L'art de croire             竹下節子ブログ

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国連総会での首脳演説 トランプとマクロン

日本でも国連におけるトランプの「北朝鮮破壊」のような強気発言が報道されていたけれど、なんだかもうこの人の品のない過激ぶりに麻痺してしまった。


フランスではもちろん、その後の演説でマクロン大統領が環境保護や弱者救済をエレガントに語るのが何度も映されて、オバマ大統領を思わせるとか言われた。

トランプの時代だからそのコントラストが際立って、ある意味で得しているかもしれない。


その上、イギリスのEU離脱が決まっているから、国連の安全保障委員会の常任理事国の中で、フランスは唯一のヨーロッパの顔となる。


米、中、露、英、仏。


経済的には今のロシアは弱いが軍事大国だし、英と仏が分かれると、イギリスが過去の帝国主義の盟主、フランスは団結したEUの代表、と見えるから、これもイメージ戦略的には悪くない。


経済的な覇者であるドイツは、こういうところでは、日本と同じくやはり第二次大戦の敗戦国というレッテルから逃れられない。


この安全保障「五大国」、いずれも核兵器所有国だから、北朝鮮でなくとも鼻白むが。

で、このマクロンの、一応「フランスらしい」、アメリカに盾突く発言だが、それを評して「地球という人類の集合住宅の管理組合(国連)の自治会会長」のスタンスだと言った人がいた。

悪くないたとえだ。

最上階に住み自分ちだけリフォームしてセキュリティシステムや耐震設備を整えている金持ちが自分は管理組合なんて無視してもいい、と言ったとしても、

建物全体のメンテナンスが放置されれば、害虫や害獣も忍び込むかもしれないし経年劣化もあるし、いつか土台から崩れるかもしれないのだ。

余裕のある居住者が金を出し合って全体を支えたり、孤立した居住者のケアをしたりした方が最終的には建物全体の健康寿命を延ばす。


そのようにスケールを変えて考えてみると、先日読んだ『プラチナタウン』も別の視点で見えてきた。


あそこで語られた赤字財政、過重負債、過疎化、少子化、人口の老齢化、介護の問題など、実は、「日本の中の一地方都市」の問題ではなく、「世界の中の一地方都市」である日本の縮図だと言えるのではないだろうか。

あの本では、日本の中の「都会」と「田舎」の格差だとか人口の偏りとかが語られているが、地球全体をひとつの国としてみたら、まったく同じようなことが起こっているわけで、日本はまさに、もうすぐ、「公共事業をやり過ぎて立派な施設がいたるところにあるが負債は膨らむばかりで消費は伸びず人口減の進む地方都市」のようなものだ。あの本にあるように世界中の各地へのアクセスは飛躍的によくなっているから、富裕者は、シャッター街になった日本を捨ててもっとリッチな場所に移住していくかもしれない。


そんな「地方都市」日本の再建のカギは『プラチナタウン』にあるような福祉政策かもしれないし、それを地球規模で考えて、地球集合住宅の自治会で積極的に全体の運営対策に参加することかもしれない。


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by mariastella | 2017-09-21 02:30 | 雑感

エドガー・ブレグマンとマクロンの「改革」

フランスではマクロン政権の支持率を一気に下げた労働法改正案が一応のまとまりに達した。今のマクロン新党絶対多数の議会では「強行採決」だって可能だが、そこは、どこかの国と違って、議会にかける前に主権者に徹底的に説明して理解してもらう、と首相が言っている。

確か、9/23にはメランション主導の大規模ストが予定されているはずだ。


フランス人労働者の半数が属しているという中小企業(社員250人以下)の経営者や多国籍企業にとってはより効率的で「やりやすい」方向になっていると歓迎されている。


私はそもそも「経済成長ありき」の考え方そのものに賛成できないので、暗澹としている。


でも、フランスよりずっと「改革」が進んで失業率が低いはずのドイツでも、年金の平均が月1100ユーロだそうで、年金だけでは暮らせない人々が高齢になっても結構ハードな非正規労働に従事している人たちが紹介されている番組を見た。病気になったらどうなるのだろう、と不安を口にしていた。

こういうのを見ていると、大統領選の予備選に勝ったのに本選では惨敗した社会党のブノワ・アモンが唱えていたユニヴァーサルなベーシック・インカムをのことを考えてしまう。彼は非現実的だと右からも左からも叩かれていた。

でも、ブノワ・アモンだけではない。トマス・ペインやミンカム運動や、そして最近では若きルトガー・ブレグマンのこともしきりに頭に浮かぶ。

で、ブレグマンの日本語表記は何だろうと思って今検索してみたら、なんと、『隷属なき道』というタイトルで文藝春秋社から訳本が出ていて、出版記念に日本で講演までしていることが分かった。


彼は「昨日のユートピアが今日の現実」になるという歴史を通して、今ここでユートピアを目指すことの意味を説く。「現実主義」に立脚していては環境破壊や格差の増大など、むしろマイナスの側に滑り落ちるからだ。


この見方は私の見方と一致している。


それにはまず、この世界で、自由度、平等度が高まり、あらゆる人が尊厳を持ってそれぞれの人生を全うできる可能性が増大すること、が、進歩であり善であるという認識が共有されていなくてはならない。


自由主義や民主主義は「西洋から押し付けられた価値」だから「日本本来の伝統価値」に戻ろう、などという言説は今でもある。

それは間違っている。「西洋」だって今の価値観をいろいろな失敗と反省から抽出してきたので、決して「伝統的」などではなかった。伝統的なのは古今東西、父系制維持のエゴイズムだ。

「自由・平等・博愛」など、主流秩序(アメリカの白人だとか、金融業の成功者だとか、軍産業者とか)にいる人たちにとっては十分に不都合な「押し付けられた」価値観である。

その価値観に基づく世界の実現など程遠い。


それでも、その価値観を共有したからこそ、形だけでも奴隷制は廃止したし、形だけでも植民地は手放したし、形だけでも男女同権を実現したし、社会保障を制度化した。ともかく「昨日のユートピアが今日の現実」になっているのだと若いブレグマンが評価してくれるということは、まだまだ希望を捨ててはいけないということだろう。


