L'art de croire             竹下節子ブログ

タグ:映画 ( 14 ) タグの人気記事

ドヌーヴとドゥパルデューの Bonne pomme


カトリーヌ・ドヌーヴとジェラール・ドゥパルデューの10度目だかの共演ということで、これは面白いかなあと思ってつい観に行った映画。

ウェスタン・ダンスに入れあげている妻とその母親から馬鹿にされるのに嫌気がさして出ていった整備工が、田舎の自動車整備工場を買って独立しようとして、工場の向かいにあるレストラン・ホテルの女主人バルバラ(ドヌーヴ)と出会う。


タイトルのpommeというのはリンゴのことだが、同時に馬鹿、間抜け、お人よしという時にも使われる。大金を持って出てきたドゥパルデューは、ドヌーヴから金を巻き上げられるのだが、なぜかいつも親切にピンチを救ってやる。

妻の母親が仕切っている工場ではただのpommeのように扱われるのだけれど、ドヌーヴや彼女に振り回され迷惑をかけられている町の人や旅人に気前よく手助けしてしまう人の好さはまさにbonne pommeで善良な馬鹿、お人好し、というわけだ。

完全に肥満体になっているドゥパルデューのどっかり丸い体が動き回る。

非現実的なシチュエーションなのに説得力があるのはさすがの演技力だ。

「日本人のカップル」というのもホテルの客として出てくるが、へらへら笑って自撮り棒を振り回しているカリカチュアで笑えない。

笑えないと言えば、ギャグのすべてがほとんど笑えない。

『人生は長く静かな河』や『ダニエルばあちゃん』のシナリオ作家のフロランス・カンタンがシナリオと監督だから話もうまくできているに違いないと思ったのだけれど…。

市長役のギヨーム・ド・トンケデックがせっかくいい味を出しているのに、それもうまく生かされていない。

ドヌーヴとドゥパルデューを使うのがもったいないような平凡な映画だ。

ドヌーヴも随分どっしりとしているが、脚はきれいだ。

年配になっても、コミックな味や自虐的な味を出したりして、なかなかしたたかな活躍ぶりだがそれでもどこかにエレガンスを残していた。

この映画ではそのエレガンスがなくほとんど下品だ。プロとしてすごいと思うが、この映画の出来栄えの悪さに釣り合っていない。

このフランスの小さな町、いかにもありそうな町の人間模様だ。


でも、ドヌーヴとドゥパルデューが、例えば30年前の「終電車」の自分たちの姿と役柄と、子の映画での姿と役柄の差をどんな風に受けとめられるのか知りたい気がする。

テレビのニュース番組で二人がインタビューされていたのを見たが、リラックスして、和気藹々と楽しそうだった。

見ているこちらの方が、来し方を振り返って感傷的になる。


[PR]
by mariastella | 2017-09-05 06:11 | 映画

『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』とエコロジー

『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』を見た。


『ダンケルク』に続いて戦争映画を観るなんてどうかしている。

このシリーズの前二作は観ていない。20世紀にあった最初のシリーズも見ていない。

これまで食指を動かされなかったのだ。猿に感情移入もできないと思った。

今回は予告編で「猿」の表情が人間より人間らしく見え、テーマも地球の未来と異種共存について考える私の心の琴線に触れるものがあったのだ。

(日本ではまだ未公開のようなのでネタバレが心配な人は読まないでください)

原作のSFがアメリカものではなくフランス人のピエール・ブールのものだということは知っていたので、前にも調べたことはあった。(ジュール・ヴェルヌといいフランスってけっこうSF先進国なのだ)


ブールが『戦場にかける橋』の原作者でもあり、アジアでの生活が長いということも知っていた。

アジアでの異文化体験と「猿」との戦いというイメージが重なるなら、なんだ気分が悪いという感じがあった。日本軍の捕虜になったという話もあるし。


でも彼はイギリス軍ではないし、フランスは1940年にはドイツと協定を結んでいたのだからベトナムなどではフランス軍と日本軍が仲良く映画を観ていた、という話を当時子供だったベトナム人から聞いたこともある。

今度の映画を観て、つくづく思ったのは、もろキリスト教文化圏のお話だなあということだ。

でもこの最終話ではそれがカタリ派的善悪二元論の残念な方向に行きそうになっている。

悪いのはもちろん人間で、でも、悪いというより「愚か」というしかないのだけれど。

ピエール・ブールはアヴィニヨン生まれで高校までアヴィニヨンで育っている。

フランスのアヴィニヨンというと旧教皇領で、法王庁もあったばりばりのカトリック文化圏で、ブールの母(弁護士だった父が演劇評を書いていた新聞のディレクターの娘)は、毎週教会に通う熱心なカトリックだったという。子供は当然母親の影響を受けるから、ブールも少なくとも子供時代はカトリック教育を吸収したに違いない。

その後パリ近郊の理系のグランゼコールに入学した。日本の訳を見たら「エンジニアの学校」などとあったけれど、これまで何度も書いたが、日本語や英語のエンジニアはフランス語ではテクニシャン(技術者)であり、フランス語のエンジニアとはエリート管理職候補者用の公式の資格である。

ブールの行ったグランゼコールは私も縁があって何度も通ったことのある全寮制のエリート校だ。

アヴィニヨンでは読書や狩りを楽しむ生活だったのが、父親の突然の死で、母親を助けるために中央に出てエリート・コースに進んだのだという。

彼の小説の中で興味深いのは、1963年の『猿の惑星』の19年後に発表された『鏡の輝き』という近未来小説だ。フランスはすでに原子力発電依存率が世界的に高い国だったが、ある研究者が、南フランスのラングドック、プロヴァンス、コルシカ島の1%の土地を鏡で覆うと、フランスに必要なエネルギーの10 %を得られると言った。ということは、10%を覆えば全フランスのエネルギーをまかなえることになる、と、緑の党の大統領ジャン・ブロンド―と大臣たちは考えた。

大統領夫人ベアトリスは太陽信仰を持っていたので、神秘熱に駆られてこの太陽光発電を宗教的使命感で成し遂げるよう夫を説得し、太陽神殿ヘリオス発電所が生まれる。その鏡の反射光は公害のないきらめくエネルギーの到来を示すかのようだった。

ところが、意図がすばらしくても、結果は思いがけないもので、巨大な反射光は次から次へと、周囲の環境をパニックに陥れることになる。

良かれと思う意図も、突き進むと不条理にまで達することがある。

「地獄」とは「よき意図」という敷石が敷き詰められてできているのではないだろうか?


