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L'art de croire             竹下節子ブログ

『Le moment fraternité』(Gallimard) de Régis Debray

 レジス・ドゥブレという名前は、1960代半ばに中学生高校生だった人には、憧れの名前だったと思う(私だけ?)。世の中に目を向け始めた頃に、はっと気がついたら、60年安保が過去のことになっていた、という「バスに乗り遅れた世代」と揶揄されたので、それでも、来るべき60年代末の若者の闘争の雰囲気にわくわくしながら、でもまだ「生徒」の身分でしかない、という中途半端な気分。そこにレジス・ドゥブレがやってきた。

 中学の終わりごろ、サルトルやポール・ニザンはとてもすてきに思えたし、キューバ革命とかゲバラとその死も、今から思えば、自分の日常とかけ離れていたのに、とても近く感じた。英文の参考書に「20歳で左翼でないやつはおかしいし、30歳でまだ左翼でいるやつはもっとおかしい」、という言葉が載っていたのをはっきり覚えている。

 そんな時に、まだ20代で、従って、自分たちと手の届きそうな距離にいながら、そして、サルトルやニザンのようににエコール・ノルマル出身で哲学のアグレガシオンを取得し、けれども第二次大戦中の「レジスタンス」などには「乗り遅れた世代」のレジス・ドゥブレが、南米に渡ってゲバラに従って、ボリビアで逮捕されて書いた『革命の中の革命』は、同時代感があって、かっこよかった。

 今から思うと、彼は1940年生まれだから、日本の「60年安保世代」とほぼ同じなのだが、距離が遠くて現実感がない分、勝手に近く感じたのだろう。あの時代で、日本でなら、たとえ5歳年上でも「対等に付き合ってもらえない」上の世代だという疎外感があったと思う。

 まあ、そんな レジス・ドゥブレだが、私自身も30歳などとうに過ぎて、「革命の時代」なんて世界的にアナクロになった頃、彼は再び、非常に近い人として現れるようになった。

 最近、彼の書くものには、いちいち、うなづける。

 彼の、フランス的な市民精神と、「聖なるもの」の適量の配合は、私の波長にぴったり来ることが多い。

 で、最近出た『フラテルニテの時』である。

 このフラテルニテ( fraternité)という言葉は彼の言うように、本当に薄幸の言葉だ。

 フランス革命の標語として、「自由・平等・博愛」と昔は習ったが、今は「友愛」と訳されることが多い。
 もっと性格にいうと「兄弟愛」である。博愛と言うと広く浅くという感じがするが、血のつながりでなく、隣人愛に近いので、訳としては悪くなかったのだろうが。

 しかし、問題が多すぎた。

 兄弟愛という「きょうだい」は、男だけではないのだが、語源的に男兄弟を指す。これって、フェミニズム的にはちょっと避けたい言葉である。
 また、これは、一神教の神のもとでは人類みな兄弟、というキリスト教的含意がある。

 フラテルニテといえば、中世の西ヨーロッパのカトリック互助組織として席巻した各種「兄弟会=信心会」のことだった。その含意を避けるために、今は、fraternitéよりも solidarité(連帯) という言葉の方が圧倒的に好まれる。

 実際、今時 fraternitéというと、破門解除問題でカトリック界を騒がせている聖ピオ10世会(=Fraternité sacerdotale Saint-Pie-X)を連想するくらい、まあ、誤解され得る言葉でもあるのだ。

 レジス・ドゥブレは、自由や平等が、「表現の自由」とか、「機会の平等」のように限定語をつけて具体的な政策や討論の対象となって、共和国精神の実現への努力と関っているのに対して、「兄弟愛」だけが、お蔵入り状態になっていることを憂える。
 で、この言葉を、あらためて、現代の欧米的強者による「人権至上主義」の行き過ぎや押し付けにブレーキをかける言葉として復権させようとしているのだろう。

 「fraternité」 は、もう一つのキリスト教的徳であるはずの、「 humilité(=謙遜、謙譲)」と共になければならない。

 考えてみれば、同じ親を持つ「きょうだい」といっても、常に「平等」ではないし、「自由」でもない。
 生まれた時代、親の経済状態や健康状態、若さ、家族構成がそれぞれ違うし、それによって、たとえ「きょうだい愛」によって「連帯」しても、それぞれにかかる義務も違えば立場も変わるだろう。

