昨日の記事について、サイトの方で、
日本では、バッハの『Das Wohltemperierte Klavier』を『平均律』クラヴィエ曲集と呼ばれているので、ピアノは音程が均等に調律されているのかと思っていた、というお話があった。
『純正』調は(イデアの世界だけで)現実には(竹下流に云へば身体的には)在り得ないもので、皆少しづつ調子が違うからこそ美しいハーモニーが奏でられるのではないか、とも。
そう、ピアノの調律は微妙で、まあ、自由に転調しても誤差が少ないようにできているのだ。だから、クロマチックに弾いても現代風12音音階とかにならない。
そういうピアノの音で育って「絶対音感」のある人なんてけっこう悲劇で、バロックを弾いても聴いてもハンディになる。絶対音感って、共感覚の一種で、音の高さとその名のレッテルを連動して想起できるというだけのものなので、名前と高さの連動が歴史的に変わるし楽器によっても変わるということを想定していないからだ。
大体バッハは、「平均律」の作曲家みたいだが、自分はしっかり純正律で弾いたり作曲していたそうだ。
純正律の演奏は、調性と調律と音を選べば可能である。バロック音楽では不協和音も多用するが、和音が純正であるほど、不協和音の「おいしさ」が際立つし体のくすぐられ方も快感になってくるので、整数比の三度や五度をきっちり押さえておくことが「バロック人生のクオリティ」にとっては大事である。
私たちはハイポジションでもオクターブと五度が保証されるギターを使い、三度は3台のギターの振り分けによって調整しようと思っている。知覚や認知のシステムはミステリアスだが、多くの人と気持ちよさを共有することは可能だと思っているし、場合によっては、理論と期待以上の飛躍も夢じゃないと思う。私たちにとって、純正律はアカデミックな志向でも美的イデアでもなく、美味の追求である。そうやって嵐の中で吊り橋を渡っている時に、突然、揺れのない無時間的な体験があり、野をわたる風の光だけが浮かんだりするもので、それは閉鎖的なものではなく、「分かち合っても減らない」奇跡のパンなのである。
バッハの平均律に戻ろう。平均律は英語で言うと、「ウェル・テンペラメント=Well-Temperament」で、ほどよく調律された、という意味なのだが、英独仏でこの「ウェルなんとか」、という言葉は、日本語にするといつも誤解を招く。「ほどよく」というのは、「適当に」とか「良い加減に」とかいうことだが、今や日本語では「ほいじゃ適当にね」とか、「あの人はいい加減だ」などと、「不適当」を意味していることがほとんどだ。
いい例が国連のWHOが使うWell-beingで、確か「幸福」と訳されたりしている。これについてはこれまでもいろいろ書いたからここでは繰り返さないけれど、「スピリチュアル」の訳と同様、いろいろな意味でずれが大きくなる。
純正律と言えば「純」が排他的なので、それこそイデアの世界のもので、現実には不可能だと思われるし、そこで私は今のところ「正律」という中途半端な言葉を使ったのだが、ほんとうなら、ウェル・テンペラメントこそ、平均律でなく「正律」、あるいは「純」でなくて「準正律」みたいなニュアンスかもしれない。
まあ、純正律によって引き起こされる Well-being も、複雑系の話であるから、単純な整数比だけの問題ではない。ハーモニクスとか、音「色」とか、音響とか、温度とか湿度とか、体調とか、それぞれの持っている音楽や音の体験によって刻まれた先入観によって変わってくるわけだ。だからこそ、少なくとも同じ空間を共有した者同士で Well-being を分け合えればいいのだけれど。