では、アート批評はどうなるのか
この前の記事のNicolas Berdiaev は、キリスト教の啓示はすでに聖書にすべてを含んでいるのか、それとも新しい啓示はあり得るのか、ということについて、こう答える。
聖書の中の啓示は、はっきりと顕れたものと、いまだ包まれたものとがあり、それをあらわにしていくのは人間の創造的精神による自由の行使に他ならない。 これには終わりというものはないし、人の数だけ表現の多様性もある。 この辺はいいのだが、いいのだが、しかし、Berdiaev は、その後で、次のように言ってしまう。 真の宗教的クリエーションとは、キリストによりキリストのうちに精神を強くされる、法(戒律)の真実と贖罪の真実を成就する人間にとってのみ可能なのである。 このBerdiaev このは、キーエフの貴族で、革命派だったのだが、最初はその社会民主主義的意見ゆえに北に追いやられ、ロシア革命後はパリに亡命した。 いわゆる宗教芸術において、アーティストの信仰が大いに関係するのは分かるし、そのクリエーションを、神の啓示の継続と見るのも、まあ、納得がいく。 それを「鑑賞する側」も、自分の人生における、あるいは自分の生きる世界における神の業を読み解くために、「鑑賞」によって、啓示に参加するというのも分かるのだが・・・ 宗教芸術においては、王道かもしれないのだが。 でも、その「宗教」を共有しない異文化圏、異宗教、または無宗教の人による鑑賞はどうなるんだろう。 私は昔『ユリイカ』(1996年1月号)で、バッハの音楽について、ミスティックな感性の持つシンボリックな力というものは、宗派のコンテキストを超えて普遍的であるというようなことを書いたことがある。 それは、「こっち側」からの視点であった。 どんな人間でも、生病老死の実存的条件を背負い、超越(=あっちの世界)を思いやる潜在的な動きがあるものだから、それが、育った文化や時代によっていろいろな形をとるとはいえ、共通する聖なるものへの表現になり得るという話だ。 でも、出発点が、「あっちの世界」であれば? 超越によるこっちの世界への絶え間ない自己表現と、それを受けたこっちの世界のアーティストがそれを「成就」させようとしているのであれば? ルネサンス美術の研究家である若山映子さんの 『システィーナ礼拝堂天井画―イメージとなった神の慈悲』(東北大学出版会) については、また別のところで書かせていただこうと思っているが、この大力作を読み始めて、驚いた。 普通、芸術批評、特にアカデミックな研究書というものでは、それがいかに「宗教芸術」であろうとも、批評家の信仰告白はまずなされない。もちろん、アーチストがどのような社会的時代的環境にいたかということは研究分析の対象になるし、たとえば図像学な考証というものは、不可欠でもある。 日本のような国で、ヨーロッパのアートを云々する時は、これが結構盲点にもなっていて、たとえば、ある作家がどの国のどの時代のどういう宗教環境で育ったかということは無視されることが多い。確かに、作家の個人史を抜きにして、顕れている作品の部分だけを観察するというやり方もあるが、それは、背景となる文化や感性がある程度自明だとかいう場合が多く、意図して語らないのと、無知や無視とは別である。思想家や哲学者や、無神論者と自称する作家においてさえ、いや、無神論者であればなおさら、どの時代の宗教観とに摩擦があったはずで、その機微を理解しなければ、すっぽり抜ける部分がある。 で、ミケランジェロの作品などは、当時のローマ教皇の依頼で書かれたものであるから、完璧な宗教芸術であるわけで、その批評的鑑賞というのには、本来ものすごい宗教的教養を必要とするのは言うまでもない。 といっても、それを看過するのはまあ問題外としても、普通は、研究者が研究書を出す時は、少なくとも、そこに、その宗教に対する「自分の信仰」とかスタンスを前面に出さないというのが通例ではないだろうか。 ところが若山さんのこの本は、まさに、Berdiaev のいうような意味での、「啓示の読み解き」なのである。 システィーナ礼拝堂天井画のような作品を鑑賞するにはそれ以外のやり方はない、と Berdiaev には言われそうだ。しかも、それが、21世紀に生きる日本人女性による信仰告白なのだから、まさに、啓示の多様性と普遍性を象徴している。 しかし、この膨大で緻密でそれでいて、信仰のたえまないフィードバッグにはっきりと裏打ちされている研究書について、宗教者の側からの感嘆の声も、研究者の側から反響も、少なかったらしい事実は、何を示しているのだろう。 宗教者の側では、著者の信仰の密度に圧倒されてそれを受け止められなかったのか、あるいは、単に、美術鑑賞の基本スキルの差が大きすぎたのか。 研究者の側では、「学問的」な「研究」に、個人の信仰告白をこれほどまじえた批評を前に声を失ったのか。それは「正論」の前での畏れでもあり、焦りもあったのだろうか。 しかもこの本における、いろいろな解釈は、非常に歴史的、実証的、美術史学的、宗教解釈的な根拠に基づいているのではあるが、底に流れるのは、神の摂理に関する著者の信仰であり、確信である。 それは、学問的な部分と、信仰の部分というのにとても分けることはできない不可分のものである。 それを思うと、少なくとも著者やミケランジェロと信仰を共有しない人から見ると、「対等な批評の場が開かれていない」という気持ちを起こさせるものかもしれないし、共有するものにとっても、向かい合うには重すぎるものとなるかもしれない。 ミケランジェロの時代の宗教と文化の空気の一部が今でもそのまま社会の空気の一部となって共有されているようなローマのような町でなら、この本の登場には違和感がなく、気負いも、警戒心も引き起こさないだろう。 でも日本のように、私が『レオナルド・ダ・ヴィンチ-伝説の虚実』(中央公論新社)で書いたように、ダヴィンチもダン・ブラウンも各種陰謀説もニューエイジもノストラダムスも宗教ものや終末論もののアニメもゲームもマンガもみんな同じのっぺりとしたヴァーチャルな場所でひとからげに語られたり消費されたりされる場所では、この本は、多分、存在感が、ありすぎる。 現在生きている一人の人間の人生の重みをかけて、宗教を通した現代社会への平和のメッセージもこめて、偉大な預言者としての芸術と芸術作品の読み解きによる「成就」を目指すという試みを、まともに受け取れる人がいるのだろうか。 それは、日本語で何かを書くときの私自身のやり方とも全く反対方向である。 つまり、あるアートがどんなに私個人の深いところに達して存在の根を揺さぶろうとも、それを批評の言葉にするためには、そこから、「個人」性やそれに基づく情動の部分をいかに削っていくかというのが、私が普段やろうとするやり方だ。 それがうまく行けば、たとえ特定の「信仰の言葉」や「情動の言葉」を注意深く全部切り捨てても、なお、そこに残った「気配」が多様な他者の存在の根に触れるかもしれない。 触れないかもしれない。 それでも、触れない故に、ニュートラルなのっぺりした批評空間の片隅に無害な顔をよそおって残ることができるかもしれない。そしたら、そこで多様な他者と触れ合って、別のルートでやってきた別の啓示の「気配」を見つけることができるかもしれない。 Souzenelle やBerdiaev の感性のことを考えると、若山さんが東方正教の諸美術をどう解読なさるのかに、とても興味がある。
by mariastella
| 2009-02-21 01:42
| アート
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