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L'art de croire             竹下節子ブログ

日本の世代論について

 後藤和智さんの『おまえが若者を語るな!』(角川oneテーマ21)というのを読んで驚いた。

 私は雑誌の記事を除いて、日本の内輪の文明論や社会論をほとんど読まないので、若者論や世代論の語られ方を知らなかったからだ。

 大筋では、この著者の言ってることがもっともだなあと思う。

 私は著者が批判してる論者たちよりも上の年代だけど、日本でバッシングされまくってきたらしい著者のような「若者」世代は身近に多くいるので、むしろ親近感を持っている。

 ヴァーチャルな世界では、これまでならどこでどんな生活をして何を考えてるのか想像もつかなかった人々のブログなどを読んでいるおかげで、これも、昔日本に住んでた時よりもいろんな人を身近に感じるくらいだ。

 それで、いつの時代もいろんな人がいて、でもパターンはある程度似かよっているなあ、と日頃感心しているくらいで、決して、若い人が理解できないとか、心性が変わったとか、思ったことがないのだ。ただ、昔なら直接知らなければ知らないままだったような事件とか出来事に今は具体的にアクセスできる分、「こんな変なやつがいる」とか「こんな変なことがある」とか、いわゆる「ネタ」にされやすいだけで、一般化して警報を鳴らしたり宿命論に持っていくなんて、著者の言うようにミスリードじゃないだろうか。

 それに、たとえば、ポストモダンのオタクたちが、特定の情報への関心に支えられているけれど、そこから離れる自由もまた留保している、というような(これは東洪紀さん)説明は、なんだか、ポストモダンというよりも、モダンの生んだ人間の普通の姿のような気がする。

 平成に育った若者がネットや携帯などで表現形式が先行世代と変わったから、心性が変わったというが、ツールが変わったのは私たちも同じだ。上の世代には使いこなすのが大変とかいう部分はもちろんあるけれど、大筋は、むしろ変化の恩恵を受けている。
 夜行列車で東海道を行ってたのが新幹線になったり、フランスもいつの間にか直行便ができたりとか、交通手段だって、ものすごく変わったけど、別に私が運転するだけじゃなくて座ってるだけだから困らない。ワープロができたり、パソコンが使えたり、メモリーが増えたり、便利になることの方が多い。そんなことで人格が変わると思えない。

 変わる人もいるかもしれないが、ちょっとした変化に影響される人だって昔からいた。人が多様だったのは昔から変わっていないと思う。

 地域社会やクラブ活動を離れてサブカルやヴァーチャルリアリティに浸っていると、「自分をデータベース化して管理する、解離的、多重人格的な人格」になると言っても、それも、結構普通に思える。だれだって、文脈によって対象との間にその都度異なる自己を形成するのが普通で、それが即「幼児的万能感を保ったまま歳をとる」というのは、また、別の話ではないだろうか。

 少なくとも、私自身は、昭和30年代が子供時代だったから、リアルの世界もたくさんあったが、それが、マンガや本で体験する世界よりも決定的だったとは別に思わない。

 昔も今も、自分は解離的で多重人格的だと思っていたが、それが社会の枠組みの崩壊と関係があると思ったことはない。

 ゲームやヴァーチャル世界に幼い頃からどっぷりつかっている若い人もけっこう知っているが、理解可能で、コミュニケーションもとれる。依存症になったりコミュニケーションがとれない少数の人もいるけれど、それは、昔の世代でリアルに暮らしていても、そういう人はいたし、でも目立たなかっただけだろう。

 もちろん、ネオリベラリズムの弊害で、個人が分断されたり、教育や福祉による機会や余剰の分配のシステムが崩れたために格差が生まれたり、落ちこぼれたりする人が出てくるなどの「今時の問題」は、大いに存在するわけだが、それは何も若者に限ったことではない。
 もっとも、既得権のある人は逃げ切ることができやすいので、弱い人が犠牲になりがちだから、若者が不利益を受けることはある。若い人が絶望するような世の中は誰のためにも絶対によくないので、政治や社会の構造的なところにまで踏み入って対策を立てなくてはならない。

 それを、日本はサブカルとヴァーチャルリアリティの「先進国」だから若者が変質したのだ、みたいな論議にすりかえるのはどうみてもおかしいと思う。
 その点ではこの本の趣旨に共感だ。

 だけど・・・

 この本で言われてる「ポストモダン」というのが、89年の冷戦崩壊を差してるみたいなのは不思議だ。著者は、まあ、それは誤解であるというのだが、

 元々フランスなどで「ポストモダン」が提唱されたのは、1970年-80年代の初頭である。さらにその元ネタは(・・・)「ポストモダン建築」であった。(p181)

