今年のカンヌで審査員賞を受賞したケン・ローチ『天使の取り分ANGEL'S SHARE』を観た。
ケン・ローチは私の好きな監督だ。
犯罪歴があって職のない若い男の恋人に赤ん坊が生まれる。ダルデンヌ兄弟の「L’Enfant」だったら、ここで若い父が赤ん坊を売りとばしたりするのだけれど、ケン・ローチでは父性に目覚めた主人公が、何とか自立しようとする。
そこにウィスキーのテイスティングの蘊蓄や、幻のウィスキーを盗み出す話や、教育指導員とのあたたかい交流などが組み合わさって、ユーモラスでありサスペンスフルでもあり、この監督ならではの人情味にあふれ、後味もいい。
スコットランドをうまく描いている。
社会から完全に落ちこぼれたような若者のグループが、妙な連帯の中で、イニシエーションの旅をする。おとぎ話でもあり、一種のビルドゥングス・ロマンでもある。
でも、去年のロンドンでの暴動騒ぎといい、フランスでも職のない若者は多いし、うちに引きこもるよりも路上に出て暴力沙汰を起こしたりする方が多いので、他人事とは思えない。
この映画を観た同じ日に夜のメトロのホーム(サン・ミシェル駅)で、3人のポリスが一人のアラブ系の若者を囲んで持ち物をすべて出すように命令して、皆が声を荒げていた。尊厳とか尊重というのはかけらもなく、まるでいじめのシーンのようだった。何があったのか分からないが、ああいう風に扱われる若者が前向きに生きていけるとは思えない。
こうしてあちこちでポリスから高圧的に尋問されている若者たちの中には、この映画の主人公のように隠れた才能のある者や知的能力の高い者も一定の割合でいるはずだ。
フランスではゲットー化している移民二世や三世の多い地域の優秀な生徒に奨学金を出してグラン・ゼコールの予備クラス(国立)に引き抜くという試みが広がっていて、そんなもの、きれいごとで、本当の解決にはならないだろうと思っていたが、やはり、手っとりばやいのは、教育によってチャンスを与えるという王道だなあと思う。よい指導者との出会いもそうだが、シンプルに「本を読むこと」が若者の可能性をいかに広げるかというのも痛感する。
ただし、優秀な者だけを一本釣りで引き抜いて援助して成功させたり更生させたりするというのは、政策の正当化にはなるだろうけれど、ケン・ローチの映画が本当に痛快なのは、底辺にいた主人公が責任感やら自分の才能に目覚めて悲惨な境遇から抜け出るというところではない。
主人公の周りにいる、本当にどうにもならない盗癖の女の子や頭の弱そうな男やら、主人公の足を引っ張っているように見える「クズ」のような若者たちも、「一緒に行動する」ことで、居場所があって、チャンスがあって、自分の立ち位置や能力などと、怒りや憎悪や侮蔑などを通してでなくはじめて向かいあえたということだ。
社会的な弱者にとって真のハンディは、能力のなさではなくて、暴力的な憎悪の環境にいることなのだ。暴力や憎悪や侮蔑の視線のある世界で「自助努力」など誰もできない。
もちろん、では彼らを安全なところに囲い込んで個別に隔離すればいいのではない。
みなが「より弱い者」を抱えていく、という環境に投げ込めばいいのだ。それは別にすごく強い人が弱者を守るというような家父長的「憐れみ」の環境ではない。家父長的憐れみの行使には「見下し」が伴いがちで、それは憐れみに感謝しない者を罰するという誘惑と紙一重だからだ。
この映画のように、たとえ全員が社会的弱者でも、みんな、「弱さの個性」は違うのだから、弱い者同士が助けあうという可能性は絶対に存在する。
この映画のくれる希望のメッセージの根本はそこにある。