L'art de croire             竹下節子ブログ

タグ:ウィーン ( 26 ) タグの人気記事

ウィーンの話 その25 ガイドブック事情

2ヶ月近く書いてきたウィーンの話、まだ行ったコンサートについてとか、美術館についても書いていないことが多い。このブログを覚書にしようと思っていたのだけれど、なんだか時間に立つにつれてモチヴェーションが下がってきた。

昔は旅に出るたびにノートを持っていて毎日毎日その日のうちに記録していたものだ。
今は、写真だけ取っておいて、後は少しずつブログにアップして…などと思っていると、かえってこぼれおちるものが多い。

そしていろいろな旅を重ねたり、同じ場所でも世紀をまたいで再訪するとその違いに驚いたり、全部が複合的になって、記録よりも一冊の論考を書きたくなってしまう。

細切れな覚書はかえって記憶を風化させるということが分かった。
行ってみれば、外付けメモリーに入れておいたことで安心して本体の記憶にうまく組み込めなくなる。

だからここでひとまず打ち切ることにする。

多くのシリーズが「中途半端」になっていることに申し訳なさ(続きを待ってくれる人もいるので)を感じるが、これまで書いたもののすべてはこれから書くものの栄養となっていることは確かだ。

で、今回のウィーンで驚いたことのひとつにガイドブックがある。

21世紀に入ってから、いやここ数年、ヨーロッパの各地に出かけるたびに、気づかされることだ。

それは、日本語のガイドブックとフランス語のガイドブックのあまりもの違いだ。

同じ国のことを書いているとは思えない、というくらい雰囲気が違うことがある。

昔はそうではなかった。

多分、昔の日本のヨーロッパ観光ガイドブックは、英語圏のガイドなどをベースにしたごく基本的なものだったろうし、フランスのミシュランのガイドブックなどもきっと参考にされていたのだと思う。フランスのガイドブックは今も昔もミシュランのものがあるし、今は、体験者の声を集めた「地球の歩き方」風のものも多くなったけれど、それは予算別みたいな感じがある。バックパッカー用と、カルチャー中心のものと。


ところが、日本は、バブル時代以来、外国旅行者がどっと増えたり、リピーターが増えたり、そして何よりも、今はインターネットのおかげで、誰もが写真入りの紀行文をアップしたりするので、間口がどっと広くなった。

個人がネット上で情報を発するハードルは日本が圧倒的に低い。

そして、それにつれて、もちろん、ガイドブックを製作したり編集したりする側も、何度も何度もリピートして、体験して、写真を撮りまくっているので、なんだか個人のブログと同じような感じになっている。


写真が多すぎ。


食べ物情報が多すぎ。


今回のウィーンのために日本語では「まっぷる」というのと「ことりっぷ」というのを2冊買ったのだけれど、とにかく、ケーキの写真が多い。

「ばらまきみやげはここで買おう」という記事もある。


私は基本的にフランス語のガイドブックを使う。その方が使い勝手がいい。(日本語でカタカナ表記が多いとかえって不便なだけだから)


けれども、日本のガイドブックには日本人ならではの贅沢さやツボにはまる部分があるので参考にすることにしていた。


ところが、まあ、私が目的としている教会巡りや聖遺物巡りについての情報などは最初からあてにはしていないものの、食べ物とケーキ、レストランとカフェの写真入りの詳細な紹介のオンパレードには正直驚いた。


この傾向はなんだかだんだんひどくなっている。


日本語ガイドブックのパリ観光のものは見たことがないので分からないが、ウィーンのものと同じように、レストランやカフェやお土産物の写真満載なのだろうか。

これだけでちょっとしたカルチャーショックだ。


さすがに、日本の観光地や寺社巡りなどの日本語のネット情報にはコアなものもあって参考になるのだけれど、例えばウィーンって、もうシュニッツェルかザッハートルテばかりで、モーツアルトとシュトラウスとクリムトとシシ―(皇妃エリザベト)がいろどりとしてあるだけ、みたいな印象だ。


