L'art de croire             竹下節子ブログ

今日の記事

フランスの昨夜にアップした今日の記事が、操作エラーで「ファン限定」になっていました。
そんなものがあるのも気づいていませんでした。

お知らせを受けて解除しましたのでよろしくお願いします。
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# by mariastella | 2017-01-08 19:59 | お知らせ

「シャルリー・エブド」事件から2年経って思うこと

日本が全体主義独裁国家になりつつあるのではないかという不安の言葉がサイトのForumに寄せられました

この記事はそれに対する答えに代えるものです。

今、これを書いているのはフランスの1/7で、2015年のシャルリー・エブド襲撃事件からちょうど2周年、シャルリー・エブドの2周年記念号はなかなか読みごたえがあった。

1周年の去年は、前年11月にパリで同時多発テロがあって、人数で言うと記録的な犠牲者が出たこともあって、テロリズムの深刻化、国籍剥奪や緊急体制などの様々な処置も議論されていたので、シャルリー・エブド事件そのものとの距離の取り方が混沌としていた。
その上、去年も、ヨーロッパレベルで、ベルギー、フランスではニース、年末のベルリンと無差別テロが続いたので、様相は、ますます、

「自由に楽しみたいヨーロッパ人が委縮しないで済むようにセキュリティを強化しなくては」

という感じにシフトしていった感がある。

けれども、シャルリー・エブドのテロは、他のテロとは違う。

他の無差別テロは、恐ろしいけれど、いわゆるISやISシンパのテロリストでなくとも、彼らのインスパイアされた人々、社会的、個人的な様々な病理を抱えた人々による暴挙、蛮行と近い。

アメリカでの銃乱射や日本でも繁華街での車の暴走などどこでいつ何が起こるかは分からない。

シリアの内戦にどういう立場をとっているかというような直接の外交問題とは関係のないものがほとんどだ。
それが口実に使われてマインドコントロールされている場合はもちろんあるとしても。

それに対して、シャルリー・エブド編集会議の襲撃は、

「政治的に立場を異にする者を抹殺する」

というタイプのものであった。

こういうと、やはりISが悪い、テロリストが悪いなどと思うかもしれないが、

「政治的に立場を異にする者を抹殺する」

というのは、まさに全体主義独裁の行動パターンである。

ロシアの反政府的ジャーナリストたちも、中国の反政府的ジャーナリストたちも、拉致されたり、白昼何者かによって暗殺されたり、毒殺されたりしている。
それなのにいつの間にかうやむやになっている。

全体主義独裁の行動パターンに合致する。

権力者を批判する表現の自由は否定されるのだ。

そして、こういう言い方をすると誤解を招くのであまり言いたくないけれど、
「欧米民主主義・自由主義」を絶対善とする「先進国」が、それに反するものを、宗教政権であろうと軍事政権であろうと「敵」と認定して殺しに行くのも実は同じパターンだ。

みんな同じパターンで動いている。
ある意味で、日本もそれを踏襲しているにすぎない。

外交上の影響力の大きい世界の主権国の首長の中で、その抹殺パターンを否定して、ひたすら話し合いと弱者支援を通しての平和を訴えているのはローマ教皇くらいだ。

そのローマ教皇でさえ、

「『じぶんちキリスト教』の正義に外れる者は抹殺しても当然」

と主張する少なからぬカトリック信徒たちから執拗に批判されている。
そのうち教皇も抹殺されるかもしれない。

日本の憲法九条は「抹殺パターン」を明確に否定した珍しいものだったけれど、それが例外だったので、行動指針とならぬうちに、早くから「その他大勢」のパターン、昔なじみのパターンに従って変質していった。

それは「原罪」なのだろうか。私たちは、「自分と違うもの、自分を否定するものは消えればいい」とほんとうに思っているのだろうか。

「自分と異なるものによって生かされている、人は関係性のネットワークを途切れずに紡いでいくことで生きている」

ことも私たちは知っているはずだ、とは言えないのだろうか。

怒りや絶望は人の判断を狂わせる。

キリスト教が正しいかどうかなどは知らないが、力によって紛争を解決してはならないという今の教皇の言っていることは正しいと思える。
その「力」が破壊兵器に守られる抑止力であっても同様だ。

どうやってこの確信を日常の生き方のレベルに反映できるのだろうか。

それなしには世界は変わらない。
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# by mariastella | 2017-01-08 00:42 | 雑感

ふくらはぎと中足の関係。 戦争は愛で勝つ?

2017年、新年初のバロック・バレーのクラスに行ったら、20年も踊っているのに、突然新しい感覚が得られた。

クリスティーヌ(そういえば彼女の弟が去年の秋から日本のフランス大使館の文化担当官になっている)が、つま先で立った時に、ふくらはぎが緊張していてはいけない、という。

いわばふくらはぎが中足骨に落ちてしまった、という感覚でないとだめだと。

これのコツがなかなかつかめなかったのだが、1700年代半ばのバレエの本に、ひざを曲げる時は、ひざを曲げるのではなくて足首を曲げるのだと書いてあることを応用したら実感できた。

確かに、踊りでひざを曲げるいわゆる「プリエ」の動作は、もちろんひざが曲がるわけだけれど、実はそうすることで脚と足の角度が小さくなる。だから、ひざを曲げる代わりに足首を曲げるのだと意識すれば、当然ひざも曲がる。

この時、「ひざを曲げる」と意識するのと、「足首を曲げる」と意識するのとでは、ふくらはぎにかかる感覚が変わってくる。

その感覚を思い出しながら、つま先で立つときも、足指と中足骨(足の甲の前半分)の間を曲げるのだという意識で床を押すと、確かにふくらはぎに力が入らない。

バロック・バレーはクラシック・バレーと違って巧みに脱力する部分が多くて気持ちよくできているのだけれど、「筋力で解決」してはいけないことがたくさんある。その緩急、強弱が面白いのだけれど。

その後で、リュリーの「アムール(愛)の勝利」の話になった。

今から10年くらい前に見つかった銅版画で、1681年のこのオペラ・バレエにはバッカスの子供たちとしてルイ14世の子供たちが出演していたことが分かったという。
ルイ14世そのものは1669年以来踊らなかったけれど、このバレエの女性ダンサーはほとんど彼の愛人だったという。子供たちというのも愛人たちの子供が多い。王太子が多分バッカスだったようだ。
コーラスに振付があったこともほぼ分かっているし、歌手がダンサーの踊っている真ん中で歌うこともあって、音楽と歌とダンスが別々に配されていたわけではないことも分かっている。

少なくとも宮廷ヴァージョンでは。

1681年のルイ14世は、アルザスも占領して絶頂期だった。
インドにも手を出していた。
「愛の勝利」にはその舞台であるギリシャ世界に本物の「インド人」も出てきたという。

そして、「愛の勝利」というのは、実は自らの戦功を称えたものなのだけれど、自分の出陣する戦争は力や欲望の戦争ではなくて「愛の戦争」なのだという含意がある。

いつの時代も戦争の言い訳をするリーダー、戦争とは「命」を守るための愛の行為であると主張する支配者がでる。
太陽王を自称する絶対君主でも、あからさまな「力」よりも、太陽の光や熱を「愛や命」の源として「侵略も愛」と正当化したかったのは、やはりキリスト教文化に生きていたからなのだろうか。
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# by mariastella | 2017-01-07 02:02 | 踊り

星の王子さまとプラトンとパスカル

星の王子さまについて前にこんな本を読んだ記事を書いた。

最近、ラジオのコメントと、ある論文を読んだことで、なるほどなあと思った。

ラジオのコメントは、星の王子さまは、jeunisme(若者中心主義というか若さ礼賛主義)のバイブルになっているというのだ。

大人たちが、子供時代の自由な発想、物事の本質を直観する力、といった幻想の楽園を懐古する教えだと。

子供たちが「星の王子さま」を読んで気に入るのは、最初の絵解きのところとキツネとのやりとりの一部だけだと。

まあ、そう言われてみれば納得できる。
よく人生の指南書みたいに扱われているからだ。

もう一つはフランスのDEAの論文で「星の王子さま」のイデオロギーのルーツを分析したものをネットで読んだことで、日本などでは特に「星の王子さま」由来であるかのように言われている様々な警句のほとんどすべてが哲学者や神学者から来ているものだというのが一望できた。

ある意味で、フランスの貴族家庭に生まれ、しっかりと道徳教育を受け、カトリック系の学校に行き、哲学の授業を受けて哲学のバカロレアを通過したというサン・テグジュペリが、20世紀前半のフランス上流の文化生態系の産物だった、という当たり前の事実である。

日本でもえらく有名な星の王子さまに与えるキツネの教え。

「じゃあ秘密を教えるよ。
 とてもかんたんなことだ。
 ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。
 いちばんたいせつなことは、目に見えない」

というやつだ。

On ne voit bien qu'avec le coeur,
l'essentiel est invisible pour les yeux.
(心で見なくてはよく見えないってことさ、
本質というものは目に見えないんだ)

 
本質というのを「かんじんなこと」と訳すものもある。

「本質は目に見えない」というのはプラトンだ。

「心で見なくてはならない」というのはパスカルだ。

 
プラトンは「善」を至高のイデアだとする。太陽が近く可能な光のすべての源であるように、「善」は知的な光の源である。「善」は、それ自体は目に見えないが、物事を見えるようにしてくれるものだ、とソクラテスに言わせた。

パスカルは、

C’est le coeur qui sent Dieu, et non la raison. Voilà ce
que c’est que la foi, Dieu sensible au coeur, non à la rai-
son (Pensées- 278).(神を感じるのは心であって理性ではない。信仰とはこれだ。神は心で知覚できるもので理性ではない(パンセ278)

と言う。

これを普通の日本人が目にしたら、遠い国の遠い時代の別々のことに聞こえるかもしれないけれど、サン・テグジュペリの生きた文化生態系においては、自然に結びついている行動指針の言葉だった。

よく見てみると、肉体の器官としての「目」と「心」を対比しているのではなく、「理性」と「心」の対比であり、それが見る「いちばんたいせつなこと」とか「かんじんなこと」というのは実は、「善」であり「神」なのだ。
特定の価値観が前提になっている。

日本語訳が「いちばんたいせつなこと」とか「かんじんなこと」とあって、「「いちばんたいせつなもの」とか「かんじんなもの」とはなっていないのは本質をとらえている。
「善」や「神」は、「もの」ではなくて「こと」だからだ。

けれども、パスカルがあれほど悩んで「理性」から「心」に「転向」して「パスカルの賭け」を決意したのだけれど、今の「無意識心理学」によれば、理性と心は実は対立関係にあるわけではない。

「判断」「識別」には感情が大きく関係している。いや、感情抜きでは、情報の収集と分類はできても、絶対に結論に至らないという。
理性の機能をつかさどるのは感情だ。情報を最終的に処理するのは「心」だ。

脳と心は同じものではない。脳は頭蓋骨に納まった期間で、様々な働きをするが、「心」はネットワークの中にしか存在しない。心は脳と脳が相互にかかわった結果生まれるものだという。

パスカルにこの知見を読ませたかったなあ、と思う。
(私がパスカルと話したかったと前に書いたのはこういうことも関係している。)

理性と心に関するこのような知見に至るまで、西洋思想の文脈では、プラトン、アウグスティヌス、パスカル、サン・テグジュペリは一連であって大きな変革はなかったのだ。
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# by mariastella | 2017-01-06 00:05 | 哲学

