L'art de croire             竹下節子ブログ

ある戦没者追悼碑

第一次世界大戦の終戦100年記念式典で、リーダーシップをとったのはフランスのマクロン大統領だったけれど、Brexitを前に式典をお願いします。スルーしたテレザ・メイ、平和フォーラムには欠席したトランプ、こわもてのプーチンに、レームダック化しているメルケル首相らの間では、マクロンがいくら平和や共存の美辞麗句を並べ立てても空回りの観が免れない。

そんなフランスだけれど、そして、第一次大戦の悲惨の後で結局第二次大戦に突入してしまった懲りないヨーロッパではあったけれど、それでも、このフランスに希望があり信頼がおけると思わせるものがある。

ロワール県の サン・マルタン・デスシレオー市(Saint-Martin-d'Estréaux)にある有名な戦没者碑だ。

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第一次大戦の後の戦没者碑はフランスの津々浦々まで広がった。

基本はその町の戦死者の名を刻むもので、第二次大戦の後でさらに書き加えられたものも多い。

で、このサン・マルタン・デスシレオー市の碑も、表は戦死者の名前のクラシックなものだが、裏の碑文が3面に渡る徹底した平和主義のものですごい。

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第二次大戦に入るまでの間に再び高まるナショナリズムの中で、碑文を考えた市長への脅迫や碑を破壊する呼びかけなど、さんざん物議をかもしたが、第二次大戦後に文化財認定されている。 (1922年に64名の戦死者の名が刻まれて建立、裏の文は終戦の10年後に書き加えられ、第二次大戦後には11名の戦死者の名が加わった。)

すばらしいので後に全文コピーしておく。

抄訳、意訳すると、

「平和が欲しいなら戦争に備えよ」というモットーは危険なものである。

平和な未来のためには健全な指導で国々と個人の精神を高めなければならない。


戦争のために費やされた全ての努力や金が平和のために使われていたら?

社会や産業の発展のために使われていたら?

人類の運命はずっと違ったものになっていただろう。

この世から多くの悲惨がなくなり、次世代への膨大な負の遺産のかわりに普遍的な善を残せるだろう。

戦争と戦争を始めた人々は呪われるべきだ。

>>

この戦争のバランスシート :

千二百万人以上の死者。

同じ数だけの生まれなかった人。( Sekko : 兵士のほとんどは健康な若者だから生きていたら確かに戦後に平均1人は子孫を残していただろう)

さらに多くの傷痍者、未亡人、孤児

破壊による数えきれない何十億のさまざまな損害

人類の悲惨の上に築かれたスキャンダラスな財産

罪なき者たちの制裁

罪ある者たちの褒賞

すべてを失った者の辛い人生

膨大な支払い請求

<<

この戦争はもう十分な苦しみと悲惨を与えただろうか ?

十分に人を殺しただろうか ?

人類が今度は戦争を殺すという知性と意志とを持つにいたるほど十分に ?

>>>

いやあ、第一次大戦後の世界で、一応の「戦勝国」で、大統領までドイツへの報復感情を隠していないような時代に、こういうことを考えてきっちり文にした視野の広さ、知性、先見の明と勇気には驚嘆するばかりだ。

結局第二次大戦に突入したし、百年経った今の世界も武器や軍事力を拡大するばかりで全然進歩していない、などと嘆く前に、こういう言葉を希望と共にしっかり継承していこう。

(碑文)

« SI VIS PACEM. PARA BELLUM ! ... ou
Si tu veux la paix. prépare la guerre !
est une devise dangereuse

SI VIS PACEM. PARA PACEM ! ... ou
Si tu veux la paix. prépare la paix !
doit être la formule de l'avenir
C'est à dire :
QU'IL FAUT AMÉLIORER L'ESPRIT DES NATIONS
EN AMÉLIORANT CELUI DES INDIVIDUS.
PAR UNE INSTRUCTION ASSAINIE ET LARGEMENT RÉPANDUE.
IL FAUT QUE LE PEUPLE SACHE LIRE.
ET SURTOUT COMPRENDRE LA VALEUR DE CE QU'IL LIT.


SI TOUT L'EFFORT PRODUIT ...
ET TOUT L'ARGENT DÉPENSÉ POUR LA GUERRE
L'AVAIENT ÉTÉ POUR LA PAIX... ?
POUR LE PROGRÉS SOCIAL, INDISTRIEL ET ÉCONOMIQUE ?
LE SORT DE L'HUMANITÉ SERAIT BIEN DIFFÉRENT
LA MISÈRE
SERAIT EN GRANDE PARTIE BANNIE DE L'UNIVERS, ET
LES CHARGES FINANCIÈRES QUI PÈSERONT SUR LES GÉNÉRATIONS
FUTURES. AU LIEU D'ETRE ODIEUSES ET ACCABLANTES ...
SERAIENT AU CONTRAIRE
DES CHARGES BIENFAISANTES DE FÉLICITÉS UNIVERSELLES

MAUDITE SOIT LA GUERRE. ET SES AUTEURS !


BILAN DE LA GUERRE :
PLUS DE 12 MILLIONS DE MORTS !
AUTANT D'INDIVIDUS QUI NE SONT PAS NÉS !
PLUS ENCORE DE MUTILES, BLESSES, VEUVRES ET ORPHELINS
POUR D'INNOMBRABLES MILLIARDS DE DESTRUCTIONS DIVERSES
DES FORTUNES SCANDALEUSES EDIFIEES SUR LES MISÈRES HUMAINES
DES INNOCENTS AU POTEAU D'EXECUTION
DES COUPABLES AUX HONNEURS
LA VIE ATROCE POUR LES DESHÉRITÉS
LA FORMIDABLE NOTE À PAYER

La guerre aura-t-elle enfin ...
assez provoqué de souffrances et de misères ..?
Assez tué d'hommes...?
pour qu'à leur tour les Hommes aient l'intelligence
et la volonté de tuer la guerre..? »


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# by mariastella | 2018-11-15 00:05 | フランス

ある兵士の手紙

この11/11は第一次世界大戦の終戦の日から100年ということで様々な記念式典があった。人気低迷のマクロンは過去の激戦地を回っていた。

11/9の朝のラジオで、1914年にアルザスの塹壕で戦っていた35歳の兵士が息子に送った手紙が紹介されていた。息子は、「プロシャの兜(ドイツ軍のヘルメット)を持って帰ってくれ」とお父さんに手紙を書いていたらしい。それへの返事はこういう感じのものだった。

>>>君はドイツ軍の兜が欲しいって書いているけれど、今はだんだん寒くなって、もし兜を取られたらその人は風邪をひいてしまうかもしれないよ。
それに、ドイツ軍の兵士にも子供がいて、フランスの軍帽を持って帰って、とお父さんに書いているかもしれない。その帽子がパパのものだったらどうする?

