L'art de croire             竹下節子ブログ

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『マダムMadame』 Amanda Sthers 監督/トニ・コレット、ロッシ・デ・パルマ

フランス映画をもう一本

『マダム』


フランスのアメリカ人を描いた映画はカルチュラルスタディとしていつもおもしろいので観に行くことにした。

これはそれに階級差を配して、アメリカ人、イギリス人、フランス人の金持ちの間に東洋人、スペイン人のメイドらが加わる。フランスかぶれのアメリカ人の金持ち夫婦が、豪勢な自宅のディナーに、ロンドンの新市長のゲイ・カップルやアイルランド貴族の美術ビジネスマンなどを招待するが、13人になってしまって縁起が悪いのでメイドのマリアが友人に仕立て上げられる。マリアはできるだけしゃべるな、飲むな、と言われるのだが…。

一見、一種のシンデレラ・ストーリーとして始まるのだけれど、このシンデレラが、貧しいけれど実は美しくて若くて頭がいい、というのではなく、ブルジョワたちの美の基準(つまり、現代の商業的美の基準)に当てはまらないような個性的な容貌のロッシ・デ・パルマ。ペドロ・アルモドバルの映画での常連である50代の熟年女性だ。大柄で顔も大きくインパクトがある。

監督はまだ30代の若いフランス人女性作家で、フランス人らしくインターナショナルだ。

母親がブルターニュの弁護士、父親がチュニジアのユダヤ人精神医でマイアミの大学でも学び、パリのテロの後でロスアンゼルスに住んでいる。


夫役のハーヴェイ・ケイテルは78歳でこの役には年取り過ぎている感じだ。

で、夫婦とも、フランス語やフランス文化の個人授業を受けているという設定なのだけれど、どちらも相手と浮気する気が満々だというのは、フランスとフランス人へ向けるステレオタイプがベースで、すべて紋切り型でカリカチュラルだ。

最近の『ラ・メロディ』だとか『ル・ブリオ』でも階級差がステレオタイプに描かれていたにもかかわらずそこから引き出されるメッセージの方向性がはっきりしていたけれど、この『マダム』にはそれがない。

監督の目がどの登場人物に対しても等しくシニックなのだ。


大きなうねりもないし、結末の後味も良くないし、カルチュラル・スタディとしても人間劇としても失望した。

ロッシ・デ・パルマほどの個性的な人を使ったのに「途方もない感じ」を出せなかったのはもったいない。

私が映画に求めているのは何なんだろうと自問するという意味はあった。


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by mariastella | 2017-12-02 00:05 | フランス

『Le Brio』イヴァン・アタル監督

最近のフランス映画をもう少し。まず、 

Le Brio』イヴァン・アタルIvan Attal 監督 .

ダニエル・オトゥイユ Daniel Auteuil, カメリア・ジョルダナCamélia Jordana



これは、いわば、先日の『メロディ』のような環境の子供たちが10年後にどうなるか、そして音楽の先生でなく法学部の教授と出会うとどうなるか、というもう一つのカルチャー・ショックのストーリー。


パリ南郊外で育った「アラブ系」のネイラがアサスのパリ大学法学部へ。

ブルジョワ子弟風が多い学生たちといっしょにネイラが建物に入ろうとすると黒人の警備員が学生証の提示を求める。

ユニークなのは、『メロディ』のように、二つの別々の世界、別々の世代が出会って、才能にほれ込んでメンターになる、というのではなく、ピエール・マザール教授が最初から差別主義者で、講義に遅れてきたネイラに差別的発言をしたことだ。それが問題になり、懲罰委員会にかけられる前に、「多様性を尊重」する証明としてネイラを弁論大会に出すために訓練しなければいけない羽目になる。

つまり、出発点にルサンチマンや相互の憎悪があるわけだ。

大学の講堂で学生たちがすぐに、教授の言葉に反応して「差別だ差別だ」と騒ぐこと自体がフランス的ではあるけれど、それは「偽善」でもあることも分かる。


今の学生たちがほとんどノートパソコンを持って講義を聴いていること、教授の差別的言辞などはスマートフォンで録画され、facebookに上げられることなどは、どこの大学でもそうかもしれないけれど、今の私から見たら、こんなところで講義もしたくないし、講義も受けたくない、という感じがした。

バカロレアに合格すれば原則的には誰でも講義に出ることができるので、昔のアサスも一年目は学生の私語などがもっと多かった、今はもっとひどいんじゃないか、という人もいる。私はソルボンヌの大講堂で受けた講義などもう40年前だけれど、普通に静かだったような気がする。1年生用ではなかったけれど。

でも、学生が多すぎて、教授が遠すぎて、集中もできずにすぐ眠たくなったので途中でやめた記憶がある。日本の大学でも最初の2年くらいは大教室での講義に出たことがあり、全共闘がやってきて中止させるということがたまにあったけれど、まあ、普通だったし、眠らないために大抵は前の席に座ることにしていた。

アサスもよく知っているのでなんとなく懐かしい。


で、弁論大会(大学対抗であり、アサスは最近優勝者を出していない)の準備をさせるための個人授業が始まる。ネイラは自分が教授のアリバイ作りに加担させられているとは知らない。

ネイラは少しずつ地元の幼友達たちと別の世界に生きていることに気づくようになる。

シングルマザーと暮らしている。

教授は独身で、老いた母ともうまくいっていない。

大学教授で教養もあるが実は孤独で気難しく誰ともいい関係を築けない。

ネイラも教授も、ある意味で典型的でカリカチュラルなシチュエーションだ。

社会寓話という感じになっている。

この2人は互いの偏見を乗り越えることはできるのか ? 

そして、古典や哲学の知識とか弁論術のスキルなどの高度な教養はどのように教えたり学んだりして継承するのか ?

教授はネイラにメトロの中でテキストを大声で読ませたり、高齢者に話しかけさせたりと、さまざまな方法で訓練する。ネイラと一緒にフランス各地の大学(フランスは基本的には国立大学しかない)を回って予選を勝ち抜いていく。決勝はもちろんパリだ。

これが子供たちの成功と満場の拍手というような『メロディ』風の予定調和なら、当然、最後に優勝してハッピーエンドとなっても不思議ではないが、実は思いがけない息をのむラストになっている。

ネイラ役のカメリア・ジョルダナはいわゆるアラブ系と言われるアルジェリア人の両親を持つが両親ともに歌手でのブルジョワ家庭に育っているので、この映画での「役」とは重ならない。監督のイヴァン・アタルはアルジェリアから引き揚げてきたユダヤ人家庭の子供で、映画の舞台であるパリ南の郊外の町で実際に育った。

ショーペンハウエルの『争論弁証法』(必ず言い負かす技術)にある「戦略」を徹底的に叩き込まれる。真実などはどうでもいい、論理や分析や哲学も関係なく、ただ、論争に勝つための実用的技術、手練手管というものだ。ポスト・トゥルースの走り。

それを軸にして、ラブレー、ニーチェなども援用される。

この本は日本で何と訳されているのだろうかと検索してみたら、岩波文庫の『知性について』の中で「論理学と弁証法の余論」として収録されているようだ。日本語の要約がないかと探してみたら、ある感想文の中に一部があった。こういうものだ。

>>>第七戦術…拡張解釈の手。論敵の主張を――その当然の限度以上に押し広げ――彼が意図しあるいは明言した範囲以上に広い意味に受取り、このように拡大解釈されたテーゼをわけもなく反駁する手。
 対策…「反論を受けた場合は、自分が言明した主張を、用いた言葉遣いやそれに当然含ませられる意味だけに、はじめから厳しく限定すること」
 
