Joseph-Nicolas Pancrace RoyerのPyrrhusを観てラモ-を想う
(以下の記事は音楽ブログの方に載せる方がいいかもしれないが、音楽ブログには書くことがたまり過ぎているのに休眠状態なのでこちらに書いておく)
16日、ヴェルサイユ宮の十字軍の間で、ロワイエの『ピリュス』を聴きに行った。 初演から282年ぶりの復活だ。 これ一回きりで、録音されたものは来年発売される予定。 文化財無料公開の日曜だったせいか、観光客の来ない19世紀に建て増しされた『十字軍の間』が使われていて、音響は今一つ。 特にチェンバロのふたを外していたので、音が拡散した。ふたが立ててあった方が客席の方に反射したと思う。それに比べてアルシリュートは、テオルブの弦を利用したものでよく響いていた。終演の後で奏者に質問したのだが、アルシリュートというよりテオルブのカスタマイズという感じだった。 この『ピリュス』は1687年から1730年にかけて王立音楽アカデミーで上演された21のオペラ(抒情悲劇のカテゴリー)の最後を飾ったものだ。 リュリー型のフランス・オペラの到達点の一つだと言える。 つまり、役者が台詞を歌う「演劇型」オペラだ。 ラモ-を先取りするようなはっとする豊潤さをたたえた部分もある。 バスのピリュスとソプラノのポリュクセーヌがどちらかというと抑制のきいた感じのカップルをなしていて、一方、自死してしまうテノールのアカマスと魔法を使うメゾソプラノのエリフィルのカップルは、すごい演技力で、ドラマティックで、鬼気迫る熱演だった。 メゾソプラノのギユメット・ロランスは存在そのものに大迫力がある。 眼鏡をかけて楽譜を見ながらなのに、髪ふり乱してすごい勢いだったから、これが暗譜している舞台版だったらさらに激しいパフォーマンスだっただろう。 台本もなかなかのものである。 今はGalicaで譜面も見ることができるが、台本だけでもネットで簡単に読める。 十数年前からトリオの仲間がオペラ座図書館にいってはマイクロフィルムでミオンの楽譜を収集してきた時代とは隔世の感がある。(でもミオンの他の楽譜を持っているはずのモントリオールの図書館はそれをネットで公開していない。その閉鎖主義はいつまで続くのだろう。) で、このロワイエの『ピリュス』だが、私たちが彼の『愛の力』のメヌエットやパサカリアをレパートリーに加えて愛でていることは前に書いた。 それに比べて、『ピリュス』のダンス曲は、ドラマティックなレシタティフとレシタティフとの間に挿入される形式だけの「つなぎ」のような平面的なものだ。そこの部分だけ、別の作曲家のダンス曲を再利用したとしても困らない程度のものである。 13年後の『愛の力』のダンス曲は、まったく違う。 肉体性を持ったひとつの世界になっている。 1730年の『ピリュス』と1743年の『愛の力』との間に、ロワイエを変えた何か決定的な出来事があったのだ。 フランス・バロック・オペラを、デカルトの理論を結実させた希有な完成形に到達させた決定的な出来事である。 それが、1733年のラモ-の『イポリットとアリシ―』の登場だ。 『ピリュス』を作曲した時のロワイエは、27歳。 その3年後に、すでに50歳のラモ-が『イポリットとアリシ―』を生んだわけだ。 それは、まるで、ラモ-が新しい宇宙をまるごと創造してぽんと出して見せたかのようだった。 そこでは、序曲もレシタティフもダンス曲もみな、音楽によって実体を与えられていた。 例えて言えば、ラモ-が生んだのは、「大気」の全体であって、そこでどんな鳥がどんなふうに飛び交おうと、その鳥たちはみな、ラモ-の大気を吸い、その流れの中で生きているようなものだ。 1722年にハーモニー論を出して、権威中の権威であった数学者であり大知識人であるラモ-が1730年代の初めにオペラを創ると言いだして台本を注文した時、人々は、恐れた。 ラモ-のようなインテリでばりばりの理論家が、感情を盛り上げるドラマティックなオペラを作曲するわけがない、できるわけもない、とみなが思っていたのだ。 しかし、チェンバロ曲やオルガン曲などですでに作曲家としての名声もあったラモ-は、歌や踊りが渾然一体となったオペラこそがクリエーターとしての自分の力を投影する最高の形式だと思っていた。 歌や踊りや台本などの個々の鳥たちは、「大気」を生みたい彼にとってほとんど重要なことではなかったともいえる。 感情だって、感動だって、頭で考えればいくらでも創りだせるのであり、それが創造のアート(技術)なのだ。 緻密な理論の宇宙を、自分の姿を映してみる鏡のように機能させるには、オペラという「宇宙」を顕現させる必要があった。 だから、ラモ-のダンス曲はそれだけでダンスのすべての要素をそなえて受肉しているし、物語も台本も、音楽に姿を変えている。 ラモ-のオペラは最初から、「完成」していた。 だから、1733年より後には、ロワイエも、もはや『ピリュス』のロワイエではなくなった。デュフリーも、モンドンヴィルも、ミオンも、こぞってラモ-の生みだした「大気」の中に飛び込んだ。 1741年のミオンの『ニテティス』も、1743年のロワイエの『愛の力』も、ラモ-の大気の中で飛翔し、ラモ-の宇宙の中でインスパイアされる「神秘主義者」の祈りであり語りである。 そして、創造者であるラモ-は、その宇宙を自由に操りながら、「神秘主義者」ではない。 神は神秘家にはなれないのだ。 