ベルナノスの言葉 その2

<< Les dernières chances du monde sont entre les mains des nations pauvres ou appauvries. C’est, en effet, la dernière chance qui reste au monde de se réformer, et si généreuse et magnanime qu’elle puisse être, une nation opulente ne serait pas capable de mettre beaucoup d’empressement à réformer un système économique et social qui lui a donné la prospérité. Or, si le monde ne se réforme pas, il est perdu. Je veux dire qu’il retombera tôt ou tard à la merci d’un démagogue génial, d’un militaire sans scrupules ou d’une oligarchie de banquiers. >> (Le Chemin de la Croix des Ames)

「世界の最後のチャンスは貧しい国、貧しくなった国々の手にある。富める国はたとえどんなに寛大であっても、自らの繁栄をもたらしてくれた経済と社会のシステムを改革するのに本気でとりくむ力などない。しかし、世界は、変革しないなら、滅びる。遅かれ早かれこの世は巧みな扇動者、勇ましい軍人、少数の金融業者たちの意のままになってしまうということだ。」

この言葉も、まるで今の世界についてのコメントのようだ。
というより、もう、遅いんじゃないか、世界はもう扇動者や軍産共同体の意のままに動かされているのではないかという気もする。
でも、先日書いたベネズエラの「エル・システマ」だとか、キューバの医療制度とか、新自由主義経済の恩恵を受けていない貧しい国で新しい取り組みがなされてきたのは事実だ。

今、これらの国のシステムは揺らいでいるけれど、大国や大資本にすべてつぶされていくのではなく、問題提起が続いてくれるように 願うばかりだ。
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# by mariastella | 2017-01-05 02:24 | フランス

ベルナノスの言葉 その1

ジョルジュ・ベルナノスは60年の生涯の中で第一次大戦と第二次大戦の両方にしっかり遭遇した。そのせいで、フランスやヨーロッパや政治や宗教について観察し考え抜いた人でもある。今聞いてもなるほどと納得できる言葉がたくさんある。

<< Une Démocratie sans démocrates, une République sans citoyens, c’est déjà une dictature, c’est la dictature de l’intrigue et de la corruption. >> (La France contre les robots)
「民主主義者抜きの民主主義、市民抜きの共和国は、すでに一つの独裁だ。謀略と腐敗の独裁である。」


主義や理念だけ掲げていても、その実践者が内部で常に生きた対話を通してそれを更新続けなければ、残るのは私利私欲にとらわれた「独裁」と独裁者による支配だ。

共産主義も社会主義もそうやって壊れていった。
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# by mariastella | 2017-01-04 03:34 | フランス

多難な年明け

元日の夜のTV総合ニュースでは、大警戒のもとで賑やかに過ぎたシャンゼリゼのニューイヤー・イベントのことをやっていた。そういえば、前の年は11月のテロの影響で花火が中止されたのだった。
私は日本にいたからその雰囲気は分からなかった。

で、去年テロがあったニース、ベルギーのブリュクセルやドイツのベルリンなどでもいずれも、無事に年が越せた、ニューヨークもタイムズスクエアに人が集まった、とニュースのアナウンサーがにっこり笑って言っていたのを見て驚いた。

1日深夜のイスタンブールのナイトクラブの無差別射撃、31日と1日と、自爆テロなどで続けてたくさんの犠牲者を出したイラクのバクダッドはまるで数に入っていないかのようだ。
フランスからの距離で言うとNYより近いのに。

やっぱり「欧米」「キリスト教文化圏」視線なのかなあ、と思う。

オランドは1日にイラクに行って現場のフランス軍兵士たちを「慰労」した。
「そんなことをしてISを刺激するなよ」、と思ってしまう。
テロに「宣戦布告」している彼にとってはそれ以外にない選択なのだとは分かるけれど。
武器や戦闘機などを売りまくっている時点で私にとってはアウトだけれど。

今年はエピファニーが教会的には8日だけれど、ガレットはもう出回っている。
スペインでは昔通りに1/6がエピファニーの休日で、三博士がイエスに贈り物をしたことにちなんで子供たちにはプレゼントをもらえるのだそうだ。クリスマス・プレゼントから二週間も経たないのに。

スカンジナビアやアイルランドでは、クリスマス以来毎日灯していたクリスマス大蝋燭を灯す最後の日になる。

私がフランスに住むようになった40年前のクリスマスには、フランスでも、1/6のエピファニーで降誕祭が終わってツリーを片付ける、というのが習慣だった。でも今は、エピファニーも移動祭日で1月いっぱい飾りが出しっぱなしという家や店もある。

フランスでは毎年大統領にガレットが贈られるのだそうだが、フェーブは入っていないそうだ。
ガレット・デ・ロワは王様のガレットで、本来はイエスを礼拝に来た三憲王にちなんで、パイの中のフェーブに当たった人が王冠をかぶって「王様」になるのだけれど、「大統領は王になれない」からだそうだ。

なるほど「王殺し」のフランス革命を継承するシンボルの共和国大統領が戴冠してしまったら洒落にはならない。革命後にも「フランス王」でなく「フランス人の王」だの「フランス人の皇帝」だのという名目で戴冠してきた人たちもいるけれど、第三共和制以降は「王様」はアウトとなっている。

今では日本でもガレット・デ・ロワが登場しているようだ。
昔はガレットと言えば、『シェルブールの雨傘』でのドヌーヴの冠しか知らなかったっけ。

私が一時帰国して当時飯田橋にあったリセ・フランセで教えていた1980年の1月には、6日(フランスのカレンダーで新学期が始まっていた)の給食のデザートがガレットだったらしくて、午後の授業には金髪に金色の紙の冠をつけたままのかわいい女の子がクラスに出席していたのを覚えている。

あの頃にもすでに、中東ではテロがあった。
誰もそんなことを話さなかった。
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# by mariastella | 2017-01-03 02:13 | 雑感

グスターボ・ドゥダメルとニューイヤー・コンサート

元日のウィーンフィルの新年コンサートをTVで聴いて、はじめてグスターボ・ドゥダメルの指揮を見た。

もうウィーンフィルとは何度も共演しているとはいえ、35歳の若いベネズエラ人と、「老舗」ウィーンフィルの面々の取り合わせは不思議な感興を呼び覚ます。

ドゥダメルは、ベネズエラの音楽教育システム「エル・システマ」の出身者で、ロサンジェルス・フィルの音楽監督となった今も、積極的に故郷の子供たちのために献身しているそうだ。

とても楽しそうで、エル・システマのユース・オーケストラを振るときも、ウィーンフィルを振るときも、同じ自然体というのがいい。
アメリカ型の新自由主義に反旗を翻すベネズエラの音楽政策の勝利というのも気持ちがいい。
ベネズエラの音楽にキューバの医学。
どちらも人間を育て、癒す。

ドゥダメルを愛する人たちはその生き方そのものも愛しているのだ。

エル・システマには「ホワイトハンド」コーラスというのがあって、肉体的・精神的障害を持つ子供たちと白い手袋をした手の動きで歌う聴覚障害・聾唖の子供たちがからなる合唱団だそうだ。

どんなものかと思っていたが、ドゥダメルを見ていると、その意味が分かる。

指揮するドゥダメルが、振付師に似ているからだ。

特に、時々、両手をおろして、まるでタクトを振るのをやめてしまったかのように見えるとき、彼が、オーケストラと一緒に「踊っている」こと、「指揮は振付けなのだ」ということが分かる。

「ジェスチャーによるコーラス」との距離は近い。
というより、内的な振付なしの音楽なんて考えられない。

以前に、聴覚障碍者のために、全身に振動で音楽を伝える活動をしていた方とお話したことがあったけれど、音楽を発する側も全知覚、全人間的なものだと分かる。

音楽とダンスの関係についてあらためてヒントを得ることができた。
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# by mariastella | 2017-01-02 00:14 | 音楽

新年のごあいさつ。 パスカルとクリスマス

これを書いているのは大晦日の午後です。
でもアップする頃には日本ではもう2017年に暦が変わっているでしょう。

だから、まず、このブログを読んでくださっている読者の方々に、2017年が平和で穏やかな年になりますようにご挨拶します。

私にとって2016年は大きな変化のあった年でした。

ひとつは、眼鏡もコンタクトレンズもいらなくなって活動時間が長く有効になったこと。
その一つの結果が、もう半年以上もブログを毎日更新していることに表れています。

前は、気づいたこと、思いついたことは、とりあえずストックして寝かしておいたのですが、その8割くらいは、全体の思考回路に加えてもらえないまま忘れられたという状況がありました。

今はかなりのことをブログに載せることでフロー化しているので、回転率がよくなった気がします。

読者を想定していない覚書なのでコメントも閉鎖しているわけですが、思いがけないところで私のブログを紹介してくださる人がいることを教えていただいたりして、少しはお役に立っていることもあるのかとうれしいです。
想定読者もテーマもないのですが、誠実に書くことを心がけているので、「あの人に読まれたらやばい」というようなものはないと思います。

変化と言えば、今年は、ブーレーズ・パスカルを見る目とクリスマスを見る目が劇的に変わりました。
何か決定的なことが起こったわけではなく、長年の積み重ねがある一線を越えて質的に変化したという感じです。

年末はとても忙しかったのですが、たった一日自分の時間が持てた時に、国立図書館のパスカル展(パスカル、心と理性)に駆けつけました。

パスカルが完全に分かったので、それを確認するためでした。

何がどう分かったのかというと長くなるので書けませんが、言えることは、今パスカルが私の前にいてEntretien avec M. de Saci. 1655. のように彼と対話ができたら、彼を、アウグスティヌスの呪縛から解き放つことができるような気がしていることです。

大げさだと思われるかもしれませんが、パスカルと同じ土俵で、同じ言葉と同じ感性を使って彼を助けることができる気がします。もっともそうしたら、『パンセ』の半分は残らなかったかもしれませんが…。

キリスト教におけるノイズとの付き合い方が自分の中ではっきり分かった年でした。

ノイズだから重要でないとか意味がないとかいうことではありません。

時代や場所が規定する文化や伝統の形としての典礼や神学、人間性と社会心理学的考察などからきれいに距離を置くコツがわかったということです。

クリスマスもそういう形で現れました。

キリスト教の降誕祭としてのキリスト教は、昔は、「救世主の誕生」、星が羊飼いを導くとか、三博士の礼拝とか馬小屋とか、ハレルヤとか「聖夜」とか、要するにまあ「おめでたい」出来事だと把握していました。

ところがある時から、あまりおめでたく思えなくなってきていました。

飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃん、この子が33年後にああいう無残な殺され方をすると知っているのに、どうしてみんな喜べるのだろう、と思ったのです。
もちろんその後で「復活」して神の子だとか永遠の命だとかいうことになって全人類を救うのかもしれませんが、まあ、私が親だったら、そんな立派なモノになってくれなくてもいいから、親の目の前で仲間に裏切られ鞭打たれ釘打たれて磔にされて息絶えるのだけは見たくない、と思ったからです(まあ、だから私の子は救世主にはなれないでしょうが)。

しかも、わずか3、4ヶ月後の復活祭の前には嫌になるほど受難の姿を見せつけられ、その後に復活昇天したとはいえ、どの教会にも十字架上の最悪のシーンが飾られているのに、クリスマスの時だけ、「わーい、救世主が生まれた」などと喜ぶ気がしなかったのです。