 第八戦術…「理屈詰めの手。論敵のテーゼに、それと主語や述語の点で似ている第二のテーゼを、それもたいていは無断で付け加える。そしてこの二つを前提として、そこから真ならざる――たいていは悪意的な――結論を引き出してきて、その責任を論敵に負わす。
 例…「フランス国民がシャルル十世を追放したことを甲が賞賛する。すると直ちに乙が『ではあなたは我々が我々の国王を追放することをお望みなのですね』と言い返す」
 
 第九戦術…「方向転換の手。討論中に、どうもうまくゆかぬ、論破されそうだと気づくと、論点変更によって――すなわち議論を第二次的な別の対象の方へそらせ、必要とあればそういう題目へ一気に飛び移って、いちはやく敗北の厄を防ごうと努める。〜彼らが窮地に陥ると、必ずといってもよいほど出現してくるものなのである」<<<

etc,etc…

なんだか国会答弁で「野党からの追及のかわし方」として、使われているごとくだ。
 
もっともショーペンハウエルはこれを学べと言っているのではなく、これを使う相手とは即座に話を打ち切るべきであると推奨しているのだから、要するに、真理を問題にしないこういう土俵にはひき出されるな、ということだろう。
 

映画の弁論のシーンは、なかなかいい。戦略だけでなく、ネイラの恋愛なども反映されていて説得力がある。弁論スキルの中にネイラにはどこか「真実」があるのだ。

ダニエル・オトゥイユは名優だが、なんだかファブリス・ルキーニとキャラがかぶるイメージだった。ルキーニ・ヴァージョンも見てみたくなる。

スケールはささやかだが私好みで気にいった映画だけれど、弁論シーンをはじめ、「フランス語」のおもしろさが際立っている映画だから、例えば日本で字幕上映されたりしたらどの程度伝わるのだろう。

特筆すべきはネイラの幼馴染の青年で、大学生になったネイラからメールでも綴りを訂正されたり、しゃべり方や語彙についても注意を受けたりするなど、ネイラが自然に「上から目線」になったことも感じながら、その愛情は変わらないし、クライマックスシーンに大きな役割を果たす。

その前にネイラは彼のことを評して「まっすぐで、曲がらなく、恐れもなく、刃物のような人」のようないろいろな形容をする。それを聞いているだけで、彼女が、彼の環境や教養や学歴や仕事などと関係なく、人間として最も大切な部分を把握していて、それがどんなに稀で、すばらしいことかということを理解していることが分かる。

幼い時からのつきあいで、見抜いていたのだ。

こういう「絶対にぶれない信頼のおける男」というのは、少数だけれどどの世界にもいる。ネイラがそれを見抜く力があってよかった。

この映画の設定だったら、メンターとなる教授とネイラの間に疑似恋愛が成立するというシナリオでも不思議ではなかったのに、短いシーンで若い恋人たちの心の機微をきっちりと描いて、愛するとはどういうことなのかを見せているのはすばらしい。カメラワークによる表現力もすぐれていて満足。


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by mariastella | 2017-12-01 00:05 | 映画

『メロディー』ラシド・アミ監督、カド・メラッド主演

最近観たフランス映画の続き。

『メロディーLa Mélodie 』ラシド・アミRachid Hami 監督、カド・メラッドKad Merad主演


これは暴力シーンも絶対にない精神衛生にいい映画。

50がらみのバイオリニストのシモンがパリの下町の中学1年のクラスでバイオリンを教えることになる。フランスで中1というと日本の6年生の年頃で、反抗期の一歩手前。フランスの小学校には音楽の授業がないから、親に地域の音楽院に登録してもらえなかった子供たちはドレミも読めない。

この映画はいわゆるfeel good movieで、社会的に恵まれない階層の子供が教育者に出会って人生に、未来に、意味と希望が生まれるというもの。その意味では予定調和の世界だ。

カド・メラッドというコメディのイメージが強い性格俳優が、バイオリニストのシモンを演じる。彼もまた、子供たちとの交流から人生の喜び、音楽のすばらしさを再発見するというストーリー。

音楽によって恵まれない子供たちを助けるという試みはいろいろな国にある。ベネズエラが有名で前にも少し書いた

フランスでも、この映画のモデルになったのは2010年から試みられているDémosという政策で、移民の子弟らの学区で3000人の子供たちに楽器を与え、教えて、オーケストラに参加して一流のホール弾かせるというものだ。この映画では、リムスキーコルサコフのシェヘラザードをフィルハーモニーで演奏する、という目標がたてられる。


去年の6月に、フィルハーモニーで200人のバイオリン(とビオラ)演奏に参加するために暗譜に励んだ私としては親近感あり過ぎ。私の場合はすでに音楽院の中級以上の生徒という条件付きでフランス中から小学生から85歳までが参加というむしろ「贅沢」な冒険だったのだけれど、大勢で、大ホールで、一つの音楽を創るというわくわく感は同じだ。

上演の後で監督のラシド・アミとの質疑応答があった。8歳以上の子供の参加がOKで、子供たちの質問がかわいかった。小学生に、どうして小学生でなくて中学生を使ったんですか ? と聞かれた監督は、12歳未満は一日に2時間までしか拘束できないこと、12歳からは4時間拘束できるので撮影が可能だった、と答えた。

パリとパリの近郊から、一度もバイオリンを弾いたことのない子供たちのオーディションをして15人選んだ。移民の子供(才能を見出されてソリストになる子供はセネガルから来た母子家庭という設定)などが中心なので、映画に出すためには両親の承諾が必要で、シングルマザーの子供のうち4人の父親を探し出してサインしてもらったが、父親に会ったこともない子供たちにはそのことを話せなかった、と言っていた。

映画には、途中で電線のショートで火災になり音楽室が使えなくなるというハプニングがあるのだが、それを心配した子供には、実はこの音楽室だけは、撮影のために特別に作ったもので、それを燃やしたのだという裏話も教えてくれた。

撮影にかけた三ヶ月のうちに、実際に、演技もさせ、バイオリン(鈴木メソード)も習わせてオーケストラと弾かせるという冒険に成功した。全員が、将来も役者になりたいと言い、5人がバイオリンを続ける、ソリスト役の少年はバイオリンの道に進むと言っているそうだ。


映画の中で、子供も、親たちも、実際にシモンが弾くバイオリンの音色に魅せられる。クラシック音楽の敷居が高いとかいうよりも、今の子供たちはイヤホンなどを通しての再生音楽以外はなかなか耳にする機会がないから、生の音楽に涙を流すほど感動するのだ。この辺の実感は分かる。

監督は、ゲットーの子供がバイオリンというノーブルな楽器を持っている姿にドラマを感じたので、管楽器ではなく敢えてバイオリンにした、と言う。

私はいつもは、こういう上映会の後の監督とのディスカッションには積極的に発言するタイプなのだけれど、今回は終始聞くだけにした。

ビオラ弾きでカルテットもやるし、フィルハーモニーでのオーケストラとの共演もし、生徒との交流も仲間とのコンサートもある私にとっては、この映画はいろいろツボにはまりすぎているからこそ満足したのだけれど、それだけに「普通の観客」の視点を持てない。

