カサノヴァ、または、18世紀の踊りの体と触覚について
パリの国立図書館BnFでカサノヴァの展示会をやっている。『自由の情熱』というタイトルだ。
カサノヴァは五感を解放し、研ぎ澄ますことに情熱を傾けた。 というわけで、18世紀における五感の文化について、それぞれ、歴史学者とアーティスト(調香師、パティシエ、音楽家、デザイナーなど)が討論するという企画が進行している。 先週土曜がその3回目で、「触覚-踊られる体」というテーマで、歴史家で作家のNoëlle Chateletと、バロック・ダンサーのChristine Bayleが出席した。 http://www.bnf.fr/fr/evenements_et_culture/auditoriums/f.samedi_savoirs_5sens.html?seance=1223906810322 ノエル・シャトレーは予備知識を得るためにクリスティーヌのバロック・バレーの上級クラスを一度だけ見学に来た。私も踊っていたのだが、その時には、彼女が誰で何のためにいるのか知らなかった。 その後で、クリスティーヌが、ノエル・シャトレーが、バロック・バレーをまったく誤解している、どこまで論破できるか分からない、と言っていたので、応援もかねて出席することにした。バレーの仲間の理論家も精神科医も来ていた。 まず、何でそもそも「カサノヴァ」かというと、彼が踊りが大好きで、特にスペインで民衆の踊るファンダンゴを見てからその挑発的なことや官能的なことに夢中になったというからだ。 カサノヴァというとドン・ファンの代名詞の「ヴェネツィアの遊び人」だと思われているが、その有名な『回想記』はフランス語で書かれたもので、立派な「啓蒙の世紀のフランス文学者」のステイタスも持っている人なのだ。 で、18世紀のフランスに生きていたような自由思想家がダンスもたしなんでいたということは、まったく普通なので、脚に静脈瘤がない限りどんな男も踊っていた、といわれるくらい、基本的カルチャーだったのである。 宮廷舞踊は廃れていたが、劇場用のL'Aimable Vainqueurのダンスなどは非常に人気があって、多くの男が踊っていた。 カサノヴァが特に、民衆的で官能的な踊りによって、革命以降の肉体の解放を先取りしていた、などというわけではない。 踊りは常に肉体を意識化する舞台であり、騎士という「戦士」階級にとっては乗馬や剣術と同じ訓練でもあった。 民衆だけではなく、貴族階級にとっても、18世紀はサヴァイヴァルが容易でない厳しい時代だった。宮殿といえどもたいした暖房がなく、太陽王ルイ14世ですら多くの病気に苦しみ、数ある息子も孫もみな失って、やっと曾孫を跡継ぎにできたほどだった。そんな時代に、痛みや苦しみを表に出さずに、優雅に体を使って見せることは、命がけの官能の追求でもあったのだ。 しかし、ノエル・シャトレー女史などに見られるバロック・バレーへの根強い先入観は紋切り型だ。それはざっと次のようなものである。 フランス革命によって、苦しんでいた民衆はようやく解放された。 そのさきがけとなったのはカサノヴァのような規格外の自由思想家だ。 貴族階級は表面的な上品な体裁と華美ばかり競って、肉体の自由を追求したり、触覚を使うという「他者への侵入」をしなかった。バロック・バレーで、カップルがごくたまに手先を触れ合うほかには互いが接触しないことが、その象徴である。 ダンスはコンテンポラリーになればなるほど、肉体をありのままに強調し、男女は触れ合い、エロティシズムも喚起される。華美な衣装は肉体が語るのを妨げる牢獄だ。ディドロも触覚がもっとも深い感覚だといっている。触覚は情念を喚起する。触覚は禁忌や衝動と結びついている。 それに対して、バロック・バレーなどは、衣装の制約もあるし、自然性や官能性を封印して、人工的で不自然な規則でがんじがらめにして、知的な優越感に浸っているだけだ。 とまあ、正確にはそこまでは言わなかったが、ノエル・シャトレーの主張は、貴族階級へのイデオロギー・バイアスのかかったものである。 ついでに彼女は、アンシャン・レジームの男は脚にぴったりしたキュロットで動きが制限されていたのが革命後にパンタロンになって緩やかになった、と言った。 