アートとクリエーションとか、インスピレーションとか、超越や聖性との関係とかいうと、何か、見えないあっちの世界に天国的な何かがあって、こちらの世界でそれをキャッチできる霊能者的なアーチストがそれをこっちの世界で形にできるんだ、見たいな感じが伴いがちだ。
実は、一神教におけるクリエーションとはその逆で、この世界のクリエーションという形でしか神は自分を表現できないというか、美とは完全にクリエートされた世界での現象である。
ヴァレリーだったかが「もっとも美しいものとは永遠の中には姿を見せない」というのはそういうことだ。
美しいものとは何一つ生命と切り離すことができないし、生命とは有限=死ぬもののことである。
多くの人が美についてい抱く、何かある「不滅」の概念というのは、死との対称性によってのみ支えられる。
Annick de Souzennelle が、Nicolas Berdinaev について書いてるのを読んで、啓示というのは、Extraordinaire(超常) に現れる出来事でなくて、 ordinaire(常) に現れるからこそ啓示なんだなあ、と思ったのとつながる。Berdinaev は、人間の創造的作品は、聖書によって啓示されるのではなく、人によって自由に顕されるのだ、と言う。
偶像というと、人間の創ったものだからよくないよ、と一神教は思いがちだが、偶像を「神だ」と言い立てて、私利私欲に使う輩が出てくるからよくないので、偶像は、立派なクリエーションでもあり得るし、美でもあり得る。
キリスト教は受肉だとか、三位一体とかで、この辺の一方通行をなくしたんで、Annick de Souzennelle なんかは、神が人になったのは、人が神的なものであるためだ、とすら言っている。
神が天地創造しなければ、神は無限なので、自分の姿や自己というものがなく、自分を知りたい、見てみたい、という欲求に駆られてクリエーションしてしまったのだ、という言い方もある。
こういう感じだと、地上のクリエーターは、別に、この有限の世界に捕らわれた囚人が永遠の世界に憧れて、そこからインスピレーションを受けて神的なものを創る、なんて思わなくても、ここにクリエートされた自分や世界そのものが、聖なるものの唯一の存在表現なんだなあ、と地に足をつけて、安心してクリエーションを続けていけばいいことになる。
超越についてなんて、頭を悩まさなくてもいい。超常の地平に啓示を求めなくてもいい。
こういう感性は結構、東方正教会的だなあ。
昨日買ったPhillippe Sers の 『Verite en Art』 を読むのが楽しみ。