ソリプシストKのための覚書その9先日エリカに会ってゆっくり話せたのでその後の経過を書いておく。 エリカはKの手稿をいくつかは手元に持っているが、チェコから持ち出したわけではなかった。彼の手稿は、最期に暮らしていた女性に残され、Kを嫌っていた(8歳の時に母が同棲を始めたので)息子の手に渡り、その甥に譲られ、さらに彼がある収集家に売ったので、ウィーンに渡った。エリカがそれを最初に見たのはウィーンのようだ。彼女はドフトエフスキーのソリプシズムに興味を持っていたので、Kの噂に飛びつき、Kを読むためにだけチェコ語を学び〈すでにポーランド語の素養があった〉、ブキニストをめぐって、生前に刊行されていた本を漁っていた。 やがてその収集家は、ビデオゲームの収集に宗旨替えして、Kの手稿をプラハの国立図書館に売却した。冷戦後Kの全集刊行の企画がもちあがったが、1900年以来何度かの正書法の変化のあるチェコでは、出版社は現代語表記への変更などを厭い、手稿を無視することにした。そこでエリカが、一人で、図書館に通い、手稿をまとめてその精密な注釈を施したわけである。 彼女が最初にKを紹介し始めた時、クンデラをはじめ、チェコ人は、西側世界にKを知らせることに好意的ではなかった。パトチカはKの論理学について触れたが、Kを稀有のソリプシスト哲学者として全貌を把握した者はいなかったし、チェコ人インテリや文学者は、自分たちの売り出しとサヴァイヴァルに懸命だったからだ。 私は最近グレゴリウス・パラマスの神学や正教のヘシカズムとKをすり合わせようとしていた。 ラテン教会のfilioqueを考えに入れない方が、父なる太陽の光線である「神」同士の関係性が成立するのではないかと思ったからだ。 しかし、私の考えはエリカに却下された。Kは他者との関係性を拒否していたというのだ。そして、KによるVladimir Soloviev についての膨大な批判論考の仏訳をpdfで送りつけてきた。書簡の中で正教神秘主義と自分の違いを語っているところも教えてくれた(エリカは、何年何月の書簡に何が書いてあるかをすべて暗記しているのである)。 しかし、神秘主義と自分の差異をわざわざ分析すること自体が、Kのこだわりを示しているのではないか。 パラマス風の太陽光線の比喩をあっさりと斥けられたので、私は次に「山の比喩」を持ち出してみた。一度山の頂に上って空や地上の光景を見たものは、たとえ下山したからといってその体験がなかったことになるわけではない。神秘体験は「体験後の世界」も変革するのである。 すると、驚いたことにエリカは、一蹴せず、そのシェーマに従って説明してくれた。 「自分は神である」という「山の上」体験をする前のKは、すでに、自分が孤絶した存在だと知っていた。生の苦しみを逃れるためにKが採用したのはストア派的な克己主義である。生への執着を捨て、自分を物質的なものから精神的なものへ変革しようという修行にも似ていた。 しかし、ある日、突然、頂上に立つ自分を見る。 「自分は神である」。 すべてであり、全体であり、絶対である。 これは一種の至福体験でもある。 ところが、それは、すべての神秘体験と同様、持続しない。 頂上の光景というのは、当然、この世では描写できない。論理や説明を超えたところにある。 それを、詩的言語で表現する人もいれば、一筆の円や、公案の逆説で暗示する人もいる。それ以降の生き方で証ししようという人もいる。いや、地上に戻った後でも、はるか彼方の空とつながったままの吹き抜け状態で生きる人もいる。 Kにとっての、神体験(神との合一体験ではなく、自分が神であることを知った体験)は、突然襲った啓示だった。 彼はそれを持続するために、また、再現するためにいろいろな方法を考える。修行ではなく、意志のコントロールという方向である。しかし、そのたびに失敗する。 Kは至福の記憶と予感と期待と失望と絶望との間をジェットコースターのように急速に上下する。緻密な論考を揺らがせるその痙攣が彼の魅力である。 山に登ったことのある人の中には、次に来る人のために地図を書く人、アドヴァイスをする人もいるし、道の選択や方向を示す人もいる。どのへんに山があるのかを指差すだけの人もいるだろう。 しかし、Kはそうしない。 Kは、頂上にたどりつくまでのことは何も書かない。それは意図してなされたことではないからだ。しかし、頂上からいかに戻ったか、転落したか、という降下の過程ばかりをこれでもかこれでもかとKは執拗に書き続けるのである。彼のソリプシズムには、帰りの切符しかなかったのだ。 こうしてみると、単に、神秘主義のヴァリエーションとしても、Kは面白い。しかも彼は根っからの哲学者で論理学者でもある。 頭脳明晰な合理主義者が、ある日、自分が神であると気づいてしまう。まさに不条理劇でもある。 エリカに言われたところだけでもじっくり読んでまた考えてみることにしよう。
by mariastella
| 2009-07-01 22:56
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