「労働法の改正」と言っても、私の同世代の人たちは多くが定年後の年金生活者なので、資産のある人たちは世界中を旅行して楽しんでいる。

ベーシック・インカムがあれば人は自分のやりたくない仕事を斥けることができて、自分に向いた仕事に挑戦できるのだも言われる。

「労働」とは「生産」なのか、「生活の糧を得るための営み」なのかとあらためて考えてしまう。

年金で暮らしていける人々には「労働から解放された」と「自由を謳歌」するスタイルをとる人が多いからだ。

そんな人たちを身近に見ていると、毎日「仕事」している私は複雑な気持ちになる。

「好きな仕事をしている」と言われるかもしれないが、「仕事」と名がつけば必ず負荷があり、自己管理も必要だし、楽しくてしょうがないという気分でやれるわけでもない。私の周りの人が「悠々自適」というのをやっているのになぜ私だけそれこそ貧乏くさく禁欲的な作業をやっているのかなあ、とふと思うこともある。


新約聖書にぶどう園で日雇いされる労働者が、夜明けから働いた人も午前九時から働いた人も最後の一時間だけ加わった人も夕方には同じ額の支払いを受けたので、労働時間が長かった人が文句を言った、という有名なたとえ話がある。(マタイ20, 1-16)

支払う側は、最初に合意した条件を守ったのだから文句を言われる筋はない、と言う。

この、ブドウ園の給料がベーシック・インカムなのかもしれない。

そしてベーシック・インカムを想像しただけで不当感を持ったり、搾取されていると感じたり、嫉妬したりする人が必ずいることもこのたとえ話と同じだ。


キリスト教や福音書は「欧米」のお話ではない。

二千年前のパレスティナの話だけれど、いつも革命的で、いつもシビアだ。


仕事って、何だろう。




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by mariastella | 2017-09-02 05:07 | 雑感

バルセロナのデモ行進

8/26のバルセロナでのアンチ・テロリズム行進をテレビで見てやはり、ここはすごくカタルーニャだなあと思った。
カタルーニャの旗の色(白、赤、黄色)の花を配っているし、プラカードや横断幕の「私たちは怖くない」というのもカタルーニャ語で書かれている。

スペイン王も行進に加わったのだが、カタルーニャ自治州の分離独立派から野次をとばされていた。

バリで2015年の1月にアンチテロの行進があったときは、フランス全土で同時に行進があったし、大統領が率先して各国の首脳に呼びかけて集めたし、メイン・テーマが「表現の自由」(シャルリー・エブドの襲撃の後だったので)だったし、フランスってやっぱり中央集権国家で、大統領国王制の国なんだなあとあらためて思う。

まあバルセロナの場合は、現場が観光地の中心でバカンス中で、国際色豊かで、26日は8月最後の週末で天気もいいし、観光客もまだたくさんいるし、この行進が盛り上がるのも分かる。

2015/1のフランスの場合はシャンゼリゼが狙われたわけではなく、風刺週刊新聞の編集部というコアな所とユダヤ食品店の立てこもりや警官殺害などで、その10ヶ月後にカフェやコンサート会場の無差別テロが起こるとはまだ予想していなかったし。

ベルギーやオランダでも続いてテロやテロ未遂があり、本当に物騒だ。

でも、なんといっても2024年オリンピック開催のパリだから、もう今後テロはないかのようなふりをしている。実際、今年は観光客も戻ってきているらしい。

そういえばフランスはリヨン・オリンピックとかボルドー・オリンピックとか、マルセイユ・オリンピックとかはない。パリ一強の中央集権ぶりがここにも表れる。
スペインのオリンピックもバルセロナだった。公用語もスペイン語とカタルーニャ語だった。マドリードは2020年に立候補して東京に敗れている。

テロリストたちはヨーロッパの国によって「戦略」を変えているのだろうか。

ともかく、国によってアンチ・テロリズムへの反応が微妙に違うのを観察するのは興味深い。

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by mariastella | 2017-08-28 01:43 | 雑感

バルセロナのテロ その後

カタルーニャのテロの実行犯がバルセロナからそう遠くないところで射殺された。


前日まで、フランスでは、フランスに逃げたのではないか、EUのシェンゲン条約で国境がないのが悪い、国境審査を再開しろ、などと、また、「国別」の感覚で騒ぐ人たちがいた。フランス国籍を持つ移民の子孫のテロリストがいくらでもいることを誰でも知っているのに。


スペインは「イスラム国」への爆撃ではあまり存在感がないのに、モロッコとはすごく近いからやはり危険なのかなあ、と漠然と思っていたけれど、カタルーニャの地方都市アルカナルで120発もの爆弾を調達していたテロリストグループが「過激化」したのは、その爆弾の誤爆で家ごと命を落としたイマム(ベルギーから来た?)に故郷の村で効果的に洗脳されたからだそうだ。


彼らの生まれ育ったのはピレネー山麓のリポイという小さな町で、ベネディクト会修道院の遺跡が中心にあるところだ。そこには500人くらいのモロッコ人コミュニティがあるそうで、ごく普通に暮らしていたようだ。そこにやってきた過激派のイマムが青年たちを洗脳してしまった。イマムはベルギーに本拠地があったフランスのテロの起こった2015年にフランスやベルギーに滞在していて、今回も同じ爆薬を準備していた。


どうして短期間に普通の青年がイスラム過激派に洗脳されるかというと、シリアの子供たちが爆撃で死んでいくなどの映像を見せて感情に訴えるという定番ほかに、スペインがもとはイスラムの地で、カトリックに征服された、という理屈も使われるそうだ。

なるほど。

レコンキスタというやつで、まあ「再征服」で、もともとイスラムの方が後発宗教であるわけだが、ピレネーに住む若者たちには衝撃的な分かりやすい「聖戦」へのモチヴェーションなのかもしれない。


日本のメディアには、今回も、相変わらず、日本も安全ではない、同じリスクがある、というタイプの見出しがあったけれど、少なくとも日本にいるムスリムのコミュニティでは、今回のレコンキスタ・タイプの煽動は不可能だろう。

やはり歴史的な確執があって距離も近い中韓北朝鮮との問題の方がずっと深刻そうだ。


テレビではEUFBIを作る必要があると言っていた。

2015年のパリのテロも、ベルギー、アテネと渡り歩いていたテロリストが、どこでも国境を越えたら監視から外れていたので、もし相互の情報交換がなされていたらパリのテロは防げたといいきる専門家がいた(カルト監視役として私のお気に入りのGeorges Fenech)。

いや、情報を水平方向に交換するのではだめで、やはりすべてをセンターにまとめて、各国がそこから情報を引き出せるようにすべきだと。

実際は、フランス国内ですら、監視網がパリとパリ以外に別れていて、危険人物がパリを出たら、そこで監視が終わってそれが別の監視網に申し送りされないという驚きの実情なのだそうだ。

