L'art de croire             竹下節子ブログ

Léo Larguier レオ・ラルギエのオレンジの樹

長年の友人であるジョゼットが、レオ・ラルギエの詩をテーマにした油絵を描いた。

J'imite l'oranger, il est un grand artiste,
La gloire d'été, ne l'a jamais séduit,
Travaillant à son or ainsi qu'un alchimiste,
Car ce n'est que l'hiver, qu'il a parfait son fruit.
私は真似る、オレンジの樹を、彼は偉大なアーティスト、
夏の栄光に惹かれたことは一度もない、
なぜなら錬金術師のように金を練りながら、
冬にしかその果実を完成することはないからだ
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うーん。日本語訳がぱっとしないけれど、これが、苦労を重ねてきた83歳のジョゼットを支える言葉であることは間違いない。

180cmの長身に完璧なプロポーション、金髪に青い目、淡いピンクのスーツを颯爽と着こなしてやってきたジョゼット。
変わらない。
17年前、彼女がコンセルヴァトワールをリタイアした後で私たちは時々いっしょにパリの美術館の展覧会に行った。そんな時、すでに70歳近かったのに、必ず、ジョゼットに声をかけてくる男たちがいた。

彼女は私たちのトリオをモデルにした絵も描いてくれたし、トリオの曲をテーマにした絵も描いてくれた。コンサートにはいつも大輪の薔薇を一輪だけ持ってきてくれた。薔薇は私たちよりもジョゼットに似ていた。

イタリア移民の両親のもとでフランスに生まれたけれど戦中、戦後と苦労した。
結婚して2人の娘もできたけれど、娘たちが独立した頃に間もなく夫に先立たれた。
その後ユダヤ人の医者と暮らしていたこともあるけれど、医者が同居していた母親のアルツハイマーの進行を認めないことで関係が悪化して、別れて以来一人暮らし。

彼女のように完璧な容姿を持っている人がどのように「老いる」のかは想像もつかなかったけれど、今も、完璧に美しい。彼女がTシャツとジーンズで現れたとしたら天地がひっくり変える。

最近車を手離したのでバスにのってやってきた。

昔は彼女の絵画制作を「趣味」だと思っていた。
今は、彼女の「生き方」だと分かる。

孫もひ孫もいる。慕われているけれど、基本的には関心がない。
絵を描くことが彼女のアイデンティティなのだ。

彼女が最近モットーにしている言葉は「Le pire est incertain. (最悪は不確実である)」というもの。
人は誰でも、悪い方の可能性ばかり考えていたずらに恐れるけれど、よいことが確かでないように、悪いことが起こるのも確実ではない。マーフィの法則の逆だ。
私も採用。

で、オレンジの樹。
夏の栄光を求めることなく冬になって太陽のような果実を完成させる。

人生は、錬金術。




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# by mariastella | 2018-09-22 00:05 | 雑感

『肉体の冠』(1952) ジャック・ベッケル

『アフリカの女王』を新しい視点で観た次の日、なんだか同じ時代のフランス映画はどうだったのかと見たくなって、やはりTVで放映された『肉体の冠』を視聴した。

で、この記事を書くために日本語ネットで検索して『肉体の冠』という邦題に驚いた。

しかも当時のキャッチコピーが、

「非情な美しさ、悪魔的な冷酷さを豊満な肉体の底に秘した巴里女! 男たちをしたがえ、燃えるようなブロンドの髪を陽光に輝かせて行く」

というものだ。

「肉体の何とか・・」というのは「昭和」の映画によく使われた気がするけれど、タイトルもキャッチコピーもまったく内容とあっていない。

ラディゲの『肉体の悪魔』(クロード・オータン・ララ)がヒットした後だったからなのだろうか。

それでも、こちらも「身に潜む悪魔」と訳してもいいのだから、「肉体」はやはり昭和テイストなんだろう。

原題の「Casque d’or」は直訳すると「金兜」という感じで、肉体とは関係ない。ブロンドの前髪を高く結い上げた娼婦のニックネームだろう。

シモーヌ・シニョレの演じるマリーは、「悪魔的な冷酷さ」とは無縁でどこか無邪気だし、赤毛ならともかくブロンドが「燃えるような」というのもなんだか変な形容だ。

20世紀初めのベルエポックのパリのベルヴィルに実在したアメリ―・メリという娼婦にまつわる事件にインスパイアされた映画で、彼女のニックネームが「カスク・ドール」だった。バイセクシュアルで他の娼婦と同棲していたし、マンダという男は映画のようにギロチンにかけられず1902年にギアナの強制労働に送られ、彼女も1917年に結婚して堅気になっている。

その意味では、この映画は『アフリカの女王』と制作年も1950年代初頭でほぼ同じだし、1914年が舞台の『アフリカの女王』と物語の時代も重なっている。

アフリカの奥地とパリという違いがあるけれど、馬車が走っていたりするパリの方が「時代物」という感じがする。アフリカのジャングルの映像なら21世紀の今も同じイメージだからだ。特殊な場所だから、ある意味古くなっていない。

パリで女性が帽子を被っていないのは召使か娼婦だというのは少なくともブルジョワ地区では5月革命の前あたりまでそうだった。

宗教的なシーンとしては、教会から歌が聞こえてきて、「日曜じゃないのに」と覗いてみると結婚式だったという場面がある。その時に娼婦のマリーはショールを頭にかぶって髪と胸や腕を覆い、マンダの方はかぶっていた帽子を脱ぐ。カトリック教会の習慣があらゆる階層の人に共有されていたのが分かる。

ギロチン台に引きたてられていくマンダを無理やり支えて十字架を顔の前に近づける監獄付きの司祭もいる。

今と変わらないフランス的な場面は、マリーがギャングの親分の部屋でチーズを食べるところかもしれない。

「陽光輝く」というのは、パリから逃げて農場に実を隠す二人の牧歌的なシーンがあるからだ。

『アフリカの女王』はカラーだがこの映画はまだ白黒、というのは米仏の経済力の差だろう。

1871年のパリ・コミューンといつも結びつけられるLe Temps descerises(さくらんぼの実るころ)のメロディが何度も流れる。

これはイヴ・モンタンの歌。

この映画の撮影時にはシモーヌ・シニョレとイヴ・モンタンは結婚したばかりだった。

今思うと、ドイツ移民とイタリア移民出身のこの二人は、フランスを代表する文化人で知識人のカップルだった。

しかし、ドイツ系からかもしれないけれど、この映画のシモーヌ・シニョレはなんだかロミー・シュナイダーとそっくりだ。

相手役のセルジュ・レジアニはオマー・シャリフの若い時みたいだ。セルジュ・レジアニはイヴ・モンタンとほぼ同じ年で、やはりイタリア移民出身。

こう見てくると、日本人的感覚では「フランス人って何?」となりかねない。でも、フランス人の「混ざり具合」というのは、移民国家アメリカと変わらないと思えば不思議ではない。

純粋に映画としてみれば、視線の使い方がうまいのが目立つ。

ダンスのシーンも。

ラストの螺旋階段も。

拳銃を連射するマンダも、手元はまったく映さないので、撃ったのか撃たれたのか分からないくらいの怖さだ。

最初にマンダがマリーとワルツを踊る時に、まったく左腕を使わないでだらりと垂らしたままなのが印象的だった。ギャングたちのキャラが豊かなのもおもしろい。

でも、単純に比べると、『アフリカの女王』と『肉体の冠』というほぼ同時代を舞台にしてほぼ同時代に制作された二つの映画の最も大きな違いは、やはり、ハリウッド映画のハッピーエンドとシビアな終わり方のフランス映画、ということになるのだろう。


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# by mariastella | 2018-09-21 00:05 | フランス

『アフリカの女王』(1951)ジョン・ヒューストン

『アフリカの女王』をArteで観た。

ジョン・ヒューストンの1951年の映画。

ハンフリー・ボガートとキャサリン・ヘプバーン主演の有名な古典だ。


これを観たのは初めてではない。

最初の時もTVの放映だったと思う。


「アフリカの女王」という蒸気船が舞台のエキゾティックなシーンのことはいろいろ覚えている。

でも、主演の2人は私の好きなタイプではない。

今回もう一度見ようと思ったのは、舞台がドイツ領東アフリカだということにあらためて気づいたからだ。

今のアフリカで中国が進出していることや、EUから離脱するイギリスがアフリカとの取引を強化していることなどの昨今の情勢を見ながら、イギリスとフランス、ベルギーなどがアフリカ大陸を「山分け」して来た歴史について近頃あらためて考えていた。

で、少なくとも、ドイツやイタリアは領邦国家だったから植民地政策に「遅れ」をとっていたなあと漠然と思っていた。そして、今はメルケルもレームダック状態だけれど、ドイツがフランスと違って移民や難民を歓待しているのは、人口減少問題など以外にも、中東やアフリカにおける「旧植民地と宗主国」という関係がないからできるのかもしれないとも思っていた。

フランスとアルジェリアのように激しい「独立戦争」という確執もないし。

しかし、ドイツが統一された後、1880年代にしっかりと「東アフリカ」(今のウガンダやタンザニアあたり)を植民地にしたり「領土」にしたりしていたのだ。

19世紀の「西洋列強」帝国主義とは本当に野蛮で、自分たちだけで「合意」して境界線を引いて「取り放題」だった。

1960代に多くの国が独立を勝ち取った時に、ドイツが「宗主国」でなかったのは、第一次大戦ですでに英仏に敗れていたからにすぎない。


で、この映画には、そのドイツ領のある村に、20世紀初頭にやってきて10年「宣教」しているメソジスト教会の牧師とその妹がいる。イギリス人だ。

そこに時々通う唯一の白人が、蒸気船で荷物や郵便などを運んで来るカナダ人のウォルナットだった。

メソジストだから、牧師も結婚できる。

それなのにこの牧師が独身で、妹も(今は死語だけど)オールドミスでオルガンを弾いているのは、宣教の使命感に駆られているだけではなく、要するに生きるのが下手で要領も悪く、自国で成功しないタイプだからだ。

実際、牧師は、自分より45歳ほど若かった仲間の牧師が国教会の主教に任命されたというニュースを新聞でみて嫉妬に駆られる。その牧師は有力者の娘と結婚したからだという。

それでも宣教に専心するのはコンプレックスの裏返しと、なんといってもそこでは文字通り上から目線の優越感に浸れるからだろう。

実際、村人を集めて聖歌の練習をさせている最初の場面では、彼らを除く全員が半裸の黒人で、ほとんど黒光りしていているショッキングな図だ。

「洋服」をきっちり来ているのが「文明」であり、「半裸」は野蛮人、未開人、土人というステレオタイプそのままで、しかもそれが見ている側にも刷り込まれているのに気づくからなおさらショックなのだ。