今は分からないだろうけれどこの手紙をずっととっておきなさい。

そして、いつか、平和を打ち立てるために、「不可能」なことをやりとげてほしい。<<<

この兵士はその翌年に戦死したそうだ。

わたしたちはみんな、この兵士の子供たちだ。

世界中に軍産コングロマリットや全体主義や共同体第一主義が広がっている今、「不可能」に思えることはたくさんあるけれど、私たちは平和をあきらめずに「不可能」なことでもやっていかなければならない。

このお父さんが伝えたように、「相手の身になって考える」というたったそれだけのことが、「不可能」を突き崩してくれる。



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# by mariastella | 2018-11-14 00:05 | フランス

第一次大戦戦没者追悼式典

11/11にフランスで開催された第一次世界大戦戦没者追悼の終戦記念式典は、このところ国内的には強権的な政策が批判されっぱなしのマクロンが得意の外交で存在感を示す機会となった。特に、ヨーロッパの戦争に駆り出されたアフリカ大陸の戦没者の復権が進んでいるのがよく分かる70ヶ国首脳の出席した式典になった。

けれども、たとえば戦没者も多かったハンガリーは、今のナショナリズムの台頭を反映して、トップはもちろん代理も出していない。

全員をエリゼ宮から凱旋門まで運ぶバスが連なったが、トランプとプーチンとネタニヤウの三者はセキュリティを信用せずに別々に裏側から来るなど、今の微妙な空気も反映されている。

「戦勝四大国」だったはずの米仏英伊のうちのイギリスとイタリアが背を向けたのも、イタリアのポピュリズム、イギリスのBrexitを反映していて、エゴを超えて平和をというEU理念の危機を反映している。

イタリアが第二次大戦では枢軸国側に寝返ったことも関係しているのだろうか。日本も?

日本もイタリアもヴェルサイユ条約前のパリ会議には不満で途中で退席したことがある。

でも、終戦の翌年1919年の最初の714日、フランス革命記念日の軍事パレードには、戦勝国すべ手の軍隊が亢進して、その中で日本軍が行進した時には盛大な歓呼があったという。そういえばそのパレードではヴェルダン戦の英雄であったペタンも白馬にのって堂々と行進した。そのペタンが新独政権となり第二次大戦後には「犯罪人」となったのだから、21世紀の第一次大戦の記念式典といっても、その後の歴史の展開なしには語れない。

それでもマクロンはトランプらの批判をこめた演説をしていた。

トランプに批判的なCNNの特別インタビューに出演して英語でうまく答えるのもマクロンならではだ。

ここのところずっとサミットから拒否されていたプーチンが各国首脳と並ぶだけでもシンボリックな意味はある。

政治的な効果はなくても、第一次大戦の愚かさと悲劇を強調するだけでも「教訓」的な意味はある。

米露二者の会談を避けて、エリゼ宮での昼食でトランプとプーチンをマクロンと同じテーブルで向かい合わせて話し合わせた、という演出も、本質は変わらなくても、平和と話し合いという建前を維持したことは評価できる。

けれども、このエリゼ宮にも、両者は別々に現れて、式典と同様、両者とも遅れてきて、プーチンはトランプよりも遅れてくるというやり方を通した。

その後の「平和フォーラム」(13日まで続く)も、トランプは欠席、プーチンはほんの形だけという出席だった。まあ、トランプは2015年のパリの環境会議からも離脱したのだから、出席するはずもない。それでもマクロンが過去の戦争を想起して平和を維持するのは我々の肩にかかっていると訴えるのは意味がある。

それでも、目玉である凱旋門の追悼セレモニーとは、結局はフランスの「軍事」セレモニーであり、マクロンが軍の閲兵をしてまわるのだから、彼がアメリカからも守るためにヨーロッパ軍の設立が必要だとか言って、「侮辱的だ」とトランプがツィートしたように、所詮は「武力による平和」の愚かさから世界は抜け出ていない。

あいにくの雨で、みな傘をさして歩いていたのに、前列で一人傘なしで更新したカナダのトルドー首相は「カッコいい」としかいいようがない。当時イギリスも実質的な植民地だったカナダも大きな犠牲を払った。何よりも、第一次大戦後、国内で膨大な数の孤児たちが「不良化」して困ったイギリスが、彼らをまとめて

カナダ西部に大量に送り込んで「安い労働力」を提供した過去がある。今のカナダ人の10人に1人はこの時の移民というか植民の子孫だという。

音楽のパフォーマンスではまずアメリカ国籍のヨーヨーマ―がバッハの無伴奏第5番のサラバンド。ドイツの曲でいいのか ?に答えるように次はフランスのラヴェルのピアノとヴァイオリンのソナタの二楽章(ピアノのパートをチェロが弾いた)で、ヴァイオリニストはマクロンと同世代で今を時めくフランスのルノー・カプュソンというバランス。そして、アフリカを中心とした植民地軍の戦死者を考慮してトーゴの歌で締めくくった。

1918年当時の兵士や兵士の婚約者やらが書いた手紙をリセアンたちが朗読したのは、フランス語、中国語、英語、ドイツ語というバランスだった。

夜には終戦後のフランスの様子のドキュメンタリーをTVで見たが、北フランスやアルザスなどの完膚なきまでの崩壊ぶりに衝撃を受けた。近頃こういう映像を目にするのはシリアやイラクの町で、アレッポなどに広がる瓦礫がショッキングだったけれど、100年前のヨーロッパはある意味でもっと悲惨だ。

膨大な数の砲弾によって、顔や体の一部が吹き飛ばされた傷痍者が多すぎる。

第二次大戦の核兵器による被爆地の跡の荒廃や被爆者の姿もこの世の地獄のようだけれど、まさに「この世のものとは思われない」非現実感もある。

でも、ある意味で中途半端に個別に撃たれたり爆破されたりして生き延びた人々の損傷というのは、個人的、社会的トラウマ、ルサンチマンが強烈だ。「 « gueules cassées »壊れ面(づら)」という名がつけられて数々の映画のテーマにもなった顔面損傷者が大量に生まれた。

ヴェルサイユ条約でのフランスのクレマンソーの懲罰感情(彼はすでに77歳で、普仏戦争以来の対独復讐感情を引きずっていたのだろう)、民族自決の希望を掲げてやって来た62歳のアメリカ大統領ウィルソンが自国では黒人差別を維持したことも含めて、第二次大戦に向けて起こったことを棚上げして第一次大戦の反省からひととびに今の世界の平和構築の檄をとばすことの限界も、あらためて考えさせられる。


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# by mariastella | 2018-11-13 00:05 | フランス

機内で観た映画 2 『22年目の告白~私が殺人犯です~ 』

『22年目の告白~私が殺人犯です~


これは、殺人者がベストセラーを出し アイドル化するシーンとそのキャラクターが強烈で、見たいなあと思っていたのだけれど、フランスで上映されそうもないので、好奇心に負けて、ネタバレの粗筋や批評をネットですでに読んでいた。

で、オチ?は分かっていたつもりで、それでも機内のプログラムにあったので見てみた。

結果は、流れがわかっていたのに、十分引き込まれるものだった。嫌味な殺人者(藤原竜也)と刑事(伊藤英明)とのタイプの差が対照的で、3人目の男(仲村トオル)も個性的で、ともかくストーリーがよくできている。韓国映画のリメイクだそうだけれど、阪神大震災が伏線の一つになっていたりして、しっかり日本映画っぽく違和感がない。


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# by mariastella | 2018-11-12 00:05 | 映画

機内で観た映画1 『終わった人』

日本への往復機内で観た映画のコメントを忘れないうちに記録。


まず日本行きの便で観た邦画2本『終わった人』『22年目の告白』から

『終わった人』


これは原作も映画のことも噂に聞いていて、軽い社会ドラマかと思って見てみたら、意外に説得力があった。

定年後の男が突然居場所を失って生き甲斐を模索するというテーマ。


主人公が東北出身というのが伏線のひとつで、それはすなおに受け入れられたけれど、東大卒でメガバンクに就職できたのに途中で出世から脱落してしまうというのが日本でどのようなリアクションやルサンチマンを生むのかというのがわかるようでわからない。
この夫婦にこの娘という感じは説得力がある。


でも、この設定、まだ62、3歳。私や私の周囲のシニアから見たらいかにも若過ぎる。


舘ひろしってこんなに上手い俳優だったんだ。

でも、その気になればまだ堂々のアクションだってできそうな感じの彼が演じるから救われるので、ほんとうにしょぼくれた生気のない貧相な男がこのシチュエーションならいたたまれない気がするだろうな。