根本的にメンタリティを変えないと、各国間の連帯などできない。


5eyes体制でアングロサクソンの連携情報網に強いイギリスが、Brexitの条件の交渉で、イギリスのメリットを残してくれないならテロリストの情報の協力をしない、などとセキュリティを交換条件に持ち出したことに対してEUもイギリス内部でも批判が起こったことは記憶に新しい。

でもロンドンだって続けてテロに見舞われたし、その共同体主義が結果的にテロリストを守る盾になっていることもよく知られている。

また、どの国でも、「普通の人」が自宅でインターネットを見て洗脳されて一匹狼で車や刃物を使ったテロに走るとしたら、これも防ぎようがない。


「イスラム過激派のテロ」でなくとも、精神的に異常をきたして銃を乱射したり車で突っ込んだり、ひどい場合は自分の操縦する飛行機を墜落させたりする人だっている。威嚇的な軍事演習をしたりミサイル実験を繰り返したりする権力者もいる。


『猿の惑星』のように、せめて「人は人を殺さない」という基本ラインが普通にリスペクトされる世の中が来るといいのに。


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by mariastella | 2017-08-23 00:58 | 雑感

バルセロナのテロとサグラダファミリア

バルセロナの中心街に軽トラックが突っ込んだ時は、またニースのような間に合わせのテロかと思ったが、計画的にパリの同時多発テロと同じ種類の弾薬を多量に周到に用意していたらしいことが分かってきた。それが誤って爆発して死者まで出して、絶望したテロリストが車で突っ込んだのだという。

まだバカンス中で、多くのフランス人がバルセロナにいて、実際30ヵ国以上の国籍の死者や怪我人の四分の一はフランス人ということで「世界にこれまでバルセロナに行ったことがないという人なんているでしょうか」などと口走ったレポーターもいたが、それほどショックを受けたということらしい。

そしてサグラダファミリア聖堂が、シンボルとして何度も出てきた。

今回のテロで何度もカタルーニャ警察が、カタルーニャ政府が、と発表されて、スペイン警察とかスペイン政府がとか言われなかったので、あらためて、バルセロナ人にとってバルセロナはまずカタルーニャなのだということを思い出した。

私が最後にサグラダファミリアに行ったのは2003年の秋だ。もう10年以上も前になる。その時もじっくり見て回ったのはバルセロナのカテドラルの方だった。見どころがたくさんあるすばらしい聖堂だ。

で、サグラダファミリアでは、その近くにいた数人の地元の人にインタビューしてみたら、彼らは全員、サグラダファミリアこそがカタルーニャのシンボルだ、というのだった。「あの立派なカテドラルは?」とたずねると、「あれはローマのものだから」と答える。

驚いた。

パリのノートルダム大聖堂を「ローマのものだ」という人なんてみたことがない。


確かに、サグラダファミリアは、ある信心会(特に聖母の夫である聖ヨセフへの崇敬がもととなっている)のイニシアティヴで建設が決まって、そこにガウディがからんで、バチカンから一銭の援助もなく、個人の寄付と毎年400万人と言われる見学者の入場料だけで建設が続けられているという。

サグラダファミリアが、バチカンから、ベネディクト16世によってバジリカ聖堂という称号を得て祝別されたのは、私が最後に訪ねた後の2010年のことだ。(当時このブログにも記事を載せている。ガウディ列福の可能性のことも。ガウディは復活祭の四旬節の断食で死にかけたこともあり、晩年は隠修士のように暮らした熱烈な信仰者だったらしい。)

バルセロナのカテドラルとサグラダファミリアの関係は、一見、パリのノートルダムとサクレクールの関係に似ている。

ノートルダムは司教座聖堂のカテドラルで中世からの由緒あるゴシック教会だ。


サクレクールは、1870年の普仏戦争に負けたフランスで、その敗北は政治のせいでなくてフランス人の霊性が失われたからだという人たちが出てきて、贖罪のためにイエスの聖心に捧げる大聖堂の建設を計画してできた。1872年にパリの大司教がそれを許可し、翌年、ローマ教皇も合意して少し資金を送り、後に国民議会で公共の有用性があると認められてゴーサインが出た。代々の大司教がサクレクールの法律上の所有者とみなされることも決定された。

その後、第一次大戦のせいもあって、サクレクールがバジリカ聖堂として教皇代理から祝別されたのは1919年のことだ。(ここでバジリカというのは、教区を持たない教会で、聖地、巡礼地として認められるということだ。ちなみに、祝別時に納められた聖遺物はもちろん昇天したイエスの心臓ではなく、殉教者ピウス、デメトリウス、パシフィクスらの遺骨がローマからもたらされたようだ。)

バルセロナの事情は正確には分からないが、パリからの類推だと、では、2010年まサグラダファミリアは、巡礼地ではなく、プライヴェートな聖堂で「観光地」だったのだろうか。でも、2010年にわざわざローマから教皇が来て祝別したということは、あの、「これこそがカタルーニャの教会」、と誇らしげに言っていた人たちにとって、なんだか、「ローマに組み込まれた」ような印象を与えなかったのだろうか。

その辺の事情をもっと調べてみたい。(ローマ教皇から祝別された時の「聖遺物」は何だったのだろう。)

で、今回のテロのすぐ後で、まず、金曜日にバルセロナのカテドラルで大司教による犠牲者追悼のミサがあった。こういう時はやはりカテドラルなんだなあと思って聞いていたら、日曜にはサグラダファミリアで追悼ミサがあり、そこには国王夫妻や政治家、外交官も列席した。ミサを司式したのは、カテドラルの主である大司教だ。

このテロが2010年より前に起こったものだったなら、あるいはサグラダファミリアが今まだバジリカ教会だと認められていなかったのならどうなっていたのだろう。


また、国王夫妻が来ることで、この悲劇がカタルーニャの悲劇でなくスペインの悲劇という感じになることをカタルーニャの人はどう思ったのだろう。


バルセロナとマドリードのライバル関係も半端ではないし。


いや、観光産業が大切なこの町で多くの国の観光客が犠牲になったのだから、カタルーニャというより「国際社会」向けのメッセージが大切で、そのためにはローマ・カトリック色の強いカテドラルよりもモダニズムのシンボルであるサグラダファミリアがぴったりだとみな納得したのだろうか。


同じ日曜日の夕方、パリではカテドラルであるノートルダム大聖堂で犠牲者追悼のミサがあげられた。フランスでは、1905年の政教分離法以降、ノートルダム大聖堂の所有者はカトリック教会ではなくフランス共和国である。

