今の世の中、無神論原理主義が元気なのはアメリカだろうな。
キリスト教的信仰と無神論が光と影のようにセットになっていることを今書いているわけだけど、その先鋭的な場所では、切り立った稜線の片側に一神教原理主義と偶像崇拝がびっしり並び、もう片側に戦闘的無神論が負けじと支えている。どっちかに崖崩れがおきそうだ。
ネット資料をカバーしていたらきりがないのでできるだけ見ないようにしているのだが、デリダのインタビューのYoutubeを見ていたら、つい、彼の無神論に行き当たり、続いて、無神論プロパガンダの森に迷い込んだ。
なんだか、気の毒だ。
たとえば、無神論は悪くない、っていう主張がある。
アメリカのキリスト教徒は75%で、刑務所に入っている人の75%もキリスト教徒。
無神論者は10%で、しかし、刑務所には0.2%しかいない、とか、
離婚率も無神論者の方が有意に少ない、とか。
こだわりの元は、『詩編』14-1で、
「神などない」と言う人は、
「腐敗している。忌むべき行いをする。善を行うものはいない」
というところで、これに反論してるのだ。
そして、エディソンとか、スピルバーグとか、マリー・キュリーとか、ジャック・ニコルソンとかブルース・リーとか、いろんな人を、その反証となる無神論者として挙げている。
かなり普通の日本人で、普通のフランス人の感覚でもある私から見たら、こういう発想そのものが、強迫的としか思えない。挙げられている人の中には、いわゆる不可知論者も入っていて、もっというと、定期的に教会だの宗教施設に通ってない、というだけの感じの人もいる。
こういう「運動」が成り立つのは、「無神論者=信用できないやつ」という偏見があるからなんだろう。
古代のギリシャ・ローマと変わらない。初期のキリスト教徒もそんな世界で無神論者として迫害されてきたのだ。
フランスなんかは、こういう原理主義的無神論のフルコースを経て、かなりヌルイ社会になっているわけだが、こういうのをただ黙って見ているわけにはいかない。原理主義との戦い方そのものを忘れている。キリスト教原理主義とキリスト教無神論の戦いに疲れて、そこで得た智恵というものを風化させて、別の形の原理主義や不寛容や偶像崇拝とどう向き合うかを真剣に考えなくなった。
Youtubeのデリダだが、愛について訊ねられて、「え?愛?それとも死?」なんて聞き返すところとか、この人って、なんかコンプレックスがあるのかなあと思った。隣にフーコーのインタビューがあって、こっちはとても分りやすい。こういうのは著作だけでは分らないおもしろさである。