先の記事のアトス山のお宝展と同じPetit Palais でやっていたWilliam Blake展。
陰影の多い刺繍作品と違って版画系は、立派な画集を手に入れてじっくり見ても、印象は対して変わらない気がする。これまでにさんざん見ているから既視感があるのも当然なのだが。ブレイクは、レリーフ的なテクニックをあみ出し、上からの色づけもしているから、なるほどと思うものもあったが。
日本にいてはなかなか思いつかないことのひとつに、William Blakeのような人が、フランスではほとんど知られていないことだ。フランスの文化風景に入ってない。ジイドが詩の翻訳をしたし、熱心なファンももちろんいたわけだが、閉じられたサークルだった。日本ではなかなかメジャーでビッグ・ネームだと思うのだが。
しかし、ブレイク自身は、フランス革命にとても影響を受けたりしている。いや、当時のヨーロッパは大々的に揺さぶられたのだから当然だが、特に彼は革命派だった。ヨーロッパの各国の歴史は共振し拮抗しあっているので、アートの発展や受容もそれとは切り離せない歴史的、心理的な出来事で、時には政治的な出来事であったりさえするのだが(現代では経済原理も大いに働いている)、それを目録的に広くキャッチしている日本の教養人などは、微妙なところが分らない。
ブレイクは、小さい頃からの幻視者で、霊能者でもあったらしく、版画のテクニックも死んだ弟が夢で教えてくれたと言っている。ロマン派の嚆矢ともいえる表現だが、不安や恐怖を描くと迫力があり、詩作品と同様、精神構造の全体から眺めたくなる人だ。体質的とも言える幻視者や神秘家はいろいろあれど、その人たちのすべてに画や詩の表現能力があるとは限らない。
ビンゲンのヒルデガルトとか、ウィリアム・ブレイクとか、はっきりと自分を幻視者と自覚し、カミングアウトして、しかも、それを表現する高度な能力がある人が作品を残してくれるというのは、非常に興味深いことである。
その逆に根っからの芸術家で、表現方法を希求しているうちに次第に幻視者みたいな方向に行ってしまう人のほうは少なくないのだが。
というよりも、芸術家などというものは、表現できないものを表現するという情熱に焼かれるものだから、そういう「あっちの世界」を向いた人でないとやっていけないんだろうが。
先の記事で書いたジャン=イーヴ・ルルーの臨死体験に、まず、鳥がカゴから出て飛翔し始めるのだが、やがて、飛翔が鳥から出て行く、という表現があった。実に清冽だ。
カゴの内部にいる時も、外は見えているのであって、カゴの中にいながら飛翔だけ飛ばすことのできる鳥もいるのだろう。