L'art de croire             竹下節子ブログ

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「主の祈り」をめぐって その7

(これはこの前からの記事の続きです)


「主の祈り」が特殊なのはやはり、神を「父」とよぶところだろう。


イエスは神のことをabba(パパのような親称)と呼んだ。

人はつらいこと苦しいことに遭うと、辛さゆえにそれを父なる神に責任転嫁する倒錯が起こる。


つらい時に「父なる神」に不平を言ってしまうという誘惑に打ち勝って、子なる神イエスに目を向けなくてはならない、というローマ教皇フランシスコは、「キリスト教のすべての祈りの神秘はこのabbaという言葉に要約できる。この言葉で呼ぶ勇気を持つことでイエスは神は良き父であり、おそれることはない、と啓示したのだ」(2017/6/17)と語る。

ちなみに、1966年より前に一般的だった主の祈りのこの部分は


Ne nous laisse pas succomber à la tentation


だった。


つまり、「私たちがに誘惑に負けないように引き留めてください」というニュアンスだ。

その後の、「私たちを誘惑に引き込まないでください」というニュアンスになってしまいがちなのを避けて、

今回の「私たちが誘惑に入っていくのをとどまらせてください」的なニュアンスになったわけだ。

「負ける」にしろ、「従属させる」にしろ、「力関係」を連想させる言葉がようやく避けられたという印象である。

やはり、そもそも「誘惑」という言葉が曲者だ。

「誘惑」と「試み」と「試練」が混同して使われるからだ。

多分、ひとことでいえば、

誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。

(ヤコブの手紙 1 13節)

というのがきっと正しい。


でも、すでにヤコブの頃からこういうことがわざわざ言われているということ自体が、人はいつも、

自分の弱さも

判断の誤りも

困難な状況も

すべてまとめて「誰かのせい」にしたがるという、変わらぬ人間性を物語るのかもしれない。


確かに、「誘惑」と「試練」は別物だけれど、「試練」に出会った時に、それを避けたい誘惑、それを誰かのせいにしたい誘惑、見て見ぬふりをする誘惑などが自分の中に生まれる。

このことについていろいろ考えたがそれはまた別のところで。(続く)



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by mariastella | 2017-12-12 00:05 | 宗教

ジョニー・アリディとエディット・ピアフ

ジョニー・アリディとジャン・ドルメッソンの生と死の語られ方について、「たかが、かた」のブログ に投稿したら、多くのアクセスがあったのでここにその後の話を書いておく。(注:その後、正しい情報が入ったので、日付や場所などを訂正しました。12/9)


コメントでも、ドルメッソン自身が、コクトーの死がピアフの死でかすんだことを上げて、作家はスターと同時に死んではいけない、という動画を教えてもらった。

笑える。

それでもかろうじてジョニーより一日早く亡くなったドルメッソンの方は金曜日にアンバリッドでマクロンが追悼セレモニーをした。

で、ジョニーの方は、翌日にシャンゼリゼで700台のオートバイに並走される葬列がマドレーヌ寺院まで行き、そこでもマクロンが短いスピーチをするそうだ。

その後は、12日の火曜日に、パリから遠く、カリブ海にあるフランス領サン・バルテレミー(2008年から別荘を持っている)島の墓地に埋葬されるそうだ。

離婚と再婚を理由に教会での葬儀を拒否されたエデット・ピアフが10万人の群衆に囲まれて16区からペール・ラシェーズ墓地に直行し、今でも墓参の人が絶えない有名スポットとなったのは対照的だ。

ジョニーがカリフォルニアとパリ近郊の大邸宅に暮らし、死後はうんと遠くに埋葬されたかったことを思うと、莫大な財産を持つスターの本音とはどんなものだろう、と思ってしまう。

ピアフの方は莫大な借金を残して死んだ。

麻薬とアルコールでボロボロ状態で早く楽になりたい、と言っていたが、なんと、まだ47歳だった。ジョニーの74歳と30年近くの差がある。

ジョニーは、若い頃は不健康だったろうが、としを取ると共に筋トレしてマッチョな体からどんどん声量を増やしていった。

彼のファンは、そのエネルギー、迫力、力強さにしびれていた。

それに比べると一世を風靡した女性歌手は意外に若く死んでいる。

ピアフもそうだが、ダリダも54歳、日本なら越路吹雪56歳、美空ひばり52歳などだ。フランスではバルバラが67歳でエイズで没した。72歳で現役で活躍して講演活動もしているシェイラだとか、80代で啓蒙活動を続けているナナ・ムスクーリ(70歳で歌手引退を宣言している)などには、「堅実な幸せ」感がある。「力」で老若男女を惹きつけるという選択はない。