私は周りに職業人として「終わった人」が増える世代なので、身につまされる部分がないとは言えない。

でも、その中には、「終わる」どころか、ほんとうには「始める」こともしないまま年月を重ねてきた人も少なくない、というのが実感でもあるこの頃だ。

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# by mariastella | 2018-11-11 00:05 | 映画

渋谷川

11/2

どんどん新しい建物ができる渋谷。 9/13に開業したばかりだという渋谷ストリームに案内してもらったけれど、その前を流れる渋谷川と、反対側の古いビルの裏側を見る方が感傷的になる。
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パリに比べて東京の主要駅前って、景観が変わりすぎてなんだかもうよく分からない。
渋谷が拠点で井の頭線や東横線沿いに住んでいた時代が、景観と共に遠くなっていく。

私自身はいわゆる購買欲は限りなくゼロに近くなっているのに、こんなにモノがあふれて建物がバラバラに環境を独自に囲っているような中にいれば、多くの人が刹那的な消費者になっていくことも不思議ではないと思う。

昔は日本とフランスの距離が遠かった。今はネットのおかげで近い感じがするばかりか日本に住む多くの人の生活や意見とつながっている印象があるけれど、実際に感じる空気には愕然とするような落差を感じる。今回の滞在が特殊なコンテキストにあったからかもしれないけれど。

真生会館では、来秋に沖縄のコンサートに来るならまた地下ホールでコンサートをどうぞと言っていただいた。ありがたい。

今年はお天気に恵まれた。去年の2度の台風のことが非現実的に思い出される。



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# by mariastella | 2018-11-10 00:05 | 雑感

大阪で

10/27、大阪城駅で生まれて初めて水上バスに乗った。
向こうに天守閣がちらりと見える。
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小一時間のこういう川の遊覧船に乗るのなんて数十年前のバトームーシュ以来かも。
島に渡るというのなら「直島」とかドブロヴニクからロクルム島などが記憶に新しいけれど。

大阪では、数年前まで長年、大阪府下の市会議員を務めていた人とお話しできた。
共産党の方で、私の新刊の「神と金と革命が つくった世界史」にびっしり付箋を貼ったものを持参していた。それまでに、婦人会館にあった私の本を4冊読んだということだけれど、この本は特に共に普遍主義であるはずのキリスト教と共産党の関係を書いたものだから、どう読まれたかが気になった。 しかも彼女の実家はお寺で、仏教的なバイアスがあるのかどうかもよく分からない。

でも、お話しして、ふつうに「弱者の側に立つ」という生き方を貫いているシンプルさでまったく壁がない。議員時代はずっと5h睡眠の連続でいろいろなものを犠牲になさったようだ。
いろいろ考えさせられる。

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# by mariastella | 2018-11-09 00:05 | 雑感

よそのネコ

10/31、うちの猫以外をはじめて撮影した。
やはり、猫好きって、どこの猫でも好きなんだなあと思った。
うちの子のように舌をしまい忘れている猫。
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ナルくんと同じく牙が出ている猫。
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かわいくないなあと思いながら接写したのも。
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母親ってすごい。
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これはキャットでなくミーアキャット
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これは……
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紅葉も少し見ることができた。台風に運ばれた塩のせいで、紅葉せずに枯れたものも多いそうだ。
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# by mariastella | 2018-11-08 00:05 |

御殿場高原

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これを書いているのは10/30。19年ぶりに御殿場高原ホテルに来ている。

19年前の夏、御殿場に用があったついでに両親とこのホテルに来ていた。部屋からの富士山が絶景で、父がとても喜んでいた。亡くなる3年前だ。
母と私もホテルのある時之栖というパークが気に入って、もう一度行きたいね、と言っていた。その母も亡くなってちょうど10年になる。

和洋室の広々とした部屋からの眺めは変わらない。
ホテルの裏にありがた山へのお遍路というのができていて、供えられたお地蔵様がずらりと並んでいた。
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前島秀章さんの作品がたくさんある。
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先日これも久しぶりに私も三十三間堂に行ったばかりだったので16歳の青年を彫刻家の道を選ばせた出会いというものに感慨をおぼえる。
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# by mariastella | 2018-11-07 00:05 | 雑感

久しぶりの京都

京都では伏見稲荷、東福寺、戒光寺、三十三間堂、青蓮院門跡などに。
案内してくれた人は青蓮院の孔雀絵が、肉眼で見るとかすれたように薄くなっているのが写真にすると生きているかのように見える、まるでトリックアートのようだと強調していた。確かに。



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庭が美しい。
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この白いのは水子観音と呼ばれる、高台寺の霊山観音。たくさんの人がいて少し驚いた。

案内してくれた人は元は伏見で青果業を営んでいたのが博打で何千万もの借金を作って破産し、離婚してから再出発した。
自分の場合は、賭け事は依存症ではない、ひたすらコンコルド効果(サンクコスト効果)によるバイアスのせいで、妻に内緒で博打をして最初に失った金をなんとか回収したいというのが続いたのだという。

酒もタバコもやらず、20歳で店を出し、53歳まで必死に働いて、小金も貯まったのだ。
妻にばれ、友人に1200万円を借りて借金を清算した後、ゼロから出発して、友人にも金を返した。一度サンクコスト効果の罠から脱却したら、依存症のように賭け事自体への興味は残っていないという。娘とも和解できた。再婚して幸せに暮らす元妻を祝福する。
依存症ではないという話に説得力があったのが意外に思えた。
カジノ法案についても話し合った。

今回出会った仏像群にはどれも感銘を受けた。
見え方が変わってくるのはいわゆる「年のせい」なのか、キリスト教の聖像を見すぎて視座が変わったせいなのだろうか。

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# by mariastella | 2018-11-06 00:05 | 雑感

日本で買った本

先日青山の東京ウィメンズプラザの図書館で、「神とフェミ」を書くために何か参考になるような日本語の本がないかと探して、とりあえず2冊の本をチェックした。
借りて読んでいる暇はないので、隣の青山ブックセンターに行って調べてもらったら、版元にも品切れ。

でも、通販で中古品をすぐに手に入れることができた。
こういうの。
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出版不況で、良心的な書籍を世に出すハードルはどんどん高くなっているけれど、一方で、古書店を 廻らなくともこうして簡単に欲しい本が手に入る時代でもある。

折しも神田では昔ながらの古本市が開かれている。

大学時代にSF研にいた友人が、古本市で私のために当時三千円くらいで、日夏耿之介の「サバト怪異帖」を競り落としてくれてプレゼントしてくれたのを思い出す。1948年版だった。
今でもフランスの自宅にある。

コンテンツだけではなく、「モノとしての本」ってやはりすごいなあと、なんだか力づけられる。









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# by mariastella | 2018-11-05 00:05 |

久しぶりの奈良

話は前後するが、10/26に行った奈良。興福寺も春日大社も記念の特別公開があってラッキーだった。今回初めて、通りの真ん中に寝そべっていたり、道路を横切ろうとして途中でフリーズした親子鹿が車の列を止めてしまっているのを見て、インドの町の牛みたいだなあと思った。
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# by mariastella | 2018-11-04 00:05 | 雑感

藤原真理さんのコンサート

(ジョリアンのシリーズは、日本の記事の後で再開します。)