今回のテロリストたちには、実は、サグラダファミリアを爆破しようという計画があったと言われている。スペイン有数の観光地を狙うという意味と宗教施設を狙うという意味で相乗効果を期待していたのかもしれない。

肥大を重ね、完成が2026年とかで、いろいろな問題も取りざたされているサグラダファミリアだけれど、今回、「テロの現場」とはならずに「追悼の場所」となり得たことで、ガウディの思いや「聖家族」のご加護に思いを馳せた人たちも、カタルーニャにはきっといるにちがいない。


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by mariastella | 2017-08-21 06:28 | 宗教

リー将軍の銅像をめぐる騒ぎを見て思ったこと

ヴァージニア州のシャーロッツビルにあるリー将軍の銅像の撤去をめぐってアメリカの白人主義が話題になっている。

私にとってリー将軍というのはアメリカではどうなのか知らないけれど、フランスのクロスワードパズルでよく出てくる言葉だ。


すなわち「南北戦争の将軍」というヒントで三文字が「LEE」である。

( 日本語でよく出てくるのは「OBI」「ISE」「ASO」。「ゲイシャが喜ぶ芝居」=NO(能)」というのも定番。ここでゲイシャというのは日本の言い換えに過ぎなく、ただ「日本の演劇」で二文字のものということだ。「英語の否」のNOというヒントよりはひねっているわけだけれど、クロスワードをするフランス人なら「能」がどんなものかを知らなくても簡単に解ける。)

で、私にとって、LEE将軍ってクロスワードパズルの穴埋めだったのが、今回の事件でしっかり顔や所業と結びついた。


彼自身は個人的に奴隷制に反対していたという話も聞く。

でも、フランクリンらもそうだけれど、その時代の主流秩序の中で生まれ育った人たちが、その価値観を覆すような生き方を表明するのは、特に公人の場合難しい。それなりに周囲を説得したり、賛同する仲間を忍耐強く集めたりという準備がいる。

キリスト教は、それが生まれた世界でまったく異端で革命的ですらあった価値観を導入した(だからイエスは処刑された)。その後歴史の長い回り道と試行錯誤の末に、その「自由、平等、博愛」をベースにして、あらゆる人間は肌の色や信教や性別、社会的立場などに関係なく権利において平等であり、同じ尊厳と安全を保証されるべきだという近代の人権主義が生まれた。

私はその世界で育った。だから、それまでは生まれた時代と場所によってさまざまに変わる主流秩序の中で支配構造に組み込まれてきた人類が、どんな弱者でも個としての等しい尊厳を持ち尊重されるべきだという(少なくとも)理念に到達したのは「進歩」だと考えている。


どこでもたいていは弱者の犠牲を想定して成り立っている主流秩序の中で、弱者が強者に反旗を翻すのは難しいし、強者の側にいる人が、人権主義の実践に到達するのも難しい。


でも、近代の人権主義に至る戦いの中で、もともと前近代的な主流秩序の中にいてその主流秩序を守るべきポジションにいた人がその戦いに負けた時に、スケープゴートにされた後て、いつまでも「悪」というレッテルをはりつづけられるのはきびしい。

例えば、アズテカ文明など、神に人身御供を捧げるような文化が主流秩序をなしていたところに、少なくとも神への生贄を廃止していたたキリスト教徒が入っていく。そして、アズテカの主流秩序は野蛮であり許せないと言って、そういう風習を廃止する。そのことによって、次の年に生贄になっていたかもしれない人の命が救われたかもしれない。だから、人権思想の大きな流れの中でそこはポジティヴだ(その後でキリスト教徒が神より経済利益を重視して先住民には魂がないと言って虐殺するのはまた別の話だ)。

で、その時に、侵略者と勇敢に戦って負けた先住民のリーダーがいたとして、その銅像が建ったとしよう。そのリーダーは、歴史の文脈において主流秩序の伝統を担っていただけだ。生贄復活を唱えるためでなく、その「人物」を記念し、歴史を記憶するために銅像があったとしてもおかしくはない。それを無理やり撤去すると別のイデオロギーになる。

ドイツでは絶対に公にヒットラーの銅像が存在することはない。なぜなら、彼は自分の独裁によって都合の良い秩序を唱えただけで、その前からあるキリスト教のもとの教えやら啓蒙の世紀、近代革命から少しずつ「進歩」して合意されてきた「人権尊重」の普遍主義を「意図的に侵害した」からだ。


一方、フランスでは、革命で否定されたブルボン王朝の王侯貴族の銅像も、その後の皇帝ナポレオンの銅像もある。

ブルボン家の王たちは、たまたま王家に生まれて当時の主流秩序にのっとった生き方をしたから、その秩序が後世から否定されても、彼らの人格までは否定されない。

ナポレオンはある意味では独裁者、帝国主義者ともいえるし、他のヨーロッパ諸国から「制裁」された存在でもあるが、フランス革命を「完成した」という政治的評価を受けているので、人権を顧みない絶対王権に舞い戻ったわけではない。

その理屈で言うと、リー将軍は、独立宣言の後の時代だとはいえ、彼の時代の主流秩序の中で与えられた役割を果たしただけで、「率先して旧弊に戻った」わけではない。

「自由・平等・博愛」をベースに殺し合わずに尊重し合って共生するという価値観は、社会進化論的に無理があるのかないのかは難しいところだ。

でも、大量の死者を出した近代戦争の惨禍や核兵器の危機を認識した今の国際社会では人類サバイバルのための一応の合意となっている。

それが一応の合意となるまでの長い道のりの中で、それに反する主流秩序の中で生きたリーダーたちは、確信犯の独裁者とは違う。


ほおっておけば複雑系の事象を善悪二元論で切って捨てがちな私たちにとって、「情状酌量」というのは、、ひとつの「智慧」だと思う。


今生きている私たちは誰でも、延々と生命を伝えてくれた先祖たちの子孫だ。その先祖たちには、生存戦略として、他者、弱者の命や尊厳を奪って生きのびた人などたくさんいると思う。

そのことの「悪」(すべての人が尊厳を持ってその生をまっとうできること、を、意図的に阻害することをここでは悪と呼ぶ)について思いをはせたり反省したりするのは必要だろう。でも、本人の意思に関係なく運よく主流秩序のマジョリティに生まれたからそれを利用して生きたり生きのびたりしてきた「人」そのものを裁いたり否定したりする権利は誰にもない。