日本の観光客にとって、ウィーンもパリもロンドンも、似たようなものではないかという気さえする。


バロックバレエで久しぶりにエリカに会ったので、ウィーンとプラハとドイツのバロックの違いについて最近考えたことを少し話した。


思えば、プラハに行ったときはもちろんエリカにアドヴァイスしてもらったので日本語のガイドブックは買わなかった。今度ウィーンのものを買ったら、ウィーン、プラハ、ブタペストは三つでセットになっているのだ。


ウィーンのことをエリカと話すと刺激的だ。

先にもっと聞いておけばよかった、と少し後悔。

(エリカはチェコのソリプシスト、ラディスラフ・クリマ研究の第一人者です。クリマについては『無神論』p264で少し触れました。このブログでもソリプシストKで検索すればいろいろ出てきます。ここなど


[PR]
by mariastella | 2017-09-25 03:17 | 雑感

ウィーンの話  その24 美術市美術館 2

美術史美術館で興味を掻き立てられたのは、天使たちの造形。
天使といっても、大天使ナントカではなくて、子供型のいわゆるキューピッドというやつだ。



c0175451_06195835.jpg
c0175451_06213374.jpg
保育園でもめている子供たちですか。


c0175451_06364702.jpg
c0175451_06392378.jpg
なんか凶器を作っている天使のそばで、もう一人が嫌がる子の手を無理やりにひっぱって、いじめの現場みたいな光景。実際はアトリエで作業している様子らしいが、絶対に何かの含意がありそうだ。こんな絵、誰が注文したのだろう。

[PR]
by mariastella | 2017-09-18 02:38 | アート

ウィーンの話 その23  美術史美術館

日本人にとって、美術の教科書に載っている有名な絵の実物がたくさんある、という不思議な気持ちを抱かされるヨーロッパの美術館のひとつがウィーンの美術史美術館だ。

しかも、例えばイタリアだからイタリアの、フランスだからフランスの、スペインだからスペインの、イギリスだからイギリスの、ウィーンだからオーストリアのアート作品の収集というのではなく、ヨーロッパの中で、王侯貴族やカトリック教会の姻戚関係やネットワークが国際的で錯綜していて、コレクターもボーダーレスなので、どこでも「美術の教科書」っていう感じになる。

美術史博物館の目玉展示物もラファエロやフェルメールやブリューゲルだったりするのだ。
でも、いわゆる有名作品に惹きつけられるよりも、

c0175451_06352054.jpg
カラヴァッジョの大作の貧しい人々の足の裏の汚れのリアルさになぜか感動したり、


c0175451_06183815.jpg
こんな聖母子像の異様な愛らしさに驚いたり、

c0175451_06275747.jpg
c0175451_06291085.jpg
このような象牙細工(下はヨーゼフ一世。70cmくらいの作品)の職人技の造形に圧倒されたりした。

これは、パリのブランリー美術館でアフリカの装飾品を見てもそう思うのだけれど、日本にいればとても繊細な職人技はなにか日本人独特のものかと思うのに、実際は、「細部への偏愛」というか偏執みたいなものは、古今東西、人類共通なんだなあとあらためて感心する。

c0175451_06271842.jpg
こういう不思議な小物もあった。

[PR]
by mariastella | 2017-09-17 07:51 | アート

ウィーンの話 その22  ベルヴェデーレ宮美術館 4


(これは前の記事の続きです。)

c0175451_01121128.jpg
c0175451_01113665.jpg
c0175451_01104533.jpg

メッサーシュミットは若くして王立アカデミーの助教授ともなり、ウィーンの貴族や知識人らの肖像の注文を受けた。その腕は高い評価を得ていたのに、やがて人間関係が破綻して解雇され、ウィーンから去らざるを得なかった。

彼の病が何であったのかについては、言行録があまり残っていないので確定はできないが、1932年に美術史博物館長で精神分析家でもあったエルンスト・クリスが統合失調症だと診断した。頭像における様々な感情の表現は、無意識の自己治療なのだという。

