しているのは確かだろう。

ゴメス大司教は副会長に選出された最初のヒスパニック聖職者だ。
メキシコ生まれで今も姉妹がメキシコに住む。アメリカ国籍を取得したのは1995年。
彼がトップに立つロスアンゼルスは70%がヒスパニックであるアメリカ最大の司教区である。

トランプ選出の2日後にロスの市長と共に移民とその家族を擁護するコメントを発した。

トランプが「壁を造る」といった場所に橋を渡さなければいけない、
移民が恐れて逃げたり隠れたりするようなことがアメリカに起こってはならない。

これを受けて、11/14に「人間的な政治を推進し移民の尊厳を守る」と確認した 270人のアメリカ司教団は、翌日ゴメス大司教を選出したわけだ。

もっとも、移民難民に対するバティカンの路線を継承するアメリカ司教団も、フランシスコ教皇のすべての方針に満足しているわけではない。

向こう3年のアメリカのカトリック教会の優先事項は「福音宣教、結婚と家族、人間の命と尊厳、召命と宗教の自由」とされた。
19日に教皇から枢機卿に任命されるインディアナポリス大司教は教皇の推進する「環境保全」がそこに含まれなかったことを悔やんでいる。

司教会議に属する「正義と平和協議会」の会長にも、教皇に近い立場のサンディエゴ司教に対して、軍隊担当の司教であるティモシー・ブログリオが127対88で選出された。

移民の支援は本来国境のないカトリックとしては当然だとしても、実は今回選出されたゴメス副会長も、トランプに投票したカトリック信者に支持されるプロ・ライフの保守派で、オプス・デイのメンバーだ。

民主党政権によって同性婚や中絶合法化が広がったことに対する不満が、今回の選挙でのアメリカのキリスト教徒のリアクションの一つだった。
ディナルド枢機卿は2015年10月に「家族シノドス」の結果を憂える手紙を教皇に出した13人の司教の一人だった。

司教総会で強調されたもう一つのテーマはルイジアナ、ミネアポリス、ダラスなどで起こった人種差別に関する抗議行動で、トランプの当選によってレイシズムが高まってはいけないことに警報を発している。これは妥当だろう。

しかし、プロ・ライフなどの事情をフランスから見ると、アメリカのメンタリティの中で政教分離は根づいていないなあ、と思わざるを得ない。
革命を生き延び、政教分離や共和国主義を自分のものにしたフランスの司教会議では絶対出てこないようなことが出てくる。

例えば、前にも書いたが、中絶の合法化は政治の問題で宗教の問題ではない。
中絶を自由に選択した女性やそれを助ける医療機関を「非合法」として闇に追いやることは間違っている。

「中絶を非合法にしない」ことと、生命の尊厳としてのプロ・ライフは本来別の問題であるはずだ。

これも前に書いたことがあるが、法律上の合法化が必要であることとは別に、カトリック教会が中絶をしない選択をした女性、中絶ができなかった女性と、生まれた子供を全面的に支援し、励まし、祝福するのは大いに意味がある。

一方、レイプされたり胎児の障碍が見つかったりなどの理由、あるいは経済的、社会的な理由であるにせよ、女性が中絶を決意するのはそれだけで大変なことだからこそ、そこに違法性などを加えてさらに苦しめるのは神の無限の「いつくしみ」に反する。
それでなくとも中絶は「試練」であるが、それでも、それを克服する方法はいろいろある。
すでにいる他の子供を愛することに集中する、次に子供をつくる、養子をとる、ペットを飼う、趣味や仕事や他のクリエイティヴなことや利他の行為にエネルギーを振り向ける、いろいろな方法で、「喪に服」したり、「忘却」したり、「ポジティヴなものに変換し」たりすることは不可能ではない。

それに対して、望んだ子供を産む人はもちろん問題ないにしても、宗教的な理由、身体的な理由(中絶不可能な時期になった)、社会的な理由(戦争、中絶可能なシステムや支援者がいないなど)などによって中絶できなかったりしないことを選択したりした女性がその後の試練を克服するハードルは高い。
自分だけでなく子供の命を守り、子供を愛し、責任を全うしなくてはならないからだ。

いや、望んで産んだ子供だって、親や子の障碍、事故、病気、貧困、両親の不和などによって母子の関係が難しいものになることなどいくらでもある。
全ての子供、すべての人は「中絶をしなかった母親」から生まれたわけだが、生まれてからその母親との関係性に苦しむ例は少なくない。

その上に、レイプだの不倫だの障碍などというスタート時点のハンディがあるとしたらもっと大変だろう。

そんなケースを助ける社会政策ももちろん必要だが、そんな時こそ、「霊的な権威」が、「母子を無条件で祝福する」ことの意味は大きい。

中絶を選択した人、あるいは子供のいない人、子供をもたない選択をした人たちが人生における試練の克服のために「霊的権威」による祝福を必要とする度合に比べて、子供との関係において悩み続ける人たちと、それを支援する人たちが、無条件でプロライフを肯定され、励まされ、祝福される必要は無視できない。
だから、宗教者が家庭や母子関係を祝福するのは当然であり必要だ。

しかし彼らが、家庭や母子関係を選ばなかったり選べなかったりする人に石を投げるのは言語道断であり、そのような法律に加担するのも間違っている。

でも本当に深刻な問題は、子供がほしいのに、社会的、経済的、伝統的なさまざまな基準や圧力やそれらの結果としてのそ育児の困難さ故に、中絶をせざるを得ないというケースかもしれない。

「自由な選択」というのは簡単だけれど、「自由」にも霊的な根拠が必要だと、つくづく思う。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-18 03:45 | 宗教

