さっきUPした記事の中で、去年のポンピドーセンターでの『Traces du sacré』展のことに触れたのだが、今チェックしたら、このブログの中では触れていなかった。
人体展との関連もあるので、ここにコピーしておこう。
>現代美術における「聖の痕跡」をたどったポンピドーのテーマ展は、あまりにもフランス的なコンセプトである。
この21世紀でも、アメリカで、ポーランドで、ロシアで、イタリアで、オーストラリアで、イギリスで、キリスト教の冒涜的なアート作品が、展覧会場で破壊されたり、ギャラリー閉鎖に追い込まれたりしている。日本やフランスにいるとそんなことがぴんと来ない。
そんなことは、イスラム原理主義の話だと思う。でも、それは、キリスト教原理主義の話でなく、ある種の「善良な人々」の感受性に拒否反応を引き起こすのである。
挑発というのは、拒否反応があるから挑発になるので、フランスでは平和だ。しかも、この展覧会は、モダンとポストモダンの流れにおける無神論的表現とその展開がすごく系統的に紹介されていて、加えて、演出が優れている。
たとえば、遠近法の変遷のコーナー。
西洋遠近法では消失点が画面の中にある。イコンの遠近法では、画面の向こうは神の世界で無限だから、消失点は、イコンを見ているこっち側に来る。その違いや、視線の向きによる、上昇遠近法の例を示しつつ、そのコーナーそのものが、遠近法の錯視を利用したつくりになっている。
美術館の入口に、中国人アーチストの巨大な作品がある。チベットの祈りの法具(真言を書いてある筒をぐるぐる廻すやつだ)の巨大なのが突っ立っている。
リアルで、サイズだけが巨大なんで、たとえばロン・ミュエックの新生児みたいに、そのサイズの錯誤そのもののインパクトをねらってるのかと思ったら、なんと、思想作品で、宗教が肥大化して権力的になる倒錯を告発したのだそうだ。ダライラマの政教一致の批判である。
でも、一昔前までは、信教の自由も何も、チベットには他の宗教の情報がなかったんで、自由が迫害されてたわけではない。亡命後、外の世界を見たダライラマは率先して、民主主義体制を準備しようとしてるくらいだ。
ま、このアーチストもその後、中国当局に追われる身だそうだけどね。こういうナンセンスも、まあ、チベットびいきのフランスだからこういうテーマ展でドンと出してもイデオロギー性が相対化されていいのかも。
フランスに何十年もいるアングロサクソンの友人は、この展覧会は理解できないみたいで、忌避反応を示している。フランス的な感覚というのは、そう簡単にアシミレートできないのかもしれない。
まあ、本当のテーマは、長いこと宗教組織が超越を管理してきて、それが否定された後に、では、芸術が超越を啓示できるのか、っていうことなのだが、アーティストっていうのは、別に教会やら司祭に代わって神降ろしをしようとしたのではなく、自分が神になろうとしているのである。クリエートということはそういうことで、そういう意味ではいつも冒涜の香りがする。 <
以上である。
本当に書きたいのは、アートの変遷と無神論と西洋近代がどう関わっているかということである。
人やアーチストが自分で神や司祭に「なりたい」と思うのは、一種の「召命」である。
よくないのは、自分に合わせて自分の都合で「偽の神」をでっちあげたり、「偽の神」の司祭を演じることなのだ。