 なんて言い切っている。

 で、今の状況を打開するためには、「科学」や「人権」や「経済」や「法」などの「普遍的基準」を基にして、経済政策や政府による生存権の保障などに向かうべきだと提唱してるのだが・・・


 この「普遍的基準」って、これこそが、モダン=近代=フランス型普遍主義 なんだけど。

 キリスト教無神論の系譜をやっているとはっきり見えてくるが、西洋近代主義は、ユニヴァーサリズムとしてのキリスト教の非宗教化から生まれたものだ。教義は捨てたが、超越理念は捨てていない。

 そして、無神論が生まれたときにポストモダンが生まれた。無神論は西洋近代が本格的に神を捨てた時に生まれた。スピノザとかヘーゲルとかはその意味では無神論者ではない。実存主義系も違う。ニーチェとかフロイトとかその延長の構造主義とかがポストモダン無神論の系譜である。

 著者が、「フランスのポストモダン」と言っているのは、構造主義のことなんだろう。そしてそれは、モダンの弊害を正そうとしたアメリカのコミュノタリア二ズムと呼応して、マイノリティ・リスペクト(これも個性重視という名の切り捨てにつながる微妙な展開にもなるんだが)の相対主義として花開いたので、もともと「親アメリカ」的な流れである。

 それでも冷戦中は共産主義革命への恐怖から、自由主義陣営でもせっせと社会政策がとられていたが、確かに冷戦が終焉したので歯止めがなくなって露骨な弱肉強食が始まった。

 ここで、しつこく「モダン=フランス革命の理念=ユニヴァーサリズム」にしがみつくフランスとアメリカの差がだんだん顕わになった。

 こういう観点は、日本にはほとんどない。

 だからこそ、

 この本の中に引かれている別の本の中で、

 欧米支配下の野卑な世界にあって、「孤高の日本」でなければなりません。

 なんていう言葉が出てくるのだ。

 「欧」と「米」は対立してるんだってば。

 いや、対立してるのはフランスだけど。

 でも、欧州連合をフランスが牽引してきたから、他のヨーロッパ諸国もある程度はいやいやしたがっている。

 ドイツの Peter Sloterdijk なんて、そもそも、フランスがせっかく近代革命を成功させたのに、ナポレオンが侵略して「モダン=ユニヴァーサリズム」を押し付けたから、スペインやロシアやドイツやオーストリアなどみなその反動で、アンチ共和国になって「モダン」が数世代遅れた、と言っている。この人がフランスとドイツの愛憎についてぐちぐちとルサンチマンを並び立てるのは印象深い。アンチゲルマン主義が残ってるのはポーランドとイギリスだけだとか、ドイツは英雄主義から消費主義に改宗し、完璧に欲望至上主義へと構造が変質したから、歴史認識なんてオプションに過ぎないのさ、といいつつ、フランス文化だけがいまだに、自尊心とヒューマニズム魂と叙事的英雄的なディメンションを保ってるのさ、と、揶揄してるのか羨ましいのか分からない言い方をする。

 フランスはドイツに占領されてコラボしたくせに戦勝国となったから反省が足らない、と言いつつ、フランス人から、「レジスタンスの非神話化やヴィシー政権、植民地主義、過去の奴隷制からアルジェリアでの拷問まで、最近のフランスはどちらかというと自虐的だけど・・」と言われると、「外から見れば、フランス風の自己批判なんて、表層的な芝居で、底にある愛国心は一度も揺らいでないように見えるよ」と答える。

 もちろんその後で、サルコジ政権の見世物性を批判して、ポスト民主主義だといい、それはナポレオン三世の猿芝居の再来(まあ、サルコジをナポレオン三世と比較するのはフランスでもよく見られることだけど)だとか言っている。(以上はLe Pointの1892-3号のインタビュー記事より)

 戦争を卒業することでEUの基を築いた独仏だが、こんなふうに立場の違いと愛国心のぶつかり合いなどを見れば、大戦後の日本とアジアの国々との関係に思いを馳せずにはおれない。

 日本の場合は、他ならぬ冷戦とアメリカによる思考停止状態に追い込まれたからもっとまずかったけれど。

 いずれにせよ、ドイツでもフランスでも、少なくとも、情報化社会のせいで若者が変になった、みたいに特定世代をスケープゴートにする言説にはなっていかない。

 この問題って、けっこう深刻なんじゃないだろうか。

 

 
by mariastella | 2008-12-24 10:55 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/

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