マレク・シェベルの死。 ベリーダンス。

宗教人類学者でイスラム啓蒙主義を唱えていたアルジェリアのマレク・シェベル(Malek Chebel)が先日(11/12)パリで亡くなった。63歳。残念だ。

イスラムの核にある陶酔やエロティシズムについても語った人だった。
スーフィズムに近い。

ベリー・ダンスが、女性の腹を「商品」としてではなく装飾品として提示した画期的なものであるとか言っていた。これは盲点だけれど本当だなあと思う。

私はサウジアラビアとモロッコでベリーダンスの講習に参加したことがあるけれど、すごく健康的で楽しかったのを思い出す。
先生の腹の動きの見事さに惚れ惚れした。
腹筋が割れているというのではなく脂肪もついている。
その柔らかさの不思議ななまめかしさは、確かに商品としての性的なものではない。

変な話だけれど私はうちの猫たちのしっぽの動きを、本体と切り離してイメージするのが好きだ。
柔らかい毛におおわれた爬虫類、というシュールな感じで、くねくね、するりと動く。
しなやかで意外性もある妖しい美しさだけれど媚びるところはみじんもない。

ベリーダンスの腹にも同じように魅惑される。

これって別にイスラムと直接の関係がないのかもしれないとも思うけれど、シェベルが言うのだから、イスラム文化圏の産物なのだろう。
まあ、気候的に言ってもヨーロッパで生まれることのないタイプのダンスであることは間違いがない。

モロッコでは男性も参加していた。
女性の腹の方が絶対に、やわらかで美しく妖しい。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-17 03:47 | 雑感

フランスの大統領予備選挙とキリスト教

来週末が投票日となるフランスの共和党予備選に立候補している7人のうち1人にジャン=フレデリック・ポワソンという人がいる。

知名度も低く、世論調査では下位だがこの人の公式のプレゼンテーションが興味深い。

姓のポワソンというのは「魚」という意味だ。
だからポワソンのところに魚のアイコンをあしらっている。

でもこのマークはキリスト教のシンボルでもある。
ギリシャ語の魚「イクチュス」は、イエス・キリスト、神の子、救い主ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡという五つの単語の頭文字をつないだもので、初期キリスト教徒が迫害された時代にキリスト教徒同士のが確認しあう暗号の役目も果たした。
受難の十字架と同様のシンボルだが、魚が海という生命の発祥地に生きることからキリストの神秘そのものも表すとアウグスティヌスが書いている。

ポワソン候補は、このシンボルマークを縦にしているのでポワソンのPの形と似ていなくもないし魚の形で名前を表しているので、一見、なかなかしゃれたロゴに見える。

でもこのポワソン候補はキリスト教政治団体に所属していて、カトリックであり、フランスのようなカトリック文化圏の国においてはこのマークがサブリミナル効果でキリスト教を喚起するのは計算済みだろう。
我らの信ずるところを表に出そう、というのがスローガンだ。

ただし実態は、環境規制に反対する新自由主義者で、蝶々や草よりも親子が大切なのだから環境省は家庭省に従属すべきだなどと言っている。

カトリック陣営からはもちろん異議も出ている。
環境保全を訴える教皇回勅にあるように、環境も人間も神の被造物であり、環境を守ることこそ、すべての命、子供たちの未来にとっても重要であるからだ。

フランスではさすがに、ポワソンのような主張は、環境保全に対するトランプのような主張(アメリカ経済を牽制する中国の陰謀だ)のようには受けない。

COP 21のパリ条約の主導と「成功」は、昨年11月の多発テロの後でのフランスではポジティヴな要因だという合意が形成されているからだ。

でも、例えばサルコジが予備選に勝利したら、ポワソンに取り入って、カトリック保守派の票を固めようとするに違いない。この人が予備選に立候補できたということ自体が、必要な推薦数を確保したということだから十分に力になる。

トランプはアメリカの「中絶禁止」陣営にもすり寄っている。
政教分離共和国主義が徹底しているフランスでは、さすがに今はそこまではいかない。

「中絶の禁止」と「中絶の合法化」とは決してシンメトリーな対立ではない。

「中絶の禁止」とは、中絶する女性や関係者を裁くこと、罰することだが、

「中絶の合法化」とは、中絶を強要するものではもなく、中絶しない人を罰するものでもない。
選択の自由を保障するものだ。

本当の意味での「自由の行使」とは、いつも霊的なものとつながる。

中絶そのものに反対か賛成かという対立とは違うのだ。

「中絶禁止」はキリスト教のブルキニ問題だという人がいた。

女性を性的な側面にモノ化して何かを力で強要するからだ。

「トランプ・ショック」の後でフランス共和党予備選(木曜日に最終公開討論)があるおかげで、いろいろなことが見えてくる。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-16 00:18 | フランス

パリ多発テロから1年経った。(前の記事の続きです)

11/13に、『東京物語』をヴィレット劇場に観にいったのは、シンボリックでもあった。

昨年11/13に130人の犠牲者を出した多発テロから一周年の日だったからだ。
バタクランのホールも再開した。

ヴィレット劇場のアクセスにはセキュリティについて何のコントロールもなかった

上演の前後には併設のカフェで人々がたむろして談笑し、上演後には監督もスタッフも役者も合流する。

外にも人がたくさんいて、いろいろな催し物をのぞいたり、町のカフェには人があふれている。

テロの脅威は今でもある。
非常事態宣言というやつも、来年一月にまた延長されると言われている。

日本からパリに来る観光客、留学生、各種興行もキャンセルが少なくない。

でも、何事もなかったように、パリにいる人々は楽しんでいる。
生活様式を変えない。

このことを、テロの恐怖に勝利した、人々を分断し互いを疑心暗鬼に導こうとするテロリストの思惑を裏切った、と評価する人もいる。

日本から帰ったばかりの私には、なんだか「地震」の恐怖と似ているなあ、というのが実感だ。

地震のないパリから見ると、いついかなる時でも突然の地震におそわれる可能性のある東京の方が恐ろしい。テロなら、自宅で寝ている時には襲われないが、地震は時と場所を選ばない。