で、いろいろありまして、信仰の社会的表現である宗教のレトリックと「福音」とを自然にきれいに分けて考えることができるようになり、その後でクリスマスが来てみると…

残ったのは、

赤ん坊が1人、

でした。

神は自分の言葉(ロゴス)を人の形で世に送ったのに、言葉も話せない人間の赤ちゃんにそれを託しました。
アダムとイヴなんて神の似姿で「大人」だったのだから、天使とか預言者とかスーパーヒーローの姿でもよかったのに。

それが新生児。

この子を生かすこと、この子が言葉を覚えて話せるようになれるまで育てること、は神ではなく、人間の大人にしかできません。

イエスは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25-40)」といって、弱者を助ける、弱者に仕えることを、救いいを得る業としましたが、イエス自身が、旅先で生まれた新生児、そのすぐ後で亡命を余儀なくされた赤ん坊であったのだから、納得がいきます。

ルルドで病人のためのボランティアをする人たちが、病者の中にイエスを見る、と言っているのも当然だなあと思います。

クリスマスに、だれの助けも得られず両親にだけ見守られて生まれてしまった赤ん坊、放置されれば生きていけないこの子を守らなくてはいけない、みんなで、あるいは、自分の心の中で。

イエスを救世主とする「福音」を信じたいという人は、言葉もなく寝たきりで一人で生きていけない赤ん坊に寄り添うしかない。

天使が歌わなくても、星が導いてくれなくとも、三博士のプレゼントがなくとも、今ここで、裸の赤ん坊を温めて、抱いて、あやして、飲ませて、守ってやる以外に大切なことはない。

今年のクリスマスには、教会のプレセピオに一本の藁を置き、そこに寝かされた赤ちゃんの人形を見て、難民キャンプで暮らす赤ちゃんたちや、他の人の助けなしでは生存が不可能なすべての人々のことを本当の意味で考えることができました。
秋に釜ヶ崎に連れて行っていただいたこともシンクロします。「あいりん地区」ってそのものずばりでした。

日本では、クリスマスが終わったら、即「お正月」モードに切り替わり、それこそ、前の年を無事に過ごせた人ならそれを感謝し新しい年を祝うところですが、フランスは、クリスマスから、三博士の礼拝(エピファニー)やら生後40日でのエルサレムの「お宮参り」まで、「クリスマス・ストーリー」が続いているので、この話を新年のご挨拶に代えました。

みなさま、よいお年を。
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# by mariastella | 2017-01-01 00:05 | 宗教

プーチンとロシア正教

(これは昨日の続きです)

プーチンがヨーロッパにすり寄るには「キリスト教を」使う。前にも何度か書いたけれど、ロシア正教の使い方が、ヨーロッパ的には前近代的だ。

プーチンはよき正教徒であることをを自認していて、ことあるごとに、自分はソビエト政権下で母親自らの手で洗礼を受けたのだ、と証言している。

ソ連が崩壊する過程で、正教がナショナリズムの形成に役立ったのは理解できる。

もともと、ロシアの共産主義自体が、宗教のようなものだった。
スターリンは「ローマ法王は装甲部隊をいくつ持っているのか」と尋ねたと言われるし、
プーチンは、セーヌ河畔のロシア正教カテドラルの建設についてフランスと交渉した時に、
「カテドラル一つ造るのにエアバスを何機買えばいいのか」と聞いたと言われる。(当時の文化相の回想)

シリアの反政府軍への空爆を非難されたせいで10/19のカテドラル落成にプーチンは出席をキャンセルしたが、12/4には1億5千万人のロシア正教徒の頂点に立つキリル大主教が初めてフランスでのカテドラルの献堂式を行った。
パリ市長が出席した。

キリル大主教は、ロシアとヨーロッパの屋根の上でどんなに風が吹きすさんでいても、屋根の下ではみなが仲良くやっている、カテドラルの建設を祝うのは、ロシアとヨーロッパの人民と文化の親愛のシンボルだ、という感じのスピーチをした。

ロシア正教は必ずしもプーチンと同じ政見を持っているわけではないが、互いに互いを必要として一種の紳士協定を結んでいる。
シリアの反政府軍への攻撃も、ロシア正教から正式に支持されていた。
「中東のキリスト教徒を救うための正当防衛」という名目が使われた。

「キリスト教」を切り札にすれば、いろいろなことができる。

実は、今のほとんどのロシア人にとって、正教徒であることは宗教行為とほとんど関係のない愛国主義アイデンティティで、「キリストなしの正教」などと言われている。

で、プーチンのレトリックにおけるキリスト教というのは、なんと「ヨーロッパの白人のキリスト教」であり、だからこそロシアはヨーロッパと共にイスラム教を「征伐」する、という差別的含意が透けて見える。

けれども、ヨーロッパのほとんどの国は、EUの起源にあるキリスト教文化という言葉をあらゆる憲章から周到に消去したように、「世俗性」と「多様性」を建前にしている。

特にフランスのような無神論イデオロギーで近代革命を経た国では、「キリスト教仲間だから友好関係」というレトリックなどタブーに等しい。

だからプーチンが、セーヌ河畔に金ぴかドームのカテドラルを建てて「ロシアとヨーロッパの共通のルーツ」みたいなものを刷り込もうとするのは、どこかアナクロニックに響くのだ。

30日、プーチンはアメリカのロシア外交官35人国外退去処分に対して同じ形での報復処置はしないと表明した。冷静なプーチンの方が、なんだか怖い。

ともあれ、プーチンやメルケルのように長く政権に留まる人たちは、いろいろな意味で奥が深い。
同時代に彼らを観察できるのは興味が尽きない。
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# by mariastella | 2016-12-31 05:35 | 宗教

年末のニュース、オランドとプーチン

以前の記事でも触れたジャクリーヌ・ソヴァージュさんが28日に大統領による全恩赦を受けて娘たちのところに戻った。

オランドが来期に出馬しないと表明してから、多分、この不発に終わった部分恩赦を全恩赦に変えるだろうと予想していたのだが、それが当たった。
ジャーナリストへの暴露インタビューで、司法への不信を口にして謝罪に追い込まれていたくらいだから。

でも、この王政の名残である「恩赦」の制度を使うのは、社会党マインドのオランド自身が原則的に躊躇していたらしい。

でも今年の初めにJS(ソヴァージュ)さんの娘たちをエリゼ宮に招いてかなり心を動かされたというから、司法に裏切られた末、やはり強権発動に踏み切ったというべきか。

司法の側は怒っている。何度も法律にのっとって様々な制約をクリアして釈放拒否の判決を出しているのに、自由な大権であっさり覆されるのなら、これからみんなが司法を通さずに大統領府の門を叩くことになる、と。

しかし、JSさんには再犯の恐れというのはゼロだし、共に犠牲者だった娘たちが母親を救おうとして引き取るのだから、さすがに、政治家たちはみな賛意を表明している。
娘さんたちが父親から性暴力を受けていたのを守れなかったことでJSさんを責める声もあったというが、彼女は当時それに気づいていなかったという。
いや、自分自身が毎日激しい暴力の犠牲になっている時、人の識別力など曇ってしまうとしても無理はない。

仮にJSさんが、夫が娘に乱暴しているのを現行犯で目撃してその時に猟銃を持ち出して撃ち殺していたとしたらどうなんだろう。いや、そんなことをして娘たちのトラウマをより拡大するよりも、たった一人で謀殺を選んだわけだ。ともかく、すでに4年も投獄されていたのだから、この釈放は誰が聞いてもほっとするニュースだった。

それにしても、こんなことすら「いいニュース」だと感じられるくらいに、世界中から悪いニュースがどんどん届いている。

29日には、いいのか悪いのか分からない奇妙なニュースも入ってきた。

ロシアが「欧米」抜きで、トルコ、シリア、シリア反政府軍、の代表を集めて停戦条約をまとめようとしていることだ。

ISとの戦いは終わっていないので、クルド軍は相変わらず戦っている。

でも、アレッポをあれだけ叩いた後で、どう停戦に持っていくのだろう 。
アレッポでのロシア軍の容赦のない感じは不思議ではなかった。
今時、アメリカだってあれほどの絨毯攻撃はしない。
チェチェン戦争のグロズヌイ攻撃のことを思い出す。

そういうあからさまな殲滅作戦みたいなのを堂々とやって、プーチンは一方で、安倍首相と会ったり、トランプやフィヨンにすり寄ったり、イランや中国やトルコに働きかけたり、「外交」にも勤しんでいる。

その中で、フランスとヨーロッパに向けたレトリックがまたアナクロニックで不思議なものだ。(続く)
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# by mariastella | 2016-12-30 07:35 | 雑感

童話における男の子と女の子

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レミとミーファの冒険
のラストシーンです。

このDVDはまだ仲間のフランス人にしか見せていないのですが、そのうち2人が運悪く?フェミニストの活動家(一人はLGBTの活動家でもあります)で、彼女らから、男の子と女の子を主人公にすること自体に疑問を呈されました。

森に入っていくのに女の子だけがスカートだとか、カゴを持っているとか、行き先を指さして先導するのが男の子だとはいかがなものか、と。

私はそうは思いません。

まあ、この2人は日本語が分からないので、イラストだけを見てストーリーを追うのでそういうことが気になるというのは分かります。

でもナレーションでは、最初と最後にレミとミーファと出てきますが、後はずっと「子供たち」であり、男の子と女の子の区別をまったくしていません。

レミとミーファはもちろん音名のドレミファ由来ですが、日本ならレミだって女の子名でもあるし、それ自体は性別が曖昧です。もちろんフランス語ならレミは男の子だし、レとミは一音差だけどミとファは半音で軟弱だと文句をつけられそうです。

でも私の反論はこうです。

まず、大人たちからの余計な刷り込みさえなければ、子供たちは絵本を読むときに、自分の性別による感情移入をしません。
「星の王子さま」に「星の王女さま」が出てこないからと言って疎外感など感じません。アンパンマンがアンパンウーマンでなくとも平気です。三匹の子豚だって、人間でなくとも、また自分が末っ子とかでなくとも、子供というのは、一番気に入ったキャラに自分を投影します。

だから、女の子が、ミーファを見て、ああ、自分はカゴを持ってレミに従わなきゃいけない立場なのだなあなどと卑屈になるなんてことはまずないと思います。
こんなストーリーで、2人が同じ格好をして全く同じことをするという必要はないと思います。

それだけではなく、1人がイニシアティヴをとって前に進み、1人がちょっとおずおずして後ろからついていくように見える図柄があっても私はいいと思うのです。

それは男の子と女の子の役割の刷り込みなどではなく、どんな子供の中にもある二面性の表現だと思うのです。陰陽の原理や太極図と同じで、別にわざわざ全体をグレーにまとめなくても、黒白でひとつを提示するのは悪いことだとは思えないのです。

「先に進む男の子がリーダーで後に付き従う女の子は従属している」

とも言われましたが、私はそれも文化的な刷り込みがあるかもしれない、といい返しました。

戦争などで突撃隊とか、やくざの鉄砲玉とか、危険なところに真っ先にやられる捨て駒がいて、あるいは露払いがいて、リーダーは背後でゆっくり構えてリスクをおかさない、というシーンだっていくらでもあるわけですから。