アイドルの栄枯盛衰には明らかにジェンダーの差があるような気がする。

ジョニーは多くの男たちのアイドルだ。夫婦で大ファンという人もたくさんいる。

それほどに熱狂的な女性ファンがいる女性歌手は思い当たらない。

宝塚のスターには熱狂的女性ファンがいるが、男性ファンは例外だろう。

熱狂的男性ファンがいる女性アイドルは「消費」されることが多い。特に、集団の熱狂は「消費」型だ。

熱狂的男性ファンというと、サッカーのサポーターも連想する。

男性ファンはジョニーやスター選手のカリスマ、強さ、男らしさに夢中になる。

女性のアイドルやスターに対しては、若さや美しさを愛でたり欲望の対象にしたりする。

ファンや、スターやアイドルを取り巻くポピュリズムには明らかなジェンダー差があるのだ。

そして何度も言うが、「強さを礼賛」することは、危険だ

見たくなくともいやになるほど流されるジョニーの舞台のパワーを見て、すなおにすごいなあ、と思う。

私はフランス・バロック音楽の奏者だ。音楽的には対極にある。でも、人は、「大きい音」「音量」に惹かれる。

特に、大勢が集まる場所(それは商業的に成り立つ場所ということだ)で大音量を聞きたい。百人のオーケストラとか、増幅される電子音とか、絶叫する歌手とかに夢中になり、連帯感を持ちたい。

サッカー・スタジアムで声を合わせて叫びたい。

そのことの不条理を感じる。

それこそドルメッソンはいいことを言っていた。

「深いものとつながっている軽さには美がある」

と言って、モーツアルトの音楽を挙げているのだ。

私がラモーに感じていることと同じだ。ドルメッソンならラモーの美しさを分かるだろう。

ジョニー・アリディをめぐる大騒ぎに対してこのようにいろいろ考えてしゃべる私に対して、私の周りの人間は

「興味がない、もうその話はしないでくれ」

と切り捨てる。

私は切り返す。

「ヒットラーが台頭した時に、ドイツ人の全員が熱狂したわけではない、でもその時に『興味がない』と無視した人がいたから、結局は歴史の歯車が回ってしまった。だから、全体主義的な盛り上がりがメディアを覆ってしまうような時こそ、少数の意見の存在をどうしたら届けることができるのか、残すことができるのかを考えるべきだ」

と。

私のこの意見は、かろうじて切り捨てられないで聞いてもらえているのだが…


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by mariastella | 2017-12-09 00:05 | フランス

ジョニー・アリディとジャン・ドルメッソンの死

12月5日から6日にかけて、24時間程の間に、フランスの国民的作家でジャーナリストで映画でミッテラン役も演じた人気パーソナリティのジャン・ドルメッソンと、やはり国民的アイドルのロック歌手で映画俳優としてもいい味を出していたジョニー・アリディ(私の若い頃の日本ではシルヴィー・ヴァルタンとのカップルというイメージがあった。テレビの「ヒッチコック劇場」に挿入されるレナウンのコマーシャルにシルヴィーが歌うものがあり、そこでトレビアーン、などのフランス語を毎週聞いたのを覚えている)とが、亡くなった。

前者は元気とはいえ93歳だったし、後者は74歳だが肺癌の末期ケアだったからどのメディアも特集記事、追悼記事を「準備」していただろうけれど、24時間しかインターバルがなかったので、追悼の仕方、特集の組み方を観察するだけで、そのメディアのポジションとかが分かってなかなか興味深い。

この2人のビッグネームが没したことでいろいろ去来するものがあったので、いまや「健康ブログ」と化した「たかが、肩」に記事をアップした。興味がある方はどうぞ。





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by mariastella | 2017-12-06 22:18 | フランス

ミシェル・ウエルベックの発言、メルケルとシドゥオゥ

『従属』Soumissionという小説で、フランスにイスラム教徒の大統領が生まれる近未来の小説で話題になったミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)、ネオ保守の雑誌のインタビューで、


フランスのイスラム教徒たちが満足するのは、フランスがカトリックを国教に戻してその上でイスラムを寛容にとり扱う時だ、


みたいな発言をしているという。


どの国でもマジョリティとマイノリティ、文化、伝統などが相対的な力で社会を動かしているから、彼の一見反動的な極論にも、なるほど、イスラム教徒にフランスでのマイノリティである立場と意識を自覚させれば感謝して謙虚に暮らすだろう、と納得する人もいるかもしれない。


でも、それをいうなら、エリザベス女王を首長とする「国教会」があって、国民全部がいったんは国教会に属するという形式が続くイギリスで、共同体主義の中でイスラム教条主義が横行していたりテロの標的にもなっていたりすることを説明できない。


フランスだって、いわば「ライシテ(フランス風政教分離)の共和国主義」そのものを「国教」としているような国なのだから、そのライシテの中で信教の自由を擁護されるムスリムが、「感謝」などしないで過激派に取り入れられてゆくことを説明できない。

ドイツでメルケル首相のマジョリティ連立政権の試みが、難民問題と環境問題で暗礁に乗り上げているのも心配だ。


過去に、彼女が難民百万人でもドイツはOKと言った時に、EUの他の国からは、現実を知らない理想主義だと叩かれるよりも、それはドイツの高齢化と労働力不足対策だなどと言われた。

彼女が難民OKというのは、「助けを求めて来るものをすべて受け入れるのはEUの精神に合致しているから」という建前だったので、その「正論」に踏み込むことはできずに、まるでそれがドイツの利己的なご都合主義であるかのように批判されたのだ。

