L'art de croire             竹下節子ブログ

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ファニー・アルダンが M to F を演ずるすごい映画『Lola Pater』


30代の青年が、母親の急死のショックの中で、幼い時に別れた父親をはるばる訪ねて行ったら、父親はオリエンタル・ダンサーの熟年レズビアンだった!


ファニー・アルダンは好みのタイプから程遠いけれど文句なしの名女優だ。

一時は拒食症とかいう噂でがりがりに痩せていたが、68歳の今、ある程度肉がついて、肩、手足の骨太さが「性同一性障害の元男」という役をやっても、なんとなく納得できる。

監督は1965年生まれのフランスとアルジェリア二重国籍のいわゆる移民の子弟であるNadir Moknècheナディール・モクネシュ。パリで生まれたが3歳で父を亡くし母とアルジェに戻り、キリスト教系の学校の寮で暮らす。16歳でパリに戻ってバカロレアのと2年の法学部を経て演劇に転向した。

アメリカにも留学し、現代のモロッコやアルジェリアのシーンを描く映画を監督するが、この映画も、カリカチュアではなく、宗教の問題にも触れていない。

とはいっても、厳格なイスラム法では禁じられている酒、タバコ、音楽、踊りなど、何でもやっているローラを揶揄するコメントがあったり、主人公ズィノの子供の頃の割礼記念のビデオが出てきたり、葬儀やパリの墓地のムスリム区画での埋葬、フランスに来たんだから犬を飼っても平気(犬はムハンマドを噛んだということでイスラムでは不浄とされ嫌われている)というズィノの叔母のことばなど、今のフランスで暮らす「普通のムスリム」のリアルな生活感が見える。

ズィノはオーステルリッツ駅近くのマンションの高層階に母親と猫と住んでいたが、母は動脈瘤破裂で突然死する。飲みかけのコーヒーだかティーだかのカップがテーブルに置かれたままで、テーブルにのぼった猫がカップを倒すシーンでその死による人々のパニックが伝わる。

ネコはその後もあやうい、シンボリックな役割を果たしている。

ピアノ調律師で作曲もする30代のズィノは、遺産相続の手続きで、公証人から、父のファリッドが離婚していないばかりか南フランスのカマルグに住んでいると知らされる。それまでは、父のファリッドはある日「蒸発」し、は妻子を捨ててアルジェリアに戻ったと聞いていたのだ。

オートバイをとばして南仏に向かうズィノ。

町で最初にすれ違うのはフランシスカンの修道服を来た修道者らしい人。


で、訪ねた住所はなんとレッスン中のオリエンタルダンスの教室だった。

女性たちがたっぷりした腹を見せてベリーダンスをしている。(ああ、グラナドス!

教師をしているのは妖艶な熟女ローラ。

ファリッドの息子が来たと伝えられたローラは動揺する。

同姓同名の人違いだと言ったが、ズィノは彼女が父の妻なのだと思った。

自分や父と同じ姓だからだ。では、父は重婚していたのだろうか。


公証人から書留を受け取ってパリへ出ていくローラ。


ローラは、女性と暮らしている。相手の女性はどちらかというと「いかにもレズビアン風の」中性っぽい人だ。このカップルはもう若くないわけだが、この人の愛(パリでローラが自殺未遂で入院した時に駆けつけてくるシーンにはほんとうに泣かされる)がすばらしい。

彼女にも励まされてローラはパリで息子に自分が父だと告白する。

衝撃と拒絶。

ズィノの怒り、ローラの絶望、どちらも説得力がある。

ローラはもと、クラシック・バレエの男性ダンサーだった。息子も音楽の世界に生きるアーティスト。政治的にはトランスジェンダーを差別などしていない。

しかし、理論や建前と、それが「親子」の間に起こる場合の感情の齟齬というのは別だ。

事情を知っていた母親にも騙されていたことになる。

何を赦していいのか受容していいのかも分からない。

叔母からは、実は母親のマリカはファリッド(ローラ)が性同一性障害だということを知っていて結婚したと聞かされる。叔母も女性の姿となった義兄に再会して驚くが、昔は彼のことをゲイだと思っていた、という。