…という話。

で、ピエール・ブール亡き後に作られた新『猿の惑星』ものテーマも、普遍的であるとともにすごく今日的でもある。冷戦後なので核戦争からエコロジーにシフトしている。


猿たちのリーダーであるシーザーは、「エイプ(猿)はエイプを殺さない」という掟をつくって平和な共同体を作っていた。有能で道徳的な哲学王がいれば、民主主義なんか必要ない。

異種とかかわらなければそれですむ。


ところが「造反者」はいつも現れる。

憎悪に負ける者もいる。

仲間に銃を向けるような造反者はもはや「エイプではない」としてシーザーは粛清した。

あれあれ。

さらに、異種である人間たちの窮地を救うために迎え入れれば裏切られたり、エイプの「種の存続」のためにはと最終戦争を決意したり、捕虜に温情を見せて裏切られて人間に家族を殺されて復讐を誓ったり、ある意味で「楽園」状態だったエイプたちが最初の罪なき状態から「戦い」のロジックへと転落していった。賢王だったシーザーも自分は憎しみのとりこになったと認めるのだ。(それも結局は贖われる構成になっているが)

人間のところで育てられ、後で仲間を救い出して人間の住処から隔離された「約束の地」に共同体をつくって「殺すなかれ」の掟を申し渡すシーザーの姿は、エジプト王に育てられたユダヤ人のモーセがやがて奴隷だったユダヤ人を引き連れてパレスティナへ向かう旧約聖書と完全に重なる。

しかも名前がシーザーだから、イスラエルとローマの統合というカトリック的ビジョンもある。

第三部で猿たちが強制労働を強いられたり、反抗したらX型十字架につけられたり、鞭打たれたりするのも、ホロコーストの強制収容所やキリストの受難や殉教者伝などのイメージとしっかり重ねている。十字架上で悪魔の姿を見るイメージも、復活するイメージもそうだ。

大きな使命や共同体を救うための犠牲の精神なども、キリスト教世界の騎士道などに通じる。

それでも結局は大自然の力によって壊滅したり奇跡的に助かったりするのだけれど、それも大洪水とノアの箱舟や「神の摂理」を連想させるし、「言葉」の持つシンボリックな意味も「啓示の宗教」の伝統を思わせる。(まあ、最終的には人間と猿の動物としてのスキルの差が運命を分けるのだが…)

王と王の息子の絆や地位の継承という単純なところは、キリスト教というよりライオン・キングっぽい分かりやすさだが。父系制社会のモデルは揺らがない。

前世紀のシリーズや1963年の原作で人類を破滅させるのは核戦争だったが、このシリーズでは、武器ではなく、人を救うための医療技術の追求の思い上がりによるものだというのは、むしろ、前述したブールの『鏡の輝き』の方にシフトした感じがある。

たとえ、病気を治すためでも、エコロジー技術の追求でも、人間が勝手に思い上がって暴走すると地獄に堕ちるということだ。

しかし、たとえ娯楽映画という手段を駆使してその「人間の愚かさ」をこれほどよく表現しても、世間では映画のテクニックの向上が称えられたり、興行収入の増大が第一の優先事だったりするのは自明だ。

経済「成長」を善として成り立つ社会像の内部ではなく何かもっと根本的に表現のベースを変えていかなくては、人類自滅のリスクは高まっていくばかりかもしれない。

憎しみによってはもちろん、どんな大義名分があろうと、「正当防衛」だとか「共同体の利益」のためでさえ、たったひとりの他者でも排除したり自由や命を奪ったりすることを拒否する、という方向にしか真の平和はない。

なんと難しいことだろう。


[PR]
by mariastella | 2017-08-10 00:50 | 映画

クリストファー・ノーラン『ダンケルク』

ここのところ、フランス映画2本、ドイツ映画1本を観たのだけれど、うーん、なかなか末梢神経をくすぐられるところはあったけれど、真剣に映画評を書く気になれなかった。

結局、一番印象的だったのが、国籍も米仏英蘭とマルチなブロックバスター映画で、クリストファー・ノーランの『ダンケルク』だった。

そのスケールはまさにハリウッド映画だが、そのエスプリは完全にイギリス映画。

戦争映画など大嫌いな私が行こうと思ったくらいだから、まず、音や迫力はすごいけれど、いわゆる手足が吹っ飛ぶ的な残虐映像はない。

もちろん多くの戦死者が出ているのだが、殺されて死ぬときは、多分攻撃する方も、「無名」、「匿名」性が高くて、モノのようにコトが過ぎる。

けれども、救う時、救われる時は、ヒトであり、命であり、「関り」が生まれる。

この映画の死の中でただひとつ人や思いや関係性のもとに描かれるのは、軍服でなくセーターを着た17歳の少年の死だ。

敵によってはでなく父親の船の中での小競り合いで打ちどころが悪くて死んだ。

最後にこの少年の「死」が「英雄」として地元紙に掲載されるのも皮肉だ。

全部が、戦争の不条理につながっていて、よくできた戦争映画というのはすべて反戦映画になっているなあと思う。

といっても、フランス人からは、イギリスのナショナリズムに不快を感じたり、このダンケルク救出作戦「ダイナモ」で、フランス軍が果たした役割を無視しているという不満も出た。