私はメルケルの人道主義は本音だったと思う。

その本音を通せない現実との折り合いがつけられなかった。


前にも書いたことがあるけれど、ドイツのようにマッチョな社会で、メルケルが長期間政権を維持してきたことは不思議だ。もちろん好調な経済の後ろ盾があったにしろ、マクダ・ゲッベルスのような女性の悲劇を生んだ国で、しかも、「共産圏」に組み入れられた東ドイツ出身で、よくここまで来たなあと思う。


けれども、それをいうなら今のポーランドの首相ベアタ・シドゥオゥ(シェドワの表記もあり)の白人カトリック・ポーランドファーストもすごい。

今書いている本の中で、「共産主義はキリスト教最後の異端」という言葉があるのだけれど、

メルケル(ルター派)のキリスト教的信条とEUのキリスト教ルーツ、

ポーランドとカトリック、

この旧共産圏の二つの大国(東ドイツとポーランド)の二人の女性首相の対照的な姿勢と、

それぞれに向けられる国民の視線の違い

に感慨を覚える。


彼女らに比べたら、なんだかんだ言ってもフランスは苦労が足りないお花畑の男たちがのさばっているなあ、などとひそかに思う。


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by mariastella | 2017-11-27 00:05 | 雑感

パリのメトロと日本人学者。真鍋 淑郎

今年の春ごろから、パリの高速地下鉄RERB線の北駅の壁に、何やら難しそうな数式が色とりどりの背景色の中に書かれたものが並んでいる。普通は特大の広告が貼られる場所だ。

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このういうのとか

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こういうの。


一見して何の数式かよく分からないし、なんとなく不完全な気もする。

でも、いったい何なのか気になって、人々は答えを探してホームを歩くことになる。


すると、突然「Shukuro Manabe !」とだけあるものが出てくる。

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えっ、なんとなく日本人の名前らしいが、Shukuroってよく分からない。

その人が真鍋 淑郎(まなべ しゅくろう)という日本の気象学者で、今の地球の温暖化説を唱えた先駆者で有名な人だと後で確認する。

何十年もパリの地下鉄に乗っているけれど、日本人の名前だけが書かれているポスターなんてはじめてだ。

説明によると、これはれっきとしたアートで、2015年のパリの環境会議COP 21 を記念してLIAM GILLICK というアメリカ在住のイギリス人アーティストによる「連作」らしい。だから、複雑な数式にインスパイアされているとはいえ、全体としては「デザイン」、「モティーフ」だし、政治的メッセージもある御用アートといったところか。でも、かなり抽象的な数式をこうして並べて注意を引き、視線を動かすことには成功しているし、結果として印象は強烈だ。

イギリスのアーティストがパリのメトロに日本人の名前を書き、気象学の数式を並べる。なかなかシュールだ。


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by mariastella | 2017-11-26 00:05 | フランス

主の祈りと「服従」

キリスト教で一番大切な祈りとされているものにイエス・キリストが伝えた「主の祈り」というものがある(マタイによる福音書6-13など)。

その、今の日本の共同訳聖書で


「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」


という部分は、2000年の、日本のカトリックと聖公会の共通口語訳による「主の祈り」では


「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」


となっているようだ。


確かに「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と言うと、なんとなく「悪い友達」に引きこまれないように、サタンだとか蛇に出会いませんように」というイメージもあるが、「主の祈り」の「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」ならもっと、自分の内面の誘惑や悪を連想するかもしれない。

毎日曜のミサで唱えるものだから、こっちの方がより効果があるのかも。

プロテスタントでは「我らをこころみにあわせず」だったり、正教会では「我等を誘いに導かず」というものなどと、ネットには出てきた。


参考に全文は

「天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。


で、非キリスト教者にも懐かしい文語訳では


「天にましますわれらの父よ、
願わくは御名の尊まれんことを、
御国の来たらんことを、
御旨〔みむね〕の天に行わるる如く
地にも行われんことを。
われらの日用の糧を
今日〔こんにち〕われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、
われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。」


ヘブライ語の修辞法では最も大事なものが中心にあって、前と後ろに挟まれることになっているという考え方からは、最初の「御名、御国、御旨」というのは「王としての属性」、最後の「罪、赦し、悪」というのが「神としての属性」、一番大切なのが真ん中の、「今日の糧をください」という「父と子の関係」だという説がある。父としての神が一番重要なのだ、という解釈になるほどと思ったことを覚えている。

で、その「神としての神」の部分に、「悪へのいざない」というか、「試み」が出てくるわけだ。


1988年版の英語訳では

Save us from the time of trial


らしくて、「遭わせないでください」というのは試み、誘惑そのものというよりそのtimeということで、よりタイミングのイメージがある。「遭う」という漢字がその意味なのか。

And lead us not into temptation, というのもあった。


そもそも誘惑があり得る環境に人を置いたのは神で、その誘惑に負ける自由意志を与えたのも神だし、いろいろな試練を与えて「試みる」のも神だ。神の子イエス・キリストですら様々な誘惑や試練を与えられた。

だから、「そんなことをしないで下さいよ、おとうさん」と、私たちが言いたくなるのも当然だ。

で、なぜこんなことを書いているかと言うと、123日、つまりクリスマス前の降誕節最初の日曜日のミサから、フランスのカトリック教会で、「主の祈り」のこの部分のフランス語だけがいっせいに変更されることになったからだ。