さらに、1981年に、オットー・グランディエンが、メッサーシュミットが47歳で肺炎で死ぬまで最後まで制作に破綻がなかったことから妄想性精神障害という診断を下した。


死亡記事には彼が超常現象に興味を持っていたと記録されている。

注目すべきは、メッサーシュミットが、ほぼ同世代のフランツ・アントン・メスメールと1766-70年にウィーンで同居していたことだ。メスメールからの注文で噴水用の彫刻も制作している。


メスメールといえば、「動物磁気」による治療でパリで一世を風靡した人で、催眠術や精神分析の先駆者ともなった。ウィーンで怪しまれたメスメールは1779年にパリに行き、宇宙の波動による治療で大儲けをした。1780年代に8000人の患者がメスメールのエネルギー治療を受けた。メスメールは450人の磁気治療師を養成し、フリーメイスン・ロッジのモデルを使ってヨーロッパ中や海外にまで支部を作ったという。


ウィーン時代にはもちろんモーツアルトとも交流があり、治療の時のバックミュージックをモーツアルトに依頼している。モーツアルトのオペラ・ブッファ『コジ・ファン・トゥッテ』(1790)の中にも「磁気療法」が出てくる。


すなわち、メッサーシュミット、モーツアルト、メスメールはフリーメイスンを通して交流していたというわけだ。

メッサーシュミットのような天才が、これほどの途方もない作品、当時としては商品価値を持ち得ようのない強迫的な作品群(70点以上)を残せたことの背景には、啓蒙の世紀の末期、革命前夜のフリーメイスン的デカダンスと韜晦があるのかもしれない。


[PR]
by mariastella | 2017-09-16 06:37 | アート

ウィーンの話 その21 ベルヴェデーレ宮美術館 3

ベルヴェデーレでクリムトやエゴン・シーレにあえて触れないとしても、やはりここでしか見られない目玉展示品は、フランツ=クサヴァー・メッサー シュミット (1736-1783) の『個性の顔』と呼ばれる不思議な頭像の表情シリーズが一堂に集められているものだろう。

c0175451_01092731.jpg
c0175451_01100441.jpg

彼の作品の表情の誇張は、それが肖像として注文されたものではなくて、ただただ、人の表情の観察のために作られているということだ。

後世に残すための「よそ行きの顔」ではなくて人間の内面を表す様々な表情を研究したアーティストは別にメッサーシュミットだけではない。ダ・ヴィンチだって多くのデッサンを残している。

メッサーシュミットの残した頭像がすごいのはそのほとんどがブロンズ像だということだ。こんなものは、普通は、しかるべき権力者の注文によって作られる。

メッサーシュミットにそれを作らせたのは、「精神の病」だった。(続く)


[PR]
by mariastella | 2017-09-15 07:30 | アート

ウィーンの話  その20 ベルヴェデーレ宮美術館 2

c0175451_01061271.jpg
ちゃぶ台をひっくり返したサムソン。旧約聖書のサムソンとデリラで有名な話。

Johann Georg Platzer『サムソンの逆襲』1730-40頃 

怪力を取り戻してつながれていた柱を壊して建物を倒壊させたサムソン。
救いようのない話だけれど、構図がとてもバロックだ。

c0175451_01083180.jpg
こちらは怪力とは無縁の、苦悩するイエス。Paul Troger の『オリーヴ山』 1750年ごろ。後期バロック。

この両手の指の組み方がなぜか悲痛。イエスは、逆襲しなかった。

[PR]
by mariastella | 2017-09-14 05:49 | アート

ウィーンの話  その19 ベルヴェデーレ宮美術館

ベルヴェデーレ宮の美術館というと、世界最大のクリムトのコレクションとかエゴン・シーレの画を思い浮かべる。実際、この二人が出てきたのは、音楽に関して今回初めて意識したウィーン独特の退廃から抽出された毒を秘めた何かのせいだと思う。