カナダ人のウォルナットが咥えていた葉巻だかタバコだかを投げ捨てると黒人の男たちがどっと群がって飛びつき、教会の土の床に座っていた男たちまでも次々と座を立つ。

で、戦争さえ起きなければ、ヨーロッパ人同士が合意して領土化していて、イギリス人の牧師が10年住んでいようと、カナダ人の水上運送業者が行き来しようと別に気にしないでやっていたようなのに、1914年に第一次大戦が勃発する。

牧師と妹のローズがウォルナットを通じてそれを知ったのはひと月後でしかなかった。


実際、すぐ後にドイツ軍がやってきて、村を教会ごと焼き払って村人全員を連れ去る。

しかし、ドイツ軍といっても、白人は数名の司令官で、後は全員、動員された黒人だ。

この村人たちも彼らのように兵士や要員とされるために強制徴用されたわけだ。

家は焼き払ったから戻れない。


自分の生きがいだったミッションが灰燼に帰したのを見て、小競り合いでの脳挫傷もあったのか、ドイツ軍が去った後で牧師は死んでしまう。


その後、船に乗り込んだローズたちがドイツ軍の基地の前を通過する時に銃を撃てと命令されるのも黒人兵たちだ。

ローズはただ逃げるつもりはなく、ドイツ軍に復讐するために魚雷を用意するようにウォルナットに頼む。ラストの場面でドイツの軍艦に捕らえられた時も、ドイツの司令官たちはもちろん酷薄な悪人役として描かれている。


要するに、これは、報復や戦争、暴力、そして人種差別などが満載の映画なのだ。


この映画が撮影されたのは第二次大戦後だけれど、ロケ地はまだ独立前のベルギー領コンゴだ。

そこで黒人のエキストラにこういう演技をさせている。

うーん、今の感覚でこういう背景を考えれば、いたたまれないような映画だ。

最初のシーンが音楽なしで、ジャングルの獣や鳥の声が印象的だし、船が進むときに流れる軽快な曲のオーケストレーションもいい。自然の中の動物たちの姿も迫力があるし、スリルに満ちた一種のロードムービーにラブロマンスが絡んでいて、ボガートもキャサリン・ヘップバーンも満身創痍の名演なのは間違いない。

いや、しかも、日本人のように、アフリカがはるか遠く、21世紀の今でもアフリカ支援について「何であんな黒いのが好きなんだ」と発言する現役議員がいるような国の人がこういう映画を観ても、そのシチュエーションはまるでディズニーアニメの架空の国の話と変わらなくスルーできるのだろう。

今回それに初めて気がついて、誰でも、自分の知らないものは見えてこないのだとつくづく思った。


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# by mariastella | 2018-09-20 00:05 | 映画

愛は掟

先日、「今日の心の糧」というカトリック系のラジオ番組をネットでも配信しているサイトで、

タイトル:「人生を変えた言葉」執筆者:末盛 千枝子

というのを読んでなるほどと思った。

そのはじめの部分をコピー。

                 

 >>>私が大学に入学した時のこと、母が私に、「どこの大学にも、カトリックの集
まりがあるはずだから、そこに籍だけでも入れておきなさい。人生に悩んで、親
ではなく、誰かに相談したいと思うことが必ずあるはずだから。」というのです。

 私は、時代的なこともありましたし、洗礼を受けたのは、小学生の時でしたし、
自分がキリスト教徒であることを、しかもカトリックであることをなんとなく不
自由で、うしろめたいことに感じていました。
でも、面と向かって母に反対するほどの勇気もなく、仕方なくという感じでカト
リック栄誦会というクラブに入ったのです。
ところが、そこで出会った学生たちは、私が恐れていたような堅苦しい人たちで
はなく、実に気持ちのいい人たちでした。

 そして読書会や定期的にあった集まりには、いろんな講師もお見えになりました。
そんなある日、沢田和夫神父様がお見えになって、
たった一言、「愛はすすめではなく、掟です。」と静かに、しかし、強い口調で
おっしゃったのです。
そのときのショックは忘れられません。脳天に一撃を食らうというのは、こうい
うことを言うのだと思ったほどでした。<<<

なるほど。

私が大学に入った時も「聖書研究会」というのは見かけたけれど、カトリック系の集まりがあるかどうかなどとは思いもつかなかった。聖書何とかとかキリスト教何とかというのは、悪くするとカルト、よくても超まじめな融通のきかない集団か自己満足な人たちの集まり、くらいの漠然としたイメージだったろうか。

これを読むと確かに、「カトリック系の集まり」というのは一つの知恵かもしれない。

プロテスタントには諸派あって、とても、素人には識別できないし、本当にカルトがひそんでいるかもしれない。いわゆる無教会派というのもあるけれど、それは指導者の技量や人格に激しく左右されるだろう。

その点「カトリック」と名がつけば、ヴァティカンを頂点に、「教え」や「方針」が明確で公に書かれているから、明確だし、第二ヴァティカン公会議以降はいわゆる「勧誘」はないはずだから、「信者」でなくとも受け入れてくれるはずだ。

別に宗教的、あるいは哲学的な悩みの種がない学生には必要ないかもしれないけれど、霊的なことに「免疫」がない若者が、人生でふとした疑問や不全感を抱いたときにカルトに付け込まれるという例があるし、オウム真理教事件を見ても深刻な結果を招きかねない。「仏教系」というのもありかもしれないけれど、これも教派がたくさんあって、仏教系カルトだってあるのだから、識別はつきにくい。そう思うとカトリックってなかなか手頃な停泊地かもしれない。

で、その次の、「愛はすすめでなく、掟です」というのもすごい。

たしかに、「すすめ」くらいで「汝の敵を愛せよ」なんて言われても絶対に無理だ。

フランスのカトリック系の中学校の入学式で、

「学校の全員、クラスの全員を愛さなければならない、とは言いません。けれども、全員をリスペクトしなくてはなりません。これだけは譲れないことです」

という言葉を聞いたことがある。

全員を愛せよなどと言う建前や理想論ではなく、現実的な最低線をちゃんと示すのはなかなかいいなあと感心した記憶がある。

けれども、聖書にはちゃんと

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」

という掟があるわけで、その隣人というのも、「同じ共同体の人」というのではなく、たとえ行きずりでも困っている人に手を差し伸べる関係だと明確に述べられている。

神を愛することと神の似姿として創られたすべての人を愛することはセットになっているのだ。

そしてそれはとても「勧め」られて実行できるようなことではない。

だとすれば、全ての人を愛することが「不可能」なくらいに、神を愛することも不可能だ。

そんなことができるのはまさに「神業」だ。

で、「掟」。

神の掟は人間の掟とは違う。

人間の掟では、個体や共同体の存続が優先するから、侵入者や弱者や少数者は排斥され、攻撃されれば報復する。「敵」は「悪」であり、憎み抹殺すべき存在だ。でも人間社会の「敵」は時と場所によって変わる。昨日の敵は今日の友、「鬼畜米英」が「日米安保条約」に。

今日の「多数の正義」に従っていたら明日は裁かれて殺される身になるかもしれない。

そんな「人間の掟」の世界で、不可能に近いような「神の掟」を守るというのは、ある意味で究極の「自由意志の行使」なのかもしれない。


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# by mariastella | 2018-09-19 00:05 | 雑感

ギュンター・アンダースとヒロシマとソンミ村

エノラ・ゲイに原爆投下OKの指示を出したパイロットと文通を重ね、1958年の京都から広島への平和行進にも参加したギュンター・アンダースのインタビュー本(これ)を読んで今まで見えてこなかったものが見えてきた。

彼は、音楽哲学と自然哲学をやっていたけれど、生涯に4度のショックを受けて、4度目に世界観が変わった。第1は第一次世界大戦。

2番目はヒトラーの登場、3番目はガス室のホロコーストを知った時、そして4番目がヒロシマへの原爆投下だったそうだ。

この原爆によって、「人類は自滅できる」ということを理解して、最も大切なのは正義だの同情だの理性だのではなく、ただひたすら、「想像力」だと思った。アポカリプス、人類の終わりはあり得る、という想像力だ。

で、そのような世界に生きるからには、それまでの2500年の哲学の成果などは意味がないと思った。

必要なのはこの世界をどう解釈するかという哲学ではなく、この世界をいかに持続させるかの方法だからだ。

核兵器がヒロシマとナガサキ以来使われていないでただの抑止力だというのも大いなる欺瞞だと彼は言う。

ベトナム戦争は日本への原爆投下なしにはあのような展開はされなかった。

つまり、非戦闘員の無差別殺大量殺戮というハードルが取り払われた、というより、その「モデル」が堂々と掲げられた事実だ。で、戦闘機に追われてナパーム弾に焼かれる少女たちが登場し、今度はそれを「自分の手でやってみたい」というモティヴェーションに駆られてウィリアム・カリー中尉に率いられる一隊がソンミ村のミーライ集落に登場した。

それはアメリカのDIY、「Do it yourself」精神なのだとアンダースは言う。

戦闘機が原爆やナパーム弾を投下して適地を「壊滅」させる映像をすでに焼きつけられているから、次にはそれを自分たちの手でやってみようというわけだ。

高校生の私は当時の多くの若者のようにベトナム戦争に関心を持っていた。

ナパーム弾に焼かれて逃げる少女たちの写真には衝撃を受けていた。

ヒロシマの原爆よりも大きな問題のように思えた。

ヒロシマは私の生まれる前の「過去」の話で、ベトナムの子供たちが殺されているのは、私が平和にのんびりと暮らしている同時刻の出来事なのだ。「関心を持たないこと」は即「加害者側に加担すること」のような気がしていた。「ヒロシマ」は、アンダースが指摘するように、「忘れ去られていた」のだ。

ソンミ村の虐殺事件が表沙汰になったことももちろんはっきり記憶している。

けれども、私の中では、空爆でナパーム弾に焼かれて逃げる子供の映像の方が、ソンミ村の虐殺よりもインパクトがあった。戦時における「虐殺」というのは「南京大虐殺」も含めて「想像可能な悪」だと思えたのだ。

でも、実は、ソンミ村の虐殺は違った。

核兵器が可能にした「全地域を壊滅させる」というパフォーマンスを自分たちの手でやってみたいというDIYの精神で、村に入って507人の村人を1人も残さないように殺しまくって焼き尽くした(生存者が奇跡的に3人いた)。

