L'art de croire             竹下節子ブログ

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マクロン勝利の夜

オペラから戻って、大統領選の結果を見て、ルーヴルのピラミッドの前のマクロンのスピーチをテレビで見た後でこれを書いている。

このブログでは大統領選とフランスのカトリックのことを書いていたので、マクロンの当選が決まった時のバイルーらのコメントを聞いて笑えた。

バイルーが「ルルドで大蝋燭を供えて」、という比喩を出したので、バロワンだったかがちょっとあせって「香を炊く、とか言うべきでしょう」と突っ込んでいたのが聞えたからだ。

久しぶりに見るドヴィルパンも、大統領になってからの孤独と責任の大きさに触れ、「これは本当のsacerdoce(聖職、僧職)だから」と形容した。

ギリシャのツィプラス首相(彼も40祭という若さで首相になった)がマクロン大統領の誕生は「フランスにとっても、ヨーロッパにとってもインスピレーションである」とコメントした。キリスト教文化圏でこういうと、「聖霊が降りた」という含意になるのでこれもおもしろい。

そういえば、先日は書くのを忘れたが、パリのカトリック教会は全体としては投票に関する意見表明は自分たちの役割ではないとしていたが、ポンピドーセンターに近いマレー地区のセント・メリー教会だけは、小教区として、司祭と信徒が協議してマクロン支持を表明した。ここは、性的マイノリティの信徒や司祭を支援する教区としても有名だ。間違ってもル・ペンを通してはいけないという使命感があるのだろう。

ル・ペンはFN(国民戦線)という名も改称して総選挙に臨む意図を表明していた。父親の時は20%を切ったのに、今回は35%程で大躍進だとも言う。このままいくと5年後は当確だ、と言いたいわけだ。
メランションは、ル・ペン女史は決選投票で二位ではなく三位だ、二位は「棄権、白票、無効票」の合計だと、コメントしていた。白票を勧めていたメランションらしい。

ルーブルでのマクロンのスピーチも、これまでのようにコンコルドやバスティーユという「フランス革命」の共和国っぽいところでなく元は王宮だから、マクロンは王党派に戻ったと揶揄する人もいた。これまでは当選者は政党の幹部に取り囲まれる姿を見せていたわけだが、マクロンは、「ひとり」(今回は第一回投票の後のように妻をいっしょに壇上に登場するというミスを避けてEUの歌である「喜びの歌」をバックに一人で進んだ)なので、「王」を演出したというのだ。でもバックには社会党のミッテランが建造したピラミッドが光っていて、ビジュアルにも、政治的にも効果的だった。

集まった人の雰囲気を「ビジネススクールの学生の祭り」と形容したジャーナリストもいた。

スピーチの中で、マクロンが何度か、「ヨーロッパが、世界がフランスを見ている」と強調していた。

それはここ数日、フランスのメディアが書き立てていたことでもある。
イギリスのEU 離脱やトランプ大統領就任の後で、欧米のナショナリズム増大が懸念されていたから注目されていたわけで、「棄権」や「白紙投票」を考えていた人々の一部が、「フランスの対面を守る、面子を保つ」のが大事だと思い始めたのだ。
フランス革命の国、ユニヴァーサリズムの国というプライドのためには、ル・ペン女史に大差で敗退してもらわなければならない、と考え直して白票でなくマクロンに投票した人々がいる。この辺のリアクションはとてもフランス的だ。自虐的なくせに実は誇り高い。

今日観たオペラのプロローグは、アポロンとディオニソスが「平和」と「戦争」のどちらが大切かを競うシーンからなる。もちろん平和や芸術の大切さを謳うアポロンが勝つ。アポロンとはもちろん太陽王ルイ14世のことを指し、このオペラの時代、ルイ14世は出征していた。戦争はしているけれど、自分の最も望んでいるのは平和なのだ、という主張が託されている。

その後のセリフにも、

「花なしには春が来ないように、愛なしには平和は来ない」

というのがあって、テロの脅威がおさまらないフランスにいて、なんだか身につまされた。(オペラについてはまたあらためて書きます。すばらしいものでした。)

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by mariastella | 2017-05-08 07:11 | フランス

改宗と宣教の違い?

フランス語と日本語のニュアンスの差に愕然とすることが最近いくつかあった。

ひとつはカトリックに関する日本語のサイトで、エキュメニズムを批判している記事の中で日本のカトリック教会が他宗派や他宗教を招いて祭壇の前でみな並んで云々というのを批判している人のものだった。

他の宗教の人が祈りを捧げる時に十字架や聖体の前ではまずいだろうからと十字架を外したり聖体櫃の場所を移したり云々とというのはいかがなものかという話もあった。

パリの仏教のパゴダでよく行く諸宗教の平和の祈りなんかの行事では、どでかい金ぴかの仏像の前でイスラムもユダヤもキリスト教も平気でパフォーマンスをしているのを見ても誰も何も思っていなかったけれど…。

で、カトリックは他の宗派をリスペクトするあまり、自分の教会で何かをする時に遠慮しすぎている、とかいう文脈で、何しろ「改宗は教会法で禁じられているから」とあった。
まあ教会法の前後を読めば、禁止されているのは「改宗の強制」「強制的な改宗」だと分かるし、それには、帝国主義の歴史の中で、カトリック教会が行ってきた強制改宗の歴史などを反省してという文脈も分かるのだけれど。

それにしても「改宗が教会法で禁止」って、「宣教しても改宗させるな」ということだと誤解を招くのではという人がいるわけだ。

この話は2009年8月のマニラでのアジア司教協議会総会というところで教皇名代のアリンゼ枢機卿が「福音宣教は即改宗を意味しない」ことを強調した、と日本の司ある司教が報告して「改宗させることは教会法でも禁じられているという。」と書かれたことへのリアクションらしい。

実際に枢機卿が述べたのは、

 Papal delegate Cardinal Francis Arinze opened an assembly of Asian bishops in Manila, stressing the Eucharist's transforming power, and emphasising evangelisation rather than "proselytism, which is forbidden by canon law."
だそうで、

Proselytism, on the other hand "seeks to influence people to embrace a certain
religion by means that exploit their weak position or put some other pressure on
them," he said.