学生の頃はドイツの小ロマン派などに傾倒していたから、クリムトやエゴン・シーレもかなり「好み」だったと思う。

でも今はすごく健全になったので実はこの2人にもう刺激を受けない。

もっと中世的なものの新しさの方に驚く。

c0175451_01035309.jpg
これはHans Klocker という人の1485-90年ころの作品で、イエスの誕生に集まった人々の群像の中から聖母マリアの夫ヨセフ。この人って、許嫁の10代の少女マリアが聖霊によって妊娠したって知って、悩み、それでも母子を守ることに決めた苦渋のお父さん。しかも、子供は、旅の途中の馬小屋で生まれちゃうし、こういう複雑な表情になるのもよく分かる。


c0175451_01053303.jpg
これは司教姿の聖人たち。1518年の木彫。Andreas Lacknerの作。
保存状態がいいのもすごいけど、この聖人たちの表情が、ちっとも聖人風でなくなんだかそこいらのおじさん連みたいなのがリアルだなあと驚く。しかるべき衣装や小道具をあしらえさえすれば、顔の部分はこんなに自由に表現してもOKなのだとは。









[PR]
by mariastella | 2017-09-13 06:20 | アート

ウィーンの話 その18  フリーメイスンとヒトラー

ウィーンの国立図書館のフリーメイスン展示で実は一番興味深かったのは、二度の大戦間に、オーストリア生まれのヒトラーが総統として率いるドイツ国家社会主義のナチス党のオーストリア支部(1926年成立)がどのように台頭したかという状況だ。
c0175451_03344092.jpg
これは、1931年に起きたBauerという商人の殺害未遂事件に関して、フリーメイスンが関わっていたというプロパガンダのポスターで、オーストリア・ナチスの初期の活動家がそれについて講演している。
彼らがファシズムを広めるにあたって、フリーメイスンはかっこうのスケープゴートだった。
「フリーメイスンとユダヤの陰謀」というお決まりの陰謀論のルーツはこの頃にある。
世界恐慌による経済危機に苦しむ当時、フリーメイスンは分かりやすい「悪」の代表となった。
この1931年、ヒトラーはまだオーストリア人(しかし1925年にオーストリア再入国を拒否されて無国籍状態)だった。ヒトラーがドイツ国籍を得たのは1932年で、翌年の1933年にはドイツの首相になっている。
c0175451_03204332.jpg
私たちはオーストリアも1938年にナチス第三帝国に侵略され組み入れられた「被害者」だという印象を持っている。でもそれは、第二次大戦後処理で、ウィーンを占領したソ連が擁立した共産主義系の政権が西側連合国にかろうじて認められて分断が避けられ、「ナチスドイツの被害者」認定してもらえたからである。そして「永世中立国」の優等生の振りができた。

このフリーメイスン展でのフリーメイスンの扱いを見ていると、オーストリアナチスの黒歴史とヒトラーの出自をどう消去するか、という無意識の、あるいは政治的な選択が見えてくる。

「ドイツ性」とどう付き合うのか、その中で、ウィーンの特殊性をどう生かすのか、などの多層なニュアンスが見えてくる。

ウィーンはモーツアルトやソリマンのパトロンとなった自由で芸術的な都市でなくてはならない。それにはウィーンのフリーメイスンが必要だ。「ナチスドイツの被害者」面をするには「フリーメイスンの友」でなくてはならない。

フリーメイスンはウィーンの観光商品であるだけでなく政治商品なのだ。

[PR]
by mariastella | 2017-09-12 02:45 | フリーメイスン

ウィーンの話 その17  標本にされたソリマンの最期

ソリマンとモーツアルト(続き)

これも一次資料にあたっていないので確実には言えないのだが、ソリマンがフリーメイスンに入会して数年後に破産したとか大きな負債を抱えたという話もある。

彼の晩年がどのようなものであったかはよく分からないのだけれど、娘がしかるべき家庭の男と結婚して、前にも書いたように孫も歴史に名を残しているのだから、完全に無力な状態であったとは思えない。


