L'art de croire             竹下節子ブログ

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ウィーンの話 その8   神の家のコンサート

ウィーンではほぼ毎晩、コンサートに行った。

パリでは、パリジャンたちがみなバカンスで留守の夏の間、地方のバカンス地でいろいろな音楽フェスティバルがあるのに、「観光客」を意識したコンサートなどが毎日教会であるというようなことはない。

教会のコンサートはやはり復活祭とかクリスマスとか教会の行事と結びついている。

考えてみたら、ある意味では「パリ観光」に売り物の音楽というのはパリにはない。
イメージとしてはムーラン・ルージュでフレンチカンカンというくらいだろう。

観光客が団体でドビュッシーとかラヴェルとかサティとかの音楽を聴きに来るというイメージはない。

フランス人作曲のフランス語オペラの『カルメン』だってスペインが舞台だし、逆にせっかくパリが舞台の『ラ・ボエーム』や『椿姫』はバリバリのイタリア・オペラだし。

ウィーンはベニスやプラハと同じで、もうとにかく毎日どこでも観光客ご用達のコンサートをやっている。
もちろん、モーツアルトにヨハン・シュトラウスという「目玉商品」がある。

でも、驚いたのは、そういう観光客ご用達のコンサート(私ももちろんそれに行ったわけだが)の観客の多くが中国人だということだ。

はじめ、アウグスティーナ教会のオルガンと管弦楽と歌のコンサート(ファティマの聖母に捧げる曲がメイン)に行った時に驚いた。

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こういう高みで演奏されるので、聴衆は演奏者に背を向けることになる。ちょっとフラストレーション。

午後に同じ教会に入った時、蝶ネクタイの男性が座って熱心に祈りを捧げていた。
それがその夜の指揮者で作曲家でピアニストのペーター・リッツェンだった。
夜の切符を買ったが、教会はがらがらだった。

その後、コンサートの30分ほど前に来ていると、中国人の団体らが押しかけていた。しかも、先ほど祈っていた指揮者が、すぐに入場させないように、と言っているので入り口で塊になっていたのだ。
教会なんだから、入るのを拒否するなんて変だ。しかもみなもうチケットを買っているのに。

で、その後ようやく入らせてもらえたが、確かに中国人が3割くらいいるような印象だ。
私の横の中国人のふたりの少年は熱いのに白シャツに揃いの紺の上着をきっちり身に着けていた。

全体にそこにいた中国人は身なりがいい感じだった。暑さもあって、ヨーロッパ人はTシャツにバミューダにサンダルいうのが多い。別にミサに出るわけでないから注意もされない。

その後、祭壇のマイクで、主催者らしい人が出てきてドイツ語であいさつし、その夜の管弦楽団と指揮者と曲目の紹介をした。ところが、その後だ。

蝶ネクタイの指揮者がそこに来て、今度はいきなり英語で話し始めた。

「中国人のみなさんのために英語で話します」というのだ。

その後、何を言ったかというと、

「ここは神の家 house of Godです」と何度も何度も繰り返し、

「だから大声を出さないように、拍手もしないように」

というのだ。厳しい顔をして。

驚いた。

その後に申し訳程度にドイツ語で一言、「ではお楽しみください」的なことを言ってから、後ろのオーケストラのいる場所に行った。

その時、これはあまり失礼ではないか、差別主義者ではないか、と気分が悪かった。
コンサート自体は悪くなかったけれど、ホテルに帰ってからリッツェンを検索したら、フランドルの人で61歳、中国で何度も公演していて、上海フィルと共演してチャイニーズレクイエムという録音もしている。

では、ただなんとなくアジア人に偏見、差別を持っている人ではなく、むしろ、中国人は「お得意様」ではないか。

それなのになぜあんな失礼なことを?

