L'art de croire             竹下節子ブログ

タグ:フランス ( 18 ) タグの人気記事

ジャック・オディアールの『預言者』

先日、Arteで、2009年のジャック・オディアールの『預言者』を放映していたので観ることにした。
オディアールのその後の作であるヴァイオレントな『ディーパンの戦い』を観てしまって、まあ後悔はしなかったからだ。

何度も書くが、もうこれからの余生、悪夢に材料を提供するような暴力、流血、戦争、ホラーなどの映画はできるだけインプットしないことに決めている。だからこそ、2009年にカンヌのグランプリやその他を獲得して評論家から絶賛だったこの映画、オディアールは気に入っている監督(『真夜中のピアニスト』がよかった。今検索するとブログにコメントが見つからなかった)だけれど敢えて無視したのだ。

で、観た結果は…。

ううん、これが2009年の作品で、刑務所のハーヴァードと言われるセントラル刑務所で、最初はコルシカのマフィアが仕切っているのに、どんどんとイマム風のイスラム原理主義者みたいなのが入ってきて、世代交代する様子がリアルで、2012年以降にフランスで再開されたイスラム過激派のテロの背景を想起せざるを得ない。

タハール・ラヒムの演じる19歳の刑事犯は、入所した時に刑務官から宗教は何か、豚肉は食べるか、などと聞かれても、「?」という感じの、イスラム、それってなあに、という若者だった。ムスリムである親の権威が移民先のフランスで地に落ちて家庭からも社会からもドロップアウトして犯罪に手をそめた若者だったのだ。

一種のビルドゥングスロマン、イニシエーションもの(最後に象徴的な「父殺し」のシーンもある)になっていて、彼がサバイバル術にも長け、頭も悪くないことは、コルシカの男たちのコルシカ風イタリア語のやり取りを聞いているうちに理解して聞いたり話したりできるようになったことからも分かる。だからこそ、他のコルシカ仲間が出所して一人になったボスのセザールの右腕となり得た。(主人公が移民二世の出自によりアラビア語も自由に話せることも、後にコルシカ組からムスリム組に乗り換える通行手形となったのはもちろんだ。)

このボス(マクロンのように真っ青な目が印象的なニルス・アレストリュプ)が、コルシカ風カトリック洗礼名風ではなくてローマ皇帝のカエサル(セザール)と呼ばれていることも、後にイスラムのアイデンティティを獲得した主人公との関係においてシンボリックである。
「ローマ皇帝」から、イスラムの預言者ムハンマドに鞍替えするような含意が透けて見える。

それはそれでおもしろい。

オディアールは、もともと、タイトルをボブ・ディランの「You Gotta Serve Somebody 」にしようと思っていたという。それは、「人は誰でもだれかに仕えなくてはならない」という意味で、本来なら、これは、キリスト教文化圏の伝統においては、仕えるべきだれかというのは「小さな者」、弱いものであり、その中に十字架に架けられたキリストを見よ、ということにつながる。けれども現実の社会では「長いものの巻かれろ」だったり、「強いものに服従しろ」だったりしなくては生きのびることができない。

一方で、狭量な利己主義から脱して、すすんで他者に仕えることができてこそ真の大人、というメッセージがあり、
もう一方で、自己中心な子供の態度から脱して、既成のヒエラルキーの中におさまって忠誠を誓え、のようなメッセージがある。

自分の世界にしか生きていなかった子供や若者が、「世間」を発見するという方向にも実は正反対のものがあるということだ。オディアールも、このタイトルの持つ「道徳的」次元と「運命論的」次元の二面性に惹かれるという。けれども、それにぴったりのフランス語が見つからないので『預言者』(しかしフランス語では「ある預言者」「一人の預言者」であって、イスラムの最高最終預言者であるムハンマドではない)としたという。

結果的に、テロ以来次々と明らかにされた「刑務所におけるイスラム過激派による洗脳」の実態を2009年に明らかにして見せたという「予言」的作品になったわけだし、内容とはミスマッチのこのタイトルの思わせぶりも、この映画の玄人受けの理由の一つになったと思う。

