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L'art de croire             竹下節子ブログ

ベラスケスの磔刑像について

読む本がどんどんたまるので、旅行中(飛行機の中とか)でない限り買った本をその日のうちに読んでしまうということは少ないのだけれど、最近あまりにおもしろかったので一気に読んだ本がある。

ナポレオンの専門家のティエリー・レンツがプラド美術館でゴヤを観に行こうとして通りすがりに電撃を受けたように離れられなくなったベラスケスのキリスト磔刑像について書いた本だ。なぜこの磔刑像がまるで彼に話しかけているように、啓示のように感じられたのか、その謎を探るためにティエリー・レンツは一冊の本を書いてしまう。

Une passion : Promenades autour de la Crucifixion de Velazquez』という本だ。

タイトルにはイエスの受難と著者の情熱とを両方の意味を合わせた「パッション」という言葉を使っている。

プラド美術館で人々が集まっている超有名なベラスケスの『ラス・メニーナス』よりもこの磔刑図の方に惹きつけられるというのは、私も全く同じ体験をしたので、なんだか他人事とは思えない。

聖遺物についての分析は私もすでにさんざんしてきたので特に目新しいものはなかったが、いくつか、あまり考えたことがなかったものがあった。

まず、イエスのわき腹の傷のこと。

これはヨハネによる福音書が旧約の予言が実現したことを強調するためにつけ加えたものと理解していたが、なぜ右わき腹になったのかは気にしていなかった。

また、わき腹わき腹と言っても、多くの磔刑図では右胸の下であるのもまあそんなものなのだろうと思っていた。でも、その刺し傷が、左だと、イエスの聖心臓に傷がつくことになるから、後の聖心信仰にとって不都合なので右に定着したという説があることなど知らなかった。

そう言われれば、左の心臓と対称の場所に槍傷が描かれている。

また、十字架上のイエスの腰布は史実と違うので、これも教会的配慮であるから、布は真っ白で血で汚れていないというのもなるほどと思った(腰布が血で汚れているヴァージョンを描く画家ももちろん存在した)。

わき腹に聖痕を見せている画のイエスは、魂がすでに地獄へ降りていっているのだから、肉体だけである。

神の部分でなく、死すべき、いや死んだ人間としてのイエスを描いている。「受難」中でなくて死後だ。

十字架の上の「ナザレのイエス、ユダヤの王」という罪状の順番がヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語であるはずなのに、いつのまにかラテン語が最後に来てしまっていること、

また普通、罪状はこの場合、「ユダヤの王と自称した」とか「詐称した」などと書くべきところであるはずなのに「ユダヤの王」と言いきっていることの意味なども、改めて考えさせられた。

聖ヘレナが聖地で見つけた磔刑の釘が4本で、11世紀頃までは4本釘、つまり両足にも1本ずつという磔刑図が過半数だったのがいつしか3本になり、ベラスケスのセビリア風は4本だが、両足をおく台が追加されているのでそれでは体重を支えてしまって窒息刑にならないということや、1968年に発掘された釘付きのかかとの骨から見て、丸太の両側に打たれていたのではないかという話もすっかり忘れていた。

この絵が例にあがっている。

この絵はなかなかすさまじくて「冒聖」だと言われたらしい。

そういえばバーゼル美術館のホルバインの「死せるキリスト」も、ドストエフスキーが『白痴』の中で「信仰を失わせそうな絵だ」と形容していた。

そして、先日ダリ展で見た上から見下ろす視点のダリの磔刑像のことももちろん思い出した。

闇に浮かぶベラスケスのイエスもまた左上の光に照らされている。

その光は父なる神の視線の光で、ダリの磔刑像は父なる神から見た姿なのだ。

ベラスケスのイエスもダリのイエスも美しい見事な肉体を持っている。

ベラスケスのそれはギリシャ彫刻の肉体だし、ダリのそれにも運動選手(綱渡り)のモデルがいた。

溺死体や刑死体をモデルにしたと言われるホルバインのキリストやら前掲の絵などとは正反対だ。

だから、魂のない肉体であっても、ベラスケスやダリのイエスには生の躍動の残響があって、後に続く復活の可能性を秘めているともいえる。

痩せこけたあわれな受難像は、昔のキリスト教が強調した「購い」の重さを表現している。アダムの犯した「原罪」が大きいので、イエスはそれに見合うだけ苦しまなくてはいけなかったというイメージが長い間あったのだ。

今のカトリックは、「復活」が本質なのであり、受難はその復活を果たすための必然の通り道だというスタンスに戻った。

それでも、今でも、できるだけリアルに苦しそうな磔刑図を好む聖職者もいる。

1632年に描かれたベラスケスのイエスは、魂のない肉体だけに追い込まれた極限の状態なのに、しなやかで強靭な美しい体のおもかげの中で、復活を予告しているのだ。

この絵の注文主は、ベネディクト会の女子修道院であった。

修道女たちがこのイエスにさぞや夢中になっただろうと想像してしまう。
by mariastella | 2013-04-17 08:18 |
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