ということだ。

で、問題となる「教会法748」というのは

「すべての人は、神及びその教会に関する事柄の真理を探究する義務を有する。かつ、認識した真理を受け入れ、保持する神法上の義務及び権利を有する。なんびとも、他者の良心に反して、カトリック信仰を強制することは許されない。」

というもので、要するに「信教の自由」という基本的人権思想にのっとったものだ。
キリスト教が最初は迫害されてきて、後にローマ帝国の国教となるなど政治と結びついた時点から迫害する方に回ってきて、などという歴史の末に、たどりついたものだ。
そういう歴史を背負っていない宗教がメインの文化圏では、近代理念としての「信教の自由」を言われても受け止められ方の実際はわからない。

で、この「改宗」のproselytismはフランス語では「prosélytisme」。

Prosélyteはギリシャ語では新参者という意味だったけれどラテン語のproselytusになると改宗者ということになる。

(マタイによる福音書/ 23, 15
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。 )など。

これも文脈から見ると、強引に教義を押しつけるという感じである。

20世紀末からは完全に「カルトの勧誘」に使われて、ネガティヴな意味になった。

だから私などはフランス語でプロゼリティスムと聞くと、「カルト宗教の勧誘」くらいしか連想しない。

「正しい宗教」「老舗の宗教」は勧誘しないし、してはいけない、みたいな感じだ。

アメリカの教会が米軍を通じてアフガニスタンで大量に聖書を配ったり、リビアのカダフィがイタリアで聖書を配って「イスラムは全ヨーロッパの宗教にならなくてはいけない〉と言ったりしたのはプロゼリティスムだと言われる。
「強制的」というより「しつこい勧誘」というイメージだ。

でもフランスのカルト規制法などで言われるカルトの勧誘のプロゼリティスムは、基本的に弱者への勧誘を指す。キリスト教だろうが何だろうが、学校、病院、高齢者施設の中や近隣での勧誘は禁じられている。未成年や心身が弱っている人には「入信」への自由意思を行使できる能力が十全ではないとみなされるからだ。

大地震などの被災地に援助とともに布教する団体もたくさんあるし、日本でも新興宗教や新宗教と呼ばれるものが、共同体から疎外された人や社会的な不全感をもって悩んでいる人などにターゲットを絞って、(中には保育所という枠を使ってまで)「布教」「勧誘」がされることが多かった。
マーケッティング戦略としては当然かもしれない。

老舗宗教は代々の信者がいるのでそういう必要がないともいえる。

カトリックはヨーロッパの老舗宗教だが、民族宗教ではなく普遍宗教で、地縁血縁も関係なくすべての人を救う、ということになっている。
もともとヨーロッパに広まったのも、先住のギリシャ・ラテン人やケルト人のいたところに「移動」してきた「異教徒」のゲルマン人が勢力拡大戦争を通して「統合」のために採用したものだから、その後の覇権主義とも相性がよかった。
内部で分裂して大規模移民や内戦を繰り返してきたので、まあそれらの「経験資産」が豊かで、それを本当の意味で「普遍的な救い」に結びつけるように進化するだけの知性もあったということなのだろう。

だから教会法の言葉はその智慧の結集だとも見える。

まあ「信教の自由」にまつわる「良心」に反してとか「良心に従って」とかいう「良心」という言葉自体がまた大問題で、キリスト教的な特殊な含意なしには考えられないのだけれど。
 
ともかくそんな「プロゼリティスム」がただ「改宗」と訳されると、確かに変だ。

改宗という日本語をフランス語にしたらむしろconversion(回心)だ。それは「人からの勧誘」というより「神からの呼びかけ」とか「聖霊の働き」によって改宗するというイメージだろう。

日本語でも、「布教」という言葉はやめて「宣教」になったそうだが、布教だと無理やり広めるニュアンス、「宣教」だと福音を勝手に宣言するだけだから強制するわけではないですよ、という感じなのかもしれない。

それでなくとも日本のカトリックは、信徒の世話をするという感じで積極的に外に出ていかない、ということで、宣教師だったネラン神父が新宿にバーを開いてマジョリティの日本人である「サラリーマン」のそばに行くと決心したエピソードは有名だ。別にバーで「プロゼリティスム」をするわけではなく、福音を生きる生き方を見せることで分かち合おうという形だった。

ともかく、ここ30年くらいのフランス語の「プロゼリティスム」は完全にネガティヴな言葉だ。何でもかんでも自分の主張を押し付ける人に対しても普通に使われる。

特に、21世紀に入ってからは、またここ最近は「イスラム国」がウェブを通して若者を煽って「改宗」させたり「回心」させるし、実際に勧誘したりすることと結びついてしまったので、「プロゼリティスム」が「悪い」という見方はすっかり広まってしまった。

だから、今や、帝国主義の歴史云々の前に、「カトリックはプロゼリティスムはしない」というのは、「カトリックはカルト宗教ではありませんよ」というほとんどアイデンティティにかかわるニュアンスをもっている。

こういうフランスをはじめとするキリスト教文化圏では共有されている含意が、日本語に訳されるとかなり微妙になるんだなあと思うと、宗教に関する言葉の難しさを改めて考えさせられる。

(他の言葉についてはまたそのうち書きます。)
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by mariastella | 2016-09-02 17:27 | 宗教



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