3・11の後に日本に行った時など正直言って怖かった。

こんなところでよく人々は何事も起こらないかのように、スカイツリーに上ったり、タワーマンションに住んだり、オリンピックを招致したり、原発を再稼働したり、お店に華麗なガラスや陶器のディスプレイをしたりするなあ、と感心する。

でも、可能な限りの「地震対策」をする、可能な限りの「テロ対策」をする、

後は、もう、運の悪い時に運の悪い場所にい合わせるかどうかのリスクで、それは、自宅の前の道路での交通事故や航空機事故を恐れるかどうかと同じだ。

死ぬことが怖いのではなく、「生きない」ことが怖いのだ、

というのは当たっている。

生きているうちは、豊かに楽しく生きなくてはならない。

ヴィレット・パークには6月に演奏したフィルハーモニーのホールもある。
劇場からも見えている。
思えばあの企画に参加を決めたのは、多発テロの後での「テロの恐怖」へのレジスタンスのつもりだった。

観客として劇場に足を運ぶのも、この世の楽しいこと、美しいことを絶えさせることなく次につないで行くことだ。

地震があっても、災害があっても、テロがあっても、多くの犠牲者が出ても、それでも、文化とアートが完全に消滅することはない。

地震に遭遇すること、テロに遭遇することなど絶対にないかのように東京でもパリでも人々は生きる。

誰でも、生きている間は絶対に死なないかのように生きるのと同じだ。

個の運命を超えたオプティミズムというものに人は支えられている。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-15 18:39 | フランス

笈田ヨシさんの『東京物語』をパリで観る

パリのヴィレット劇場で『東京物語』(Voyage à Tokyo)の芝居を観る。
この写真
この写真
にもあるように、父親役の笈田ヨシさんはまさにはまり役で、今日本でリメイク映画を撮ったとしても彼しか考えられないようなくらいのたたずまいだ。あとは全員フランス語圏の役者で、奥さん役の着物の着こなしがあまりにもバスローブで、いくらなんでも着付けアドバイザーみたいなのがいてもよかったのにと思っていた。

実際は、その「着物」のフェティッシュそのものが「母親」を表していて、女優がそれを脱げば末娘役になったり、長く床に敷かれた「着物」が、寝込んで意識不明になり亡くなる母親になったりする。
着物は衣装でなくコードなのだから、着こなしなど関係がないのだった。

そもそも小津の映画、特に『東京物語』は、フランスで伝説的な人気がある古典中の古典だ。

演出家はドリアン・ロッセルDorian Rosselというまだ41歳のスイス人である。

今回の芝居の評には、

「ロッセルは(映画の)エッセンスを保持している。シンプルで明るい。多くの優しさともの哀しいユーモアとともに。」

「一座のトップに眩いばかりの笈田ヨシを据えて、ドリアン・ロッセルは小津映画の傑作のひとつを舞台にのせるという挑戦をした。」

「ロッセルは持ち前のエネルギー、様式、繊細さで東京物語を劇化した。」

などとある。

『東京物語』は1953年の作だからロッセルと時代的な接点はない。

50年代の日本と今のコントラストをどうするかとか、時代の流れの速さとどう付き合うか、進化する現実とどう向き合うかということなども注目されるが、その他に老いの問題、世代間のすれ違いや距離の問題などの普遍的なテーマがある。

地方が高齢化して都市に若者が集中する今となってはますます深刻なテーマだ。

「分かり合えるのは簡単ではないことを小津は日常生活のシーンの儚さにおいて表現する。都会ではぐれたら一生道に迷い続けなくてはいけない(広い東京を見て母親が語るセリフ)、というのではなく、私は、それを出会いとの中で自分自身を求めることに置き換えたい」

とロッセルは語る。

「笈田ヨシは生きている宝物だ。自分の芸術に情熱を傾けるマエストロだ。彼の参加は贈り物であり名誉である。驚いたことに、仕事の仕方では全く波長が合った。20年前に彼の研修に参加したことに深く影響された。同じ芸術のファミリーに属していることは素晴らしい。彼が望むならまた仕事したい!」とも。

全てのセリフが行間に意味がこめられていて、語られないことにこそメッセージがあるという小津作品(というより日本の表現習慣)をフランス語に移すのだから、フランス語演劇(伝統的にはギリシャ演劇由来の韻をふむ朗詠)におけるセリフとセリフ回しに革命をもたらすかもしれないというコメントもあった。

で、実際、観劇しての感想としては…

まず、言葉の問題はない。
どのセリフもすぐに非言語領域にすっと入って、日本語との違和感が全くなかった。

次の日に、好奇心に駆られて、何十年ぶりかで『東京物語』をインターネットで全編観なおしてしまった。
便利な時代だ。

映画を見て気づくのは、唯一、日本語にあってフランス語にない決定的な言葉が、家族間のヒエラルキーを表す言葉だということだ。

原節子の演じる紀子(戦死した次男の未亡人)は、長男の嫁や長女のシゲを「おねえさん」と呼ぶ。

母親のことを実の子たちが「おかあさん」と呼ぶが、嫁は「おかあさま」と呼ぶ。
長男の嫁は孫目線で「おばあさん」と呼ぶ。

母親が孫息子たちを呼ぶとき、上の中学生の子は「みのるさん」、下の小学生は「いさむちゃん」と呼ぶ。
そういう呼称の微妙な使い分けが人間関係の陰影をつくっていて、誰がどういう立場にいるのかをいつも察して立ち位置を決める日本的な風土が提示される。

当然ながらフランス語ではそれがない。(英語と違って敬称と親称があるからまだましだけれど。)

しかし、今回あらためて映画を観なおして、さらに情報を検索すると驚いた。

いくら「老け役」の名優とはいえ、笠智衆は当時たった49歳、東山千栄子が64歳、長男の山村聡が44歳、長女の杉村春子が48歳、原節子33歳だという。

映画の中の設定では母親が68歳というから、まあ東山千栄子は実年齢に近い。長男や次男の嫁もまあまあだ。
49歳の笠智衆の演ずる父親は70がらみといった設定だろう。違和感がないのは驚く。