原爆がつくった光景を自分たちで再現できると思ったのだ。

原爆がなければ、ソンミ村の虐殺はなかった。

「核兵器でさえなければいい」という口実でナパーム弾のような恐ろしい兵器が「開発」されることもなかっただろう。

というのがアンダースの見解だ。

カリー中尉だけが軍事法廷で裁かれて1971年に一応は終身刑になったけれど3年後にもう仮釈放された。2009年にはじめて「謝罪」を口にしたそうだ。

アンダースは原子力発電所の核燃料と核弾頭との関係を最初に大声で訴えて原子力発電に異議を唱えた人でもある。

こういう人の存在があったから、ドイツが「フクシマ」以降に原発からの離脱を確定したのも偶然ではない。

最初の妻だったハンナ・アーレントもそうだが、アンダースは、戦争などの大きな流れの中で正義や人道に対する感覚を麻痺させた人たちが

「(その時の主流秩序にとっての)間違いは、犯さずに罪を犯す」

ことを明文化した。

彼はチェルノブイリ事故の数年後に90歳で亡くなったが、「フクシマ」のことは見ていない。

「ヒロシマ」をきっかけに「反核」を最も長く、熱心に、死ぬまで叫び続けた知識人だ。

彼がヒトラーを生んだドイツ、日本の同盟国だったドイツの出身だったのも興味深い。

最初はパリで暮らそうとしたが、失業者が増えていたフランスは外国人の就業を禁止し、結局アメリカに渡ったが、後にオーストリア人としてウィーンで死んでいる。


どんなに核廃絶を訴えても、大量破壊兵器や軍需産業、原発産業がエスカレートする中、絶望的な状況において希望を何に見いだすか、何を慰めとするか、どのように勇気を維持するか、と問われたアンダースは、こう答えた。


>>>勇気については分からない。私のアクションに勇気はほとんど必要ない。

慰めはまだ必要としていない。

希望? 原則としての希望のことは分からない。私の原則はこうだ。

我々が直面している恐ろしい状況に介入することで少しでも寄与することができるなら、たとえどんなにわずかでも、少しでもチャンスが残っているなら、それをすべきだということだ。<<<


アンダースは、美学や哲学に没頭していられた時代を懐かしみながらも、核のアポカリプスに対する警報を鳴らし続けることに後半生を捧げた。


世にはいたずらに恐怖を煽る終末論や陰謀論がはびこっている。

一方で、核兵器も核燃料も現実に増えるばかりでそれをコントロールする術もないことは事実なのにそれらは巧妙に隠され問題をすり替えられている。


私たちは、正しい想像力の使い方、正しい恐れ方、すべての人と環境を自ら破壊することのない道を識別する方法を常に学ばなければならない。


それにしても、潜在意識の中のDIY論、恐ろしい。


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# by mariastella | 2018-09-18 00:05 | 雑感

ヴァイオリンの響き

ここ20年以上はバロック・バレエとバロック舞曲三昧の生活だけれど、子供時代にクラシックバレエのクラスで踊りと共に心身にしみ込んだクラシック・バレエ曲は、いつ耳にしても、「識っている」という記憶の「型」にすっぽりはまって懐かしい。


私はヴィオラ弾きで、ヴィオラの音域はほぼ私の歌える音域と重なるので、歌っている気分になるのが好きだ。

チェロは男声の音域に重なるだろう。

で、ヴァイオリンは天使の音域、これを清らかにかつしっとり響かせるのは至難の業だ。


それでも、時々聴きたくなるのが、グラズノフの『ライモンダ』のグランド・アダージョだ。


1898年マリンスキー劇場の初演でばりばりのロマン派音楽なのに、このレオニード・コーガンの演奏だけは別世界に誘ってくれる。音と、空気と、バレエの振付が同時に喚起される。

(ここには3曲入っているがそのうちの最初のもので4:07くらいまで。)


ヴァイオリン曲は鳥の求愛の歌の模倣とされて、教会の中で弾くのがタブーだった時期もあるが、確かにこれを聴くと、天使の音なのか悪魔の音なのか分からない。


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# by mariastella | 2018-09-17 00:05 | 音楽

『超死生観』

先日、健康ブログ、死生観ブログと化した、五十肩と代替療法の『たかが、かた(肩)』の月イチ更新をした。

いま書いている途中の『超死生観』という本は、一応は、「死が視野に入って来た高齢者の生き方を変える」目的で書いているのだけれど、今、「死者との交信」だとか、「殉教者としての死」とかの宗教的文脈や心理学的文脈を考察しているところだ。

日本語の言説を見ておこうと思ってググっているうちに『人は死なない』なんていう集中治療医の本が存在していることも知ってびっくりした。

フロイトが、人は誰でも、潜在意識の中では「自分は不死」だと思っている、と言っているが、なんだか妙に納得させられる。
「人は死ぬ」けど「私は死なない」んだなあ。

生きているうちに、できるだけ人の役に立つものを書きたい。
「普遍的なもの」と言いたいところだけれど、この頃は、50年後くらいを視野に入れて書いている。
私の同世代や上の世代の人でも、同じような視座を持って発信している人に共感する。
今の地球の異常気象やら各種殺戮兵器の性能向上などを見ていると、これからの50年を持ちこたえなくては普遍も何もあったものではない。

それとは別に、AIはどこまで人間性を獲得できるのか、人間にとって代われるのか、みたいなことについて、ここ数年、「目からうろこ」のようなケースをたくさん見てきたので、それについて別ブログで書いてみた。

このブログの番外編としてどうぞ。









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# by mariastella | 2018-09-16 00:05 | 死生観

パリの石上純也展

ジャコメッティ館に行った時、すぐ近くのカルティエ財団の現代美術館に寄って石上純也展を観た。

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好評だとは聞いていたけれどスルーしていたのが、ついでだからと思ってチェックしてみた。

石上純也と言えば、「四角い風船」で、度肝を抜くコンセプチュアルアートという先入観しかなかった。

あらためてネットでインタビュー記事など読むと、作品とそれが置かれる空間、環境を同時に設計する際の発想の自在さが、やはり建築家ならではの感性に依っているのが分かる。

実際に行ってみて、天才だ、と思った。

しかも、透明度があって緑に囲まれたカルチェ美術館にぴったり。

場の全体がデザインされたインスタレーションになっている。

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「場所に合わせてデザインする」のではなく、「場」そのものを、視線や体の位置との関係で変容させていく。

地下で上映されているインタビューやドキュメンタリービデオも説得力があり、誰一人中座しないでじっと聞き入っていた。新しい世界の発見のようだ。

(日本人だから、日本語でネットを検索してもいろいろ見ることができるのでどうぞ)

中国で造ったものはさすがに金と空間がふんだんにある国での度肝を抜く冒険という感じ。谷間の聖堂は、谷の中にもう一つの谷という聖堂を入れ子にしたものだ。

水との関係も驚倒させられる。

ヴァーチャルなゲームの世界やテーマパークにあふれた世界で育った世代の自在な発想が、マクロなのかマイクロなのか、人工なのか自然なのか、二次元なのか三次元なのか、などの区別を取り払い突き抜けた世界を実現する。

デンマークの水の中の瞑想スペースやシドニーの雲のアーチなども魅力的だけれど、日本でも栃木県や神奈川県の大学や保育園、山口県のレストランなど、魅力的な作品がたくさんあるようで、いつかチャンスがあれば行ってみたい。

愉快なことに、カルチェ美術館の庭園の売店には、日本のドリンクや日本のスナックが置いてあった。

輸入したというより、石上展のスタッフが大量に持ってきた?とでもいうようなファミリーでキッチュな雰囲気で不思議だ。

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私のピアノの生徒で、バカロレアを終えてこの秋から建築の道に進むという学生に、この展覧会は必見だとメールを送った。

ただ一つ喉につかえる気がするのは、近頃の異常気象のせいで潜在意識に刷り込まれた不安のせいだ。

石上純也のような環境を封じ込めたり環境との関係性を変えたりするような空間デザインは、地震だの豪雨や洪水だのに耐えられるのだろうか、という疑問が湧きおこるのをとめられない。


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# by mariastella | 2018-09-15 00:05 | アート

ジャコメッティのアトリエとジャン・ジュネ

ジャコメッティの最後のアトリエは、私が2005年頃からダンスの研修やクラスに通っていた14区の通りにあった。

そのアトリエの壁に至るまで夫人が大切に保存していたものが、40年後の今年、ラスパーユ近くの瀟洒なアールデコのホテル・パルティキュリエ(一戸建て邸宅)に再現されることになった。


公開されているが、入館チケットの販売はなく、すべてネットでの時間指定の予約のみ。最初の特別展は「ジャン・ジュネが見たジャコメッティのアトリエ」だ。(9/16で終了)

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前に書いたことがあるけれど、ジャコメッティのアトリエというのは私にとって「伝説」というか神話的な場所だ。

パリに住んで初期の頃にコレ―ジュ・ド・フランスで聴いていた講座にピエール・ブーレーズやイヴ・ボヌフォワのものがある。そして、ボヌフォワの語ったジャコメッティ論が私には強烈なインパクトだった。

ジャコメッティは「本物」、「生命」を表現しようとして工夫していたけれど、どんな肖像画や肖像彫刻を「本物」らしく制作していても、例えば、頭の丸みの中には「何もない」のは明らかだ。内臓や血管や血流も作れないし描けない。

で、ただのマチエールに過ぎない部分をどんどん削り取っていった。

それでも「本物」は現れず、彫像はどんどん細く、どんどん小さくなっていった。

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マッチ棒のようなものばかりになった時期がある。

それでもまだ命は宿らず、それを鑿の一撃で壊した。

その壊れる一瞬に、火花のように「本物」が現れたという。

いのちとは、形と形の消滅の境界線で輝くらしい。

その頃、もしアトリエが火事になったら、どの作品をもって逃げますか、と聞かれたジャコメッティは、迷わず「この猫」と、愛猫を指したそうだ。

猫は「命」を生きていたからだ。


やがて、すべてを極限に削っていった後に残るのは「視線」だと気づいた。

すべては「視線」を支え、「部分」やディティールの「本当らしさ」はどうでもよくなって、視線を支える「全体」が顕現するようになった。


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そういう話で、私にはジャコメッティのアトリエは神話の舞台のようで、広く深く薄暗い地下神殿みたいなイメージがなんとなくあった。

で、今回忠実に再現されたというアトリエはすごくコンパクトだった。

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休むためのベッドもそのままだという。

ジャコメッティ自身がアトリエをデッサンしたものも展示されていて、なるほどまさにこんな感じだったのだなと分かる。

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ここで、彼は、作品に絶えず手を入れ続けた。練って、揉んで、削ってという動きをやめなかった。

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そして、彼がある作品をいじりだすと、アトリエにあるすべての「未完成」作品が、脈打ち震えだすようだったというジュネの証言がある。クリエイトの波動がアトリエ内の彼の手による全てのオブジェに伝わっているらしい。