7/17のル・モンド紙で4万人のフランス人に失礼だというコメントがあったのがイギリスでも掲載されて、イギリスの歴史学者マックス・ヘイスティングスという人が、ノーランは自分の解釈で自分の描き方をする権利がある、スピルバーグの映画がアメリカ的であるようにこの映画はイギリス的であるだけだ、と言ったそうだ。

といっても、スピルバーグ映画の方が、アメリカ的というより、インタナショナルなマーケットを意識して政治的公正が加味されているようにも思えるのに対して、このノーランの映画は、フランス市場なんて気にしていないのがよく分かるのだけれど。

「敵」であるドイツ軍は「飛行機」の姿以外ほとんど現れない。最後に英軍パイロットが多分捕虜になる時に現れるだけだ。この戦いで実際に捕虜になった英軍兵士はポーランドの強制収容所に連れていかれて働かされたという。

でも「敵」がドイツ、という単純な二元論でなく、ひとりひとりが果たしてサバイバルできるかどうかという運命と向かい合っているように描かれているところがエレガントと言えばいえる。

映画の「国籍」に入っているオランダ人もフランス人も一人ずつ登場する。でもオランダ人はドイツ人と間違われて、必死に自分はオランダ人だといい仲間に入れてもらい、フランス人の方もドイツ人のなりすましだと疑われて、イギリス人から「ギブソン(だったか?)と発音して見ろ、ドイツ人ならなまりがある」と迫られて窮し、結局はフロッグ・イーターのフランス人だと白状させられる。

でも、生きるか死ぬかの仕分けではスコットランド人でも微妙に差別されているので、同盟国同士でも差別があったのは当然なのかもしれない。

ここに出てくるイギリス人兵士はまったくアングロサクソンの若者たちという感じだ。イギリス軍は共同体社会だから、インド系はインド系の部隊というようにはっきり分かれていたようだ。

でも、実際は、フランス人かドイツ人かオランダ人かは外見では確実に判別できないわけで、話させて訛りでテストされるなど、なんだか日本でもあったような話で気分が悪くなる。こういう局面においては、「母語」がナショナリズムの判定になるのだなあ。

私は実はダンケルクにちょっとした縁があるのでそれもこの映画を観に行った理由の一つだけれど、それにしても、1940年の5/26-6/4に展開されたというこのダイナモ作戦が、イギリス側で「ダンケルクの奇跡」と呼ばれ、「英雄」物語になっているのは、政治的判断とはいえ確かに不自然な部分はある。


ドイツ軍に追い詰められたイギリス軍にはもう戦うことも勝つことも不可能だった。前が海で退却も不可能だった。けれどもチャーチルには「降伏」という文字はなかったので、「救出」しかなかったのだ。

でも軍を回す余裕はなかった。

で、民間の船に呼びかけて、市井の人々が自分たちの船で英仏海峡を渡ったのだ。奇跡的だったのはむしろ好天に恵まれたことの方だったらしい。

40万人近くが追いつめられていたのを、イギリス軍が救えるのはせいぜい3,4万人の見通しだったのだけれど、結果として、民間の何百艘という船が応えたこともあって、338226人が救出された。

イギリスについて列車に乗ると、兵士たちはブラボーと歓呼の声で迎えられ、英雄扱いされる。「おれは生きのびただけだ」と、彼らは思うのだが、この「帰還」を作戦が成功した「凱旋」のように報道するのはもちろん政府の判断だった。


確かに、すごい犠牲を払って救出することが「勝利」なのだったら、最初から戦地へ送らなければ ? などと思われるとまずいから、「英雄譚」を創ることが必要だったのだろう。

戦争映画が苦手な私でもストーリーを追えるのは、陸・海・空からの話の展開を細切れにしてつなげているサスペンスがよくできているからだ。しかも、同じ割合で挿入される陸・海・空の時間の流れが、浜で救出を待つ疲弊した兵士の大群の一週間、海を渡ってダンケルクに向かう初老の男(長男は参戦して三週間で戦死した)と二人の若者の一日、そして戦闘機で勇敢に戦うパイロットの一時間、と三通りの密度で組み合わせるというテクニックがほどこされている。

空からの映像がすばらしく、息をのむほど美しい。実際にコックピットにIMAXカメラを取りつけたそうだ。船底で溺れそうになったりする映像とのコントラストが強烈だ。

浜で列を作る軍服の大群の後で、ネクタイさえしめて自分の船を操縦する男の姿が新鮮だし、たった一人で戦うパイロットの孤独も胸を打つ。(6月末のパーティで、制服姿の空軍のパイロットと話をしたばかりだったので、あらためて、今ここにある戦争のことも考えさせられた。)

この映画を観た97歳のイギリス人元兵士は、当時20歳で、まったくこの通りだった、と語った。そしてその夜、泣いたと言った。77年経っても、地球に平和が来ていない、人が人を殺し合う愚かさから脱していないことが悲しい、という。

確かに、この映画では、爆弾や銃弾の命中率がそんなに高くない。

今の高性能ミサイルだの無人爆撃機だのの時代の戦争ならもっと容赦ない非人間的なものになっているのだろう。

そして、攻撃すること、殺すことの効率や技術は高まっても、「救う」ことの技術は今も昔も、「人間的」でしかないのだろうなあと思う。

このダイナモ作戦の「成功」は、19406月4日

映画の終わりに司令官は、自分はダンケルクに残る、まだフランス人を助けなくてはならないから、とかっこいいことをいう。

でも、6月22日に独仏休戦協定が結ばれて、ダンケルクもパリも、ドイツ占領下に置かれることになった。

連合軍のノルマンディ上陸作戦は、それから4年後のことだった。

ダンケルクはノルマンディではない。

日本人の目から見ると、やはりイギリスって島国だから、もちろんドイツ軍の絨毯爆撃を受けたにせよ、ある意味で「大陸」の戦争からは「要塞」のような位置にあるなあと思った。そして、日本が南洋などで取り残された日本軍を救出に行かなかったのか行けなかったかに比べたら、やはり、「救出」するというのは「殺す」という戦争のベクトルと逆であって推奨すべきことであり、生き延びたことは「ブラボー」に値するのだなあとすなおに思う。

