法悦(extase)とトランスは、民族学的にははっきり違いがある。
トランスは集団が音楽やリズムやダンスなどによる極度の興奮や疲労の末に入る変性意識状態で、法悦は基本的に一人で静寂の中で何か外のものと結びつく意識状態だ。
そういわれると、私のイメージでは、トランスの例ではバリ島の激しい舞踊だとか、ある種のカルトが新参者を強制的に囲い込んで疲労の極致まで大声で叫ばせるだとかの光景が浮かび上がる。
後者の法悦の方は、修道院でじっとキリスト磔刑像を見ながら祈っていたら突然雷に打たれたように忘我状態になる修道女などの姿を思い出す。
天使から矢を刺されようとしている
「アヴィラの聖テレサの法悦」のベルニーニの彫刻などだ。
トランスはこうすれば変性意識状態をつくることができるというような方法論が意識的にしろ経験的にしろ基盤にあるようで、マインドコントロールにも使われそうだ。
法悦は、なんとなくアクシデント感がある。
普段から苦行している修道者の場合なら修行の末に「一人トランス」状態に入るのかもしれないが、
「そんなつもりはなかったのに突然回心の神秘体験をした」というようなケースもある。
両者とも、普段は生きていく上でのバリアがあってコンタクトできない「聖なるもの」と接触するような中間状態になっている、境界領域にあると見なされる。
法悦のうちはっきりと「アクシデント感」のあるものは、聖なる何かから「選ばれた」者が一方的に接触されるというニュアンスも出てくる。
日夏耿之介は『轉身の頌』の序文で、ペルシャのスーフィーの哲人が「たまたまの法悦」に陥って「我は神なり」と唱えて天界の秘密を弟子らに伝えたエピソードを紹介している。
恍惚から醒めた師は弟子にそのことを知らされて驚き、次にそのようなことがあったらこれで自分を刺してくれと短刀を渡した。
翌日、同じことが起こったので弟子は飛びかかって師の喉を刺した。
しかし、短刀は鉄板に当たったように跳ね返って弟子の喉に深く突き刺さったという。
これを受けて日夏は
「法悦は神の意志である」
と言ったのだ。
うーん、弟子も、なにも師の喉をねらわなくてもよかったのでは・・・
師の真意は「我は神なり」というのが冒聖であるから自分を罰してくれというのではなく、どこかを軽く突き刺して目を覚ませてくれということだったのかもしれない。
あるいは神明裁判のように、自分が本当に神なら殺すことはできないだろうからそれを確かめてほしかったのだろうか。
弟子は気の毒な気がするが、まあこういう「師」に仕えて聖なるものと火遊びをしていたのだからそれも覚悟の上だったのだろうか。
第一、法悦状態でいろいろな教えを語っていたスーフィーは、「我は神なり」と自分で言ったことを覚えていないのだから、それに立ち会っていた弟子たちは、そのことを決して「師」に言ってはならなかったのかもしれない。
世に見神者と呼ばれる人は少なくないし、「聖母御出現」などに立ち会う人もいる。
「聖母を見ている」などの「忘我」「脱魂」状態にある人は、蝋燭の火を近づけられても熱さも感じないし火傷もしないなどという報告も珍しいものではない。
トランス状態で何らかのバリアがはられるとか、ヒステリー症状で硬直するとか、たまに聞く生理的変化が起こってスーフィーの喉が鉄板のように硬くなったのだろうか。
また、法悦やトランス状態で感知した事項について、覚醒した後も覚えている人と覚えていない人の両方が存在する。
それを決めるのも「神の意志」で、神がわざわざ記憶を消しているのに敢えてそれを告げ口してしまうというところが、神の意思に反して罰の対象になったのだろうか。
この世には、知ってはいけないことや知らされてはいけないことがいろいろあって、そのバランスを間違うと、身を滅ぼす、ということなのかもしれない。