すでに21世紀の初めから、フランス語圏の司教会議で、典礼に使う聖書の訳の新訳について協議がなされていて、201311月にこの部分の変更が合意されていた。20173月に正式に承認された。

1966年以来これまで、ルター派の改革教会でも正教会でも使われていたフランス語訳は

« ne nous soumets pas à la tentation » だ。

このsoumettreは屈服させる、服従させる、ゆだねる、供するという意味で、いわば、「私たち」を「モノ」のように、有無を言わさず誘惑に遭わせるニュアンスがある。

「お父さん、そんなことしないで」と頼んでいる。

今回の変更(これも2016年にフランスのプロテスタント連盟でも推薦されている)は、

«ne nous laisse pas entrer en tentation »


というものだ。

「私たちが誘惑の中へと引きずられていかないようにしてください」のようなニュアンスだといえるだろうか。


つまり、「私たちが誘惑に弱くそちらに惹かれていく存在であるのはしようがないけれど、何とかそれを引き留めてください」という感じもある。

これでは、まるで「誘惑とはアクシデント」みたいだけれど、実際は、どんな誘惑も試練も、創造の全責任者である神からくるのだから、アクシデントとは言えない。「新訳」の方が、「悪」が別にあるかのような二元論の印象を与えるのではないか。

なぜこれをわざわざ取り上げたのかというと、日曜日に必ず唱えられる「主の祈り」のこの部分だけが変更されたのは実は「イスラム対策」なのだ、という人がいるからだ。


「イスラム」というのはその語源に、「服従」がある。

手っ取り早く日本語のwikipediaをコピーすると、


>>この語は、「自身の重要な所有物を他者の手に引き渡す」という意味を持つaslama(アスラマ)という動詞名詞形であり、神への絶対服従を表す。ムハンマド以前のジャーヒリーヤ時代には宗教的な意味合いのない人と人との取引関係を示す言葉として用いられていた。ムハンマドはこのイスラームという語を、唯一神であるアッラーフに対して己の全てを引き渡して絶対的に帰依し服従するという姿勢に当てはめて用い、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリムと呼んだ。このような神とムスリムとの関係はしばしば主人と奴隷の関係として表現される。<<


別にイスラム教でなくとも、カトリックの中ですら、イエスどころか「マリアの奴隷」を自称するような一派もいたくらいだから、「自主的な服従」というのは人間の社会関係における「選択」のひとつではあるのだろう。

でも、現在、カトリックの力が弱まり、イスラム人口が増え、過激派の言葉が広く響き渡るようなフランスでは、宗教における「神の名のもとの全体主義」への警戒が高まっている。その中で、イスラムの語源として真っ先に「soumission」という訳が出てくるし、イスラム原理主義の中での「従属させられる女性 femme soumise」に対して異議が唱えられている。

そういう含意を持ってしまったsoumission とかsoumettreの動詞活用だから、神と「私たちの関係を表現するものとして「主の祈り」で毎回繰り返すのはよくない、という思惑から、表現が変更されたというのだ。


12/3はぜひルヴェリエ師のミサにでも出て彼がこの変化を何と説明するのか聞いてみたい。この前に彼に会った時の記事で、キリスト教における人と神との関係では絶対的服従でなく「合意した、決意した、引き受けた」と言うのが強調されていたことを書いたが、それもひょっとして今の情勢の中の流れなのだろうか、と今にして思った。


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by mariastella | 2017-11-22 00:05 | 宗教

フランス映画とタバコ

つい最近、フランスの厚生大臣が、映画の中でタバコを吸うシーンを禁止する条例を出したいと言って話題になっている。


確かに、ひと昔前の広告や映画では、皆がタバコを吸っていたし、それが「大人のシンボル」だとか「自由のシンボル」とか、女性なら「解放された女性、自立した女性(要するに男性と同じことをする女性?)のシンボル」とか解釈される傾向はあっただろう。(前に書いたこんな記事でも昔の映画のタバコに触れた)


日本と違って未成年の喫煙禁止条例のないフランスでは、昔は小学生にでも「日曜日に一本だけ」と、特別の嗜好品みたいに与える家庭もあったようだ。


今はすごく減って、少なくとも私が自宅のパーティに招かれるようなブルジョワ・インテリ系の家庭では、もう誰も吸っていない。吸う人がたまにいても、庭に出ている。

食後酒の時間に葉巻を勧める人はたまにいる。


私が最後にホームパーティでの紫煙モウモウの現場にいたのは、2001年のサウジアラビアでのフランス人同士の社交の場だった。まあ、特殊な環境だからかもしれない。


で、先日観たドヌーヴの主演映画では、彼女も娘もひっきりなしにタバコを吸っている。これはかっこいいというより、要するに、強度のストレスに耐えかねての一時の逃避、という文脈だ。娘の方はタバコどころか麻薬中毒でもあるのだけれど。

確かにこの映画では、近頃珍しい、ヒロインの女性二人がタバコを吸うシーンの多さが記憶に残った。


で、今回の、フランス映画にタバコのシーンを映さない、という条例案が現実のものとなったなら、もちろんこの映画の中のヒロインたちのストレスの表現の半分が成り立たなくなる。