ともかく、1796年、75歳になっていたソリマンはウィーンの街を歩いていた時に路上で動脈疾患(心臓か脳か不明)の発作で斃れて死んだ。


パリではフランス革命が勃発して恐怖政治を経た後、ナポレオンがイタリア遠征をした年だ。モーツアルトが死んで5年、ソリマンを愛したヨーゼフ二世が死んで6年経っていた。ヨーゼフ二世には後継ぎがなく、弟のレオポルドが即位2年後に死んだその息子フランツ二世が後を継いでいた。


ソリマンの遺体はフランツ二世に引き渡され、内臓だけが埋葬され、皮が剥がされて木型のマネキンに貼られる形で標本にされた。

珍しい「黒人」の剥製を作るために売られたのだ。

その「標本」は、半裸で羽根をまとい、貝殻の首飾りをつけるという「アフリカ原住民」の姿で自然史博物館のアフリカのコーナーに陳列された。

ウィーンの動物園の守衛だった黒人や六歳の黒人少女ら3人と共に、サバンナの動物の剥製を配したアフリカ展示の一部となったのだ。

ソリマンをキリスト教徒にふさわしく埋葬してくれるようにという子孫の申し立てもあったが聞き入られなかったようだ。オーストリアはすでにフランス革命戦争に突入していた。

生前あれほど尊敬され愛されていたソリマンが死後にこのような無残な形で扱われたということの根っこに、ウィーンの持つ独特の退廃や倒錯を感じてしまうのは考え過ぎだろうか。

フランスには、「黒いモーツアルト」と呼ばれた混血の作曲家に有名なシュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュ(1745-1799)がいる。

彼も失意のうちに死にはしたがそれは王家に庇護されていたことがフランス革命で裏目に出たからだったので、ソリマンとは全く違う。

シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュはフランスで最初の黒人のフリーメイスンで、グラントリアンの「9人の姉妹」ロッジでイニシエーションを受けたとされるがその正確な年は分からない。


しかし1781年にフリーメイスンの音楽家たちと共に「パーフェクト・ユニオンのオランピック・ロッジ」の後援でオランピック・ロッジ・コンサートという管弦楽団をオーガナイズしている。

パリのシュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュのような生き方は、ウィーンのソリマンには不可能だった。


それでも、この二人を結びつけるのはモーツアルトでありフリーメイスンだ。


ウィーンのフリーメイスンはソリマンの尊厳を守ることはできなかった。


1848年、ウィーン会議以来の体制に反旗を翻すウィーン三月革命がおこり、爆薬を投げ込まれた自然史博物館が全焼し、ソリマンの標本も灰燼と帰した。


フランス・バロック音楽とウィンナ・ワルツの差には、実は、いわくいいがたい毒がひそんでいる。

いつか言語化できる日が来るかもしれない。


[PR]
by mariastella | 2017-09-11 02:51 | フリーメイスン

ウィーンの話 その16 フリーメイスンとイルミナティ

ソリマンとモーツアルト(続き)


ハプスブルクのオーストリア帝国の社交界で完全に同化し受け入れられていたというより、人格も高潔で誰からも畏敬されていた黒人のソリマンが、フリーメイスンとなるのは1781年のことだ。

すでに60歳になっていた。同じ年に25歳のモーツァルトが、神聖ローマ帝国領のザルツブルク大司教コロレドに解雇されてウィーンで新生活を始めることになった。すでに名声が知れわたっていた天才はすぐにウィーンの社交界の支援を得た。フリーメイスンにはもともとアーティスト枠があって、ハイドンも常連だったからモーツアルトもすぐにロッジに出入りしたと思われる。

モーツアルト、ハイドン、ソリマンが出あったのもフリーメイスンのロッジだ。けれどもなぜかモーツァルトはハーモニーロッジでイニシエーションを受けていない。モーツアルトがイニシエーションを受けたのはハーモニーロッジより小規模の「慈善ロッジ」だった。最もこの二つのロッジは夏至の聖ヨハネ祭などを共同で開催している近い関係にあった。