午後ずっと祈っていた姿からすると本人はすごく敬虔なカトリックで、彼にとって演奏も神の家で神に捧げるという宗教行為なのかもしれない。

それにしてもなあ、と思った。
この中国人たちの中にもカトリックの人がいるかもしれないし、宗教の場所を自然にリスペクトする人がほとんどではないだろうか。中国は、ローマとつながる隠れカトリック信徒の数だけでも日本よりはるかに多い(人口の絶対数が多いこともあるが)。

その謎はその後なんとなく解けてきた。(続く)



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by mariastella | 2017-08-19 03:12 | 雑感

ウィーンの話 その7 ナポレオン二世のベッド

ナポレオン二世の内臓や心臓がどこにあるのかは特定できなかった。

ヒトラーによって棺が運び出されたカプチーナ教会の墓所にはもちろん残っていない。
あるのはナポレオンの妻、ナポレオン二世の母マリー=ルイーズの棺だけ。
この墓所の立派な棺の装飾はすばらしい。フランス王の墓所が荒らされたことと比べて、オーストリアは革命がなかった国なのだなあ、とあらためて思う。

他の棺とは離れて「MARIA LUDOVIKA("LOUISE")」とフランス語表記も一応あって、「Franz Joseph, Herzog von Reichstadt, Sohn Napoleons Bonapart」とナポレオンの息子の母、とは記されている。

そんなナポレオン二世のゆかりの品に別のところで出あえた。
それは王宮の宝物博物館の中にあった、幼児用のベッドだ。

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足元にあしらわれた鷲がエグロン(小鷲:1900年に、シラノ・ド・ベルジュラックで有名なエドモン・ロスタンの戯曲によってこの名を冠されて有名になった)を連想させて、200年前この中で眠っていた子供の運命に思いをはせてしまう。

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by mariastella | 2017-08-18 06:37 | 歴史

ウィーンの話 その6 シュテファン大聖堂の地下墳墓

シュテファン大聖堂の地下墓地は、ガイド(英語とドイツ語)付きの有料スペースだ。

司教霊廟は代々のウィーンの大司教と枢機卿が埋葬されている。
次にハプスブルク家の初期の大公霊廟。その後に、ずらりと並ぶ銅の壺はのハプスブルク家の人々の内臓が納められている。心臓は銀の壺の中で王宮のそばのアウグスティーナ教会の地下に安置され、遺体は棺に入れられてカプチーナ教会の皇帝霊廟に安置された。

私の関心はもちろんナポレオン二世だ。ハプスブルク家的には、「ライヒシュタット公爵」だが、棺にだけは、ローマ王として生まれ、三歳で半月間フランス皇帝ナポレオン二世になったことが記されていた。その棺はハプスブルク家を嫌うヒトラーによってフランスに移されたが、心臓と内臓はウィーンに残っている(『ナポレオンと神』(青土社)にいろいろ書いています)。

でも、内臓はヒエラルキーが低すぎるのか、壺も地味で、どれがナポレオン二世のものか私には分からなかった。

その後、墓石や彫像の展示場所を経て、聖堂参事員たち(聖職者)の埋葬場所を過ぎると、18世紀に付け加えられた公共墓地につながっている。部屋が冠でいっぱいになると壁でふさがれ、40年間で1000人が埋められたが、圧巻はペスト墓地で、ペスト流行の時に穴に投げ込まれた遺体の骨が折り重なって積まれている。1783年に閉鎖された後うっちゃられているのがそのままのぞけるので、何だか、まだ、伝染病がうつるんじゃないかと思うくらいにリアルだ。

パリのカタコンブよりも即物的な感じだ。

こんなに多くの「死」の形骸を見せられると、自分が霊能者などでなくてよかったとほっとする。
同時に、そうか、「生」の形見は骨か、骨なのか、と思えてきた。
骨という形になれば、古代のパレスチナの使徒の骨でも、真偽の分からない「聖人」の骨でも、18世紀にペストで斃れて無造作に投げられた庶民の骨でも、みな時空を超えた「あちらの世界」を共有している魂によって平等な形見になるようなのだ。

そういう写真は載せても陰気なので、ここでは宝物庫から見た大オルガンの裏側や奏楽の天使像を載せておこう。

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by mariastella | 2017-08-17 02:58 | 宗教