そして、何よりも、この二度の大戦でぼろぼろになったヨーロッパが、EUとなって互いの間の戦争を放棄したことの貴重な意味を考える。Brexitとか言っても、もう独仏英が殺し合うことは考えられない。

この「殺し合うことがもう考えられない」ということが、つい80年前には考えられなかったのだ。


この映画を観たら、やはり日本は今のままの「憲法九条」を掲げるのが最良の道だと思えてくる。互いに顔も見えない相手と殺し合うなんて、いったいどうしてそんな事態に陥ってしまうのか、そしていったん歴史がそちらの方に傾いたら、大きな車輪が回り始めてすべてを押しつぶしていく。

兵士たちはみな、若い。

若者を戦場に送ってはいけない、

それがたとえ「聖戦」と呼ばれていても。


[PR]
by mariastella | 2017-07-27 02:58 | 映画

『マリー=フランシーヌ』(ヴァレリー・ルメルシエ)

『マリー=フランシーヌ』(ヴァレリー・ルメルシエ)

少し前の話になるが、映画『ロダン』に不全感が残ったので「口直し」にコメディを観に行こうと思って見た映画についての覚書。

ヴァレリー・ルメルシエは役者としても好きだし、双子の姉妹役をやるというのもおもしろいし、母親役がエレーヌ・ヴァンサンというのも楽しみだった。

舞台がパリ16区のなじみの通りなので親近感もある。

でも、それ以外は何だか非現実的でカリカチュラルな設定だ。建物の住み込みの管理人室に住むポルトガル人の両親のうちに転がりこんだ55歳の料理人と、ブルジョワの両親のところに転がり込んだ50歳の生物学研究職の女性の間に繰り広げられるロマンティック・コメディだから。

大柄なマリー=フランシーヌ(177cm)に対していかにもパリのアパルトマンの管理人をしているポルトガルの移民の子というステレオタイプのずんぐりむっくりのミゲルは、最初から彼女を好きになって、彼女の食生活の貧しさを気にして昼においしい食事を用意してやる。ハート型を添えたりと初々しいし、いつもにこにこしているのも印象的だ。2人はどちらも一応自分のシチュエーションについて嘘を付き合っているのだけれど、全体としてはなんの幻想もなくただひかえめな優しさがある。

それに対してマリー=フランシーヌの両親はそのブルジョワ的偽善性においてもなかなか過激だ。母親はただのプルジョワ夫人ではなく力強くエゴイズムを謳歌している。ルメルシエの他の作品と同様、風刺、フェミニズム、社会批判などがちりばめられてはいるが、中心になる ラブストーリー自体はえらく穏やかに貫徹しているので、他のスパイスのすべてが薄まったという感じだ。

マリー=フランシーヌの夫が若い女と浮気して捨てられてまた妻とよりを戻そうとすることや2人の娘との関係など、ある意味すごくパリの家庭事情のリアリティはある。
ヒロインが50歳というのを強調するのも、「50歳のクライシス」と言って、50歳前後の女性がカップルを解消して再出発するというケースがとても多いことに対応している。

軽くて楽しめる映画は当たり外れが多い。
次はあきらめてシリアスな映画を観ることにしよう。


[PR]
by mariastella | 2017-07-11 00:29 | 映画

オリバー・ストーンの『プーチンとの対話』

オリバー・ストーン監督のドキュメンタリー映画『プーチンとの対話』を先日TVで観た。

少し前にプーチン大統領も鑑賞したそうだ。4時間近くの大作だが意外さ満載で飽きさせない。

オリバー・ストーン監督が2年かけてプーチン大統領と一対一でいろいろな質問をして答えを引き出す。
キューブリックの『博士の異常な愛情』を絶対見るべきだとプーチンに言っていっしょに見ているシーンもある。
60歳で始めたというアイスホッケーをするプーチンと話す場面もあり、プーチンがオリバー・ストーンに柔道の創始者(加納治五郎か?)の座像を見せている場面もある。

プーチンが柔道によって学んだのは「柔軟性が大切」だということだそうだ。

アル中状態だったエリツィンから大統領代行を任され、大統領選への立候補を勧められてその責任の重さに躊躇するところや、産業の民営化がより公正に、より構造的になされるように心を砕いたところや、キューバのカストロ首相が50回も暗殺未遂があったのに対して自分は5回でセキュリティのサービスを信頼しているからだと言うところや、ストイックだけれど適度にジョークを言うところなど、なんだか非現実的だけれど、驚きの好印象だ。

彼は5月にヴェルサイユに招かれた時に、「はじめてで感嘆している」、と言った。その時のプーチンの様子も、なにか自然体で、気負っている様子も若いマクロンを威圧するでもなく警戒するでもなく、マクロンより素直で感じがいいなあとちらっと思ったのを覚えている。

プーチンと言えば、強面の独裁者で冷酷なイメージが強いし、実際、政治の場では強権発動をできる人なのだろうけれど、なんというか、アメリカ人のオリバー・ストーンにいわばつきまとわれて、カメラからなめまわすようにボディ・ランゲージを写し取られているのに、イライラもせず、時々、無防備なほどに誠実なことを口にする。
ソ連が一夜にして崩壊した後の破産国家を再生させようとしてここまで来たことや、「欧米」を友として歩もうと努力したことの本音も垣間見える。