よけいな突っ込みどころが多すぎるのだ。

映画の中で、カルテットの一員として演奏旅行が決まったシモンが中学校での仕事を途中でやめる、というのだけれど、パリでのコンサートの後で、演奏旅行をキャンセルして子供たちの指導を続けることになる。その理由は、聖堂でのコンサートの後で、喜びを感じられなかった、子供たちと音楽をやっている時の方が喜びを感じられることが分かったから、というものだ。

シナリオとしては納得がいくけれど、演奏家としてはまったく信じられない。

あのような場所でモーツアルトのディベルティメントをあのようなパート(第二バイオリン)で弾いた後で「喜びを感じられない」なんてあり得ない。

責任感から子供たちの指導を続けるとしても、カルテットでの演奏旅行の方が絶対にいい。演奏者としてのクオリティ・オブ・ライフとしては比較にならない。

ラストのフィルハーモニーでのシーンも、本番でソリストの少年のうまさに指揮者が驚いたような顔をするのが信じられない。これもシナリオ的には、最初の合わせでひどいレベルだと絶望したシーンがあるので、本番での「奇跡」に指揮者がうなる、という筋書きは分かるけれど、本番の前にもう何度もリハーサルがあったはずで、フィルハーモニーのリハーサル室や、舞台でもすでに合わせているはずだから、そんな意外性があるわけがない。

バイオリンがノーブルな楽器というのも実は今のフランスの下町の公立音楽院では逆だ。ピアノは自宅にピアノを個人でレンタルするか購入するかが必要だけれど、バイオリンやビオラは、子供用のサイズのものが音楽院から貸し出される。だからシューズやレオタードなどが必要なバレエなどと比べても、バイオリンの方が気楽で子供を通わせることが多い(親の所得が少なければレッスン料も限りなく安くなる)。だから、ピアノのクラスに比べてバイオリンのクラスの方が明らかに外国人の子供や移民の子供が多い。ただし、親がフォローしないので、その多くは途中でやめていくし、学年末の試験で振り落とされる。

他にも不満はある。この映画でシモンが弾いて子供たちや親を感動させるソロ曲はメンデルスゾーンのコンチェルトにバッハのパルティータだ。生徒二人を招いたコンサートで弾いたのはモーツアルト、クライマックスの課題曲がリムスキーコルサコフという選曲。

まあ、リムスキーコルサコフはかなりフランス的な色彩はあるけれど、そして、ソリストの少年を際立たせる効果のために選んだそうだけれど、実際にこの種のプロジェクトの課題曲としては向いていないので不自然だ。

バッハのパルティータのシャコンヌもフランス舞曲風とは程遠い弾かれ方だし…。フランスが舞台の音楽ストーリーなのにフランス音楽が一つもなく、「クラシック音楽=ノーブル=バイオリン=ドイツ音楽」のような先入観に立つのはいかがなものか…

などと、小さな違和感が積み重なる。

もちろん私が知らない世界がテーマの映画なら、ディティールにおいてどんな不自然な場面や考証のエラーやご都合主義があったとしても、それに気づかないだろうし、気にもしないし、それが映画のフィクション世界を妨げることもない。

あまりにも身近なので気になるのだ。

自分もアルジェリア生まれでパリ近郊の貧しい町で育ったという32歳の監督は、中学校で働いたこともあるが6ヶ月しか続かなかったという。小学生の子供が「どうして映画の中の生徒たちは悪い言葉ばかり使うのですか?」と質問したら、「子供に見せるためにもっと上品な言葉を使うことしたらそれは現実とは違うことになる、ぼくもこういう言葉を使っていたし、今も子供たちはこういう風にしゃべっている、ありのままを撮っただけだ」と答えた。

19ヶ国の上映が決まっているそうで、イタリア、アンダルシア、韓国での上映に出席したそうだ。生徒たちの大半が黒人やアラブ系などであることはフランスのサッカーチームと同じで違和感は持たれない、などとも言っていた。

こうなると、この映画の社会的背景はある意味で私と遠いところにあるわけで、弦楽器、フィルハーモニー、生徒に教える、などという共通点がある分、かえって断絶も感じる。

シモンのセリフの中で実感があると思ったのは、「どこにでも才能のある子とまるでダメな子とがいる」と言い切るところだ。

才能のある子もゼロの子もいっしょにグループとして何かを作り上げていくことは難しい。バイオリンがダメでも、スポーツやダンスの才能があったり、絵の才能があったりする子、数学の才能がある子などはいるだろう。でもそんな子供たちはこのプロジェクトにとってはお荷物であり、本人にも苦痛かもしれない。教える方にとっても喜びがない。こういう自明な多様性があるはずなのに、貧しい子供にもバイオリンとクラシック音楽を与えると人生の道が開ける、みたいなオプティミズムにも違和感がある。

今の日本は知らないけれど、私の小中学校の頃は、全員がなんでもかんでもやらされた。嫌いな科目、不得手な科目に苦しんだ者も多かったかもしれないけれど、少なくとも、自分は何が嫌いなのか、不得手なのかを自覚する役にはたったかもしれない。

小学生の頃から私がピアノを教えている生徒が今は高校三年になり、来年のバカロレアで、理系バカロレアのオプションとして音楽も受けるというので、自由曲を準備させている。最初は、フランスであまり知られていないドイツ・ロマン派の曲を練習させていたのだけれど、今年のテーマがかなり現代的なものだということが分かって、サティに切り替えたところだ。ラヴェルの左手のためのコンチェルトなど10曲の課題曲から二つをくじで引いて、当たった曲の作曲者や時代背景や音楽の構成などを審査員の前で発表し、質問に答え、それから自由曲の実技を披露する。その曲の背景の説明や、課題曲との関係も話さなければならない。

私のトリオのメンバーのHは音楽バカロレアの審査員も毎年しているので、アドバイスをもらうつもりだけれど、私の生徒のリセでは、専任の担当のがいない。私が全部、準備を助ける。

オプションなので、自分の平均点を下回る点数である場合は計算に入れられないので、失敗してバカロレアの平均点の足を引っ張ることにはならないが、受験準備だけでも結構時間は取られる。でも、ここでこの10曲についてしっかり学べば、これからの人生の「教養資産」になると思うよ、と私は彼女に言った。

彼女も私の個人レッスンをずっと受けているのだし、クラシック・バレーもずっとやっていて、私立の進学校に通ってエリートコースを目指しているのだから、「貧しい家庭の子供たちに楽器を教える」冒険などとは程遠い。でも、楽器演奏という純粋にテクニックの習得とそれを超える音と音の間に出現する「音楽」と、曲を通しての作曲家との出会い、時代との出会い、人間性の普遍との出会い、などから生まれる錬金術のようなマジックの瞬間を共有する体験は、何物にも代えがたい。彼女にとっても、私にとっても。

ある曲の演奏について彼女の感性と私の感性がぴったり一致したような時は、その部分でとても特別な関係性が生まれる。


一対一(正確には作曲家も合わせて三人だけれど)の贅沢というのが私にはちょうどいいサイズなのかもしれない。


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by mariastella | 2017-11-28 00:05 | 映画

『Tout nous sépare (すべてが私たちを分かつ)』カトリーヌ・ドヌーヴとラッパー

最近見たフランス映画2本を紹介。

まず、ラップ界の大スターでアイドルであるという27歳のネクフーと、大御所カトリーヌ・ドヌーヴが、すべての差を乗り越えて心を通わせる話だという『Tout nous sépare (すべてが私たちを分かつ)』というスリラー。