ウィーンの話 番外

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シュテファン大聖堂の聖母子像です。長い間、貧しい人々の崇敬を集めていました。
庶民には、金ピカに飾りたてられた聖遺物よりもこの聖母のまなざしが頼りになったのでしょう。幼子イエスは聖母の心臓を祝福しているとされます。名作です。
王侯貴族邸内の聖堂と違って大聖堂はすべての人々が集えるところだったことを教えてくれます。

今日は聖母被昇天祭。
被昇天のノートルダム教会に今から出かけます。

幼子を抱く母親が誰一人として戦争のある世界を望んでいないのは確かでしょう。

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by mariastella | 2017-08-15 15:26 | 宗教

ウィーンの話 その6


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これが、宝物庫の最終部分にある聖ステファノの聖遺物。(多分)
部屋の前にはそう書いてあるが、棺の前には説明書きが見当たらない。
宝物庫そのものは昔地下にあって、大戦の火災を免れて、戦後大聖堂を再建した際に大オルガンの上の部分にまとめられた部分なので、内陣のは墓所のように薄暗くも迫力ある趣があるわけではなく、歴史美術の博物館的な空気。




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棺の中には、着ぐるみのような体が安置してあるが、どう見ても、立派な衣装で包んだ人型だ。で、顔の部分だけが、薄い布で覆われた髑髏のような感じだ、殉教者を表すオリーブの枝の冠、ステファノの見た日の光にちなんだ日輪などから考えて、やはりこれがステファノだと思われる。

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普通は骨一本でも聖遺骨はこんな感じで立派な容器に入って布や宝石で飾り付けられて安置されている。

ということは、ウィーンには、「ただの骨」ではなくてありがたい頭蓋骨が聖遺骨としてもたらされたからこそシュテファン大聖堂の威光が増したのだろう。普通は頭蓋骨の聖遺骨でも、頭の部分だけ飾られて置かれているから、全身を再現したつくりはなかなか凝ったものだと思われる。

前にも書いたけれど、これが本当に、イエスの使徒のステファノの頭蓋骨なのか、十字軍が偽物をつかまされたのか、当時の人々が本気で信じたのか、いつから信じなくなったのか、それでもそのまま祀っていていいのか、などなどという疑問は私にとって重要ではない。

カルヴァンに批判されるまでもなくキリスト教のメインメッセージと関係ないと思われる類推魔術の心性がどういう形で表現されてきたのか、
人々がなぜこのようなよすがを必要としたのか、
それが何をもたらしたのか、
共同幻想のような力がどのように働くのか、
この聖遺物に託されてきた多くの人の濃密な思いの残滓はまだ残っているのだろうか、

などの問いが次から次からわきおこる。

その答えの一部は、言語的ではない形ですぐに与えられた。

同じシュテファン大聖堂の地下墳墓の中で。(続く)

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by mariastella | 2017-08-15 05:57 | 宗教

ウィーンの話 その5

キリスト教最初の殉教者ステファノの「聖遺物」に捧げられたウィーンのシュテファン大聖堂。

メインのステファノの聖遺物は内陣内にはない。


有料の宝物庫の一番上の部分にある。


そもそも、使徒のうち最初の殉教聖人ということでメ、ジャー中のメジャーの1人であるステファノの聖遺骨の信憑性はどの程度あるのだろう。


よく知られている「お話」の典型的なのは次のようなものだ。


イエス・キリストの受難と復活の数年後の1227日(オリエント教会での祝日)、まだ、キリスト教徒というアイデンティティのないステファノは、イエスの教えを受け継いで、エルサレムの律法学者たちの神殿偏重を大祭司の前で批判したので怒りをかい、石で打たれて殺されて、路傍に放置された。

その遺体をでエルサレムの北20マイルCaphargamalaにある自邸まで運んで、40日の喪の期間を経た後で墓所に埋葬したのがガマリエルという聖パウロの律法の教師と言われる人だった。