もちろん、一つ一つの政策については突っ込みどころはいくらでもあるだろうが、NATOのやり方や中東政策にしても、ウクライナ問題にしても、アメリカの覇権主義の方がどう見てもひどいのではないかとあらためて思う。

国内のムスリムに対する考え方も、批判の多い性的マイノリティへの対処の考え方にしても、「プーチンの言い分を直接聞く」というのはぐっと視野が広がる。

オリバー・ストーンは「不都合なテーマ」にも遠慮せずに切り込んでいるわけだけれど、ともかく、プーチンの率直さが際立っている。
全部がプーチンによって計算されつくした演出とはとても思えない。

アメリカとの勢力争いにしても、「うちは何しろお金がないのだから比較にならないし…」みたいなすごくまっとうなことを言っている。

眼窩の奥におさまった鋭く小さな目が、無防備な親愛を見せる一瞬などを見ていると、ほとんどかわいいと思えるくらいだ。

オリバー・ストーンの人間性とプーチンの人間性の出あい、と言うのもあるだろうけれど、意外過ぎる。

いろんな意味で貴重な映像を見せてもらった気分だ。

[PR]
by mariastella | 2017-06-29 02:54 | 雑感

『ロダン』(ジャック・ドワイヨン)2017

先日のカンヌ映画祭でも上演された映画『ロダン』(ジャック・ドワイヨン)。


ロダン死後100周年でグラン・パレでもexpoをやっている。

ロダンの作品はいわゆる「好み」ではないのだけれど、アートとは何かを考えさせられる圧倒的なオーラがある。昔はよく、ブールデル美術館(ブールデルは好み)に行った後でそのままロダン美術館に行くことでロダンの秘密を探ろうとした。

ロダンの天才は音楽で言えばラモー型だと思っていた。

それ以外では私が最も影響を受けたのはリルケによるロダン論だった。


で、この映画の切り口にも期待していたのだけれど、なんだか『アマデウス』の映画でモーツアルトがはしゃぐ姿を見た時に似た「こんな男がこんな作品を…」と肩をすくめる気分になった。


40代ではじめて国から「地獄の門」の注文を受け、カミーユ・クローデルとも出会い、スキャンダラスなバルザック像を完成するまでの10年間のエピソードの積み重ね。いわゆる伝記映画ではない。


ロダンとカミーユ・クローデルと言えば、1988年のブリュノ・ニュイッテンの『カミーユ・クローデル』がイザベル・アジャーニとジェラール・ドパルデューという濃い人たちの主演で鬼気迫っていた映画を思い出す。


アジャーニはすごいけれど、「演じている」というより憑依しているという感じの人だから、他と比べようがない。劇場で芝居を観た時にはもっとそれを見せつけられた。


今回はポスト・ヌーヴェルバーグのジャック・ドワイヨンの作品でロダン役がヴァンサン・ランドンだからずっと地味で「創作の秘密」を掘り下げるようなものかと期待していたら、カミーユはもちろんヌードモデルとのからみなどが多くてなんだか引いてしまった。


でも、「土」をヒエラルキーの上に置こうとして粘土をこねまわし執拗にディティールを付け加えるやり方は意外だったし、モデルを見据える目の演技も印象的で、愛人のカミーユも妻のローズも、ナチュラルでナチュラルゆえの絶望の深さ、傷の深さがかえって際立つ。カミーユとの「契約書」やローズとの追いかけあいのシーンも独特の雰囲気だ。


仕事一筋、天才、アーティストの孤独という面よりも、それらを成り立たせている肥大したエゴイズムの強靭さというものを感じてしまう。


なんというか、エゴイスティックで卑しいささいなことの積み重ねによる疲労と喪失とフラストレーションの末に、それでも生まれる天上的な作品、愛がなくても美は生まれる、地獄の門を通っても天国には行ける、という話だ。


映像や音楽(チェロが美しい)はすばらしいけれど。


アトリエの助手の中にブールデルがいるはずだけれど、と思ってみていた。


バルザック像のモデルが妊婦だったり、ガウンは、本当のガウンを石膏に浸して張り付けたものであるというエピソードも印象的だ。


ラストに近い場面で、変な着物を来た日本人女性のモデルが裸になれと言われたのに「すみません、おっしゃっていることが分かりません」と日本語で答え、ローズが入ってきて「中国人が…」なんとか言って「全部脱ぐのよ!」と叫ぶシーンがある。


で、ラストシーンだが、ロダンの死後のパリでようやくバルザック像が設置された後、突然2017年、日本、箱根彫刻の森美術館というキャプションが出て、ブロンズのバルザック像に小学生の子供たちが駆けよって「だるまさんがころんだ」と言って遊んでいるシーンに切り替わる。

この着地は、夢から覚めたように鮮やかではあるのだけれど、日本人にとっては、その前の不自然な着物の日本人モデルのシーンでの日本語も聞えているので、妙につながってしまって、効果が薄れた気がする。


ロダンの創作という興味あるテーマでこれだけいろいろ工夫しながらこの程度の結果しか出せなかったのは残念だ。



[PR]
by mariastella | 2017-06-01 17:31 | 映画

『禁じられた歌声(ティンブクトゥ)』アブデラマン・シサコ監督

2014年から15年にかけていろいろな映画賞を獲得したフランスとモリタニアの合作映画。
シサコ監督はモリタニア生まれマリ育ち、モスクワで映画を学びフランス在住という国際派。
見た目もトゥアレグと黒人の混血っぽいコスモポリタン風。