10/24、藤原真理さんに浜離宮ホールのランチタイムコンサートに招待していただいたので久しぶりに築地に行った。

築地市場が引越ししたばかりで、閉まっている店も多く、感慨深い。

ホールは音響も良く、真理さんはもとより、ピアニストの倉戸テルさんが幸せそうなのがとても印象的だった。
ピアノのパートが「歌」でない部分では、明らかにチェロのパートと同化していて、頭や肩の動きが真理さんと完全にシンクロしている時があった。チェロは楽器の性質上、他のパートを 聞いてはいても、頭の中で歌って再現することはできない。それについては前に詳しく書いた。

で、このおふたりでは、倉戸さんが明らかに、ピアノのパートを歌いながら真理さんのパートというかダイナミクスにぴったり寄り添っていて、しかもそれがはっきり動きや表情で見える。こちらも幸せな気分になる。

ベートーベンのチェロソナタは贅沢な曲だ。
1楽章の出だしはいつも感動的だし、ここからコンサートを始めるのって、普通なら緊張するだろうなあと素人考えで思ってしまうが、一瞬で聴衆を別世界に連れて行ってくれる。
3楽章のフーガは舞曲にも似ている。
メシアンが捕虜収容所で作曲したというイエスの永遠性への賛歌は、和声が解決されないままに非常な強度でどこかへ向かっていくところが時代性と、フランス性の濃密全開という感じがする。
第2部で小曲を並べるのはある意味で難しいと思うけれど、コメントもあってリラックスした感じでよかった。シューマンってやはりよくできている。

コンサートの後は、はじめて浜離宮恩賜公園に行って、中島のお茶屋でお抹茶をいただいた。
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帰りには築地本願寺に寄った。ここに入ると本当にフランスの古い教会に入るのと似た気分になる。
コンサートからまる4年が経った。
あらためて、すばらしい機会を頂けたものだなあと思う。


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# by mariastella | 2018-11-03 00:05 | 音楽

道徳と倫理--- アレクサンドル・ジョリアン その10

(これは前の記事の続きです)

>>>(ニーチェの)「大いなる健康」(ここを参照)の対極として、欲望を満たすために消費に狂奔する「大いなる食欲」と形容なさっていますね。今の社会は私たちを見な依存症にかりたてるのでしょうか ?

A.J. 残念ながら、社会で宗教というものが衰退したことで、行き過ぎた個人主義が広がったと言えます。「超越」という考え方や感性がなくなって、到達点も目的もない欲求に駆り立てられています。幸福という概念すらもはや共有されずに個人的な快適さへと矮小化されています。この個人主義は私たちの苦しみにつながります。なぜなら連帯するという私たちの性質の深い部分に反するからです。これは道徳的な考察ではなく倫理的な次元のことです。個人の欲求充足の道は本当の喜びや至福にはつながりません。


Sekko: ああ、「道徳」と「倫理」が使い分けられている。

道徳と倫理の違いというのは、フランスのように高校三年で哲学が必修でバカロレアの科目であるような国では、いたるところで解説されている。ここでは、このジョリアンの言い方をわかりやすくする方向で解説しよう。

もともとの意味は「慣習、習俗」という言葉のラテン語から来たのがモラル、道徳で、ギリシャ語からきたのがエティック、倫理などで同じだ。

で、倫理の方はアリストテレスの『二コマコス倫理学』で語られるように、ある政治的枠内での身の処し方の最適解のこと。「理」という字があるから「理性的、合理的に議論できる機能的なもの」というニュアンスに適っている。例えば、「安楽死」がいいか悪いか、合法化するかどうかというのは「倫理委員会」で議論される。

それに対してモラルの方は、もっと内面的な個人的なもの、とは言えるのだけれど、もとは宗教や伝統における善悪観にルーツを持つ。「徳」という字で連想しやすい。だから、モラルはその適用について議論したりするものではなくて、確信するのに近い。「上から目線」で与えられたもので、二元論的ともいえる。当然、時代や場所によってその「上」は変化するけれど、それを「自分のもの」として生きることを刷り込まれいる。

西洋思想の中では、18世紀の啓蒙の時代に「モラル」が普遍的なものであるかのように称揚された。それは、西洋近代の啓蒙思想が、キリスト教由来のモラルから宗教色を廃した「普遍主義」だったからだろう。

それに対して、「倫理」の方は、ポスト・モダン的なニュアンスだと言えるだろう。

つまり、ジョリアンがここで「人の本性は連帯するところにある」というのが「道徳」ではないと言っているのは、「連帯しなさい、連帯が善です」という「上から与えられた信仰」ではないと言いたいわけだ。

「倫理的な次元」だということで、それが苦しみに対処する「最適解」であると提言しているのだ。


(実際はモラルと倫理は同義に使われることも、補完的に使われることもある。モラルのルーツである宗教であっても、科学が発展し時代が変わることに適応してモラルを政治的社会的な枠で検討することがある。バチカンにもいろいろな「倫理委員会」がある。その反対で、政治的社会的文脈の違う時代の「伝統」に根差した上から目線の「道徳教育」を目指す国もある。)


(続く)


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# by mariastella | 2018-11-02 00:05 | 哲学

アレクサンドル・ジョリアン その9

(これは前の記事の続きです)

>>>ということは、依存症というような深刻な問題についても、なんとしても解決したいと望まないことを受け入れるということですか ?

A.J. 二つの落とし穴があるといえます。一つは、あきらめてしまうことです。「もう駄目だ、絶対に無理だ」と。

もう一つは、意志の力で自分を変えることができると信じることです。どちらかに落ちることなく真ん中の道を行くのはすばらしい。私がある人物に完全に依存していた時、この尾根の道で、ある意味で「恵み」にすべてをゆだねるとはどういうことかが分かった気がします。誰かに全面的な依存状態にある時、何か自分を超えるものに自由に自分をゆだねきる、自立した自分の力というものではどうしようもないと認めることの可能性が垣間見えるのです。チベットの僧の教えには助けられました。彼は「治療法などない。合理的な説明もできない、苦しみは存在の一要素であり外部にその解決を求める限り、根本的な健康に至ることはない」と言ったのです。

Sekko : 信仰は神への依存症の一種ってこと ? まあ、生身の人間に依存するよりは、「神のみ旨にすべてをゆだねる」みたいな状態にいた方がいいだろう。 確かに、苦しみの中でだれにも頼れないと、絶望という落とし穴にはまって出てこれなくなったり、なんでも自分で解決しようとがんばって燃え尽きたりという落とし穴に落ちるかもしれない。でも、こんな境地に至ったようなジョリアンの依存症というものをもっと知りたい。

よく、苦しみの中で、「神さま、助けてください」とか、「神がいるならどうしてこんなことを?」「神も仏もいるものか」という言葉が発せられるけれど、それはまだ「神さま」を対等な「相手」ととらえているわけだ。「神=恵み」について理屈を超えた完全な依存症状態になる方が楽、というのは理解できないでもないけれど、それっていわゆる「悟り」とは似て非なるものなのか、一種の悟りなのかどちらなんだろう ?

(続く)


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# by mariastella | 2018-11-01 00:05 | 哲学

アレクサンドル・ジョリアン その8

(これは前の記事の続きです)


>>> 距離をおいて見るということですか ?