この件に関して今朝のラジオで哲学者が、「教育に悪い表現は検閲して削除すべきだ」というのはプラトンの時代からあった、と言っていた。『共和国』の中でソクラテスが、ホメロスの『オデュッセイア』の中にある、例えば、神の悲しみを描いた場所や神の怒りを描いた場所は、不適切だから削除せよ、と言うのだ。しかしそうした教育的でない不適切なシーンを削除していったら、本質的なものがほとんど何も残らない。第一、タバコのシーンが教育的でなく健康被害を招くと言うなら、暴力シーンだって、同性愛のシーンだって、差別のシーンだって「不適切」だということになる。映画からタバコのシーンを排除せよなどという政治による介入は「シャトー・ラフィット(最高級ワイン)にコーラを混ぜろと言うのに等しい」というのが。哲学者の結論だった。

私はなぜかキリスト教の聖書のことを連想した。


「不都合で教育的なことを削除せよ」という意見がキリスト教誕生よりも何世紀も前からギリシャで主張されていた意見のひとつであるというのに、同じヘレニズム世界に広まったキリスト教の中で、暴力やらインセストやら同性愛やら復讐やら裏切りやらのシーン満載の旧約聖書や、ナザレのイエスの苦悩や断罪や、弟子の裏切りやらを延々と描き、使徒たちによる女性差別的な表現も満載の新約聖書がそのまま伝わってきたことの驚きだ。


それらを根拠にしていわれなき抑圧のシステムができたことももちろんあったと思う。

けれども、あれほど執拗に「異端」をあぶりだし、異端審問にかけ、中央集権的全体主義的独裁体制さえあちらこちらで展開してきたキリスト教が、なぜか、あれほど矛盾に満ちて雑多で、不整合で、不都合で不適切であやしげなテキストがたくさんある聖書自体にはほとんど手を加えぬまま、「神の言葉」「預言者の言葉」「聖霊の言葉」として温存してきた。

もちろん、その「不適切」さを回避するために、昔のカトリック教会のように信者が直接聖書を読むことを妨げたり、ある種のプロテスタント神学者のようにテキストを近代のコンテキストで解釈しなおして読み替えたり、あるいは「新しい啓示」を受けた、「新しい聖典」を見つけた、とまで言って整合性を掲げるキリスト教系新宗教が生まれたりした。


今は、非キリスト教文化圏の普通の人でも簡単に聖書の「不都合な部分」にいくらでもネットでアクセスできる時代になった。矛盾を突いたり批判することは難しくない。


にもかかわらず、キリスト教、福音書の精神が今でも健在でそれにインスパイアされて生きている人がたくさんいるという事実があるのだ。これはもう、「神の奇跡」でなければ、「自分の占める時空を超えた何者かを求め共有したいという人間性の奇跡」のような気がする。


また、旧約時代、新約時代のあらゆる不都合さ、不適切さ、試練、迷い、などを潜り抜けて現れてくる本質、信仰の真実があったんだろうなあ、とも感嘆する。

映画の暴力シーンや喫煙シーンから目を背けて済むような問題ではないのだろうなあ。


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by mariastella | 2017-11-21 00:05 | フランス

ジャン=リュック・イエネールの『地獄』Jean-luc Jeener

ジャン=リュック・イエネールの『地獄』

完全にマイ劇場と化したThéâtre du Nord Ouestのこれも完全にマイ戯曲家(今回は出演もしている)と化したジャン=リュック・イエネールが「宗教とライシテ(政教分離)」のシリーズで問う新作『地獄』を観に行った。


重病のもたらす痛みに耐えられずに自殺願望を口にする重篤の夫を前にして悲嘆にくれる女性のところに、夫の友人である一人の司祭と一人の女性歴史学者が呼ばれる。同時に夫から呼ばれていたのは黒い長い司祭服を着てやってきた保守的な教区の司祭だった。彼は死にゆく男の最後の告解を聞いて赦しを与えてから終油の秘跡を与えて魂を天国に送るというのだ。

男は幼児洗礼は受けているが、教会から離れた無神論者だったはずだった。

妻も友人たちも驚く。

男は人格者であり、友人である司祭にとっては、無神論者であろうとなかろうと、男はその愛のわざによって救われている。告解をきいてやるなど考えたこともなかったし、男がそれを望んでいるのも知らなかった。

男の妻は、男が自殺するのをとめたい。


告解して秘跡を受けたその後で自殺しても天国に行けるのですか?