しかし、今はなかなか難しい時代だなあと思いました。

同時に、今でも、子供時代に「女の子だから」とか「男の子でないから」とか「男の子に負けないように」とか、いろいろ親に言われてきたことで抑圧されてきたという意識を持つ女性がたくさんいることを、フェミニストのブログなどで読むたびに衝撃を受けます。

そのたぐいの言葉は、私自身は、少なくとも家庭内では一度たりとも耳にしたことがなかったので、そんなことをいう親がいることすら信じられませんでした。

危機管理や行政文書は別として、性別がアイデンティティの一部であったことはないのです。

この音楽ストーリー構成は「ピーターと狼」にヒントを得ましたが、ピーターが男の子だからといって「男の子向けの話」ではありません。

男の子と女の子が出てくるこれまでのよくある童話はたいてい批判されます。
難しいところです。

それに反論すると、「あなたは特別だから(分からないのです)」と返されてしまいます。でも、

「女の子も受動的ではなく能動的でなくてはいけない、決断して前に進まねばならない、それをさせないのが文化的刷り込みだ」

と言われても、だれでも、時と場合によっては受動的でいたい場合もあるだろうし、いろいろな能力の多寡によって、前に進めないこともあるだろうし、決断したくないことだってある、と思ってしまうのです。

誰かが前に進みたいし前に進む能力もあるのに社会や他者からの圧力で自由を遮られるような状況は打破されるべきですが、勇気や覇気が他の徳よりも特別上位にあるものだとも思えないのです。

先週の仲間うちでの議論がなんとなく心の中で尾を引いていて、その時は完全には言語化できなかったので、ここに覚書にしてみました。
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# by mariastella | 2016-12-29 02:41 | 雑感

「ハドソン川の奇跡」クリント・イーストウッド

少し前に観た映画。

その前に見た『インフェルノ』に続いてトム・ハンクスが主演だった。

ここの映画でも、ヒーローなのに、悪夢から覚める最初のシーンから、トラウマを背負って情けない感じで、インフェルノの冒頭が幻覚から覚めるのとかぶって、なんだか、トム・ハンクスって哀れをそそるなあと思ってしまった。

しかし、短いスパンの出来事をうまくフラッシュバックさせてよくできている。
乗客の扱いはミニマムで、母子と親切な隣席の人、ぎりぎりで乗り込めた父子など、少ないのに効果的に配されている。
結末を知っているのにどきどきする。

でも水温が2度で、体感温度は零下20度のNYなんて、私ならあの状況で、低体温で死ぬんじゃないかと思う。まあみなストレスでアドレナリン全開だからもったのかもしれないが。

鳥に突っ込まれてエンジン停止、左旋回して見えたハドソン川への不時着水を試みる機長。

「ラガーディアに行くにはマンハッタンを横断しなければいけない。そこは人口密集エリアだ。もし地上に被害を及ぼすことになったら…」。と、リスクを見積もったと報告書にあるそうだ。

いやでも、沖縄のオスプレイの「不時着水」を思い出す。
あちらは翼も折れて明らかに墜落だと言われているけれど、ニコルソン調整官という人が、住民に被害がなかったのだから感謝しろと言ったとか言わないとか批判されていた。

実際の会見では「私たちは副知事と話し、遺憾だと伝えた。この事故は遺憾なものである。しかし、私たちは沖縄の人々を危険から救おうとした若いパイロットの偉大なる行動については、全く遺憾だとは思わない。」と、言ったそうだ。

オスプレイのパイロットは負傷して入院した。
ハドソン川の「サリー」は無傷だった。

「ハドソン川の奇跡」の事件は、アメリカではものすごいインパクトのあるものだった。
日本でも、「アメリカ通」の人事関係者は、それ以来、「望むべき人材のプロフィール」として「ハドソン川」を引き合いにするそうだ。

確かに、9・11で飛行機に突っ込まれるテロを経験したニューヨーカーのトラウマは半端なものではなかったろう、と今更ながらに思う。

その上に2008年の金融危機の直後の2009年1月だったから、事故で「犠牲者ゼロ」という結果は人々の心をどんなに癒したことだろう。

でも、如何せん、ニューヨーカー、アメリカ人という「当事者」でない場合、メディアは、「心温まる話」や「勇気を与えてくれる話」などよりも、これでもかこれでもかと世界の悲惨を語ったり、来るべき不安を煽ったりすることの方がはるかに多い。
「世界の終り」の方が「売れる」のだろうし、人々が無意識に「怖いもの」に惹きつけられるのかもしれない。悪い予想が外れても誰も文句を言わないけれど、いい予想が外れると責任をとれと言われるかもしれない。

だからフランスにいると、「ハドソン川の奇跡」は普通の「ちょっとしたいいニュース」くらいですぐ忘れられるものだったけれど、アメリカにとっては救世主のような事件だったのだろう。
だから沖縄のオスプレイを「不時着水」とした強弁の裏にも本物の思い入れがあり、「沖縄の市民を救ったヒーロー」という発想は、「植民地に対する傲慢な態度」というより実感だったのかもしれない。

事故の場合のチェックリストは3ページもあって、アナログで、実用的ではない。
飛行歴42年の機長は豊富な経験をもとに、ほとんど直感で行動した。

ほんとうにこの機長はアメリカン・ヒーローの要素をそなえている。

「勇気と忠誠心と善良さ」。

こういうシーンだとフランスの「自由・平等・博愛」のスローガンなど唱えても何の役にも立たないだろう。

実際のサリー機長の写真を見ると、トム・ハンクスよりずっとかっこいい人だった。

自分も航空安全委員会の公聴会の調査側に立った経験があったので、エンジンが止まった時、

「これから自分の言う言葉も行動もすべてが今後10年先まで厳しくチェックされるだろう」

と瞬時に意識したそうだ。

けれどもそれが判断を惑わせることにはならなかったという。
人間の脳って、いざとなればコンピューターよりも早く複数のことを同時に高速で考える。

今読んでいる『あなたの人生の科学』ディヴィッド・ブルックス(ハヤカワ文庫NF)に、人間の脳は同時に1100
万個もの情報を扱えるが、意識しているのはせいぜい40個くらいだという説が紹介されていた。全ての情報処理は無意識によって行われていると。
(この頃自分でもそれを実感するようになった。いろいろなものをインプットして寝かせておくと、ざわざわと何か動いて、すっきり言語化されて出てくることがある)

それにしても、2009年初めのNY、テロと金融危機でニューヨーカーが「恐れと不信」の中にいた時期だからこそ、サリーはヒーローになった。
「奇跡」だけでは必ずしもヒーローは生まれない。
乗客を救うというより、自分の生存本能をプロとしての判断力に投入した。
生きるために全員を救った。

フランス国内でドイツ系の航空機の副機長が心中のようにわざと墜落させた事件とつい比べてしまう。
フランスではこちらの方が当然記憶に残って、定期的に飛行機を使う身としてはトラウマになりそうな事件だった。

それと比べたらえらい違いで、プロフェッショナルが危機を前にして平常心を失わず最適の判断を下す、ということのありがたさと難しさをあらためて感じる。
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# by mariastella | 2016-12-28 01:30 | 映画

田村洋さんのoriental dance のことなど

2014年の日本のコンサートで初演したバロック音楽童話『レミとミーファの冒険』は当初思ってもみなかった展開をしました。

バロック・オペラ仕立てのコンサート用の曲を、養護施設の子供たちのために作った物語に合わせて配したものですが、これに2人の方からの提案がありました。

調布美術研究所の師井栄治さんがイラストとナレーションをつけたデジタル童話をつくることを提案してくださり、そのために去年私たちもスタジオ録音して、このほどようやく完成しました。
来年に入ったらいろいろな形で配信できるようにします。

もう一人は、山陽小野田市芸術顧問の田村洋さんで、同じものを宇部市のコンサートで小中学生向けのコンサート仕立てにした時に聴きに来てくださいました。

夕方のバロック・オペラ仕立てのものは時間の都合で無理で午後のものにいらしたということでしたが、私たちの正五度ギターのバロック曲の演奏を的確にキャッチしてくださって、楽屋に訪ねてきて、私たちのために曲を作りますとおっしゃっていました。

先週、トリオで今年の練習おさめをしていた時、日本に一時帰国していた友人が楽譜をもってきてくれたので、さっそく弾いてみました。
すごく現代的な曲だったらどうしようかと心配だったのですが、弾いてみた「oriental dance 」の1番(tree of a dreamという副題がついています)と3番は、夢幻的でもあり祭礼的でもあり、別世界へのいざない、という雰囲気がフランス・バロック的で、私たちの新しいレパートリー(ラモー8曲)と全く違和感がありません。

全く面識のない同士が、宇部市の「ヒストリア宇部」でたった小一時間を共有しただけで、生の音による「出会い」があり、それが新しいものを生み出していくというのは驚きで、不思議で、わくわくします。

人生にはサプライズがいっぱいだなあと実感します。

来年の秋にはそれをまたいろいろな人と分け合いたいと楽しみにしています。
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# by mariastella | 2016-12-27 06:46 | 音楽

猫カレンダーのコラージュ

前回 アップしたカレンダーの図柄コラージュを気にいってくれた方がいたので、同じく猫カレンダーからのコラージュを披露します。2008年のカレンダーでした。これはもっと手抜きで20分もかかっていません。丁寧に切っていたらもっとマシかも。実はもっと丁寧なコラージュもよくやっていて、そういうのはテーマごとにいろんな人にプレゼントしていました。今なら、差し上げる前に写真にとってデジタル保存していたのになあと少し残念です。
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# by mariastella | 2016-12-26 00:42 |

メリークリスマス!

この2つのコラージュは、10年くらい前にもらったイタリア製の聖母子カレンダーの画像で、1年が終わった後で、画像を切り取って2つ作ったものです。両方で30分くらいで雑に作ったものですが、並べて飾ってみたらなかなか素敵なので、みんなに褒められます。私が作ったと言ったらなんだかがっかりされるのはどうして....