これは、薮蛇だった。ぴったりしたキュロットは乗馬用に特化したもので、18世紀の踊りの衣装も、基本的には狩や戦いの動きをベースにした機能的なものだったからだ。 すべてのアートが何らかの規則を基にして繰りひろげられるのは当然なのに、踊りに関してだけ、肉体性とか動物としての生命力とかを強調することがひたすら禁忌を解いて近代に向かう自由と進歩かのように言われるのは不思議だ。 肉体性の回復とは、むしろ、近代以降において、人工的な快適な環境で暮らす都市住民が肉体性を喪失してしまったことに対する反動だ。 18世紀の暮らしはあらゆる点で重かった。人は肉体性を忘れることなどできなかった。だからこそ、それを昇華して「軽さ」を再構成するのがフランス文化の特徴となったのだ。 そして、その洗練され再構成された軽さが、国境を越えてヨーロッパ中に広まったのは、そこに、その時代における普遍性があったからに他ならない。 今いい訳語が思い浮かばないが、「danse d’excution」と「 danse d’action」は違うのである。 このことは、日本舞踊や仕舞などを伝承してきた日本人の方がむしろよく分かるかもしれない。 和服や帯で動きが制限されているからこそ、どこがどう自由になるのか、動ける部分、動かせる範囲でいかにして官能を演出し、伝えることができるかというのが掘り下げられるからだ。 そういうプロセスにおける「触覚」とは、踊りの相方を手で触れるとか抱くとかの問題ではない。 自分の体のすべての部分がどのように締めつけられたり、限界があったり、重力を受けているか、などの身体感覚であり、塊としての体が空間を切り、床から常に抵抗を受けている「接触」をいかにして全身でキャッチするかということでもある。 バレーの「ステップ」とか「パ」とかは、「歩み」の足の運び方、体重のかけ方、であり、動くのだから、体重を移動していく途中の「過程」のことである。 だから一つ一つの踊りの型ではなく、型と型との間の移動の部分に、すべてがあるのだ。 ダンスとは、体重移動の部分にあるので、それが終わった部分にはない。 それは、ピアノのキイをたたく指の「音楽」がすべて、キイに触れるまでの手指の動きの流れにあるのと同じことだ。たたいた後に出た音の連なりが音楽だと思っているうちは、ピアニストではない。 もちろん、ある指がキイに触れたときの感覚を次の指の動きへとつなげていくわけで、バレーも同じだ。 ある動きに内包されている次の動きを次々と先取りして展開していく一瞬の感覚にすべてがかかっているのである。 それを絶えず確認しながら踊って、相方のその動きをキャッチしながら空間を切り取っていく絵をいっしょに描いていくのは、十分官能的であり、相手の体を触るとか触らないとかいう次元ではまったくないのだ。 私が、今、18世紀のフランスの軽さの文化、すなわちフレンチ・エレガンスの美学を擁護するのは、近代以降の「より強ければ(より速ければ、より高ければ・・・)勝つ」とか「見かけがすべて」のような競争原理や、「名人芸」をマネジメントして売るというアートのシステムに異を唱えたいからである。 フレンチ・エレガンスというのは、日本でいえば「粋」などにも通じるので、なんにしても、動物性だとか生の感情だとか、天才だとか、逆に努力の限りを尽くしているのを見せるとかいうのは、上品ではない、という感覚がある。だからといって中途半端に何かをするのではなくて、実は計算しつくして、最小の動きで最大の効果をあげるように密度を高めるわけである。 それなのに、実際に今見かけるバロック・バレーの再現には、単なるコスプレ的なものや、中途半端なテクニックなどが多いので、誤解を招く。バロック音楽自体も復活した後で、長い間そういう「生ぬるい時代」を経てきた。 事実は、革命前のフランス・バロックの黄金期にこそ、音楽やバレーや詩のそれぞれの「語り」の技術が最高潮に達して競演していたのだ。
by mariastella
| 2012-01-31 07:32
| 踊り
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