ローラは、「自分はいつも女性を愛している。レズビアンになった異性愛者なのだ」という。

性同一性障害と言っても、ジェンダーのアイデンティティと肉体的な性のアイデンティティは別のものだ。

ファリッドとマリカは愛し合っていた。けれどもファリッドは男の姿で男としてふるまうことにもう耐えられなくなったのだ。女になってレズビアンのカップルとして息子を育てられたならよかったのだろう。けれどもマリカは、女になるファリッドが耐えられないのではなく、そうなったら世間の目に耐えられないのだ。

性別と見た目に関しては、生きていくうえであまりにもジェンダーの縛りと圧力が大きいので、第一の苦しみはそこから来るのかもしれない。

マジョリティの人たちから見ればみなひとからげに性倒錯だと思われるかもしれないが、どの性を性的対象と見るのか、と、自分の生物学的な性別を認めるのかはまったく関係がない。


私など自分でも、「性別」としての女性は違和感がないが、アイデンティティの底にあるのは「兄のいる妹」という枠内での性別だ。脳内では女性も猫も子供も、柔らかくてかわいいものは大好きで触りたいし見ていたいが性的対象ではない。細かく見ていくと、性的には「女友達が大好きなゲイの男」と一番親和性がある気がする。妹タイプなので男っぽい感じのレズビアンから声をかけられることもよくあったが、私の好きなのは女っぽい猫っぽい柔らかい女性で、しかも性的興味は全くないのでスルーしていた。


兄のいる妹として生まれて家庭内で妹ジェンダーというアイデンティを課された女性でも、まったくそれが自分に「あっていない」と苦しむ人もいくらでもあるだろう。それは最初は反抗や反発になり、やがては家族から離れるという形で解消できるかもしれない。「嫁」だの「母」などという後発のアイデンティティなどはもっと不安定なものとなる。

人間とは、肉体の性別アンディティティと社会から押し付けられるジェンダーと誰に何に性的欲望を覚えるかという性的アイデンティティが複合的にあるだけではなく、実は生まれた時の周囲(大抵は家族)との関係性から来るアイデンティティとの齟齬もあり得るわけで、「カテゴリー分け」だのロビー活動などには絶対に納まりきれない複雑なものなのだ。

それでもこの映画でファニー・アルダンという大女優を起用したことの倒錯にはくらくらする。


映画界にはAlexis Arquetteのような真正のトランスジェンダーの女優たちもいるのだから、彼女らを起用すべきではなかったのかという意見もあった。

ファニー・アルダンは男でもなく、アルジェリア人でも、アラブ系でも、トランスジェンダーでもない。


実は、トランスセクシュアルの友人たちがいる監督がこの映画の構想を自分の母親に話した時に、母親がその役はファニー・アルダンに頼むべきだ、と言ったのがきっかけだったという。

低いしわがれ声と、エレガントな長身、の迫力に加えて奇抜な衣装。

バロックとマニエリズムの境界。

アルモドバルの映画の世界ですか、といいたくなるが、実は、とても抑制が効いていて登場人物全員が非現実的な「上品」さをたたえている。


ズィノは、結局、性別は関係なく「父親」を求めている。

ファリッドも息子を愛していた。罪悪感にとらわれた。

でも彼にとっては、自分の意識に合致する体を手に入れること、女性のオリエンタル・ダンサーになれるかどうかは、生きるか死ぬかの問題だったのだ。

ズィノ役のTEWFIK JALLAB35歳で、パリの近郊でモロッコ人の母とアルジェリア-チュニジア人の父の間に生まれたこれも典型的な「移民の子弟」だ。

「父と息子」の関係を突き詰めることで、何世紀にもわたる「父系制」社会に挑戦している映画だともいえる。

性別や見た目や世間の目などと関係なく、「それでも愛している」という心を封じていた二人は、揺らぎながら互いに相手をかばおうともする。けれども、愛を口にして、もし向こうから同じ言葉が返ってこなかったらどうしようという恐怖が愛にまさる。