で、フランスの刑務所で何が起こっているかというと、

刑務所の外のフランス社会ではお題目として逃がられないユニヴァーサリズム(普遍主義)とは対極にあるタブーであるコミュノタリアリズム(共同体主義)や部族主義が支配しているということだ。

共同体主義の社会では普通のロビー活動や根回しなどと同様、刑務所でも、囚人の形成するグループと刑務官との癒着も存在する。

そして、刑務所のような自由を奪われた閉鎖空間では生きのびるために誰でもどこかのグループ、できれば一番強いグループに忠誠を誓って、使命を果たさなくてはならない。
映画の主人公は、若く、いわば白紙の状態で投げ込まれたわけで、ある意味、適応の優等生としてイニシエーションを潜り抜け、自分の地位を確立していく。

出所した時には、「大人」になっている。

結局、「弱い者」に仕えるとか、自己犠牲とかいう方のベクトルは完全に切り捨てられている。
そういうことをしていたら、十字架につけられて一巻の終わり、の世界で、「復活」もない。

「贖罪」の暗示はゼロだ。

過酷な試練や変身にかかわらず、主人公の青年らしい優し気な顔と視線が最後まで変わらず、子供を抱き上げる最後のシーンだけが多少暗黒に沈む感じをやわらげているけれど、カタルシスも救いもない。

暴力、流血シーンも一種淡々とドキュメンタリー風に語り進める手法は興味深いと言えなくもないが、私にはやっぱり忌避したい種類のものであり、さらに、全体の基調となる、力の支配、テストステロンの支配、を見せつける空気は絶対に反対なので、こんな映画を若者たちに見てほしくない、と心から思う。

[PR]
by mariastella | 2017-05-13 07:24 | 映画

マクロンとフランス語

トランプ大統領の語彙が貧困だというのは有名だ。
日本の首相たちも漢字の読み方を間違えていることを何度も指摘された。
サルコジは俗語を使ったり悪文を弄したりしていた。
オランド大統領も文法の誤りを指摘されたことがある。

フランスでは「フラランスとはフランス語」だと言われるくらいに、フランス語への思い入れは深い。

マクロンは高校の演劇で出あったフランス語の教師と恋に落ちたくらいだからフランス語の能力は高い。
今回の大統領選で彼の勝利を決定的にしたマリーヌ・ル・ペンとの最終討論で彼が披露した語彙は話題になった。

若いのに古臭い言葉を使う、と言われもしたけれど、文学や哲学の教養は確かだ。

リストに上がった単語は、

La poudre de perlimpinpin

Galimatias

Saut de cabri

Antienne

Broutard


どれも文脈で大体わかるけれど私が使ったことのない言葉ばかりだ。
ペルランパンパンなんて、オノマトペが語源で、これですっかり有名になってyoutubeで出回った。
私も使ってみたくなる。

最後のBroutardは全く知らなかった。
その他にも、別の折に、イタリア語由来の In petto  やアラビア語由来の Chicaya なんて言葉を使っている。

私はバロック・オペラの歌詞を知っているし、古典もまあ読んでいるから、古臭い言葉は割と分かる。
今の若者の俗語や略語やネットの言葉みたいなのはフランス語でも日本語でもよく分からない。

どちらにしても、39歳の新大統領の語彙が豊富でうまく使いこなせるというのは「フランス」にふさわしい。

マクロンと言うとロスチャイルド投資銀行で働いていたということで「金持ちの手先」のように批判されるわけだけれど、マクロンの前にはポンピドー大統領もロスチャイルド銀行で働いていた。ポンピドーも詩に造詣が深くフランス語の教養があった。

そういえば、当選の夜のルーブルのピラミッドの前でのスピーチで、歩いてきた時はEUの歌である「喜びの歌」だったけれどオーケストラ演奏のみで歌がなかった。
ベートーベンでドイツ語だから、それでなくともEUはドイツに牛耳られているというル・ペン女史の言い分を想起させるようなミスをおかすことはできない。
スピーチの後のフランス国家の「ラ・マルセイエーズ」は曲だけでなくフランス語の歌詞をマクロンも人々と共に歌っている。
そのシンボリックな意味は小さくない。

スピーチの背景のピラミッドをフリーメイスンだという人もいたが、三角形は天と地を結び、三位一体の「父と子と聖霊」が共和国の「自由・平等・同胞愛」の三つの標語に置き換えられたことのシンボルだと言う人もいる。