昔最初にこの映画を見たときは、この親子たちの世代のどこにも位置しない学生時代だったと思う。

だから、映画の中の誰かの立場に自分を当てはめるということももちろんなかった。
別の世界の出来事がオブジェのように差し出されたという感じだ。

しかし、今は、完全に、ここの老親夫婦の立場と自分が切り離せないし、今は亡くなった両親のことなども思い出される。

一緒に芝居をみたフランス人女性も、「妻、母、祖母」の立場の人だけれど、観劇の後すぐに話し合った時は、自分の家族ヒストリー語りになった。
「家族関係」という、人それぞれに違うが普遍性のある共同体、そこに参加した時は選択の余地のなかった家族共同体での生き方やあり方や、喜びや後悔や恨みなどがどっと喚起される。
芝居に感動というよりノスタルジーに溺れそうだ。

同時に、『東京物語』で病死する母親が68歳という設定は、この老夫婦が、ついこの前アメリカ大統領選を熾烈に戦ったドナルド・トランプとヒラリー・クリントンと全く同世代だということに愕然とする。

まるでパラレルワールドを見ているようだ。

私は両親と日本とフランスという距離を隔てて暮らしていたけれど、昔の「尾道から東京」よりも離れてはいなかった感じだ。
私がフランスに来た40年前からももちろん、時代は劇的に変わった。
今ならメールやラインやスカイプやfacebookなどで世界中に散らばる家族が話し合ったり情報を共有したり、その日何を食べたかの写真を載せたりさえできる。
今の子供たちが大きくなった時には、もう、『東京物語』を観て喚起されるものはまったく別物になっているに違いない。

で、今回の芝居。

主演の父親役だけが日本人だ。
母親役は大柄な若い女性で、東山千栄子と正反対。
年配の女性を使うことも考えたそうだけれど、この芝居は子供の役がプラカードの絵で表現されたり、長男の嫁と長女の夫が同じ俳優だったり、リアリズムを排したさまざまな工夫がされているので、あえて原作の母親の雰囲気に似せはしなかった。

映画の中の日本家屋の格子の引き戸の感じや、その桟の縦の線と、縁側を並べたような床の横の線のコントラストも面白く、すべてが「見立て」になっている。
役者も「見立て」の一部なのだ。
楽器奏者が部隊の奥に透けて見えるのも歌舞伎のな長唄囃子みたいで楽しい。

そういう細かいモザイクのような演出の工夫が興味深いので、クライマックスがないから退屈されるのではないかという監督の心配は無用だった。

原節子の紀子役は、よく雰囲気が出ていた。

映画のように、和室でうずくまるイメージで雰囲気がじっくり醸成されていくのではなく、一つのタブローが出来上がっていく印象だ。

「見立て」の演出の中で、ひとりだけ「ザ・本物」という感じで全編を担っているのが日本人の笈田ヨシさんだ。

訥々とした話しぶり、表情、体の使い方、矜持と諦念と悟りが混ざったような飄々とした、しかしどこかにしなやかな強靭さを秘めている佇まいなど、この芝居の全部が凝縮しているような存在感だ。

妻に先立たれた生活について、最後に「そのうち慣れるじゃろう」という感じで繰り返して幕切れとなるのが映画とは違うのだけれど、ぴったりだった。

映画の笠智衆が49歳だったのに対して笈田さんは83歳。これにも驚く。

後でお食事をご一緒した時に「若さの秘訣は?」と思わず尋ねると、「幸運です」と答えられた。

日本でも活動しているし、オペラの演出など守備範囲も広い。フランスで出版した演劇論の3部作は演劇青年のバイブルのようになっている。

一緒に観に行った女性は、ピーター・ブルックの『マハーバーラタ』の上演でも笈田さんを観たそうだ。

彼女も私も笈田さんも、日本とフランスを何十年も往復している。

出会いも別れも、たくさんあった。

私たちはみな、「東京物語」を生きている。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-15 07:26 | 演劇

『ナポレオンと神』のコメント

新刊の『ナポレオント神』についてのコメント、こぼれ話などをサイトに掲載しました。

あわせてお読みください。

米大統領選とか仏大統領選とか見ていると、リーダー志願者が人の心を動かすのは何によってなのだろうか、とあらためて考えてしまいます。

コルシカ島出身のナポレオンも大陸のエスタブリッシュメントとは程遠い人でした。

その彼が、王をギロチンにかけたフランスのパリで皇帝位に上り詰めるなど、いったい何が起こったのでしょう。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-14 06:51 | お知らせ

『奇蹟がくれた数式』マシュー・ブラウン

帰りの機内で見たイギリス映画。

これも『ターザン』と同じで、帝国主義的、白人優位主義に少し気分が悪くなった。

インドの独学の天才数学者が、いわゆる「免状」を持たないゆえに、エスタブリッシュメントに受け入れられない。

数学の天才という普遍的説得力があるのに、植民地、人種差別、学術システム外差別という壁が厚い。

デーヴ・パテールというおなじみの俳優が1887-1920に生きたラマヌジャンという実在の数学者を演じる。
第一次大戦のトラウマが大きな時代背景となっている。

女神ナマギリからインスピレーションを受ける、神から与えられたものでない真実など意味があるのか、というスタンスの彼と、無神論者で非戦論者で孤独な独身者というハーディ教授の友情物語だが、文化背景のあまりの違いで意思疎通がうまくいかない。

ハーディはケンブリッジの教授で尊敬される成功者だけれどコミュニケーションがうまく取れない。
それでもリトルウッド(トビー・ジョーンズ)という最高の同僚に救われている。このキャラクターがユニークですばらしい。
実際は、ハーディはラマヌジャンより10歳しか年長ではない。リトルウッドは年齢不詳に見えるがハーディより2 歳若い。