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# by mariastella | 2016-12-25 07:59 | 宗教

羊飼いの礼拝

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数年前、ドレスデンのクリスマスマーケットで買ったクリスマスの馬小屋。羊飼いたちが幼子イエスのもとに来ます。名もない庶民の代表です。
羊飼いの礼拝と言えばこの絵を思い出します。

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こんなふうに手を伸ばすのはどう見ても3ヵ月以降の赤ちゃんなので、生まれたてとは言えませんが、こんなに子羊との距離が近くて、後ろから羊飼いがリスクを回避するために羊を抑えている仕草が、赤ちゃんが触ろうとする猫を抑えるのと似ていて微笑ましいなぁといつも思ってしまいます。
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# by mariastella | 2016-12-24 00:13 | アート

バッハとラモー

クリスマス休暇で授業やレッスンがなくなったメンバーと、来年のコンサートに向けた新しいラモーの8曲を3日ほど集中練習した。

もちろんギタリスティックなものばかりを選んでいるのだけれど、ほんとうに、ギターの音で別世界が広がる。

それにしても、私たちはラモーのどんな小曲(すべてオペラの間奏曲とダンス曲)でも、研究し尽くし、議論し尽くし、試行錯誤を続けるのだけれど、その度に発見、驚き、感動がある。

時間に裂け目ができ、空間があらゆる方向に押し広げられる感じがする。

同時に、どうして世間の多くの人が、ラモーの曲を敬遠したり軽く見たりするのかという理由が分かってくる。
ずばり、ラモーのオペラを上演するオーケストラは、時間をかけないからだ。
リハーサル一回にかかるコストの問題だ。
ほとんどのオーケストラが、すごく少ないリハーサルで本番にかかる。

ラモーの世界は強靭で複雑な精神世界なので、弾く側も一定以上の「知性」を駆使しなくてはならない。
ラモーの秘密の一定線を越えなければ、時間の裂け目や空間の変化を感知できない。

前にも一度、ラモーにあってバッハにないものは「間」だと書いた。

バッハの曲を例えばチェンバロで弾くとすると、速いパッセージがたくさんあるし、構成も複雑で、何しろあらゆるところにびっしり音符がつまっていて、密度が異常に高いので、かなりの練習が必要だ。
けれどもいったん、指のメカニズムが動き出すと、後は楽譜がものを言ってくれる。
饒舌だ。
例えていえばフィレンツェの大聖堂のそばにあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂の天井を埋めるモザイク画だとか、「スペイン人礼拝堂」の、壁も天井も柱もびっしり埋め尽くしたフレスコ画を連想する。

そう、バッハの音楽は、「祈り」なのだ。神の造った宇宙をくまなく讃えようとする信仰の情念が沸き立ってすべてを埋め尽くす、という感じ。バッハは信仰者だった。それは間違いない。

それに対して、ラモーの音楽は、「頭脳」でできている。
無神論者の音楽だという人もいる。
無神論者というよりソリプシストかもしれない。
(ソリプシストについては前に延々と書いたことがある。)

ラモーの音楽には「間」がある。

その「間」が、「間」ではない部分に意味を持たせる。

ラモーの膨大なハーモニー諭や数学体系の中には無限の要素があって、彼は神のように、好きなようにそこからいろいろ取り出しながら、組み合わせ、クリエーションを行う。

予測はできない。無からの恣意的な創造だから。

しかもそのベースには上機嫌がある。

『創世記』の神が天や地や鳥や獣や魚など創造するたびに、その後で

「神はこれを見て、良しとされた。」

と書かれているように、ラモーも、

「うんうん、さすがにぼくのクリエーションってなかなかいいよね」

と満足しているような、そんな感じだ。

粘土でいろいろなものを作っていく子供のように無邪気で明るい。

けれど、そのベースには、絶対の自信とノウハウと全能感がある。

「祈り」とは言えない。

ラモーを弾くには、そのクリエーションに参加しなくてはならない。
「協働」というやつだ。だから、彼の創造の秘密を徹底的に探らなければならない。

ラモーの「間」を理解して迫ると、クリエーションが理解できる。
ラモーを弾くのは祈りというより、恵みだ。

ラモー研究者といっしょに何十年も弾きながら、いつも、褪せることのない驚嘆を分かち合える私は本当に恵まれている。
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# by mariastella | 2016-12-23 03:52 | 音楽

ベルリンのテロと「民主主義」

これを書いている時点で、今度は24歳のチュニジア人が先日のテロの容疑者として捜索されているようだ。

メルケル首相は、こんな時でも、「戦争だ」とか言わないで、

「民主主義の根幹はオープンであること」にあるから、移民へのオープンドア政策そのものは見直すつもりがない、

という姿勢を(今のところ)貫いている。

この「民主主義」(彼女の政党もこの言葉を冠している)という言葉は、ドイツにとって大切なお題目なのだなあというのが実感される。

前に、アメリカのお題目の価値観は勇気と忠誠と親切心だと書いた。

この「親切心」が、勇気と結びついて識別を誤ると、よその国に出向いて行って、独裁者に支配されている民衆を救わなければ、などという政策に向かう。「小さな親切、大きなお世話」と言われるように「親切心」は上から目線になることが多く、時と場合によってはろくなことにならない。
でも、敗戦後の日本も、いろいろな部分で、末端のアメリカ人の「親切心」に助けてもらったという事例はたくさんある。

フランスのお題目はもちろん「自由・平等・博愛」で、これが「福音書的」と言われるものなのだが、ちゃんと憲法にも書かれている。

本来この「自由・平等・博愛」を突き進めると、日本国憲法九条と同じで、「絶対平和主義」しか行きつくところはない。

けれどもそれは無理なので、言っていることとやっていることがだいぶ違う。

それでも、どんなに揶揄されてもその「理念」だけは上書きしない。
それはそれで、大切なことだ。

で、ドイツの第一のお題目はどうも「民主主義」らしい。

第二次大戦のナチス全体主義への反省、反動から、「民主主義」絶対になった。

日本でも、国家神道と軍部独裁の敗北によって、「民主主義」が理想のお題目になった。
でもドイツと違って、ただのお題目で、それを支えるいろいろな方法の試行錯誤は見えない。

一方、イギリスやフランスなどでは、「民主主義」は今の時点で最も害のない政治体系に過ぎないと認識されているだけで、自負はあってもモットーにはならない。

フランスでも、ヴィシー政権の時代にモットーが「労働、祖国、家庭」になったように、「祖国」なんていうのを「国」が提唱するのはろくなことにならない。

けれども今のフランスでも軍隊の標語は「名誉、祖国」だ。
戦争をするときに「自由・平等・博愛」などと言っていられない。

逆に、国が主導して「祖国」や「愛国」を唱える時には、自由も平等も博愛も絶対に実現しない。

今のドイツの公式の標語は「統一、権利、自由」(Einigkeit und Recht und Freiheit) だけれど、これは敗戦後の東西の分断と全体主義化した社会主義のトラウマから来たものだろう。

ナチスの犠牲者の記念碑には

「平和と自由と民主主義のために。二度とファシズムを許さない」

と刻まれる。

テロに襲われた時、

フランスの大統領がそれをフランスの自由に対する宣戦布告だ、戦争だ、

というのと、

メルケル首相が、民主主義の価値観(オープンドアを含む)は揺るがない、

というのではニュアンスも違うし、拠って立つところも微妙に違う。。

そういえばメルケル首相は、トランプ次期大統領にも、

ほら、私たちは民主主義の価値観を共有している国同士ですよね、

という感じで牽制していた。

トランプは暴言にはオープンだけれど、オープンドア政策とは対極だ。

ベルリンのテロで、メルケルの民主主義を支える「開放」の精神は、否定されるのだろうか。

それともまだ、多くのドイツ人が「オープンドアの民主主義」をメルケルと共有しているのだろうか。

選挙は10ヶ月後である。
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# by mariastella | 2016-12-22 02:29 | 雑感

アレッポの司教の証言の続きとベルリンのテロ

(これは前の記事の続きです)

アレッポの司教の言葉

「2011年に内戦が始まったときもアレッポの住民は自分たちには関係がないと思っていました。それが1年後に波及してきても、まだ政府軍が止めてくれると思っていました。

工場やアトリエの大部分が閉鎖され、失業が増え、給料もダウンしました。一日数時間しか電気が使えず、発電機につなぐのは大金がかかり、占領されてからは70日間も断水しました。

マロン典礼教会のカテドラルと教区教会の二つは中央地区の戦場にあって損傷が激しいのでミサは司教館のチャペルで行っています。2012年以来、信徒の三分の二が逃げていきました。その多くはもう帰ってくることがないでしょう。

私たちが逃げないのは、カトリック教会にはオリエントとオクシデントという両肺が必要だからです。
10人でも残れば教会全部を鼓動させることができます。

2015年にこのアレッポの司教に叙任された時、どうして私がこの十字架を、と思いました。
でもそれはこの町の信徒たちへのメッセージだと思って引き受けました。
内戦開始以来なかった祭礼をスカウトたちといっしょに行い、ムスリムの友人たちも祝福して
くれました。
信徒たちに食事を配り、手当てをし、家賃も助け、彼らが留まるようにできることは何でもしています。
でも、彼らから自分たちの息子は爆死しないかと聞かれると、自分の無力さを痛感します。

私は離れません。羊飼いは羊を見捨てません。もう金もないし、5分後に生きているかどうかも分かりません。私にとっては天に近づける機会です。殉教者は地を見ず、天を見上げています。」

うーん…。

ブッシュのイラク侵攻の時に処刑前のサダム・フセインを尋問したCIAのジョン・ニクソンの本の中で、

アメリカのイラク情報は何から何まで間違っていた、

9・11はサウジアラビア、エジプトなどが関係していてフセインはアルカイダとも関係がなかった、

サダム・フセインは問題はあったがあれほどの人物であったからこそ、部族が林立するあの国を安定して統治できていたのだ、

アメリカはサダム・フセイン軍の兵士たちを登用するべきだった(追われた彼らがISの中核になった)

などとあるのを見ると、あらためて、これまで中東で起こったことの意味を考えさせられる。

19日にはベルリンのクリスマス・マーケットでテロがあった。

テロリストは、なぜか、難民排斥、差別主義、イスラム嫌いの極右政治家などをターゲットにしない。
普通の市民に無差別攻撃をしている。その中にはムスリムももちろんいる。

9・11の以前から、中東を中心に、毎年多くのテロの犠牲者が出ていた。
今でも、テロの犠牲者の90%はムスリムで、テロ多発国は、パキスタン、アフガニスタン、イラクだ。

ドイツはメルケル首相が、移民100万人OKで統合できるなどと言っていたけれど、領邦国統一の遅かったドイツにはいわゆる「旧植民地国からの移民の統合政策」という実績はない。
100万人OKと言ったときには、サウジアラビアが、ではドイツにモスクを200作る金を出しましょう、などと申し出ていた。フランスには絶対に言わないようなことだ。

ドイツは今年6度目のテロだけれど、そしてCDUも今まだ犯人が捕まっていない時点で移民政策を一から見直せ、とメルケルに迫っているそうだけれど、それでも、なんとなく、フランスほどにはショックを受けていない気もする。ショックの受け方が違うと言った方がいいかもしれない。

それはオランド大統領が「戦争だ」と言ったけれどメルケル首相は一度も「戦争」という言葉を口にしていないことの差だ、と誰かが言っていた。
テレビで、1980年7月のミュンヘンのビール祭りでの爆破テロのことまで持ち出して、テロの後も彼らは祭りを中止せずに続けていた、と言うのだ。

今年のシャンゼリゼのクリスマス・マーケットは夏のニースの事件があったから、トラックが突っ込まないことをように様々なブロックがなされている。ベルリンにはなかった。

結局、いつも思うけれど、災害対策と通じるところがある。

いつどのように起こるか予測できないこと、
だからと言っていつも戦々兢々として生活するわけにはいかないこと、
でも過去の被害に学んで対策を立てたり予防したりするべきであること、などだ。

災害対策と違うのは、ヨーロッパの国が、一方で、中東内戦の種をまき、武器を提供し、難民を作り出し、人道支援をし、難民救助をしながら、復讐されるリスクも高め、自国の中からもテロリストやテロリスト予備軍が生まれるのを放置するなど、力と金と石油と覇権主義のせいでその場しのぎの失敗を重ね、ことをさらに複雑にしているところだ。

ベルリンのテロが起こったらアレッポの難民などテレビの画面から消えてしまった。
フランスの大統領選も、セキュリティや難民対策に論点がシフトしていくのだろうか。
要観察。
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# by mariastella | 2016-12-21 09:00 | 雑感