ドヌーヴは未亡人で夫の後を継ぎぐ港湾の工場の経営者、その娘のダイアン・クルーガー(41歳)は、事故のせいでケロイドや障害が残り母の家に住みながらドラッグ中毒になり売人ルドルフと付き合っているが彼に暴力を振るわれた時にパニックで彼を殴って殺してしまう。

ルドルフはベン(ネクフー)ともう一人の三人組で麻薬のディーラーやら、夜中に犬を盗み出して闘犬の試合に出すなどの軽犯罪を繰り返しているが、元締めにあたるギャングから大金を払うよう脅されていた。

この3人組の描き方が、短いのにその関係性がよく分かってうまい。

よくできている。

ベンは犬が戦いに負けて噛まれて死んだことに涙するセンシブルな男だ。


ベンを演じるのが27歳のネクフー。ギリシァ人の父とスコットランド人の母の間にフランスで生まれたという国際派だ。ダイアン・クルーガーもドイツ出身の国際派。

で、クルーガー演ずる娘が愛人を殺してしまったことを聞いて俄然母性本能に突き動かされて隠蔽を試みるドヌーヴ。

真相を知って恐喝にやってくるベン。

ドヌーヴがベンに金を少しずつ渡す間に奇妙な心の通い合いが生まれる。


ギャングに襲われるベンを匿って猟銃を構えるドヌーヴ。

すでにベンも、彼女のアドレナリンで肥大した母性本能に守られる存在となっている。

ベンは、それに、どうやって答えるのだろうか…。


という話で、一応スリラー映画とあるが、世代を超えた人間模様という映画かと思って観に行ったら、先日の『アウトレイジ』でも見ないですんだような暴力シーンが満載で、まいった。闘犬のシーンも目を覆ってしまう。


それにしてもドヌーヴ、若い時もポランスキーの『反撥』なんていうのに出た時点からただものではないという感じだったけれど、それでも70代になっても次々と難しい役に挑戦するのには脱帽する。

実はこの人とは昔プライヴェートでやや不快なことがあって、個人的にはあまり好きではなかったのだけれど、そして、今となっては昔の氷の美貌の面影がなく体型もぶ厚く重くなった姿に、なんとなく哀れもそそられていたのだけれど、この映画の彼女、なんだかめちゃくちゃで現実感がないけれどすごくかっこいい。


彼女より若い登場人物たちが軒並みに、卑怯、悪徳、堕落、強がり、鬱、自暴自棄、などの弱さの中であがいているのに、彼女だけが、強い。

恐ろしさのあまりに吐いたりしているのだけれど、もちろん暴力も振るわないのだけれど、とにかく、強くて、カタルシスを覚える。

これを母性本能で説明してしまうのは安易なシナリオだと思うが、ドヌーヴがそれを演じるからこそ爽快感が出ている。

テーマとしては、「それがどうした」みたいでインパクトのない映画だったのだけれど、今更ドヌーヴのファンになってしまいそうな不思議な一作だった。


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by mariastella | 2017-11-19 00:05 | 映画

機内で見た映画 その4  『ボン・ボヤージュ~家族旅行は大暴走~』ニコラ・ブナム

『ボン・ボヤージュ~家族旅行は大暴走~』ニコラ・ブナム

JAL便なのでフランス映画は一本しかなかった。


好みではなかったけれどジョゼ・ガルシアやアンドレ・デュソリエという芸達者が出ていることだしと思って観た。


原題が「A fond」と言って、アクセルをいっぱいに踏んでとまらない、というのを表したタイトルだけど、それをボン・ボヤージュ、って変な表記のフランス語(英語読みなのかもしれない)。

これはどう考えてもボン・ヴォワイヤージュだと思うけれど、例の「既視感」のデジャ・ヴュを日本語表記デジャブとするのも定着しているようだし耳にもするのでこんなもんだろうか。もっとも、たとえ「デジャブ」の代わりに「デジャ・ヴュ」と言っても、ジャの発音も、ヴュの発音もフランス語と違うので通じるかどうかわからないけど。

で、整形美容医療で金持ちになった夫と、三人目の子を妊娠中で精神科の勤務医の妻が、2人の子供と夫の父親との5人で、スピード制御機能などの充実した新車でバカンスに出かける。途中のサービスエリアで、夫の父親がヌーディストクラブに向かう若い娘をそっと便乗させてやり、次に車のブレーキが利かなくなって時速160キロで拘束道路を暴走、どうサバイバルを果たすか、というドタバタコメディだ。

ばかばかしいのだけれど、シチュエーションがあまりにも極限的なので、あり得ないとはわかっていても、フランスの高速道路という身近な場所が舞台なのでつい恐ろしい事故の可能性が頭にちらついて、結局目が離せなくなってしまった。


そういうぎりぎりの状況で、険悪だった家族が互いの愛を確認するというシーンも、ハリウッド映画ならそれなりの感動があるように作られるのかもしれないが、この映画では全体があまりにも不条理でナンセンスなのでジョークのようにひびく。夫婦のどちらもが浮気をしていて、独身の父親もあいかわらずガールフレンドを求めては分かれを繰り返すなどの状況がフランス的と言えば言える。


交通警察のカップルを含めたアクロバティックな特殊撮影?がよくできているので、中途半端にリアルなせいで全部を笑い飛ばせずにハラハラさせられてしまうという匙加減が、うまいといえばうまい。


映画はちょっと休んで、来週からはまた芝居を観に出かけることにしよう。


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by mariastella | 2017-11-10 00:10 | 映画

クリスチャン・カリオン監督/ギヨーム・カネ主演 『Mon garçon(息子)』

ギヨーム・カネが熱演する『Mon garçon』(クリスチャン・カリオン監督)を観に行った。



先日、映画2本を続けて観に行ってしまったところだったが、付き合いでもう一本。

いそがしいのに「毒食わば皿まで」の心境。

話題にはなっていた。主人公役がシナリオを知らされていないで、6日間の撮影の間ホテルも他のスタッフとは別で過ごした。「なりきってくれ」ということで、リテイクなしの一発勝負だという。だから話の流れが破綻しているところもある、というコメントもあったけれど、悪くはなかった。

主人公を演じるギヨーム・カネも嫌いじゃないし、元妻役のメラニー・ローランが好みの女優だというのもあった。


地質学者でアフリカなど世界中を飛び回って家にいない夫ジュリアンに嫌気がさして分かれ、七歳になった子供マティスを連れて別の男と暮らしているマリー。そのマリーが泣きながら、伝言して雪山のクラスに参加したマティスがテントから姿を消したとジュリアンに告げる。

まずマティスが自分の意思で失踪したのではないかという疑いが持たれた。

マリーが数か月前に妊娠を告げてから関係がうまくいっていなかったからだ。


新しいパートナーであるグレゴワールの発案で、マリーがゆっくり休めるように、マティスを、子供たちを対象にした何日かの山でのグループ活動に登録する。行きたがらないマティスを説得して。


ジュリアンはマリーが流産していたことを知る。


ジュリアンの前で、マリーとの子供を望んでいると夢を語るグレゴワールの様子を見てジュリアンは、この男がマティスの反抗によるストレスのせいでマリーが自分の子を流産したのだと思って復讐したのだ、と思いついた。

その瞬間から、何かが切れてしまったように、ジュリアンは「手負いの獣」に変身してしまう。暴力の嵐。

しかし、グレゴワールはただのエゴイストだった。


ジュリアンは息子がうつっているビデオカメラを何度も見て、手掛かりを見つけようとする。追跡がはじまる。

暴力が結構激しいので(多分最終的に3人は殺した ? 殺すシーンはないが)、まったくシナリオを知らないとは信じられない。セリフなどは書かれていないかもしれないが、「これこれこうなったら暴力をふるう演技をしろ」というガイドラインはあるんじゃないかと思う。