サルコジが「(それまでのフランスから)断絶する」、オランドが「金融システムと戦う」などと言っていたのに対してマクロンは「愛を持って仕えます」とスピーチを結んだ。「謙虚に仕えます」とも言っていた。
その辺は完全にキリスト教の優等生的な言葉だ。

総選挙では男女半々で428人の候補を立てると今日発表されていた。
マクロンの「En Marche!」は「La République en Marche(REM)」と名を変えたようだが、EMはマクロンのイニシャルであると同時に「エム」と読め、つまり「aime(エム: 愛する)」の含意もあったそうで、言葉へのこだわりがここでも見られる。

言葉を制するものはリスペクトを得られる。
マクロンのスピーチで繰り出されるフランス語をウオッチングできる5年間になりそうだ。

[PR]
by mariastella | 2017-05-12 06:24 | フランス語

ジョルジュ・ペレックがフランスの文学殿堂入り。

ジョルジュ・ペレックがガリマールのプレイアッド・コレクションに収録されて、立派な「古典」の墨付きを得た。

で、例の有名な「eを使わない小説」である『La Disparition(消失)』にちなんで、ラファエル・エントヴェンがeを使わないで今朝のラジオでコメントしていた。すごい。(こういうの

私はクロスワード系のパズルが好きで、よくやっているが、もちろんまず注目するのはEで、eはたいてい最初に書きこめる。eを使わないクロスワード・パズルがあったら結構つらいだろう。ちょっと見てみたいが。eのないパズル。

で、まさかこの本の邦訳は日本で出ていないだろうと思ってペレックを検索したら『煙滅』というのがあった。
「煙滅」って何? でもこれが一番似ているかも、と検索したら、
やはり『La Disparition』だった。い・き・し・ち・に・・・など「i」のシラブルを使わないで訳したのだという。
だから「消失」は「し」が二度も出てくるからアウトで「煙滅」なのだ。

なかなかアクロバティックだ。
こんな技は、PSの時代でなければ不可能だろうなあ。
まず日本語をローマ字で書いてみて、i を含む言葉をすべて換えて、i が消えるまで工夫するのだろうなあと思った。

試しに今の上の文

「まず日本語をローマ字で書いてみて、i を含む言葉をすべて換えて、i が消えるまで工夫するのだろうなあと思った。」

には、

日本語の「に」と「ローマ字」の「じ」、「書いてみて」の「い」と「み」、「消える」の「き」の5文字が「い」を含む。

意外に少ない。じゃあ、書き換え。


「まず和文(または翻訳文)をアルファベットで打ったあと、i を含む言葉をすべて換えて、i がなくなるまで工夫するのだろうなあと思った。」

うむ、わりと簡単かも。

と言っても私は日本語を打つときは、日本語キーボードではひらがな入力(ローマ字入力より1.5倍のスピードで書ける)なので、量が多いとどうなるだろう。
特にフランス語の翻訳などカタカナ語が多いと、ローマ字入力はとても効率が悪い。

たとえば 「FRANCE」は6文字、日本語で書くときはこれを「フランス」と日本語で考えるからそのまま打って4文字。
けれどもローマ字入力すると「furannsu」とその倍になって、その上、アルファベットの綴りが違うから脳内で不自然な中継地点を通ることになる。昔は「腐乱酢」などと変換されることもあったっけ。

なんにしろ、言葉遊びはおもしろい。

どこかの国のリーダーたちと違ってフランスの政治家たちは語彙が豊富だから、彼らを観察する方も、やはり「語彙を広げること」が必要とされる。

でも大切なのは語彙が全体でどういう意味を持つかである。
ペレックの小説も、単にeがないだけではなく、自由とか消失、表現の縛りが内容と深く関わっているのだ。
グザヴィエ・ドランの映画『マミー/Mommy」を連想させる。
普通の映画の画面のサイズから両サイドを切り落とした形の正方形の画面は、単に斬新な試み、というだけではなく、テーマの核と結びついている。(この映画については後日書きます。映画コメントがたまっているので少しずつアップします)