と司祭にたずねると、それはダメ、地獄に堕ちる、と保守派の司祭は断言する。


それを聞いている進歩主義の司祭は苦笑い。

彼にとっては、神はイエス・キリストを送って人の心につながることでアダム以来の罪を救ったのであって、何をどうしたらどこに行くとか行かないとかの理論はもはや本質的ではないからだ。

けれども、死の瀬戸際にある人間にとって、は元気な頃の思想信条がどうあれ、救われるのか救われないのか、などという言葉のディティールが思いがけない重みを持ってくる。


宗教史の女性学者マリーは、アリウス派についての研究書を出していて、保守派の司祭もそれを読んでいた。

何が異端で何が正統になってきたのかという歴史を研究していたら、その産物のひとつである一教派の教えを絶対化する教条主義など無知蒙昧の証しであると見えてくる。

「あなたのように、カトリック教会が人を脅かすための古臭いメソードである地獄をいまだに振り回している人を見たら、カトリックを捨てた自分の判断が正しかったとあらためて思うわ」、とマリーは保守派司祭をあざ笑う。

 

果たして、死の床にある男が3人にあてた手紙が開かれ、その中には、若い頃に誤って犯した殺人についての告白が記されていた。

死が近づくにあたって、その罪の重さは彼を苛み、社会的には時効が成立しているが、司祭による神の「赦し」を必要とする心境になったということであるらしい。

衝撃が走る。


自分たちの第一の務めは「魂を救う」ことだ、と「やる気満々」の保守派司祭。


死の前の弱い状態だからと言って、友人がそんな蒙昧の世界に舞い戻ることは許せない、正気ではない、と思う歴史学者。


そして、今そこにいる「友人を愛し、寄り添う気持ち」の方が、所詮神の業でしかない「魂の救い」に優先するという実感の中にいる進歩派の司祭。

その彼も、友人が、「魂の救い」について司祭である自分に頼ってくれなかったこと、別の司祭を呼んだことに対しては苦い思いを禁じ得ない。

そういうそれぞれの思惑が、ただただ絶望し嘆きわめく、男の妻のつくり出す絶望と怒りの空気の中で微妙にからみあってくる。


「死ぬ時まで神を信じ続けられるのか」「死ぬ時にこそ神を信じられるのか」、などのいろいろな人間的な疑問が2人の司祭と反カトリックの学者との間で互いにエスカレートしたり壁に突き当たったりする。

うーん。すごくフランス的だ。

結局、一見かなり「普通のフランス人家庭」であったこの「夫婦」であろうと、司祭になった男たちであろうと、どういう立場であれ、もとは「普通に幼児洗礼を受けた人たち」であるわけだ。それが、長じて無神論的イデオロギーに出会ったり、あるいは普通の意味で、子供が親の影響から逃れ出て自立する過程の一部として、「カトリック的なもの」と決別したりする。

その中で敢えて、「イエス・キリスト」と出会った者、「呼ばれた」者は、司祭の道を選ぶが、その間には「信仰の夜」を経験するなどいろいろな試練がある。それらを経て、なお司祭としてとどまった者は、「信仰」を内的なものとして人々との愛の中に生きようとするか、人々との「魂の救い」のためにがんばるか、という道に分かれる。

日本なら、神社でお宮参りをしたとか七五三を祝ったとかいう「家庭の行事」について大人になってからその宗教的意味を自問する人などまずないだろう。クリスマス・ツリーのそばにあるサンタクロースからのプレゼントをもらった思い出について宗教的なアイデンティティに悩む人もいないに違いない。

キリスト教の歴史についていろいろな角度から調べているという点では、この芝居の中に出てくるマリーと私は似たような立場だ。異端の歴史を始めとして歴史的展開を見ていると、いわゆる教義のようなものがどんどん相対化されていくのもよく分かる。

でも私の場合は、それによってキリスト教の呪縛から解放されていくというのはない。最初から縛りがないからだ。

神が存在するとかしないとかを考えることなしに初詣で手を合わせて賽銭を投げることに抵抗がない多くの日本人と同じく、現実のキリスト教の組織が官僚化していようが偶像崇拝があろうが、それに対する拒否感から神を信じられなくなる、というような深刻な悩みなしにキリスト教シンパとして研究もすることができる。

神との関係も多分、良好。神が困っていたらなんとか助けてあげたい。

たとえ神と出会えなくとも、神を探している人たちと出会うのは大好きだ。

日本でなら、こんなふうに言ったところで、「無神論者」から馬鹿にされたり攻撃されたりすることもない。

でも、フランスで、こういうテーマを正面から取り上げるのは、21世紀の今でもやはり勇気がいるだろう。無神論者を攻撃するイスラム過激派との確執が深くなっている今ではさらに微妙なテーマだ。

芝居が終わってからイエネールと話した。

今回はThéâtre du Nord Ouestの小さいほうのホールが使われた。

観客は15人か20人くらいだった。席が全部埋まっても30人くらいしか入らない。

この芝居については、今回こちらのホールを使いたかった、ここでは、観客の重力が伝わる、感じられるとイエネールはいう。500席の劇場では絶対にない感覚だという。

観客としての私は逆だ。前の席に座っていると、登場人物と1メートルしか離れていなかったりするので、そんな登場人物たちが同じ場面にいる私たちに気づいていないかのようにお話が展開するのを見ていると、まるで自分が透明人間になったような気がするのだ。

私は芝居の登場人物らを見ているのに、彼らは、私を見ていない。私は見えていない、という感覚だ。でも、役者たちは、私たちの重力をずっしり感じているというのが意外だった。いや、透明人間だからこそ、重力だけがひしひしと伝わるのかもしれない。


そこに、保守司祭の役を演じたジャン・トムが加わって、イエネールは自分とは正反対の進歩派の司祭を演じて大変だったよね、みたいなことを言った。イエネールは、いや、愛し合うという福音が一番重要だというのはぼくの意見でもある、と答えた。

イエネールはがちがちの保守派と見られているとでもいうのだろうか?