アフリカのマリ共和国北部のティンブクトゥという世界文化遺産にも登録されている町が2012年からアルカイダ系イスラム過激派に占領された様子をドキュメンタリー風に描いたものだ。
2013年の初めにオランド大統領が単独で介入して過激派から町や住民を「解放」した。フランス軍は救世主のように歓迎された(その後フランス軍の兵士による現地の少年への性的虐待などのスキャンダルが発覚したが)。
周りが広大な砂漠なので過激派を追いやったと言っても、どこかに「追い詰める」わけではないので、今もフランス軍は駐留中で真理の「政府軍」を訓練したり援助したり、新大統領のマクロンの最初の訪問地(ベルリンの次)もこのマリの駐屯地だった。そのくらいフランスにとって政治的な意味の大きい場所なので、この映画も政治的な思惑から逃れられない。

2012年に羽田からパリに戻った時、驚いたことを思い出す。普通なら、空いている時間帯だ。JAL便から降り立つ日本人に対する警戒はとても低く、入国審査でもほとんど機械的に通してくれる。けれどもその時は、圧倒的に黒人が多かった。日本人が隠れてしまうほどで、審査窓口には長い長い列で全く進まない。窓口でもめた後どこかへ連れていかれる人も多い。周りの人を見ると、マリのパスポートだと分かった。後から、彼らは過激派支配から逃れてきたのだと納得した。出口のホールも、到着した親類や知人を迎え入れる人たちでいっぱいだった。どこの国へ来たのかと思った。ああいう状況だったからフランスが慌てて侵攻したのかなあと後で納得がいった
とはいえ、フランスがマリのガオやティンブクトゥーを「解放」しても、ジハディストたちは移動するだけだ。
最近のマンチェスターのテロの実行犯の父親や弟はリビアにいてISとつながっていると言われる。イラクやシリアを追われたISがリビアに拠点を移すという予測はもう実現しているのかもしれない。

映画に戻ると、アルカイダの専制への抵抗としてボールなしでサッカーをする少年たちの詩的な映像などが予告編でいたるところに出回り、本編を見る必要がないほどだ、などと言われもした。
シャリア法では女性は髪も手も足も隠すべきだとか、音楽も禁止、酒もタバコも集団をつくるのも禁止、サッカーも禁止、石打ちの死刑や、手の切断刑や、斬首や鞭打ちなどの実態が、すぐ後に続いたISのプロパガンダよりも先に、この映画によって「イスラム過激派のひどさ」として広く知られるようになった。
けれども、「白いIS」と言われるサウジアラビアのワッハーブ派がもう何十年も公然とやっていることもほぼ同じだ。
ただ、サウジではタバコとサッカーはお目こぼしだった。既得権益と関係があるからだ。
街中で10人以上集まるのが禁止だしサッカー以外は音楽会も他の娯楽も、人が集まること自体が禁止。公開処刑は「普通」だった。

9・11のテロリストを輩出しながらも、冷戦時代からのアメリカとの同盟関係や「共通の敵」イランへの牽制などでなぜか「自由陣営」っぽい姿を容認されているサウジは今も「国連女性の地位委員会」のメンバーになったり人権理事会議長国になったりしている。
自由とは金で買えるものだ」という金の支配の方が「神の支配」より実効性があるということなのかもしれない。

で、この映画。特に女性たちが抵抗の姿勢を見せたり、「過激派」たちがイマムとじっくり話したり、プロパガンダ映画にならないように「人間」を描こうとしているわけだけれど、そのことが中途半端にヌルい、という評価も受けている。
画面が美しく、暴力的なシーンが少ないことは個人的にはほっとするけれど、確かに、どこか強度が足りない。

シサコはマリで非婚のカップルが石打ちで殺されたことにショックを受けてこの映画を作ると決めたそうだけれど、石打ち刑自体はすごく古くからある。
新約聖書で「汝のうち罪なき者が石もて打て」とイエスが言ったことで有名なように、シャリアでなくてもユダヤの律法でも普通だったし、最初の殉教者ステファノも石打ちで殺された。イエスは個々の人間の事情を無視した原理主義的「律法遵守主義」を徹底して批判し否定した。
イエスに足場を置いたキリスト教文化圏が最終的に死刑廃止に向かったのは論理的に整合性があるし、私もあらゆる形の死刑に反対の立場だけれど、2012年のマリの「石打ち」刑だけが突出してシサコに大ショックを与えたというのは興味深い。彼はアフリカのチャイナタウンやカラオケ、中国も舞台にして中国人男性と黒人女性のラブストーリーも撮影している。もともと感覚が国際派なので、この映画も本来、政治的なイデオロギーを伝えるようなものではないのだろう。

でも、ともかくドキュメンタリータッチなので、リアルだ。過激派が乗り回す軽トラックみたいなものが全編に出てくるのだけれど、その後ろの大きなTOYOTAの文字にどきっとする。
最も印象的なシーンは、「鶏の女」だ。
女たちは徹底的に服装を統制されるのになぜか一人の初老の女性だけが、派手な格好で鶏を肩にのせたりして長い裾を引きずって闊歩している。これも、マリでの実際のモデルに基づいているそうだ。1960年代にパリのキャバレー「クレイジーホース」のダンサーだった女性で、フランス語を話し、ティンブクトゥーでなくやはりアルカイダに占領されたガオの町で、この女性だけが、髪も覆わず、歌って踊って煙草を吸って、ジハディストたちを平気で罵倒していたのだという。

一見、王宮の道化というか、トリックスターというか、そこだけカーニバルのガス抜きというか、「狂気」と「聖性」のアンタッチャブルが交わるところというか、社会学的なことを連想してしまう。
宗教者が自由に生きるために突飛な生き方をする「佯狂」(狂を装う)というのは日本の『発心集』などにも出てくるある意味古典的なサバイバル戦略だ。
為政者が自らの権威を知らしめるには、「普通の人」「一般人」を取り締まってこそ意味があるので、最初から社会の「枠外」に突出している者を取り締まっても意味がない。そういう人たちは「社会」がすでに制裁、排除している形で存在を許されているからだ。