セリフは主人公になり切ってアドリブでいうにしても、暴力シーンは実際に暴力をふるっていいわけではないから、きっちりとした演出が必要になるだろう。。

「父が息子を救い出す」というテーマなのだから、いくら何でもハッピーエンドだろうと思ったので心の余裕は持って観ることができた。

すごくまともな「ドキドキハラハラ」のエンターテインメントで、普通に面白かった。

時間の無駄を後悔するような映画でもないし、世界が変わって見えるような映画でもない。

母親役のメラニー・ローランの悲痛な演技がうまいので、「子育て」についていろいろ考えさせられる。

フランスでは子供のいる二組に一組のカップルが別れ、ステップファミリーも多い。他の男や女にはれたほれた、とか、連れ合いへの愚痴や不満や嫉妬のレベルで懊悩しているのは何とでもなるが、子供が行方不明になった、誘拐されたなどとなると、もうすべて吹き飛んで、親の罪悪感はマックスだ。


子供のそばにいるべきだった、

両親が愛し合い、子供に信頼感を与える安定した平和な環境を与えるべきだった、

など、もう、人生の目的は、「自分の子を失わないこと」だけになってしまう。


その動物的感覚が、映画の中で子供をさがす主人公を「獣」化させたのかもしれない。

フランスで最近、結婚式の野外パーティで8歳の女の子が姿を消して見つからないという事件が起きた。容疑者は見つかったのだが、黙秘を続けているという。両親がメディアを通して容疑者に何とか話してほしい、と訴えていた。

マルセイユでテロリストに斬殺された女子学生の葬儀も映されていた。

子供を持つ人が、子供をなんとか無事に育てあげて送り出し、子供に先立たれないですむ、という「普通のこと」は、そんなに普通ではないのかもしれない。


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by mariastella | 2017-10-06 07:21 | 映画

アンドレ・テシネ『Nos Années Folles,(私たちの狂熱の時代)』

先週はこの映画を見損ねて、趣味ではない『Un beau soleil intérieur 内なる美しい太陽』を見てしまったけれど、気を取り直して頑張ってアンドレ・テシネーの『Nos Années Folles,(私たちの狂熱の時代)』に挑戦。期待にたがわず途方もない映画だった。

途方もないというのは人間性の途方のなさだ。

しかも、実話がベースだ。



第一次大戦は、形こそフランスはドイツに勝利しているが、フランスにとって勝利体験よりも悲惨体験としてトラウマを残した戦争だった。

この映画の一番の効果は、主人公夫婦の倒錯的な関係よりも、まさに、フランスにとっての第一次大戦大戦の傷を別の形でまた再現しているところだろう。

反戦映画というより、厭戦映画だ。

兵士として戦争に駆り出されるのは誰にとってもトラウマになるだろうけれど、フランスに住み、フランス人の気質を知れば知るほど、彼らほど戦争に向いてない国民はないと思う。(革命には向いているみたいだが…)

愛する妻と幸せに暮らすポール・グラップという、ごく普通の男が招集されて前線に駆り出されるが、戦死する気はさらさらない。

それでも二年間を前線で戦わされたポールは耐えられなくて自分の右手親指を切り落として病院に運ばれた後で、さらに逃亡する。

欠席裁判で死刑判決が下される。

戻ってきた彼を隠すために、妻のルイーズがポールに女装させてシュザンヌと名を変えさせる。電気脱毛もさせ、ゆっくりと男を女に仕立て上げる細やかさ。

憲兵たちがやってくる。そこにはポールはもういない。ルイーズの愛人シュザンヌが編み物をしていた。(映画ではそのシーンはない。地下に隠れたポールを見つけられないという場面だけだ)

きっかけは、ポールが地下での逼塞に耐えられずうつ状態になったことだ。

ルイーズは彼が外に出られるように女装させようとしたのだ。

はじめは、ポールは大いに抵抗した。

しかし、外に出たい。

最初の外出が深夜のブーローニュの森だった。

というか、昼間に普通の場所には行けないから、娼婦がたむろするブーローニュの森に行くしかなかったのだ。

そこは何でもありで、女装だろうが、男装だろうが、同性愛者であろうが、無礼講の世界だ。

戦場の反動であるかのように、自由で極端な享楽しかそこにはない。

第一次大戦の時代は、その前線の悲惨さとは別に、「銃後」には不思議な「解放」の空気が生まれていた。女性の力が増し、男装の女性、同性愛者たちがパリのダンスホールで踊っていた。一方、ジャンヌ・ダルクよろしく、兵士の服を着て前線に赴く女性たちさえいた。

その享楽的なパリとは別の、労働者の住む貧しい界隈のアパルトマンで、一人の男が「レズビアン」に変身したのだ。夜のブーローニュでは階級差は消滅する。


ポールはもともとバイセクシュアルだったのか ?

あるいは単に「女装が好き」な男になったのか ?


(あるいは、ひょっとして、人は、性別にかかわらず、「見た目」の部分を偏執的に手入れしてきれいにすること、飾ることに「はまる」動物なのかもしれない。戦場の兵士には絶対に許されない贅沢だが、「女装」という形で「開き直る」なら、その道を究められて、ポールはそれに「はまった」だけなのかもしれない)

ともかく、その後、二人とも、この不思議な関係自体に「はまって」しまう。

夫婦はレズビアンの関係になるのだ。ポール(シュザンヌ)はキャバレーの舞台にも立ち、ルイーズも彼を手伝う。

第一次大戦が終わって二人はスペインに逃げる。スペインから戻ると住所を変え、「すてきなシュズィ」という名で女性パラシュート家としてデビュー。ブーローニュの森で客をひく娼婦としても、「ギャルソンヌの女王」と呼ばれるほどの人気者となる。夫婦のそれぞれの愛人が入れ替わることもあった。

1925年、ようやく脱走兵の恩赦が認められてシュザンヌはポールに戻れるのだけれど、それはなかなか難しい。ポールにはもう自分のアイデンティティが分からない。

酒におぼれ、妻を殴る。口紅を塗り、セーヌの河辺で見知らぬ相手に声をかける。

2人にはポポルという子供が生まれる。新生児を殺すと脅迫してこぶしを振り上げたポールを、ルイーズは引き出しから取り上げた拳銃で撃ち殺した。


ルイーズは赤ん坊を守ったということで免罪される。当時の裁判記録の中には「猥褻写真」というファイルがあるが抜き取られている。

赤ん坊はほどなく髄膜炎で死に、ルイーズは、1981年まで生きた。


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実際のシュザンヌとポールの写真。1925年のもの。

以上が「実話」なのだけれど、映画で描かれているので興味深いのは、ルイーズが「お針子」として働いている女性ばかりのアトリエの責任者が女性で、レズビアンで、シュザンヌという女と暮らし始めたけれど誰にも紹介しないルイーズに関心を示すシーンだ。

映画のポールは別に女性的な体でなく、がっしりして背も高い。ルイーズも大柄で、胸が薄く、彼女が男装してもさまになると思える。

映画は夫婦の「現在」と「過去」が交互に配される。その「現在」というのは、ポールが、戦争中の「シュザンヌ」としての自分を演じることで収入を得ていて、ルイーズは戦争以来需要が増えた「鉛の兵隊」に着色する内職仕事をしている。