カトリック作家であると自動的にそう思われるのだろうか。

私は彼の著作をキリスト教についてのものも含めてかなり読んでいるので、彼のリベラルなアーティストの感性と、信仰の真摯さというもののバランスをかなり良く理解できる気がしている。神学者でもあり、「受肉の演劇」「キリスト教戯曲」の意味を追求し続けるイエネールの文字通りすぐ近くでたまに時間を過ごせることは本当に贅沢だと感謝する。もっと続きますように。


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by mariastella | 2017-11-20 00:05 | 演劇

連続テロから2年、今のパリのテロの危険性は?

最近、パリの連続テロから丸2年ということで、13日のニュースでは犠牲者の話を聞いて感極まるという表情のマクロン大統領の顔が何度もクローズアップされていた。


そういえば去年の1周年にはこんなにメディアに取り上げられなかったなあ、というのは、去年の夏のニースのテロの方がまだ生々しくて、日付も革命記念日の7/14だったから、まだ11月の段階では、14日が事件後4ヶ月という取り上げられ方をしていたので、13日の「記念日」の影が薄かったのかもしれない。


2年前のテロは、まだシリアのIS軍が司令塔になっていて、難民としてヨーロッパに入ったジハディストなども動員した「組織テロ」だったけれど、去年のニースのテロはそれ以来デフォルトのようになった「ISに触発されて勝手に過激化した一匹狼」のカテゴリーだった。


この方が、事前に見つけ出すのが難しい。


今年は、ちょうどイラクとシリアのテリトリーからISが駆逐されたタイミングなので、一見、「テロに勝利した」のように見えるが、実は、政府軍がラッカを奪還する時に、ジハディストたち数千人が堂々と車列を組んで出ていく映像が最近映されて衝撃を生んでいる。


テロとの戦いを「戦争」と呼んでいたのだから、普通の戦争ならばこの段階で相手の「戦士」はまとめて捕虜になるはずなのに、見逃しているわけだ。


ISは一般人を盾にして道連れにしようとしていて、ラッカではすでに一般人への被害が大きかったから、政府軍は、ISと取引をしたということらしい。石油の引き渡しなども関係しているだろう。結果として、一般人を残して出て行ってくれれば見逃すということになった。だから少なくともIS軍一部はトルコに入るだろうし、そこからヨーロッパの「出身国」に戻る者も少なくない、と言われている。

いや、ラッカなどが「陥落」する前から、ISで培ったノウハウや武器をもとにして「聖戦」の拠点をシリアから欧米の不信心国での個別テロに移すとして「戻ってきた」あるいは「難民として流入した」ジハディストとその家族をどうするか、というのはもうかなり前から大問題になっている。子供も8歳未満は危険がないが、それ以上は洗脳を解くプログラムが必要だ、など。


先日Arteのドキュメンタリーで、シリア系アメリカ人やら、シリアとドイツを行き来しているシリア人(ドイツ生まれのドイツ国籍だが反アサド政権に共鳴してシリアに行き反政府軍として戦っていた。その後ISの流入後にドイツに戻った人)らが、難民収容所にいる「危険人物」の一人ひとりに密着してその危険度を測っている様子を流していた。

難民と認定されてドイツに受け入れられたのは、ISの兵士ではなく、もとの「反政府軍」の兵士だった若者だ。彼はアサドの兵士として徴兵された時、同国人を殺戮する命令を拒否して拷問され、逃げ出してアサド政権に反旗を翻した人だった。最初はこの反政府軍が、非人道的なアサド政権を非難する「国際社会」の支持を得ていた。


そこにIS軍がやってきた。彼らもアサドを倒すという。反政府軍の多くがISに入らないままで彼らと共闘することになった。でも第一の理由は、ISに金があったからだ。もともと苦しい戦いを強いられている反政府軍の兵士は、安定してISからもらえる「給料」になびいた。イスラム原理主義への洗脳も同時に行われただろう。

ドイツで難民の危険度を測るシリア人も、もと反政府軍にかかわっていた人で、反政府軍の全リストを持っている。その中で、ISに追われてすぐ亡命したのではなくISと共闘してからドイツに難民として入った者を徹底してチェックしているわけだ。


同じシリア人として何度も話し合い、本音を引き出し、ドイツで個別テロをするリスクが高いかどうか、の判断を下す。

一人一人に長期間の観察でこれだけの時間をかけなければならない。

気の遠くなるような作業だ。


でも、いやしくも一人の人間が他の人間を「聖なる確信をもって殺す」ような精神状態に一度でも追い込まれたのだとしたら、その一人の人格の底に分け入っていくのは並大抵の仕事ではないのだろう。

同じいろいろな体験をしてきたシリア人同士だからこそそこに踏み込めるし、理解もできるのだ、とこの番組を見ていて思った。


同時に、例えばフランスだけでも何百人も「戻ってきている」テロリスト予備軍にどう対処するかというのは、諜報の精度、収容場所の不足、専門家の調達、予算、時間などさまざまな問題が山積みで、結局は、これから一匹狼的なテロがまた起こる可能性はこれまでよりはるかに大きいと言われている。


