今年のカンヌ映画祭でコンペに参加して話題になったのに何の賞ももらえなかったレオス・カラックスの『ホリー・モーターズ』を観た。
少なくとも、ドゥニ・ラヴァンは主演男優賞に値する演技だ。
カラックスは鬼才という言葉がぴったりで、彼の分身のようなドゥニ・ラヴァンがまた鬼才、異才というかあくが強いので、好き嫌いは大いに分かれるだろう。
大衆に対して映画を創るのではなくプライヴェートな映画を創るのだ、と本人が言っている通り、芸術性は高いがナルシシズムと過剰さとキッチュさで息苦しくなる。もう50歳になるドゥニ・ラヴァンの異形の肉体の生々しさにもひいてしまう。
動作の美しさを追求しているとか、マイムで鍛えたしなやかだが野性的な身体表現、などと言うが、ただ圧倒されるだけで、無意識にバリアをはっていたので楽しむところまでいかない。
音と映像が凝っていて工芸的と言えるぐらいだ。
カラックスの本名のアレックスとかオスカーとかが、主人公の名に使われていて、この映画が、カラックス自身の内的世界や想念、映画創りへの執念や期待や失望などをさまざまな形で表現しているのだということは分かる。
オムニバス映画のように次々とキャラクターやシチュエーションが変わり、ビジネスマンと物乞い、娘や姪や前妻との突然のヒューマンなやりとり、墓地、教会、廃墟のデパートを舞台にしたエステティックの過激さが次々と打ちこまれる。
一作でいろんな究極のシーンが見られるのを贅沢と見るか、全体の「意味」が分からないことにフラストレーションを感じるか難しいところだ。
映画創り、特に俳優の演技というもののメタファーだという一応の解釈はあって、今の映画の観客は、ストーリーを追う、起承転結のカタルシスを求めるようにフォーマットされているのでそれに挑戦する、という意味もあるらしい。
物語の整合性のある意味がなくても、それぞれの「瞬間」を驚き、味わうことを奨励しているとも言われる。逆に、人生や日常の「断片」はどれも偶然の集積にも見えるし不条理にも感じられるが、全体をみると、それは謎の絶え間ない脱構築と再構成の連続で、それこそが「生」と「美」の秘密なのだという解釈もある。
私がなんとなく連想してしまったのは、
『ユダヤ人とバイブル』という本のことだ。
その中で、旧約聖書というのは、一読すると曖昧、矛盾、支離滅裂の連続だが、一見して欠陥のように見えるこれらの面こそが時代を継いで読まれてきた理由の一つだとある。各世代に、読み直しのための本質的自由が与えられるからだという。
ラビたちにとっては、バイブルとは『オデッセイ(オデュッセイア)』の対極にあるものだ。
バイブルの表面的な不完全さこそが、その真実性を担保している。
なぜなら、神は詩人ではないからだ。
詩人は嘘をつくが、神は真実を語る。
つまり、ホメロスなら完璧な叙事詩を創作できて、人々はそれを完成品として鑑賞できるが、神の言葉を人間がキャッチして書きとめたバイブルには文学作品のような整合性がないのは当たり前だというわけだ。
カラックスの映画は、ここにきて、作品というよりも、ご託宣、神的ビジョンのご開帳になったのかもしれない。