前に、クープランとラモ-は補完的だと書いた。
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ではなぜ私たちがクープランのチェンバロ曲を3本のギターに編曲しないかというと、それは、クープランの音楽が、というより彼自身の感性が、あまりにもチェンバロという楽器と一体化しているからだ。私たちがトリオで弾くものは、原曲に新しい地平を開いたり、何かを加えたりするものでなくては意味がない。
クープランもフランス・バロックの人らしく、バロック舞踊のランガージュをよく理解していた。でも、曲の作り方は、ラモ-のような変幻自在な驚きを仕掛けるのではなく、ひたすら、チェンバロの特性と手指と耳の出会いの官能にのめり込んで追求したと言える。ショパンとピアノとの関係に少し似ているかもしれない。
確かにチェンバロの鍵盤が弦をパチッとはじく時の感触などは、弾いていると気持ちよくて誰でも癖になるのだが、クープランのようにこの楽器と一体化した人の曲を弾く時はまた独特のものがある。曲想でなく楽器のロマン派みたいな距離の近さ、親密感だ。
クープランは他にもすばらしい曲を残しているが、オーケストラやオペラには興味をひかれなかったようだ。
私たちはラモ-風の錬金術が好きなので、クープランを編曲することはこれまでなかったのだが、音楽学の比較研究の例としてクープランもとりいれることで明瞭になってくることがある。クープランのリゴドンにはミオンにそっくりなものもある。
モンドンヴィルやデュフリーやリュック・マルシャンのチェンバロ曲については、すべてが素晴らしいわけではない。私たちが編曲しているのは最高のものばかりだ。
すべての曲がひとしくすばらしいのはやはり、ラモ-とミオンなのだが、この2人はまた、逆のタイプでもある。
ラモ-が錬金術師でプロメテウスだとしたらミオンは神秘主義者なのだ。
今日は師井さんの絵の展示と一緒にミニコンサートをやった。
1年前に東日本大震災のチャリティコンサートをやった時に師井さんと出会ってから生まれた企画だから感慨深いものがある。いろいろなところでジョイントしてみたい。