[PR]
by mariastella | 2017-05-10 02:37 | フランス語

マクロンと陰謀論

フランスの新大統領について書くのはもうこの辺で終わりにしておこうと思っていたのだけれど、選出の夜の演出について「やはりそう来るか」、と予想した陰謀論が愉快だった。

夜空に赤く光るルーブルのピラミッドを背景に壇上に立った姿は印象的だった。
ルーブルのピラミッドと言えば、これはもうできた頃から、その三角形の数とか、場所とか、フリーメイスンだなんだと噂されていた。ルーブルも『ダヴィンチ・コード』などで怪しげなオカルトのイメージも作られ、マクロン自体が「神がかり」、「ミスティック」だと評され、本人も自分は超越的なものの存在を信じる、自分にはそこから発せられる使命があると感じる、などと発言している。

で、ピラミッドが赤く光り、頂点に「目」が光り、その前で両手を広げて掲げた(フリーメイスンの「コンパスと定規」の形)映像が、ネット上にすごい勢いで広がって、フリーメイスンだ、イルミナティだ、陰謀だ、ということになっている。

実際は、当初、マクロンはエッフェル党の前のシャン・ド・マルスを集会の場所にしようとしていたのをパリ市長のイダルゴに断られたのでルーブルは第二候補だった。

もっと笑えるのは、カトリック右派で、ル・ペンに投票を呼びかけていたクリスティーヌ・ブタンが、最初にマクロンが66.06%で当選というニュースを聞いたとき思わせぶりにtweetしたことだった。
もちろん、666が黙示録の獣(悪魔の数字)ということをにおわせて、マクロンはサタンの手先、アンチ・クリストだと言いたいわけだろう。(『キリスト教の謎第六章で少し説明しました)

残念?ながら、最終的には66.1%に落ち着いたので、ブタン女史の懸念が払しょくされてめでたい。
それにしても、「政治家」と名のつく人があまり考えなしにその場限りのtweetを残すのって、リスクよりもプロフィットの方が大きいからなのだろうけれど、デジタル環境は確実に政治も陰謀論も変えた。

人間が、自分たちの知覚できる「世界」とは別の「超越」的なものを感じるのは普遍的で、それをどのような表象を使って「シンボル」化していくかは、時代や場所の条件によって変わっていくものだ。
それが「教義」と「典礼」を備えると「宗教」になるし、イデオロギーが形成されると政治的党派にもなる。西洋近代はヒューマニズムの「大きな物語」を掲げることに成功したかに見えたけれど、「ポストモダン」はそれを「小さな物語」のひしめく多様性に解体した。
と言っても、人はいつも「大きな物語」の中に自分の居場所を求める。

マクロンの書いていく物語が始まる。

陰謀論について)

[PR]
by mariastella | 2017-05-09 18:08 | フランス

マラン・マレのオペラ『アルシオーヌ』

マラン・マレのオペラ『アルシオーヌ』をオペラ・コミックに観に行った。



指揮、音楽監督は、マラン・マレの音楽やヴィオラ・ダ・ガンバが日本にまで知られるきっかけになった『めぐり逢う朝』(アラン・コルノー監督)でガンバ曲の吹き替えをやったジョルディ・サバールだ。

ド・ラ・モットの台本、1706年、ロイヤル・アカデミーのために作られた典型的なフランス・バロック・オペラ。

風の神エオールの娘アルシーヌとの結婚式を迎えようとする王セイクスを3人が妨害する。アルシーヌを恋するぺレ(セクス王の親友)、セイクスが先祖の王座を奪ったと恨む魔術師フォルバス、魔女のイスメールだ。
宮殿は破壊され、地獄の光景が現れ、嵐、遭難、魔の力、バロック・オペラの要素満載だ。

舞台の演出によってだけではなく、オーケストレーションでそれを表現しようとした。ラモーで頂点に達する18世紀オペラの先駆と言える。嵐を描写した曲は特に18世紀好みで、宮廷の舞踏会でも何度も演奏されたという。


嵐の音楽。まったく古くないことが分かると思う。

でもオペラそのものは他のフランスバロック・オペラ同様、1771年以来上演されなくなった。ジョルディ・サバルは、このアルシオーヌのダンス曲を集めたCDをリリースしている。
どのダンス曲も、「受肉」していて、サバルがまずこのダンス曲のダィジェストに挑戦したのは正しい選択だったと思う。