この映画を可能にしたのは、プリンストン大学のインド系数学教授が共同制作者になったからで、映画の中でも、インド人の留学生がラマルジャンと交流する。

イギリスは女王をリスペクトしてクリケットをやる国からの移民は差別せずに多様社会を成功させているから移民に人気があると言われているが、基本が共同体の棲み分け社会であって、アングロサクソンのエリートの中に同化されるためのハードルはとても高い。
第一次大戦のころのラマヌジャンが兵士から暴行を受けるシーンなどはリアルで見ているのもつらい。
食糧難の時の菜食主義者の不自由さも切実だ。

研究から祈りや食事に至るまでを枠づける宗教の中で生きる男と、社会規範と良心の自由の間で自己を律するカントみたいな孤独な男の交流。
二人が真に友人ではなかったということが分かる「告白」が、ラマルジャンに「妻がいる」ことだというもので、その衝撃の大きさそのものが今の時代の私たちには驚きだ。

原題は『無限を知っていた男』で、数式の美しさと、エレガンス、無限への感性と超越神や聖なるものへの感性、けれどもそれを「証明」することの願望や必要性、信じるということはどういうことなのか、神を信じるのか、神を信じている人間を信じるのか、などのさまざまな問いを喚起する深遠なものだ。

けれどもその数学的な部分の感動は、その片鱗も暗示してくれないので、抽象的なままに終わってしまうのが残念だ。
私の高校時代『大学への数学』という雑誌に「エレガントな回答を求む」というコーナー(今検索したら「数学セミナー」という雑誌だというから私の記憶違いかもしれない)があって、毎回いろいろ考えたことがある。
エレガントなひらめきというのを目の前にして感嘆させてくれたのは、一年先輩の友人だった。
彼の受験時が東大の受験中止の年に当たり、京大へ進学してそのまま兄弟の数学教授になった人だ。

正しいものも美しくなくては意味がない、という感じはその時に実感した。

この映画ではそういうカタルシス(映画では無理だろうし、映画を見る人の能力では無理なのだろう)がないのが欠落感として残る。

美しい妻やインドに一人取り残されたくない母の思惑などもサイド・ストーリーになっているけれど、携帯電話やインターネットのある時代だったらいったいどういう展開になっていただろうな、などと思う。
若い頃に携帯やメールがあったら人生が変わっていたろうというシーンが私自身にもいくつかあったことを思い出す。
21世紀におけるインド人科学者や技術者のグローバルな活躍を考えるにつけても感慨深い。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-13 01:50 | 映画

トランプファミリーと宗教

しつこいようだがもう一つ気になったというか、検索してもうまく見つからなかったこと。

トランプが「長老派」プロテスタントらしいことは分かっているが、先妻との結婚式や子供たちの洗礼や洗礼親などはどうなっているのだろうか。

これまでアメリカの政治家たちのカップルはアイルランド系カトリックのケネディならフランス系カトリックのジャクリーヌとか、やはりカトリックのシュワルツネッガーがケネディ家の女性と結婚とか、公の部分はわりとわかりやすかった。

でも、トランプは最初の妻が当時共産圏のチェコの女性で、チェコは共産圏でもハプスブルクのせいで一応カトリックがマジョリティで、正教も少しという国。3番目の現夫人もやはり旧共産国ユーゴスラヴィアのスロベニア出身でカトリックの優勢な国だ。
こういう旧共産圏でカトリック文化圏の国はポーランドやハンガリーもそうだが、カトリックのネットワークによって外部とのつながりを維持したこともあって、カトリック・アイデンティティは小さくないと思う。

トランプはこういう相手との結婚や離婚の仕方が、「善き信者」の顔を大切にするアングロサクソン系のピューリタン文化とはかけ離れている。

この節操のなさが逆に、いざとなったらカトリック文化圏のヒスパニックにも親近感を抱いてもらえるのかもしれないし、アングロサクソンのエリートからは忌避されるのか、あるいは、もうあのアメリカでさえ、宗教の帰属なんてどうでもいいエレメントになっているのかよくわからない。

でも、リッチなファミリーにとって、冠婚葬祭、特に子供の各種通過儀礼はシンボリックで大切なはずだから、息子の洗礼式のニュースなどが拾えないかと思って少し検索したのだけれど出てこなかった。

前に書いたように、福音派カトリックと称しているマイク・ペンスと組んでいるように、「プラグマティック」ということなのだろうけれど、宗教ロビーの力はアメリカでまだまだ大きいだろうから、これからの対応の仕方も見ていきたい。

「神」なしで「金」をコントロールするのが難しい文化圏であるのは確かだ。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-12 23:37 | 雑感

フランスのトランプ効果 その5 

トランプ大統領誕生の特別番組をいくつか見た。

フランスでは仏共和党予備選が今月20日に行われる。

トランプ大統領誕生のせいで、社会党シンパの人たちも共和党の予備選に投票に行く、と言い始めている。

つまり、アメリカの民主党予備選で、本選のことを考えずに内輪の事情だけでヒラリーを選んでサンダースを落としたのが本選での敗因だとみなが感じ始めているということだ。

ほおっておいたらポピュリストのサルコジが大統領候補に選ばれるかもしれない。

そして極右のマリーヌ・ル・ペンとの決戦になったら、ル・ペンよりはましだということで皆がサルコジに投票せざるを得なくなるかもしれない、というのだ。

だから、一応現時点で優勢であるとされるアラン・ジュッペに投票してサルコジを予備選で振り落としておこうという。世論調査がどうあれ何が起こるか分からないからだ。

少なくとも私の周りには、今回のトランプ現象を反面教師にして、予備選への介入を目指す人がこうして出てきている。

サルコジも、内務大臣時代から大統領時代にかけて「暴言」を吐き続けてきた。
3番目の妻がいるところや、最初の妻との間に成人した息子が2人いるのもトランプと共通している。

