エリカにいくつか質問した。
冷戦後、Kの本が解禁になった後、チェコの精神科医たちも彼の「診断」を試みようとして、いずれもあきらめてしまったんだそうだ。
知性が極端に肥大しているだけなのか?
Kは緻密でまともで論理的である。戦略的ですらある。チェスタトンが言ってたように、完全に整合性のある世界というのは狂気の世界でしかない、となれば、Kはやはり「まとも」ではないのだろうが、本当に、彼は、他のソリプシストの誰にも似ていない。山の端にいる私にすらそれが分かる。何十年も山に分け入っているエリカもそう言い切るのだからすごい。Kの世界の前にはシュミットの世界なんか、本当に泡沫でしかない。
エリカは他の本の翻訳をして生活費をためてから、数ヶ月をKの翻訳だけにあてている。他の何かと同時進行できるような世界ではないのだ。翻訳どころか、ただ「読むだけ」で、頭がおかしくなりそうなので、私も気をつけなくては。
それでいて、Kは本当に愛想がよいのだ。彼が自分の精神構造をきれいに説明できる唯一の覚醒がソリプシスムだったんだろう。読む方もそれを受け入れたら多分、少し分りやすくなるのだろうが、それを神経症やら心理現象やら韜晦やらで分析しようと構えているので、理解不可能になる。
私にとって、Kが特殊な理由。
これまで、たいていの「偉大」な哲学者だの思想家だの文学者などの作品に接した時は、相手がどんなに巨大でも、自分の都合のいいところ、自分に役に立つところ、そのときの自分の背丈と理解能力に合ったところだけをつまんでくることが可能だった。部分理解や部分利用が可能で、自分の都合のいいようにそれなりに消化吸収できた。山全体を見なくても、木や葉っぱだけでも恩恵を受けた。あるいは、そういう印象を持てた。
しかし、Kには、「部分」というものがない。
Kは、常に、「全体」としてしか現れないような現れ方をするのだ。
これが、真性のソリプシストの所以なんだろう。
「偉大な魂」というのは、何かその先に、憧憬するものとか、希求するものとかが透けて見えていて、彼らの作品を通して我々もそれを垣間見たり、同じ渇きを共有したり、歓びを得たりするものだ。
Kは、何かを理想としたり希求したりしない。完結した知性だ。
エリカを見ていると、Kを理解するには、自分がKであるというレベルにいくしかない。
なぜならこの世界とはすべてソリプシストKであるからだ。
よい子はこの覚書を無視するように。