「三一致の法則」などに則って地に足をつけた「戯曲」と違って観客を別世界に誘うエンタテインメントとして超自然の世界がデフォルトで表現されるバロック・オペラだが、ここではダンスや衣装やさまざまなからくり装置ではなく「サーカス」を使った肉体性と演技によって展開されている。

バロック・オペラとダンスの関係についてこれまでにもいろいろ書いてきた。

この記事を読むとその前のものもリンクされてくる。(長いので、興味のない人はスルーしてください)

で、簡単に言うと、Les arts Florissantsの演奏したダンス曲は「受肉したダンス曲」だったが、踊られるのではない「濃すぎる」ビジュアルが邪魔だった。

エルヴェ・ニッケの時は、ダンス曲がまるで「つなぎ」のようにさっさと平板に飛ばされていた。
今回は、ある意味でバランスは悪くない。

ダンス曲はラモーの先駆として肉体性を備えている。

ジョルディ・サバルの指揮はそれをよく生かしている。
楽器のバランスもすばらしい。

で、今やほとんどすべてのバロック・オペラで見られるように、登場人物のコスチュームはミニマムで現代的。

舞台装置はミニマムだが効果的で、紐、綱、ケーブル、ピアノ線などを駆使していろいろな効果を表すほか、裏のからくりの背景も見せる。

歌手も吊り上げられて空中で歌ったり大変だが、何よりもサーカスのアクロバットの4人が上へ下へ、あるいは大きく回転したり、体を自在に捻じ曲げたり逆さになったりするので、重力が感じられず、その意味で、音楽を損なわない。

後は、合唱のメンバーがものすごく巧い動きをしている。地獄のシーンの地を這い蠢く様子など、振付がすばらしいに尽きる。あの迫力ある演技をしながら歌うのだから大したものだ。

フランスのバロック・オペラの最初は、オペラ歌手とは「歌える役者」のことだった。
アルシオーヌとセイクス、ペレを歌うレア・ドゥサンドル、シリル・オヴィティ、マルク・モイヨンの演技も半端ではない。
その上に、台本がドラマティックだ。愛し合うカップルの姿がリアルで「ラ・ラ・ランドですか?」というくらいの近い距離感がある
同時に、ギリシャ悲劇やシェイクスピア劇のような生と死の実存的な問いまであって、客席が息をのんで静まり返る場面もある。
それとは対照的に、そこだけが室内楽に編曲されて王から何度も所望されたという嵐の曲や、誰からも愛される「水夫の行進」などは純粋に楽しませてくれる。

それでも、ジーグ、サラバンド、メヌエット、いろいろなダンス曲が出てくるたびに、せっかくダンサーもいるのにバロック・バレーが全くないのは物足りなかった。特に最後のシャコンヌ。ほんの少しだけダンスっぽい振付がある。バロック・バレーのアドヴァイスはカロリーヌ・デュクレだとプログラムにあった。懐かしい名前だ。

彼女とはパリでのコンサートで観客を誘って踊った時に、いっしょに見本を見せて踊ったことがある。
彼女はコンテンポラリーから来たダンサーで、最初に七区のコンセルヴァトワールでバロック・バレーを習いに来た時に私が上級クラスにいたのを知っている。そのせいか、もうバロック・バレーのプロとして踊るようになっていたのに私をほとんど先輩のように扱ってくれた。
そんなカロリーヌの存在を感じたのがシャコンヌの一部分の振付だけだった。その部分を見たせいでかえってシャコンヌは全部ダンスで見たかったとフラストレーションを感じた。

6月にはヴェルサイユでも上演されるという。もう一度行きたいくらいだけれどスケジュールの都合で多分無理だろう。



[PR]
by mariastella | 2017-05-09 06:41 | 音楽

大統領選から一夜明けての感想

決選投票から一夜明けて、ラジオと新聞でいろいろなコメントをチェックし、地方別、都市別、そして私や友人知人の住んでいる場所別にマクロンとル・ペンの支持率の割合を眺めて何か見えてくるものがないか考えた。