まずい時にまずい場所に居合わせたら、これからもだれでもテロの犠牲になり得るということらしい。


それでもたくましく生きているフランス人がほとんどなので救われる。

ミサイルからの避難訓練などをさせられるよりよっぽどましだ。


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by mariastella | 2017-11-18 01:59 | フランス

エドガー・ブレグマンとマクロンの「改革」

フランスではマクロン政権の支持率を一気に下げた労働法改正案が一応のまとまりに達した。今のマクロン新党絶対多数の議会では「強行採決」だって可能だが、そこは、どこかの国と違って、議会にかける前に主権者に徹底的に説明して理解してもらう、と首相が言っている。

確か、9/23にはメランション主導の大規模ストが予定されているはずだ。


フランス人労働者の半数が属しているという中小企業(社員250人以下)の経営者や多国籍企業にとってはより効率的で「やりやすい」方向になっていると歓迎されている。


私はそもそも「経済成長ありき」の考え方そのものに賛成できないので、暗澹としている。


でも、フランスよりずっと「改革」が進んで失業率が低いはずのドイツでも、年金の平均が月1100ユーロだそうで、年金だけでは暮らせない人々が高齢になっても結構ハードな非正規労働に従事している人たちが紹介されている番組を見た。病気になったらどうなるのだろう、と不安を口にしていた。

こういうのを見ていると、大統領選の予備選に勝ったのに本選では惨敗した社会党のブノワ・アモンが唱えていたユニヴァーサルなベーシック・インカムをのことを考えてしまう。彼は非現実的だと右からも左からも叩かれていた。

でも、ブノワ・アモンだけではない。トマス・ペインやミンカム運動や、そして最近では若きルトガー・ブレグマンのこともしきりに頭に浮かぶ。

で、ブレグマンの日本語表記は何だろうと思って今検索してみたら、なんと、『隷属なき道』というタイトルで文藝春秋社から訳本が出ていて、出版記念に日本で講演までしていることが分かった。


彼は「昨日のユートピアが今日の現実」になるという歴史を通して、今ここでユートピアを目指すことの意味を説く。「現実主義」に立脚していては環境破壊や格差の増大など、むしろマイナスの側に滑り落ちるからだ。


この見方は私の見方と一致している。


それにはまず、この世界で、自由度、平等度が高まり、あらゆる人が尊厳を持ってそれぞれの人生を全うできる可能性が増大すること、が、進歩であり善であるという認識が共有されていなくてはならない。


自由主義や民主主義は「西洋から押し付けられた価値」だから「日本本来の伝統価値」に戻ろう、などという言説は今でもある。

それは間違っている。「西洋」だって今の価値観をいろいろな失敗と反省から抽出してきたので、決して「伝統的」などではなかった。伝統的なのは古今東西、父系制維持のエゴイズムだ。

「自由・平等・博愛」など、主流秩序(アメリカの白人だとか、金融業の成功者だとか、軍産業者とか)にいる人たちにとっては十分に不都合な「押し付けられた」価値観である。

その価値観に基づく世界の実現など程遠い。


それでも、その価値観を共有したからこそ、形だけでも奴隷制は廃止したし、形だけでも植民地は手放したし、形だけでも男女同権を実現したし、社会保障を制度化した。ともかく「昨日のユートピアが今日の現実」になっているのだと若いブレグマンが評価してくれるということは、まだまだ希望を捨ててはいけないということだろう。


「労働法の改正」と言っても、私の同世代の人たちは多くが定年後の年金生活者なので、資産のある人たちは世界中を旅行して楽しんでいる。

ベーシック・インカムがあれば人は自分のやりたくない仕事を斥けることができて、自分に向いた仕事に挑戦できるのだも言われる。

「労働」とは「生産」なのか、「生活の糧を得るための営み」なのかとあらためて考えてしまう。

年金で暮らしていける人々には「労働から解放された」と「自由を謳歌」するスタイルをとる人が多いからだ。

そんな人たちを身近に見ていると、毎日「仕事」している私は複雑な気持ちになる。

「好きな仕事をしている」と言われるかもしれないが、「仕事」と名がつけば必ず負荷があり、自己管理も必要だし、楽しくてしょうがないという気分でやれるわけでもない。私の周りの人が「悠々自適」というのをやっているのになぜ私だけそれこそ貧乏くさく禁欲的な作業をやっているのかなあ、とふと思うこともある。


新約聖書にぶどう園で日雇いされる労働者が、夜明けから働いた人も午前九時から働いた人も最後の一時間だけ加わった人も夕方には同じ額の支払いを受けたので、労働時間が長かった人が文句を言った、という有名なたとえ話がある。(マタイ20, 1-16)

支払う側は、最初に合意した条件を守ったのだから文句を言われる筋はない、と言う。

この、ブドウ園の給料がベーシック・インカムなのかもしれない。

そしてベーシック・インカムを想像しただけで不当感を持ったり、搾取されていると感じたり、嫉妬したりする人が必ずいることもこのたとえ話と同じだ。


キリスト教や福音書は「欧米」のお話ではない。

二千年前のパレスティナの話だけれど、いつも革命的で、いつもシビアだ。


仕事って、何だろう。




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by mariastella | 2017-09-02 05:07 | 雑感



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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