もっともこのブログにもプーチンと聖ウラジミール銅像のエピソードを書いたことがあるように、権力者が突然自分に都合のいいイコンを銅像にして持ち出すことは珍しくない。

ナポレオンの像やジャンヌ・ダルクの像の使われ方についてもこれまで述べてきた(『ナポレオンと神(青土社)』『戦士ジャンヌ・ダルクの炎上と復活(白水社)』。


罪を憎んで人を憎まずというのは実際はなかなか難しい基本だ。

「人」を銅像化して偶像崇拝することで「罪をなかったことにする」方がずっと簡単かもしれない。だとすれば、人間が進歩した証としての自由・平等と人権思想の普遍主義をプラグマティズムの名のもとに看過することなく、そこから退行しないように常に意識していなくてはならない。

本当に弱い人は常に淘汰されてきた。今ここに生きている私たちは、歴史のどこかで強者に与して弱者を踏みにじって生きのびてきた人たちの子孫なのだろう。

その意味で私たちはみな差別者、強者、または強者への追従者を先祖に持つ。

その先祖の銅像を拝むことも辱めることもしたくないが、そうして命を受け継いできた者として、みなが、自分の代で少しでも他者を排除しない共生の道へと舵を切る努力をすることが「先祖」の供養ともなるのではないか。


アメリカ南部の話だけなどでは、ない。


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by mariastella | 2017-08-20 06:12 | 雑感

広島忌、自衛権、自然法

きょう(日本時間ではもう昨日だが)は「広島忌」だったので、ブログ「広島の心を世界に」を読んだ。被爆72周年原水爆禁止世界大会の報告には胸が詰まる。

その少し前の記事に、憲法学者の石河健治教授の講演の要旨があり、興味深く読んだ。

四部からなる。

http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-85b4.htm

http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-2c15.html

http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/9-4-b38a.html

http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-4d59.html

この中で「財政によるコントロール」という視点に最も注意を喚起された。

今はイデオロギーも政治も平和も「金」に裏打ちされている世界であるからだ。

執筆中の「神・金・革命」の中でも考えているところだった。


しかし、この講演の論旨の中で足りないところも大いにあると思った。

ヨーロッパ大陸での戦争の歴史と、冷戦によって歪んできた「国際法」の実情だ。


で、この前、ドイツには個別自衛権がないと書いたが、そのことについて詳しく調べてみようと思ってネットをサーフすると、非常に面白い二つの論文に行き当たった。ひとつはフランスのもので、

グルノーブル第二大学のティエリー・メニシエ「自衛権の歴史-- 国際法の《現実的残基》 ?」

というもので、もう一つは少し古いのだけれど、1970年代の西ベルリン大学国際法学、比較法学研究所教授で所長のWilhelm WENGLER という人による「戦力行使禁止の問題と傾向」というものだ。


私は日本における個別自衛権の問題と集団的自衛権の問題の議論で分からないことがいろいろあった。日本では集団的自衛権の行使、即、アメリカの戦争に自衛隊を派遣する、かのようなイメージだったからだ。それと比べると、同じ「敗戦国」ドイツが集団的自衛権しかないというのは、NATOEUや国連の枠内でしか軍を出せないことなのか、確かに、ドイツが隣接するヨーロッパ諸国から軍事攻撃をされるという可能性はゼロということだからなあ、などと思っていた。ドイツに個別自衛権を与えたら、また全体主義的領土拡大に向かうかもしれないと牽制されているのだろうか、と。

それに比べたら、日本は島国なんだから、個別自衛権だけで外に出ていきさえしなければ鎖国時代の平和が証明しているように平和なんでは? いや、すでに「鎖国」がたちいかなくなったように、今の時代はどこからミサイルが飛んでくるか分からないんだからそんなことは言っていられないんだし…。などとも。


で、歴史を紐解けば解くほど、


知的な考察は大昔からレベルが高く、

実態は、大昔から、フランス語で「校庭の喧嘩」と呼ばれるレベルの力比べと支配を拡大するエゴイスティックな欲望の繰り返しだ。


今のフランスだって、ジャン・ボダンが言ったように「ひとつの共和国の絶対で恒久的な力」を主権としているのだ。

絶対、とか恒久的、とかいう言葉が出てくる時点でもうそれはある時代のある共同体のエゴの表現でしかない。


1945/6/26の国連憲章51条の軍事力行使の原則禁止なんて、すぐにアメリカによるレバノン、ベトナム、ニカラグアへの派兵、ソ連による1969年のプラハ侵攻、1979年のアフガニスタン侵攻、などの口実となっただけで、必ずしも国連の承認など得ていない。

1967,1975,1981年にはイスラエルが予防的自衛権を唱えて、アメリカもイラク派兵にそれを使った。こんな風に勝手に使い回される「自衛権= 正当防衛」論には、それ自体の起源に「逸脱」のもとが含まれているのだろうか。

すでに、人は誰でも自分の命や財産を守る権利がある、という「自然権」思想そのものの出発点において対極的なヴァージョンが存在した。


理想主義ヴァージョンと現実主義ヴァージョンだ。


理想主義ヴァージョンは、キケロが明文化したもので、ギリシャ思想の中にすでにあった文書化されていない自然法に基づく。ローマ共和国の終焉から独裁政治のストラクチャーの移行という危機の時代の中で、キケロは、独裁を非合法であり不当なものであると見なす根拠として、目に見えない自然法の道理を持ち出した。

それに対して、現実主義はプラトンの時代からあって、神々の世界であろうと人間の社会であろうと、「強いものが命令する」という自然法がある、としている。それは太古から存在する法で、誰でもそれに従うものだ、と。

これって進化論の弱肉強食の選択淘汰に通ずる直感のようだ。


で、実際は、「自然法」や「自然権」の思想はその両極の間を揺らいできて、現実には、その時々の「力」を蓄えた覇権主義者によっていいように使われてきたわけだ。


国連憲章の平和共存や、戦争禁止の各種条約も、今や、「人類全体のサバイバル」を視野に入れない限り意味がないし、主権国家がそれぞれ、それに沿う具体的な法律や条令をつくったり行使したりしない限り、真の安全や平和に到達することなど不可能だ。