なかなか難しい。

移民やムスリムや外国人の多いところでル・ペンの支持が多いのかというとそうでもない。移民や移民の二世、三世、ムスリムなど二重国籍を持っている人も多いし、選挙権があるから、そういう人たちはみなル・ペンを嫌ってマクロンに投票する。
ル・ペンに投票する人は、イスラム過激派が怖いとかゲットーが怖い、不法滞在の外国人を追い出して過激なモスクも閉鎖して、という「分かりやすい」政策に期待するというセキュリティの動機よりもやはり経済的な動機だ。

貧困は金融経済と癒着したエリート政治家のせいで、ル・ペンならそれを一掃してくれると本気で信じているかどうかは分からないけれど、既成のシステムへの抗議の表れなのだろう。

同じようにマクロン支持も、マクロンを信じ期待しているというよりも、やはりル・ペンのやり方では実際問題として経済がもっと悲惨なことになる、という認識だろう。

総選挙の後でほんとうにル・ペンが最大野党になってしまうのか、二大政党が復活するのか、マクロン支持が絶対与党になれるのか、今回はまだまだ目が離せない。

右でも左でもない、フランスを統合するというマクロンのスローガンは、言うのはたやすいけれど、中身がない、あいまいだ、などと批判されているけれど、「統合」というものは本質的にそういうものだ。
「あいまいさ」や矛盾、葛藤のない「統合」は全体主義、ファシズム、独裁主義につながる。

イデオロギーや教義が個人の自由を奪うことに反対し続けた哲学者のジャンヌ・エルシユが
「あなたが人間の(存在)条件の問題に関わっていて、パラドクスに突き当たったなら、それはあなたが正しい道にいるということです」
というのは真実だと思う。

すごく個人的なレベルで考えてみよう。

マクロンの政策が施行されたら、可処分所得は減る。
80%の人の住居税を免除すると言うが、こういう時には絶対その恩恵にあずからないのに、株が上がっても富裕層が有利になっても、その恩恵にもあずからない、
いつも微妙に損をしている中途半端なレベルにいるからだ。
テロは怖いし嫌だけれど、分かりやすい対症療法をしても解決しないことは分かっている。根本的な、地政学的な判断と危機管理が必要で、国境を閉鎖などという無意味なことを、地続きで多数の国がひしめいてアフリカや中東とも接しているヨーロッパでやるのはなんの解決にもならない(その点は日本のような「島国」は多少の地の利があるけれど)。
グローバリゼーションの拝金主義や環境破壊や弱者の搾取は大問題だけれど、その問題を提起し、気づき、解決に努力し、行動を起こしているエリートたちも実際にいる。その声が聞こえ姿が見えるからこそ、私のような中途半端な者でも問題意識を持ち続けることができるのだ。

自分の所得や自分の安全のこまごました損得やリスクや恐れを考えるよりも、地球レベルでものを考える方が優先だと納得している。

「知性に訴える」というのを信じているといってもいい。
それがなければ人類はもう、とうに滅びていたかもしれない。

もう一つ個人的な確信は、アートには人を救う力があるということで、アートの成立には「自由」が必要だということだ。

私のすべきこととできることは、なんとなくわかっている。



[PR]
by mariastella | 2017-05-08 23:47 | フランス

マクロン勝利の夜

オペラから戻って、大統領選の結果を見て、ルーヴルのピラミッドの前のマクロンのスピーチをテレビで見た後でこれを書いている。

このブログでは大統領選とフランスのカトリックのことを書いていたので、マクロンの当選が決まった時のバイルーらのコメントを聞いて笑えた。

バイルーが「ルルドで大蝋燭を供えて」、という比喩を出したので、バロワンだったかがちょっとあせって「香を炊く、とか言うべきでしょう」と突っ込んでいたのが聞えたからだ。

久しぶりに見るドヴィルパンも、大統領になってからの孤独と責任の大きさに触れ、「これは本当のsacerdoce(聖職、僧職)だから」と形容した。

ギリシャのツィプラス首相(彼も40祭という若さで首相になった)がマクロン大統領の誕生は「フランスにとっても、ヨーロッパにとってもインスピレーションである」とコメントした。キリスト教文化圏でこういうと、「聖霊が降りた」という含意になるのでこれもおもしろい。