彼の甥はイエスにひそかに傾倒してイエスの埋葬の世話をしたニコデモとされる。

ガマリエルとその息子ハビブもイエスの死後に使徒から洗礼を受けている。

ニコデモも、石打ちにあって、傷を負い、ガマリエルの屋敷に逃れた後で死に、ステファノのそばに埋葬された。後に、ガマリエルと、20歳のハビブも死んで同じ場所に埋葬された。その後、ガマリエルの屋敷は崩落した。

で、キリスト教がめでたくローマ帝国の国教となった後の415年になってから、Caphargamalaの敬虔な司祭ルキウスが3度ステファノのお告げを聴いた。ステファノは、その名が赤と金で刺繍されている助祭の祭服を着ていた。

その指示にしたがってガマリエルの屋敷跡を掘るとまず石だけが出てきた。もっと北の方を掘れというお告げに従って修正すると、ステファノらの遺骨が発見され、地は振動し、芳香が立ち上った。

遺骨をエルサレムの聖シオン教会に移したのが415年の1226日で、大雨が降り、それまで続いていた深刻な旱魃が解消された。


ところが、聖シオン教会に納められていた棺をコンスタンティノープルに移そうとしたある未亡人が意匠の似たステファノの棺と夫の棺を取り違えた。棺が運ばれる途中で次々と「奇跡」が起こった。港について、ラバで運ぼうとしたらラバが動かなくなった。82日、その場所に最初の殉教者教会が献堂された。


ビザンティンの記録によるとまた別で、ルキウスの仲介でステファノの右手の骨がエルサレムの大司教に届けられ、その後、皇帝による寄進に感謝するために429年にコンスタンティノープルに移譲された。439年にはエルサレムに引退した皇妃が別の部分の骨をコンスタンティノープルに送った。6世紀に別の皇妃ユリア・アニキア?が残りをコンスタンティノープルに移した。

そういう経緯でステファノの聖骨全部がコンスタンティノープルにあったが、十字軍による1204年の侵略によって、ほとんどが西ヨーロッパの各地に持ち去られた。


フランスではブザンソンのカテドラル聖ジャン(ヨハネ)大聖堂にある「ステファノの腕」が長い間巡礼者の崇敬の対象になっていた。5世紀(445)にステファノの腕の骨大小2本がローマ皇帝ホノリウスに贈られた際に、途中で今のブザンソンに当たる古都Vesontiに留まった。小さい方の骨は手の形の容器に納められて巡礼者に祝福の按手をする見立てになっていた。

当時は聖エティエンヌ(ステファノ、シュテファン)カテドラルだった。崇敬物として一時代を画した後、16世紀には、5世紀にテオドシウス帝から大司教に贈られたという触れ込みのイエスの聖骸布が新たな崇敬の対象になった。

1523年に壁が崩れて「発見」されたというのだ。

プロテスタントの宗教改革の反動でカトリックの聖遺物崇敬が高まった時期だ。

今も有名なトリノの聖骸布がリレイからトリノに落ち着くまで1418-5234年間、この地方の神学校に保存されていた間に模写されたものだと言われているが、ともかく1523年以来復活祭と昇天祭に一般公開されて、多くの奇跡が起こり、聖骸布信心会が大きな勢力を持った

その後1669年にあらたな聖ヨハネ大聖堂に移された(ブルゴーニュ公国は正式にフランス王の支配下に入っていた)。フランス革命後の1794年にパリに持ってこられて吟味されて、偽物であるとされて破棄を申し渡されたはずだが、ナポレオンがカトリック教会と和解した後19世紀にはまたブザンソンに現れて崇められたという。この聖骸布をモティーフにした数々の絵も有名だ。

で、そのようないわば、宗教改革だの近代革命だののもたらす流行りすたり、の中で、ステファノの聖遺骨の方は信心の対象としてはすっかり忘れられた形になったらしい。「宝物」としては今も健在だ。