仏大統領予備選 社会党の場合

フランス社会党(緑の党も含む)の大統領予備選の第一回投票は来年の1/22だ。
立候補しているのは共和党と同じく7人で、うち女性も共和党と同じく1人だけ。

普通でいうと、首相を辞任して立候補したマニュエル・ヴァルスが「優勢」というか、現政府の後継として社会党を代表する候補者になってもいいのだけれど、なぜか、メディアは、そういう予想をしない。

共和党の予備選で長い間、口をそろえてジュッペとサルコジの対決と言っていたのが見事に外れたので、もうそういう予想を口にしないという自制が働いているらしい。

分裂していると批判される社会党をまとめるために、みなしきりに、自分はrassemblerする候補だとかとかrassemblementの候補だとか強調している。

「結集する」とか「団結する」という意味だ。

いったん大統領になったら左右の溝を超えてフランス人すべてをまとめあげるというのが大統領制の建前だけれど、予備選までひと月、本選挙まであと4ヶ月だというのに、社会党をまとめあげることすら難しい。

7人の候補者がみなこの言葉を使っているのも滑稽だ(ジュッペもフィヨンももちろん使っていた)。

この言葉の「一致団結」というニュアンスは、自然に統合に向かうという意味ではなく、誰かが主体的に呼びかけて、そこに皆が集まる、という含意があるから、いわば団長のもとに団結するということになる。

だから、7人の候補者がみなこの言葉を使うと、団長7人でむしろ立派な分裂だなあという感じだ。

アメリカではトランプがヘイトスピーチを罪に問わない方向に向かうようだ。

そんな中で、カズヌーヴ新首相がカトリック左派の雑誌でとても重要なことを口にしていた。
フランスの理念は「福音的」だというのだ。

「キリスト教的」というのと「福音的」というのは似て非なるものだ。
私が今書いている本はそのことに光を当てている。
いったん行き先が見えてくると、同じ途上にいる人たちの姿が見えてくる。
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# by mariastella | 2016-12-20 04:40 | フランス

アレッポのカトリック司教の証言

アレッポの惨状を見るのはつらい。

反政府軍に300人ばかりのイスラム過激派がいようとも、ためらいなく病院を空爆していくような政府軍(ロシアやイランも加わっている)のやり方は正当化できない。

シリアではこの5年で30万人の戦死者、うち9万人が子供も含む非戦闘員という犠牲者を出し、故郷を捨てた難民は何百万人に上る。

クリスマス気分になれない。

そんな時、アレッポのマロン典礼カトリック教会の司教の証言記事を目にした。 

1971年生まれ、40代なのに髪が真っ白で、それでもにこやかな笑顔が印象的だ。

2015年4月26日、アレッポの聖エリアスカテドラルの屋根が2発の爆弾によって破壊された。

アレップ生まれで25歳に司祭叙階されたヨゼフ・トブジ司教はその年のクリスマスに司教として着座した。

シリア内戦とキリスト教の関係は複雑だ。

これまでもこんな記事、

こんな記事

こんな記事

こんな記事を書いてきた。

イスラムがマジョリティだが「国教」を定めないシリアは、キリスト教コミュニティも守ってきた。
キリスト教会がアサドの共犯者だと言われるのもそのためだ。

実際、今回アレッポが政府軍の手に渡ったことを、「キリスト教徒の解放」などと形容する人すらある。

イラクのサダム・フセインが政教分離でキリスト教徒もリスペクトしていたのが、英米軍の侵攻によって体制が崩壊した途端に、イスラム過激派やISに占領されてキリスト教徒が激減したのと基本的には似ている。

まずはトブジ司教の話を聞いてみよう。(La Vie No.3720より)

----戦争は死です。私たちはこの死を生きています。アレッポの住民は毎日、自分は爆弾に当たるか銃弾に当たるか、死ぬのか生きるのかと不安を抱いています。安全な場所はどこにもなく、家の中にいても、窓から砲弾が飛び込んで家族全員が死ぬこともあるし、建物が崩壊して下敷きになることもあります。

(このインタビューは今回の政府軍侵攻以前のもので、東側が反政府軍やイスラミストの統治下にあり、西側が政府軍で、キリスト教徒の大部分は西側にいた。)

数か月前私の住居の前で砲弾が炸裂し、私は3日間、地下室で寝ました。洗礼式の12倍の数の葬儀を司式します。私の眼前で死んだ人も3人います。

私はアレッポで生まれ、毎日曜日、教会の鐘の音と共に父に起こされ、用意されていた朝食を食べて5人の兄弟姉妹と共に車でミサに向かいました。イエスは友のような存在になりました。
ボーイスカウトに14歳まで、その後キリスト教学生グループに入りました。

19歳の時、助祭だった兄と一緒に教会にいる時に、30秒間、心臓が高鳴り、大きな愛を感じました。
半年間迷いましたが、ある司祭から「跳べ、後は主が答えてくれる」と言われて、跳びました。

当時のアレッポの生活はスペインのリズムでした。
遅く起きて遅く寝る。
シリア第一の産業都市で、世界中に輸出している企業がいくつもありました。
職を求める人々がシリア中からやってきました。-----

うーん、こう聞くと、あらためて、いろいろなことを考えさせられる。

私も「観光都市」だったアレッポを間接的に知っている。有名な「石鹸」にもお世話になった。

この司教の話をここまで聞く限りでは、フランスに住むフランス人の司祭のライフ・ストーリーと変わらない。

「独裁者」が君臨する軍事政権で虐げられていた人、という部分はひとつもない。

けれども、藤永茂さんのブログを読むまでもなく、中東情勢におけるアメリカやトルコの思惑も見え見えだ。

その中で、ロマン典礼のカトリック教会って、どういう立場で何を考えているのだろう。
そして、つい数年前まで、少なくとも司教にとっては「平和に繫栄」していたはずの町が、このように完膚なきまでに崩壊させられてしまうなど、なんという悪夢だろう。

こんなことが実際に起きたのだから、世界の他の地域の「平和で繁栄」している都市が実はどういう地雷を抱えているのか、どういう欺瞞の上に見かけの繁栄がなりたっているのか、などと考えると、おそろしくなる。

2011年に反政府軍の台頭が始まりアサド政権が過酷な弾圧に踏み切ったときも、アレッポの住民には、まだ、それが遠い場所の出来事のように映っていた。(続く)
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# by mariastella | 2016-12-19 04:23 | 宗教

ある新司祭と話してから考えたこと その5

フランスのエリート新司祭のことから日本の湯浅誠さんのことを連想していた頃、「N女」=「非営利セクター(NPO)で働く女子」という言葉をネットで見かけた。

「有力企業に就職する実力がありながら、雇用条件が厳しいと言われるNPO業界を就職先に選ぶ女性」のことだそうだ。

エリート女性の方が、弱者支援の活動に向かうハードルが男性のそれよりも低い?

夫が生活費を稼いで妻がボランティア活動に熱心になる、というような構図はよくありそうだ。

その他に、高学歴・高職歴を持ちながら、条件の悪い社会福祉型NPO法人に転職する女性もいる。
地位や名誉や金よりも生きがい、やりがい、使命感などを選ぶことは「贅沢」の一種なのだろうか。
男性にかかる「妻子を養わなくてはならない」というプレッシャーがない分「自由」なのだろうか。

日本のカトリックの女子修道会で、観想型ではなく社会活動型の修道会には、教師、看護師や社会福祉士などとして働くシスターがたくさんいる。

姉妹で同じ修道会にいるシスターから、「シスターになりたい」という召命よりまず自然に「福祉の仕事をしたい」という召命があったと聞いたことがある。

クリスチャンの家庭に生まれたわけではない。

いわゆる「天職」であり、そういう時に、社会活動型修道会に所属することを選択すれば、一生自分たちの衣食住には悩まないで済むのだから、心置きなく「天職」を全うするのに最高の環境かもしれない。
子や孫や家族関係にも悩まされなくて済む。

みなさん、高齢になっても生き生きと現役で活躍している。

男性が男子修道会に入って同じことをするのはいろいろな意味でハードルが高い。
男性の場合は平修道士でいるか神父になるか、などの内部のヒエラルキーも複雑だ。

昔の家父長的日本的感覚なら

「いつかはお嫁に行って家から出る娘」を神に捧げるのと、

「嫁をもらって子孫に家督家名を継がせるはずの息子」を神に奪われてしまう、

のでは家族の反応も違うだろう。

だから、フランスの高スペック新司祭のような人が生まれる土壌はないし、党派とも宗派とも関係なく暮らしながらコストパフォーマンスの悪い(というか別のロジックで動く)社会活動にフルに人生をかけるような男性は例外となる。

湯浅誠さんはお子さんはいらっしゃらないが、おうちではどうも2匹の猫に「仕えている」ようで、ほほえましくて親近感を覚える。
上から目線でなく下からお世話させていただく、それが何よりの喜びとなるというのが「可能」だというのは、「猫飼い」が日々実感できることだからだ。
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# by mariastella | 2016-12-18 01:18 | 雑感

ある新司祭と話してから考えたこと その4

これは前の記事の続きです。

私の質問にいろいろ答えてくれたフランス人のエリート新司祭のように、社会的にも姿かたちも高スペックなのに、あえて「勝ち組」の道に進まず、弱者支援にやさしく情熱を燃やす若者のことを考えていたら、日本の湯浅誠さんのことを思い出した。

湯浅さんは路上生活者が生活保護を受けて住まいを見つけることができるように保証人になるシステムを作ることからスタートした社会福祉問題のリーダーのような人だ。
今は大学の福祉科でも教えているが、女子学生にすごい人気だというのも納得できる素敵な人で話し方も魅力的だ。

彼について、「視点は低く優しく、だが、理論的である。宗教的いかがわしさとも左翼思想の押し付けがましさとも無縁であることの新鮮さと安心感が、人びとの耳目を彼に向けさせる。」という評を目にした。

なるほど。日本で宗教者が弱者支援をしたら、「いかがわしい」と思われるのか。

確かに、キリスト教福音派などもハイチの地震などの災害地に入り込んで援助と布教をセットにしていた。

カトリックはさすがにそんなことはしないし、ましてフランスのカトリックは、そもそも「公共の福祉」などという概念のない時代に社会福祉活動を始めたグループだから、その活動に専念したいと思う人にぴったりかもしれない。
伝統があり、ノウハウがあり、インフラもネットワークも充実しているから。

同じくネットで検索したら出てきた湯浅誠さんの対談記事で、プロテスタントの佐藤優さんが弱者を助けるのは人としての当たり前のことだと言ったことについてそれがキリスト教と関係があるのかもしれないと湯浅さんが述べていた。

その流れで、対談相手の香山リカさんが、

「でも、弱者を救う理由を、『神が見ているから』とか、『最後に審判が下るから』と説明するのは、キリスト教の内部でしか通用しないロジックですよね。」

などと言っている。

これって、キリスト教でなくとも、

「お天道様が見ている」
「ご先祖様が見ている」
「来生は畜生に生まれ変わる」
「地獄に堕ちる」

などという「教育的ロジック」なんていくらでもあるわけで、そういうレベルの「善行を施す」という促しは幸いなことにかなり普遍的だと思う。

それよりも、キリスト教の根幹には、救われるためにはあらゆる弱者に寄り添うことが大切だというだけではなく、その弱者の中にイエス・キリストを見る、という姿勢がある。

旧約の神がそれまで「預言者」を送ったり、預言者に直接語りかけたりしていたのが、突然、その「ことば」を受肉させて、か弱い赤ん坊の姿になった。人間の親に庇護されてやっと成長したその「神の子」は、スーパーヒーローになる代わりに、あっさり殺されてしまった。