A.J. フランシスコ教皇は、健全な霊的「気にしない」主義のことを話しました。私はそれをすごく気に入っています。もちろん真剣に考えるべき事項はあります。他者の苦しみだとか不正だとかは重大です。でもその他に、嫉妬だとか、いろいろなものへの執着だとかがつくりだす心理的な葛藤がたくさんあり、それらに対しては、必死にそれらを引き離そうとするのではなく、陽気に明るく「気にしない、どうでもいいや」という態度をとることが大切です。そのためには、それらの葛藤があっても愛してくれる他者の視線が必要です。それによって現実に目を向け悲劇的状況の中で踊ることさえできるようになります。

Sekko : 教皇の、健全な霊的「気にしない」主義というのは、『LaCiviltà cattolica カトリック文明』(1850年創刊されたイエズス会が発行する隔週雑誌。今はフランス語版もある)2017年の2/94000号記念に、教皇が2016/11/25に各種修道会の総長たちと3時間にわたって話した内容を発表した記事の中にあるものだ。教皇がバチカンで試みる多くの改革には、反発の声も大きい。それに対して穏やかに過ごせる秘訣は何かと聞かれた教皇は微笑んでこう答えたという。

「精神安定剤は飲んでません ! イタリア人は良いアドヴィスを持っています。平穏に暮らすには一種の健全な〈気にしない主義〉が必要だというのです。それこそ私の生き方になっています。私にとってまったく新しい体験でした」


ブエノスアイレスでは「もっと心配性」で「もっと緊張してあれこれ懸念していた」そうだ。


(それでも不眠症ではなかった。気にかかることがあれば聖ヨセフが寝ている像の下にヨセフに宛てた手紙をしいておくと安心して眠れたそうだ。聖母に手紙を書いていそうなイメージの前任者たちとは少し違うのが楽しい)

(まだまだ続く・・・このインタビューの一問一答ごとに読んでコメントしているので、先がどうなるか私も分からない。この依存症に陥らせた男との関係の展開とかもっと知りたい。そしてジョリアンのこれまでの著作が語る生き方の指針、幸福の秘訣みたいなものと決定的に違うのは何かをもっと知りたい)



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# by mariastella | 2018-10-31 00:05 | 哲学

アレクサンドル・ジョリアン その7

(これは前の記事の続きです)

>>>「いたずらな智恵」というのはそういうことですか ?

A.J. 信頼するということではそうです。幸せになるためにはすべての問題を解決する必要はないし、愛されるために霊的に立派になる必要もないのです。自分の人格というものを過大評価しないことが結局救いになるのかもしれません。私が依存症の時期につけていた日記では自分のことを「彼」と書いています。座禅で学んだ方法です。苦悶している「彼」を裁くことなくただ眺めて、「ああ、彼は苦悶している」と確認するのです。

Sekko : このやり方はミャンマーの僧経由で教わったことがある。痛いところがあっても、言ってみれば「チョイ幽体離脱」して、「うん、ここが痛いんだね」と確認するだけという方法。私には向いていてけっこう便利だ。

歯医者さんで椅子に座って口を開けているなんていうシーンで、自分から離れてしまえる。欠点は、施術後に「具合はどうですか?」などと聞かれても頭と体がまだ統合していないので、何も言えないか、感じていることを正確に言えないことだけど…。


(続く)


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# by mariastella | 2018-10-30 00:05 | 哲学

アレクサンドル・ジョリアン その6

(これは前の記事の続きです)

>>>とはいっても、苦しみは実際にありますよね。そしてあなたの場合、具合の悪さというのが、パーソナリティが2種類出てくることによってそれをさらに強めている気がします。メディテーションの方法論のアドヴァイスをしながら一方でストリップショーを見に行くというような。

A.J. ええ、その歪みはひどいもので耐えられないほどでした。自分がひどい矛盾の中にいる詐欺師のように感じていました。この本の大きなテーマはアクラシーです。聖パウロの提起した問題でもある「内的な分裂」です。私は明らかに、毎日の生活の中で、私の弱さや脆さ、自分が抹殺したいと思っている過去の男の数々の習慣を隠そうとしています。この内的な戦いをどうすればいいのでしょう。愛情にまつわる依存は、普遍的な苦しみの一つの形です。私たちは明らかに、自分をコントロールできる主人ではない。あらゆることが「意志の力」に頼むというあり方を無化してしまいます。たんに意志を強固にすることに比べれば、「禁欲」など繊細で楽しいものだと言えるでしょう。

Sekko : ここでのアクラシアはアリストテレスのアクラシアではなくパウロに関係がありそうだ。

「内的な人間」に関するパウロの言及にはこういうものがある。

I –「内なる人」(ローマ人への手紙 7, 7-23).
II –
「外なる人」「内なる人」 (2 コリント 4, 16).
III –
「内なる人」(エフェソ 3,16-17).
IV –
「成熟した人間」(エフェソ 4, 13-16)
V –
新しい命/古い自分(ローマ 6, 2-11).
VI –1
人の新しい人(エフェソ 2, 14-19).
VII –
情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人/「古い人」「新しい人」(エフェソ 4, 22-25 et コロサイ 3, 9-10).

この I  は示唆的だ。 長いけれど引用。(前にもスコセッシのことで引用した。)

パウロってすごい哲学者でもある。しかも弱く、真摯だ。パウロがいなかったらジョリアンもこんな本を書かなかったのではないか。

>>>では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。

ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。

わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、

わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。

罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。

こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。

それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。

わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。

わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。

もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。

そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。

わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。

もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。

「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、

わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 <<<


III は、

>>どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。<<<


ジョリアンは自分のことを「キリスト者」であるとは言わないのだけれど、キリスト教の教養だけではなく信仰がそのルーツにあるのだなあと思う。

それにしても、日本語に訳されている『人間という仕事』だけでなく『弱さ礼賛』『なぜと問わずに生きる』など、「障碍者」という「弱者」のルーツから生き方を哲学して人々を鼓舞してきた哲学者が、依存症という形で地獄を経験してからパウロの言葉に到達したというのはすごい。

( 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 」というのは、いつ聞いても、身につまされる。でも、前にも書いたけれど、私に関して言えば、実は、「望む善」というのは行っているし、「望まない悪」は行っていないのが実感だともいえる。問題は、「望まない善」と「望む悪」が山のようにあることの方なのだ。)


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# by mariastella | 2018-10-29 00:05 | 哲学

大いなる健康ーーーアレクサンドル・ジョリアン その5

(これは前の記事の続きです)

>>>どうしてそんなことが可能なんですか ?

A.J. ある時女性の友人が発した言葉が道を開いてくれました。「めちゃくちゃね、でも問題ないわ」と。

ニーチェは『陽気な知(悦ばしき知識)』の中で「大いなる健康」について語っています。それも私を救ってくれました。完全に健康だとか、活力あふれるとか、すべてのトラウマから解放されているとか、そういうものは夢の状態であり多分永久に到達できないものだと。それに対して、「大いなる健康」とは、私たちの内部のめちゃくちゃで乱雑な状態を軽く柔軟に受け止めて、苦しみが人生の中心に来ないようにすることなんです。「大いなる健康」は、不治の病を抱える我々の挑戦なんです。

Sekko :これはジョリアンのこの本をネットで試し読みできるところにも書いてあった。

悲劇とサイコドラマを区別せよと。

死、病、事故、別れなど人生には避けられない悲劇もあるけれど、それはある意味で単純なものだ。

その他に自分でややこしくこじらせているさまざまな心理的葛藤がたくさんあって毎日の現実を汚染している。それを解決する「治療」を求めるのではなく、それを抱えたままで「元気をもらえる」方法もあるという。

ニーチェのこの著作のタイトルは日本語ネットで検索したら「悦ばしき知識」とあったのだけれど、このジョリアンの本「いたずらな智恵」との関連で行けば「陽気な知」という感じかなと思う。

うーん、「断捨離」とかミニマリズムとかいう言葉も連想する。

無駄が多くて「乱雑な状態」を整理してすっきりすれば精神状態も良くなりすべてうまくいくというイメージ。

「大いなる健康」とは逆方向だ。

あまり断捨離とかを目指すと、それがどこまで行きつくか分からない。先が見えないとかえってイライラしたり不安になるし、せっかくモノを片づけたり捨てたりしたのにまたちらかったり増えたりすると断捨離する前よりも落ち着かない。自己肯定感も得られない。いや、言い換えると、断捨離ブームの中には、もやもやして整理のつかない心の中の葛藤から逃れられないので、見えるモノを整理することによって代替しようとしているケースもあるかもしれない。ジョリアンが禁欲的な修行で雑念を抑圧抑制する方法の限界を語るのもそこかもしれない。

逆に、ゴミ屋敷みたいな状態で暮らしている人は、無用物が堆積し散乱するという外部のモノの形に表すことで心の中の葛藤を「見ないようにしている」のだろうか。

どちらの場合も結局、自然体の軽い人生肯定感にはなかなかたどり着けないだろうとは思う。


(続く)


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# by mariastella | 2018-10-28 00:05 | 哲学

アレクサンドル・ジョリアン その4

(これは前の記事の続きです)

>>>読者として驚かされるのは、深刻な錯乱の状態と一種の超脱の状態が混在していることです。鎖につながれた状態でも人は自由でいられるのでしょうか?