宗教改革でカルヴァンなどからあれほど馬鹿にされて弾劾されたのにしぶとく聖人崇敬を手放さなかったカトリックだから、「お話はお話として」、信心の本質的なシンボルとしての「聖遺物」はどんな形でも、ちゃんと残ったわけだ。


これらの事情を鑑みるに、宗教改革や近代革命による損害がなかったウィーンのシュテファン大聖堂にあるステファノの聖遺物というのは、同じように、13世紀初めにコンスタンティノープルからもたらされたステファノの骨の一部を看板の聖遺物として掲げたものの、後にその聖遺物そのものへの崇敬はすたれたので、「宝物」庫にひっそりと保管されているという感じなのかもしれない。

聖堂の内部では皇帝の棺の方がずっと立派に安置されている。

ゴシック時代のシュテファン大聖堂の前にあったローマン教会も、ステファノを守護聖人としていたらしい。12/26に朝日が主祭壇に射す方向に向けて建てられているという。それは人々に攻撃される前のステファノが空を見上げると神の光が射したことにちなんだものだ。(ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。)(使徒言行録7,55-56

だからどうしてもステファノの聖遺骨を必要としたのかもしれない。

前置きが長くなったので、ステファノの聖遺物との対面は次回に。

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by mariastella | 2017-08-14 06:15 | 宗教

ウィーンの話 その4

シュテファン大聖堂の「宝物館」には、工芸として立派な祭服だの聖体容器、聖杯、聖遺物入れなどの他にカトリックのフォークロリックな「聖遺物」がたくさんある。

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十字架を担いでゴルゴタへの道を行くイエスの顔を拭ったヴェロニックの布だとか、

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最後の晩餐のテーブルクロスだとか、

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イエスの十字架の木の一部だとか、

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茨の冠の棘だとか、

こういうものって、例えばヨーロッパ中にある十字架の木の聖遺物を合わせると森ができると言われるほど、どこにでもあるといえばある。たいていは、4世紀のコンスタンティヌスのあたりから、エルサレムに行っての「聖遺物収集」が始まって、それがイタリアやコンスタンティノープルで崇敬されていたものが、十字軍の時代にコンスタンティノープルから収奪してきたということになっている。
また、神聖ローマ帝国の皇帝やヨーロッパの王とローマ教皇とが対立していた時に何度も侵略や戦争があったので、フランス王やらドイツやオーストリアの王、皇帝、選挙候などもイタリアの各地からメジャーな聖遺物を収奪したりしている。
ケルンの大聖堂などはミラノから略奪した東方の三博士の遺骨を納めるために建設されて、その威光でローマに肩を並べるほどの大巡礼地となった。つまり経済効果があったわけだ。
十字軍の騎士たちに「聖遺物」を売りつける商人たちも跋扈していた。
存在が確認さえされていない三博士はもちろん、あきらかにでっちあげやら真偽のあやしいものはたくさんある。
しかも、手に入れた経緯は略奪やら時には他の巡礼地から盗み出すなど、到底、立派な行いとは言えないものが多く、これらこれらの夥しいメジャーな聖遺物は、巡礼者に宣伝するのは別として、基本的にひっそりと、つまり、本物であることを「強調する」とか「証明する」というようなロジックと別のところで祀られている。

これらの聖遺物を「本物」にするのは、巡礼者、信仰者を集める「実績」であり「ご利益」や「奇蹟」の「実績」であるからだ。聖遺物は崇敬されることで「本物」になり、崇敬による一種の集団サイコエネルギーみたいなものが、「奇跡の治癒」を生み出していく。

中世の人間とはいえ、本気でこんなものをありがたがっていたものだろうか、とその本気度を疑いたくなるかもしれないが、当時の王侯貴族が「毒消し」のために食器や飲み物入れに異常な神経を使っていたことを見るとそれが別の角度から分かってくる。彼らは常に毒殺されるリスクを抱えていて警戒していた。だから食器やカップなどを毒消しの効果のある動物などで装飾したり、毒消しの効果のあるとされていたヤギの胃の石灰化したものをくりぬいて金細工してコップにしたりしている。

