今朝のラジオ(Europe1)で、エネルギー担当大臣のエリック・ベッソンが昨日のル・モンド紙のアンヌ・ロヴェルジョンのインタビュー記事(そこでアレヴァの株主としての政府の定見のなさが批判されていた)に当然弁明するようなコメントをしていた。
まあ、彼らは「同じ穴のむじな」でもあるのだが、はっきりした共通点がある。
例の
「フランスにとって核エネルギーは理性の選択」
という見解だ。
この理性によって、情緒を克服しようという話である。
で、ベッソンが言うには、フランスにとって、核エネルギーの選択は、
ni par passion, ni par amour
つまり、情熱からでもなく、愛からでもない、
という。
あくまでも、エネルギー自立を目指す国益のためという理屈に拠る選択である。
これがロヴェルジョン女史の言う
「悲劇への感性がある者だけが原発をもてる」
という考えと通底しているらしい。
要するに、
「原発の前提には一つ間違うと人類絶滅にさえ至るほどのとてつもないリスクが横たわっている」
ことを踏まえた上で、敢えてメリットを優先する、
という見解なのだ。
ある意味でこれが、核兵器保有国の原発に対するスタンスとしてノーマルなのだろう。
核兵器が一つ間違えば人類を破滅させる力を持っていて、それでも、だからこそ「抑止力」として有効だ、というスタンスを貫いていたのだから、同じことが原発にも適用されるのは当然といえば当然だ。
「必要悪」を理性で制御する、という苦渋と誇りが建前となっている。
そこが日本とは決定的に違うところかもしれない。
日本は、被爆国としてこの「悲劇への感性」が突出していてもいいのに、「核兵器
は持たない」と言うことで、核兵器は悪=戦争、核エネルギーは善=平和、という二元論に持ち込んだ。
結果、核エネルギー推進政策のトーンは、「エネルギー輸入に頼らずに、過疎地に雇用や金をもたらし、都会では電力を好きなだけ使えて、誰もが恩恵を受けられる夢のエネルギー」、ということになった。
今、過去のプロパガンダを見ると、それこそ情緒的に、クリーンさだの、科学技術の発展だのへの情熱や愛を刺激するようなメッセージがある。
本来なら、やはり核兵器と核エネルギーはセットになって論議されるべきだ。
「核兵器が必要悪である」ような世界を変えていくのはすべての国に課せられた義務であるし、核エネルギーは、「核兵器による抑止力という倒錯状況」の産み落とした鬼子のようなものだということを了解しなくてはならない。
「放射線治療の恩恵もあるから核の平和利用にノーとは言えない」と比べられるレベルではまったくない。
日本と同様、核兵器保有クラブから締めだされているドイツやイタリアにおける核エネルギー廃絶決定を支える「理屈」と「情緒」の兼ね合いも、もっと知りたいものだ。