A.J. 不思議なことに私が一人の男に依存しきっていたこの体験は、その前に3年間韓国で修行した禅の体験よりも私を「解脱」に近づけてくれた気がします。

なんというすばらしいことでしょう。恵みとはまったく思いもよらない方法で与えられるのです。無限の苦悩に痛めまで私を追い詰めた依存の体験は、私を解放して、真の喜びが開けました。自由に至るまでにこのような苦しみを通りなさいと他の人に言うつもりなどありません。でも私の場合、最悪の状態がひとつの解脱に寄与してくれたのです。


Sekko : ここまで読んで、ますます興味が湧いてきた。この人がこれまで書いてきたものも、「障害を克服して自己実現した幸福な哲学者」による人生指南、生きる知恵、というテーマだったはずだ。その上、仏教者たちとの交流や、韓国での禅修行や黙想というヨーロッパ人としてオリジナルな「付加価値」もついていた。

それなのに、そんな「成功者」が、その「幸せになるノウハウ」に関わらず依存地獄にはまり、さらに、そこから得られた「恵み」の方が禅修行によって得られたものよりも多かったと言うなんて、ある意味リスクのある告白だ。


(続く)


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# by mariastella | 2018-10-27 00:05 | 哲学

アレクサンドル・ジョリアン その3

(これは前の記事の続きです)

>>>たしかに、この大変な時期に、あなたのパートナーがあなたを大いに支えてくれたということが本の行間から読み取れます。

A.J. 私は本の中で、自分が若い男性に惹かれる傾向があると書きました。けれども、最終的にそこから引き出されたのは私の妻から受けた無条件の愛でした。この愛は私を完全な自由の中で支えてくれました。自分のやりたいことをやるという自由ではなく、傷だらけの状態で愛してもらう自由です。私はタイピングすることが困難だったのでこの本の大部分は妻による口述筆記です。そして逆説的ですが、この作業が私たちをとても近づけました。依存状態にある間妻は私のことを批判しようとはしなかった。今もしていません。その期間は妻にとって最高につらかったものです。このことで、「愛する」とは何を意味するかと考えさせられました。

人はイデアとしての人を愛するのか、あるいは生身で苦しむ存在を愛するのかという問いです。

Sekko : ここまで読む限りでは、すでに依存症から立ち直ったこの人の自信というか「リア充」ぶりがなんだか不思議だ。もともと「脳性まひ」という障害を持って生まれながら、学歴も名声も家族も友人(友人2人との共著がベストセラー)も手に入れて「フツ―の人」よりずっと充実した幸せそうなオーラを発揮しているこの人は今まで特に私の注意をひかなかった。ここの部分の答えを読んでも、「この人、ラッキーだなあ」としか思えない。私がもし「依存症」の恐ろしさを認識していなかったら読むのをやめたかもしれない。

でも、アマゾンの試し読みの序の部分は、

「健康とは試験管の中でできるものではない。」

「生身の人とかわす涙や衝動や喜びの中で試行錯誤してバランスを取り戻していった」

「哲学者とは上から目線で幸福論や人生を説くのではなく、生きることの苦しみを潜り抜け、何が意志を打ち砕き挫折に導くのかについて人に伝えるべきだ。」

「カオスを恐れずに楽しむ」

と締めくくられている。

なるほど、「いたずらな智恵」は、カオスを逃れることでなくカオスを楽しむ境地に至るらしい。

興味津々。


(続く)


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# by mariastella | 2018-10-26 00:05 | 哲学

アクラシアの話 ーー アレクサンドル・ジョリアン その2

(これは前の続きです)

--どういう意味ですか ?

A.J. アディクションの世界はファンタスティックな調査領域だからです。私を1人の男に依存させた極限の執着の中でこそ、霊性とは何かなどをテストすることができたからです。同時に、私にこれまで貼られていたレッテル、障害を克服した人間としての神話を打ち消したい気もあったし、何よりも、アディクションによって生まれた恐ろしい孤独に自殺寸前まで追い込まれた体験を証言したかったのです。何よりも、同じような試練にあっている全ての人のことを考えました。けれども、本のゲラを読んだ時は、「これは書き過ぎたかもしれない」と妻に言いました。妻は「かまわない、それで行きなさい!」と言ってくれました。この本は傷だらけになっても愛してもらえるかという賭けでもあります。

Sekko :この本とは『La sagesse espiègle(いたずらな智恵)』gallimard だ。ネットではじめの部分の試し読みができる。で、インタビュー記事を読むのを中断して読んでみたら、哲学者らしく「アクラシア」という言葉が出てきた(フランス語ではacrasieアクラジー、英語はakrasia)。


うーん、アクラシアと依存症の関係を考えたことはなかった。

アクラシアというのは自制力の欠如とか意志の弱さ(意志の無力、非力)のことで、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』7巻に出てくる。

今日本語ネットで検索したら、トップに出てくるこの東大の論文が一番明快だった。

もっと軽く説明しているものやもっとくわしいお茶の水大学大学院の論文もあったけれど、最初のが一番わかりやすい。


アクラシアの反対は「知慮」で、知識を持っているだけでなくそれを意識化して実行に移すことで、アクラシアは、知識を封印するか、知識に基づく合理的な判断に従わない行為をする。


アクラシアを説明するのに、多くの人が「身体に良くない嗜好品をつい食べてしまう」という例を出すのには笑える。

キリスト教ではトマス・アクィナスが「無抑制(incontinentia)という概念で理性と情念の問題を考えたけれど、今のフランス語でincontinenceというこの言葉は、もちろん「がまんできない」という本来の意味はあっても、高齢者などの「失禁」という場面でよく使われるから、これもなんだか笑える。

理性ではどうにもならない状態というのは欲望にも情念にも関係なくあるよなあ、という感じだ。

私自身とても意志が弱く、よほどの恐怖(例えば実際に血液検査やなにかの結果が出て危険値に達していると脅かされるとか)のような要素がない限り、自分で決めたことを守り続けることさえめったにない。

そのことに対して自己嫌悪がないとは言えないけれど、まあ、今となっては「意志が弱い」のをデフォルトとしてスルーしていることが多い。それに近頃は様々な発達障害が成人でも認知されていて、私の周囲でそれまで「何と意志が強いんだろう」「集中力があるんだろう」と尊敬していた人たちが、アスペルガーだとか双極性障害だとか次々に診断されていったりするのを見ると、「意志が弱いのはフツーの範疇」と居直って相対化してしまいがちだ。