医学の発達していない時代に、病気や怪我や中毒などは神罰やら運命やらに一撃される不可抗力の恐れだった。
いいというものにはすべてすがってみる、というのは信仰や迷信というよりもっと実存的な欲求だったのだろう。

このような聖遺物崇敬の「迷信」はプロテスタントから一笑に付され、一掃されたわけだが、ましてや明らかに出自のはっきりしない聖遺物について、今のカトリック教会はもちろん大っぴらに宣伝するわけもないし、新しく公認された「聖人」の真正の「聖遺物」だって、「それがどうした?」と部外者に言われればそれまでなのだから、中世の王侯経由で聖堂や修道会に伝わるコレクションについては、崇敬されてきた歴史を尊重するだけで、「真偽」を問うようなことはしない。

で、この大聖堂が捧げられたイエスの使徒ステファノ、聖シュテファンの聖遺骨はどこに?どこに? (続く)

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by mariastella | 2017-08-12 07:10 | 宗教

ウィーンの話 その3  シュテファン大聖堂の南の 塔に昇る


ウィーンでは一日に18000歩も歩いた。

シュテファン大聖堂も、南の塔の上まで昇った。

ずっと低い北の塔の展望の良いところまではエレベーターがある。

そちらももちろん昇ったが、南の塔は300段以上の螺旋階段を延々と昇らなくてはならない。

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写真の右端のところどころに開いているのが見える長方形の穴から吹き込む風でなんとかしのげるが、おりからの猛暑で大汗をかく。

なんでこんな高いところに昇るのかなあ、と自分でも思う。

降りるのはもちろんずっと楽だ。

天国に上がるのは難しい、

地獄に堕ちるのは簡単、

ってことかなあ。

大聖堂内の説教壇も、階段を昇ってかなり上の方にある。

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下の方には動物やら怪物やらの彫刻が施されている。

これは別に、司祭が会衆を見下していわゆる「上から目線」で説教を垂れるためではない。王侯貴族の宮殿に付属する聖堂では、王たちが聖堂に入らずに居住室から直接、説教壇より高い位置にあるテラスの席について、見下ろす形になっているところなどいくらでもある。

説教壇が高いところにあるのは、そこに上ることで煩悩やら邪心やら「悪」を「下界」に置いてくるという決意の意味があったそうだ。自分の卑しい部分を下に残して、霊的な部分を聖霊にインスパイアしてもらって説教の言葉が出てくるようにするためだという。


そうなると、苦労して塔の上に昇るのも、登山と同じでちょっとストイックな「浄め」の気分なのかなあ、とも思ったが、「馬鹿と煙は高いところに上がるのが好き」という言葉も頭に浮かんだ。

シュテファンというのは十二使徒の中で最初に石打ち刑で殉教者になったステファノだ。

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祭壇の絵ももちろん殉教図になっている。


フランス語ではエティエンヌという。ステファヌという名前もある。カトリックのことを知らない人には、エティエンヌとステファンが同じ使徒由来の名だとは気づかないくらいに違う。

ピーターやペーターがピエールやペドロ、ピエトロ、ピョートルなどとヴァリエーションがあるのはまあ見当がつく。

ステファンがスティーヴンやエステバン(スペイン語)になるのもやや分かりにくいが、Sが完全に抜けたフランス語のエティエンヌって、慣れれば普通なのだけれど、フランス語のミシュランのガイドブックの地図にSt Etienne と堂々と表記してあるのを見ると違和感があり過ぎだとあらためて思った。

ハプスブルク家のウィーン最大のゴシック・カテドラル、地下にはカタコンブもあれば歴代の皇帝、王族の内臓を収めた壺も並ぶ。見どころは満載だ。


「ハプスブルク家はみな敬虔なカトリックだった」と解説にある。


「敬虔なカトリック」ってなんだろう。


権威付けや人脈や政治や外交のツールの他に、迷信、あらゆる種類の「神頼み」をほんとうに必要としていたということか、それとも本気で「教義」を信じていたのだろうか。確かに、信心グッズのコレクションの壮大さにはただの見せかけではない強迫観念が垣間見える。

ともかく、最大の野次馬的興味は、この大聖堂が捧げられている殉教使徒シュテファンの聖遺物である。それはどこにある?