全時間と全空間を巻き込んでいかないような局所的クリエイトなどクリエイトではないのかもしれない。

「到達点に行き着くために探し続けている」のだけれど、「到達した作品は、失敗ということ」だ、と晩年にも言っている。探し続ける過程にのみ真実が宿るということだろう。そうなると、ボヌフォワが語った、全作品がミニチュア化していったスランプの時代と本質的に変わらない。この世における「完成」とはフェイクであり「失敗」なのだ。時間芸術である音楽とは違い「完成」した一点もののオリジナルが「作品」として残る

美術作品のジレンマだ。

だからジャコメッティの作品とは生命の希求、本物の探索をそのまま内包しているもので、それが、鑑賞者の生命哲学と呼応した時に新たに脈打ち始める。

 

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この犬の像は猫と物と同じく私の好きなものだけれど、アトリエにも置いてあった。

たとえば「犬の剥製」みたいなものと対極にある。

この犬に向ける視線で何かが息を吹き返す。

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ジャン・ジュネの肖像画。

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ジャコメッティの右がジャン・ジュネ。

丸顔だ。全てをぎりぎりにそぎ落としていくタイプのジャコメッティのスタイルで残ったぎりぎりの「視線」以外の「温かさ」が感じられる。
一連の作品を昔観たことがある矢内原伊作の顔の方が「ジャコメッティ」向きかなあ。  

いや、ジャコメッティの顔の方が彼の作品に似ているかも。
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彼は自分もまた「生きている」ことを知っていたのだろう。

おまけ:
今回修復されたこの建物はアールデコの小住宅の傑作で、建築か装飾系の人が窓や壁や階段などを盛んに撮影していた。トイレもドアを開けてから三段くらいステップを降りてこんな感じの作りで驚いた。
ジャコメッティには、似合わない。


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# by mariastella | 2018-09-14 00:05 | アート

ブルゴーニュ  その20

ヴェズレーのバジリカ聖堂は、今もある修道会が巡礼者の世話をはじめとして黙想会や聖書の勉強会などをオーガナイズしている。エルサレム修道信心会だ。

ここの修道士や修道女が交代でバジリカ聖堂の無料ガイドも引き受けている。

夏場はその他に、歴史建築について学ぶ大学院生などもボランティアでガイドをしている。


どこを訪れても本当に満足を与えてくれるのは、人々との会話だ。


私はそのために聖堂を複数回訪れた。


ボランティアの会の学生が、カトリック信者なのか、そうでない場合、このような大聖堂を案内し歴史の説明をすることに霊的なモティヴェーションはあるものだろうか、そもそも今の若者が、このような教会建築に惹かれるきっかけは何か、ヴェズレーという「場」のオーラ、パワーなどを感じたことがあるのか、など、質問したいことがいくつでも出てきた。


サン・フロランタンやオセールでも観光案内所の人たちとじっくり話せたし、サン・ペールでその日の夜のコンサートのリハーサルをしているミュージシャンたちと話せたのも僥倖だった。

それらについていつか別の形で書くことになるかもしれない。

長くなってしまったので、ブルゴーニュ紀行はここでいったん終わることにする。

資料をじっくり読むのはこれからだ。

おまけはヴェズレーの猫。

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# by mariastella | 2018-09-13 05:05 | フランス

ブルゴーニュ  その19 サン・ペール

ヴェズレーから数キロ離れた小さな村サン・ペールは、最初にヴェズレーにやって来たベネディクト会の修道院の分院もあったところだ。もう何も残っていないけれど、ここにはゴシック大聖堂のミニチュア版のようなノートルダム教会がある。13世紀から15世紀にかけてのブルゴーニュの建築技術の粋を極めた傑作だと言われている。


村の入り口に巨大樹の木陰にテラス席が広がるレストラン。

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村の中心に向かうと、教会の尖塔の十字架が見えてくる。


全貌が見えてくる。

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古くて黒ずんでいるけれど風雪に耐えた感じのファサード。

ここもヴィオレ=ル=デュックが修復した。

小ぶりなので、「子持ち風ガルグイユ(ガーゴイル)」もすぐそばに見える。

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中もゴシックのカテドラル仕様。
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ラッキーだったのは、その日のコンサートのリハーサルを聴けたことだ。

カウンターテナーを中心としたアンサンブル・セラドン。


その日のタイトルは「DEO GRATIAS ANGLIA」。

コンサートの曲目は、13世紀から15世紀にかけてのブルゴーニュの作者不詳の典礼音楽とイギリスのキャロル音楽の組み合わせだ。

時は英仏百年戦争、ブルゴーニュ公国はイギリス側と連携していた。

で、イギリスの民衆舞曲が教会音楽に転化したものが混ざっている。

もともと教会の祝祭行列で使われたようで、鈴を振りながら歩いて歌う。その動き方と音の響き方を試行錯誤しているところ。

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変化に富み、非常に魅力的で、ナイーヴさとバイタリティが同居している。

アンサンブルのメンバーと話ができたのは、コンサートを聴きに来たよりありがたかった。

ノートルダムを出てシェール川を渡る。
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木靴(サボ)職人の店があるのも、まるで中世のテーマパーク風。

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川を渡ったところから教会を見る。

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川のせせらぎに癒される。

音楽が、どこにでも、ある。



(お知らせ) 新刊のコメントをアップしました。


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# by mariastella | 2018-09-12 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その18 ヴェズレー 9

ロマン・ロランの家は、近代美術館になっている。

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広い。

ヴェズレーは崖地なのでどの家も高低の構造が複雑だ。

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書斎も残る。
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小高い庭の部分もある。
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屋根裏も展示室になっている。

ピカソの部屋が充実している。

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1957年作の横顔のデッサンのモデルとなったジャクリーヌが、

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1962年のリノカットではこんな感じに変容した。

そのピカソの友でもあったハンス・アルトゥング展も興味深い。

抽象画は退廃的、堕落した芸術だと糾弾されたナチス・ドイツを離れてフランスにやってきた。

ピカソやカンディンスキーに影響を受けた。

抽象画が主だけれど、彼には、1940年頃に描いた、まるでメッサーシュミットみたいな「顔」のシリーズがある。

横顔ばかりで、コンテ、油、パステル、グアッシユなど、いろいろなもので試みたものが80-90点くらいあるという。舌を出しているものが多く、怒りや不安などネガティヴな感情の表出だが、強烈だ。

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こういう「連作」モノを前にする時にだけ、全体からしみ出してくる「情報」というものがある。

ヴェズレーでそういうものに遭遇するとは思ってもみなかった。


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# by mariastella | 2018-09-11 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その17 ヴェズレー 8

午後9時。 麓のホテルから急な坂道を上ってバジリカ聖堂へ。

歩くのがつらそうな高齢のカップルらがゆっくりと聖堂をめざしている。

住んでいる人以外には、車はまず使えない。

コンサートのタイトルは「ピレネーの平和」。


なぜこのタイトルかというと、1635年から続いたフランスとスペインの争いが、1659年にようやくピレネー平和条約として終結し、翌年のルイ14世のスペイン王女との結婚式の祝宴音楽を担当したのがフランチェスコ・カヴァッリだったからだ。これによって、ブルボン家はスペインにおけるハプスブルク家のヘゲモニーを奪い、後に、ルイ14世の孫がスペイン王となってブルボンの家系が今でも続いている。

カヴァッリ(1602-1676)は、モンテヴェルディと共にバロックオペラの先駆者として知られているけれど、ヴェネツィアの聖マルコ大聖堂のオルガニストで音楽監督を長く務めた。


その時代、音楽は政治と宗教の「力」を演出するものだった。

そういう背景、システムを変えることなくオリジナリティを発揮できた数少ない作曲家たちがいる。


ヴェズレーでの演目は、原題は、

Musiche sacre concernenti messa, e salmi concertaticon istromenti, imni, antifone et sonate (1656)

で、キリエやグローリアなどだけではなく、オルガンの独奏やオルガンだけの伴奏での歌手のデュオや詩編などの組み合わせでなかなか劇的に展開する。


ソリスト8人、合唱8人、ヴァイオリン2、チェロ1、オルガンの編成で、管楽器は自由に付け加える形式だったらしいが、ここではコルネットが2人、「神の楽器」トロンボーンが3人で、迫力がある。

だから突然オルガニストだけの伴奏に移る時も効果的だ。


アンサンブルはバンジャマン・シェニエ指揮の「ガリレイ・コンソート」。

ガリレイとはガリレオ・ガリレイの父であるユマニストにちなんだ名。

全員が立ったままで演奏していた。

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バンジャマン・シェニエは、今回のコンサートを「熱、バジリカ、音楽」という三つの言葉で表現し、ヴェズレーが音楽にたとえるとどんな音楽か?という質問に「15世紀のポリフォニーの美しいミサ曲」と答えている。

イタリアの17世紀音楽にほれ込んでいるけれど、ヴェズレーに繰れば時間が遡るらしい。

私にはこの曲を聴くのは初めてだったけれど、いろいろなパートのコントラストが見事で、その知的な構成はフランス・バロックの萌芽につながる。フランス・バロックで、オペラ曲もモテットも体の動きを内包していたように、カヴァッリも、世俗音楽と教会音楽を本質的なところで区別していない。

バンジャマン・シェニエもフランス・バロックを熟知している人だから、ポイントを外さない。

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ビブラートをふんだんにきかせていたというロストロポーヴィチのバッハのコンサートでなくてよかった。


では、「神」はどこに ? と言われても困るけれど、いつもながらこういう聖堂のコンサートでオルガンの鳴るところは巨大な船に乗っている気がする。


船がどこに行きつくのかは、分からない。


船を出ると、明るい月が上っていた。

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# by mariastella | 2018-09-10 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その16 ヴェズレー 7

ジュール・ロワの家から坂を下りていくと、右手にジョルジュ・バタイユの家。

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彼が住んだのは1942年から49年という「戦後」の時代。

ヴェズレーを去ってからも何度も訪れ、1962年に死んでこの地に埋葬された。


彼がヴェズレーについて書いたものには様々な「音」が喚起される。風の音、鐘の音、虫の鳴き声、鳥の鳴き声。バタイユと言えば「無神論者」と自称していたのだから、一見ヴェズレーと異質のようだが、彼の全作品と生涯は神秘主義とエロティシズム、死と生と聖なるもののはざまで揺れ動いている。

もともとランスで暮らしていた時に、第一次大戦勃発時、17歳でランスのカテドラルでの司教ミサに出て「回心」し、一度は司祭になろうとして神学校にも在籍していたくらいだから、「神が存在しない」というタイプの無神論者とは程遠い。

「この世のカトリック教会の神」より大きな霊的存在を求めていたらしい。

ジュール・ロワもそうだけれど、20世紀前半を生きたフランス人はみな、2度の大戦のトラウマを背負っている。それが、イエスの復活に唯一立ち会った「罪の女」マグダラのマリアに惹かれる要因になったのかもしれない。