弱肉強食の論理どころか、強者と弱者が覆って逆説をなしている。

「貧しきものは幸いなり」というだけではなく、

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(2コリント8,9)」

というのがキリスト教のキリスト(救世主)なのだ。

ともかくこういうベース、つまり上からの慈悲でなく最も低いところにへりくだって弱者に仕えるという前提のある社会でエリートが宗教者になって弱者救済に向かうことは、ある意味、伝統の一環をなしている。

キリスト教社会主義の伝統もある。

そうではない日本で、宗教家や左翼活動家の弱者救済がいかがわしい、押しつけがましいと取られるのだとしたら、エリートが弱者支援の道を選択するハードルは高いのかもしれない。

特に男性には。

女性はどうだろう? (続く)
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# by mariastella | 2016-12-17 00:16 | 宗教

ジェームズ・グレイ『エヴァの告白』The immigrant

年末、忙しくて、もう映画など見ている暇がないのに、12/14の夜、Arteで『エヴァの告白』を見てしまった。

パリ市長がアレップの攻撃に抗議してエッフェル党の灯を消した夜だ。

実際、毎日毎日、アレップの爆撃シーン、脱出を試みる住民らの絶望的な様子をなすすべもなく見せられて、前にアップしたシャルリー・エブド別冊でフランスにいる難民の困窮ぶりを知るにつけ、町のクリスマス気分よりも、『移民』というタイトルのこの映画にひきつけられたのだ。

フランス人のマリオン・コティヤールが主演でカンヌでも評価されたので、2013年に公開された時にフランスでも話題だったけれど、その時は、1921年のアメリカの移民の話にあまり食指が動かなかったので見ていなかった。

ポーランドの戦争で両親を失ってアメリカにいるおば夫婦を頼りに行くポーランドの姉妹。
NYは日本から考えると遠いけれど、ヨーロッパからの移民の入り口だ。
彼らを一時隔離して移民を認めるかどうかを審査するエリス島を経由してアメリカ市民となった人は膨大な人数に上る。そこから強制送還される人にとっては悪夢の場所だ。

後でヒロインのエヴァに恋するようになるマジシャン、イリュージョニストのオーランドは、彼らのための慰問舞台で、信じられないような空中浮揚を見せますよ、と言い、皆さんもこの国に来るのに未来を信じたでしょう、私も、信じます、と言って手を合わせてから「浮揚」する。

「信じる」ことが映画自体の通奏低音になっている科のようにシンボリックだ。

でも、結局、だれでもみんな移民局で、審査され、裁かれて、たどり着いた場所で生きる許可をもらえるかどうか、なんていうスタートアップって、多かれ少なかれトラウマになるような気がする。

メイフラワー号で着いたような最初の植民者たちは、先住民の「審査」も「許可」もなく好きなように「開拓」したから別だったろうけれど。

しかも初期の移民はピューリタン的な「神の国」建設の熱意があったかもしれないけれど、後からやってきたカトリック国のイタリアやポーランドからの移民には風当たりが強かった。

エヴァもそのポーランド移民で、ポーランドにいた頃は、カトリックがデフォルトで意識していなかったろうし、過酷な戦争や家族の死などを前に、「神を頼る」なんていうことは頭から吹っ飛んで、ただただ、何とかして生き延びるという本能にだけ導かれていたに違いない。

けれども結核の疑いのある妹が移民局で隔離された。
最後の肉親である妹とは自己意識がフュージョンしているので、エヴァの「生き延びる」本能は「妹と生き延びる」に上書きされてしまった。

そんな中で、女衒でもある興行師のブルーノに頼って、妹を助け出すために必要なコネと金を求めることになる。

しかし、どんな形であれ一応衣食住が保証されると、1920年のポーランドのカトリックだったら骨にしみこんでいるような「売春の罪」を犯しているわけだから、エヴァは恐ろしくなった。
また、窮地に陥る度に、口をついて出てくるのは、やはり生まれた時から身についている聖母マリアの加護を願う祈りだから、自分が「罪」びとであることと、聖母や神の慈悲を願うことの齟齬が意識される。
それを解消するためにポーランド人ご用達のカトリック教会に出かける。

必死に祈るが、告解する必要を感じる。告解して免償してもらえば安心して聖母に頼ることができるからだ。

ポーランド語で告解し始めると、司祭から

「英語で。私はポーランド系だけどアメリカ人だから」

と言われる。
ポーランド系二世なのだろう。そこですでにエヴァの中で、「故郷の聖母」が遠ざかっていく。(典礼は当時どこでもラテン語なので違和感がなかったのだ。)

エヴァは、移民船の中でも性暴力の犠牲になり、その後、道を外した男と出会って、金が必要なので、盗みもすれば、体も売っていると告解する。
自分は地獄に堕ちるような罪びとだと口にすると、あらためて、カトリック教育の成果が意識に上り、怖く悲しく恐ろしくなる。

「生き延びるために何でもするのは、罪ですか?」

と絶望するエヴァに、

司祭は、

「天国はすべての人に開かれています」

と即座に答える。

思いがけない、一瞬の、希望。

しかし、それにはもちろん、悔い改めが必要で、司祭は言う。

「その男から離れなさい」

エヴァはすぐに、

「では、私は、地獄に堕ちます」

と言ってその場を離れる。

彼女のぎりぎりの生き方は、選択の余地のないものだからだ。

地獄堕ちよりも、何とか妹を救い出して二人で逃げることに優先するものなどない。

告解室の外から、ブルーノがこれを聞いていた。

彼は実はエヴァを愛しているのだ。

酒、ギャンブル、女に溺れるタイプのオーランド(実はブルーノの従兄弟)が一見童顔で情がありそうな外観なのに対して、ブルーノは、いかにも酷薄そうで怖い顔。

ラスト近くでは警察にぼこぼこにされて鼻も顎もつぶれてさらに凄惨な顔になる。

このシーンも、今もアメリカでは警察の暴力スキャンダルが絶えないので、リアルで嫌になる。

ブルーノは屈折した男で、アメリカの底辺でのサバイバル能力は優れている。
実はエヴァに最初から目をつけていて、彼女が移民登録できないように手を回していた悪いやつであり、絶対にエヴァに愛されないことは自分で分かっているので、エヴァを残酷に扱ったりするのが自虐になるような救われない男だ。

ブルーノは、結局、ボロボロになりながら、エヴァを連れて小舟でエリス島に行き、エヴァの妹を逃がす交渉をして、カリフォルニア行の切符を渡して二人を出発させる。

つまり、エヴァは、自分を罪の状態に落とすブルーノから離れるよりもまよわず地獄行きを選んだが、それを盗み聞いていたブルーノは、耐えられず、自分から彼女を解放した。
彼女が地獄に堕ちると苦しんでいたのを救ったともいえるが、このことでブルーノは自分が救われたのだ。

実際、エヴァに自分の罪(彼女が自分の手に堕ちるように工作したこと)を「告白」した時に、エヴァに赦される。
免償されるのだ。

彼にとって天国の門よりも大切なのはエヴァからの赦しだった。
そのことでエヴァも、赦しを求めて苦しむ立場から、自分を支配していた男を赦してやるという立場に立てた。

つまり、「自分の敵と和解し、赦す」という、キリスト教的にいうと「罪」と対極の「愛」を実践できたのだ。
ブルーノを赦すことでエヴァは天国に行ける。

女性が庇護者(この場合は病気の妹)を内包する生存本能に駆られた時は、宗教の脅しなど怖くない。

けれども恋をしてしまった男は、弱くなる。
愛する女のためなら自分がぼろぼろになっても、たとえ命を奪われてもいいという一線を越えてしまう。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 (ヨハネ15-13)」というキリスト教最大の愛に向かっていく。ブルーノのそれは屈折していて、そのカリカチュアのようだ。

「エヴァの告白」というのは「ブルーノの告白」とセットになっていて、

「強い女と、女の罪を赦さない司祭」、
「弱い男と、男の罪を赦す女」

というを逆説的な世界を描いているのだ。 

原題は「移民」でフランス語タイトルもそのままだから、もっと政治的メッセージを伝える映画かと思ったら、男と女の支配被支配の関係が男の一方的な崩壊で覆る話だった。

マリオン・コティヤールは確かに、男たちをすぐに魅了するくらいにオーラのある美しさを発している。
でも、船の中で彼女を襲った男たちのように、ただ欲望にかられた男なら暴力で支配するだけだ。
それに対して、「恋心」を抱いてしまった男たちは、弱く、情けなくなる。

恋に慣れていないブルーノのような男は、だんだんと「悪の平常心」を失っていくのだ。

ホアキン・フェニックスにぴったりの役だ。
全然共感できないし、最後は見るのも気の毒な姿になるが、なぜだか、彼を見ていると、エヴァが彼を赦した気持ちが分かるのは不思議だ。

それでも、「移民」というタイトルが表すものは、「移民というルーツ」、「移民の子孫」のかかえる記憶やアイデンティティの独特の思い入れをよく表している。

日本に暮らすマジョリティの日本人やフランスに暮らすマジョリティのフランス人が千年以上もずっと「そこにいた」みたいな感覚からは、想像しにくい。
移民や難民に対する視線も思いも、アメリカとは全く違っているのだろうな、と改めて思う。

で、アレップ。 
アレップは、15日にアサド軍の手に渡った。
避難する住民や反政府軍を乗せたバスをロシア軍が警護している。

朝のラジオで、フランスのロシア大使館のアドバイザーが、

「ロシアがアサド政権に対して持っている力を過小評価しないでもらいたい」、

などと言っていた。

「ロシアはちゃんと対話している。

アメリカとはイラン問題について話し合い、

イランとはシリア問題について話し合い、

中国とはあらゆる問題について話し合っている。」

とも言った。

この発言は、プーチンが日本に向かっていたのとちょうど同時刻のものだった。

日本と話し合っている、とは、言っていなかった。
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# by mariastella | 2016-12-16 07:39 | 映画

ある新任司祭に聞いてみたこと その3

(これはこの前の記事の続きです。)

---12歳の時に召命を受けたっていうけど、すぐには親に話さなかった?

親には言わず、でもバカロレアを受ける時点で、もう決心は固かったので、プレパにいく気持ちはなく、学部に行こうとしました。

(フランスではプレパというグランゼコール受験予備クラスがエリートコースで、大学に進むのは、グランゼコールのない医学部などを除いてエリートコースから外れる)

でも親に反対されたので一応プレパに行き、そこで、すばらしいマドモワゼルとの出会いがありました。

(ここで普通ならfille「女の子」という言葉が使われるところを、彼は「お嬢さん」と言っている。これは司祭だからというのではなく彼の階層の言葉遣いだ)

で、理系のグランゼコールに入りましたが、そのあと神学校に行くつもりだったのであまり勉強しませんでした。


---恋愛はどうなったの?

恋はして、召命のことを忘れて楽しんだこともありました。でも、深いところでは決意は揺らぎませんでした。

---両親はショックを受けなかった? 長男長女に続いて次男までも。

---驚きました。でも、兄のことがあるので免疫はできていたみたいです。

(兄さんはプレパからビジネススクールに行き、会計監査などの職業経験を経てから神学校へ。召命は20歳くらいで、やはり、ぎりぎりまで親には話していなかった。)

---その後、一度も迷いはなかった?