2人は相変わらず男と女として愛し合っていて、ルイーズは妊娠するのだが、妊娠することで「母」となり子供の「父」を必要とするので葛藤してそれを隠している。妊娠を知ったポールは女装や過去を引きずるようなキャバレーの仕事をやめるのだが、仕事が見つからない。子供が生まれ、子供第一の「母」になったルイーズ、彼らを養えないことで「父」としての自己肯定のできないポール、彼のこれまでの「栄光」は」すべて女装の女王「シュザンヌ」としてのものだった。

すべての依存症、アディクションと同じで、そうなると、女装によってのみ脳内麻薬が分泌される。

これは、「性倒錯」の物語ではなく、アディクションの物語でもあるのだろう。

その意味では、有名人である「シュザンヌ」のパートナーという暮らしぶりはルイーズにもアディクションをもたらしていた。

でも、ルイーズのきっかけは、何としてでも愛する男を戦争によって殺させない、という決意だった。

この映画で流されるアカペラの『Auprès de ma blonde』という歌がある。

私でも何十年もなじみの子供の歌で、童謡、民謡のイメージだった。「ぼくのブロンドちゃんのそばで寝るっていいなあ」という感じで、ブロンドの女性が現れると気軽に口ずさまれたりする。でも、父親のうちの庭には花が咲いて鳥がいて、という牧歌的な歌詞の部分ばかり耳にしてきたので、この映画でその先の部分を聴いて驚いた。


検索すると、17世紀の軍隊行進曲だなどとあった。

1966年になんとエルビス・プレスリーが英語版を歌ったほどポピュラーだとも知らなかった。

17世紀の終わりにルイ14世の戦争に駆り出されてオランダで捕虜となった王立海軍士官が獄中で妻のことを思って作った歌だそうだ。18世紀初めにルイ14世に身代金を支払われて自由の身になったので、感謝の念をこめて1704年に発表されたという。

確かに、

ブロンドちゃん、君の旦那はどうしたの?

オランダにつかまってるの。彼を取り戻すためなら

ヴェルサイユもパリもサンドニ(歴代国王の墓所のあるカテドラル)も、

ノートルダムの鐘だって、地元の教区の鐘だって、なんでもあげるわ。

という歌詞がある。

ノートルダムの部分は、「父と母の王国の全部をあげるわ」というヴァリエーションもあるという。

つまり、愛する男を戦争から取り戻すためなら、国も国王も何もかもいらないわ、

という愛情表現であり、ルイーズがポールに捧げた思いと確かにリンクしている。

そして、絶対王政の太陽王ルイ14世は、一士官を解放するために身代金を払った。

思えば、フランスの民謡には、もっと古い「脱走兵の歌」もある。

日本の軍歌はポピュラーなものが多いけれど、厭戦的な歌が童謡にまで昇華したものがある記憶はない。出征した兵士を思う女性の心で連想するのは、シベリア抑留の子を待つ「岸壁の母」とか「君死に給うことなかれ」など、母や姉の視線であり、演歌にはなっても童謡に変身する感じではない。

映画としてなんといっても絵になるのはミシェル・フォーの演じるキャバレーの興業主だ。彼について前にこの記事でも書いた。

映画『偉大なるマルグリット』では、マルグリットの声楽教師として雇われるオペラ歌手役を演じていた。ほとんど「色物」しかできないんじゃないかというほど個性的な外見だが、本格的俳優で名役者だ。海千山千のしたたかさで狡猾な中にどこか人間味もある興業主役にぴったりだった。

名演にかかわらず外見としては正統派の美男美女によって演じられるポールとルイーズの物語、それににコクを与えるミシェル・フォーなしにはこの映画は成り立たなかっただろう。

第一次大戦がフランスのカトリックの立場に大きな変化をもたらしたことは以前にも少し解説した。(この記事を読んでみてください

同時に、女性の地位も大きく変わった。女性の活躍が半端ではなかったからだ。

死者や傷病兵が山のように出る戦争では、彼らの精神的肉体的ケアをする宗教者や女性たちの役割が増大する。

この映画でも、移動中の兵士が墓地の十字架を見かけて思わず隊列を離れて駆け寄ってその前にひざまずいてロザリオの祈りを唱えるシーンがあるし、傷病兵に聖体パンを授けに回る司祭の姿も映し出される。ある兵士は意識がないし口も開かない。そこで司祭がナイフを差し入れて口を開かせて聖体パンを差し入れるのだ。兵士のやむにやまれぬ神頼みと、とにかく義務を果たす司祭のプラグマティズムが対照的だ。

さらに、この映画を見て「そうか」と納得できたのが、カトリックと女性の関係だ。

フランスはフランス革命の国なのに、女性の参政権が認められたのは1944年でしかない。イギリスでは、やはり第一次大戦の影響で、1928年に女性の参政権が認められた。

フランスで遅れたのは不思議だと思っていたが、この映画で女性たちが、第一次大戦での「銃後の守り」のために外に出て働いた活躍で地位向上した女性たちに参政権を与えないことについて、それはカトリックに票が行くのを阻止するためだと話しているのを見て理解できた。

フランスで男性の普通投票(21歳以上で同じ場所に6ヶ月以上住んでいるのが条件)が成立したのは1848年だが、兵士、外国滞在者、そして聖職者には選挙権がなかった。

フランス革命以来のカトリック教会との対立の根は深い。

それでもナポレオンがカトリック教会と和解したのは、社会の秩序のため、要するに、「婦女子」のために宗教が必要だという認識からだった。「女子供」は教会に通い、男の子は「大人」になれば「共和国」的無神論者あるいは不可知論者としての通過儀礼を経て「市民=男」になるという図式が用意されたのだ。

だからこそ、女性は21歳を過ぎても、「カトリックの良い信者」であるから、女性に選挙権を与えたら、第一次大戦で復権したカトリック教会の眼鏡にかなう保守政治家に投票する可能性が大きい、司祭の言うことに従うからだ、それは避けたい、という事情だったらしい。(聖職者については、1905年の政教分離法によって一般市民との権利の差が解消されている)。

国王が同時に国教会の首長であるイギリスなどとは事情が違う。

なるほど。

この映画はテーマ的にも私の好みのツボにはまるものだが、いろいろなことを気づかせてくれた。


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by mariastella | 2017-10-05 03:13 | 映画

ジュリエット・ビノシュの『Un beau soleil intérieur』(内なる美しい太陽)

今日はすべての調子がなんとなく狂った日だった。


ほんとうは、『Nos Années Folles,(私たちの狂熱の時代)』という映画に行くはずだった。

監督がアンドレ・テシネーで、テーマが前のローラ・パテールと同じく性倒錯に近いものとあっては、絶対見逃せないので忙しいのに無理に観に行ったのだ。

そうしたら、今日はスクリーンを変える(?)都合で、その映画の昼の上映がないという。その代わりに、同じ時間帯にある クレール・ドゥニ監督のUn beau soleil intérieur』(内なる美しい太陽)はいかがですか、いい映画ですよ、と切符売り場で勧められた。そこは私のよく行く映画館で、午後の初めはすいている。シニア料金があるのでシニアの姿ばかりで落ち着く。ロビーには、本棚があって、みんなが自由に本を持ってきたり持ち帰っていいシステムになっている。