フランスが愛国熱に駆られた第一次大戦にはっきりと異議をとらえたロマン・ロランの晩年の家もヴェズレーにある。

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こう見てくると、ヴェズレーは「巡礼地」ではなくて「住みたい場所」なのかもしれない。

なんとなく、分かる。(続く)


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# by mariastella | 2018-09-09 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その15 ヴェズレー 6

バジリカ聖堂を出てすぐ右に、ジュール・ロワの家がある。

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ここから見える聖堂は最高のアングルで、ヴェズレーへの「狂おしい愛」を切々と語り続けた彼の冥利に尽きる。

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この作家は、1907年フランス領アルジェリアに生まれ、空軍パイロットとして第二次大戦で戦い、最初はヴィシィ政権を支持したが後でドゴールの自由フランスの空軍に加わる。第二次大戦後はすぐにインドシナ戦争に従軍したが、このあたりでフランス軍も含めた戦争の野蛮さや不条理に耐えられなくなって辞職。ジャーナリストとしてアルジェリア戦争にも従軍し、その残虐さを告発し、数々の戦争を総括するアクティヴな平和主義者になった。

1978年からヴェズレーのバジリカ聖堂の斜め向かいの家に住み、多くの政治家、文学者らが彼のもとを訪れた。2000年に93歳で死に、ヴェズレーに埋葬された。

彼の書斎がそのままの形で残されている。ここも無料。

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これはロストロポーヴィチがヴェズレーでのバッハ無伴奏チェロ組曲のコンサートと録音をした際の記録を本にしたもの。『ロストロポーヴィチ、ゲンスブール、そして神』

非常におもしろい。


ヴェズレーでロワと暮らしていたタチアナ夫人はロシア人だったのでロストロポーヴィチのために通訳もした。

ロワは、信者でないとバッハは弾けない、と断言している。

また、バッハに一番感謝しなければならないのは神だとも。

復活祭の聖週間、3月のまだ底冷えのするバジリカ聖堂での練習風景やコンサートでのアンコール演奏が五番のサラバンドというさらに凍りつくチョイスなどが詳細に書かれている。

私はロストロポーヴィチのこの演奏を聴いたことがないので何とも言えないけれど、ロワの文を読む限りは、「舞曲」とはかけ離れた感じだったようだ。


最も興味深いと思ったのは、ロストロポーヴィチが、自分は絶対にロシア正教の教会の中では弾かない、と言ったというエピソードだ。なぜなら、装飾品が多すぎるからだそうだ。

確かに。


ドイツ、イタリア、ハンガリーなどのカテドラルにもインスパイアされなかった。

ヴェズレーではすぐにここがバッハを弾く場所だと分かったという。


ヴェズレーのバジリカ聖堂は、簡素そのものだ。音響はすばらしい。


今回ヴェズレーに来た目的の一つが夜のコンサートだ。


「奏楽の動物たち」が修復されず居場所を与えられなかった聖堂で、17世紀のミサ曲を聴く。

(続く)


(お知らせ)新刊が出ました。

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サイトでもまたお知らせします。








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# by mariastella | 2018-09-08 06:01 | フランス

ブルゴーニュ  その14 ヴェズレー 5

聖堂の奥の方に、昔は壮大な修道院棟が続いていた。

今は残ったその一部が博物館になっていて、19世紀のヴィオレ=ル=デュックが柱頭彫刻などを修復した記録が残っている。

その一部は、修復できなかったオリジナルで、新しいものと取り換えられた。

個々ではオリジナルを見ることができる。

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たくさんの紋章がかかっていた。これは、ヴェズレーが単独で世界遺産になってから、再びサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道の一つ(フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼地)として1998の年に世界遺産に指定されてから20周年ということで、サンティアゴに行くまでに通過する場所の紋章を展示したものだ。


ヴィオレ=ル=デュックの仕事は驚くほど緻密だ。

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デッサン。


こういう天使が

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こうなる。

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描かれた聖書と言われる柱頭群は傑作ぞろいだけれど、聖書だけではなく聖人伝もある。

これは聖アントニウスを誘惑する悪魔。

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これも聖人と悪魔。

ブルゴーニュ風の葡萄畑の場面もある。

3月はまだブドウの木が成長していない。

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4月になると葡萄の葉をヤギに食べさせることができる。

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この場所でしか見られないのは「奏楽の天使」ならぬ「奏楽の動物たち」。

これはヴィエルを弾いている。弓が欠損している。

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完全形はこれ。
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これは、楽譜を持っているのではなく、パンフルートを吹いているところ。

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ヴィエルもパンフルートも、鳥の求愛の連想で堕落した「世俗音楽」とされ、この動物の横には、片側に、淑女が配され、反対側には、音楽を聴いて踊り、胸をはだけた遊女風に「堕落した」姿が配されていたという。

なぜかこの奏楽の動物の柱頭は復刻されないままになった。

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本来ならこの部分だ。

ネットで「奏楽の動物たち彫刻」をフランス語で検索したら、ところどころに残ってはいるようだ。

でも最初にヒットするのがグリム童話の「ブレーメンの音楽隊」の彫刻だったのは笑える。

修道院跡から裏手に回るとブルゴーニュ風景のパノラマが見える。

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# by mariastella | 2018-09-07 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その13 ヴェズレー 4

「聖遺物」が「類推魔術」のような効果をもたらすためには「量」や「形」(聖女リタはミイラのまま飾られている)に左右されるのかもしれない。 その点、リアルな姿を表現した「彫像」は人の心をインスパイアしてくれやすい。

大聖堂にあるマリー・マドレーヌのチャペルにはこういう像がある。

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ちゃんとここにも柱のところに「聖遺物」がはめ込んである。


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ロウソクも供えられている。

この女性像を見上げると、地下の豪華な聖遺物入れを前にした時よりも、聖処女マリアと原罪をもたらしたイヴとをつなぐ架け橋としてマグダラのマリアに託されてきた人々の思いが伝わってくる。(続く)

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# by mariastella | 2018-09-06 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その12 ヴェズレー 3

ヴェズレーのバジリカ聖堂は、建築的に見ると、19世紀にヴィオレ=ル=デュックによって修復された本堂の柱列の柱頭彫刻群が何といってもすばらしい。

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最初のロマネスク様式と後ろのゴシック様式の組み合わせも天井部分ががらりと変わるのが圧巻だ。

ロマネスクからゴシックを見るとこう。

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ゴシックからロマネスクを見るとこう。
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グループでやってくる巡礼仕様にできているので、本堂に入るまでに広いナルテックスがあり、そこがいわば俗世間と聖なる空間の中間地帯ということになっている。

ナルテックスから本堂に入る時の中央上のタンパン彫刻が、外部にある最後の審判図と違って、あらゆる人に伝えられる福音ということでフォークロリックに見ても非常におもしろい。

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ひと昔前なら、このブログでそういうことすべてをいろいろ解説するところだけれど、多くの写真集や研究書が存在するし、何よりも今は、ネットでいろいろ検索できるから、スルーする。

で、すぐに、地下聖堂(クリプト)へ。

これがこの地をメジャーにしたかの有名なマリー・マドレーヌ(マグダラのマリア)の聖遺物なのかと言われれば、そうではない。この聖堂も、聖遺物も、何度も、壊され、奪略され、それでも復活してきた。

イタリアのアッシジのフランチェスコのバジリカ聖堂やら、聖女リタの聖遺物があるカスシアの聖堂などとは違う。ユグノー戦争とフランス革命の傷は深い。

それでも、巡礼者のほとんどはそもそも聖遺物の「真偽」など気にしない。

それぞれの個人史の中で、それぞれの形で、奇跡があり、ご利益があり、信仰心が高まり、イエス・キリストとのつながりを感じ、生きるエネルギーがもらえ、宇宙の神秘に浸ることができればいいからだ。

地下墳墓といっても、掘れるような土はなく、床はそのまま岩盤だ。

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柵の向こうに聖遺物が。

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その前には願い事を書くための紙と鉛筆が置いてあり、カゴに入れておくようになっている。

典礼的にはその反対側にあるこの祭壇がもちろん一番「偉い」。

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でも、マグダラのマリアの聖遺物からは、トスカーナの「不可能案件の聖女リタ」の遺体が放っているようなオーラは感じられない。


ヴェズレーのこの聖遺物は、必死で祈る巡礼者の姿なしには、「賞味期限」が切れているのでは、などとさえ感じられる。


「モノ」ではなく、ここからサンチアゴ・デ・コンポステーラに向かうという「コト」がヴェズレーに息を吹き込み続けているのだろうか。 (続く)


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# by mariastella | 2018-09-05 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その11 ヴェズレー 2

ヴェズレーのバジリカ聖堂の裏手は大パノラマが広がる崖の上。

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この「聖霊の満ちた丘」で、1146年3月31日に、シトー会の創始者クレルヴォ―のベルナルドゥスが、第2回十字軍を呼びかけ、鼓舞する説教を行った。フランス王ルイ7世もいた。

ヴェズレーはその1世紀前からマグダラのマリアの聖遺物を祀ったことで絶頂期にあった。


そのことは歴史的には興味深いけれど、21世紀に入る前にヨハネ=パウロ二世が十字軍の誤りについて謝罪したように、「十字軍の盛り上がり場所」というと今では政治的公正に反して後ろめたいのでは…と思われるかもしれない。


ところが、さすがに「聖霊の宿る丘」、実は、ヴェズレーは第二次大戦後の平和のシンボルにもなった。

それは十字軍ならぬ「十字架の道」である。


十字架の道と言えば、イエスの受難と復活までを14のシーンに表現して教会の内側にぐるりと置かれている絵などを順番に回って祈ってイエスの受難の追体験をする「行事」だ。復活祭の前の聖週間にどこでも行われている。(野外で実物大に作られているものもある。たとえばポンシャトー)(この頃はブログに写真を貼り付けていなかった。『キリスト教の謎』p231に載せた。)

どこの教会の「十字架の道」もそれぞれ個性もあり歴史もあって興味深いのだけれど、なんと、ヴェズレーでは、大きな木の十字架がずらりと並んでいるのだ。

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それは、戦後間もない1946年に、ベルナルドゥスの十字軍呼びかけの800年記念が行われた時のことだ。

二度の大戦にすっかり疲弊したヨーロッパの国々はもう二度と互いに殺し合うような愚行をしないように誓い、憎しみに打ち勝つことを祈った。

で、十字軍ではなく、14の「平和の十字架」を奉献することにしたのだ。

ヴェズレーは平和の出発点とならなくてはならない。

フランスの各地だけではなく、イギリスからも、ベルギーからも、スイスからも、リュクサンブールからも、イタリアからも次々と十字架を運ぶ徒歩の巡礼者たちがヴェズレーに集まった。何のしるしもないシンプルなものもある。

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これはアルザスからだと刻まれている。
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これはベルギー。
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これはリュクサンブルク。