「総論」としての「平和共存」と「戦争の放棄」には何とかたどり着いているのだから、今さらそれをいじくりまわすのも不毛である気がする。


そういえば、(6/10)の『朝日新聞』朝刊「声」欄の投書というのをネットで読んだ。


>>>「教育勅語」切り売りは無意味

無職 花輪 紅一郎(東京都 67

 「殺すな」「盗むな」「うそをつくな」「淫行するな」の四つは、仏教の五戒と旧約聖書の十戒に共通する徳目であり、万古不易の人の道の基本と言っていい。

 近頃、「教育勅語」には時代を超え、世界に通用する道徳があると持ち上げる人たち がいるが、この四つが含まれていないことをご存じだろうか。逆に、勅語の1丁目1番地 である冒頭の「君への忠」をなぜ無視するのだろうか。

 教育勅語は「君への忠」から始まり、「皇運扶翼」まで一貫した徳の体系の中に他の 徳目を組み込む構造になっている。「兄弟仲良く」したり「学を修め」たりするのは何の ためか、究極の目的を抜きに個々の徳を切り売りしても意味はない。勅語の核心は、すべては「ために命をなげうつ忠誠心を持った人になることだ。そこに「殺すな」や「盗むな」は入り込む余地はなかったのだ。

 もし人命尊重や略奪禁止を掲げていたら、侵略戦争や日本兵の残虐行為はなかっただろう。人の道の基本を抜きに、天皇への忠誠心のみを求めた勅語の過ちは戦後反省したはずだ。私は高校で倫理を教えていた。道徳に「殺すな」「うそをつくな」は欠かせない。<<<


というものだ。


しかし、仏教でも旧約聖書でも、そろって「殺すな」「盗むな」「うそをつくな」「淫行するな」と言っているのは、これらがよくよく「人類普遍」の誘惑だということなのだろうなあとおかしくなる。


それでもあまりこれを野放しにすると「類」として滅亡してしまう可能性があるからこそ、社会進化論的にこのような戒律やら「やっちゃいけない」総論の自然法ができてきたんだろう。


そこに忠君とか愛国とか根性だとか、ある時代のある社会でだけ有利な各論の「うちの法律」を立てても、長い目で見るとかならず局地的な破滅につながってきた。

ヨーロッパの歴史、欧米主導の歴史もその繰り返しだった。


それが全地球的な破滅に至らないためには、国連憲章でも今回の核兵器禁止条約でも、「やっちゃいけない」総論の確認を何度でも何度でも繰り返すしかないのかもしれない。


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by mariastella | 2017-08-07 02:38 | 雑感

北朝鮮と日米仏とシビリアン・コントロール

天木直人さんのブログで軍事のシビリアンコントロールについて考えさせられた。

 >>>たったいまNHKの正午のニュースが、岸田防衛大臣兼防衛大臣が記者団に対し、北朝鮮による今回の弾道ミサイルの発射を踏まえ、きょう30日午前、九州西方から朝鮮半島沖にかけての空域で、航空自衛隊とアメリカ空軍による共同訓練を実施したことを明らかにしたと報じた。(・・・)

  このタイミングで米軍と共同訓練することの危険性はあまりにも大きい。

 北朝鮮が繰り返し言い続けて来た事は、北朝鮮の目と鼻の先で米韓共同訓練をやめろということだ。

 挑発行為を繰り返すから、北朝鮮はミサイル実験を繰り返し、断固戦うという瀬戸際政策を取らざるを得ないのだ。

 米韓と北朝鮮は、あくまでも休戦状態でしかなく、依然として朝鮮戦争を戦っているのだから、米韓が共同軍事演習を重ねる事はまだ理解できる。

 しかし、憲法9条を持った日本が、米韓と北朝鮮の戦いに参加してどうする。

 この日米共同軍事演習は、日本が率先して北朝鮮との戦争に加わるようなものなのだ。

 その違憲性と危険性をいくら強調しても強調し過ぎる事はない。

 しかし、私が衝撃を受けたのはそれだけではない。

 この日米共同軍事演習が大臣不在で決定されたことだ。

 いうまでもなく岸田防衛大臣は防衛大臣になったばかりだ。

 日米共同軍事演習の決定が急に下されたなどという事はあり得ない。

 岸田外相が防衛大臣を兼任する前に決まっていたはずだ。

 防衛大臣を兼任したばなりの岸田大臣は、それを追認して発表したに過ぎない。

 そして2日前までは防衛大臣は稲田大臣だ。

 稲田大臣が防衛省の制服組から相手にされていなかった事は日報疑惑問題の迷走で明らかだ。 
  これを要するに、北朝鮮との戦争につながりかねない日米共同軍事演習の決定が、防衛大臣不在のまま米軍の命令で航空自衛隊との間で進められ、決定されていたと言う事である。

 これ以上ないシビリアンコントロールの逸脱だ。(・・・)

  日本は国民がコントロールできないところで戦争できる国になりつつある。

 はたして野党は8月初めにも行われる日報疑惑に関する国会閉会中審議で、この日米共同軍事演習に関するシビリアンコントロールの逸脱について追及するのだろうか。

 おそらく辞めた後の稲田前防衛相のウソ答弁の追及ばかりに終始するのではないか。

 もしそうだとしたら、この国の政治は国民を守る事は出来ないということだ。

 たとえ間違って野党が政権を取ったとしても、米軍の日本支配は何も変わらない、変えることは出来ない<<<<


というものだ。

これを読んで、まず、先日からのフランスでの大統領と参謀総長との確執、その中で、大統領が首相を通して任命した女性軍事大臣がほとんど一言も発しなかったこと、などの経緯とのあまりの違いに愕然とする。

日本の首相が防衛大学校の卒業式で自分が自衛隊のトップだと強調する姿とマクロンが「ぼくが一番」と肩をいからせる姿は少し似ているけれど、マクロンは少なくとも国民の直接選挙で選ばれている。

それでさえ、ド・ヴィリエ将軍は、文官による軍のコントロールは大統領の独断ではなく議会における討論を経るべきだと言っていた。

生きるか死ぬか、殺すか殺されるかのような「軍事」に関する決定は、まさに人の「命」にかかわるものだから、慎重すぎるほど慎重にしても、ある意味で「瀆聖」である、という直感は、遠くから手を汚さずに司令する人にではなく現場にいる人にこそ働くものだろう。

それに対して、いくら自衛隊は軍隊でないとか戦闘には関わらないとか言っても、アフリカに派遣されたり軍事演習に参加したりする時点で、「自衛隊のトップ」の文官である首相が、ここまで「不在感を隠さない」というのは、例の「日本は主権国ではない」説を裏付けるものなのだろうか。