だから、ま、いいか、と思って観ることにした。


主演のジュリエット・ビノシュがTVのニュース番組でインタビューされていたのも見ていたし。カンヌの出品作でもある。ジョジアンヌ・バラスコ、ジェラール・ドゥパルデュー、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキなどと言うすごい顔ぶれがちょい役で出ているというのもすごいし。


ストーリーは、ビノシュの演じるシングルマザーの画家が銀行家や役者の愛人などとからみながら、セックスレスと愛のないこととのはざまで悩んで鬱っぽくなる話で、最後に、ドゥパルデューの演じる霊媒師のところで男たちとの今後について占ってもらい、「内なる太陽を見つけなさい」などと言われて終わる話だ。




ストーリーは、ビノシュの演じるシングルマザーの画家が銀行家や役者の愛人などとからみながら、セックスレスと愛のないこととのはざまで悩んで鬱っぽくなる話で、最後に、ドゥパルデューの演じる霊媒師のところで男たちとの今後について占ってもらい、「内なる太陽を見つけなさい」などと言われて終わる話だ。

一人の女性の裏も表も丹念に表現する名演なので、彼女をめぐる男たちとの会話でいろいろな人間模様が描ける。でもほとんどは会話の妙味だ。

しかも、フランスの、パリの、アートや画廊経営者らの世界で、みながスノッブであることは、ビノシュが、それら「お友達の輪」を外れた男と付き合っていると分かるや否や、「その男はRSAで暮らしているのか」(つまり失業者の支援金で暮らす)とか「学歴はなんだ」「BACG」(これはつまり、今の技術系バカロレア、つまり普通高校からではなく技術系高校からのバカロレアで一段下だと差別しているわけだ)とか、嫉妬や当てこすりや偽善的な言葉が渦巻くことでよく分かる。

孤独や寂しさ、愛の渇き、欲望などが普遍的なテーマなのだとしても、あまりにも、「お仲間うち」の話で、微妙な感情がいくら巧妙に描かれていても、ひいてしまう。

芸術的な悩みとかないのか、君たちは。


私は暴力やホラーシーンのある映画はもうできるだけ見ないようにしようと思っていたけれど、こういう熟年男女の色事のかけひきの映画もこれからは時間がもったいないからもう見ないようにしようと思った。


しかも、最初にビノシュと愛人の意味なくリアルなベッドシーンが延々と続き、どういうわけか途中で館内の照明がついた。がらがらの館内で客の大半を占める70代くらいの連れだった女性同士の姿が目に入り、これをどう見ているのかなあなどと気まずい感じがしていると、誰かがクレームをつけに行ったので、照明が消されて、五十がらみの熟年男女のベッドシーンがやっと終わったところだったのに、映画があらためて冒頭から始まったので、また見るはめになった。男はでっぷりとした銀行家で、ビノシュも疲れ、たるんだ体だ。

手や指も何度か大写しになったのだが、その指や爪の美しくないことにも驚いた。ローラ・パテールのファニー・アルダンはさすがにすみずみまで人工的に美しかったのに。金を払ってまで映画館で「等身大」の疲れた同時代人を見たくない。


最後に出てくるドゥパルデューの異様な存在感も、みな、末梢神経をくすぐるような「濃さ」で、あっけにとられた。


映画館を出てオペラ座の方に歩いていくと、マクロンの経済政策に抗議するリタイア組のデモ行進が長々と続いていた。(年金から自動的に引かれる福祉税が増税される)


昼間からベッドシーンを見ている70歳もいれば、粛々とデモ行進をする70歳もいる。


その後でバロック・バレーのクラスに行くと、今年71歳のクリスティーヌが、相変わらずドイツ・バロックにはまって夢中でドイツ・ステップのクーラントを教える。

なかなか不思議な日となった。

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by mariastella | 2017-09-29 07:52 | 映画

ロバン・カンピヨのカンヌグランプリ映画『120 battements par minute』


昨日観たBonne Pomme に失望したので、確実に評判の高いものをと思って、今年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞したロバン・カンピヨの『一分間120拍動』(120BPM)を観に行った。

BPM120というテンポは、この映画で使うハウスミュージックのテンポであり、心臓がドキドキする鼓動の数でもあるという。


1990年代初めに、アメリカのACT UPに続いてパリで立ち上がったエイズ患者たちによる社会活動団体のドキュメンタリー映画のような作りだ。

監督のロバン・カンピヨの実体験をもとにしている。


雄弁なリーダーのチボーは実在のディディエ・レストラードがモデルで、レストラードは今も健在だから、HIV陽性でも、抗エイズ薬が間に合ったのだろう。

カンピヨは多分陰性で活動に参加していたと思われるので、この映画のナタンの立ち位置ではないかと思う。死者への追悼だけではなく、生き抜いた仲間たちへの生の賛歌のメッセージでもあると語っていた。

90年代初め。隔世の感がある。


ネットや携帯のない時代で、紙を輪にして無限ファックス抗議を送ろうという提案があったり、薬品会社に抗議行動に侵入するシーンも、今なら、ガードマンがいたり監視カメラがあったり、すぐに携帯で上の階にも連絡がいくだろうな、などと思った。そもそもこの手の草の根活動は、今なら、多くのSNSでわっと広がったりつながったりするだろう。

それがない時代に、彼らは、ただ単にデモをする以上の行動に踏み切った。

デモをすること自体はフランスでは日常茶飯事なのでメディアに取り上げられない。挑発しなくてはならない。アメリカのACT UPが死者の遺灰をホワイトハウスに巻いたことを参考にして主人公の1人ショーンの遺灰を製薬会社のパーティのテーブルにばらまく。エイズと血による感染の恐怖を利用して、偽の血を関係者や製薬会社に浴びせかける、などもした。

週一回のミーティングの実況がすごくリアルだ。


ACT UPの特徴は、患者の互助団体などではなく、リセの授業に飛び込んで生徒たちに感染予防を教えたり、娼婦や薬物中毒者や囚人など、自分たち(同性愛者や血友病の薬害エイズ患者)よりもさらにマイノリティの人々のリスク管理や権利擁護についても積極的に戦ったりすることだ。

ゲイプライドの行進を、暗いものでなく明るく、同時に政治的メッセージを持たせるためにいろいろな演出やスローガンを考える。

本来ヒエラルキーのない直接民主主義のミーティングで自然な権威を発揮する複数のリーダー格の若者たちが、秩序とバランスを絶妙に維持していく。

議論の仕方がいかにもフランス人とフランス語の世界だ。

68年の五月革命の時もこんな感じだったのだろうなと想像する。

彼らの戦いにはいろいろな位相がある。

同性愛者、HIVキャリアに対する差別を是正しようとする社会的なもの、

治療薬の認可を遅らせたり、実験結果を公表しなかったり、予防のための広報動をしない製薬会社や政府の不正や偽善を告発する政治的なもの、

20代で訪れる死を前にした実存的、哲学的なもの、

病をかかえ、痛みに耐えるフィジカルなもの、

などだ。


それらをすり合わせ、統合し、立場を異にする者の怒りの表現と行動と、被害者や潜在的被害者を守ろうとする使命感とを両立させていく明晰さとそれを支える言論文化の成熟ぶりはすばらしい。言論がクリエイトに結びつくことの高まりも感動的だ。

日本では薬害エイズが大きな問題になったが、もともと町で声を上げるとか挑発することに消極的な日本ではACT UP的なものはなかったようだ。

同性愛はサブカルチャーの中でのみ受容され、後はひたすら「世間様に迷惑をかけない」範囲でのみ受容される。家父長制社会の中では同性愛は本質的に逸脱であり「悪」なのだ。