こうして14の十字架がそろうことになった。

すると、近くの捕虜収容所にいたドイツ軍の捕虜たちが、自分たちも十字架を奉納したいと申し出た。彼らの十字架は、戦火で朽ちた民家の梁を使ってつくられた。

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十字架の道はイエスの埋葬で終わる。

15本目の十字架は、和解と平和のシンボルで、まさに「復活」であり、新しいヨーロッパの誕生への希求となったのだ。

15本の十字架が進む行列と共に、3万人の巡礼者がヴェズレーに集まった。


ヴェズレーはこれを「平和の十字軍」と呼んだ。


800年前の「侵略十字軍」は、ヨーロッパを焦土化した戦争の後で、「平和の十字軍」に上書きされたのだ。

ヴェズレーは、いわゆるユネスコの世界遺産指定でもあるけれど、単なる歴史遺産ではない。

壮麗な過去の栄光や過ちの先に、よりよい未来に向かって進もうという祈りを促す何かがあったのだ。(続く)


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# by mariastella | 2018-09-04 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その10 ヴェズレー

さて、いよいよ、目的地のヴェズレー、マリー=マドレーヌ・バジリカ聖堂へ。

どうしてまたヴェズレーへ行ってみたくなったのかというと、つい最近マグダラのマリアについての記事を雑誌に書いたからだ。

説明代わりにそこから少し引用しよう。


>>> フランスの「マドレーヌ」という名前はマリー(聖母マリア)やアンヌ(聖母の母アンナ)と並んで愛されたシンボリックなものだ。ネオクラシックの柱列で有名なパリのマドレーヌ寺院も、カトリック教会を排除しようとしたフランス革命をはさみながら立派に完成した。マドレーヌというファーストネーム(一般に洗礼名と同じ)を持つ女性も多い。マドレーヌさんのレシピである焼き菓子のマドレーヌは、プルーストの『失われた時を求めて』で少年時代の記憶を喚起する香りと共に日本でもよく知られている。そのマドレーヌという名前はマグダラのマリアのフランス読みであるマリー=マドレーヌに由来する。

 イエスの受難と復活に立ち会った後、教会の公的な歴史から姿を消したかに見えるマグダラのマリアにまつわる数々の逸話と崇敬は、マグダラのマリアの終焉の地とされるフランスで誕生した。九世紀ごろから出回った「聖人伝」によると、マグダラのマリアはマルトやラザロらと共に、南フランスの海岸に漂着した。マルトはタラスコンに行って怪物(タラスク)を退治したという伝説を残し、マリアは、贖罪のために裸でサント・ボームの洞窟で暮らし、三二年間、水も食物も口にせず、日に七度、天使によって天に上げられ音楽を聴いたとされる。歴史上の重要な人物が姿を消した後、実は遠くの国に漂着して長い余生を送ったという「貴種流離譚」は世界各地にあるので、その一つということだろう。
 ヨーロッパの歴史の中で力をつけていった頃のフランスは王権神授説も唱えたし、十字軍も組織して「お宝」をたくさん持ち帰った。しかし、強引にフランスに持ち帰ったお宝よりも、生身のマグダラのマリアが自分から南仏プロヴァンスに来て生を終えたという方がインパクトははるかに大きい。この伝説があるからこそ、ダヴィンチ・コードで有名になったような、マグダラのマリアが実はイエスの子供を宿していて共にフランスに来てフランス王家の先祖となったなどというたぐいの「とんでも」裏歴史も形成されるのだ。

一二六五年にはブルゴーニュ公国がヴェズレーの女子ベネディクト会修道院にマリアの「聖遺骨」を招致し、フランス王や教皇庁大使により公認された。マグダラのマリアの崇敬は最高潮となり、クリュニー修道会の支援もあってヴェズレーからスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラまでの巡礼ルートは中世ヨーロッパの「巡礼経済」の根幹となった。ところが一二七九年に、プロヴァンスのサン・マクシマンの古墓所からローマ時代の骨が見つかり、プロヴァンス伯はそれがマグダラのマリアのものであると主張した(バジリカ聖堂地下に祀られている頭蓋骨や髪の毛などは何度も調査の対象になり、一四八センチくらいの地中海タイプの五〇歳位の女性のらしいと言われている)。

以来、ブルゴーニュ公とフランシスコ会(ベネディクト会の後を継いだ)に管理されたヴェズレーと、ナポリ王でもあるプロヴァンス伯とドミニコ会によって管理されるサント・ボーム近くのバジリカ聖堂は、政治と修道会を巻き込むライバル関係となった。

月日は流れたが、現在の二つのバジリカ聖堂には今も多くの巡礼者が訪れる。
 

二〇一六年の六月にローマの教皇庁はマグダラのマリアを使徒と同格にして毎年の七月二二日の祝日を全教会に義務付けた。翌年の四旬節の黙想でフランシスコ教皇はマグダラのマリアが「新しい、最も大きな希望の使徒となった」と表現した。復活のイエスに最初に出会って、弟子たちに復活と昇天を伝えるようにと告げられた(ヨハネによる福音書20, 17)のだから、「福音」の第一宣教者としてふさわしい。<<<

以上が引用部分。


プロヴァンスの「聖遺物」の方が完全な形でインパクトがあって、「本物」認定されてから、ヴェズレーは勢いを失った。サンチアゴ・デ・コンポステラに向かう巡礼の出発点の一つとしては今でも現役だけれど、どうもここにある「聖遺物」の骨は、最初から量の少ない骨片だったようだ。


量があればご利益が増す、それを支えるストーリーが充実していれば奇跡が頻発するというのはどこでも同じだ。『キリスト教の謎』(中央公論新社)で紹介したケルン大聖堂の一万一千人の処女殉教者の遺骨だとか、東方の三博士(三賢王)の遺骨と同じだ。(2016年に東京カテドラルにも分けられたけれど、量とストーリーが欠如しているので奇跡を期待する人はほとんどいないかもしれない)

けれども、ヴェズレーの魅力は、なんといってもその立地にある。

強い傾斜の尾根の上をバジリカ聖堂に向かってさらに上っていく道には僅か200軒ほどの集落。その形が「サソリ」と形容されてきた。

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石上純也さんが、ヨーロッパの教会は、街並みが環境で教会だけが独立した建物のようだ、と言っていたのを思い出す。
それに比べると東京の街は、個々の建物が主体になっていて、それが環境にもなっていて両立していて境目がない、というような話だった。悪く言えば東京は統一が取れていなくてばらばらの気がするが、石上さんはそれをおもしろいと感じている。
ヴェズレーでは、バジリカ聖堂だけが「建物」で、街並みはその環境で、またその全体が、サソリのような有機物として、ブルゴーニュの緑の環境に包まれている。

この地を熱愛して居を定めた文学者や音楽家は少なくない。

ロマン・ロランも住んだし、ジュール・ロワは『ヴェズレー、狂おしい愛』という本を残したし、バジリカ聖堂の裏の墓地に埋葬されたジョルジュ・バタイユは《Le Coupable》の中で詩的な描写を残している。

アラゴンは「ヴェズレー、ヴェズレー、ヴェズレー」と三度繰り返し、これがフランス語で最も美しいアレクサンドランの一つだと言った。

ロストロポーヴィチはこの聖堂でバッハの無伴奏チェロ組曲の全曲を録音した。

フレンチ・ポップスの巨人セルジュ・ゲンスブールも晩年をここで過ごした。


聖堂に向かってはるか上っていくという景勝の立地としては、フランスなら、モン・サン・ミッシェルとか、ヴェズレーと同じくサン・ジャック・ド・コンポステラの巡礼路の出発点であるロカマドゥールがある。


けれども、どちらも、一大観光地でもあり、観光客の方が巡礼者よりも多いし、観光産業、観光経済が支配している。だから、内省する人が、ここに住みたい、とインスパイアされるような空気はない。

ヴェズレーにはそれがある。 


それしかない、くらいだ。


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# by mariastella | 2018-09-03 00:05 | フランス

ブルゴーニュ その9 閑話休題 自戒を込めて

前回までのオセールの記事だけれど、このAuxerreはヨンヌ県の県庁所在地でサッカークラブもある有名な都市なのだけれど、ブルゴーニュ以外に住む人々の多くからは「オクセール」と発音されることが少なくないようだ。

母音に挟まれたxはもともとksでなくssと発音されていたらしい。

今は、ksと発音されるものだけにこの綴りが残っている。たとえばaxe(軸)はアクス。

Luxembourgはリュクサンブールだ。

でもオクセールはこの綴りのままssが残った。

同じもので多くのフランス人が間違うものにベルギーの首都Bruxellesがある。

フラマン語ではブリュッセル、英語ではブラッセルで、フランス語のこの綴りでも読み方はブリュッセルなのだけれど、フランス人は平気でブリュクセルと言っている。フランス語読み(ロンドンをロンドルというように)だと言えばそれまでだけど、ベルギーのフランス語ではssの発音なのだ。


実は私は前にミスをしたことがある。ユリイカのエリック・サティの特集でパリのサン・ジェルマン・ロセロワ教会のことをロクセロワと書いてしまった。その時は、オセールの司教のことを考えずに単に資料を読んで普通のフランス語読みでカタカナに変換したのだ。

今回のオセール滞在ではサン・ジェルマンが身近だったから、ふとチェックしたら、間違いに気づいた。

思いついて日本語のネットで検索したら、二種類の記述があるにはあるが、ほとんどは正しかった。

ところが、鹿島茂さんが監修翻訳の『パリ歴史事典』という本の読者コメントに、細かいエラーが指摘されていて、それに続いて

「集英社の広報誌『青春と読書』の11月号を見ていたら、鹿島先生、75-76頁で、サン・ジェルマン・ロセロワって書いてあるのに、びっくり。これは、サン・ジェルマン・ロクセロワでしょう。」とあり、単行本化の時には直しておいてもらいたい、とまであった。

すごく複雑な気分だ。

フランス語を読める読者からのコメントのようで、その方も後で気づいたかもしれないけれど、正しいことを書いているのにわざわざエラーだとネットで指摘されることもあるのだ。


私も、以前、自著に書いてもいないことを、別の方の本の中で、書いているかのように引用された上で批判されて戸惑ったことがある。しかも同じ出版社からの本だった。

今はいわゆるエゴサーチは一切していないから、どこかでだれかに誤解されていても気にもならないけれど、こんなに自信たっぷりに間違えて「ミスを指摘」する人もいるのだなあ。


そんなことを思っていた矢先に、ある記事に出会った。


ネットで見る日本の雑誌に、内x樹さんの時事問答があって、そこに内x樹さんが夏の初めにパリに来てサッカーのワールドカップの日本・ベルギー戦を見たことが書いてあった。