これは普遍的な映画なのか、ニッチな映画なのか、評価もかなり分かれている。

私の好みにははまり過ぎなのだけれど。

ライオンキングでも猿の惑星でも、当然のように与えられるテンプレートに「父が息子」へ「力」を継承させるという者がある。この映画がそれを大きく揺るがすものであるということにセンシティヴであるかどうかが評価の分け目になるのだろう。

日本ではいわゆる「オネエ」キャラが一見市民権を得ているように見えるが、普通の人には性的マイノリティの中での性的アイデンティティと性的欲望との組み合わせの区別などつかないことだろう。

日本のM to F で私の知っているのは(直接知っているわけではない)、性転換手術の前後から細かくレポートしてくれたブログを愛読していた能町みね子さんくらいだ。(今もネットの週刊誌で連載を読んでいるが、オリンピックを盛り上げるために都知事がラジオ体操奨励したことへの記事など、同感で笑えた。)

深刻なのはやはり、「子供」がいる場合で、「子供との関係」における性別の刷り込みや世間の目こそ、「父系性社会」の基盤だから、「基準を離れる」のは大きな試練となる。


日本でも、2014年から、性同一性障害のため女性から男性に性別変更した夫とその妻が第三者との人工授精でもうけた子について、戸籍に嫡出子として記載できるようになったという。

同じケースでも、男性から女性に性別変更した人への偏見の方が実際は厳しいのではないだろうか。「女が男になる」のは上昇であり、理解できるが、「男が女」になるのは下降であり理解できない、としないと男性優位のシステムを揺るがすからだろう。女が男の服を着て活発に動くのは、子供が大人の真似をするように「ほほえましい」。でも男が女装をしてしなをつくるのは男優位社会の侵犯とみなされる。あるいは完全に「枠外」の異種動物のように容認される。

この映画の登場人物の苦しみに共感できて、それでも人間性と愛の光の中で物語を観ることができてラッキーだったと感謝する。


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by mariastella | 2017-08-13 05:17 | 映画

『マリー=フランシーヌ』(ヴァレリー・ルメルシエ)

『マリー=フランシーヌ』(ヴァレリー・ルメルシエ)

少し前の話になるが、映画『ロダン』に不全感が残ったので「口直し」にコメディを観に行こうと思って見た映画についての覚書。

ヴァレリー・ルメルシエは役者としても好きだし、双子の姉妹役をやるというのもおもしろいし、母親役がエレーヌ・ヴァンサンというのも楽しみだった。

舞台がパリ16区のなじみの通りなので親近感もある。

でも、それ以外は何だか非現実的でカリカチュラルな設定だ。建物の住み込みの管理人室に住むポルトガル人の両親のうちに転がりこんだ55歳の料理人と、ブルジョワの両親のところに転がり込んだ50歳の生物学研究職の女性の間に繰り広げられるロマンティック・コメディだから。

大柄なマリー=フランシーヌ(177cm)に対していかにもパリのアパルトマンの管理人をしているポルトガルの移民の子というステレオタイプのずんぐりむっくりのミゲルは、最初から彼女を好きになって、彼女の食生活の貧しさを気にして昼においしい食事を用意してやる。ハート型を添えたりと初々しいし、いつもにこにこしているのも印象的だ。2人はどちらも一応自分のシチュエーションについて嘘を付き合っているのだけれど、全体としてはなんの幻想もなくただひかえめな優しさがある。