それは「欧米」でも同じで、その「悪」を襲うウィルスは「神罰」という分かりやすいシェーマにとり込まれるので、ますます放置された結果、80年代にすでに十万人以上が犠牲になった。アフリカを含めると、今やすでに百万人規模の犠牲者を数える人類最大の伝染病だと言われている。

81年のミッテラン政権で同性愛が刑法から姿を消したのに、82年に最初のエイズの報告がアメリカで現れて、同性愛者は再び、というか、前よりもひどく差別され恐れられるようになった。

監督がモデルではないかと思われるナタンは、十代で数学教師と関係を持ったりした後、アメリカのエイズ患者の写真を見たショックで5年間、同性愛のあらゆる付き合いを断ってしまったと言う。「同性愛者は死ぬ」という定式がとつぜん登場したのだ。

ナタンと愛し合う活動家のショーンは母一人子一人の移民二世という設定で、「バロックな俳優」を探していた監督に白羽の矢を立てられたのが、バスク系アルゼンチン人のナウエル・ペレズ・ビスカヤールだ。踊るのが好きで、過激なこのキャラクターにぴったりだ。

ナタンとショーンが最初に寝るシーンは延々と続くので正直辟易した(というか、この映画、社会派フランス映画としては異例の長さの2h20で疲れる。削れるシーンはもう少し削ってほしい)。けれども、ラストにナタンがいとも自然に、ショーンが嫌っていたチボーに、「戻って僕と夜を過ごしてくれ」と申し出て、二人のからむシーンでナタンが嗚咽する部分に呼応すると思えば理解できる。

徹底的にドキュメンタリー風のミーティングや挑発行動のシーン、セーヌ河が暗紅色に染まったり、1848年革命のナレーションが入ったりする幻想的なシーン、そしてHIV陽性と陰性という溝を乗り越えるが死によって隔てられる若い恋人たちの親密な空間、と、いろいろなスタイルが畳みかけられていくので、冗長さや重さは軽減されてはいる。

不思議なのは、この映画がカンヌ映画祭の2ホールで上映された後、2000人の観客が涙を流したとかいう話だ。他の感想にも、涙なしには見られない、というのが少なからずあった。

それって「死によって引き裂かれる若いカップル」誘う涙?

監督は、死と隣り合わせのロマンスを確かに描いたけれど、感傷的にならないように気を付けたと述べているし、実際それに成功していると思う。

「お涙頂戴」の感涙ヒストリーに分かりやすく涙腺が緩む私だが、実はまったく泣けなかった。

情報量が多すぎ、考えさせられることが多すぎて、このカップルの魅力的な組み合わせや、最後に母親まで登場することも、「涙」につながらない。


若者が「死ぬまでは生きる」ことのしたたかさ、みたいなものには感心したけれど。

ともかく、彼らの運動は無駄ではなく、多くの若者が新薬に救われることになったし、予防概念も広まったし、感染者への偏見も減った。今はHIV陽性となってもしかるべき処置を続けていれば普通に寿命を全うできるところまでいっている。

私はミッテラン政権以前のパリのゲイ・コミュニティと接触があった。彼らの多くはエイズでこの世を去ったと思う。

ACT UPの少し後の世代とも仲良しだ。HIV検査の結果に恐れおののく友人たちの恐怖も共有した。

不思議なことに、ACT UPの中心の世代のゲイ・コミュニティ(私より10歳ほど下)にはほとんど知り合いがいない。この世代の知り合いはレズビアンであるせいか当時も今もエイズの恐怖について耳にしたことがない。


ただ、90年代半ばに、パリの市バスに注射器を持った男が侵入してきて、エイズの血液を注入してやる、と騒いだ時に、親しい人がちょうどい合わせた。これも今ならスマートフォンで通報されたり写真を撮られたりしているだろう。今の感覚で言えば、テロリストに遭遇したようなもので恐ろしかった。

エイズの情報が耳に入った80年代初めには確かに、陽性風の人に対して疑心暗になった記憶もある。狂牛病の実態が公開された時もショックだった。

今の時代も、フランスならテロ、日本なら地震警報にミサイル警報、と、恐怖心があおられて生きることを楽しめないような事項がたくさんある。


環境破壊、公害、異常気象、そしてそれらを全部ないことにしても個人的に確実におそってくる老いやら病気やら、減っていく持ち時間。

あれやこれやのリスク情報や警報を前にして心は揺らぐ。

それを防ぐのは容易ではない。


90年代の若者たちが生きて、生きて、生き抜いたACT UPの世界に2時間入り込むことは、恐怖や悲観との適切な距離の取り方、希望の持続方法を学ぶ貴重な体験である。


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by mariastella | 2017-09-06 02:08 | 映画

ドヌーヴとドゥパルデューの Bonne pomme


カトリーヌ・ドヌーヴとジェラール・ドゥパルデューの10度目だかの共演ということで、これは面白いかなあと思ってつい観に行った映画。

ウェスタン・ダンスに入れあげている妻とその母親から馬鹿にされるのに嫌気がさして出ていった整備工が、田舎の自動車整備工場を買って独立しようとして、工場の向かいにあるレストラン・ホテルの女主人バルバラ(ドヌーヴ)と出会う。


タイトルのpommeというのはリンゴのことだが、同時に馬鹿、間抜け、お人よしという時にも使われる。大金を持って出てきたドゥパルデューは、ドヌーヴから金を巻き上げられるのだが、なぜかいつも親切にピンチを救ってやる。

妻の母親が仕切っている工場ではただのpommeのように扱われるのだけれど、ドヌーヴや彼女に振り回され迷惑をかけられている町の人や旅人に気前よく手助けしてしまう人の好さはまさにbonne pommeで善良な馬鹿、お人好し、というわけだ。

完全に肥満体になっているドゥパルデューのどっかり丸い体が動き回る。

非現実的なシチュエーションなのに説得力があるのはさすがの演技力だ。

「日本人のカップル」というのもホテルの客として出てくるが、へらへら笑って自撮り棒を振り回しているカリカチュアで笑えない。

笑えないと言えば、ギャグのすべてがほとんど笑えない。

『人生は長く静かな河』や『ダニエルばあちゃん』のシナリオ作家のフロランス・カンタンがシナリオと監督だから話もうまくできているに違いないと思ったのだけれど…。

市長役のギヨーム・ド・トンケデックがせっかくいい味を出しているのに、それもうまく生かされていない。

ドヌーヴとドゥパルデューを使うのがもったいないような平凡な映画だ。

ドヌーヴも随分どっしりとしているが、脚はきれいだ。

年配になっても、コミックな味や自虐的な味を出したりして、なかなかしたたかな活躍ぶりだがそれでもどこかにエレガンスを残していた。

この映画ではそのエレガンスがなくほとんど下品だ。プロとしてすごいと思うが、この映画の出来栄えの悪さに釣り合っていない。

このフランスの小さな町、いかにもありそうな町の人間模様だ。


でも、ドヌーヴとドゥパルデューが、例えば30年前の「終電車」の自分たちの姿と役柄と、子の映画での姿と役柄の差をどんな風に受けとめられるのか知りたい気がする。

テレビのニュース番組で二人がインタビューされていたのを見たが、リラックスして、和気藹々と楽しそうだった。

見ているこちらの方が、来し方を振り返って感傷的になる。


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by mariastella | 2017-09-05 06:11 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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