その記述に驚いた。

「生まれてはじめてパブリック・ビューイングで試合を見ました。フランスではW杯の試合は普通の地上波では放送していないので、近所の人たちが試合時間になると有線テレビのあるカフェに集まってきます。」

カフェに集まってみるのはみんなでわいわい盛り上がりたいからだけで、当然ながら、観たければ普通のテレビでもスマホでも見ることができる。

別に全体の趣旨には関係がないので、どうでもいいことなのだけれど、どうでもいいことをわざわざ書いてそれが間違っているというのは、藪蛇というか、誤った雑学の提供だなあと思う。

しかも、ただの観光客のブログなどではなくて、フランス文学の専門家で雑誌の連載記事だ。

事実関係の校閲とか入らないのだろうか。

私もいろいろなエラーを重ねてきた。誤変換やタイピングの単純ミスから、思い込み、思い違い、記憶違い、裏を取るのを怠った(内xさんの場合はこれだろう)など、いろいろなケースがある。

校閲さんにもずいぶん助けられた。

でも、このエラーはたんにトリビア情報を付け加えたのが間違いだった、というにしては、普通の日本人だって、時差も少ないフランスで、優勝候補チームが注目されているというのに、地上波テレビでワールドカップが見られないなんて「そんなはずはないだろう」と思うのではないだろうか。

いや、内x先生が言うのだから、へーっ、フランスってそうなんだ、と思うかもしれない。

この記事にはその他、彼が今回フランスで体験したことから、フランスって冷たい、

>>フランスって「そういう国」だったということをその時に思い出した<<


とか書いてあって違和感があった。

「ああいう人たち」とか「こんな人たち」みたいなのを連想してしまう。

いや、フランスを弁護しようなどと思っていない。

フランスに住んでいる日本人同士で「こういう国だもんね」とあきらめながら言うことなどいくらだってある。でもそこには、それぞれのシチュエーションの多様性について暗黙の合意がある。

たまたま遭遇した自分の個人的な体験を基にして手軽な一般化をするのとは違う。


なぜしつこく書くかというと、今こうやってブルゴーニュで見たことの覚え書きを綴りながら、私の見聞きしたものも「たまたま遭遇したもの」にすぎないのに、「ブルゴーニュのここってこんな感じなんですよ」と披露するトーンに流されている気がしないでもないからだ。今回かなりたくさんの資料を持って帰ってきたけれど、それらはまだ読んでいない。だからここに書いているのはこの年のこの季節に受けた第一印象以上のものではない。

ブルゴーニュのカトリック教会、歴代のフランス王やブルゴーニュ公との関係、修道会同士の軋轢は複雑だし、建築も、古代のもの、ロマネスク、ゴシック、が錯綜し、宗教戦争、フランス革命の嵐が通り過ぎた。表面をなぞって解説できるようなものではない。


ただ、それら長い歴史が層をなしているのは、どこの「歴史的建造物」でも同じだろうけど、現地に行ってその複雑さを再認し、それを貫く何かがあるのかを問うきっかけになることは悪くない。


(続く)


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# by mariastella | 2018-09-02 00:05 | 雑感

ブルゴーニュ  その8 オセール(続き)

オセールのサン・ジェルマン修道院の聖堂。

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ここはその地下聖堂が何といっても圧巻だ。

地形そのものが崖のようになっているから建物の構造も複雑で、9世紀から15世紀くらいに少しずつ広がった地下墳墓がまさに地下聖堂の観を呈している。

普通は代々の司教はカテドラル(司教座聖堂)に安置されるのに、オセールの司教たちはカテドラルでなくこの修道院の聖堂地下に安置された。そのせいでどんどん広げられた。

しかも、20世紀になってから発見されたフレスコ画が残っていて、「インディアナ・ジョーンズみたいだったんですよ」とガイドの女性がいうくらい、劇的だったそうだ。司教から司教への教えの継承のシンボル化が非常に興味深い。もちろん写真撮影禁止なので「地下教会」の雰囲気はこの絵葉書の写真で。

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上の聖堂には現代彫刻展も。
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これはサン・ドニ像(15世紀)。  彩色がよく残っている。

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切り落された自分の首を持って、モンマルトル(殉教者の丘)まですたすた歩いて行ったというパリの殉教聖人。この像は味がある。

地下墳墓の石棺が上から見える場所もある。

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このガルグイユも悪くない。

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修道院の住居部分は美術館になっていて、今は「女性とアート」がテーマだった。無料。

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              「彼女たちも--女性で芸術家 1850-1930」

女性が絵を描くアトリエ。

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伝統的なジェンダー・バイアスの問題なども解説され、なかなか充実。


女性アーティストの作品群も展示されている。

19世紀後半のリュシ―・シニョレ=ルディユ―の糸巻き少女(ディジョン美術館提供)の表情は胸に迫るものがある。

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同時代のヴィルジニ―・ドゥモン=ブルトンのこの「イスマエル」の大作も迫力があった。

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イスマエル(イシュマエル)というのは、アブラハムの最初の息子で、アラブ人の祖先とされる。
後継ぎができないまま年を重ねた妻のサラが、自分の女奴隷であるエジプト人ハガルをすでに86歳だった夫の側女にして生まれるたのがイシュマエルだ。けれど、アブラハム99歳の時にサラは奇跡的にイサクを身ごもり、まあ、いろいろあって、アガルとイシュマエルは荒れ野に追放されてしまう。子供の泣き声を聞きつけたに神が井戸を与えて助けた。
このストーリーによってユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「アブラハムの宗教」として「兄弟関係」にあるとされる。最初から理不尽な展開だ。

この母子をテーマとする絵はたくさん描かれてきたけれど、はじめて目にする女性画家のこの絵は迫力がある。

前にマルモッタン美術館の記事で書いたモリゾーの絵ももちろんあった。

美術によって自由を求めフェミニズムの嚆矢となった女性たちのアートへのアプローチは興味深い。


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# by mariastella | 2018-09-01 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その7 オセール(続き)

オセールのヨンヌ川沿いのレストランではコースメニューで、ブルゴーニュ尽くしに挑戦。

前菜はもちろんエスカルゴ。

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主菜は、ブフ・ブルギニョン。

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デザートがガトー・ブルギニョン。

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オセールの中心街はこんな感じ。

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数日後、サン・ペールのレストランのランチ・メニューでも、エスカルゴとブフ・ブルギニョンを注文して比べてみた。

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こちらはエスカルゴが殻から出されていて、ブドウの房型の皿に入れられているのがブルゴーニュっぽくてかわいい。

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ブフ・ブルギニョンはこんな感じ。

どれもみなおいしかったけれど、基本的に家庭料理なので、私でもできるから感激はない。どんな肉でも3時間煮込めばとろけるようになる。とはいえ、近頃煮込み料理などつくっていないし、暑くてあっさりしたものばかり食べていたので楽しめた。(続く)


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# by mariastella | 2018-08-31 00:05 | フランス

ブルゴーニュ その6 オセール

ポンティニーからオセールに入り、ヨンヌ川を渡るとカテドラルが見えてくる。

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サン・エティエンヌ大聖堂。

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扉上の立派な彫刻群。


サン・エティエンヌはキリスト教最初の殉教者聖ステファヌスのフランス語読みだ。(リエゾンする)

だからこのカテドラルにも石打刑で死んだステファヌスにまつわる図像もあるけれど、やはりオセールで一番人気なのはサン・ジェルマンだなあと思う。

サン・ジェルマンというとパリの一番古い教会の一つサン・ジェルマン・デ・プレを連想するかもしれないが、パリのサン・ジェルマンはパリ司教だった人。オセールのサン・ジェルマンはオセールの司教だった。オセール近くで生まれたゲルマン人で、ローマ帝国の兵士となったが、回心して418年にオセールの司教となり、448年にラヴェンナで死んでいる。

オセールの司教になったのは、住民たちが一致して望んだからだともいう。だとしたらトゥールのサン・マルタンとよく似た経緯だ。狩好きの貴族の息子がオセール司教の聖アマートルから受洗して後を引き継いだという記録もあり、数々の「奇跡(地に立てた杖が樹木になったとか)」もあり、パリの守護聖女となったジュヌヴィエーヴが10歳の時に神に奉献したとか、いろいろなエピソードもある。

彼の遺体はオセール近辺に戻ったものの、フランス革命で喪失、彼の遺体を運んだ木の台のかけらが立派な聖遺物入れに入ってカテドラルに飾られている。

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オセールにはサン・ジェルマンの名を冠した王立修道院があってそちらは広大な地下墳墓が残っていてすばらしい。パリのルーヴル広場の近くにはサン・ジェルマン・ロセロワ(オセールの人という意味)教会があり、ここで薔薇十字団コンサートが開かれたように、アーティストに人気の教会となっている。

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で、このサン・エティエンヌ大聖堂だが、ちょうど晩課の時間に行き当たった。50人くらい入る聖母のチャペルの中で3人くらいの人がロザリオを唱和していた姿が印象的で、歌のプリントを手にして座っていたら、次々と人が集まってきた。

司祭の声がすばらしく、ミサの応唱が美しい。

司祭が説教で真っ先にペンシルバニアのカトリック教会のペドフィリア・スキャンダルに触れたことが印象的だった。ルーティーンのミサではなく、真剣で誠実な気持ちが伝わってくる。

列席している人は地元の信徒という感じで、まるで地方の村の小さな教会にいるような家庭的な雰囲気がある。それでもミサに「よそ者」などはいなく、みなが微笑み合う。

今回のブルゴーニュの教会巡りでは、いろいろな有名な場所や巡礼地を回ったにもかかわらず、歴史の旅、文化の旅、アートの旅としては極上だったものの、どこでもスピリチュアルなもの、「霊性」を感じることが出来たとは言えない。

最も霊性を感じたのがこのミサだった。


霊性とは、大聖堂や聖遺物に宿るのではなく、人間に宿るのだなあ、とつくづく思う。

それは個人にではない。キリスト教の霊性というのは、イエスの名によって集まる「共同体」に宿るということだ。

誰かが一人静かに瞑想にふけっている時に到達するかもしれない無我の境地や自然との一体感などとは少し違う。安らぎや充実感とも少し違う。


「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイによる福音書18,19-20)」

というイエスの言葉の意味が実感される。

ルルドやファティマのような大巡礼地では、人々の期待や信仰が渦巻いていて、そのサイコ・エネルギーに圧倒されるし、なにかもう、いろいろな霊がよってきそうな最強のパワースポット化している。

そういう意味ではごく地味なこのカテドラルの片隅で、50人にも満たない人たち(子供もいたし杖を突いているお年寄りもいる)が、心を一つにして唱和することで生まれる霊性はイエスの言葉そのものだ。