それに対してマリー=フランシーヌの両親はそのブルジョワ的偽善性においてもなかなか過激だ。母親はただのプルジョワ夫人ではなく力強くエゴイズムを謳歌している。ルメルシエの他の作品と同様、風刺、フェミニズム、社会批判などがちりばめられてはいるが、中心になる ラブストーリー自体はえらく穏やかに貫徹しているので、他のスパイスのすべてが薄まったという感じだ。

マリー=フランシーヌの夫が若い女と浮気して捨てられてまた妻とよりを戻そうとすることや2人の娘との関係など、ある意味すごくパリの家庭事情のリアリティはある。
ヒロインが50歳というのを強調するのも、「50歳のクライシス」と言って、50歳前後の女性がカップルを解消して再出発するというケースがとても多いことに対応している。

軽くて楽しめる映画は当たり外れが多い。
次はあきらめてシリアスな映画を観ることにしよう。


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by mariastella | 2017-07-11 00:29 | 映画

『ロダン』(ジャック・ドワイヨン)2017

先日のカンヌ映画祭でも上演された映画『ロダン』(ジャック・ドワイヨン)。


ロダン死後100周年でグラン・パレでもexpoをやっている。

ロダンの作品はいわゆる「好み」ではないのだけれど、アートとは何かを考えさせられる圧倒的なオーラがある。昔はよく、ブールデル美術館(ブールデルは好み)に行った後でそのままロダン美術館に行くことでロダンの秘密を探ろうとした。

ロダンの天才は音楽で言えばラモー型だと思っていた。

それ以外では私が最も影響を受けたのはリルケによるロダン論だった。


で、この映画の切り口にも期待していたのだけれど、なんだか『アマデウス』の映画でモーツアルトがはしゃぐ姿を見た時に似た「こんな男がこんな作品を…」と肩をすくめる気分になった。


40代ではじめて国から「地獄の門」の注文を受け、カミーユ・クローデルとも出会い、スキャンダラスなバルザック像を完成するまでの10年間のエピソードの積み重ね。いわゆる伝記映画ではない。


ロダンとカミーユ・クローデルと言えば、1988年のブリュノ・ニュイッテンの『カミーユ・クローデル』がイザベル・アジャーニとジェラール・ドパルデューという濃い人たちの主演で鬼気迫っていた映画を思い出す。


アジャーニはすごいけれど、「演じている」というより憑依しているという感じの人だから、他と比べようがない。劇場で芝居を観た時にはもっとそれを見せつけられた。


今回はポスト・ヌーヴェルバーグのジャック・ドワイヨンの作品でロダン役がヴァンサン・ランドンだからずっと地味で「創作の秘密」を掘り下げるようなものかと期待していたら、カミーユはもちろんヌードモデルとのからみなどが多くてなんだか引いてしまった。


でも、「土」をヒエラルキーの上に置こうとして粘土をこねまわし執拗にディティールを付け加えるやり方は意外だったし、モデルを見据える目の演技も印象的で、愛人のカミーユも妻のローズも、ナチュラルでナチュラルゆえの絶望の深さ、傷の深さがかえって際立つ。カミーユとの「契約書」やローズとの追いかけあいのシーンも独特の雰囲気だ。


仕事一筋、天才、アーティストの孤独という面よりも、それらを成り立たせている肥大したエゴイズムの強靭さというものを感じてしまう。


なんというか、エゴイスティックで卑しいささいなことの積み重ねによる疲労と喪失とフラストレーションの末に、それでも生まれる天上的な作品、愛がなくても美は生まれる、地獄の門を通っても天国には行ける、という話だ。


映像や音楽(チェロが美しい)はすばらしいけれど。


アトリエの助手の中にブールデルがいるはずだけれど、と思ってみていた。


バルザック像のモデルが妊婦だったり、ガウンは、本当のガウンを石膏に浸して張り付けたものであるというエピソードも印象的だ。


ラストに近い場面で、変な着物を来た日本人女性のモデルが裸になれと言われたのに「すみません、おっしゃっていることが分かりません」と日本語で答え、ローズが入ってきて「中国人が…」なんとか言って「全部脱ぐのよ!」と叫ぶシーンがある。