ありません。

---あなたや兄さんは教区の司祭で、兄さんはその後、家族・親戚の結婚式や洗礼やらを一手に引き受けてたりしてある意味にぎやかね。でも、お姉さんは観想型修道院で、家族の集まりにも絶対に参加しないで修道院から出られないよね。それに対する抵抗は?

両親はよく面会に行っています。
ぼくや兄も休暇ごとに行きます。
ぼくはこのクリスマスの後にも姉の修道院に行って黙想します。
ゆっくりと話し合えるし、親密で豊かな時間です。

(なるほど。ただの家族ではなくて司祭だから女子修道院の禁域の中にも入れるだろうし、ふたりきりでじっくり話すこともできるのだろうな。こうなると、親も、シスターになった娘のところに司祭である兄と弟が通うことで安心かもしれない。それに、そういう兄弟がいることで彼女が修道院内で一目置かれるという可能性はおおいにある。
でも、この会話よりも前に、彼らのおばあさまと話したことがあるのだけれど、彼女はこの孫娘をとても可愛がっていて、修道院から一歩も出られないような修道会に入ったことをとても嘆いていた。親がカリスマ刷新系の熱心な信者であることすら祝福していない。)

この新司祭は学生のころから、また神学生、助祭時代を通して、パリの路上生活者の世話を熱心にしてきたので、私が秋に釜ヶ崎を訪問した時の話をしたら目を輝かせて聞いていた。

彼のように、外見がよく、立ち居振る舞いもナチュラルな中に威厳があり、家柄もよく、高学歴の青年、いわば高スペックの若者が、自分の生育環境と縁のなさそうな貧しい人々にすごい熱意で寄り添うのを見ていると不思議な気がする。

フランスにはこういう超エリートの聖職者は少なくない。10年以上も医師として働いた後で神学校に入って司祭となり、司教になった人もいる(ナンテールのオプチ司教)。

日本のことを考えると、ある人のことが思い浮かんだ。
ハンサムでエレガントで高学歴で、でも徹底的に弱者に寄り添うタイプ。
でも、彼は「聖職者」ではない。
この違いについて考えた。(続く)
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# by mariastella | 2016-12-15 00:25 | 宗教

ある新任司祭に聞いてみたこと その2

これは前の記事の続き。

---説教するのは慣れた?  準備はどうやるの?

ミサは一日5回あるものを5人の司祭で分担します。
朝は年配者、夕方は学生や若いビジネスパーソン中心が中心なので、参加者によって話し方を変えます。
若い人には話せる「指輪物語」(トールキンのファンタジー小説。キリスト教の寓話になっている)などを年配者にしても分かってもらえませんから。
後はもちろんその日の聖書朗読の箇所がテーマになることが多く、自分の解釈を披露しますが、香部屋係は同じ人が5回のすべての説教を聞くので、同じテーマでも司祭によって味方の違いなどを聞いて面白いというので、話し合うこともあります。
司祭になる前は説教を聞くたびに、自分ならこうは話さないと思うことがたくさんあったんですが、実際にやってみるとけっこう同じことを言っていたという場合がありますね。

---告解は? もし犯罪者が現れたら免償を与える?

本当に後悔しているかどうかによりますし、警察に自首することを勧めます。それが確かでない場合は免償を与えないこともある。でも、話し合いが大切です。

---これからテロに行くと言われたら?

もちろん免償は与えないし、考え直すように言います。

---でも受け入れないでこれからテロを実行すると言われたら通報する? 告解の秘匿義務は?

あなたが出て行ったら僕は警察に通報するけれどいいですか? と聞きます。

---そしたらそこで襲われるかもしれないよね。

確かに…。 でも、嘘は言えないので、では、何も言わないで見送ります。

---それで通報するの?

それはそこで「識別」というのが重要になります。
テロのリスクが高いと判断して、通報が自分の義務だと理解できれば通報します。(続く)
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# by mariastella | 2016-12-14 00:33 | 宗教

ジェローム・カユザックとジャクリーヌ・ソヴァージュ

前にも書いたことがあるジェローム・カユザック元予算担当大臣。

結局隠し財産は何百万ユーロにも達すると分かって、元妻と共に、執行猶予なしの実刑判決が出た。
ごまかした税金は罰金と共にもう支払い済み。

実刑判決が重すぎるという意見もある。 

納税は共和国の根幹にあるものだからそれをごまかしたというのは確かに罪である。
そんな人が、こともあろうに脱税対策を掲げた予算担当大臣に就任していたことがそれに加わる。
普通の人よりも罪が重くなるというのも分かる。

でも、なんだか見せしめ、リンチという感じもぬぐえない。

彼を徹底的に罰することで他の権力者は手を洗っているような。

彼が国会で問われた時に、「外国の口座など持ったことは過去も現在もない」と堂々と嘘をついた映像が何度も流れた。
社会党のユダだとも言われた。

けれども、嘘は罪ではない。

宣誓の後の偽証や、偽造文書を作るとか虚偽の告発をするなどは軽犯罪法や刑法の罪になるけれど、単なる嘘は、それによって被害を受けた人からの告訴がなければ罪にはならない。
モーセの十戒にも、「噓をつくな」とあるわけではなく、「偽証をしてはならない」とあるだけだ。

実際、「嘘も方便」というように、日常生活を円滑にするための嘘はどこにでもあるし、時によっては礼儀でさえある。

カユザックの場合はすでに税法上の罪を犯していて、それを隠すために嘘をついたので、「容疑者」の権利みたいなものだ。

けれども、顔色一つ変えずに堂々と嘘をつき、社会党やフリーメイスンから除名されても、逮捕されても、ポーカーフェイスでいた彼のどこか非現実的な感じが、多くの人に悪印象を与えたのだろう。
私はむしろ、非常に好奇心をそそられるキャラクターだと思ったけれど。

離婚訴訟における不和で妻に密告された。正確に言うと妻が雇った2人の私立探偵から足がついた?
妻のパトリシアはこの前の共和党予備選で惨敗したジャン=フランソワ・コッペの妹だそうだ。コッペも政治に絡んだ金銭スキャンダルの中心人物だ。

まあ、妻の出方の予測も含めて危機管理意識が足りなかったのには驚くけれど、私はなぜかこの人に同情の念を覚える。
まあ、はっきり言って、冷たそうで、誰からも同情をもらえないタイプなのだけれど、彼の「叩かれ方」にはどこか不健全なところがあるからだ。

控訴審でどうなるかはわからないけれど。

もう一つ気分の悪い訴訟事件に、40年以上も虐待を受けたあげくに夫を猟銃で撃ち殺して実刑を受けたジャクリーヌ・ソヴァージュという女性のケースがある。今年初めにオランド大統領が中途半端な恩赦をしたので、結局釈放されなかった。
今は権力争いから抜け出たオランドとカズヌーヴが、この先、完全恩赦に踏み切る可能性はあるのだろうか。

この女性を釈放しないのは、「悔い改めの念が足らない」という理由だった。
もちろん夫は死んでいるから「再犯」の恐れはないし、3人の娘はみな、母が犠牲者であったことを証言し、自分たちも父親に性的虐待を受けていたと証言している。
一人息子は事件の前日に自殺しているそうだ。
女性の実家の父親も妻に暴力をふるっていたと分かっている。

「報復」を連想させる刑罰って気分が悪いし、政治や司法のパワーゲームの影響を受ける刑罰も気分が悪い。

大金持ちで権力も権威も持ち合わせていたカユザックと、生まれながらに不利な環境を抜け出せなかったソヴァージュは、格差社会の両極にいる対照的な人たちだが、どちらからも、「今の世の中の不健全な部分の犠牲者が偽善者たちから叩かれている」かのような印象を受けるのは、不思議だ。
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# by mariastella | 2016-12-13 01:02 | フランス

マクロン、ヴァルス、マリーヌ・ル・ペン

エマニュエル・マクロンが土曜日にパリの集会で1万5千人を集めて、1h 45も喋りまくった映像を見た。

しゃべるというより、叫んでいる感じで、うーん、あのテンションであれだけ長く話せるのってやはり38歳という若さかなあ、と思った。ジュッペには無理だったよね。

それにしても、はっきり言って、どこのカルトの教祖ですか、という雰囲気だった。

私は彼のディスクールをフランス語の政治言説のレトリックの例として分析しているのだけれど、そして、ナポレオンのそれと比較もしているのだけれど、なんだか、私の興味と少しずれてきた。

でも、この洗脳が進めば、ひょっとしたら大化けするかもよ、とフランス人に話したら、
「いや38歳は若すぎる」とシニアの人たちは言う。

「でも、ナポレオンは35歳で皇帝になったんだよ、ナザレのイエスは33歳で神になったんだよ(語弊がありすぎだが…)」

と私がいうと、

「昔の30代と今の30代は違う」、

って必ず言い返される。

今は七掛けっていうから今の38歳は昔なら26歳くらいってこと?

でもジャンヌ・ダルクは17歳でオルレアンを解放してるしね、

成熟や運命は実年齢と関係ないような気もする。

一方、最近、久しぶりにマリーヌ・ル・ペンがテレビでインタビューに答えていたが、服装、話し方、すべて完璧だった。
それこそ「成熟」を演出していた。
姪のマリー=マレシャル・ル・ペンが妊娠中絶の保険払い戻しをやめる、とか言っていることをふられても、それは自分のマニフェストとは違うと即座に否定した。

「ヨーロッパ離脱やユーロ圏離脱の国民投票をする」という典型的なポピュリズム政策を別としたら、すごくまともだ。

ヴァルス元首相はといえば、予備選に向けて社会党内部をまとめるのに必死という感じで、戦闘的にやっているが、土曜日のミーティングに集まったのは350人という話だから、マクロンと比べられて気の毒だった。

マクロンやヴァルスを見ていると、ル・ペンが一番「疲れない」、というのはいかがなものか。
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# by mariastella | 2016-12-12 00:29 | フランス

シャルリー・エブドとカレーの「ジャングル」

カリカチュアでテロに遭ったシャルリー・エブドの画家2人が、今は取壊されたカレー難民キャンプ(一部はダンケルクや救援センターのレポートもある)に通って人々と交流し、最後の日々も記録した貴重な本が別冊になった。

難民の生活、トイレの問題からヘアスタイルのこだわり、子供のための学校や遊び場に至るまでいろいろ描き込まれている。

カレーからは、イギリスに渡ろうとして英仏海峡の手前でせき止められた人びとが決死の渡航を企てては命を落とす。

この本を読んで、初めて、難民は名前や顔や個性を持つ一人一人の隣人になった。

シャルリー・エブドは、テロの後で壊滅に近い打撃に関わらず世界中から読者を獲得して、「超リッチ」になった。だからこそ、こんな贅沢な企画が可能になったのだ。

テロへの最高のレジスタンスだ。

ここには、ノンフィクションの確実な視線がある。
ジャーナリズムの勝利だ。

カリカチュアはひとかけらもない。
いや、これを見ていると、カリカチュアにされているのは、「ジャングル」で何が起きているのかを知ろうとしなかった全ての人だという気がする。
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# by mariastella | 2016-12-11 00:30 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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