ネットで読んでいる週刊誌の記事にはこういうものがあった。

週刊新潮8/3号の宮家邦彦さんの『国際問題--鳥の目 虫の目 魚の目』というコラムだ。

彼は、自衛隊派遣現場の日誌など、もともと非公開の性格の情報を公開しないものは必ずしも「隠蔽」ではない、としたうえで、

「文民たる政治家が軍隊を統制することであり、軍事に対する政治の優先を意味する」

という「シビリアンコントロール」の定義に注釈をつける。

>>>真の文民統制とは、防衛省内局を含む文民が自衛隊の一挙手一投足を管理することではなく、自衛官(軍人)に政治責任を負わせてはならないということ。<<<

というのだ。

フランスの場合は、フランス政府の政治的判断による広域派兵に対して圧倒的に予算が足りていない現状に対して参謀総長が異議を唱えたことで大統領と衝突した。

日本とはいろいろな意味でまったく事情は違うけれど、共通しているのは、どの国の政府も、基本は、シビリアンコントロールによって「軍を管理」するのでなく「危機の管理」を優先させるべきだということだろう。

グローバルな時代のリスク・マネージメントは複合的だ。

核兵器を開発して人類を全滅させる潜在力が生まれたり、核エネルギーで地球全体の環境を破壊したり、と、リスクは、昔は考えられなかったような超複雑系になっている。

もはや、「一国の主権が隣国に脅かされる」、などといったナショナルな視座に立ってだけで判断できるようなものではない。

どんなに頭のいいエリートのリーダーがいても、すべてをカバーできない。

歴史学、地政学、経済学、自然科学、社会学を超えたグローバルな集合知が必要とされる。

一人ひとり、あるいは一国、一地域のエゴのレベルの危機管理はもはや意味がないのだ。

でも、今の時代だからこそ、IT技術を介した「正しい(つまりすべての人の尊厳を個々の共同体の利権より優先する)集合知」を築いていける可能性もないではない。

早い話、私がもしも、わずか100年とか150年前に日本の女性として生まれていたら、自分の家族とかご近所とか世間さま以上のものに目を向けていただろうか?

いや、50年前でも、ヨーロッパの情報など「教科書」程度しか知らなかったし、フランスに来たら来たで、日本の情報にうとくなったので、全体の相関性がうまくつかめなかった。だから、むしろ歴史や文献をさかのぼって、「特殊の中の普遍」をさかのぼるような形で比較文化史や宗教史を研究してきたのだ。

でも今は、国立図書館の膨大な資料も、主要大学の博士論文や学術雑誌の論文も、その解説も、毎日の各国ニュースや雑誌記事や市井の人々の反応まで自宅のパソコンの中で読める。

毎日毎日、入ってくるさまざまな情報を「グローバルな危機管理」に向けた有機的な集合知の形成というベクトルをもって篩にかけることも可能だ。

「正しい集合知」の形成がどこれからの世界のような展開を見せるのか、知的な興奮をかきたてられる。

そのためには長生きしたいが、地球にも、長生きしてほしい。


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by mariastella | 2017-07-31 00:44 | 雑感

女性の罵詈雑言

何だか最近の日本で話題になっている女性議員の「罵詈雑言」についての意見を求められた。


私は、今はネットでの日本の雑誌配信サービスを利用できるのでこの話は週刊誌の記事ですでに知っていた。意見を求められたのでネットで録音をちらっと聞いてみた。

感想は…通り一遍に言われていること以上のものはない。

本人も含め関係者全員、お気の毒にと思うばかりだ。

思わないのは、「誰にでもこういうことを思うことはあり得るし時と場合によっては口にだってしかねない」というタイプの反応だ。

前にも舛添さんのことで書いたけれど、私は、他の人のどんなスキャンダルや隠していた「不都合なこと」が露にされてバッシングされても、たいていは身につまされる。

嘘も、裏切りも、使い込みも、身内びいきも、保身も、忖度も、ごますりも、程度の差こそあれ、いかにも自分でもしそうなことだったり、してきたことだったりだからだ。

また、今までにしてはいないしこれからも多分する機会はないにせよ、時代の流れや状況によって、また群集心理や恐怖やパニックにとらわれれば、弱者の虐待やら差別やらホロコーストへの加担や密告や、拷問や死に通ずるボタンを押すなどと恐ろしいことも、自分なら絶対にしないなどという自信はまったくない。

私は多分単独のすごい「ワル」ではないけれど、みんながやっているなら「石打ち刑」にでも参加しそうな危うさがあることを自覚する程度の良心はある。

その私が、「絶対にしない」というか「できない」と思うのが、罵詈雑言を口にするということなのだ。

多分、幼い頃に「禁忌」とされた言葉にはブロックがかかって、よほどの「治療」でも施さない限り音声言語化できないのだと思う。

私に関して言うと、多分戦争体験のトラウマなんだと思うけれど、いつも優しくて何でも好きなことをさせてくれた実家の母から、「死ぬ、死ね。殺す、」などの言葉には耐えられないから絶対に口にするな、とそれは真剣に訴えられた。

多分きょうだいげんかをしていて、それに類した言葉を兄や私が発していたのだろう。母は血相を変えて禁じた。その母の顔を私は今も覚えている。

だから私は、そのたぐいの言葉を、単独で発するということができない

「日本、死ね」とかいうようなネット語も、多分書けないし、誰かに憎しみを抱いたとしても、頭の中でさえその種の言葉を罵詈として形成できない。今回の女性の発したような言葉はどれも、私の口にできる語彙にない。

フランス語の方が若干、「ダメだろ、おい、」みたいな感じの口調はブロックされていないので口に出せるけれど、いわゆる汚言は、誰でも気軽に口にするようなものでも相当な決意がないと口にできないし、頭にも浮かばない。でもこれは幼い時の母の表情や真剣さとはセットになっていないから、無理をすれば出てくる。

けれども、フランスの子供でも、その言葉を小さい頃から禁じられており、家庭では絶対に耳にしない環境で育った場合に、学生になってから仲間といてハンディキャップになるほどに「口にすることが不可能になる」場合がある。それを「言わない」のではなく「言えない」ということが周囲にばれると揶揄されたりハラスメントを受けたりする可能性もあるので細心の注意を払うという。大人になってしまえば、汚言を口にできなくても別に深刻なハンディとはならない。

今度の罵詈雑言事件で、ある女性作家が自分は18歳までずっと母親からそのような暴言を浴びせられ続けてきた、とブログで書いていたのを目にした。よく耐えてきたものだと思う、と言う。