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by mariastella | 2017-08-08 05:44 | 宗教

ウィーンの話 その2 スピノザ賛歌を作ってきた

ウィーンで考えたことをいろいろ書く前に、東京やパリと違うなあと思ったことをもう少し。

私は文房具フェチでミュージアム・ショップのボールペンの類はどこでも買い込んでしまう。

で、ウィーンで最初に買ったボールペン、試そうとしてペン先を出そうとしたら出なかった。
蓋つきでない場合は、たいていは、ペン先の反対側にあるでっぱりを押すノック式か、本体を回すとペンが出てくる。
たまに、ポケットなどに引っ掛けるための取っ手みたいな部分を押し下げると出てくるというのもある。
それを全部試したのに出てこなかった。
ペン先を出すには、ペン先の出てくる円錐部分だけを回す仕組みになっていた。
珍しいなあと思ったが、その後、私の行ったすべてのミュージアム・ショップや土産物店にあったボールペンが、先を回す方式だった。プラハなどでは気づかなかったからやはりこれはウィーン限定なんだろうか。

ピアノ型のオルゴールも買ったけれど、私の持っている他のピアノ型のオルゴールは、グランドピアノの三角型の蓋を開けると音が鳴るものだけれど、ウィーンのものは、鍵盤の蓋を開けると音が鳴るものだった。これでは鍵盤の蓋を開けて飾っておけない。

なんだか、ペン先といい、鍵盤の蓋といい、小手先というか、よく言えば繊細だが、なんだかウィーンのどこかにはりついているデカダンスな感じに呼応しているような気分にだんだんなってきた。

もう一つおかしいのは、今夏のバーゲンセールの時期なのだろうが、どこでも英語でsaleと書いてあるのは日本でもそうだから分かるとして、多くの店に「SALE %」とか、時には、大きく、ただ「%」とだけ書いてあるのだ。
もちろん中には「-50%」とか「bis -50%」と書いてあるものもある。それは50%引きなんだろうなとか、最高50%までの値引きなんだろうなと分かるけれど、ただ「%」って…。
初めは数字が抜けたエラーかと思っていたけれど、「SALE %」とか「%」だけの店がたくさんあったので、要するに「%」というのが「バーゲンセール」とイコールなんだと分かる。

日本のお店にも英語やフランス語でへんなものは時々あるけれど(そういえば、フランス語ではsaleというのは汚いという形容詞なので、英語圏や日本でsale, sale,とあちこちに貼り紙がしてあると慣れないフランス人は妙な気分になる)、それにしても、ただの「%」だけで、いいのか、オーストリア人、と思ってしまった。

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体験型で人気の「音楽ハウス」では、自分でウインナワルツを「作曲」したり、自分の名のオリジナル曲を作ってもらったりできる。
と言っても、前者は、右と左のサイコロを振って、弱起付きのヴァイオリンパートとチェロのバートを交互に6種類の中から組み合わせて、最終小節はちゃんとまとまるようにプログラムされているもので、それを楽譜にしたものをもらうこともできる。
後者は、自分の名前をアルファベット打ち込むと手書き風の楽譜が現れて、音を聴くことができて、さらにそれをハーモニゼーションしたもの、楽器演奏したものを試聴でき、プリントアウトされた楽譜をもらうことができる。

アルファベットに対応して何にでも使いまわされるようなモティーフがプログラムされているのかもしれないが、私はもちろん、先月帰天したスピヌー(スピノザ)の「賛歌」を記念に作った。

私たちのトリオの共通の友人にルイ・ロートレックがいる。
トゥールーズ=ロートレックの本家にあたる家系のギタリストだ。
彼のために私たちで彼の名を使った曲を作って演奏したことがある。