今回の米大統領選に一番ぴったりの形容は「プロレスの興行」だといった人がいた。

すごい形相で殴り合っても、あとはけろりと握手しあえる。
すべては見世物だというわけだ。

フランスならはっきり言って遺恨を残すだろうし、暴言のレベルも違う。

日本なら石原慎太郎や橋下徹というキャラがいるけれど、首相レベルではやはり多少は慎みだか危機管理意識が働くような気がするし、フランスもサルコジのようなタイプはどこか蔑まれる。

エリートからだけではなく民衆からも蔑まれる部分があるのだ。アメリカとは本質的に違う。

トランプが当選した時のために用意していたのか、フランスの女性ジャーナリストがアメリカでトランプ支持の町々を訪ねて住民にインタビューするというドキュメンタリーがあって、先日放送された。

そこで、ジャーナリストはクー・クラックス・クランのメンバーのところにも招待されて、入会の儀式の形を教えてもらったしている。

トランプ支持者は、トランプはすでにすべてを持っているのだから、今回は純粋に自分たちのために立候補してくれたのだ、と確信をもって言う。

それに対してフランスのジャーナリストが、「でもそれはエゴだとか権力のためだとか思いませんか」と質問すると、「いや、私はトランプと直接会って話を聞いて誠実さに確信を持った」と答えていたのが印象的だった。

その他、アメリカに移住して国籍も獲得したフランス人の作家による分析も聞いた。

ホワイトハウス(パリの石切り場から切り出された白い石でできている)という「ホワイト」な場所にもう八年も黒人大統領の家族(オバマは白人とのハーフだがアメリカの定義的には黒人で、夫人と子供たちでさらに印象が強まる)が住んでいることがレイシストの白人の心に潜在的に耐えられなくなっているという指摘もあった。

すごいなあと思う。

それに、そう言って解説したり分析したりアメリカの田舎に潜入取材したりしているフランス人たちはみんな「白人」だ。

日本人のジャーナリストならKKKのメンバーの家に泊めてもらうなんて絶対できないだろうし、文脈が全く変わってくる。

それでも、フランスは公に人種や民族別の統計が存在しないから、ジャーナリストや識者はみな「普遍主義者」のスタンスで語っている。アメリカの貧しい白人たちの差別主義を揶揄している。

でも、私から見ると、こういうシーンでは結局白人同士だしなあ、などと感じざるを得ない。

アメリカよりもずっと中央集権的で大統領の権力も強く、副大統領もいないフランスの大統領選、

どうなるのだろう。

共和党予備選の一週間前に当たるこの日曜は、去年のパリの同時多発テロから一周年。

問題は、何ひとつ、解決していない。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-12 01:52 | フランス

トランプ その4  Habemus Trumpum キリスト教からみた大統領

今回の大統領選におけるキリスト教徒の投票。

アメリカ有権者の25%を占め、共和党支持者の3分の1を占める福音派は、81%がトランプに投票した。

カトリックは、51%がトランプに、45%がヒラリー・クリントンに投票した。

カトリックの支持は、フロリダ、オハイオ、ペンシルヴァニアなど、住民の20%以上がカトリックである地域においては大きな意味を持ったという。

フランシスコ教皇は冷静で丁寧な祝辞をすぐに送っている。

就任後のトランプの動向を見てから反応するという大人な対応だ。

移民排斥や環境問題への反発発言は、教皇庁と真っ向から対立するものだが、中絶や同性婚に対する保守的発言は教皇庁と波長が合う。

副大統領のマイク・ペンスは弁護士で、インディアナ州知事として妊娠中絶のハードルを上げたせいで「超保守キリスト教徒」と称されることもあるが実は共和党として平均的な保守キリスト教徒というところであるらしい。
ヒラリー・クリントン陣営はもちろんこの人を激しく糾弾していたが、トランプの暴言をフォローしてきたコミュニケーション能力は評価されている。

彼の両親は民主党支持のアイルランド系カトリックで、57歳の彼はアメリカ初のカトリック大統領ケネディを幼いころから尊敬していたという。

学生時代にブッシュ・ジュニアと同じ「ボーン・アゲイン」の福音派に共感して、家族の中で立った一人カトリック教会から離れたという。
しかしカトリック離れを公言したことはなく「カトリック福音派」と称して、幼少期のカトリックと福音派プロテスタントの理想をミックスしたような立場にいるらしい。

トランプの方は、父方がドイツ系、母方がスコットランド系でアングロサクソンのエスタブリッシュメントにはルサンチマンがあるのかもしれないが無難な長老派プロテスタントで、移民に橋を渡すのでなく壁を造るような者はキリスト者ではない、とローマ教皇に言われているけれど、すぐに謝罪して見せた。

そういえば無神論者を自称するバーニー・サンダースは4月に教皇と会見している。

レッテルなんて関係なく、実際にどう行動するかが「キリスト者」かどうかの決め手らしい。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-11 05:13 | 宗教

トランプとフランス その3

朝のラジオでトランプ大統領に関するフランス目線のコメントが続いた。

-- オバマ夫妻がトランプ夫妻をさっそくホワイトハウスに招待したことについては、

ブッシュにオバマが招待されるのには一週間待たねばならなかった、でもさすがにアメリカ。フランスなら、大統領交代はエリゼ宮の階段の上で出会って方向を変えるだけだからね。

-- フランスはアメリカの最古の同盟国(独立戦争でアメリカと共にイギリス軍と戦った)。
だからエリートはたいていフランス好き。
それなのにトランプは、1989年に自家用ヨット「トランプ・プリンセス」号をアンティーブの港に停泊させた以外フランスと接点がない。フランスの政治家は誰としてトランプに会ったことはない。経済的にも何の接点もない。トランプはフランスに対する投資はゼロ。

-- ジョークで思わず吹き出したもの。

トランプオランド(フランス大統領)を並べたら、アヒルとフォワグラ」

ここのところ両者の映像を同じくらいの頻度で見せられているフランスだからツボにはまった。

フランス以外で笑いをとれるかどうかはわからないけど。ここのところオランドは「むくんでいる」ような太り方だからね。どっちがアヒルでどっちがフォワグラでもいけるかもしれない。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-10 18:04 | 雑感