で、この「鶏の女」がリラックスして横たわっている前で、一人のジハディストが「踊る」。
腕を広げ恍惚として踊る。
自由のあるところにはインスピレーションが降りてくるかのように

イスラム原理主義の「音楽の禁止」についても改めていろいろ考える。フランスのブレストのモスクでサラフィストのイマムが子供たちに「音楽を聴くだけでサルになる、豚になる」と教えているビデオを見て、さらに、コンサートホールでのテロの後、戸外を含む集団の音楽イヴェントに参加を決めたことも思い出す。
もう20年以上前になるけれど、私の主催するパリのアソシエーションで亡命チベット人の音楽コンサートをしたことも思い出した。中国植民政府の方針でチベットの楽器も内も禁止され、夜にうちの中でひっそりと弾いていたのだという話だった。

シサコの映画の邦題が『禁じられた歌声』とされたことを的外れだというコメントも目にしたけれど、歌や踊りや音楽が自由のシンボルであることを思うと、含蓄がある。


[PR]
by mariastella | 2017-05-27 00:45 | 映画

『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(ペドロ・アルモドバル)

『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(ペドロ・アルモドバル)

今開催中のカンヌ映画祭で審査員長を務めるスペインのペドロ・アルモドバル監督の1988年の作品だ。

赤が印象的。真っ赤なトマトをザクザク切ってつくるガスパーチョが睡眠薬になる。

映像と音楽をたどるだけでも楽しい。ポップアートの美術館にいるようだ。

ヒロインのアパルトマンが凄い。テラスに植物が茂っていて、ウサギやアヒルがいる。

「明日は家政婦さんが来る日だから」と言っている。

マドリードのブルジョワの暮らし、けれども上流階級というのではなくてテレビコマーシャルにも出て人に顔を知られている芸能人の暮らしなのだ。

シリア人のシーア派のテロリストと関わってしまった、と助けを求めに来るヒロインの友人の話など、30年前とは思えない今こそリアルな話だ。

マンションの管理人の女性が「私はエホバの証人だから嘘をつけない、」と何度も言って、エホバの賛歌を口ずさんでいるのも注目。


出産してからずっと精神病院にいた女性がピンクのスーツに派手な付けまつげという新婚旅行のような格好でピストルを両手に男への復讐に向かうのもグロテスクで怖い。

コクトーの戯曲『人の声』にインスパイアされたというだけあって、電話でのやりとりがシンボリックな意味を持っているのだけれど、それはいつも留守電のメッセージとなる。声優のアフレコ収録シーンも出てくる。「対話が成り立たない」ということ自体が鍵になっている。


大きな電話機が何度も出てきて、電話の修理屋も出てくる。

こんな風な男女の別れやすれ違いも、今の携帯の世の中なら全く様変わりしただろう。

といっても、今でも、「会話」を拒否しようとしたら、SMSやLINEでのみ別れを告げることもできるし、それらに返事しなかったり未読にしたりスルーしたり削除したりなどもできるので、「留守電に入れる」「留守電を待つ」というオプションだけの時代よりも当事者はもっと「神経衰弱」になるかもしれない。


「通信手段」に焦点を当てると、1930年のコクトーの戯曲は半世紀以上経ったアルモドバルの映画に応用され得たのに、その後20年も経っていない今は、様相が決定的に変化したということだ。

人間関係は深いところで確実に変わっている。




[PR]
by mariastella | 2017-05-26 00:10 | 映画

『Mommy/マミー』(グザヴィエ・ドラン)

Mommy/マミー』は、当時まだ25歳だったグザヴィエ・ドランカナダ映画(2014)カンヌ映画祭でグランプリを受賞した。基本的に批評家好みの映画。

最初にこれを観た時は、フランス語が聞き取れないので驚いた。カナダ映画ははじめて観るわけではないのに、フランスに来て最初の頃、映画のフランス語がとても聞き取りにくかったことを思い出して懐かしくなったくらいだ。

これは要するに、ケベック訛りというより、完全にケベック方言だからだ。

映画の最初に施設の人が母親役のアンヌ・ドルヴァルに話しかける言葉はよく分かる。つまり、「標準語」なのだ。

これまでケベックから来た人とも何度もフランス語で話したけれど、別に不自由は感じなかったのは、ちゃんと「標準語」を使っていてくれたからなのだ。

植民地でほど宗主国の言葉は古いままで維持されるというのはよく言われることだ。フランス語の「単純過去」は、もう普段の会話で使われないけれど、アルジェリアなどでは今も普通に使われていると聞いたことがある(それももう古い話だけど)。

今のフランス語では音便になってoiが「ゥワ」、aiが「エ」と発音されるのを、この映画ではオイとかアイとか二重母音が残っている。時々「by the way」など英語も混ざる。いわゆるクレオールというのとは少し違う。

私はフランス・バロックをやっているから、フランス語を17、8世紀風にはどう読むかはよく知っているが、それは「朗誦」の世界のことであって、ケベック方言しかも俗語、口語の世界だから歯が立たない。

私の周りには、かなり親しい人も含めてモントリオールとフランスを行き来しているカナダとフランス二重国籍の人が少なくない。だから、語彙の違いなどはよく知っている。例えばフランスの「昼食」というのはカナダの「朝食」、ディナーのディネが昼食で、夜食のスぺが夕食だ。英語の影響で最初がずれたのだろう。だから、この映画で夕方に「スぺの用意ができたよ」とかいうのはよく分かる

で、もちろん他のフランス人にも聞き取れないわけだから、ほとんどの場面にフランス語の字幕が入っている。といっても、訛りをとって書き起こすのではなくて、「訳している」ところも多い。でも、そのうちに癖が分かってきて聞き取れる分も多くなった。