逆に、集中できない人たちが「注意欠陥障害」があると判明してリタリンを処方してもらうとパフォーマンスが劇的に上がったという例も見るようになった。鬱を治療して過活動気味になった人もいる。少しうらやましい。

でも、私はできるだけ投薬類に頼りたくない。「依存症タイプ」だと分かっているからだ。

それが分かっているから、昔から少なくともタバコとデジタルゲームは絶対にやらないと決めている(アルコールは弱いので依存に行く心配がない。それでも、気分転換のペンシルパズルの類でさえ、どうしてもやめることができなくなって目を閉じてもちらつくことなどめずらしくない。)

アクラシアと依存症に親和性があるのは確かだけれど両者を分けるものは何だろう。

ジョリアンは、「理性と欲望の葛藤」としてのアクラシア状態は常に我々を二つに引き裂いている実存的なサイコドラマだという。欲望を抑制するためにさまざまな禁欲修行があるがそれは魂を窒息させてしまう。多くの「修行」は「完成の道」を目指しているのだけれど、それよりも必要なのは「健康の道」、アクラシアからの解放の道だとジョリアンは言う。

人を実存的葛藤から解放してくれるはずのカリカチュアとしての神はとっくに死んだし、魔法の杖も、奇跡の妙薬もない。もちろん、自制心を高め意志を強くするための様々な教えやメソードは市場を形成している。けれども、プールサイドで流体力学の本を読んでも泳げるようにはならない。水に飛び込み、時には水を呑み込んだり溺れかけたりしながらやっと浮かび上がることで泳げることがある。

で、ジョリアンが深刻な依存状態から脱した後に辿りついて提唱するのが、抑制や完成や治療の道の向こう側にある「いたずらな智恵」だということらしい。

トリックスター的な智恵ということなんだろうか。

(続く)


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# by mariastella | 2018-10-25 00:05 | 哲学

アレクサンドル・ジョリアン その1

アレクサンドル・ジョリアンの本が日本で訳されているとは知らなかった。

これ。

『人間という仕事』とある。

この仕事とは労働の意味ではなくメチエという言葉だ。つまり、人間であることの技能、人間が生きるとはそれぞれの「生き方」を究めるという意味だ。


この人は、脳性麻痺という「障碍者」出身?だが、今は結婚して子供も2人いて、韓国に家族で移住してイエズス会士のもとで禅の研修を受けたという経歴もある。

宗教者たちと共の共著をはじめ、幸福の秘訣、生き方の極意の本を出し続けている哲学者だ。

ところが、この人の驚きのインタビュー記事が最近のカトリック雑誌(La Vie No.3814)に載っていたので、少しずつ紹介していく。

>>>

――韓国で座禅と福音書の黙想の二つを交互にする過激な修行をした後で衝撃的な体験をしたそうですね。ウェブカムを通してレオナールという人物に完全に依存してしまった体験を本にされました。 

A.J. その激震領域から抜け出した時に自問しました。この体験について書くべきか書かざるべきか。自己露出欲ではないのか。心の中に隠しておくべきではないかと。結局、それを哲学の対象にするために完全にクリアに見せることを決めました。


(続く)


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# by mariastella | 2018-10-24 00:05 | 哲学

鍋敷き

昔と違ってめったに出かけないし買い物もしない、特に「カワイイもの」の「衝動買い」などしないのだけど、先日、日本の友人へのお土産を見つくろうために14区にあるお気に入りの雑貨ショップに寄ってつい買ってしまった。

木製の鍋敷き。
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これで十分使えるけれど広げれば大鍋でも置けそう。
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私が雑貨を選ぶ第一基準は「猫に落とされても壊れないもの」。
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ナルくんが遊んでる。
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遊びが終わる形のヴァリエーションもいろいろあって楽しい。

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# by mariastella | 2018-10-23 00:05 |

アニック・ド・スゼネル その7

(これは前の続きです)

>>>「とはいえ、(生き方を照らす)光は、毎日のたえまない学びによってしか得られません。読むこと、そして祈ることです。

祈りは私にとって主との親密な時間です。単に「主の祈り」を唱えるといったことではありません。それぞれが主とつながるように生きることで、私の場合は一人で祈っている時よりも出会いの時にそれが多くあります。

私の魂と体と精神は愛の中、恵みに対する深い感受性の中で生きられる秘跡によって養われています。パンと葡萄酒は生きるのに大切なものであると同時に、神の秘密に至る最終レベルの読み方によって聖書の啓示へと私を導き続けてくれています。それがヤコブが見た梯子の最後の場所、主がヤコブを待ち、私たちすべてを待っているものです。」<<<

Sekko :これがカトリック雑誌でのインタビューの最後の部分。

「ヤコブの梯子」というのは「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。(創世記28,12)」で、天と地を結ぶもの。

スゼネルの挙げる聖書の句は、それこそ「字面」のレベルでは、信仰や伝統を共有しないものにとっては「意味が分からない」「ただの神話 ?」のようなものだけれど、彼女は実は、コーランやヴェーダの研究もしている。

彼女の知見をわかりやすく言ってしまうと、


どんな伝統の聖典でも、それぞれに固有の信仰や伝統のレベルよりも深く掘り下げて読み解くと、すべての人類に共通する潜在意識につながっている、

それを意識化して、聖典に隠された普遍的な知恵の光に照らされて実践することで人は喜びの内に生きることができる、


というものだ。

これは、その後の人生を変えるようなあらゆる「神秘体験」のシンボリズムは共通している、という認識でもある。


スゼネルはそれをユダヤ=キリスト教の言葉で語っているわけだけれど、深層心理学の造詣、心理療法士としての体験をふまえているところが、「神秘家」としてユニークだ。

そう、彼女の言葉は、その学識、カバラ研究の碩学などで一見よくわからないけれど、まさに「神秘家の言葉」なんだと思う。


私の「神とフェミ」論考の中で、創世記におけるジェンダーの分析については彼女の論文に啓発されるところが多い。それは私には手の届かないヘブライ語のカバリスティックな良質の研究がフランス語で読めるということ、しかもその著者である95歳の女性が体現しているものが理解できる気がしているからだ。

現存のユニークなインテリ神秘家スゼネルを紹介するシリーズはこれでいったん終わり、次から、これもユニークな、42歳の脳性麻痺のスイス人哲学者、韓国で3年間暮らして禅の修行をしたアレクサンドル・ジョリアンのインタビューを紹介。

スゼネルの記事と同じ雑誌の同じ号に載ったものだ。興味深い。


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# by mariastella | 2018-10-22 00:05 | 宗教

アニック・ド・スゼネル その6

(これは前の続きです)

>>> 「神がアダムに動物に名をつけるようにといった意味を理解しなければなりません。それは、私たち自身のうちの魂の内なる動物を指し示すことになります。傲慢なライオンや陰口を告げる蛇、独占欲のタコなどはしばしば出現します。それらは克服すべき試練として現れるのです。でも、それら一つ一つに名を与えた後で、それらを捕獲して私の代わりに動くことを妨げることができたという体験をしました。その時には主が秘密の錬金術によってそれらから情報を引き出して見せてくれるのです。それが「知識の樹」を作り実らせるということです・それが連なって信じられないような喜びにつながります。」(スゼネル談)

Sekko :アダムのくだりはこういうもの。「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった(創世記2,19)」。

「タコの独占欲」というのはタコのように複数の脚の吸盤で子供を離さないという母親による子供の囲い込みの比喩。私は日本では聞いたことがない。

いろいろな「煩悩」が湧きおこってきたらそれを一つ一つに分けて意識化していくことで相対化できて距離を置ける、という感じだろうか。でもそれが「信じられないような喜び」につながるというのは楽観的過ぎる気もする。