「慈善」ロッジのグランマスターはオットー・フォン・ゲミンゲンで、彼は1778年にマンハイムでモーツアルトのパトロンだった。ゲミンゲンの紹介で同年にモーツアルトはパリのフリーメイスン作曲家で歌手のジョゼフ・ルグロらと出会っている。るグロはラモーのオペラで歌ったカウンターテナーで、モーツアルトと出会った時はコンセール・スピリチュエルを指揮してモーツアルトやハイドンに管弦楽を発注した。


フリーメイスンは貴族、アーティスト、啓蒙思想家たちのサロンという機能を果たしていたが、一応は「秘密結社」なので、その後の記録などがはっきりせず、文献によって異同がある。

1781年にウィーンのフリーメイスンの15人が「真のハーモニーへZur wahren Eintracht」という名の新しいロッジを作り、ソリマンはそこに迎えられて、たった4週間でマイスターの列に加えられた。ソリマンがそのロッジに友人のイグナス・フォン・ボーンを連れてきたと書いている人もいるが、逆に、1783年に全オーストリアのグランド・マスターであるフォン・ボーンによってソリマンがイニシエーションを受けたという人もいる。イグナス・フォン・ボーンがグランド・マスターとなったのは1782年だとする記述もある。

ソリマンは「ハーモニー」ロッジのグランド・マスターとなり「マシニッサ(紀元前3世紀の末にローマの支援で北アフリカのヌミディア王に即位したベルベル人だから黒人ではない)」と名乗ったともいう。

モーツァルトは『後宮からの誘拐』の大公セリムのイメージをソリマンからインスパイアされたとか『魔笛』のムーア人モノスタトスのモデルにしたとか言われている。ソリマンはバリバリの黒人で、トルコ人でもアラブ人でもベルベル人でもないが、当時のヨーロッパの感覚では、中南米のインディオでも北米インディアンでもトルコ人でもエジプト人でもなんでもエキゾチックという部分ではいっしょくただった。それは差別というより、ソリマン自身もエキゾチックなキャラクターを個性あるオーラとして利用していたのだろう。

当時のフリーメースンにはそういうエジプト趣味や秘教趣味が混然としていた。

ロッジに関するこれらの前後関係やヒエラルキーの異同について何が正しいのかは今の段階でチェックしていない。メイスン関係の記録の多くは破棄されたので第一次資料が少なく、確実なことは言えないのかもしれない。

一つ確かなことは、精錬技術に詳しい鉱物学者でトランシルヴァニア貴族であるフォン・ボーンの存在の意味だ。ソリマンの友人であったフォン・ポーンによってこのロッジが科学技術系になったということは確からしい。(ソリマンはコバルト鉱山に投資していたのだからそこからのつながりがあったのだろうか。)

フォン・ボーンはバイエルンのイルミナティのメンバーでもあった。

イルミナティというと、フリーメイスンと同じく今でも陰謀論の常連だが、17765月に結成されて1785年に禁止されたので短い期間しか存在しなかった。

フリーメイスンとの違いは、自由思想家、合理主義者らによる啓蒙活動団体としてフリーメイスンよりも過激だったことだろう。バイエルンもウィーンもカトリック文化圏で、メンバーはすべてカトリック信徒だった。

当時のドイツのカトリックはイエズス会に支配された保守的なものだったので、ラディカルな啓蒙主義者がイルミナティなどに向かったのだ。


フリーメイスンもイギリスのロイヤル・ソサエティに根を下ろしていたように、どちらも、もともと科学と親和性がある。エジプトの秘教趣味のせいで神秘主義やオカルトと混同されがちだけれど、古代趣味へと遡るのは、いろいろな宗教が分かれる以前の源泉となる普遍的なフィロゾフィアがあったはずだという探求心が原動力になっている。

フリーメイスンもイルミナティも当時は自由主義者と平和主義とアーティストの貴重な友好の場でありシンクタンクでもあったのだ。(続く)


[PR]
by mariastella | 2017-09-10 00:21 | フリーメイスン



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