で、ラストシーンだが、ロダンの死後のパリでようやくバルザック像が設置された後、突然2017年、日本、箱根彫刻の森美術館というキャプションが出て、ブロンズのバルザック像に小学生の子供たちが駆けよって「だるまさんがころんだ」と言って遊んでいるシーンに切り替わる。

この着地は、夢から覚めたように鮮やかではあるのだけれど、日本人にとっては、その前の不自然な着物の日本人モデルのシーンでの日本語も聞えているので、妙につながってしまって、効果が薄れた気がする。


ロダンの創作という興味あるテーマでこれだけいろいろ工夫しながらこの程度の結果しか出せなかったのは残念だ。



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by mariastella | 2017-06-01 17:31 | 映画

『2人で一つのプロフィール』(ステファヌ・ロブラン)

(映画コメント続き)

『2人で一つのプロフィール』(ステファヌ・ロブラン)

評判が悪くなかったので観に行った。
近頃はシニア人口のマーケットが大きいからか、シニア俳優が主人公の映画が少なくないので、何がターゲットにされているのか観察するのに興味がある。

主人校の79歳のやもめは、ベテラン・コメディアンのピエール・リシャール(もう82歳だそうだ)で、いつも愉快なので楽しめるかと思った。最後にマーシャ・メリルというなつかしい人も顔を見せる。
妻を亡くして2年、引きこもり状態の父を心配した娘が、自分の娘ジュリエットの恋人アレックスを父の住むベルヴィルのアパルトマンに送り込んでインターネットの使い方を教えさせる。アレックスは駆け出しのシナリオライターで、このアルバイトを引き受ける。
すると、このピエールが偶然出てきた出会いサイトを開いて、ベルギーに住むフローラという31歳の女性とメールをかわすようになる。でも最初にプロフィールとして載せた写真はアレックスのものだった。

というところから、実際に出会うことになってアレックスに代役を頼んだり、自分がアレックスの祖父役を演じたりするかなり無理な設定でのブリュクセルやパリの観光シーンが美しい。アレックス役のヤニス・レペールという青年は、その辺にいそうな普通感と、暖かさと弱さの混じり具合に好感が持てる。フローラ役のファニー・ヴァレットの美しさも印象的だ。

で、おもしろかったかというと、
つまらなかった。
いくら重い映画よりもコメディで気分転換したかったにしても、これほどつまらないとは思わなかった。

でも評判がわりとよかったのは、ピエール・リシャールへのリスペクトと、シラノ・ド・ベルジュラックの国ならではの「現代のシラノ」の悲哀が受けたからだ。
恋人を棄ててパリよりも上海でのビジネスを選んだ若者とか、
ベルヴィルの中華街の様子とか、
今時の親子三世代の関係とか、
もちろんインターネットを通した出会いなど、今のパリや郊外の普通の生活を切り取った親近感もよかったのかもしれない。

私の身近にいるバツ2のシニア男性でネットでの出会いを繰り返している人も知っているし、別の知人は、やはり出会い系ネットを通して知り合ったブリュクセルに住むジャーナリストと時々パリやベルギーで会っている。そういうことが普通にある世界なのだなあとあらためて思う。

「嘘」がばれた時のフローラの反応は意外だし、最後の「オチ」は楽しい。

シナリオは悪くないのだけれど、せめて心から笑えるとか、感動して泣けるとかの「気晴らし」を与えてほしかった。

暇もないのにこんな映画を観るくらいなら、多少ヴァイオレントでも怖いシーンがあっても、心に刺さる映画を観るべきだなあと反省した。

で、次に観に行ったのは….



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by mariastella | 2017-05-22 00:49 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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