フランスから見た米大統領選 その2

ターザンについての記事をアップした後だけれど、米大統領選についての記事へのアクセスが多かったので、フランスから見た今回の大統領選についてもう少し書いておくことにした。
日本ではもちろん英語圏からの情報がメインだと思うので。

アメリカのジャーナリストにはフランス語を自由に話せる人が少なくないから、現地取材中のフランスのメディアにもフランス語で直接コメントする人が多いのも日本では考えにくい。

で、今日の夜の特別番組でいろいろな立場の人から語られた「フランス目線」の見方を覚書。

-- 軍事力はアメリカが断トツでも、GNIの世界一はアメリカでなくEUだ、アメリカとEUがパートナーシップを維持しなければ、次の通称規範は中国発になって「欧米」規範と違ったものになってしまうので重大だ。

-- 1914/8に第一次大戦が勃発した時、すべての人が驚いた。
しかしベルグソンは、「衝撃的な出来事のように見えるがこれまでの経過を冷静に観察すると、これしかない結末だ」と言った。今回も、同じ種類の「自明性」がある。

-- 米大統領の権力は仏大統領の権力よりずっと小さい。議会に反したことは何もできない。

-- トランプはロビー運動家から「買われる」必要はない。

-- 対ロシアと対ISについてはポジティヴな結果が期待できるが対イランはネガティヴ。

--  トランプは2分半しか集中力が続かないのでTwitter向きだが、今は祝いよりも政策を立てるブレーンの選定に真剣になっているだろう。
(しかしすでに副大統領はバリバリの共和派なのだから、丸投げになるのかもしれない。by sekko)

-- 11/20のフランスの共和党予備選と12/4のイタリア憲法改正国民投票への影響。

-- トランプが共和党予備選で対立候補を次々となぎ倒したエネルギーが勝利の鍵だった。
 (「野心」よりも「やる気」が人の心をとらえる。ナポレオンを見るとよくわかる。by sekko)

-- フランスの政治ディスクールは、ルイ14世、ナポレオン、ドゴールと、全世界を視野に入れた普遍主義が特徴。そのためには非現実的な公約が必要で、皆がそれを理解している。

-- トランプを支持した人は、「最後の尊厳のよりどころとしての銃の携帯」の権利を失いたくない人。
民衆にとっての「自分の力」のシンボルである銃所有のメンタリティとトランプ支持がセットになっている。
だから武器を持たないフランスとは違う。

-- プーチンとネタニヤウは歓迎している。トランプはアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムへ移すと言っている。 

-- 仏共和党予備選でサルコジのポピュリズムが有利になるのか ? 
ジュッペは冷たい印象を与える。
      
-- 「変革」を謳うマクロンの方が心をとらえるのか ? しかしENA(政治家のエリートコース)出身のマクロンが変革などできるのか。                                                                             
--  来年の大統領選の最終投票にマリーヌ・ル・ペンが出てくるとしたら、相手は社会党よりもサルコジのような人物の方が勝てるのではないか ? 

-- しかし今のル・ペン(国民戦線FN)はずいぶんとドゴール主義を強調している。
政策も、移民受け入れ規制を除けば極左と重なるくらい社会主義的だ。(極左も極右もEU離脱を唱える。)

などなどだ。参考にどうぞ。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-10 09:33 | 雑感

デヴィッド・イェーツの『ターザンreborn』

帰りの機内で4本の映画を試聴。フランス映画はなかった。

行きの機内で見たアメリカ映画は『ズートピア』だったのだが、コメントを書けなかった。
なんだかとても立派で正しい映画で、そのよくできている具合が、現実のアメリカやこの世界で起こっていることとあまりにもかけ離れているので言葉が出なかったのだ。

ところが帰りの機内で見たアメリカ映画とイギリス映画はあまりにも気分が悪くて、でもこちらの方が現実を反映している。

一つはアメリカ映画の『ターザンreborn』だ。

特殊撮影の迫力あるアクション映画とだけ思えば楽しいだろうが、私にとっては、もろコンラッドの『闇の奥』ですかという息苦しさで、とりあえず「ああ、ベルギーに住んでなくてよかった」、と思うってしまうくらいだ。

それくらいに、オーストリアのクリストフ・ヴァルツの演じるベルギーの公使(はっきり言ってあまりベルギー人っぽく見えない。フラマンでなくワロンということだろうけれど)の演じるレオン・ロムというのが、悪役すぎる。

こういうのを見ていると、ヒトラーのホロコーストよりすごい。
ヒトラーは、自国内のマイノリティを排除したわけだけれど、象牙(これも気分が悪くなるほど大量に獲られている)や宝石を求めて他の文化圏を侵略して、なんの迷いもなくそこに暮らしている人を殺したり奴隷にしたりするのだから。

ベルギーがカトリック国というのもひっかかる。

今のフランスなんかでは、ブラック・アフリカ人でも、セネガルなどイスラム圏から来る人よりも、コンゴから来る人の方がはるかに受け入れられやすい。
カトリック教会の教区民になるからだ。
教区によっては彼らの存在感は大きいし、司祭不足の地域ではコンゴ人の司祭も普通にいる。

でもそれはみな、コンゴがベルギーの植民地だったからだと思うと複雑だ。

タンタンの冒険のコンゴの巻だったって、30年前に読むのと今読むのとではまったく違って、よくこんなものが通用しているなあと思うくらいだ。

その上、この映画のレオン・ロムというのが、最初から最後まで、カトリック的なロザリオの数珠を手にしている。
9歳の時にエルサレムの土産として神父からもらった特殊なロザリオで、これをいつも手に持っていて、最初はその手で花を摘む画像が出て、先住民の部族に囲まれた時もそれをしっかりと握っている。
最後はターザンの首を絞めつける凶器としても使われる。

