カミュの『L’impromptu des philosophes』という芝居を観に行った。
監督はMonique Beaufrère 、出演はFrançois Nervioz 、Yves Alain など。
読んだことのない戯曲だ。1947年頃にAntoine Baillyという偽名で書かれたが発表されていなかったらしい(いまはプレイアドの全集で読める)。
小さな町の薬剤師で市長を兼任しているムッシュー・ヴィーニュのところにムッシュー・ネアン(虚無)という奇妙な男が訪ねてきて『新福音書』という大きな本を持って「新思想」を開陳する。
まず二つの質問がされる。
「宗教は?」
「親にはカトリックで育てられたからイメージは持っている(が今は何も信じていない)。」
この答えに対して、虚無氏は、真実というものは存在しないのだとせせら笑う。
「すべてのことには原因があると思うか」
「ウィ」
これにも、虚無氏は、物事には原因などない、すべては偶然ですべては不条理なのだ、と一喝。
政治的には何かと問われて「共和国主義者だ」と答えると、
共和国主義など幻想だ、共和国主義を支えているのは自由の幻想であり、人は死ぬ時にしか自由になれない、と言う。
つまり、宗教など蒙昧な迷信だが、宗教に取って代わった理性とか人権とか共和国主義などもまた幻想にすぎないというわけだ。
言いかえれば、宗教も科学も普遍主義イデオロギーも、いったん人間がそれを管理して利用すれば、単なる方便や道具になるだけで「真実」とは関係なくなる。
ヴィーニュ氏は共和国の市長だから、自分は理性で合理的な近代意識を体現していると思っていた。
で、理性や合理性は、因果関係を求める。
現象の因果関係が分かれば世界をいろいろと操作しやすいので、人間はいつも因果関係を探ってきた。
それが科学や技術の発展にもつながったのだが、所詮それも限定的で小賢しい智恵に過ぎない。
そうやって「発展」したつもりで環境を壊していたりするし、条件を少し変えると因果関係だの科学の法則などが通用しなくなったりする。
虚無氏はそれを喝破しているのだ。
一方、因果関係がなくても「意味」の関係を求めるのが宗教だった。
しかし大概の宗教は、これも人間が社会をいろいろ操作するのに都合のよいお題目と課している。
で、残るのは、不条理?
この作品は、フランスがカトリック的なベースから神や教会を苦労して廃して「共和国主義」をまさに新しい宗教のように打ち立てた歴史と、科学や技術の進歩思想への過信などに対するカミュの時代の哲学者のスタンスをよく表現している。
「不条理」はもっとも説得力があるように見えてしまうのだが、そこへ行くと出口がなく、「反抗」の姿勢が残るだけだ。
だからそういうのは不毛な危険思想のひとつであり、哲学者などは伝染する皮膚病患者のように隔離しておけ、とか、子供は絶対に哲学者にしないように、などというセリフが結論部に出てくる。
これが書かれてから半世紀以上経過した現在はどうなっているだろう。
「因果関係」の信仰は、前より単純ではなくなった。
海の向こうで蝶が羽ばたけば反対側で嵐が起きるバタフライ効果のように、無数の小さい要素が大きい現象に結実することもある「複雑系」の科学が登場した。確実な未来予測などは不可能だという意味では虚無氏の言う通り「すべては偶然」だということにもなる。
けれども、人間が、宗教の提示する生や死の意味であろうが政治的理念であろうが科学的信念であろうが、その時々にある種の人々にとって都合のいいものを偶像化して「絶対化」し、他者にもそれを押しつけようとする傾向は変わらない。
だから、たまには虚無氏の訪問を受けて「不条理」によって柔軟性を取り戻す療法は古くなっていないかもしれない。