そういえば、先日は書くのを忘れたが、パリのカトリック教会は全体としては投票に関する意見表明は自分たちの役割ではないとしていたが、ポンピドーセンターに近いマレー地区のセント・メリー教会だけは、小教区として、司祭と信徒が協議してマクロン支持を表明した。ここは、性的マイノリティの信徒や司祭を支援する教区としても有名だ。間違ってもル・ペンを通してはいけないという使命感があるのだろう。

ル・ペンはFN(国民戦線)という名も改称して総選挙に臨む意図を表明していた。父親の時は20%を切ったのに、今回は35%程で大躍進だとも言う。このままいくと5年後は当確だ、と言いたいわけだ。
メランションは、ル・ペン女史は決選投票で二位ではなく三位だ、二位は「棄権、白票、無効票」の合計だと、コメントしていた。白票を勧めていたメランションらしい。

ルーブルでのマクロンのスピーチも、これまでのようにコンコルドやバスティーユという「フランス革命」の共和国っぽいところでなく元は王宮だから、マクロンは王党派に戻ったと揶揄する人もいた。これまでは当選者は政党の幹部に取り囲まれる姿を見せていたわけだが、マクロンは、「ひとり」(今回は第一回投票の後のように妻をいっしょに壇上に登場するというミスを避けてEUの歌である「喜びの歌」をバックに一人で進んだ)なので、「王」を演出したというのだ。でもバックには社会党のミッテランが建造したピラミッドが光っていて、ビジュアルにも、政治的にも効果的だった。

集まった人の雰囲気を「ビジネススクールの学生の祭り」と形容したジャーナリストもいた。

スピーチの中で、マクロンが何度か、「ヨーロッパが、世界がフランスを見ている」と強調していた。

それはここ数日、フランスのメディアが書き立てていたことでもある。
イギリスのEU 離脱やトランプ大統領就任の後で、欧米のナショナリズム増大が懸念されていたから注目されていたわけで、「棄権」や「白紙投票」を考えていた人々の一部が、「フランスの対面を守る、面子を保つ」のが大事だと思い始めたのだ。
フランス革命の国、ユニヴァーサリズムの国というプライドのためには、ル・ペン女史に大差で敗退してもらわなければならない、と考え直して白票でなくマクロンに投票した人々がいる。この辺のリアクションはとてもフランス的だ。自虐的なくせに実は誇り高い。

今日観たオペラのプロローグは、アポロンとディオニソスが「平和」と「戦争」のどちらが大切かを競うシーンからなる。もちろん平和や芸術の大切さを謳うアポロンが勝つ。アポロンとはもちろん太陽王ルイ14世のことを指し、このオペラの時代、ルイ14世は出征していた。戦争はしているけれど、自分の最も望んでいるのは平和なのだ、という主張が託されている。

その後のセリフにも、

「花なしには春が来ないように、愛なしには平和は来ない」

というのがあって、テロの脅威がおさまらないフランスにいて、なんだか身につまされた。(オペラについてはまたあらためて書きます。すばらしいものでした。)

[PR]
by mariastella | 2017-05-08 07:11 | フランス

フレンチ・テイストってなんだろう『アガト・クレリィ』『すべて彼女のために』

フランスに戻ってからフランス映画を2本見た。

対照的な2本だ。

ひとつは主演女優がすべてを支えるコメディで、
もう一つは主演男優がすべてを支えるスリラー。

どちらも、とてもフランス的だ。

フランス的って、一体なんだろう。

前者は、Etienne Chatiliez の 『Agathe Cléry』 ミュージカル仕立て。

ヴァレリー・ルメルシエ(Valérie Lemercier)がとにかくうまい。

白い肌用のスカンジナヴィアという化粧品売出しを担当しているキャリアウーマンであるヒロインがAddison病にかかって、肌が黒くなる。この病気は実在するらしく、ジョン・F ・ケネディも罹っていたらしい。腎臓系の免疫病。