オーセールの女性詩人マリー・ノエルの言葉に、「幸せでいるために幸福は必要ではありません」というのがある。

日本語でこう書くと分かりにくいけれど、要するに、「幸せな状態」というのは、いわゆる「幸福」の要素(健康とか衣食住の豊かさとか)とは別にある、ということだ。

「あなたのそばにいる人があなたのそばにいることを喜んでくれている状態」が「幸せ」ということなのだろう。

このチャペルには、それがあった。


幸せでない霊性、愛のない霊性なんて求めても意味がないなあと思う。(続く)


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# by mariastella | 2018-08-30 00:05 | フランス

ブルゴーニュ  その5 ポンティニー(続き)

聖堂を出ると修道院に続く長い廊下がある。
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修道院の生活部分が見える。
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全体の構造はこうなっている。右端が聖堂。
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修道僧の房室があった階では『地獄』展が。ジャック・カノーニチは1948年生まれのイタリア系フランス人画家で彫刻家。
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このピエタというタイトルのものは怖い。彼は聖書の題材やダンテの地獄編などだけではなく、戦争など現代のさまざまな「地獄」を描く。
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庭に出て、半地下の旧食堂に向かう。
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この建物は、オリジナルのまま残った部分のひとつだ。暖炉は後からつけられた。
元の床は、この柱の下の高さだった。
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周囲を底上げして、残した部分に水を引いていたのが分かる。
修道士の食料の保管だけではなく、修道院が生産販売するさまざまな物産の貯蔵庫として冷たい半地下が必要だった。
修道院で唯一暖炉がついていたのは書写室だけだった。暖炉なしでは冬にインクが凍るからだ。
ここでの展示会は「フランスのエジソン」と呼ばれる発明家のトレーニュ神父(ポンティニーの司祭)の業績紹介だった。第一次世界大戦の負傷者の体から銃弾を取り出すためにX線を当てながら弾の位置を三次元で確認する機械を作り、多くの外科手術に立ち会って放射線で手指をひどく痛めたという。

どの展示も無料だし自由に出入りできて、解放感がある。ところどころに女性の職員がいて、とても親切に一つ一つの作品を説明してくれたり質問に答えてくれる。

この雰囲気の明るさ、晩夏の光と、聖堂に立ち込めていたあの静寂の重さとのコントラストが不思議だ。

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# by mariastella | 2018-08-29 00:05 | フランス

ブルゴーニュ その4 ポンティニー

ポンティニー修道院

クレルヴォ―のベルナルドゥスが最初に作った支部の一つであるこの修道院は、シトー会修道院の世界最大のもので、当時の建築部分も残している貴重なものだ。

(あまり充実した記事ではないけれど、日本語のwikiの説明はこれ。)


この地を選んだのは、戦略的なもので、ここはブルゴーニュやシャンパーニュなど、三つの地方と三つの司教区の境界にあって、そのそれぞれの権力者から十分寄進を受けることができた。


第二次世界大戦後は「ミッション・ド・フランス」という司教区のカテドラルのタイトルを持っている。

ここが面白いのはイギリスのカトリックとの関係だ。

特にカンタベリー大司教たち。

カンタベリーで殺される有名なトマス・ベケットはヘンリー二世と対立して12世紀、ポンティニーで6年間の亡命生活を送った。

13世紀のカンタベリー司教のエドム(フランスではエドモン)がヘンリー三世と対立してフランスのサン・ルイ王のもとに亡命、ポンティニーにやってきて、客死して埋葬された。

実はこの辺の史実は怪しくて、たんにローマに行く途中で病を得てソワズィーで客死し、遺体をイギリスに送り返す用意をしていたのにポンティニー修道院が埋葬することを主張したということらしい。

ともかく、そのエドムの遺体の前で2年間で250件以上の奇跡(の治癒)が記録され、大フィーバーとなり、死後6年で、イノケンティウス四世によって列聖されて聖エドムとなった。

ヘンリー三世も巡礼にやってきて、四本の大蝋燭を灯し続けるように毎年の寄付を約束した。その後英仏百年戦争もあったのだけれど、歴代のイギリス王がその寄付を続けてきた。

奇跡を求める人々の大巡礼地となったので、今も見られる立派な聖遺物棺が作られた。

ポンティニーの修道院が見える道。

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並木も迫力がある。

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進む。

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さらに進む。

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この内陣に入ってから入り口を振り返るとこんな感じ。
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内陣には祭壇がある。
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祭壇の奥に見えるのが天使に支えられた聖エドムの棺。

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イギリスからの巡礼団が今も定期的に訪れるらしく、巡礼記念の寄せ書きが残されていた。

これがここで最も有名な聖母像。

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そばには楽譜が。
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昔聖体入れだったらしい戸棚はあいたまま。
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何もかも、どこか、無造作で、無作為で、不思議だ。

ここのパイプオルガンは美しい。

離れてながめると巨大なシャンデリアのようにさえ見える。

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それにしても、当時まだ列聖されてもいなかったイギリスの大司教の遺体のご利益を求めて人々が殺到したのはなぜだろう。トマス・ベケットの記憶と強烈な最期のインパクトがもう一人の「カンタベリー司教」に重ねられたのだろうか。ポンティニーは最初からそれをねらって遺体をイギリスに戻さなかったのだろうか。

それにしても、この修道院は巨大ではあるけれど簡素で、ただ聖エドムの棺だけが輝いている。

静寂のシトー会のイメージにふさわしく、聖堂内部には、訪れる全ての人が残していった「沈黙」がびっしりと垂れこめている。

あまりにも聴覚情報がないので、頭の中の血流の音とかが知覚されて、周りの静寂につぶされないよう対抗するかのように耳の中に沈黙の音が流れ始める。

「シーン」というオノマトペを実感する時間だ。


それにしても、サン・フロランタン教会もそうだったけれど、この巨大建築群も、訪れる人々をひたすら無防備に受け入れてくれる。

パリやパリの近郊では至る所でセキュリティチェックがあるのに慣れている身には、この広大な無防備さそのものが奇跡のような気がする。(続く)


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# by mariastella | 2018-08-28 00:05 | フランス

ブルゴーニュ その3 サン・フロランタン 

サン・フロランタンの町並みは中世風。
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この町は今回のブルゴーニュの旅の最初の町だったのだけれど、他のすべての町の要素を全部備えていた。町の人はやさしく、この10年で人口が半減したという町の未来を憂えながら、親切に話をしてくれた。彼らのお勧めのレストランは昔修道院があった敷地にある。
常連らしいカップル客がテラスにすでに幾組かいた。
毎年のバカンスの行きか帰りにここへ寄る、という感じらしい。
いわゆる「観光客」の姿はほとんどない。

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家庭的な庭のテラス席で食事。
でも、建物内の席をちらりと見ると、これも可愛い。お皿にブドウのモティーフがブルゴーニュに来たんだなあ、と思わせてくれる。シャブリはこのすぐ近く。
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この後、目的地の一つであるポンティニーに向かう。

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# by mariastella | 2018-08-27 00:05 | フランス

ブルゴーニュ その2 サンフロランタン続き

このステンドグラスは創世記の天地創造を描いたもの。
左上が神がカオス(混沌)からコスモスを作るところ。

神は、まず天と地を分け、その地には闇があり、神の霊が水面を動き、さらに「光」を創造し、昼と闇に分け、さらに水と水を分けて大空を作った。大空の上と下に水を分けた。大空を「天」と呼んだ。
さらに天の下の水を一か所に集めて「海」とし、渇いた部分を作ってそれを「地」と呼んだ。「地」には草と果樹を芽生えさせた。

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聖書の記述も何か混沌としていて天と地と光との順番がよく分からないのだけれど、その分かりにくい部分を丸い青い「混沌」の真ん中がぱくりと開いて「分けられる」というクリアな図にしているのがおもしろい。「神」の姿がいろいろな司教をモデルにしているようで衣装も違っている。
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これは聖母被昇天のステンドグラスで、この16世紀初頭のものの隣に同じ大きさでテーマをなぞったもので比べると興味深い。

レリーフのキリスト復活も悪くない。イエスがどうやって墓の中から出てきたのかは誰にも分からない。ただ墓の横穴をふさいでいた大石が動いていて、遺体を包んでいた亜麻布が残っていたという記述だけれど、ここには、石棺の蓋がずれて亜麻布を引きずってにゅーっと出てきたイエスの姿が。頭を覆っていた布はもう下に落ちている。
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超かわいいのはこの聖母子像。
おむつもしていない赤ちゃんイエスのぷりんとしたお尻がキュート。
聖母は、「ちょ、ちょっとおとなしくしてないと落っこちますよ」という風情。
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もちろん「普通」に立派な聖母子像もある。戴冠後の公式ポーズ。
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この教会は、すべての「見どころ」に英仏語でくわしい説明がされていて、「美術館」として充実している。個人で鍵をもらって見学でき、しかも、もちろん無料だから、こんなに「お得」な美術館は珍しい。
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# by mariastella | 2018-08-26 00:05 | アート

サン・フロランタン教会

ブルゴーニュに入ると、丘の上に所々にモコモコした感じの木々があって、ブルゴーニュの水彩画の記憶と重なる。

ポンティニーに行く前にサン・フロランタンによる。ここの教会はもとお城のあったところでこういう感じの入り口が残っている。
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驚いたのは、今は教会は普通はしまっていて、観光案内のオフィスに身分証明書を預けて鍵をもらって入る。
教会の扉を自分で鍵を開閉したのは初めてだ。
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ここのステンドグラスは素晴らしい上に、詳細な解説がついている。
美術館も顔負けだ。しかも、無料で貸切。
贅沢。
デューラーの黙示録をモデルにしたと言われたステンドグラスはこういうもの。

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15世紀末から、トロワで発展したステンドグラスのアトリエの技術がこの教会に結集している。

傑作は聖母マリアのステンドグラスで、赤が基調になっている。
写真でディティールを見るとこんな感じで、
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実際はこういう感じで輝いている。
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ここの彫刻は元の色彩がわずかに残っているものも少なくない。
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(続く)

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# by mariastella | 2018-08-25 00:05 | 宗教

パリのカモメ

7月下旬から8月初め、暑い日が続いていたパリ。

7月末にアンヴァリッドの前の広場を通ったら、鳩たちに混じって何羽かのカモメ(っぽい水鳥?)がいたのが印象的だった。

セーヌ河を伝って河岸によくカモメが飛んでるのを見たことはあるけれど、アレクサンドル3世橋が近いとはいえ、この暑い時に、日差しの強いこの広場に出てくるメリットはなんだろう。
上半身裸で寝そべる人の姿はさすがに減っていたけれど。
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8月半ば過ぎ、猛暑だった日々が嘘のように涼しくからりと晴れた「昔ながらの夏」になったアンヴァリッド前。
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人が増えて、鳩もカモメもいなかった。

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# by mariastella | 2018-08-24 00:05 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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