ソリプシストK研究の第一人者(というか唯一の専門家)エリカがアパルトマンを改装したのて゛、Kの本の改定版が出る記念もあってパーティを開くことになった。
日本で10年働いたことがあるというエリカの妹もちょうどアメリカから来ている。
(
Kについては以前のブログ記事を見てください。)
他は出版関係者が多いが、ダンサー、画家、絵画修復家、家具職人が一人ずつ。共通語はエリカの妹をのぞいてフランス語だ。次の金曜日の夜に招かれている。
エリカのうちでのパーティと言われると、なんだかÉric-Emmanuel Schmittの『La Secte des égoïstes』を連想してどきどきしてしまう。エリカに最初にKの話を聞いた時も、私はシュミットのこの小説のことを引き合いに出してその違いを解説されたというのに。
エゴイストとかエゴサントリスト、つまり自己中心主義者は、他人の存在を想定し、認めて、その上で他と比べた自分の優越や優先や利益を掲げているのだから、ソリプシストとは言えない。ソリプシストにとって存在するのは自分だけだから、他人は存在しないが、それは見かけの他人だの環境だのというものが実は「自分」であるということでもある。ソリプシストは他人と争わないし、敵を負かす必要もない。競争原理やパワーゲームは存在しないのだ。
ある意味で、私が直ちにエリカやKに惹かれたのは、あまり認めたくないけれど、私も実はソリプシスト的感性を持つ人間で、そういう人間は互いに互いを見つけるのかもしれない。
なぜなら、相手もまた自分でしかないからだ。
ヴェルサイユからの帰り、トリオのアーティストHとラモ-について話しながら、ふとそんなことを考えた。
もう一人の仲間のMの方は、非常に閉鎖的な人間だが、明らかに、自分と信頼関係を結べるパートナーを絶望的に必要としている。
Mに比べると、人間関係をうまくこなしているように見える私やHには、表面的な「人なつこさ」の下に、実は、「他人を他人としては必要としていない」というソリプシストの強靱さが隠れているような気がする。
私とHとは、性も世代も人種も生育環境も大きな隔たりがあるわけだが、私は最初から彼の内面が手に取るように分かった。というか、手に取るようにしか分からなかった。考えたら、ラモ-にも同じ匂いがする。
ソリプシストは「自分」という限界を設けたり分節したりしないのだから「孤独」ではない。
でも、自分の「外」に「隣人がいない」という意味では孤独である。
だとしたらそれはショッキングなことでもある。
「汝の隣人を愛せよ」というのが厳密には成り立たないからだ。
それは恐ろしいことでもあるが、また、「神を愛する」というのと「隣人を愛すること」とセットになっている本当の意味もそこに潜んでいるような気がする。
それが人格の乖離、パラノイア、神秘主義者の世界に踏み込むことになるのか、あやういケースもあるだろう。
でも、そこまでいかなくとも、「ソリプシスト」体質というのはあるような気がするし、この頃それがようやく分かってきたのでもう一度Kを掘り下げてみたい。