「汚言を口にするな」という母からの禁忌がこれだけ功を奏するのだから、暴言というDVを親から受けてきた人がそこから回復するのは大変な困難だろう、と思う。

今回の女性がどういう経緯でそういう言葉を口にできるのか私には分からない。議会で飛び交うヤジでさえ、私にはハードルが高い。

これは人格の高さとかとかは関係ない。

前述したように、どんな嘘やごまかしや背信だって私には多少の身の覚えがあるし、それに類したことをしないなどという自信は毛頭ないからだ。

ただ、ジル・ド・ラ・トゥーレット症候群のことを考えた。

長い間「悪魔就き」の典型的な症状のように思われていた時代もあった。「汚言症」というチックの一種で神経障害の難病だ。そうなると、普段口にするはずのない罵詈雑言や本人が知るはずのないような卑猥な言葉などがすごい勢いで発せられる。「悪魔払い」の映画などで少女や修道女などがこれを発するとそれこそ鬼気迫る印象的なシーンができあがる。

アルツハイマー病に罹った高齢女性で、昔は上品だったのに、急に怒りっぽくなって暴言を吐くようになったというケースを見たこともある。

私はいろいろな誘惑になびかないように努力はしているけれど、「暴言」を吐く心配だけはして来ずに済んだ。

願わくば、これまでひょっとして無意識に抑圧してきた罵詈雑言がどっと解放されるようなタイプの神経症や機能障害に縁がないままこの先も穏やかに暮らしていけますように。
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by mariastella | 2017-07-24 04:08 | 雑感

ド・ヴィリエ将軍の辞職

マクロンとド・ヴィリエの金曜の会談がどうなるのかと思っていたら、将軍が水曜の朝に自ら辞職した。そのせいで水曜は一日中、SNSでコメントが飛び交った。

フランスの「労働者」で唯一、デモ行進などの抗議行為を禁じられているのが軍隊だから、マクロンの強権的態度がくやしい、という匿名の兵士。

マクロン政権樹立の後バイルーやふぇろんなどの重鎮が次々辞任することになった。マクロンの任命責任はどうなる。

ド・ヴィリエは抗議のためでなく、屈従でもなく、ひたすら軍隊のために辞任した。軍人のトップである自分と文官のトップである大統領に完璧な合意がない状態というのは兵士たちを動揺させるからだ。

etc...

私は前にも書いたようにド・ヴィリエを支援する立場だけれど、感心したのは、マクロンがすぐに後任に使命したのがフランソワ・ルコワントル将軍という、これも完璧な人材だったからだ。(見た目はなんだかブリュノー・ル・メールに似ている

ド・ヴィリエ将軍と同じく、文句のつけようのない立派なキャリアと人格と知性があるという。柔軟でユーモアも備えているが何よりもカリスマ性があるようだ。

ボスニア戦争で若くして実践での「英雄」にもなった。

55歳で4人の娘の父で敬虔なカトリックだそうだ。

軍のトップの武官に知的エリートが不足していないことがすごい。
ブリス・エルブランの著作について書いたこともある。)

今回の対立に関しては、ずっと沈黙を守っていた軍事大臣であるフロランス・パルリーは水曜午後の議会で共和党に意見を求められて、通り一遍の応答をしたがヤジも飛ばされた。
パルリーは総選挙後に就任したばかりだし、マクロンの演出の一部だと思うが大臣に女性を任命することで「軍の総帥」は男の自分であることをいっそう印象付けていた。
今回も、マクロン対ド・ヴィリエという「二人の男の対決」という図になり、

「憲法で規定されている通り、軍の最高指揮権はボク」というのに支えられてマクロンが「勝った」形になる。

若いマクロンの強権発動ぶりを批判したり揶揄したりする人も多いし、マクロン新党の議員空すら異論も出てきた。
けれどもオランド大統領のカリスマ性のなさにうんざりしていた人も多いので、その反動もあって、マクロンのパフォーマンスを好意的に見る人も少なくはない。

私は時々パリのミリタリー・サークルのコンサートやパーティに出ることがある。

フランスの軍人と最も深い付き合いをしたのは2011年の東日本大震災の後にチャリティコンサートを開催した時だった。
に少し書いている。

海軍参謀総長は最初から最後まで完璧に協力してくれた。

コンサート後のパーティに私がすしの配達を手配したら、参謀総長が、自分が個人でシャンパーニュなどを提供すると言ってくれた。

日本でコンサートをしたら、いつもどこでも、楽屋もちゃんとしていて、飲み物や軽食も用意してくれ、主催者側が至れり尽くせりで対応してくれる。私たちは感激する。

けれども、フランスでコンサートをすると、楽屋の準備ができていなかったり舞台とのアクセスが悪かったり、こちらでいろいろ工夫して自衛しないと大変だというのがまず標準である。
普段は贅沢をしない私たちだけれど、コンサートの前というのはストレスがかかっているから、小さな不都合や不満が重大なマイナスになり得る。
トリオのふたりの精神的な弱点も知り尽くしている私にはかなりのプレッシャーだ。

海軍サロンでのコンサートにはトリオだけではなく、知り合いのフルート、琴、カウンターテナー、ハープ奏者、バロックダンサーなどが参加してくれたから、当日のリハーサルなどがうまくいくように私は飲み物や軽食も用意していった。ビデオの撮影も依頼していた。
ところが、サロンには、すでに、パーティの用意とは別に出演者たちのために飲み物と食べ物が置かれていた。
パーティでも、私はセルフサーヴィスのつもりだったのだが、制服姿の回軍兵士たちがすべての給仕をしてくれた。
参謀総長が手配してくれたカメラマンが撮影もしてくれて、後日、写真を送ってくれた。

まるで、日本で日本人の主催者とコンサートをした時のようだった。

当日の主催は公式には私のNPOであり、私が参謀総長らを「招待」するという形をとっていたのだけれど、実際はすべてのロジスティックをケアしてくれた。

参謀総長につなげてくれた海軍士官クラブの人たちとはあまりにも感覚が違うので招待状の発送などの段階ではひどいストレスにもなったけれど、あの日の記憶はひたすら、演奏者やダンサーたちの善意と共に、全海軍のトップである参謀総長の人間性と確固とした支援と好意の思い出となった。

軍のトップには「権力」でなく「権威」が必要で、それは豊かな人間性と知性と共感能力に支えられて築かれた信頼となって現れるのだということが理解できた。

軍の指導者や伝統宗教の指導者に、共和国のエリート中のエリートがかなりの層をなしているのは少しほっとできる。





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by mariastella | 2017-07-21 02:06 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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