で、これについて、監督のドランは、ケベック語を讃えるものだとはっきり言っている。

彼は何度も、ケベックは英語の大海に囲まれて非常なストレスにさらされてきたというのだ。

特に、男たちは400年間、「英語につぶされてきた(英語話者がボスであり資本家でありフランス語話者は使用人、労働者という格差)」、その中でフランス語を守ってきたのは女性で、1964年からの女性解放の運動はとてもラディカルなものだった、女性たちがカナダを引っ張っている、女性たちを通して、アメリカでもなくフランスでもないケベック、ケベック語を堂々と世界に配信したい、などと言う。

ベルギーにおけるフラマン語とフランス語の関係にも似ている。

いやー、上に書いたように、モントリオールの知り合いがたくさんいて、私がいつ行っても泊まるところもあるというのに、今までなんとなく、「モントリオールの人っていいなあ、みんなバイリンガルだし」、などと思っていたので、彼らのアイデンティティとしてのフランス語の重さがここまでだとは思っていなかった。

そんなことを聞くと、ナポレオンによってアメリカに売却された後のルイジアナの人々のことも想起される。

ケベックもルイジアナのようにフランス語を失っても不思議ではなかったのだなあ、と、ケベックの歴史をあらためて振り返る。

若いだけでなく童顔のグザヴィエ・ドランは10代くらいに見える。(父親がエジプト人のアーティストというのもおもしろい。ドランはフランス系の母の名前だそうだ。)

実際10代の頃に、シナリオを持ってアンヌ・ドルヴァルを訪ねて行ったらしい。

しかも、彼の映画に出る熟年の女優たちはまるでみな彼の魅力にとり憑かれたようなことを言っている。

『マミー』の後でカンヌでパルムドールをとった映画に出たナタリー・バイも同じ感じだ。

ベテランのスタッフやベテランの俳優たちに囲まれて天性のカリスマを発揮しながら皆の心をつかんで自分の権威を認めさせてしまうところは、なんだかマクロン新大統領のことを想起してしまう。

映像も音楽もすばらしいけれど、本人も言うように女性、特に「母親」に人生のすべての陰影を見て「家族」を強迫的に描いていくのは重い。その母に対峙するのが自分自身のような性的マイノリティや、多動障害の少年や余命を宣告された青年などなので、ますます重い。

『マミー』では子供を亡くしたショックで言語障害になって休職中の女性も出てくる。

一方で、ケベック語、ケベック方言などという以前に、すごい量で繰り出される卑俗な言葉や乱暴な言葉に圧倒されるので、無意識にバリアを張って観てしまい、どこにも自分の気持ちを投影できない

後に残るのは、新自由主義経済の爪痕の深刻さばかりだ。

映画なんて観ている場合じゃない、などと思ってしまう。



[PR]
by mariastella | 2017-05-24 00:04 | 映画

『ベリエ一家』(エリック・ラルティゴー)

(たまっている映画評の続き)

『ベリエ一家』

エリック・ラルティゴーのこの映画は『最強の二人』や『コーラス』路線。

ハンディのある人とない人のヒューマンな関わりを軸にした感動物語だ。

この映画で設定される「ハンディ」は、酪農で製造販売を営む両親と弟が全員聾啞者だということだ。手話が共通語のその家族で唯一の外界とのパイプになっている16歳の少女ポーラは、皮肉なことに、歌の才能があって歌手になることを目指してパリのラジオ・フランスのオーディション参加を準備する。

彼女は実際に、TVの詩のコンクール番組で登場し、準決勝まで残って16歳でデビューした新人で、この映画でセザールの新人女優賞を受賞した。

あまりリアリティのない設定の中で繰り広げられる若い女性の愛と自立と成功の物語自体は予定調和風でもある。
コメディとしておもしろいのは両親が聾唖であることで生まれる誤解などで、フランソワ・ダミアンとカリン・ヴィアールという芸達者な2人がカリカチュアに陥らないギリギリのところで名演を披露しいる、と言われたが…名演なのは間違いないが、カリカチュアは免れていない。

ハンディのある夫婦の方が「ノーマル」な俗人よりも「働き者」で、愛し合っていて、シンプルで、まっとうな政治感覚も持っている、という描かれ方。
でも、娘が自立のアイデンティティとする「歌」を彼らは聴くことができない、というせつなさが陰影を与えている。

私はこの映画の舞台に想定されている地方に近い村にあった田舎のうちに15年くらい通っていた時期がある。
その村の外れの農場に友人夫婦がいて、毎日搾りたての牛乳をもらいに行っていた。
日本の大都市でしか暮らしたことのない私にとっては、生まれて初めて身近で見る農場、牛の群れ、搾乳だった。そこには男の子と女の子がいて、女の子はなんとなく、「ベリエ一家」のポーラに似ていた。
バカンス好きなフランスで、バカンスもとらずに早朝から家畜や畑の世話をする人々の生活をはじめて近くで見た。

今は息子も娘も結婚していて、農場は息子が継いだが、兼業しているため、リタイアして近くに引っ越しした父親が今でも毎日「手伝い」に行っている。

そんな彼らと今もつきあいがあるので、ベリエ一家二も親近感を抱いた。

シチュエーションの特殊さを除いては、ストーリーの展開はまことに平凡なのだけれど、主演のルアーヌ・エムラが自然で説得力があるので、最後まで引き付けられるし、娘の歌声を聞くために喉に手を当てた父親が、彼女を応援することを決心するシーンや、最後の詩のチョイスと、その歌詞を歌いながら娘が手話で伝えるシーンはやはり感動的だ。

出演者のうち唯一の本物の聾唖者である弟役の少年と、ヒロインの友達が二人きりになるシーンは不自然であまり説得力がない。
一番陰影のある複雑な人間像はヒロインの才能を見出す音楽教師かもしれない。
エリック・エルモスニノは舞台畑の演技派で、ゲンスブール役でセザール賞を受賞したのが記憶に新しい。





[PR]
by mariastella | 2017-05-21 06:34 | 映画



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
以前の記事
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