でも、スゼネル女史、95歳にしてこの自信に満ちて生き生きした感じ、「主の錬金術」を知っているんだろうなあ。

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若い人からのインタビューにも答えている。「内にいる神になる」というテーマ。
滑舌の良さも含めて、なんという明快さと明晰さ。字で読むといろいろつっこみたくなるけれど話を聞くと傾聴するばかりだ。


(続く)


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# by mariastella | 2018-10-21 00:05 | 宗教

アニック・ド・スゼネル その5

(これは前の続きです)

>>>聖書を通して神ははっきりと語っている。すべての文字がロゴスである主のシンボルだ。ヘブライ語は複数のレベルの読み方を可能にし、そのそれぞれが神との対話になる。もちろん文字通りの意味はある。けれども文字が私たちにウィンクしてくる。例えば、同じ文節の中で同じ言葉が二度出てくるときは、二度目はいつも、隠れた意味を読むようにというよびかけなのだ。もっと深い読み方もあって、そこで得られた情報は読む者によって生きられるべきもので、それを生きることが喜びと解放のすばらしい体験となる。その生き方の求める道は犠牲を伴うし、物質的、感情的、時には霊的な安全地帯からの離脱につながる。親しい人に理解されなかったり、知り合いのサークルすべてから抜け出したりすることもある。

Sekko :これって一見、なんだか物騒な気がする。ある「教祖」の言葉を読んでカルト宗教に取り込まれてすべてを捨てて「出家」し、時には反社会的行為にまで突き進むような例を想起してしまうからだ。

とはいえ、最近、ヨーロッパではまさに、イスラム原理主義のような「強度」のある言説と信仰こそが浸透力があるわけで、それに比べて、既成の伝統的な諸宗教は限りなくぬるくなり、冠婚葬祭以外のインパクトを生活にもたらさず、生きる喜びも解放にもつながらない状況がある。民主主義や共和国理念の言説も弱弱しい。

科学主義、進歩主義が伝統「宗教」を抜け殻にして、宗教から「信仰」の言葉を奪ってしまった。その空白にこそカルトや原理主義の提唱する「生き方とリンクした強い言葉」が刺さっていく。

それは危険な状態だと思うから、他者と平和に共存し連帯するような生き方を可能にするような言葉や実践がインパクトを持って広がってほしい。

でも現実は、「絶対平和」などを騙るとすぐに理想論だとか、お花畑だとか言われて、「ミサイルが飛んでくる」「やられる前に攻撃せよ」などと叫ぶ声の方が響き渡る。


スゼネルのように何十年もぶれることがなく霊的人類学を探求し、「聖なる書物」のシンボリックなレベルでの普遍性を確信するに至ったような人が声を上げてくれるのは貴重なのだろう。

(続く)


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# by mariastella | 2018-10-20 00:05 | 宗教

アニック・ド・スゼネル その4

(これは前の続きです)

>>>その後、心理療法士となったスゼネルは、トーラーの勉強を続け、50歳を過ぎてから『人体のシンボリズム』を上梓した。これを書くのはまさに聖霊の賜物のようだった。時として、自分の知らないことまでも書くことができたからだ。聖書によって引き起こされた内的な変革によって創られる作品は、完全に作者に属しているものではないことがある。この本のおかげで、スゼネルは、あちこちで講義や講演をするようになり、生きる意味を探す人々に寄り添うようになった。

Sekko :  この本は画期的な本だった。人の体を、喜びや苦痛を表現するランガージュの手段としてだけでなく、肉体そのものが解剖学的なディティールに至るまで「読み解くべき一つのランガージュである」というアプローチで、人体と自然、宇宙のマクロコスモスとミクロコスモスの関係を語る壮大な構想を持つものだ。人は「神の似姿」として創られたのだから、神を読み解くように人の体を読み解く。カバラの手法、すなわち生命の樹を10のセフィロトの樹として人体をカバラによって実に細かく説得力を持って説明する。

ユダヤ=キリスト教文化のベースがない人やタロットやオカルトやシンボリズムへの感性のない人には「?」と思えるかもしれないが、ただの衒学趣味ではなく、長年の研鑽の結果だけでもなく、彼女がいうように、どこかそれを突き抜けたような大きな流れの中にある印象の本だ。

スゼネルは2008年に85歳でスピリチュアル人類学研究所を設立した。2018年の秋のセミナーでも95歳の彼女が講演する。

(続く)


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# by mariastella | 2018-10-19 00:05 | 宗教

アニック・ド・スゼネル その3

(これは前の続きです)

>>ヘブライ語で『創世記』を研究することで一つの新しい人類学へと導かれた。天地創造の6日目に創られたアダムとは「ユマニテ」だった。彼は「神の似姿」であり「男+女」だ。

それなのに『創世記』のアダムはヘブライ語でIsh であり、女性の部分Ishahを忘れ意識下に閉じ込める。蛇の前で禁断の実を食べたのはこのアダムの無意識だったのだ。私たちの人生でも、私たちの潜在意識が自分の代わりに何かを決定してしまうことがある。

禁断の実を食べたせいで、アダムは「動物」と同じ状態に退行し、「男と女」に二極化してしまった。そこで初めて聖書の中の女が「エバ(イヴ)」という名で呼ばれ始める。けれども全てのアダムは創造された時のIshahを自分の中に想起することができる。キリスト教の信仰は「神を信じる」ことだけではなく「神の似姿」を見て私たちの中に再発見すること、失われた女性性を見つけることにある。それはキリストを通じてなされる。ひとりひとりが、イエスが語る神(Elohim)にもどらなくてはならない。

「そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。(ヨハネ福音書10-34)」 <<<


Sekko : なるほど、確かに、創世記を読むと、神は「人」を創っただけで、アダムとエバを創っていない。智慧の実を食べてしまってからはじめて「アダムと女」となり、楽園を追われてからアダムが「女」をエバと名付けて自分の一部だったものを疎外して外在化させた。

アニック・ド・スゼネルが「納得」させられた気分は何となくわかる。

「あなたたちは神々である」という言葉も悪くない。



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# by mariastella | 2018-10-18 00:05 | 宗教

アニック・ド・スゼネル その2

(これは前の続きです)

>>アニック・ド・スゼネルは数学を専攻した。その後で看護師として働く。

信仰の上では15年ものさすらいが続いた。カトリック教会以外での霊性を求め探した。ある時パリの正教会に足を踏み入れた時、再び「聖霊」に捕らえられた。その聖霊が正教会の司祭コヴァレフスキー神父と、あるユダヤ教のラビとの出会いに導いてくれた。コヴァレフスキー師によって彼女は再びキリストの家に居場所を見つけ、シンボルの世界を知るようになった。ラビによってヘブライ語とヘブライ文字のシンボリズムを学ぶことができた。彼女がそれまでずっといろいろな問いを発し続けてきた聖書が別の意味を持ってあらわれてきた。それまでのフランス語訳とは異なるテキストが出現して彼女の人生を変えた。<<<

Sekko : 彼女が正教会に改宗したのは1958年です。

これがもう少し後だったら、アメリカン・ニューエイジの影響を受けたり、チベット仏教とか「禅」や瞑想系に惹かれたケースだなあと思います。カトリックの第二バチカン公会議による「改革」によってカトリックに戻ったかもしれません。でも、ちょうど絶妙のタイミングで、「古いフランス」の温床だったカトリック教会を離れて、「正教会」というキリスト教異文化やそのルーツであるユダヤのラビと出会ったのは、彼女のその後の研究の恩恵を受ける私たちにとってラッキーなことでした。


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# by mariastella | 2018-10-17 00:05 | 宗教



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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