で、ヒロインのアガトは、もともと黒人もアラブ系も差別しているレイシストだった。
その彼女の肌が真っ黒になり、職も解雇され、新しい職につくのも困難になる。

結局、白人を雇わない逆差別の会社に入り、そこの黒人社長と恋仲になったところで、突然病気が治って、また悩むというどたばたなんだが。

いわゆる社会派コメディなのだが、その差別ネタがすごーく微妙で、人種別ロビーイングの発達してるアメリカなんかではちょっと作られないし、実態もかなり違う。

フランスでは白人ヨーロッパ文化がしっかり基盤にあるところに移民やグローバル化でさまざまな差別などの問題が生まれてきている。にもかかわらず、アメリカ風のプラグマティックなコミュノタリスムを拒否してユニヴァーサリズムでゴリ押ししているという国ならではのギャグが満載なのだ。

普通の日本人が見たらその機微が多分わかんないだろうけど。
 
その居心地の悪さや意地悪視線こそ、この監督の持ち味なんだけれど。

でも、ヴァレリー・ルメルシエが、白人の時も、黒人の時も、輝いてる時も泣いている時も、とにかくかっこよくて、彼女の才能と個性が文脈やストーリーにあるわだかまりを吹き飛ばしてしまう。

また単純に考えても、顔立ちが変わらないのに皮膚の色だけがラディカルに変わるだけで、人はこれほどアイデンティティが揺らぐのかというのはあらためて衝撃的だ。 
しかも服を着てるから、皮膚の色なんて、ほんとに顔と手くらいなんだけど。
だとしたら、シワやしみ一つで女性が大騒ぎするのも無理はないのか。

Bluemanというパフォーマンスがあるが、彼らは頭もスキンヘッドをブルーに塗っている。
でも、顔立ちは白人で、体格もいい。ブルーマンが小柄な黒人やアジア人とか、プエルトリコとかの特徴を持っているって、興行コンセプト的にないような気がする。青いからこそ、白人男性型アンドロイド、みたいな倒錯的差別感を隠してるのかもしれない。

黒髪の日本人にとっては、歳とって総白髪になる変化もラディカルだ。
実際、プラティナ・ブロンド系の人は、白髪まじりになっても目立たない。
しかし、髪の方は、歳にかかわらず、色をころころ染め替える人も多い。
昔の日本人は白髪染めしかなかったけど、ヨーロッパでは昔から髪の色は帽子の色みたいなファッションの一部だったし。

黒髪の日本人がある日、金髪で現れたら、人は、単に、髪を染めたんだなあ、と思う。
でも突然まっ黒い肌で現れたら? すぐにはその人だと認めてもらえないかもしれないのだ。

外にさらしている肌というのは社会的だからだ。
大きい絆創膏をして現れるだけで、場合によっては釈明を要求されたりする。
差別とか個性とか偏見とはなんだろう、と、考えさせられる。

2本目は、

Fred Cavayé  の デビュー作『Pour elle』 (邦題『すべて彼女のために』)

 
タイトルからしてフランス的だ。
 
ヴァンサン・ランドン(Vincent Lindon)が主演。
 
妻子と幸せに暮らしてたリセの国語教師の生活が一変する。
 
妻が冤罪で20年の懲役刑になったからだ。
主人公のジュリアンは、妻を脱走させて、息子と3人で国外逃亡を企てる。

痛快といえば痛快だが、このVincent Lindonという俳優は、アンチ・ヒーローとまではいかないが、すごく普通のフランス人である。つまり、全然アメリカ人やイギリス人やゲルマン人やラテン人に似ていない。堅固とか頑健とか陽気とか峻厳とかマッチョとかではなく、少し軽目でいいかげんな男。

映画の最後にも、警察が驚いて、こいつって、リセの教師だぜ、「Monsieur Tout le Monde 」(どこにでもいる男、只野ひとしさん)なんだ、と慨嘆するシーンがあるが、この「普通のフランス人」ぽさの変身が、ストーリーを支えてる。

スーパーマンが私生活ではちょっとな情けなかったり、という「影のヒーロー」的シチュエーションは結構アメリカ的だと思うけど、Vincent Lindonはちょっと違う。サム・ペキンパーの『わらの犬』なんかでおとなしかったダスティン・ホフマンがきれてしまうようなのとも少し違っている。

その辺もフレンチ・テイストとしか呼びようがないんだが。

 

[PR]
by mariastella | 2009-01-11 21:06 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