ロートレックというのはフランス語でLAUTRECと書く。
これは LA - UT - RE -C と分解できる。
LAはラ、UTはドの古い読み方(フランスではつい最近までよく使われていた)、REはレ、Cはドの音名、

で、「ラ、ド、レ、ド」をモティーフにして組み合わせた小曲を彼に捧げて弾いたのだ。

そんなことを思い出してしまった。

このウィーン風スピヌー賛歌、スピヌーの動きが目に浮かぶようで気に入っている。

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by mariastella | 2017-08-06 06:20 | 雑感

ウィーンで考えたこと  その1

ウィーンを歩いていると、東京やパリとちょっと違うなあ、というほほえましいものに出会う。

信号機の図柄もその一つ。

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青信号は女性が男性の手をひいて歩いているような感じで二人の間にハートが。

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赤信号も二人並んで待っている。

全部の信号ではないけれど中心部には多かった。

ジェンダー的な配慮??

しかもこの信号、なんだかチクタク、というかカタカタとまるでゼンマイでうごいているようなローテクな音をたてる。

言葉や表示は完全に英独の二択だ。

私は英語に次いで第二外国語がドイツ語で、昔はゲーテやシレジウスもドイツ語で読んでいたので、書かれたものはまあまあ分かるけれど、聞き取りは難しい。カフェでうっかりドイツ語で注文したりするとドイツ語が返ってくるので聞き取れなくて、慌てて英語で言い直すことになる。観光客はみな英語でしゃべっているせいか、

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こういうデザインがあって笑える。

確かに、英語ではAustraliaとAustriaは似ていて混同されるらしいが、日本語のカタカナだと一字違いでもっと問題になっているそうだ。
オーストラリアは南の国、で、ドイツ語の Österreich は 東の国(フランク王国にとって東の辺境だったからだ。それが「西」ローマ帝国を受け継ぐ神聖ローマ帝国のめいしゅになったのだからやこしくもある。

今回初めて、ドイツとのはっきりした違いを感じた。
変な話だけれど、「オーストリア生まれのドイツ人」だったヒットラーがハプスブルク家を嫌ったという理由も分かる気がした。
オーストリアの独特の退廃や倒錯の微妙な機微も。

音楽や美術や宗教を通してもそれがよく分かる。

昔はヨーロッパのどこに行っても、ただ、その地の文化を「拝見」しているだけだったし、日本人として刷り込まれているビジョンを「確認」するようなところがあった。

最近はどこに行っても感慨深い。

もし私が今女子大生だったり、あるいは、私が女子大生だった頃に今のデジタル・テクノロジーがあったなら、そういう「確認」をせっせと撮影してインスタグラムだのfacebookだのtwitterだのにアップする形で「消費」してしまっていたことだろう。

それにしても、今回はハプスブルク家とカトリックの関係をすごく考えてしまった。
フランスはもちろんイタリアやスペインやポルトガルやらのベタなカトリック国(の王様たち)と比べても、ハプスブルク家の「カトリック皇帝」みたいな矜持には独特のものがある。

私は昨年『ナポレオンと神』で、ナポレオン二世の運命とヒットラーとアンヴァリッドのことを書いた。そのせいで、大聖堂やフランシスコ会の墓所では胸が騒いだ。

近代フリーメイスン創立の300年記念ということで国立図書館の展示も興味深かった。
なるほど確かに、300年。私が講談社選書メチエから『フリーメイスン』を出したのは2015年だったが、今年になってネットメディアのインタビューを受けたし、もうすぐ発売の『サイゾー』からも取材を受けたばかりだが、300周年だったからなんだなあと今頃納得する。

私の本にももちろんモーツァルトのこと、ヨーロッパのフリーメイスンとアーティストの話が書いてあるので、その時にもいろいろな資料を読んだが、今年ウィーンで、モーツァルトがらみでフリーメイスンについて珍しい資料を実見することになるとは思わなかった。

いろいろなことを少しずつ書いていこう。


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by mariastella | 2017-08-05 06:27 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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