 自由も平等も、「 humilité」をベースにした「fraternité」とセットになってこそ、真価を発揮する。

 そして、この時代、何が難しいかといって、humilité ほど難しいものはない。

 正論はいつも arrogance(尊大、傲慢)とセットになりがちだからだ。

 弱者の自由も平等も踏みにじってかつ傲慢というのは分りやすいが、自由と平等を唱えて戦う人の傲慢というのは、他人にも自分たちにも分りにくいのでもっと始末に悪いことがある。

 私が翻訳した『聖骸布の仔』(中央公論新社)という小説の中で、主人公のジミーが、最初のシンプルな人間だったのを、イエスの生まれ変わりにふさわしくと、さまざまな宗教教育の特訓をされるうちに偉い人間になり、そのことで自分の翼を切られた、と表現するシーンがある。

 そこに出てくる印象的な言葉がある。

 「J'étais humble, ils m'ont rendu modeste.」

 というのだ。

 私はこれを「僕は自然に慎ましかったのに、彼らは僕を中途半端に生ぬるい人間にしてしまった」
 と、すごく説明的に訳した。前後の日本語とバランスをとるにはこれしかなかった。
 私はこの原文のフランス語が好きだったので、原作者のコヴラルトともここのところについて話したのだが、ぴったり来る言葉がなかったのだ。humble というのは humilité につながる形容詞である。福音書的貧しさみたいなものだ。

 この辺も難しい。

 私自身は、臆病さと事なかれ主義から来るどっちかというと modeste なタイプだが、humble であるかは大いに疑問である。 

 最近、「キリスト教と金」というテーマで書くことがあり、書店に行ったら、「神と金」「聖書と金」「キリスト教と経済」というようなテーマの本があふれているのに驚いた。特にグローバル経済とキリスト教についての論考が多い。神学者兼経済学者、カトリックで経済学者などというような人がたくさん書いている。資本主義とキリスト教というと、なんだかピューリタン的勤勉主義の文献のイメージがあったので驚いた。

 要するにこういうことらしい。

 いわゆる「冷戦時代」は、カトリックは、経済のことを論議するのを控えていた。
 自由主義対共産主義という構図があったからだ。

 キリスト教はもとは、キリスト教的分かち合いの共同体という理想の伝統がある。
 その意味では共産主義や社会主義の方が親和性がある。しかし、階級闘争や武力革命や労働者という一階級による支配というような概念はないし、ましてや、冷戦下の「共産主義」というのはこれも伝統的に「無神論」の体制であった。その意味では宗教の敵である。だから、共産主義経済を擁護するわけにもいかないし、だからといって、自由主義経済を擁護するのも控えていた。共産圏出身の前教皇JP2は、自由主義陣営と組んで冷戦終結に貢献したが、自由主義経済の市場経済や消費主義を批判していた。

 で、冷戦が終わって、たがが外れたように、ネオ・リベラリズム経済が席巻して、弱肉強食が顕わになり、人々は、「(モノや金を)獲得する欲望」と「失う恐怖」との間で右往左往することになった。

 同時に、キリスト教側の、経済論の規制も解禁された形になって、ネオ・リベラリズムの批判や、警告や、正当化や、行くべき道を説くいろんな言説が巷にあふれていたのである。

 キリスト教と社会学とか社会政策、福祉政策についての論考が多くあるのは知っていたが、経済論議がこんなにあるとは思わなかった。で、今は、金融危機だというので、ここ20年近くのキリスト教陣営のさまざまな経済論議の是非が顕わになりつつあるのだ。

 レジス・ドゥブレが、ネオ・リベラルの「新・自由」でなく、いよいよ、埃をかぶっていた「fraternité」を棚卸して、「 humilité」で補強して提出して見せたのは、彼の「聖なるもの」の感性と切り離しては考えられない。

 「modestie」は他者との関係で生まれる謙遜だが、「humilité」は「聖なるもの」との関係で生まれる謙遜だということなのだろう。

 



 
by mariastella | 2009-02-27 23:14 |
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