ラモ-の視線だけは、自分の創った宇宙をどこか超越的なところから俯瞰しているような醒めた孤独と、同時にある種の、子供のような屈託のなさがある。 彼には、ミオンやロワイエのように神に近づこうと熱望したり創造の秘密に迫ろうとしたりする必要がないからだ。 私たちはミオンの渇望や憧憬に心を動かされる。 神に近づこうとするロワイエの絶望や歓喜や痛みに反応する。 そして、ラモ-を弾けば、一部がそのまま全体である神の視点を感じてクリエーションとは何かを直観するのだ。 その直観を物語る不思議なことがある。 たとえば私たちが、あるシャコンヌを最初に譜読みし始めるとすると、最初は演奏ミスもあるしフレージングも確定していないし、テンポもゆっくりだし、和声進行をすべて耳で把握する余裕がない。 つまり、もし、その練習を録音していて後から聞いたとしたら、ひどい演奏をしているわけなのだが、その場では、なんと、とにかく最初の音出しをしただけで、私たちは、その曲の豊潤さや神秘感や深さや幅や色や味が直観できるのだ。完成形を脳で知的に補完しているとしか思えない。 毎回毎回が、めくるめく幸福感の嵐に吹き飛ばされるようだったり、体の芯までわくわく豊かに揺さぶられたりする。羽が生えそろっていなくても大気に触れている。 そこでふと思うのは、ラモ-の宇宙に参入するためのコードを全く持ち合わせていない人には彼の音楽がどう聴こえるのかということだ。 文法を知らない人が外国語文学の名作を前にしても何も把握できないように、ラモ-も「万人向け」ではないのだろうか。 音楽には文法がなくてユニヴァーサルだと言うけれど、必ずしもそうではない。 民族の歴史や文化に強く根づいたある種の民族音楽よりは、ラモ-のような数学的野心を持って練り上げた宇宙モデルの音楽の方がずっとユニヴァーサルだとは思うのだけれど、その普遍性には、なんというか、やはり、最低限、「今の西洋音楽の楽譜を読んで演奏できる」というコードを使わないと参入できないのかもしれない。 16日のヴェルサイユの『ピリュス』は、282年ぶりの復活演奏だというのに、満席ではなかった。 来ていたのは、バロック音楽の奏者か歌手かダンサーか、あるいはヴェルサイユの王立オペラ鑑賞メンバーに登録している近所のブルジョワという顔ぶれではなかったろうか。 『ピリュス』は演劇としておもしろく、歌うセリフを増幅するような絶妙なコントラバスやチェンバロや、ヴィオラが有機的に絡まって、パーツを楽しむこともできたと思う。ギユメット・ロランスの圧倒的な歌唱と演技に感動することもできた。 でも、この日の「録音」を、バロック・オペラになじみのない人が後日聴いたとしたら、いったい、どう感じるのだろう。 私たちがデュフリィのシャコンヌをトリオに編曲したものをPCにかけてデジタル音を出させると、実に奇妙なことが起こる。 そこには、音もある。リズムも、メロディも、ハーモニーも、すべてある。 ないのは「音楽」だけだ。 「音楽」は全く、ない。大気がないところで、鳥の剥製が機械仕掛けで動かされているようなものだ。私たちの脳内でそこに空気を吹き込んで、流れを補うしかない。 機械音ではなくて生演奏のデジタル録音の再生であっても、大気の中を飛んでいる鳥の姿の動画を見ているようなもので、「音楽」を聴くには脳内変換が必要だ。 一方で、自分たちで楽譜を見ながら論理構成を追って音を出していく時は、それが最初の譜読みでリズムやテンポやフレージングで多少破綻していても、ミスタッチがあっても、私たちが、その世界の大気の中を飛ぶ鳥の1羽であることは間違いがない。だから、毎回、旅をしたようにリフレッシュできるのだ。 それをじっくりと練り上げて、聴いてくれる人をいざなって、いっしょに飛んでもらえるかどうかはまた別の話である。 神秘家のようにいざなう人、司祭のようにいざなう人、いろいろなタイプがあるだろう。 で、聴き手の方がすでに演奏者であったら、いわばすでに同じ信仰を持っている信者同士なので、手を伸ばせばすぐにいっしょに飛んでくれるということなのかもしれない。 これがダンサーだとまた別だ。 バロック・バレーは音楽とは独立した「言語ランガージュ」として一つの宇宙を創り上げていたから、その文法に即した音楽(特にリズム)さえ与えられれば自らを展開させることができた。 ラモ-の音楽が登場してからは、そのダンスのランガージュや質感や量感や官能まで取り込んだダンス曲が生まれたので、ダンスと音楽は対等のパートナーになった。 でも音楽の方は、飛ぶ鳥がダンスであろうとアリアであろうとレシタティフであろうと、序曲であろうと、それらすべてを生かすダイナミックな世界になったのだ。 ダンスの対等のパートナーとして特化して、やがてダンスに先行してダンスを規定し、誘うようになったのは、ロマン派時代のクラシック・バレーの名曲であり、それはまた別の流れである。 こういうことを含めて、いろいろヴェルサイユから帰る途中で仲間と話し合った。 今シーズンのヴェルサイユではラモ-の『イポリットとアリシ―』や『プラテー』、パーセルの『アーサー王』など魅力的なプログラムが並ぶ。私はあまり行けない。年内は10月下旬にシャンゼリゼ劇場でシャルパンチエの『メデー』を観るつもり。 オペラ・コミックでも1月に『ダビデとヨナタン』を演るので行ってみたいのだけれど…
by mariastella
| 2012-09-18 09:20
| 音楽
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