このベルギー人の奴隷売買をはじめとする蛮行や腐敗ぶりは、ターザンに同行した黒人のジョージ・ワシントン・ウィリアムス博士というアメリカ人によって1890年7月に告発される。

でもこの博士そのものが、黒人だけれど、南北戦争のトラウマを引きずり、多くのインディアンを殺した体験があって罪悪感に苦しんでいる。
そのあたりで、人種差別が単純な黒白の問題ではない錯綜した深刻な問題であるということが表現されているのだろうけれど、アメリカ映画だからアメリカの役割も大切になっているわけだ。

でも全体として気分が悪いし、なんだか、槍を持って集まる先住民の男たちの「非文明的」、「野蛮」な様子の迫力を見ていると、もし私が黒人だったら今さらこんな役を家族や知人には演じてほしくない、などと思ってしまう。

アレクサンダー・スクルスガルドのターザンは逞しい体に少年のようなかわいい表情の頭がついていて、そのギャップがかわいいといえばかわいかった。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-10 03:04 | 映画

アメリカのオレンジ大統領誕生のニュースをフランスで聞く

別のことを書こうと思っていたけれど、起きたらトランプ大統領が誕生していたので、オバマの時の「最初のブラックの大統領」が、今回は「最初のオレンジの大統領」になる(映像で見るトランプの顔は確かにいつもオレンジ色だ)というジョークを思い出した。

このブログでは何度も、遠慮がちにヒラリーよりトランプの方がましかも、と書いてきた。マイケル・ムーアの予想があまりにも説得力があったので、トランプ勝利が予測できて、それでも、いざ大統領になったらちゃんとしたブレーンがついて暴言暴走させないように囲い込むだろうと希望的観測をつなぎたかったからだ。

サンダースが民主党候補になっていたら、選ばれていただろうに。残念だ。

8年前にヒラリーがオバマに敗れた時、KKKなどが「白人の女よりも黒人の男の方がまし」、としてオバマ陣営についた時から、アメリカの「ガラスの天井」というより深いところにあるミソジニーの根を感じた。その時と同じクリントンでは無理だろうとおもった。
健康問題もそうだけれど、彼女は「プロ政治家」すぎる。

「プロの政治家」で、政治人生のすべてを「大統領になること」に目標設定していた野心が見え見えすぎる。
そのイメージを多少なりとも「人間的」にするカードが

「夫の裏切りに耐えた」
「今は孫のいる幸せなおばあちゃんになった」

というふたつくらいしかないのは弱すぎる。

「バーベキュー・パーティを時々一緒にしなくてはならないお隣さん」としては、クリントンよりもトランプの方がはるかにましだ。

いいお隣さんの資質と大統領の資質は違うが、直接選挙におけるインパクトには影響を与える。

これから実際にどういう風にやるのかしらないけれど、選挙運動中にここまで暴言を吐けるというのは、もうピューリタン的な「政治的公正」の建前の時代がアメリカでは終わったということなのだろうか。

フランスだったら一回で葬られているようなことを次々言っていたけれど、先日のドゥテルテの記事でも書いたけれど、言い続けていたら、受ける方も慣れてしまうのかと思うと怖い。

日本との関係で、これで日本が「アメリカ離れ」して「真の意味での自前の平和」に向かうのか「平和の名のもとに自前の軍備」に向かうのかは分からないけれど、どちらも単独にはできないので他の国とのパートナーシップのあり方をじっくり考えなおす時が来たのだろう。

フランスはロシアの離脱、イギリスのEU離脱に続くトランプショックで、国民戦線(フロン・ナショナル)のトップがすぐに祝福し、次はフランスが続く番だと言っていた。

FNのナンバー2は、少なくともこれでアメリカとヨーロッパ間の自由貿易協定(TAFTA)はまとまらないだろうと祝福している。

2015年12月にフランスが主導したCOP21について心配する人もいる。

トランプは環境規制について、アメリカの経済を貶めようとする中国の陰謀だ、みたいな見当はずれなことを言っていたからだ。
でも実際問題として、トランプがパリ協定を覆すことはできないだろう。

またトランプは地元NYでは人気がなかったわけだが、もともとはインターナショナルで多様なニューヨークっ子であるわけだから、大統領になった後は、NYの「血」がバランス感覚を取り戻してくれるのを期待するとコメントした人もいた。

他に、民主党と共和党の大統領が定期的に交代すること自体はフランスでも二大政党のサラダボールの法則(混ぜた方がリスクは回避)と言われているので、悪くないという意見もある。

まあ、共和党内でこれほど分裂したのだから、まず内部調整の方が大変だろうけれど。

フランスの大統領選までも半年を切った。

社会党政権がすっかりネオリベのテクノクラート化しているのはアメリカと同じだったので、政権交代は望まれるところだが、トランプのような役どころはそれこそ国民戦線がやってくれるわけだから、フランス共和党では、アラン・ジュッペのような穏健派が今のところ一番人気なのでほっとする。

アメリカに比べたら(サルコジを除いて)みなエレガントに見える。

今回のことはフランスにとっていい教訓でもある。

そうはいっても州邦の集まりのアメリカと違って中央集権の強いフランスだから、トンでも大統領が出現したらダメージははるかに大きい。

トランプはデモクラシーの「多数決」で選ばれたわけだけれど、一応デモクラシーを受け入れている国のいいところは、インターナショナルなデモクラシーやトランスナショナルなデモクラシーもリスペクトしなくてはならないことだ。

言い換えれば、一つの共同体内でのデモクラシーは信用がおけないけれど、汎共同体、超共同体のデモクラシーとのすり合わせというストッパーがあれば、まだ現時点で「最良」のシステムだといえるかもしれない。

日本での反応はこれからネットで読んでいくつもりだ。ひとまず覚書。
[PR]
# by mariastella | 2016-11-09 18:43 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
カテゴリ
検索
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